公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2025.3.16
第1巻 p.1-61(DK010001k) ページ画像
天保十一年庚子二月十三日(1840年)
武蔵国榛沢郡安部領血洗島村ニ生ル。幼名市三郎又栄治郎、幼少時代ノ名乗美雄、後通称ヲ栄一郎名乗ヲ栄一ト改メ、青淵ト号ス。仕官時代一時篤太夫、尋デ篤太郎ト称セシコトアリ。父ハ通称市郎右衛門、名乗美雅、晩香ト号ス。母ハエイ。家ハ世世農ヲ以テ本業トシ、傍ラ養蚕ト製藍トヲ兼ネ営ム。
渋沢栄一伝稿本 第一章・第一頁〔大正八―一二年〕(DK010001k-0001)
第1巻 p.1 ページ画像PDM 1.0 DEED
渋沢栄一伝稿本 第一章・第一頁〔大正八―一二年〕
青淵先生、氏は渋沢、名は栄一、青淵は其号なり、天保十一年二月十三日武蔵国榛沢郡血洗島に生る。血洗島は関東平野を流るゝ利根川流域の一小村にして、いま大里《オホサト》郡八基《ヤツモト》 村に属す。○下略
○『渋沢栄一伝稿本』ハ大正八年ヨリ同十二年ニカケテ竜門社ニ於テ編纂セルモノニシテ、大正十二年九月ノ震火災ニ資料ノ大部分ヲ焼失セルタメニ中止トナル。上梓セラレタルハ第六章マデナリ。
渋沢栄一伝稿本 第一章・第一四―一五頁〔大正八―一二年〕(DK010001k-0002)
第1巻 p.1-2 ページ画像PDM 1.0 DEED
渋沢栄一伝稿本 第一章・第一四―一五頁〔大正八―一二年〕
先生の名、幼少の時は市三郎といひ、又栄治郎と改め、実名を美雄とつけたるは十二才前後の事なりしが、後又伯父渋沢誠室の命名によりて栄一と改め、之を通称となせり。安政三年六月先生十七才の時、尾高藍香に就いて名乗を請ひしに、藍香「足下の通称栄一は好き字なり、孔子の言に、吾一以貫之といふことあり、一とは仁なり、仁とは諸の善行の統名なり、且名を以て通称するは古の礼なれば、栄一を名乗とし、字をば仁栄と曰はん、孟子に仁則栄、不仁則辱といへり、足下能く仁の一を栄せんと欲せば、百行為すに足るものなけん」と、是より栄一を名乗とすること後まで渝ることなし。但し通称の時には栄一郎と称し、一橋家出仕の初まで之を用ゐたるが、出仕後平岡円四郎改めて篤太夫と称せしむ。明治二年静岡藩に仕へし頃、太夫・衛門等の名を改むべき朝命ありしにより、再び改めて篤太郎の称を用ゐたり。幾もなく朝廷仕官の後、正式には源朝臣栄一といひ、ヒデカズと訓まれしが、後いつとはなく音読して通称とせられしなり。号を青淵といへるは、血洗島の邸宅の後方に沼ありて、此辺の地名を淵上といへるに基けり。(少年の時の詩に淵上小屋と自署せり)
族籍は維新の初は静岡県士族なりしに、明治四年六月、東京に移住せし時、請ひて東京府平民に編入し、後華族に列せらる、これらの事
- 第1巻 p.2 -ページ画像
は後に委しく記すべし。
渋沢栄一伝稿本 第一章・第一九頁〔大正八―一二年〕(DK010001k-0003)
第1巻 p.2 ページ画像PDM 1.0 DEED
渋沢栄一伝稿本 第一章・第一九頁〔大正八―一二年〕
渋沢栄一名字説。
淵上渋沢栄一、従余而学、自六歳授句読、今已十余年、頴敏卓異、異日有必成之材也。一日詣余請曰、撰名并字、余曰、足下幼称一三郎、更栄二郎、又更栄一、栄一特大伯父誠室先生所命、名栄一尤善矣、余今又名曰栄一。葢中古以来、公卿以下生而命名、以為通称、及冠命名、曰名乗、以為名、従然而後、貴人有官爵者、以官爵称、士大夫以下、尚以通称行。今足下通称栄一之於文最奇也、孔子曰、吾一以貫之、夫一也者仁也、仁也者諸善行之統名也、貫也、当其可行処、而行無不中其節之謂也、是非栄一者乎、且栄一為声易称、以之通称不与俗迕、惟猶伊藤維楨字五子、皆以通称、是亦可也、以名通称者、古之礼也。以之撰字曰仁栄、孟子曰、仁則栄、不仁則辱、是其義也。嗚呼足下欲能栄仁之一、無百行足為者、其可勉矣。足下孳々於学業、俛焉於躬行、故余望足下以之。于時安政三年歳次丙辰夏六月既望。
武蔵 尾高惇孝
雨夜譚会談話筆記 下・第七五一―七五五頁〔昭和二年一月―昭和五年七月〕(DK010001k-0004)
第1巻 p.2-3 ページ画像PDM 1.0 DEED
雨夜譚会談話筆記 下・第七五一―七五五頁〔昭和二年一月―昭和五年七月〕
通称を屡々改められしに就て
先生「どうも理由を尋ねられても、はつきりお答は出来ないヨ。市三郎と云ふ名などは未だ生れたばかりの時に貰つたんだから……。然し市三郎の市と云ふ字は、私の家ではいゝんだヨ。代々市郎右衛門と云つたのだから。それから市三郎が栄治郎にかはつたのでも、これも私はまだ幼い頃で、どうしてかはつたか知らない。お父さんがいゝと思つておかへになつたのだらう。栄一郎と云ふ名はなかつたヨ。これは何かの間違ではないか。」
岡田「子爵がお若い時、信州の方へ藍玉の商売においでになつた時の藍玉通が残つて居りますがそれには子爵御自身で栄一郎と云ふ御署名をなさつて居られます」
(藍玉通を子爵の御覧に入れる)
先生「成程この署名は私の字だ。通の表紙の字はお父さんがお書きになつたんだヨ。よく書いてあるだらう。然し私は自身で栄一郎と呼んだ覚えはないがネ。何かの間違だヨ。」
元治「子爵には兄さんがおありではなかつたのですか。」
先生「あるにはあつたけれども、私が生れる時分には、最早亡くなつて居られた。兄弟は沢山あつたけれども、殆んど死絶えて、どんな人だか私もはつきり記憶がない。姉さんのお仲、弟の和作、省三郎などは覚えてゐる。省三郎と云ふ名は私が附けてやつたんだヨ。論語の学而篇に『吾日ニ三タビ吾ガ身ヲ省ル。人ノ為ニ謀リテ忠ナラザルカ。朋友ト交リ言ヒテ信ナラザルカ。伝ヘ習ハザルカ』と云つてある。この中の『三タビ省ル』を取つて省三郎と附けてやつた。この『伝ヘ習ハザルカ』と云ふ句には、種々異説があつて議論したものだヨ。ところが省三郎が夭折したので、宗助伯父さんが、私に
- 第1巻 p.3 -ページ画像
『お前が生意気に不似合な省くと云ふやうな名を附けるから、死んだのだ』と云はれた事がある。
篤太夫と云ふのは、京都で慶喜公に仕へた際、平岡円四郎さんが附けて呉れた。何でも平岡さんが『栄治郎では士に不似合だ。何かいい名がありそうなものだ。そうだお前は道徳に心掛があるやうだから、篤と云ふ字がよからう』と云つて、篤太夫と云ふ名前をつけて呉れた。
それから私が十七の時、藍香先生が私に栄一と云ふ名乗りを附けて呉れた。また字を仁栄と附けて呉れた。
維新以後になつて、太夫とか左衛門と云つたやうな、官職に属する名を太政官達で禁ぜられたので、篤太夫を改めて篤太郎とした。
それから今度は法律を以て、一人で幾つもの名を持つ事が禁ぜられた。そこで篤太郎をやめて、栄一を用ふる事にした。
美雄といふのは、幼少の頃の名乗りで、お父さんが美雅と云ふ名乗であつたので、その一字を貰つて附けた。渋沢新三郎に剣術の入門した時は美雄を用ひた。」
高田「子爵が明治の初年、大蔵省時代に源ノ栄一とお書きになつた事がありますが、あのときのは『ヒデカズ』と読むのでございますネ。」
先生「さうです。」
○『雨夜譚会談話筆記』ハ上下二巻ヨリ成ル。雨夜譚会トハ渋沢子爵家当主渋沢敬三子爵ヲ中心トシテ、一族及ビ門弟ニヨリ組織セラレタルモノニシテ、栄一ノ伝記資料トセンガタメニ、毎会質問事項ヲ準備シ、栄一ニ出席ヲ請ヒ、其ノ問答談話ヲ速記シタルガ、其ノ速記録ヲ纒メテ『雨夜譚会談話筆記』ヲ成ス。第一回ハ大正十五年十月十五日、最終回ナル第三十一回ハ、昭和五年七月八日ニ開カレタリ。
雨夜譚会談話筆記 下・第七四二―七四四頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕(DK010001k-0005)
第1巻 p.3-5 ページ画像PDM 1.0 DEED
