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『青淵百話 : 縮刷』(同文館, 1913.07)p.714-734

八八、余が少年時代

生地及び父母

 東京より中仙道を二十里、埼玉県の深谷駅より北一里の片田舎に血洗島といふ村落がある。余は其処の農家に生れたのであつた。家は代々農を以て本業とし、農間には藍玉を紺屋に売捌いてゐた。父が勉強されたお蔭には農民中にも村方にて用立つ人と云はれ、稍有福の仲間入を為して二三番目の農家に位するに至つた。一体父は自分の生れた家に成長した人ではなくて、母が家付の血統を受けた方で、即ち父は自分の家へ聟養子に来たのであつた。其の実家といふのは、同じ村の渋沢宗助といふ家の宗休居士と謂つた人の三男である。父の性質はといへば、彼の孟子に書いてある所の北宮黝のやうに、褐寛博にも受けず、また万乗の君にも受けぬといふ方正厳直で、一歩も他人に仮すことが嫌ひな持前、如何なる些細の事でも、四角四面に物事をする風であつた。のみならず非常な勤勉家で、余が家に相応な家産を作り出した程の人だから、働く慾は極めて深いが、併し物惜しみの慾は頗る淡泊で、必要に臨めば丹精した身代を擲つても厭はぬ気性もあつた。又人に対するに厳格ではあつたが、深刻といふ質ではなく、実務も決して疎かにはしなかつた。

 平常多く書物を読んだ人ではないけれども、四書や五経位は充分に読めて、傍ら俳諧をするといふ風流気もあり、自然に気品も出来て居た。固より大才といふ程の人物ではなかつたらうが、郷党にあつて善く分を知り、時勢にかぶれず、流行に走らぬだけの見識は備へ、又方正厳直の気質に似ず、人に対しては最も慈善の徳に富んで居て、小言を云ひながらも人の世話をすることは如何にも親切であつたので[、]近村の人からも信頼されて居つた。而して其の平素自ら奉ずる所は至つて倹約質素で、只々一意家業に勉励するといふ、頗る堅固な人であつた。

幼時の読書

 左様いふ家に生れ、左様いふ父に薫陶された余は、子供時代から農民仲間では高等教育を受けた方であつた。自分が書物を読み初めたのは、慥かに六歳の時と覚えて居る。最初は父に句読を授けられて、其の頃専ら流行つた三字経といふ書を読み、それから孝経、小学、大学、中庸と段々教はつた。子供には記憶し悪い漢字であるから、よく忘れることがある。忘れた時は父から𠮟られるが、それが恐しいので、忘れない様に一生懸命で復習して居たこと抔を記憶して居る。又其の頃両親が『この児は覚えがよいから、少し勉強させたら学問が出来るだらう』などゝ話して居られた事も覚えて居る。やがて論語の二まで読み進んだ時に、父は、親戚の漢学者尾高惇忠の許へ読書に行く様にと命じた。それは七歳の年であつたらう。尾高の家は自分の宅から七八町隔つた手計村といふ所であつたが、此の人は幼少の時から善く書物を読んで、其の上天稟物覚えのよい、田舎では立派な先生と謂はれる程の人物であつた。殊に自分の家とは縁家でもあるから、父は自分を呼んで『向後読書の修行は乃公が教へるよりは、手計村へ行つて尾高に習ふ方がよい』と吩咐けられたから、其の後は毎朝尾高の宅へ通学して、一時間半か、乃至二時間位づゝ読んで帰つて来た。其の頃の日課といへば単に読書と習字とばかりであつたが、八九歳の頃よりは、渋沢の同姓即ち父の生れた家の当主が撃剣の師匠であつたから、其の人に就いても学ぶ様になり、専ら武士的教育にてやり来つた。

