『論語と算盤』とは

1. 『論語と算盤』のこと / 五十嵐卓

 渋沢栄一の数多い著述のなかに、『論語と算盤』がある。この著述の刊行は1916(大正5)年。以来、版を重ね出版社を変えて、今に刊行され続けている著述である。

 この著述のタイトルとなった「論語と算盤」は、周知のように渋沢の多くの言説のなかでも、代表的な標語のひとつであり、その初出は、1911(明治44)年、竜門社の機関誌である『竜門雑誌』1月号に転載された「論語と五十盤」に辿ることができよう。渋沢は、論語の「富與貴、是人之所欲也、不以其道之、不処也、貧與賤、是人之所悪也、不以其道之、不去也」、「富而可求也、雖執鞭之士、吾亦為之、如不可求、従吾所好」には、「道理を以て得た富貴でなければ、寧ろ貧賤の方がよいが、若し正しい道理を踏んで得たる富貴ならば、敢て差支はないとの意」である故に、論語は「今日に処して今日に行ひ得らるゝ所の処世訓言」であり、「世の貨殖致富に志あるものは、宜しく論語を以て指針」とすべきであると説き(『青淵百話』)、論語の読み直しを行い、富の追求の肯定と道理の重要性を強調したのであった。

 『論語と算盤』の刊行のみならず、日露戦争後の渋沢には、それまでになく、多くの書籍を刊行する傾向が見られるようになった。同書が刊行される1916(大正5)年までに発行された書籍を羅列的に挙げれば、次のようなものがある。

 1909(明治42)年から1913(大正2)年までに、岩崎勝三郎著『渋沢男爵百話』渋沢栄一述・立石駒吉編『富源の開拓』、渋沢栄一著『青淵百話』[, ]、紹堂漁郎編『青淵先生世路日記 雨夜物語』、『渋沢男爵実業講演』[, ]の刊行があった。

 1915(大正4)年には、渋沢栄一述『至誠と努力 ― 名家講演集第一編』が「修養団」の編集によって刊行された。渋沢が顧問を務めた修養団は、東京府師範学校生徒であった蓮沼門三の強いリーダーシップによって同校生徒を団員に、1906(明治39)年に創立された。「流汗鍛錬」、「同胞相愛」を理念に社会の美化と善導を主唱し、機関誌『向上』を刊行した。『向上』は、渋沢の修養団における演説をはじめ、渋沢の諸々の演説を掲載して刊行した。

 1916(大正5)年、まずは渋沢栄一述『村荘小言』の刊行があった。東京・飛鳥山の渋沢邸である曖依村荘において口述したものを編集し、国家の将来に対する「セウゲン」であり、「コゴト」であると渋沢がその序文に述べる意図をもって刊行された。

 そして、渋沢の演説や口述を10篇90章から構成された渋沢栄一述『論語と算盤』が刊行されたのである。

 これらの書籍は、齢70歳を過ぎた渋沢が、若い頃より培ってきた深い素養と経済界を中心とする諸々の活動を通じた幅広い経験知を拠りどころとし、「名士」としての渋沢が社会に向けて放った多くの言説が纏められた書籍群であった。

 こうした傾向は、しかし、ひとり渋沢のみによるものではなかった。それを『論語と算盤』が刊行された出版社の出版事情をみれば、その一端が明らかとなる。

 『論語と算盤』は、東京の東亜堂書房から1円の価格で刊行された書籍である。本書が刊行された年頃までに、同書房は約40冊の著書を、概ね1円から1円60銭で刊行した。それらのうちには、加藤咄堂(『人格の養成』)新井石禅(『向上の一路』)南條文雄(『向上論』)など仏教学者や仏教者たち、井上円了(『奮闘哲学』)、前田慧雲(『修養の極致』)大内青巒(『道は近きにあり』)など哲学館大学の仏教学者たち、萩野由之(『読史の趣味』)江原素六(『急がば廻れ』)嘉悦孝子(『花より実を取れ』)など学者あるいは教育家たち、幸田露伴(『立志立功』)大町桂月(『男の中の男』)巌谷小波(『桃太郎主義の教育』)など小説家たち、の著作があったのである(『東京書籍商組合員図書総目録』)。

 これら名士ないし知識人の著作は、題名からも察せられるように、日露戦争後から始まる「修養主義」の文学思潮の系譜に位置付けられるということができよう(加藤秀俊・前田愛『明治メディア考』)。そして、そのなかの一書が渋沢の『論語と算盤』であった。

 精神を鍛錬して品性を養成する、というほどの意味での「修養」という言葉は、日露戦争後の社会を象徴する言語として頻繁に使われた。日露戦争後は、一面ではことさらに精神の重要性が強調された社会でもあった。

 しばしば指摘されるように、日露戦争後は、国家及び社会に対する関心が急速に衰退し、個我を追求するという価値の転換が、特に「青年」たちの間に広まっていった。そのような傾向は、逆にそうした風潮を憂慮し、将来の日本に対する危惧の念を深めながら主張を展開する傾向をも生み出した。特に伝統的な思想や明治国家のなかに生きてきた名士や知識人は、盛んに自らの教説を訴えた。

 『論語と算盤』に編集された短篇は、たとえば、『実業界』から転載された「立志の工夫」、『国民時報』から転載された「志と行」、『実業之世界』から転載された「真実の成功」などのように、『竜門雑誌』や『青淵百話』に掲載されたもののみならず、他の刊行物にも載った多くの言説をタイトルを変えて編集され、それらの多数は、精神性を説く主張を展開しているのである。

 長く渋沢の秘書役を務めた白石喜太郎は、1912(明治45)年に刊行された『青淵百話』について、後年、「物質方面を離れて精神方面に働かうと期念」した渋沢の心境が投影されていると述べている(白石『渋沢翁と青淵百話』)。

 まさしく、『論語と算盤』も、日露戦争後の社会思潮を体現しながら、渋沢の立場が映し出された一連の営為だったのである。

*掲載にあたり原文の一部を改稿しました。

底本:渋沢史料館だより. No.190(『青淵』第599号(1999.02)p.48-49)

©Takashi Igarashi

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