雨夜譚会談話筆記 下・第七四二―七四四頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕
先生「青淵と云ふ私の号は、私が十八才頃、藍香先生から附けて貰つた。当時私の家の下に淵があつて、その関係から私の家を淵上小屋と名附けてゐた。それから青淵と云ふ号が出来たのである」
元治「今は淵はありません。出水がある毎に埋もれて行くやうです。唯淵のあとに、清水が僅かばかり湧いてゐますが」
先生「さうですか。実はあの淵が出来たのも、洪水のためだつた。それが又出水の為めに埋もれて行くなど、変なものだネ。青淵変じて岡となるとでも言ひ度い。青淵と言ふ号の事で思ひ出したが、私が十九の時(註安政五年)藍香先生と一緒に、信州に旅行して作つた詩がある。これを纒めて巡信紀詩と云ふ一巻のものにした。これの中には青淵と云ふ名も、淵上小屋と云ふ名も出てゐる。これは藍香先生と私との合作で、一寸したまとまつたもので、よく出来てゐるヨ。今より余程、あの頃の方が詩でもうまかつたやうに思へる。何でもその中には二人で頻りに神仏を論じ、結局自分等は忠孝を旨として行き度いと云つたやうな道徳的主張があるヨ。これを一巻に纒めてから藍香先生が序文を書いたが、この序文は面白く出来てる。その
- 第1巻 p.4 -ページ画像
中にお父さんが私達の風体行装を見て『お前らは商売人の癖に、半文人のやうだ。商売人にはそんな暇はない。十月央には暇人と話するナと言つてあるぢやないか』旧の十月央ばと云へば、日が短い時である。それでこんな事を俗に云つてある。それを持つて来てお父さんが言はれたのだらう。けれども、お父さんもさうばかりは言へない。お父さん自身だつて、そんな文学に親しむと云つた処はやはりあつたんだから。」
○前掲『雨夜譚会談話筆記』ノ栄一談ニハ「栄一郎と呼んだ覚えはない」トアルモ、従来編者(土屋喬雄)ノ見タル藍玉通ニハ悉ク栄一郎ト自署シタリ。即チ、信州北佐久郡市村高地家ノ嘉永五年以降ノ藍玉通、同国上田市外神畑村ノ手塚家ノ安政三年以降ノソレ、上田房山金森家ノ安政四年以降ノソレ、長野県南佐久郡野沢町滝沢家ノ安政四年以降ノソレ、上田在小泉村紺屋喜右衛門宛ノ嘉永五年以降ノソレニハ何レモ栄一郎ト自署セリ。而シテ何レモ安政六年及ビ万延元年ノ自署ナリ。又他人ノ記セルモノニモ栄一郎ト記セルモノ多シ。埼玉県八基村吉岡平三郎氏所蔵ノ『品々願書控』(安政五午年神無月吉日)中ノ元治元年甲子八月血洗島村名主為三郎、同組頭保右衛門ヨリ岡部役所ヘノ届書ニハ渋沢市郎右衛門伜栄一郎ト記サル。川村恵十郎日記ノ文久三年四月ヨリ慶応元年八月ニ亘ル条ニ栄一及ビ渋沢喜作ノ動静ガ数十ケ所ニ記載サレアルモ、スベテ栄一郎ト記セリ。以上ヲ以テ見ルニ、栄一郎ナル通称ハ少クトモ安政六年(栄一、二十才)以降慶応元年(二十六才)頃迄ハ多ク用ヰラレタルモノノ如シ。
○前掲『渋沢栄一伝稿本』第一章・第一四―一五頁ノ引用文中「但し通称の時には、栄一郎と称し、一橋家出仕の初まで之を用ゐたるが」云々ト記セルハ、其ノ典拠ヲ明示セズトイヘドモ、前掲諸資料ニヨリ其ノ正シキコト立証セラレタリ。而シテ「是より栄一を名乗とすること後まで渝ることなし。但し通称の時には栄一郎と称し」ト云フハ、安政三年十七才ノ時名乗ヲ栄一ト改メ、同時ニ通称ヲ栄一郎ト改メタル意ナランモ、之亦典拠ヲ明示セズ、コノ点ニツキテハ疑ナキヲ得ズ。何トナレバ前按文ニ記セルゴトク、編者ノ今日マデ見タル資料ノ限リニ於イテハ、安政六年(二十才)以前ニ栄一郎ト記セルモノナキヲ以テナリ。
○栄一郎ノ通称ハ前述ノゴトク少クトモ安政六年(栄一、二十才)以降慶応元年(二十六才)頃迄、七年間ハ盛ンニ用ヰタルモノナルニモカヽハラズ、晩年自ラ「栄一郎と呼んだ覚えはない」ト言フハ、記憶力絶倫ナリシ栄一トシテハ不可思議ノ事ナリ。
○栄二郎ト書セル例アリ。即チ晩香筆『消息往来』中(渋沢子爵家所蔵)ノ裏表紙ニ渋沢栄二郎ノ署名アリ。
○他人ノ書キタルモノニハ栄次郎ト書セル例アリ。嘉永四年正月ノ『剣法試数録』(尾高定四郎氏所蔵)ニハ、大部分渋沢栄次郎ト記シ、一ケ所栄二郎ト記ス。
○英治郎ト書セル例モアリ。即チ晩香筆『司馬温公朱文公家訓』(渋沢子爵家所蔵)及ビ晩香筆『商売往来』二(同家所蔵)ノ各裏表紙ニ渋沢英治郎ノ署名アリ。
○英二朗ト書セル例モアリ。即チ晩香筆『藤田十七章帖』(渋沢子爵家所蔵)ノ裏表紙ニ渋沢英二朗ノ署名アリ。
○名乗美雄ヲ署名セル例多シ。即チ晩香筆『五経難字録』嘉永四年栄一筆『朱子家訓』晩香並栄一筆『参宮吉凶伝』(何レモ渋沢子爵家所蔵)ノ各裏表紙ニ渋沢美雄ノ署名アリ。又、嘉永六年栄一筆藍香序『求忠書院記』(渋沢子爵家所蔵)ノ巻尾ニ淵上軒美雄写之トアリ。嘉永七年栄一筆『求忠書院記』(同家所蔵)ニハ武蔵美雄書之ト巻尾ニ記サレタリ。
- 第1巻 p.5 -ページ画像
○淵上軒ト号シタルコトアリ。即チ栄一筆詩書ニ『淵上軒主人行書』(渋沢子爵家所蔵)ナルモノアリ。又前記ノ如ク淵上軒美雄ト署名シタルコトモアリ。
○要スルニ、栄一ノ幼名市三郎ハ最初ノ名ニシテ、ソハ渋沢家代々ノ通称タル市郎右衛門ノ市ヲトリタルモノ、次ニ栄治郎、栄一郎ヲ通称トシ、コノ二通称ニ対スル名乗トシテ美雄、栄一ヲ称シ、栄一郎ノ後ニ篤太夫、ツイデ篤太郎ヲ通称トシ、其後栄一ヲ以テ一貫シ、逝去ニ至レルナリ。
雨夜譚(渋沢栄一述) 巻之一・第一―二丁〔明治二〇年〕(DK010001k-0006)
第1巻 p.5 ページ画像PDM 1.0 DEED
雨夜譚(渋沢栄一述) 巻之一・第一―二丁〔明治二〇年〕
○上略 偖て一身上の履歴を話すに付て、之を丁寧にする時には、ドウしても先づズツト元の成立から話さむければならぬ、其成立は如何かといへば第一、父母の様子からして、概略に話しをせむければならぬ、一体父は自分の生れた家に生れた人でなくて、母が家付の血統を受けた人であつた、即ち父は自分の家へ聟養子に来た人で、其実家といふのは、同じ村の渋沢宗助といふ家で、宗休居士といつた人の三男でありました、其れから父の性質はといへば、かの孟子に書てある処の、北宮黝の様に、褐寛博にも受けず、また万乗の君にも受けぬといふ、方正厳直で、一歩も人に仮すことの嫌な持前で、如何なる些細の事でも、四角四面に物事をする風でありました、又平生多く書物を読むだ人ではなかつたが、四書や五経位の事は、充分に読めて、傍ら詩を作り俳諧をするといふ風流気もあり又方正厳直の気質に似ず、人に対しては、尤も慈善の徳に富むで居て、人の世話をすることなどは如何にも深切であつた、さうして其平素から自ら奉ずる所は、至て倹約質素で、只一意家業に勉励するといふ頗る堅固な人でありました。
○『雨夜譚』ハ、栄一子弟ノ請ニヨリ明治二十年深川福住町ノ邸ニ於テ幼時ヨリ明治六年退官マデノ経歴ヲ談話シタルヲ筆記シタルモノニシテ、明治二十七年ニ至リ自ラ加筆シタリ。『青淵先生六十年史』ニ初メテ其ノ全文掲ゲラレタリ。
渋沢栄一伝稿本 第一章・第二頁〔大正八―一二年〕(DK010001k-0007)
第1巻 p.5 ページ画像PDM 1.0 DEED
渋沢栄一伝稿本 第一章・第二頁〔大正八―一二年〕
○上略 血洗島は八基村の中央に位す、村の伝説によれば、天正年中渋沢隼人といへる者此土に来り住し、子孫土着して農民となる、即ち先生の始祖にして、また村の草分なりといふ。されど其出自本貫共に詳ならず、唯足利氏の後裔なりとの口碑を存せるのみにて、旧記文書の徴すべきものなし。江戸時代の中葉以後、この血洗島附近は、同国岡部藩主安部氏《アンベ》の所領なりき。○下略
○「足利氏の後裔なりとの口碑」ニツイテハ如何ナル根拠アリヤ今知ルニ由ナシ。次ニ掲グル織田完之ノ考証正シトスレバ、甲斐源氏ノ裔ナリ。
竜門雑誌 第一六一号・第一八―一九頁 〔明治四三年一〇月〕 渋沢家の系図に就て(DK010001k-0008)
第1巻 p.5-6 ページ画像PDM 1.0 DEED