 併し当時の読書法は、今日学校で学ぶやうに、丁寧に復読して暗誦の出来るやうなことはせずに、只種々の書物、即ち小学、蒙求、四書、五経、文選、左伝、史記、漢書、十八史略、元明史略、又は国史略、日本史、日本外史、日本政記、其の外、子類も二三種読んだと記憶して居るが、全体尾高の句読を授ける方法といふのは一家の新案で、一字一句を初学の中に諳記させるよりは、寧ろ数多の書物を通読させて自然と働きを付け、此処は斯ういふ意味、其処はどういふ義理と、自身に考が生ずるに任せるといふ風であつたから、唯読むことを専門にして四五年を経過した。斯くて次第に読書趣味も進んだと見え、十一二歳の頃から書物が面白くなつて来た。それも経史子類などの堅い書物が面白く会得が出来たといふ訳ではなく、只自分に面白いと思つた通俗三国志とか、里見八犬伝とか、又は俊寛島物語といふやうな稗官野乗の類が至つて好きであつた。其の頃小説としては、京伝[、]種彦などの作が幾らもあつたが、余は殊に馬琴の作を好み、趣向に勧善懲悪の意を含ませ、結構が奇々怪々であつたから、それが非常に面白かつた。初めて読んだのは通俗三国志で、同姓の剣道の師匠より二三冊宛漸次に借りて来ては読み、其の中に現れて居る孔明、玄徳、関羽、張飛、曹操、孫権等の人物を評論した。

 其の時余は、『小説を読んでもよいか』と尾高に問うて見たら、尾高のいふには、『それは最もよい。読書に働きを付けるには読み易い物から入るが一番宜しい。どうせ四書五経を丁寧に読んで腹に入れても、真に我が物になるのは、年を取つて世の中の事物に応ずる上にあるのだから、今の所では、三国志でも八犬伝でも、何でも面白いと思つたものを、心を留めて読みさへすれば、何時か働きが付いて外史も読める様になり、十八史略も史記も漢書も追々面白くなるから精々多く読むがよい』とのことであつたから、猶更好んで軍書小説の類を読んだ。尾高の読書法はといふと、必ずしも机の前で畏つて読むのみに限らず、耕地へ出て稼いだ𨻶でも、寝て居ながらでも、乃至道を歩きながらでも構はぬ。自分の気の向いた時に読むのが一番心記によいとの主義で、常に此の意見を聞かせられた。そこで余も此の流儀で読んだが、其の極好きな証拠には、丁度十二の歳の正月年始の廻礼に本を読みながら歩いて、不図、溝の中へ落ち、春著の衣裳を大層汚して大きに母親に𠮟られたことを覚えて居る。

漸く農商に志す

 それから十四五歳までは読書、撃剣、習字等の稽古で日を送つたが、其の頃より自分の身の上に就いて父が気遣ひ出した。父は家業に就いては甚だ厳格であつたから、子供に武士風の教育ばかりして、百姓育ちにならずに学生風になつては困るとの杞憂から、余に向つて読書を止めよと云はれた。併し撃剣は親類の者が農間を見て、春秋又は寒中など都合のよい時を定めて稽古をするのであるから、農業の妨げとはならぬが、読書の方は年中不断で、且つ朝夕引籠つてやらねばならぬ事であるから、農業に取つては大に差支となる。使用人など朝より耕作に出ても、自分は読書の為に連れ立つて出懸けられぬ様なことになる。それ故父は余を戒めて『十四五歳にもなつたら農業商売に心を入れなければならぬ。何時までも子供の積りでは困るから、向後は幾分の時間を家業に充てゝ従事するがよい。勿論書物を読んだといつて儒者になる所存でもあるまい。左すれば一通り文義の会得が出来さへすればそれでよい。尤もまだ十分に出来たのでもあるまいが、追追に心を用ひて油断さへなくば、始終学び得られぬといふこともない訳だから、最う今までの様に昼夜読書三昧は止めにせよ。農業にも商売にも心を用ひなければ、一家の役にはたゝぬ』と曰はれた。固より父の命に背く訳にはゆかぬから、それから日々田畑へ出て百姓の稽古をすることにした。

