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『竜門雑誌』第310号(竜門社, 1914.03)p.11-14
◎論語と予(其一)
青淵先生
取り立ててお話し申す程のことも有りませぬ。学問上論語に趣味を有つてをるといふのではない。私は漢学者でも洋学者でも無いから、哲学上の問題を研究す可き資格が無い。然し私は近来特に論語に深い趣味を有つて居るが、其れには理由が有る。仮令私が浅薄な学問でも、論語を喜ぶ様になつた縁故は一応話す理由が有る。
私の故郷は東京から二十里許り隔つてをる埼玉で親は半商半農の稼をして居た。家庭は至つて方正厳格で聊か親は百姓中に在つては学問を好む方で、文章を作つたり、書を書いたり俳句なども作つてゐた。深くは無いけれども好きな方であつた。其れで漢籍の経典を好み、充分では無いけれども、四書五経を後藤点の朱註で読み、本文丈では不充分故経典余師を用ひて読んで居た。私は親から最初素読を習つたので、七歳位から始めた、初め大学を読み、次に論語を読みかけたが、八歳許りになつて、親も忙しく、且内々では勉強の甲斐が薄いといふので、五六町の所に藍香通称新五郎といふのが居た。此は私の従兄で私よりは十歳年上で、十年許り前に故人になつたが、此の藍香は当時十八歳位であつたけれども、天稟記憶がよく、深く学んだといふのでは無いけれども、四書五経を百姓読み(扁とか作りとかで読む流義)でなく、立派に読んで居た。字義も明かで、其上道徳家で、若くより身持が好く、私の親とは叔父従兄の間柄であつて互に敬愛してゐた。其れで新五が代つて本を教へよとのことで、之からは四書五経を藍香に従つて農業に従事しつ〻読んだのである。然し何の趣味も有たず、充分に道理は判らなんだ。所が菊池菊城といふ人があつて、此の人は経学者で、朝川善庵や太田錦城に従ひ、古学派や朱子学派や折衷学派の様子を知つてゐた。朝川は朱子学派、太田は折衷学派であつて、菊城は此等を攻究して居て論語を講義した。其こで菊城が藍香の宅へ時々来るのを幸に、論語郷党篇位まで一周間余りも泊つて居て、毎晩菊城から講義を聴いた。此の時は学而、為政、八佾、里仁などは所々に感じを有ち、文章理義も太分考えて見た。そして唯論語が読めるとか、文章理義を知つてをるといふことで誇つてはならぬ、論語には言に訥にして行ひに敏ならんことを欲すとも、弟子入つては即ち孝、出で〻は即ち弟、慎んで信、汎く衆を愛して仁に親しむ。行うて余力有れば即ち以て文を学べともあつて、道理を知つてをることを誇るのは好くない。実行が大切である。学を誇るは過ちで、実行を勉めなければならぬ。王陽明などは知行合一とか致良知とか説いてをる実行といふことになると、朱子の説は薄い様だ、理義は整つてゐても、実行に乏しい様だ、王陽明の方が実行の点になると好いと云ふ説もあつたので、私も然うかと感じたことも有つた。
私の十四歳の時が嘉永六年ペリーが浦賀に来た年で、其の翌年が安政元年で外交問題が段々八釜敷なつて来た。固より十四五歳の子供故国家の事務に関して行届いた思案を有つ程のことは無かつたけれども、モウ大学でも読むと治国平天下を夢みる。唯だ修身斉家といふこと丈では物足らぬ思ひがして、国体とか政治とかいふことを考へ出す。然うなると自然に進んで我が国体の歴史とか、封建制度の起源とか、朝廷はドウなければならぬとか、色々の事を考へる様になる。世の中が年一年に騒々敷くなる故、従つて自分の考も騒々敷なり、家業の暇には子供でありながら国家の事を考へる。然して尊王攘夷が国民の勤めで、徳川の遣り方は間違つてをる。本来の国体に背いてゐる。王朝尊ぶ可し、夷蛮討つ可しといふ考にかぶれる。城公が斯く主張したものだから、自分もかぶらされた。城公の高弟を以て自ら任じてをる私は、先に立つて騒ぎ出し、モー此の時分は論語どころで無くなつた。尤も孔子に真似て、少正卯を誅す位の考は有つたが、静に論語を研究するといふ様なことは無くなつた。然して十年許りの間は論語と絶交して居たといふ有様であつた。