竜門雑誌 第一六一号・第一八―一九頁〔明治四三年一〇月〕
渋沢家の系図に就て
青淵先生六十年史第一巻第二章第一節三十七丁渋沢家略歴の初に余が「渋沢氏の先足利氏に出つると云ふ」と記せるは専ら故尾高藍香翁の伝説に従へるなり然るに友人織田完之君は此伝説に疑を存し先年来丁寧に渋沢家の系統に
- 第1巻 p.6 -ページ画像
就て調査を遂げられ此程左の一書を寄せられたるは余の深く謝する所なり織田君の説は頗る根拠あり余は余の誤謬を訂正するに甚た吝ならさるなり思ふに六十年史の浩瀚なる他にも或は此の類の誤あらんを恐る大方の諸君子幸に織田君の如く叱正を賜はらは独り余の幸福のみにあらさるなり
阪谷芳郎識
織田氏来状写
拝啓六十年史拝見致し候而渋沢氏系譜の義に付兼而知人中田憲信と申系図に精き人に相談も致候而足利一族には無之様被存候渋沢にて世に聞へたるもの甲州北巨摩郡渋沢村に出候
清和天皇 貞純親王 経基 満仲 頼任 頼義 新羅三郎義光 相模介義業 刑部三郎義清 逸見冠者清光 逸見上総介光長 武田大膳太夫信義 逸見太郎基義 逸見太郎惟義 逸見又太郎義重 逸見又太郎惟長 渋沢又二郎義継 巨摩郡渋沢村に居る 弟四人あり
甲州より出て上杉に属し候者に相違無之其詳細は取調致候得ば明白に相成可申被考候
其上杉に属候者に扇谷上杉に属候者も可有之山内上杉に属候者も可有之山内に属候者は多く上州にあり扇谷に属候者は武州に多し其他にも有之皆其源は一也
隼人正と申者は扇谷に属候者にも亦山内に属候者にも有之市郎右衛門尉と申すは逸見郷住居の者にも有之候又天文前後の人に新十郎後に隼人正義頼又其子に小隼人高義と申人有之候是等は稍天正頃に当り可申候
前条の如き処迄漕付たり渋沢氏は足利一族には決して無之清和源氏新羅三郎の派即甲斐源氏と相見申候本式に取調候得は系図は出来可申被存候此段一寸渋沢殿へは此事を知人の手紙を拝見御話致す迄也抑系図は貴重すへきものにて皇室の尊厳も名族の名族たるも実に取調の必要ありとす其鬼に非すして之を祭る類は間々不少嘆息の至也氏より育つ《(マヽ)》の格言あり現に相馬家抔は千葉常胤の男師常が相馬郡に居るより相馬次郎と云しを無理に相馬将門の系と牽強致候実に大間違今度取調明了に相分り申候
何れの家にも伝へる系図に往々荒唐各事混雑致し居候得共正系を以て照臨致し候得は明鏡を懸て牽強の分るゝ如きものに御座候此辺も御彦察有之度存候也
明治三十四年十月十八日
織田完之
阪谷芳郎様
○『竜門雑誌』ハ、明治十九年栄一ノ一族及ビ門弟等ニヨリ組織サレタル修養団体ナル竜門社ノ機関雑誌ナリ。第一号ハ明治十九年ニ刊行セラレ、以後続刊、昭和十七年五月号ハ第六四四号ナリ。
渋沢栄一伝稿本 第一章・第二―七頁(DK010001k-0009)
第1巻 p.6-8 ページ画像PDM 1.0 DEED
渋沢栄一伝稿本 第一章・第二―七頁
○上略 血洗島の始めて開拓せられし頃は、全部落の戸数僅に五戸なりし
- 第1巻 p.7 -ページ画像
が、後に田野開け戸口繁殖して、寛政の頃には五十戸に及び、大正十年の現在は六十三戸に達したるが、中に渋沢を氏とする者十七戸に及び、全戸数の約四分の一を占めたり、以て土地の右族たるを知るべし。先生の家を俗に「中の家」と称し、之を中心として、東にあるを東の家、西にあるを西の家といひ、又前の家、新屋敷などいへるがあるは、皆中の家を本としたる称呼にして、中の家は即ち宗家の義なり。
渋沢氏の宗家たる先生の家は、世々市郎右衛門を以て通称とす、中頃嗣絶えしかば、同族安元の二男安知養子となりて市郎右衛門といふ。其子鷲五郎長じて市郎右衛門を襲称し、隠居の後只右衛門と改め、敬林と称す。敬林に二女あり、長をえい、次をすみと呼べり、されど男子なかりしかば、養嗣子を物色して、東の家と唱へたる同族宗助政徳宗休と称すの三子元助に注目せり。此時中の家は家運いたく衰へ、資産の大半を失へる程なるに反し 東の家は其先代の時より引続きて産を起し、近郷中にも並ぶ者なき分限者たりしが、宗助は中の家の否運を見るに忍びず、之が為に力を添へばやと思へる際なれば、直に其請を容れ、元助を遣してえいの婿となし、宗家の祀を承けしむ。元助家を嗣ぎて通称を市郎右衛門と改め、名乗りを美雅といひ、後に晩香と号す、以後晩香翁と書す。即ち先生の父なり。
晩香翁は厳直方正、如何に些細の事なりとも、整然として処置するを常とせり、殊に其勤勉なるは、一家の衰頽を恢復せるのみならず、遂には血洗島随一といはれし翁の実家宗助に次げる分限者となれるを見ても之を知るべし。されば身を処するには極めて倹約を重んじたれども、人に対しては物惜みすることなく、一旦緩急あらば家産を擲つをも辞せざる義侠の気を有したりき。又経済の道にも暗からず、村内の子弟を指導して殖産興業に力めしかば、いたく村民の倚頼する所となれり。かゝる有様なれば、程なく領主安部侯の御用達となり、屡金穀を融通し、其功によりて苗字帯刀を許され、更に村役人に擢でられ、組頭より進みて名主見習となる。名主は村邑の長にして、支配内の治安を図り、農工商業を勧課し、租税を取立て、用水・堤防・橋梁・井堰等の事をも管掌する者なれば、概ね名望あり由緒ある家柄の人々を選任せり。翁が此任に当れるもの、やがて翁の与望の甚だ大なりしを察すべし。
翁は読書家といふ程にはあらざれども、尚能く四書五経を解し、其書を読むに記誦を力めず、専ら之を実行せんことに心がけたり。正風の俳諧は其最も好める所にて、号を烏雄と称し、一郷の点者たりき。且武芸にも渉り、神道無念流の剣法に練達せりといふ、尋常一様の長者にあらざるを知るべし、翁が此の如く文武の業に携はれるには自ら其因あり、翁の実父宗助は剣法を好みて其技に長じ、又宗助の弟にて翁の叔父なる竜助は、号を仁山と称し、ほゞ和漢の学に通じて子弟に教授し、近村中教を受くる者多し、後年先生と共に尊攘の義旗を翻さんとせる北阿賀野村今八基村に属す。の老儒桃井儀八可堂と号す。詳に後章にいふべし。の如き亦其一人なりき。血洗島附近に文武修業の風の盛なりしは、蓋し宗助・竜助・兄弟の力にして、其感化は晩香翁を始め、渋沢家の一族子弟に及び、他日遂に幾多の志士を出したるは、本伝を読む者の注意すべき所
- 第1巻 p.8 -ページ画像
なり。
先生の母堂も亦淑徳に富み、且最も家事に長じたり、自ら奉ずること極めて薄く、施与を唯一の楽となすこと、殆ど天性に出づ、窮乏自立する能はざる者を見れば、惻隠の情に堪へず、甚しきは涕泣するに至る、味噌・沢庵の類を取出して人に与ふるは常の事にて、或時は附近の癩病患者にも物を施し、遂に其人を伴ひて入浴せることもありき。されば倹約なることも常人に越え、少しにても物を粗末にせず、容易に廃棄せざりしといふ。資性貞順、曾て夫の言に背かず、晩香翁は分家より入りて宗家を承けたりとはいへ、実は村第一の分限者の家に生れて、家道の衰へたるを匡救せんが為めに来れる者なれば、其威権世の常の入婿と同じからず、聊も意に満たざることあれば、大声之を叱するが如き有様なれども、世上家附の娘が夫に傲るが如きことなく、何事も夫の命のまゝに従ひて、恭敬の誠を致せるなど、所謂夫唱婦随の美徳を遺憾なく発揮せり。晩香翁が能く家産を起して、名声郷党の間に重かりしもの、素より其才能と人格とに由るといへども、夫人内助の功も与りて力ありしなり。尚翁夫妻の事蹟については、叙事の進むに従ひ、便宜各条下に細述すべし。
○中ノ家ガ宗家ナルコトハ、血洗島村ノ諸記録ニヨリ証セラル。後掲参考資料土屋喬雄稿『青淵先生の血判入門書其他旧記について』中ノ表ヲ参照セヨ。
竜門雑誌 第三〇四号・第四四頁 〔大正二年九月〕 【青淵先生懐旧談】(DK010001k-0010)
第1巻 p.8 ページ画像PDM 1.0 DEED
竜門雑誌 第三〇四号・第四四頁〔大正二年九月〕
