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『竜門雑誌』第330号(竜門社, 1915.11)p.11-21

講話

◎実験論語処世談(六)

青淵先生

▲人を見るに細心なれよ

人物観察法に就ては、孔夫子が説かれてある遺訓に基き、その為す所を視、その由る所を観、その安んずる処を察する視、観、察の三法に依らねばならぬものである事を、既に前回にも申述べ置いたが、遇ふほどの人に対し悉く視、観、察の三つを遂げやうとすれば、勢ひ探偵吏が人に接する時のやうに細かくばかりなつてしまひ、甚だ面白くない。それよりも寧ろ佐藤一斎先生の言の如く、初見の時に得た印象で其人を相し、それで若し観察の過つてゐた事が後日に至つて知れても、その時はそれで致方の無いものと諦め、探偵吏の如き冷い疑心を懐いて人を観ず、総ての人に接するに虚心坦懐を以てするのが、何よりの上分別である、との意見を持つてゐる方々も無いでは無い。それも確に一つの処世法であらう。

然し、私としては、随分、念にも念を入れて、充分其人を観察し得た積でありながら、後日に至り、其人に意外の行動があるのを知つて、自らの不明を恥づることが屡々ある。人を観るといふ事は実に難中の難で、决して容易なものでは無い。就中、其人の安んずる所を察するのが、最も困難である。困難ではあるが、人の真相を知らうとすれば、何よりも最も注意して其人の安んずる処を察するのに、力を致さねばならぬものである。其の安んずる処を知りさへすれば、九分九厘までは其人の全豹[全貌]を知り得られる事になる。

▲意外の失策を為る人

最近に於ても、私が世話をして或る会社に入れて置いた世話内の御仁で意外の失態を曝露したことがある。この人に就て私は充分観察を遂げ、决して悪い事を為るやうな方ではないと信じ、或る会社の主任に御世話したのであつたが、若し相塲にでも手を出すとか、或は又、悪い遊びでもするとか酒でも飲むとかいふのなら、直ぐ私にもそれと知れたのであつたが然し、其人には决してそんな事は無かつたのである。

失態の曝露する前からとても、其人にた〻゙ 少し家事上の締りが無いのでは無からうか、と薄々気付かぬでも無かつたが結局、其人には安ずる所に間違ひがあつたので、別に相塲をやつたの、遊んだのといふわけでも無いのに、不義理の借金で首が廻らなくなり、遂に自分が主任をして居る会社の金銭を、私消したといふのでは無いが、或る形式で融通するやうになつて、辞職せねばなら無くなつてしまつた。元来、决して悪るい人では無いのだが、斯る失態を演ずるに至つたのは、全く其の安んずる所を間違へ、相当の給料を得て居りながら量入為出の法を無視し給料だけの生活に満足しないで、これに家族の者の虚栄心なども多少手伝ひ、収入以上の分不相応なる生活を営み、喰ひ込みに喰ひ込みを重ね、之を埋めるに借金し、借金には利子を取られ、益々借金が嵩まつて来たのが、遂に此の不始末となつたのである[。]斯かる失態を曝露するに至るべき人だと、私が始めから気付かずに御世話をしたのは、畢竟、私が其人の安んずる所を察する明が無かつた不明の致す処で愈よ失態の曝露せられた時に、私は実際其意外なるに驚いたほどである。私は最近に実験した斯の一例に徴しても、人を観察するには、其の安んずる所を知るのが、何より最も大切である事を、切に感ずるものである。

▲理論と実験との併行

子曰。学而不思則罔。思而不学則殆。(子曰く、学んで思はざれば則ち罔し、思ふて学ばざれば則ち殆し。)

茲に掲げた章句は、学理ばかりで事を処せんとしては失敗する、実験ばかりに信頼して学理を無視しても同じく亦過失に陥り易いものであるといふのを、孔夫子が戒められたものと思ふ。