 さて其の農業といふのは、麦を作つたり、藍を作つたり、又は養蚕の業をするので、商売といふのは、自分の家で作つた藍は勿論、他人の作つたものまでも買入れ、それを藍玉に製造して、信州や上州、秩父郡辺の紺屋に送り追々に勘定を取る、俗に掛売商売と唱へるものである。余が十四の歳、即ち嘉永六丑年には関東は余程の旱魃で、一番藍は誠に不作であつたが、幸に二番藍は頗る能く出来たから、父は『今年の二番藍は上作だによつて可成沢山に買入れたいが、乃公は信州上州の紺屋廻りに出掛けるから、買出しに行くことは出来ぬ。お祖父さん〔父の養父、自分の祖父敬林居士といふ人〕は最う年を取つて家事の世話は出来ますまいが、今年の藍を買ふことだけは、何卒貴方留守中に心配して下さい。又栄次郎〔自分の幼名〕も子供ながら、前途商売の修行にお祖父さんの供をして、其の駈引を見習ふがよい』と、細々留守中の事共を示し置いて旅立たれた。

 そこで余の思ふには、自分とても藍の善悪の分らぬことはない。よし一番父上の留守中に買つて見せようといふ考を起して居たが、其の中に藍葉買入の期節になつたから、初日には祖父に随行して矢島といふ村へ行つて一二軒買付けた。其の時自分の心では、父は世間で藍の鑑定家だといつて褒められる程の人であるから、これに随行するのは、恥しくないが、最早老耄したといはれる祖父に随行して藍を買ひ歩くのは、さぞ人が笑ふであらうといふ妙な考を起し、どうか自分一人で買入れて見度いと思つた。夫故『お祖父さん、私は横瀬村の方へゆき度いと思ひます』と言つた所が、祖父は自分のいふことを怪んで[、]『お前一人で徃つても仕方があるまい』と曰はれたから、『左様さ、一人では仕方か[が]ないが、どうか廻つて見て帰り度い』と言つた。それから幾らかの金子を祖父から受取り、それを胴巻に入れて、着物の八ツ口の所から腹に結び、祖父に別れて横瀬村から新野村に入り、藍を買ひに来たと吹聴したけれども、其の頃自分はまだ鳶口髷の小供だから、村人が軽侮して信用しなかつた。但し自分は是まで幾度も父に随行して藍の買入方を見て居たから、是は肥料が少いとか、又は肥料が魚粕でないとか、或は乾燥が悪いからいけないとか、茎の切方が悪いとか、下葉が枯つて居るとか、丸で医者の病を診察する様なことを曰ふのを聞覚えて居て、口真似位は出来たゆゑ、それを一々弁じた所が、人々が大きに驚いて、妙な小供が来たと、却て珍しがつて相手になつたから、終に新野村ばかりで都合二十一軒の藍を悉く買つて仕舞つた。それを買ふときには、『お前の藍は肥料が悪い。本当の魚粕が遣つてないからいけない』などゝ言ふと、『成る程、左様で御座ります、どうして夫れが判りますか』と云つて、村人に大層褒められた。其の翌日は横瀬村、宮戸村、又其の翌日は大塚島村や内ケ島村の辺りを頻りに買つて歩くのを見て、祖父が『乃公も一所に行かなければならぬ』といふから、『なに貴方が行かんでも宜しい』と言つて、大概其の年の藍は一人で買集めた。程なく父は旅行先から帰られ、自分の買入れて置いた藍を見て、大きに其の手際を褒められたことがあつた。