○上略 父晩香の性質は孟子の所謂北宮黝のやうに褐寛博にも受けず、また万乗の君にも受けぬと云ふ厳直方正家で一歩も他人に仮すことの能きぬ気性、如何なる些細の事でも四角四面に整《きち》ん整んと物事を裁いて行くと云ふ風の人であつた。殊に勤勉と云ふ事にかけては、予が家を挽回したばかりでなく、遂には血洗島随一の資産家たる実家宗助に次ぐほどの家産をつくり出した程の勤勉家であるから、働らく慾は極めて深いが、しかし物惜みをすると云ふ風は微塵もなく、一旦緩急あれば丹精してつくり上げた身代を擲つても厭はぬ気性もあつた。又人に対して苟くもせぬ。寧ろ厳格に近い方であつたが、厳酷といふ辛い質ではなく、身を以て人を率ゐ、実務を処する誠実至正、些事たりとも決して疎かにはしなかつた。
○右ハ『青淵先生懐旧談』ノ一節ナリ。
○此懐旧談ハ東京毎日新聞記者ガ親シク栄一ヨリ其経歴ヲ聞キ、大正二年七月二十三日以降『父母の俤』ト題シ連載セルモノヲ、竜門雑誌ニ誤植ヲ訂正シテ掲載セルモノナリ。
竜門雑誌 第三〇六号・第二七―二八頁 〔大正二年一一月〕 【青淵先生懐旧談】(DK010001k-0011)
第1巻 p.8-9 ページ画像PDM 1.0 DEED
竜門雑誌 第三〇六号・第二七―二八頁〔大正二年一一月〕
▲渋沢家中興の大業 父はさばかり創業の才に富み、祖先の偉大なる足跡を踏みも違へず、首尾よく渋沢宗家中興の大業を遂げたと共に、領主岡部侯から苗字帯刀を許され、名主見習の役を沙汰さるゝ名誉を担つたので、家の誉れ、同族の誉れ、郷党の誉れは近郷に輝き、岡部の代官所からは方十町にも足らぬ些さかの小村に、斯様な人才の出た
- 第1巻 p.9 -ページ画像
のは、恰度小さな嚢に燦爛たる宝石を盛つたやうなものであるとの賞詞さへ出た位である。
平常多く諸書を渉猟すると云ふ程の人ではなかつたが、渋沢家の流を汲んで学問を好む事は人に譲らず、四書や五経位は充分に読めて、傍ら蕉門正風の俳諧連歌を嗜むと云ふ風流心もあり、自然と田舎人には稀な気品も出来てゐた、固より天才といふ程の人物ではなかつたらうが村閭に在て善く分を弁へ、時勢に眩惑して定めなき流行に没入せぬだけの見識を備へ、自己を持する方正厳直の気質には似ず、人に対しては憐愍の心深く、最も慈善の徳に富んで居て、足らぬ人の為めには惜げもなく米塩を頒ち、同族は勿論近郷近在の困頓流離の状ある人には、自ら出て行て世話もし施与をもすると云ふ如何にも親切であつたところから、市郎右衛門様は奇特な人だと、近村の人からも信頼されてゐた、而して其の衣食など平素自ら奉ずる所はいたつて薄く、身を以つて倹約質素の範を示めし、只々一意専心家業に励むと云ふ、頗る堅固な人であつて、実際父の人格については、私が今思ふても敬服を禁じ能はぬ所である。○下略
○右ハ『青淵先生懐旧談』ノ一節ナリ。
雨夜譚会談話筆記 下・第五三五―五三九頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕(DK010001k-0012)
第1巻 p.9-10 ページ画像PDM 1.0 DEED
雨夜譚会談話筆記 下・第五三五―五三九頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕
梅光院様に関する御思ひ出に就て
先生「○上略 お母さんは農家の末子で其父は只右衛門と云つて瘤が出来て居たのでよく瘤の祖父さんと云つた。私は此祖父に連れて歩かれるのが厭だつた。祖父さんは百姓育ちで文学等の特殊な趣味などは何もない誠に好人物であつた。家政は不如意で貧乏と迄は行かなかつたけれども、裕福ではなかつた。私のお母さんは斯んな境遇の間に成長なされたのだから、別に文学とか思想とかに取立てゝ云ふ程の事はなかつた。お父さんは大変気が強くて思想、行動は百姓に珍らしい程きちんとした人であつた。母などが云ふ事を聞かぬと大変叱り飛ばされた。お母さんが『旦那はよく人をお叱りになる』と云はれるとお父さんは『叱る気ではないが、そんな判らない事を云ふから叱る。』と云つて叱られた。私が成長してからは私が種々事に触れておなだめして家庭の心配も少くなつたけれどもそれでもお父さんの小言は絶えず、外の人が右と云えば、必ず左と反対なさると云つた専制振りであつた。お母さんは大変慈愛深い人であつたが、特に私をいつくしみ、寒い時は私の羽織を持つて遊びに出た私を追かけて来られる程であつた。私がそれを厭がつて羽織を地べたに放り出すと『困つた奴だ』とそれでも私を追掛けられました。人に物を施す事が好きで、つまらぬ物でも人におやりになる。恰度隣りに癩病患者の家があつて其患者と云ふのがお母さんに少し年上位の人であつたが、常に労られました。私等は大変厭がつて『情愛としては結構だが、そんなに迄する必要はない』と云つても、お母さんはいとわず着物や食事の世話迄もなさつた。私等が『癩病は伝染する――いや其頃は伝染と云ふ言葉はなかつた。――うつる』と注意するとお母さんは『そんな事はない。お医者に聞いたらうつらぬとの事
- 第1巻 p.10 -ページ画像
だつた』と云つて親切に世話なさつて、隣からぼた餅を作つて持つて来ると、それを平気で食べられた。悪く云へば情深過ぎたが慈悲善行に富んだ人だつた。晩香院などが『お前は沢庵の腐つたのでも他人にやる人だ』と云ふと、お母さんは『そうではありません。沢庵が少し位辛くても人にやつて構はないではありませんか。沢庵さへ食べられない人が沢山居ますから』と云はれた。○下略
雨夜譚会談話筆記 下・第八四七―八六四頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕(DK010001k-0013)
第1巻 p.10-13 ページ画像PDM 1.0 DEED
雨夜譚会談話筆記 下・第八四七―八六四頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕
渋沢氏御一族の続柄に就て
先生「中の家が渋沢の宗家と思ふ。或ひは西の家が宗家と云ふ人もあつたが、確かな事は云へない。唯私の考では中の家がそうだと思ふがネ。西の家と云ふのは、私が家に居る頃は常太郎と云ふ人があつて、それからその子に浅太郎と云ふのが居つた。これは私の生家の隣に在つたけれども、今は越して無くなつて仕舞つた。お父さんに祖先の事を聞くと『そんな事は、百姓にはどうでもいゝぢやないか――とお父さんは家柄を誇張したりする事を嫌つてネ――、どうせ、こんな田舎へ来て百姓する位だから碌な奴ではなかつたに相違あるまい。それをかれこれ詮議立てするのは却つて祖先の恥をさらすやうなものだ』とよく仰言つた。こんな具合で、よくは判らないけれども、私の記憶では先づ中の家が一番古い家で、それから二軒別居して中の家の前に住つたのが、前の家に遠前の家である。前の家は保右衛門と云ふのである、此家に与三郎と云ふ人があつて、小さい時から群馬の小島と云ふ所の呉服屋に丁稚奉公に行つて居つた。其処で何でも二十年位働いて、店のためにも大分尽したそうである。ところが主人と意見があはなかつた為めに――私はよく知らないが、婿に貰ふとか貰はぬとか云つた事で――其処を追ひ出された。何でも家業が与三郎のために、繁昌したにも不拘、丸で無一文で追ひ出された訳である。与三郎と云ふ人は、中々きかぬ気だつたそうで、二十幾つになつて、その呉服屋を飛び出して江戸で呉服屋を出す考であつた。そして江戸へ出たのであるが、懐中には二分の金しかなかつたそうである。今の三越が当時は越後屋と云つたが、与三郎は其処の前に二三度立ち止つて、その有様を見ながら、『自分にもやれない事はない』と、肚の中では頻りに思つて見たものゝ、如何せん懐中の蓄へがなくて、致し方なく血洗島へ帰つて来た。それから郷里で最初は小さな飴菓子屋をやつた。これが即ち東の家である。その与三郎といふ人が後に宗助と改め、それから代々宗助を名乗つて居つた。初代の宗助は大変勤勉に働いて、後では呉服物もあきなつてゐたそうである。その子の二代目宗助もよく働いた人で、家運を起した、人柄は温和で文雅もあり、また人情を解する人であつた。私のお父さんの晩香院はこの宗助の子であるが、宗助は中の家を頽廃させてはと云ふので、晩香院に『中の家は渋沢の本家だから……』と頻りに中の家の婿に行く事を薦めた。お父さんは若い頃武士になる考であつたから一応はこれを断つたけれども、説得されてそれならと親の意見に従つて中の家を継ぐ事になつた。然し『中の家に行