『罔』とは果して如何なる意の文字であるか、無学の私には之を精確に解し得る力も無いが、朱子集註に皇侃の説として、精思せざれば行用(即ち実地の応用)に至つて乖僻す、是れ聖人の道を誣罔するものだ、とある。依て、私の愚存を以てして孔夫子の御考を忖度すれば、如何ほど理論上の学問ばかりしても之を実地の経験に照らして考察熟思する所がなければ、結局其の理論を実地に行ひ得ず、所謂論語読みの論語知らずになつてしまふ、さればとて一にも二にも経験々々と経験ばかりを楯にして、学術が教へて呉れる理論を無視するやうでも亦、闇の中を提灯無しで歩くのと同じで、甚だ危険なものであるといふのが、此章句の意味であらうかと思はれる。『学』の文字が果して当今用ひらる〻『学術』と同じ意義で『思』の文字が又果して『観察』と同意義であるや否やは、今俄に断言しかねるが、斯く解釈しても然るべきものであらうかと存ずる。人間は兎角一方に偏し易い傾向のあるもの故、理論一点張にも流れず又経験一点張にもあらず、能く孔夫子の此の戒をお互ひに服膺して、実験により理論の及ばざるところを補ひ、理論によつて実験の到らぬところに達し、実地に臨んで事をするに当り失敗を招かぬやうにしたいものである。

▲知らざるを知らずとせよ

子曰。由、誨女知之乎。知之為知之。不知為不知。是知也。(子曰く。由や汝に之を知ることを教へんか、之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らずと為せ。是れ知るなり。)

孔夫子が御弟子の子路即ち由に教へられたる如く、知らぬ事を知らぬと謂ひ、知つた事だけを知つたで通すのが、智者のみならず総ての人の取るべき最善の処世法で、斯くさへして世に処すれば、至極簡単に世渡りも出来るのであるが、さて実際に臨むと、それが却々困難で、知らぬ事でも知つたかの如く見せかけやうとするのが人の弱点である。それが為め弥縫に弥縫を重ねねばならなくなつて、簡単にして済ませる世渡りを、好んで複雑なるものにし、強ひて自分で自分から自分を足も手も出ぬやうにしてしまひ、自縄自縛の羽目に陥るものである。知らざるを知らずとするのは、道徳上のみならず処世法としても至極便利な法故、青年諸君は須らく此の点に注意し、知らぬ事は飽くまでも知らぬで通し、决して自らを欺き、他人を欺かうなぞとの不所存を起さるべきでは無い。

▲大西郷は偽らぬ人

維新の頃の人々のうちで、知らざるを知らずとして毫も偽り飾る処のなかつた英傑は誰であらうか、と申せば、矢張、西郷隆盛公である。西郷公は决して偽り飾るといふ事の無い知らざるを知らずとして通した方であるが、その為め又、思慮の到らぬ人からは、往々誤解せられたり、真意が果して何れの辺にあるか諒解せられなかつたりしたものである。これは、一に西郷公と仰せられる方が至つて寡言の御仁で、結論ばかりを語られ、結論に達せられるまでの思想上の経路などに就き、余り多く口を開かれなかつた為めであらうかとも思ふ。

まづ西郷さんの容貌から申上げると、格輻の良い肥つた方で、平生は何処まで愛嬌があるかと思はれたほど優しい至つて人好きのする柔和な御顔立であつたが、一たび意を决せられた時の御顔は又、恰度それの反対で、恰も獅子の如く何処まで威厳があるか測り知られぬほどのものであつた。恩威並び備はるとは、西郷公の如き方を謂つたものであらうと思ふ。

▲大西郷と豚鍋を囲む

既に申述べても置いた如く、私が元治元年二月京都に於て一橋家に出仕するやうになつた当時、初めは奥口の詰番を仰付けられたのだが、間もなく一橋家の外交部とも観るべき御用談所の下役に任ぜられ、俗に周旋方と申すものになつて、諸藩より上洛する有志者や御留守居役などの間を往来し、その意見を聞いたり諸藩の形勢を探知したりして暮らしたものである。其うちに西郷公の処なぞにも私は尋ねて参つて、屡々御目に懸つたのである。