 元来、父は農業と藍の商売とは至つて大切であるといつて、𤍠心に勉強して居られたから、自分も十六七歳の頃より共に其の事に力を入れて、一方の助をする様になつた。其の中に段々趣味が変化してゆき、藍製造や農業を努めることが面白くなり、作物の出来具合なぞも他人のを見ては善悪をいひ、自家のことも利を収めるといふよりは、丹精の顕れ来ることが大に嬉しく、又作男も余が自ら農場に立つて指揮すれば大変に働くので、総て此等に趣味を持つて、十七八頃より二十歳までは、読書以外に家業に出精することも快楽の一つとなつたのである。

忘れ難き父の教訓

 父が極く厳正な気質であつたといふ証拠には次の様な話がある。余が十五の歳に、同姓の保右衛門といふ叔父に当る人と共に江戸に出て〔初て江戸へ出たのは十四の年の三月と覚えて居る、其の時は父に随行した〕書籍箱と懸硯とを買つて戻つた。是は其の頃家にある硯箱は余り粗造の品であつたので、江戸へ出たなら新調しようといふことを父に請求したら、買つて来いと許可せられたから、江戸の小伝馬町の建具屋で、桐の二本立の本箱と、同じく桐の懸硯とを、双方で能くは記憶して居ないが代金一両二分ばかりで買取つた。さて帰宅の後に、父へこれこれの二品を買つたといふ話をして置いたが、其の時父は値段だけ聞いて何とも曰はなかつた。其の後荷物が到着した。さあ来て見ると、是まで使用して居たのは、杉の板で打着けたのが真黒になつて、丁度今日自分の宅の台所で用ひて居る炭取のやうなものだから、較べて見ると、苟も桐細工の新しいのとは大に相違して華美に見える。其処で父は大に驚き且つ立腹の様子で、『質素倹約は最も大切の心得であることを、兼々言つて聴かして居るではないか。如何に子供心でも、その品物が自分の家に似合ふか似合はぬかといふ位の考は付かなくてはならぬ。不似合と知りつゝ気に適つたまゝ買つて来て、之を家に使はうとする了簡は、其の心已に身を亡し、又此の家を無事安穏に保つてゆくといふことは出来ない。此の品は断じて用ふることはならぬ。直に火にかけて焼いてしまへ。嗚呼乃公は不幸の子を持つた』と曰つて歎息せられた。

 そこで余は『叔父さんにも相談して見たら、差支はなからうといふことですから買つて来ました』と弁解して見た。所が父は益〻機嫌が悪く、『お前は幾歳になるか、十五といへば最早成童である。それに未だ一個の見識も持たぬといふことで如何するか。縦令叔父さんが何と云つたにせよ、一見して欲しいと思つたからとて、それを直に買つて来るのは軽卒である。若し又考へて買つたとすれば質素の念を欠いて居る。どちらにしても不心得千万である』と曰つて、箕子が殷の紂王の象牙の箸を作つたのを見て嘆息した例を引いて責められた。但し打つたり敲いたりするやうな手荒いことはなかつたが、三日も四日も心の中で自分を見限つたといふやうな口吻で教訓された。此の刻み付けたやうな理窟責めに逢つて、初めは悪い事を仕たと思つたけれども、四日も五日も続けて云はるれば、余り酷いと怨む気も出て来る。或は自分の心を恐れるやうな気にもなり、終には悲しくなつて、何とも言へない悪い気持であつた。

 何故に是程の小事を斯くまで厳重に譴責せられたのであるかと能々考へて見るに、父の心中では、斯様に自分の意に任せて事を取扱ふ様では、詰りどんな事をするか知れないといふ懸念が強い。素より其の金を惜まれた訳ではないが、既に古書にも『紂王為象箸、箕子歎曰、彼為象箸、必不盛以土簋、将為玉杯、玉杯象箸、必不羹黎藿衣短褐而舎茆茨之下、則錦衣九重、高台広室称此、以求天下、不足矣』というてある通り、奢侈の漸といふものは、固より貴賤上下の差別はないもので、一物の微と雖も其の分限に応じて、能く之を初念の発動する所に慎まなければ、終には取返しのならぬことになるのは、昔から幾らも例のある話である。今余が斯様に美麗な書籍箱や硯箱を買ふ程だから、随つて居宅も書斎も気に入らぬといふ様に万事に増長して、詰り百姓の家を堅固に保つことが出来ないといふ、彼の『微を閉ぢ漸を防ぐ』の意味を以て、斯様に厳しく謂はれたものと思はれた。父が是程厳格な人であつたにも拘らず、酷く𠮟られたことは滅多にない。こんなに謂はれたことは、前にも後にも是が唯一度であつた。併しこの譴責を受けた時自分の心中では、余り、厳正に過ぎて慈愛の薄いやうに思はれたが、それは自分の心得違ひであつた。