- 第1巻 p.11 -ページ画像
くに就ては家の全権を委せて貰ひ度い』と云う条件を容れて貰つた。即ちお父さんの肚の中は『折角意を決して中の家を継ぐからは、力一杯家の再興のために尽し度い。それにはわきからかれこれ干渉して貰ひ度くない』と云ふのだつたらうと思はれる。
お母さんのお父さん即ち私のお祖父さんに当る人は只右衛門と云つたが、お祖父さんは、そんな事を申しては悪いけれども、唯人がいいばかりで、役に立たない人であつた。お父さんは家業として農業の外に藍の事業を始めた。これは大変利益が揚る仕事で、大きい紺屋では年に数百両の藍玉を使つて呉れる。それが一駄(三十六貫)について二十両位の値段で、三両も、多いときは五両も儲かつた。お父さんがおやりになつて居つた藍は蓼藍であるが、これが後になつて印度藍に圧迫されるやうになつた。然し私が大蔵省に居る頃までは蓼藍の製造も相当盛にやつて居つたやうに聞いてゐる。印度藍は蓼藍と違つて、何か潅木から造るそうである。ところがこの印度藍も僅の間で、更に鉱物藍にとつて代られた。私は化学上の知識がないから其製し方は判らないが、この鉱物藍が出来てからは先の蓼藍は殆んど無くなつて、紺屋の有様も随つて変つて来た。けれども晩香院は無論その方面の事は知る筈もなかつたから、蓼藍の製造を国家的の事業位に思つて丹精しておいでになつたやうだ。藍に就いては頗る精通した人で、藍の中からでも生れて来たかのやうに詳しかつた。私が藍に就て聞き覚えて居ることを云ふと、よく『この子は生意気を云ふ』と仰言つた。其時分藍は私の郷里では、地方的産業とでも云へる位方々でやつて居つた。渋沢の一家でも、東の家の宗助の家、新屋敷の喜作の家、それから今の安太郎の家即ち前の家でもやつて居つた。けれども藍玉を売る商売先は皆違つて居つた。私の家は主に信州に得意があつた。あとで伊勢崎へも得意先を開いたし、また本庄にも大きい紺屋があつて出掛けるやうになつた。
それから尾高家との続柄であるが、藍香の母がおやゑと云つて、私のお父さんの姉に当る。私のお父さんのお父さん即ち宗助と云ふ人には子が大勢あつた。総領が誠室、次が喜作の父で此の人は長兵衛と云ひ後で文左衛門と改めた。それから晩香院で、その次の人は寄居へ婿に行つたと聞いてゐるが、どんな人か知らない。それから女の姉妹では一番上が堀口と云ふ処の新島へ嫁に行つた。次は手計の尾高へ嫁し、その下は群馬の国領の福田家へ行つた。次が太田にある高橋家へ嫁し、一番下が成塚の須永家へ行つた、これが私の生家へ養子に来た市郎の母で、元治や治太郎の祖母に当るのである。」
渡辺「諸井恒平さんのお母さんは、子爵とどんな御関係になつて居るのでございますか。」
先生「あれはおさくと云つて誠室の娘です。」
渡辺「それでは子爵と従兄妹にあたるのでございますネ。」
先生「そうなりませう。それから尾高の家だが、尾高家はそう大して古くない。藍香の父が勝五郎で、その親が磯五郎と云つた。此磯五郎と云ふ人は、横瀬の荻野と云ふ家に番頭をしてゐて、其処から資金を貰つて、新に家を成した。それが尾高家の始まりである。この
- 第1巻 p.12 -ページ画像
人は碌な仕事は出来ず、それに意地張であつた。藍香のお父さんの勝五郎に宗助の家から嫁を迎へたが、舅が中々五月蝿い。普通ならば姑が八釜敷い家が多いけれども、尾高の家はそれが反対であつた。舅の磯五郎と云ふ人は議論ばかりする。そして嫁にこんな事を云ふ『生家の力を楯に威張るな』など、実に嫁のいやがらせを云ふ。到頭嫁のおやゑも居憎くなつて、三四人までも親がかりの子どもがあつたけれども、生家へ帰つて仕舞つた。その時藍香は一番総領で十六才であつたが、お母さんを説得してまた連れ帰つたそうである。藍香の親戚知己に対する情愛には何とも云へぬこまやかなところがあつた。その時も『お母さんの仰言ることは誠に道理があります。けれどもそれでは如何にも情ない、それぢや婦人としての徳は竭されますまい。どうか道理は第二として、人情づくで考へて下さい。小さい子も沢山居ります。お母さんはこれを見捨てゝ人情が立つと思ひますか』と如何にも情を籠めて意見をした。すると母も到頭泣き出して『私が悪かつた。帰るから許して呉れ』と却つて息子の藍香に詑びた。ところが藍香は『それならば、お母さんはお祖父さんに平身低頭して、あやまることが出来ますか』と云つた。お母さんは『それは出来ない。そんな事は仕度くない』と云つた。藍香は『それでは駄目です。善くても悪くても親は親です。それにあやまるのは厭だと仰言るやうでは、今後とてもうまく治まりつこありません』と云つて、到頭母にあやまる事を承諾させた。実は祖父の方でも嫁に去られては困るのである。こんな具合で藍香の力で円満に落着することが出来た。藍香は元来学才もあつた。然し人情味の大変豊かな人であつた。私は八才の時論語を教はつたが、其後ずつと藍香に近づいて行つたのである。爾来あらゆる事に指導を受け或は行動を共にして来たが、未だ嘗て藍香に叱られた事を覚えない。そして諄諄として訓へ導いて呉れる。私は其点に就て、今も藍香の情愛を深く感じてゐる次第である。それに藍香は中々活溌であつた、小さい頃は戦遊びをよくやつた。撃剣も相当やれるし、相撲もとつた。唯事業をやる事だけは下手だつた。やる仕事が皆失敗する。藍香はよく云つた『どう云ふものか、本は何を読んでも大抵理解出来ない事はないが、事業となるとすつかり駄目だ』と、こぼして居つたが、実際藍香には事業に就て、これは成る、これは成らぬ、と云ふ区別が出来ないやうであつた。若い頃、私は藍香と一緒に藍商売に出掛ける事があつたが、藍の鑑定が違つたりする。私がそれは違ふ、こうだと云ふと『成程それはそうだけれども……』と云つて自分の思ふ通りにやつて失敗する事がよくあつた。欠点と云へば、これは欠点だけれども、実に感心な人であつた。殊に前にも云つた通り、親戚などに対する態度は何とも云へない位、難有い気持を起させた。○中略」
渡辺「子爵のお祖父様の只右衛門と云ふ方は、家つきの方でございますか。」
先生「そうです、それが新戒と云ふ所の高田と云ふ家から嫁を迎へた。つまり私の祖母であるが、此方は私が四ツの時、五十前後で亡くな
- 第1巻 p.13 -ページ画像
られた。」
渡辺「子爵のお母様には御兄妹がおありでございましたか、それともお一人でございましたか。」
先生「一人妹がありました。それが前の家の今の安太郎の祖母にあたる。」
渡辺「それから吉岡家でございますが、今の吉岡新五郎さんの家でございますネ、あれとはどんな続柄でございますか。」
先生「あの家は渋沢一族とは別に、私の幼い頃矢張血洗島で渋沢、笠原などゝ共に顔役の方だつた、私の姉が吉岡へ嫁いだのであるが、その子が新五郎で、吉岡義二と云ふのは新五郎の妹の子だらう。」
渋沢敬林墓碑(DK010001k-0014)
第1巻 p.13 ページ画像PDM 1.0 DEED
渋沢敬林墓碑
憲性院諦源英応居士。
嗚呼、吾祖父英応君、以文久二年壬戌十一月十一日病歿、享年七十有九、其十三日葬于淵上先塋之次 不肖孫男栄一、謹記其生前事状之略、掲之其墓上。曰、君諄敬林、通称市郎右衛門、晩更称只右衛門、其曰諦源英応居士者、釈氏加之号也、姓渋沢氏。為人朴質、其応事也簡、接人也寛、不以利害為趨舎、性嗜酒、頽然自如、不敢与物梗、不喜詭異可愕之行、及其嬰病、亦絶不見可憂之色。一日召不肖曰、我自幼貧困、服農桑之業、今齢垂八旬、略見余裕、我意足矣、自今而後、汝其務不趨名利、則於我多矣、無一語及祈冥福、営私利之事。嗚呼如君者、謂之善人長者、何不可乎。君配新戒村高田某之女、生二女、無男、以同族宗休君諱政徳之第三子為嗣、以長女配之、実生不肖、次女適同族保右衛門元彬、蓋内外孫子女凡若干也云。