その頃、西郷公と私とは素より非常な段違ひであつたが私を前途少しは見込のある青年だとでも思召されたものか、種々懇切に談話して下されて、時には今晩鹿児島名物の豚鍋を煮るから一つ晩餐を一緒に食ふてゆかぬか、などと勧められ、同じ豚鍋に箸を入れて御飯の御馳走になつて帰つたことが、両三回はあつた。西郷公の談話は、稀に慶喜公の御身の上にも及んで、一橋は確に人才で諸侯中にあれほどの者は無いが、惜しい事に决断力を欠いでるから、渋沢一人の力で如何するわけにも行くまいが、兎に角能く長上の者に渋沢より話し込み、慶喜公に决断力を御つけ申すやうにするが可い、然らば敢て幕府を倒さずとも、慶喜を頭に立て〻大藩の諸侯を寄せ集め統率さへすれば、幕府を今のま〻にして置いても政治は行つてゆけるなぞと談られたこともある。之が前にも述べ置いた如く、私をして豪族政治を夢るに至らしめた所以である。

▲千代田城の能舞台

維新前に於ける西郷さんと私との間柄は、まづ概略斯んな次第であつたが、維新後私が新政府に仕官するやうになつてからも、種々のことで西郷公とは折衝する機会があつたものである。

今の皇城は御炎上になつてから後に御新築になつたものであるが、まだ炎上せずに、故の千代田城が其儘皇居に充てさせられてあつた明治四年の事である[。]旧西丸にあつた御能舞台を修理して之を御議事の間と名づけ、西郷、大久保、木戸、伊藤、後藤(象二郎)[、]三条、岩倉等の諸公が此の御議事の間に出仕し明治新政の将来に関し会議することになつたのである。私は当時大蔵大亟であつたが、杉浦愛蔵と申す者と共に、御議事の間附の書記官の如き役に当る枢密権大史を兼務する事となり、御議事の間に出仕した。

この役目は一に大内史とも称せられたが、素より小走り役の事であるから、議事に立ち入つて彼是れと議論を上下するわけには参らなかつたのである。然し、文案を立てたり書類を整理したりするのが大内史の役で、時には間接に自分等の意見なども聞いてもらへたものである。

御議事の間では、君権は何処まで〻゙ 止め置くべきものか、輔弼の臣は何処まで其権能を行ふことの出来るものか、なぞとの事も追々議せねばならぬといふので、兎に角、大権に就て議する事であるから、一応、之に関し陛下の御裁可を仰いで置く必要があらうと、大内史たる私に、之に関する奏請文案の起草を命ぜられた。

▲大西郷曰く戦争が足らぬ

私は御裁可を仰ぐべき奏請文案を、命により両三回起草して、御議事の間の方々の御覧に入れたが、那的でも無い這的でもないといふので御気に入らぬ。確か四回目の時だつたと思ふが、後藤象二郎さんが筆を入れて、愈よ略々之に决する事に相成つた。其日は如何したものか西郷さんが定刻より大層遅れて出仕せられ、御議事の間に見えられたのが、夕刻少し前の午後三時頃であつた。西郷公の同意を得ねばならぬからとて、既に决してある文案に同意して印判を捺すようにと、他の諸公から申入れたが、西郷公は頗る不得要領の返事ばかりをせられ『日本は維新後まだ戦をする事が足らぬ。もう少し戦を為んと可かむ。そんな事は己れは如何でも可い』と曰はれて、話頭を他に転じてしまはれ要領を諸公に得させず、如何勧めても、同意して判を捺かうとはせられぬのであつた。

私も三四回まで稿を改め、漸く御採用になつた文案であるのに、今更ら西郷公が判を捺して下さらぬとなれば、折角の苦心も水泡に帰してしまふと思ふものだから、傍で見て居つても気が気でなく、早く西郷公が、呍と曰つて判を捺して下されば可いのにとモヂ〳〵して居つたが、西郷さんは如何しても判を捺されず、これが為め其奏請文案も、遂に御流れになつてしまつたのである。