迷信を排す

 余が十五歳の時であつた。自分には一人の姉が脳を患つて発狂し、二十歳といふ娘盛りでありながら、婦人にあるまじき暴言暴行を敢てし、狂態が甚だ強かつたので、両親も余も之を非常に心配した。兎に角女のことであるから、他の男に其の世話はさせられぬ。余は心狂へる姉の後に附随して歩き、様々に悪口されながらも、心よりの心配に駆られて能く世話をしてやつたので、其の頃近所の人々の褒め者であつた。然るに此の心配は独り一家内の上ばかりでなく、親戚の人々も等しく憂慮して呉れたが、中にも父の実家なる宗助の母親は大の迷信家であつたので、此の病気は家に崇のある為であるかも知れぬから、祈祷をするがよいと頻りに勧誘した。けれども父は迷信が大嫌ひで、容易に聞き入れなかつたが、其の中に姉を連れて転地保養旁〻上野の室田といふ処へ行かれた。此の室田といふは有名の大滝がある処で、病人を其の滝に打たすればよいとのことであつた。しかるに父の出た後、母はとう〳〵宗助の母親に説伏せられ、父の留守中に家にあるといふ崇を攘ふ為め、遠加美講といふものを招いて御祈祷をすることになつた。余も父と同じく少年時代より迷信をひどく嫌つたので、其の時極力反対したけれども、未だ十五歳の小供の悲しさ、一言の下に伯母なぞに𠮟り付けられて、余が説は通らない。

 さて両三人の修験者が来て其の用意に掛つたが、中座と唱へる者が必要なので、其の役には近い頃家に雇入れた飯焚女を立てることになつた。而して室内には注連を張り、御幣などを立てゝ厳かに飾付をし、中座の女は目を隠し御幣を持つて端座して居る。其の前で修験者は色々の呪文を唱へ、列座の講中信者抔は、大勢して異口同調に遠加美といふ経文体のものを高声に唱へると、中座の女、初めの程は眠つて居る様であつたが、何時かは知らず持つて居る御幣を振立てた。この有様を見た修験者は、直に中座の目隠を取つて其の前に平身低頭し、[『]何れの神様が御臨降であるか、御告を蒙り度い』などと曰ひ、それから『当家の病人に就いて何等の崇がありますか、何卒御知らせ下さい』と願つた。すると中座の飯焚女めが如何にも真面目くさつて、此の家には金神と井戸の神が崇る。又此の家には無緑仏があつてそれが崇をするのだ』と、さも横柄に曰ひ放つた。それを聞いた人々の中でも、別して初めに祈祷を勧誘した宗助の母親は得たり顔になつて、『それ御覧、神様の御告は確かなものだ。成る程老人の話に、何時の頃か、此の家から伊勢参宮に出立して其れ限り帰宅せぬ人がある。定めし途中で病死したのであらうといふことを聞いて居たが、今御告の無縁仏の崇といふのは、果して此の話の人に相違あるまい。どうも神様は明かなものだ、実に有難い』と曰つて喜び、而して此の崇を清めるには如何したらよからうと謂ふ所から、又中座に伺つて見ると、『それは祠を建立して祀りをするがよい』と曰つた。