不肖孫男栄一謹撰
誠室徳厚書
祭主渋沢市郎右衛門美雅
渋沢政徳墓碑(DK010001k-0015)
第1巻 p.13-14 ページ画像PDM 1.0 DEED
渋沢政徳墓碑
梅松院茶翁宗休居士墓。
余向在亡友南無仏庵之席、与渋沢徳厚相識、爾後隔絶不相見者、蓋既数年矣。今玆辛丑、偶訪徳厚之居、未及言他、先捧其先人宗休居士行述、泣且請曰、先子之見背、于今六年、墓上之文未勒、願得子之言、以光幽竁、余不可以辞。按状、居士諱政徳、宗休其字、姓渋沢氏、武蔵榛沢之血洗島邑人、考曰宗安、始服農商業、家以日裕、居士承藉其緒、黽勉朝夕、以倹率先、経営籌画、具有条理、貲産以益豊。邑為安部侯封地。凡侯家経費、居士皆殫力営弁、勤幹其事、侯特嘉之、賞賜俸米、称姓列士班、人皆栄之。先是置一倉於営門内、以納租米、命封内、輪流看守之、自宵達曙、莫問祁寒暑雨、頗為民累、居士建言、罷其役、民皆依頼之、其平素勇於任事、大抵類此、未能一一数也。少時嘗好撃剣、亦以善聞。性簡曠、不事矯飾。年六十、決然以家務委於徳厚、茶酒自娯、楽淡如也、時或手談以消日。天保七年丙申三月朔、以病終于家、得寿六十四、葬于先垗之次。配福田氏、男五女七、長即徳厚也、四曰英芳、分産成家、凡内外孫士女十余人。徳厚性篤実、亦能継箕裘、家以益饒、雖不無良師友、抑亦庭訓之力居多也、是可以無一
- 第1巻 p.14 -ページ画像
言乎。銘曰、
公事私事、視之如一、夫豈矯飾、惟性之質、嗚呼其始之克勤、是以其終之克逸。
天保十二年六月 秩父宮沢雉製文
慶応元年歳次乙丑夏五月 不肖男徳厚沐敬書
雲山宮沢雉塡諱
仁山竜甫之墓碑(DK010001k-0016)
第1巻 p.14 ページ画像PDM 1.0 DEED
仁山竜甫之墓碑
先生姓渋沢、諱阿鼎、字竜甫、通称竜輔、号仁山、其居号王長室、武州血濯島村人、其家之興杲於其父宗安居士碑、先生為其次子、故分産而為家、先生少時師無窮老人学焉、及長奮然自勤、精究六経諸伝、鬱然為家、家居数授、其誦経、聴者満座。好著文章作詩自娯、又善書、緒余及俳歌、実多能之士也。先生有慷慨気節、毎郷隣有事、雄弁処置得当、人無不服其才鋒矣。天保元年庚寅五月三日疾歿、年五十三、葬村中先塋之次。配明戸村茂木氏、挙二男四女、長者既適人、少者待成《ママ》其立宗家将定其嗣。惟親己知先生、又与宗家嗣誠室定交、故見乞墓碑銘、有不可辞者、乃作銘曰、
学之殖也、郷党有師、芸文富也、能出其奇、名之不朽、後人之規。
友人 鈴木惟親撰文
天保四年五月 日 亀戸入道仴庵摻筆《(マヽ)》
雨夜譚会談話筆記 下・第八四三―八四六頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕(DK010001k-0017)
第1巻 p.14-15 ページ画像PDM 1.0 DEED
雨夜譚会談話筆記 下・第八四三―八四六頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕
「柏」の御紋に就て
先生「どうも何ら云ひ伝へがないから、これと云つてお答へする材料を持たぬ。昔から用ひてゐるからそのまゝそれに倣つてゐると云ふに過ぎない。渋沢の一族が、血洗島に十四五軒あつて、大抵柏の紋を用ひてゐるやうである。唯同じ柏の葉でも種々模様が違つて、私の家は『違い柏』で、宗助の家の紋は『抱き柏』である。それから図『りゆうご』(ちぎり)を私の家では藍玉の商標に用ひて居た。青海印とか蓬莱印とか竜池印とか青淵印とか藍玉の銘柄を別けて紺屋へ売ると、紺屋では『どうも竜池より青海は少し品がおちる』などゝ云つて、銘柄を呼べば、品が判るやうになつて居つた。図はそんな藍玉につけるマークである。柏は家の紋だから羽織や提灯につけるので、図とは全然別である。私の家には別に代へ紋と云つたものはない。渋沢の一族が大抵柏を用ひてゐるところを見ると、誰か血洗島へ来た始祖が、之を用ひたものに違ひない。渋沢家の始祖に就いては、これはマアわからぬと云ふより外あるまい。
伝説見たやうな話はあるが、別に信ずるに足る程のものではない。私が十四五才の頃と思ふ、私の家の始祖の事に就いて書いた小説のやうなものがあつたのを、探し出して読んだ事がある。それには何でもこんな事が書いてあつた。――血洗島から本庄へ行く途中にミトー坂と云ふ坂があつたが、最初渋沢家の先祖は、其処に隠れ住んで居つたそうだ。それから血洗島に上ノ淵、下ノ淵と云ふ淵があつて、或る時渋沢家の先祖が、此淵に釣を垂れた。そして此淵に住む
- 第1巻 p.15 -ページ画像
竜神と契つて子孫が血洗島に住むやうになつたそうである。これが所謂渋沢家の始祖であるが、その名前は何とか書いてあつたヨ。一寸記憶に残つてゐないが、確に渋沢隼人と云ふのとは別人であつた。渋沢隼人と云ふ者も居つたには居つたでせう。然しこれまた確たる事は請合へません。――私が此小説を読んで、お父さんに『こんな本がありますが、此本に書いてあるのは、本当ですか』と質して見た。するとお父さんは『そんなものを何処から探し出したのか、誰か徒らに書いたのだらう。そんな馬鹿なものが信用されるものか』と仰言つた」
篤「六十年史に渋沢家の祖先は渋沢隼人と云ふ人だと書いてありますが、何か根拠があることでございませうか」
先生「どうだか判らないが、大して根拠と云ふものはないやうに思ふがネ。あの金井烏洲ネ、あの人の系図が新田氏から出てゐるやうに書かれてゐるが、これもどうだかネ。こんなものはあてにしない方が確だヨ。」
雨夜譚会談話筆記 上・第一七頁〔大正十五年―昭和二年一一月〕(DK010001k-0018)
第1巻 p.15 ページ画像PDM 1.0 DEED
雨夜譚会談話筆記 上・第一七頁〔大正十五年―昭和二年一一月〕
増田「血洗島の方は真言で御座いますか」
先生「国は真言宗である。天台宗に変つたのは別に理由はない。たゞ慶喜公との関係で、寛永寺の檀家になつたので、上野に墓地があつたからでもある。」○下略
渋沢栄一伝稿本 第一章・第四頁(DK010001k-0019)
第1巻 p.15 ページ画像PDM 1.0 DEED
渋沢栄一伝稿本 第一章・第四頁
○上略 先生の家は世々農を以て本業となし、傍ら養蚕と製藍とを兼営せしが、晩香翁は家運の恢復に力め、実家より金円の融通を仰ぎて、嘗て他人の手に移れる田畠をも次第に買戻すと共に、桑畑を整理して養蚕の業を始め、又藍圃を手入して藍靛を製し、之を信州・上州辺の紺屋に販売することまで、骨身を惜まず努力せるが上に、荒物業と質屋とを兼営して、更に利殖の策を講じたり。殊に藍の鑑定にかけては、近郷に肩を並ぶる者なしと称せられし程故、毎年の藍の買出しには、多く良き葉を仕入れて、莫大の利益を収めたり。かくて先生の生れし頃には家道日に繁昌し、いつしか村中の分限者と数へらるゝに至れり。
○栄一生家ノ家業ニ就テハ嘉永六年ノ条ヲモ参照スベシ。
竜門雑誌 第三〇四号・第四〇―四二頁 〔大正二年九月〕 【青淵先生懐旧談】(DK010001k-0020)
第1巻 p.15-16 ページ画像PDM 1.0 DEED
竜門雑誌 第三〇四号・第四〇―四二頁〔大正二年九月〕
○上略
『血洗島!』
怖ろしげなるこの村名のかげには、幾多の伝説と口碑とが伝はつてゐる。併しそれは赤城の山霊が、他の山霊と闘つて片腕を挫かれた。その傷口をこの地で洗つたなどいふ種類のもので、斉東野人の語たるはいふまでもない。それは深く詮索せぬとして、兎に角この地が往昔利根川の流域であつたことは争はれぬ。現に古文書にも隣村横瀬は上野国に属してゐたが、永禄年間洪水の為利根の流域変更して武蔵に帰すなどと載せてある。祖父の幼時には血洗島にも横瀬にも舟問屋を営