▲大西郷の一言意味深長

た〻゙ に局外にあつた私ばかりでは無い、御議事の間に出仕する他の諸公とても気が気でない。何れも皆な天下の泰平を冀つて政治諸般の施設を進めて行つてるのに、西郷公は、まだ戦が足らぬ、と曰はれたのであるから、驚いてしまつて何が何やら薩張要領を得ず、判を捺かせやうと西郷公に迫まれば、直ぐ話頭を他に外らしてしまはれたものである。私なぞは、その時に於ける西郷公の御真意が果して何れの辺にあるか、頓と解しかねたものである。

然し、それから間もなく其年の七月中旬に廃藩置県の事が决定布告になつたので、西郷公が『日本は維新後まだ戦をすることが足らぬ』と申された一言の意味を初めて私も解し得られるやうになつたのである。即ち、西郷公は、何よりも廃藩置県を目前の最大急務なりと考へられたので愈よ之を実施する段になると、或は諸藩のうち之に反対を唱えて乱を起し或は再び戦争になるやうなことがあるかも測られぬと予想されて『戦をする事が足らぬ』と申されたのであつた。然るに、た〻゙ 結論だけが談話になつて、この結論に達するまでの筋道を詳細に説明せられぬものだから、他の者には何が何やら一向に解らず、為に斯く誤解せられるやうな事も往々あつたものかと思ふ。西郷公の一言には斯んな風で、常に意味深長のことが多かつたものである。

▲大西郷私を茅屋に訪はる

これも、井上侯が総大将を承つて采配を揮り、私や陸奥宗光、芳川顕正、それから明治五年に英国へ公債募集のため洋行するやうになつた吉田清成なぞが専ら財政改革を行ふに腐心最中の明治四年頃のことであるが、或る日の夕方、当時私が住居した神田猿楽町の茅屋へ、西郷公が突然とヒヨツコリ私を訪ねて来られた、その頃西郷さんは参議といふもので、廟堂では此上の無い顕官である。それが、私の如き官の低い大蔵大丞[大亟]ぐらゐの小身者を親しく御訪ねになるなど、既に非凡の人物で無ければ出来ぬことで誠に恐れ入つたものであるが、その御用談向は、相馬藩の興国安民法に就てであつた。

この興国安民法と申すは、二宮尊徳先生が相馬藩に聘せられた時に案出して遺され、それが相馬藩御繁昌の基になつたといふ財政やら産業やらに就ての方策である。井上侯初め私等が、財政改革を行ふに当り、この二宮先生の遺された興国安民法をも廃止しやうとの議があつた。

これを聴きつけた相馬藩では藩の消長に関する由々敷一大事だといふので、富田久助、志賀直道の両人を態々出京せしめ、両人は西郷参議に面接し、如何に財政改革を行はれるに当つても、同藩の興国安民法ばかりは御廃止にならぬやうにと、具に頼み込んだものである。西郷さんは其の頼みを容れられたのだが、大久保さんや大隈さんに話した処で取り上げられさうにもなく、井上侯なんか話でもしたら、井上侯はあの通りの方ゆゑ到底受付けて呉れさうに思はれず、頭からガミ〳〵跳ね付けられるに極つてるので、私を説きさへすれば、或は廃止にならぬやうに運ぶだらうとでも思はれたものか、富田、志賀の両氏に対する一諾を重んじ、態々一小官たるに過ぎぬ私を茅屋に訪ねて来られたのであつた。

▲尊徳先生の興国安民法

西郷公は私に向はれ、斯く〳〵爾じかの次第故、折角の良法を廃絶さしてしまふのも惜いから、渋沢の取計ひで此の法の立ち行くやう相馬藩の為めに尽力して呉れぬか、と仰せられたので、私は西郷公に向ひ『そんなら貴公は二宮の興国安民法とは何んなものか御承知であるか』と御訊しすると、一向何んなものか知らぬとの御答えである。何んなものかも知らずに、之を廃絶せしめぬやうとの御依頼は甚だ以て腑に落ちぬわけであるが、御存知なしとあらば致方が無い、私から御説明申上げやうと、その頃既に私は興国安民法に就て充分取調べて置いてあつたので詳しく申述べることにした。