 全体余は最初から此の事には反対であつたので、愈〻祈祷をするに就いては、何か疑はしき所でも有つたらばと思つて始終注目して居たが、今無縁仏と曰つたに就いて、其の無縁仏の出た時は凡そ何年程前の事でありませうか、祠を建てるにも碑を建てるにも、其の時代が知れなければ困ります』と言つたら、修験者は又中座に伺つた。すると中座は『凡そ五六十年以前である』というたので、又押返して『五六十年以前なら何といふ年号の頃でありますか』と尋ねたら、中座は天保三年の頃であると曰つた。処が天保三年は今より廿三年前の事であるから、其処で余は修験者に向ひ、『只今御聞きの通り、無縁仏の有無が明かに知れる位の神様が、年号を知らぬといふ訳はない筈の事だ。斯ういふ間違がある様では、まるで信仰も何も出来るものぢやない。果して霊妙に通ずる神様なら、年号位は立派に御解りにならねばならぬ。然るに此の見易き年号すらも誤る程では、所詮取るに足らぬものであらう』と詰問を放つた。宗助の母親は横合から、『左様なことを言ふと神罰が当る』といふ一言を以て自分の言葉を遮つたが、是は明白の道理で、誰にも能く解つた話だから、自然と満座の人々も興を醒まして修験者の顔を見詰めた。修験者も間が悪くなつたと見えて、『是は何でも野狐が来たのであらう』と言ひ抜けた。野狐といふことなら、猶更祠を建てるの、祀りをするのといふことは不用だといふので、詰り何事もせずに止めることになつた。それ故修験者は、自分の顔を見て、さて〳〵悪い少年だと曰はぬ計りの顔付で睨まへた。

代官の痛罵に奮起す

 自分が十六七歳の頃よりして、前に話した通り頻りに家業に勉強したから、家道も追々と繁昌になつて来た。殊に父は常に家業を大切に丹精を尽されたから、村の中では相応の財産家と謂はれる程になつて、第一は宗助が物持、其の次は市郎右衛門だと近郷近在の評判であつた。農商の外に少しは質物も取り、金も貸すといふ業体も取扱つた。其の頃此の血洗島村の領主は安部摂津守といふ小さな大名で、村方から一里許りも隔つた岡部村に陣屋があつたが、此の領主から御用達といふことを命ぜられて居た。固より小大名のことであるから、大した金を借りる事はないが、時として御姫様が御嫁入だとか、若殿様が御乗出しだとか、或は先祖の御法会だとかいふ事があると、武州の領分では二千両、参州の領分では五百両といふ振合に御用金を命ぜられるのであつた。此の命令が下ると血洗島村では、宗助が千両、市郎右衛門が五百両、何某が幾何といふやうな割合に、銘々へ身分相応に言付けられることであつたが、自分が十六七歳の時までに、度々調達した金が二千両余りになつて居た。