- 第1巻 p.16 -ページ画像
んでゐたものがあつたさうであるから、今こそ利根は二十町も北を流れては居れ、殊に現時の地形、古川の跡、並びに水流に因める地名ある等に稽ふれば、烏川及び利根川の一派村内を貫流した事は、殆んど疑ふの余地なく、その頃は刀水の白帆、我家の脊戸近く通うてゐた事と思はれるのである。
血洗島の故邸を村人は昔から『淵の上』と呼んでゐる、今も邸後の東方はその名残とも見るべきものが残つてゐるが、自分の幼年時代には、横瀬の方から流れて来る清水川が、我家の裾を洗うて手計の方に流れて行く、その流域が我家の裾で方十四五町もあろうと云ふ深淵をなし、今一つ学校裏にも大きな淵をなしてゐた。岸には真菰や蘆荻が茂り合つて、蒼く凝つて動かざる水の面には、蓴菜などの水草が小さな葉を擡げてゐた、夏の午下などよく裏の木小屋の脇から抜けて、崖の上から眤と藍に染つた手を翳せば、機の音、糸釜の煙、桑の海、その上に聳ゆる赤城榛名妙義、遠くは浅間黒髪の連山、或は寄峭或は雄偉、根は地に頭は天に堂々として聳えてゐる、農桑生活の齷齪に立雑つてゐる身にも、我心は鉅然として彼の連峰の如く無窮の天に向つてゐた。私は彼の山を見るのが唯一の慰藉であつたと同時に、今も残つてゐるであろう、亭々として天を擎ぐる欅の大樹の下蔭から、大人君子の心のやうに澄んだその淵の水を眺めるのが、いかにも遣瀬ない少年の悲哀を慰められるやうにも覚えて十六の時自分ではじめて、『青淵』と号をつけた。○下略
○右ハ『青淵先生懐旧談』ノ一節ナリ。
○栄一ガコヽニ述ベタルハ血洗島村ノ思ヒ出ナルガ、他ニ左ノ故郷観アリ。
ソハ一般的ニ故郷ニ付キ論ジタルモノナリ。
青淵先生『余の故郷観』(竜門雑誌第三五一号・第二〇―二四頁大正六年八月所載)
新編武蔵風土記稿 巻之二・百三十二・榛沢郡之三(大日本地誌大系本第十五巻・第二五七―二五八頁)(DK010001k-0021)
第1巻 p.16 ページ画像PDM 1.0 DEED
新編武蔵風土記稿 巻之二・百三十二・榛沢郡之三(大日本地誌大系本第十五巻・第二五七―二五八頁)
○血洗島村 血洗島村も郷庄及江戸への行程等前村に同じ、○大寄郷、藤田庄に属し、江戸より二十里、明暦二年検地等の事前村と同じの意 当村の里正今より十四代の先祖、和泉と云もの、天正の頃開墾せしと云、此頃は家数纔五軒なりしが、今は五十に及べり、東南は上下手斗の二村、西は南北阿賀野の二村にて、北は横瀬村なり、東西四丁余、南北十九町、正保の頃は皆畑なりしが、今は水田も少しく交れり、御入国の後蘆田右衛門大夫康直及安部弥市郎信勝に賜はれり、其後蘆田の分は上りて、一円に安部氏に賜ひ、今子孫摂津守領す、検地は天正十八年改ありと云、
高札場
沼二ケ所 一は村中にあり、上ノ淵と唱、東西百間、南北二十間、一は東の方にあり、下ノ淵と云、東西六十間余、南北二十間程
諏訪社 村の鎮守
村持
神明社 村民
持
稲荷社 村
持
○『新編武蔵風土記稿』榛沢郡ノ部ノ稿成レルハ何年ナリシカ明カナラザレドモ、本風土記稿ハ文化七年初メテ稿ヲ起シ、文政十一年完成セルモノナレバ、本郡ノ部ノ成ル亦文化文政年中ニ在リ。
- 第1巻 p.17 -ページ画像
八基村郷土誌 (鈴木徳三郎編纂)第七五―八二頁〔大正二年七月〕(DK010001k-0022)
第1巻 p.17-19 ページ画像PDM 1.0 DEED
八基村郷土誌 (鈴木徳三郎編纂)第七五―八二頁〔大正二年七月〕
一、八基村の沿革
イ 維新以前
中古以前の事は邈として之を典籍に徴すること難し、伝説によれば明治九年地租改正以前鹿島神社南方の地を竹の幌と呼べるは昔時本村地方を竹の幌島と称へたる名残りなりといふ、吉田東伍氏の説に類聚和名鈔に榛沢郡新居郷とあるを利根川以南本村外数村の総称なりといへり、榛沢郡の名は延喜式に記する所、源平時代に至り武蔵七党として知られたる猪俣党の子孫蕃殖して十九族に分れたる中に横瀬、内島あるに徴すれば今の横瀬に土着したるものならん、又所謂横瀬六騎の子孫が本村内に土着せるは事実なるも年代詳ならず、足利時代の頃本村中横瀬七郷に属せるあり或は滝瀬郷に入れるもあり、当時上杉氏に領せられ或は岩松(新田氏)氏に属し後横瀬氏に領せられたり、降りて徳川氏の世に至り大字横瀬、北阿賀野の二村を除き他の六ケ村即ち町田、血洗島、南阿賀野、上下手計、大塚は岡部侯安部摂津守の所領(天正十八年)となりて明治維新に及べり、而して大字横瀬は徳川時代には蘆田右衛門太夫領地となり、後三宅惣九郎所領し次で御料となれり、大字北阿賀野も亦初めは蘆田右衛門太夫の領地たりしが寛永年間稲垣若狭守、依田肥前守、室田源七郎知行となり、後御料及び依田兵庫知行となれり、今左に新篇風土記によりて各村の沿革を抄出せん。
1 町田村 藤田庄江戸よりの行程二十里、領主は安部摂津守なり、検地は明暦二年なりといふ、家数六十、東は矢島、南阿賀野の両村、西は滝瀬南も同村にて北は横瀬村なり、東西南北共に七町、石高四百三十七石八斗三升一合、高札場、小山川、川幅八間許
2 大塚村 郷庄及江戸よりの行程、領主、検地等前村に同じ、民戸三十二、東は新戒南は内ケ島、西は上手計、北は下手計なり、東西十二町南北五町皆畑なり、那珂郡駒衣村百姓友七所蔵岩松文書に永禄十二年北条氏邦より先祖吉橋大膳亮へ出せし文書に十貫文長浜の内、十貫文大塚の内とあり、長浜は加美郡長浜村なるべく大塚は即ちこゝのことなるべし云々。石高二百二十八石五斗八升七合 高札場 小山川、川幅十間
3 上手計村 郷庄の名江戸への里数、領主、検地の年代等皆前に同じ、当村の上下に分れしは古きことなり、其故は下手計に出せり、家数五十二、東北は下手計村にして西は血洗島、南は矢島なり、東西十町南北四町皆畑なり、石高三百二十石五斗五升七合、高札場、小山川、川幅八間
4 下手計村 爰も郷庄江戸よりの行程、領主及検地の年代前村に同じ、貞治一年五月二十八日岩松治部少輔直国へ左兵衛督基氏より賜ひし文書に、武蔵国榛沢郡郷内下手計村を宛行ふといふを載せ、亦同年六月二日安保信濃守入道跡下手墓の地を岩松直国へ与ふべき旨を基氏より岡部出羽入道へ令せしことを載す、されば此頃より上下二村に分れ、且岩松直国所領の前は安保氏の所領なりしこと知らる、岡部氏は郡内岡部村に住したれば此出羽入道も彼地に住し此等の事を掌りしに
- 第1巻 p.18 -ページ画像
や、家数百七十五軒、東は上新戒、南は矢島、坤は上手計村に隣り、西は血洗島、北は中瀬、横瀬の両村に交れり、東西十二町許南北は十五町に及べり、皆畑なり、石高八百九十一石八斗一升、高札場、小山川、川幅十間
附記 村名下手墓を下手計に改めたるは安部侯所領以来なりといふ。
5 血洗島村 郷庄及江戸への行程皆前村に同じ、当村の里正今より十四代の先祖吉岡和泉(下総国中野城主左馬重明の子なりといふ)といふ者、天正の頃(或はいふ天文六丁酉の年なりと)開墾せしといふ、此頃は家数僅かに五軒なりしが今は五十に及べり、東南は上下手計の二村、西は南北阿賀野、北は横瀬なり、東西四町南北十九町、正保の頃は皆畑なりしが今は水田少しく交れり、御入国の後蘆田右衛門太夫康直及安部弥市郎信勝に賜れり、其後蘆田の分は上りて、一円に安部氏に賜り、子孫摂津守領す、検地は天正十八年改めありといふ、石高三百四十六石二斗九升五合、高札場、沼二ケ所、一は上の淵と唱へ東西百間南北二十間、一は東にあり下の淵といふ、東西六十間南北二十間
附記 和泉の後裔たる吉岡氏は毎年鎮守祭典の時木製の鎌を献じて草分けの紀念とする習慣あり、又往時は村名を茅島と唱へたりとの伝説もあり。