二宮先生は相馬藩に招聘せらる〻や、先づ同藩に於ける過去百八十年間に於ける詳細の歳入統計を作成し、この百八十年を六十年宛に分けて天地人の三才とし、その中位の「地」に当る六十年間の平均歳入を同藩の平年歳入と見做し、更に又この百八十年を九十年宛に分けて乾坤の二つとし、収入の少ない方に当る坤の九十年間の平均歳入額を標凖にして藩の歳出額を决定し、之により一切の藩費を支弁し、若し其年の歳入が幸にも坤の平均歳入予算以上の自然増収となり剰余額を生じたる塲合には、之を以て荒蕪地を開墾し、開墾して新に得たる新田畑は開墾の当事者に与へることにする法を定められたのである。これが相馬藩の所謂興国安民法なるものであつた。

▲大西郷理に責められて窮す

西郷公は、私が斯く詳細に二宮先生の興国安民法に就て説明する処を聞かれて『そんならそれは量入為出の道にも適ひ誠に結構な事であるから廃止せぬやうにしても可いでは無いか』との御言葉であつた。依て、私は是処ぞ平素私の抱持する財政意見を言上し置くべき好機会だ、と思つたので『如何にも仰せの通りである、二宮先生の遺された興国安民法を廃止せず之を引続き実行すれば、それで相馬一藩は必ず立ち行くべく、今後ともに益々繁昌するであらうが国家の為めに興国安民法を講ずるのが相馬藩に於ける興国安民法の存廃を念とするよりも、更に一層の急務である。西郷参議におかせられては相馬一藩の興国安民法は大事であるによつて是非廃絶させぬやうにしたいか、国家の興国安民法は之を講ぜずにそのま〻に致し置いても差支無いとの御所存であるか、承りたい。苟も一国を双肩に荷はれて国政料理の大任に当らる〻参議の御身を以て、国家の小局部なる相馬一藩の興国安民法の為には御奔走あらせられるが、一国の興国安民法を如何にすべきかに就ての御賢慮なきは、近頃以て其意を得ぬ次第、本末顛倒の甚しきものであると切論致すと、西郷公は之に対し、別に何んとも仰せなく、黙々として茅屋を辞し帰られてしまつた。兎に角、維新の豪傑のうちで、知らざるを知らずとして毫も虚飾の無かつた御人物は西郷公で、実に恐れ入つたものである。

▲私も返答に困る事がある

後輩の人であるとか、若しくは又、平素親しくして往来する友人の間柄だとかの人からなれば、間違つた話を持ち込んで来た時に、私とても直に頭から之を却けて『爾んな馬鹿な話があるものか』と、一喝のうちに不同意を表することも出来るが、間違つた話を持ち込んで来る人が、多少とも自分の先輩であるとか平素長者に立て〻゙ 置く人であるとか、乃至は余り平生親しく交際せぬ間柄の人で〻もあるとかだとさう頭から不同意を言明してガミ〳〵膠なく却けてしまうわけにも行かず、さればとて、不同意である処を無理に同意であるかの如くに曰つてしまへば、た〻゙ に自分を偽るのみならず、先方に其非を覚らしむることも出来ないで、益々其人の過謬を深くさする事にもなる。これは、到底、私の忍び難しとする処である。

実業之世界社の野依さんのやうな応対振で、気に入らぬ事は誰が曰ふて来たのだからとて一向それには頓着せず、頭から排斥して『そんな馬鹿なことがあるものか』と卒直に言明することに平素為て来ればそれは又それで通用するものだが、私には又私の応対振があつて、平生が爾ういふ風で無いから、私が観て以て、間違つてるな、と信ずるやうな事に、長上や平素余り親しくして居らぬ或る筋の人々から同意を求められると、私は全く其の返答に困つてしまふ。此の塲合は孔夫子が論語に教えられてある『之を知るを知ると為し知らざるを知らずと為せ』との語を適用すべき塲合と少し塲合が違ふかも知らぬが道理は矢張同じで、不同意ならば不同意の旨を明言すべきであるのに、人情の弱点とでも申さうか、之を明言しかぬるのである、処世上何うして可いものかと途方に暮れねばならなくなる。