 自分が十七歳の時であつたと覚えて居るが、此の用金を自分の村方へ千両であつたか、千五百両であつたか言付けられて、宗助は千両を引受け、自分の家でも五百両引受けなければならぬ訳であつた。其の時、父は病気の為め、代官所へ行かれぬから、余が父の名代となり、近村で用金を言付けられた連中二人と、自分と都合三人連立つて、岡部の陣屋へ出頭した。其の時の代官は若森といふ人であつたが、其の人に面会し『父の名代として御用伺の為に罷り出ました』と言つた所が、代官は金子入用に就き調達せよとの意を申付けた。同行の二人は孰れも一家の当主であるから、『承知致しました』といつて御用金の調達を引受けたが、自分は、唯御用の趣を聞いて来いと父から言付けられた迄だから、『御用金高は畏りましたが、一応父に申聞けて、更にお請に罷り出ます』と言つた。すると此の代官は中々如才ない、其の上人を軽蔑する様な風の人であつたから、嘲弄半分に『其の方は幾歳だ』と問うた。余は『へい、私は十七歳で御座ります』と答へると、『十七にもなつて居るなら最う女郎でも買ふであらう。して見れば三百両や五百両は何でもないこと、殊に御用を達せば追々身柄も好くなり、世間に対して面目にもなることだ。父に申聞けるなぞと、そんな面倒なことはせぬがよい。其の方の身代で五百両は何でもない筈。一旦帰つて又来るといふ様な手緩な事は承知せぬ。万一父が不承知だといふなら、此の方から言訳をするから、直に承知したといふ挨拶をしろ』と切迫に強ひられた。けれども自分は、『父からは唯御用を伺つて来いと申付けられた計りだから、甚だ恐入る義ではあるが、今此処で直に御請をすることは出来ませぬ。委細承つて帰つた上、其の趣を父に申聞けてお請を致すといふことならば、更に出て申上げませう』と強情張ると、『いや、そんな訳の解らぬことはない。貴様は詰らぬ男だ』と、激しく代官に𠮟られたり、嘲笑されたりしたが、自分は『是非とも左様願ひます』と言つて、此の悔辱に憤慨しながら岡部の陣屋を出た。帰つて来る途中も様々に考へて見たが、此の時始めて幕府の政治が善くないのだといふ感が起つたのであつた。

 何故かといふに、人は其の財産を銘々自身で守るべきは勿論の事、又人の世に交際する上には、智愚賢不肖に因りて尊卑の差別も生ずべき筈である。故に賢者は人に尊敬せられ、不肖者は卑下せらるゝのは必然の結果で、苟も稍智能を有する限り、誰にも会得の出来る極めて覩易い道理である。然るに今岡部の領主は、当然の年貢を取りながら、返済もせぬ金員を用金とか何とか勝手な名を付けて取立て、其の上人を軽蔑嘲弄して、貸したものでも取返す様に命令するといふ道理は、抑〻何処から生じたものであらうか。察する所、彼の代官は言語といひ動作といひ、決して学問ありて知識の勝れた人とは思はれぬ。斯様な人物が人を軽蔑するといふのは、一体官を世々にするといふ徳川政治から左様なつたので、最早弊政の極度に陥つたものであると、ひどく憤慨した。当時百姓の小供に対する代官の態度は此の位が当然で、常人ならそれを何とも思はなかつたであらうが、余は漢学を学んで一通りの道理だけは呑込んで居た為に、徒らに盲従することが出来ず、尊卑は其の人の才能によるもの、家柄を恃みて愚者の威張る筈はない。何故に武士と百姓とは人類に等差があるか。是は甚だ不思議のことゝ思ひ出し、それより今の世の中の有様を考慮して見ると、既に政記、外史、日本史等を読んだ余は、王朝より武人の手に政権の移れることの有様を知つて居たから、不思議と考へた念は却て不快の思と変り、更に我が身の上の先々をも考へられた。それは自分も此の先今日の様に百姓をして居ると、彼等の如く、謂はゞ虫螻蛄同様の智慧分別もないものに軽蔑せられねばならぬ。さて〳〵残念千万なことではないか。是は何でも百姓は罷めて武士となるより外はない。余りといへば馬鹿馬鹿しい話だといふことが心に浮んだ。

 此の事は即ち代官所から帰りがけに、途すがら自問自答して来た所で、今でも当時のことを能く覚えて居る。去りながら、百姓を罷めて武士に成り度いといふことは、此の時唯心に其の兆を発したゞけのことで、直にこれを決行する程の勇気はなかつた。それ故家に帰つて、『御代官が我儘を曰つて叱りましたから、斯様々々に申しました』と父に話すと、『それが即ち泣く児と地頭で仕方がないから、請けて来るが宜しい』とのことで、翌日金を持つて行つた。併しそれから後は、事に触れ物に応じて益〻其の念慮が胸中に蹯つて来た。

修験者の失敗(理想と迷信)

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