二十四歳になつて故郷を出でて、一ツ橋に奉公をした。其れから色々変化をして、恰度二十八歳になつて仏蘭西へ参ることになつた。明治元年は二十九年、翌三十の歳に政府に召し出され役に就き、明治六年まで勤めてゐた。此の三十五歳までは論語に就いて深い考を有たなかつた。深い趣味を有つて読む塲合が無かつた。が六年官を辞して、元来の希望の実業には入る事になつてから、論語に対して私は特別の関係が出来た。其れは始めて商売人になるといふ時、不図心に感じたのは、此からは愈銖錙の利もて世渡りをしなければならぬが、志を如何に有つ可きであらうかに就て考へた。その時前に習つた論話[論語]のことを思ひ出したのである。論語には己を修め人に交はる日常の教が説いてある。論語は最も欠点の少い教訓であるが、此の論語で商売は能まいかと考へた。そして私は論語の教訓に従つて商売し、利殖を図ることが能ると考へたのである。
そこへ恰度玉乃といつて岩国の人で後に大審院長になつた。書も達者で文も上手、至つて真面目の人で、役人中では玉乃と私とはマー純吏と言はれて居た。二人は官で非常に懇親にし、官も相並んで進み、勅任官になつた。二人は共に将来は国務大臣にならうといふ希望を懐いて進んで居たのだから、私が突然官を辞して、商人になるといふのを聞き痛く惜まれ、是非にといつて引止めて呉れた。私は其の時井上さんの次官をして居たので、井上さんは官制の事に就いて内閣と意見を異にし、殆んで[ど]喧嘩腰で退いた。そして私も井上さんと共に辞したから、私も内閣と喧嘩して辞した様に見えたのである。勿論私も井上さんと同じく、内閣と意見は違つてゐたけれども、私の辞したのは喧嘩ではない、主旨が違ふ。私の辞職の原因といふのは、当時の我が国は、政治でも教育でも著々改善すべき必要がある。然し我が日本では商売が最も振はぬ。商業が振はねば、日本の国富を増進することは出来ぬ。これは如何にもして他の方面と同時に商売を振興せねばならぬと考へた。其の時までは商売に学問は不要である。学問を覚ゆれば反つて害がある。貸家札唐様で書く三代目といつて、三代目は危険であるといふ時代であつた。そこで不肖ながら学問を以て利殖を図らねばならぬといふ决心で商売人に変つたのであるけれども、然しそこまではイクラ友人でも解らなかつたのだから、私の辞職を喧嘩だと合点し、酷く私を誤つてをるとして責めた。君も遠からず長官になれる。大臣になれる。お互に官に在つて国家の為に尽す可き身だ。然るに賤しむ可き金銭に眼が眩み、官を去つて商人になるとは実に呆れる。今まで君を然ういふ人間だとは思はなかつた、と言うて忠告して呉れた。其の時私は大に玉乃を弁駁し説得したが、私は論語を引き合に出したのである。趙普が論語の半ばで宰相を助け、半ばで吾が身を修めるといつた事などを引き、私は論語で一生を貫いて見せる。金銭を取扱ふが何故賤いか。君の様に金銭を賤しむ様では国家は立たぬ。官が高いとか、人爵が高いとかいふことは、然う尊いもので無い、人間の勤む可き尊い仕事は到る所に在る。官丈が尊いので無いと、色々論語などを引いて弁駁し説きつけたのである。そして私は論語を最も疵の無いものと思うたから、論語の教訓を標準として一生商業を遣つて見やうと决心した。其れは明治六年の五月の事であつた。
其れからといふものは勢論語を読まなければならぬ事になり、中村敬宇先生や信夫恕軒先生に講義を聴いた。いづれも多忙なものだから、終りまでは成し遂げなんだが、昨年の夏から大学の宇野さんにお願して復始めた。主として子供の為に遣つてをるが、私も必らず出席して聴く。そして色々と質問が出たり、解釈について意見が出たりして仲々面白く有益である。只今郷党まで進んでをる。一章〳〵講義し、皆で考へて本当に分つて後進むのだから、なか〳〵進まないが、其の代り、意味は善く判つて、子供なども大変に面白がつてをる。
私は今までに五人の手で論語を講究してをるが、学問的でないから、面白くないと思ふ所は、何とも思はず過すから、時には深い意味を知らずに居ることがある。例へば泰伯第八の、邦有道貧且賤焉恥也。邦無道富且貴焉恥也。の語の如きも、今となつて深い意味を含んでゐることを知つた。此度は論語を委しく講義してをるので、色々な点に気が付いて悟る所が多い。然し論語は决して六ケ敷学理ではない。六ケ敷ものを読む学者でなければ判らぬといふ様なものでない。論語の教は広く俗用に功能があるので、元来解り易いものであるのを学者が六ケ敷して了ひ、農工商などの与り知る可きもので無いといふ様にして了つた。商人や農人は論語など手にすべきものでないといふ様にして了つた。之は大なる間違である。
(未完)