▲井上と大隈にも苦めらる

井上侯や大隈伯は私の先輩で、私が今日まで御世話を受けて参つた方々である。滅多に間違つた御意見などを私に御聞きかせ[聞かせ]になる事もないが、打ち明けて早い御話をすれば、是等の先輩諸賢とても、何から何まで私に於て同意の出来る御意見ばかりを総て持つて居らる〻ものとは限らぬ。時に、私が観て以て筋道の間違つてると思ふやうな話を持ち出されて私に同意を求めらる〻やうな事が万が一には無いでも無い。斯る時にも、私は其非を指摘して頭から不同意である、と言明するのが真実の道であらうが、真逆あからさまに爾うとも言ひかねて、返答に困るやうな羽目に陥ることがある。

大抵の人ならば、斯る塲合に臨むと、腹の中では不同意でも口の端だけで、其塲限り如何にも同意であるかの如くに申してしまふのであるが、それでは自分を偽り他人を欺き其人を益々間違つた道に進ましむるのみならず、却て迷惑を懸けることにもなるから、私には到底爾んな真似は出来ぬのである、斯る塲合に遭遇して困るものは、私ばかりで無い、他にも多くあるだらうと思ふが、孔夫子の御弟子の子路なども、時折斯る塲合に遭遇して困られたものと見え。[、]孟子の謄[滕]文公章句下には子路の言として『未だ同じからずして言ふ、其色を観れば赧々然たり、由(子路)の知る所に非ざるなり』とあり、意見の同じからぬものから強ひて話しかけられて、機嫌を取つてる人の顔色を見るに赧々として朱いが、そんな事は自分のとても出来ることで無いと、曰はれて居る。又同じ章句のところに曾子の言として『肩を脅して謟ひ笑ふは夏畦より病る』とあり、人の機嫌を取るために肩をすぼめて諂ひ笑ふのは炎天に田に出て耕作するよりも苦しい。[、]と曰はれて居る。况んや子路や曾子には及びもつかぬ薄徳の私が、斯る塲合に困るのは当然で、甚しくなれば『煩悶』とでも申したいほどの苦しみを覚へることがある。

▲黙して答えぬ私の返答

不同意であると、其塲で直に言明し難いやうな筋の人から自分が観て以て間違つたと思ふやうなことに同意を斯く求められた塲合に、如何にすれば可いかといふのは処世上必ず心得置かねばならぬ実際の問題であるが、私は此る塲合に遭遇すれば、大抵なら黙して答へずと謂つたやうな調子で賛否何れの返答をも申上げぬ事にして居る。なほ夫れでも強ひて賛否を促さるれば『考へて置きませう』とか、或は『再考します』とか返答するのであるから、渋沢が賛否を言明しなかつたり『考へて置きませう』とか或は『再考します』とか申したら、不同意なのであると、世間様が御察し下さるれば、誠に私も楽で好都合である。然し、直に爾うと御察し下さらぬ方もあるので、甚だ困る次第である。

又、茲に一つ注意して申添へ置きたいことは、表情の具合である。如何に黙して答へずとも、顔に出る表情の具合一つで、不同意である心の中を意外にも同意であるかの如くに、先方に覚らしめるやうな塲合もあるもの故、此の点は大に要心すべきもので、実際不同意であつて何の返答さへせずに置きながら先方に悪感情を起させるのが好ましくないなぞとの弱い精神から、顔の表情や態度を同意であるかのやうにして見せれば、之れは先方を誤解さして欺くことになり、惹いては先方の迷惑ともなり、甚だ宜しく無い措置で、それは不同意でありながら、其塲を繕ふ為に同意であると返答したのと同じ事になる。賛否の返答は言葉ばかりに依つて表はれるものではない。顔の表情や態度によつて表はれるものである故に、不同意の塲合に、黙して答へざることにしたら、表情と態度ともに大に注意し、些かたりとも同意と先方に誤解せられるやうな表情や態度をして見せてはならぬものである。

二宮尊徳と西郷隆盛(人格と修養)

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