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『竜門雑誌』第322号(竜門社, 1915.03)p.33-36

演説及談話

◎真実の成功

青淵先生

本篇は青淵先生が雑誌「実業之世界」記者 訪問に対し談られたるものにて三月一日発行の同誌上に掲載せるものなり(編者識)

▲孔子廟参拝の素志

 昨年五月私が支那に旅行をした時に非常に楽んでた一つの事があつた、それは、泰山に登り曲阜に詣つて、かね〳〵私の崇拝措く能はざる孔夫子の廟を参拝しやうといふのであつた、上海で日清汽船の白岩竜平君に遇ふと、同君は私と齢こそ違へ漢学者で私とは趣味が同じいので、是非同行しやうとのこと故、然らばと、相携へて出発すべき日限までも詳細打ち合せをして置いたが、私は不幸にも天津で病気に罹つたものだから見合せる事になり、其旨白岩君に電報を以て断つたのである、然し同君は非常なる好意を以て、渋沢の分までも兼ねて二人分参拝してや[ろ]うと単独で態々曲阜まで赴かれ、孔子の廟に首尾能く参拝を遂げ、孔夫子の後裔たる孔令貽公にも面晤せられたさうで、かねて、渋沢の往くことを通知して置いてあつたものか、孔令貽公も大層待つて居られた様子であつたとの事である。

▲孔子は一見失敗者

 支那で聖賢と申せば、尭舜が先づ初まりて[で]、それから、禹湯周公文武孔子となるのであるが、尭舜とか禹湯とか周公文武とか云ふ人等は、同じ聖賢のうちでも何れも皆な、今の言葉で云ふ成功者で、生前に於て早く既に見るに足るべき治績を挙げ、世人の尊崇を受けて死んだ人々である、之に反し、孔夫子は今の言葉の所謂成功者では無い、生前は無辜の罪に遭つて陳蔡の野に苦められたり、随分艱難ばかりを甞められたもので、之といふ見るべき功績とても社会上にあつたわけではない、然し、千載の後、今日になつて見ると、生前に治績を挙げた成功者の尭舜禹湯周公文武よりも、一見其全生涯が失敗、不遇の如くに思はれた孔子を崇拝する者の方が却て多く、同じく聖賢の内でも、孔夫子が最も多く崇尊せられて居る。

▲孔子の失敗は成功

 支那といふ邦の民族気質には一種妙な処があつて、英雄豪傑の墳墓などは粗末にして置いて毫も怪まず平然たり得る傾向がある、然し、白岩君に其後面会して親しく聞いたところや又白岩君が、『心の花』に寄せられた紀行などを読んでも明に知られるやうに、曲阜にある孔夫子の廟ばかりは流石の支那人も之を頗る丁重に保存して、善美荘厳を極め、夫子の後裔も今猶ほ現存して一般より非常なる尊敬を受けて居るとの事である、然らば孔夫子が生前に於て尭舜禹湯周公文武の如き政治上に見るべき功績を挙げて高き位に居るまでに至らず其富も天下を保つといふまでになれずに今の言葉でいふ成功をしなかつた事は、决して失敗でないのである、之が却て真の成功といふべきものである。

▲尊氏と正成、時平と道真

 眼前に現れた事柄のみを根拠として、成功とか失敗とかを論ずれば、湊川に矢尽き刀折れて戦死した楠木正成は失敗者で、征夷大将軍の位に登つて勢威四海を圧するに至つた足利尊氏は確に成功者である、然し、今日に於て尊氏を崇拝する者は無いが、正成を尊崇する者は天下に絶えぬのである、然らば、生前の成功者たる尊氏は却て永遠の失敗者で、生前の失敗者たりし正成は却て永遠の成功者である、菅原道真公と藤原時平とに就て見ても、時平は当時の成功者で、太宰府に罪なくして配所の月を眺めねばならなかつた道真公は当時の失敗者であつたに相違ないが、今日では一人として時平を尊む者なく、道真公は天満大自在天として全国津々浦々の端に於ても祀られて居る、道真公の失敗は决して失敗でない是れ却て真の成功である。

▲精神的事業の成否

 是等の事実より推して考へると、世の所謂成功は必ずしも成功でなく、世の所謂失敗は必ずしも失敗で無いといふ事が頗る明瞭になるが、会社事業其他一般営利事業の如き物質上の効果を挙げるのを目的とするものにあつては、若し失敗すると、出資者其他の多くの人にも迷惑を及ぼし多大の損害を懸ける事があるから、何が何んでも成功する様に努めねばならぬものであるが、精神上の事業に於ては、成功を眼前に収め様とする如き浅慮を以[て]すれば世の糟を喫する如き弊に陥つて毫も世道人心の向上に貢献するを得ず、永遠の失敗に終るものである、仮令ば、新聞雑誌の如きものを発行して、一世を覚醒せんとしても、此の目的を達する為に時流に逆つて反抗すれば、時に或は奇禍を買て、世の所謂失敗に陥り苦い経験を甞めねばならぬ如き塲合が無いとも限らなぬ[限らぬ]のである、然し、それは决して失敗ではない、仮令一時は失敗の如くに見えても長い時間のうちには、努力の功空しからず、社会は之によつて益せられ、結局、其人は必ずしも、千載の後を待たずとも十年、二十年、或は数十年を経過すれば、必ず、その功を認められる事になる。

▲成功は努力にあり

 文筆言論其他、凡て精神的方面の事業に従事する者が、今の所謂成功を生前に収めやうとして悶けば、却て時流に阿り効果を急ぐが為に、社会に益を与え得ぬやうなことになる、さればとて、如何に精神的事業でも徒に大言壮語して、人性の根本に触ることの出来ぬ大きな目論見ばかり立て〻毫も努力する処が無いやうでは、百載の後、仮令、黄河の澄む季節があつても、到底、失敗に終り、最後の成功を収め得らるべきもので無い[、]渾身の努力を尽してさへ居れば、精神的事業に於て失敗は决して失敗ではない、恰も孔夫子の遺業が、今日世界幾百千万の人に安心立命の基礎を与へつ〻ある如く、後昆を裨益し、人心の向上発達に貢献し得ることになり得るものである。

失敗らしき成功(成敗と運命)

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