6 南阿賀野村 此村も郷庄の唱、江戸よりの行程、領主の遷替等前村に同じ、本庄領又は岡部領の唱もありといふ、東西二町余南北三町民家二十三、東は血洗島南は町田、西は滝瀬北は北阿賀野村なり、当村元は北阿賀野と一村にして、後南北二村に分れたりと、されど正保の改めには尚一村にして元禄の頃には二村に見えたれば、分村の年代も推して知るべし、高札場、蘆原明神社
附記 本村の名往時は我ケ野と記せしにや、石碑其他に記せるもの今尚ほ諸所にあり。
7 北阿賀野村 此村は元南阿賀野村と一村なりしことは前に弁ぜり、されば爰も岡部領の唱あるべけれど本庄領とのみ伝へり、郷庄の名、江戸よりの里数も前に同じ、古への蘆田右衛門太夫康直此辺を領せし頃、領主へ聞へ上げ開発すといひ伝ふ、陸田のみの地なり、東西七町南北三町、東は血洗島南は南阿賀野西北は横瀬村なり、家数二十九、寛永のころは稲垣若狭守、依田肥前守、室賀源七郎知行にて今は御料と依田兵庫知行と交れり、石高九十三石七斗七升六合、高札場、稲荷社、天神社
8 横瀬村 横瀬村は本庄領なり、江戸への行程前村に同じ、此村天正のころまで上野国に隷属せしことは総説に述べたる如し、家数百三十、東西十八町南北五町、東は血洗島、下手計、中瀬の三村、南は北阿賀野、西は宮戸、北は利根川を隔て、上野国新田郡平塚村、佐位郡島村なり、此地は同国金山城主横瀬信濃守の先祖出生の地にして同氏の所領なり、御入国後蘆田右衛門太夫領地となり、後三宅惣九郎に賜り、寛永八年御料となる、後鈴木長右衛門に賜り、承応二年同人検地す、それも亦上りて御料となり、後寛文十一年貞享二年の二度に深谷忠兵衛検地せる高入の地なり、其後開ける新田は宝暦八年会田伊右衛門、寛政五年簑笠之助、文化十一年吉岡次郎右衛門検地す、此を横瀬村新田と唱へて持添とす、石高二百二十四石三斗四升五合、高札場、
- 第1巻 p.19 -ページ画像
小名前新田
大日本地名辞書に曰く、横瀬村は阿賀野、滝瀬との間に古川跡ありて昔は利根川の一派此間を横流して横瀬、新戒、中瀬、高島等は水に囲まれし一洲なりしを知る、されば此一洲の諸村も上野国新田庄の庄内なりしこともあり、寛永年中に水派変じて横瀬も武州へ帰すと伝へたり、云々。
ロ 維新以後
明治維新後一時は本村皆半原藩に属せしが、廃藩後半原県となり次で岩鼻県となる。明治四年十月岩鼻県廃せられ十一月入間県となり、六年六月同県廃せられて熊谷県に属し九年八月熊谷県を廃して熊谷支庁をおき浦和県に属せしむ、同年十二月支庁廃せられ遂に今の埼玉県となれり、明治十二年四月郡区編制により大里、幡羅、榛沢、男衾の四郡役所を大里郡熊谷町に置かるゝや其管轄に入り、二十九年四月郡制を施行せらるゝや当榛沢郡は外三郡と合して大里郡と改称せらる。
又当郡は税務に関しては熊谷税務署に、林務に就ては秩父大宮の小林区署に、逓信に関しては東京逓信管理局に、陸軍に就ては第十四師管第二十八旅管熊谷聯隊区に、海軍に就ては第一区横須賀鎮守府に、司法に関しては東京控訴院、浦和地方裁判所熊谷支部及熊谷区裁判所に各々管轄せられ、登記事務に就て当村は熊谷区裁判所深谷出張所の管内にあり。廃藩前の各村には名主、組頭、百姓代等の諸役人ありて貢租の徴収、夫役の賦課をなし、官庁の布達を一般に伝ふる等の事を掌れり、廃藩後区制を布かるゝや本村中血洗島、上下手計、大塚は南九大区の一小区に属し、町田、横瀬、南北阿賀野は同区の二小区に属したり、各村には一名の戸長、一保に一名づゝの副戸長ありて村治を掌り、其下に百姓代、伍長等ありて之を輔けたり、明治十年村会議員の制を布きて村治に関する要務を議定せしめ、十七年七月各村の役場及吏員を廃し、数村を合して新に聯合戸長役場を置くに至り横瀬、血洗島、南北阿賀野、上下手計の六村は合して村役場を血洗島に設け各村より筆生を出して聯合戸長の事務を輔佐せしめ又各村に総代人を置きて諸般治務の遂行に便せしめ、尋で明治二十二年四月町村制の施行せらるゝや、一時手計村と名付けられしも血洗島、横瀬等の村民中喜ばざる者多く、村名の変更を当路に陳情せるより、二十三年二月二十八日更に血洗島、横瀬、町田、南北阿賀野、上下手計、大塚の八村を合して八基村と名つけ従来の各村は大字と称せられ、大字に区長ありて村治の執行に便する元の如く以て今日に及べり。
町村制執行以前、元岡部藩に属せし村々は岡部村内に於て各割地の山林数町歩を管有したりしが、該制施行後岡部村に編入せられ、又矢島村の内、小山川の北岸にありし字矢島前飛地二筆一反余歩は下手計村に、字町田前飛地十一筆八反余歩は上手計村に各々編入せられたり。
武州榛沢郡血洗島村申年地詰帳(DK010001k-0023)
第1巻 p.19-20 ページ画像PDM 1.0 DEED
武州榛沢郡血洗島村申年地詰帳 (吉岡平三郎氏所蔵)
明暦弐年申九月十四日
○上略
川はた
- 第1巻 p.20 -ページ画像
三拾間四尺拾間半 下畑壱反廿壱歩半 市郎右衛門
未年皆欠
○中略
同所 ○川はた
弐拾九間拾三間壱尺 下畑壱反弐畝廿壱歩 市郎右衛門
内壱畝廿歩酉川欠
○中略
畑合拾五町九畝五歩
中畑三反拾七歩半
内 下畑拾弐町八反六畝九歩半
下々畑壱町七反七畝拾三歩半
畑成田壱反四畝弐拾四歩半
明暦弐年申九月十四日 大塚八兵衛 印
桜田半左衛門 印
富田勘兵衛 印
望月太兵衛 印
武州榛沢郡血洗島村申年地詰帳(DK010001k-0024)
第1巻 p.20-21 ページ画像PDM 1.0 DEED
武州榛沢郡血洗島村申年地詰帳 (吉岡平三郎氏所蔵)
明歴弐年申九月十五日
○上略
同所 ○あかのさかい
六間半弐間半 田拾六歩 市郎右衛門
○中略
同所 ○あかのさかい
四間半九間半 田壱畝拾三歩 市郎右衛門
○中略
同所 ○川はた
拾四間半四間 下畑壱畝弐拾八歩 市良右衛門《(市郎右衛門)》
○中略
同所 ○川はた
七間半七間半 田壱畝廿六歩 市郎右衛門
○中略
同所 ○やしきのまへ
弐拾壱間半三拾四間半 上畑弐反四畝廿弐歩 市郎右衛門
○中略
同所 ○やしきのまへ
廿五間五尺拾三間弐尺 上畠七畝歩 市郎右衛門
○中略
同所 ○やしきのまへ
十三間弐尺拾八間 上畑七畝弐拾九歩半 市郎右衛門
同所
- 第1巻 p.21 -ページ画像
七間四尺廿間 中畑五畝弐歩 同人
○中略
田畑合弐拾壱町六反弐畝拾歩半
内
上畑拾町三反三畝弐拾八歩
中畑七町七反拾八歩
下畑弐町壱反八畝弐拾五歩半
田壱町三反壱畝拾七歩
畑成田七畝拾弐歩
明暦弐年申九月十五日 大塚八兵衛 印
桜田半左衛門 印
富安勘兵衛 印
望月太兵衛 印
武州榛沢郡血洗島村申年屋敷帳(DK010001k-0025)
第1巻 p.21-22 ページ画像PDM 1.0 DEED
武州榛沢郡血洗島村申年屋敷帳 (吉岡平三郎氏所蔵)
明暦弐年申九月十六日
○上略
廿三間拾壱間弐尺 屋敷八畝廿歩 市郎右衛門
○中略
屋敷合弐町九反七畝廿壱歩半
内
屋敷壱町九反五畝廿四歩半
新屋敷壱町壱畝廿七歩
惣田畑屋敷合三拾九町六反八畝廿五歩
内
上畑拾町三反三畝廿八歩
中畑八町壱畝四歩半
下畑拾五町四畝廿四歩半
下々畑壱町七反七畝拾三歩
屋敷壱町九反五畝廿四歩半
新屋敷壱町壱畝廿七歩
田 壱町三反壱畝拾七歩
畑成田弐反弐畝六歩半
明暦弐年申九月十六日 大塚八兵衛 印
桜田半左衛門 印
富安勘兵衛 印
望月太兵衛 印
○地詰帳二冊、屋敷帳一冊ヲ以テ完結セルモノナルコトハ屋敷帳ノ末尾ニヨリ明カナルガ、又各冊表紙ニ壱番帳、弐番帳、参番帳ト記シ、何レニモ三冊之内ト附記セルニヨルモ明カナリ。
地詰帳、屋敷帳ニ現ハレタル人数ハ二十八人ナリ。市郎右衛門ハ栄一ノ生家中ノ家ノ先祖ナルベシ。当時ノ中ノ家ノ所持高ハ田ハ三畝廿五歩、上畑ハ三反九畝廿壱歩半、中畑ハ五畝二歩、下畑ハ二反五畝拾歩半、屋敷ハ八畝廿歩ナリ。
右三冊ノホカ吉岡平三郎氏所蔵ノ旧記中左ノ諸帳アリ。
- 第1巻 p.22 -ページ画像
元禄五年三月十一日 武蔵国榛沢郡血洗島村干上検地帳
元禄九年三月六日 干上リ開発畑改帳
正徳二年三月 血洗島村藪崩畑早上畑改帳
享保二年十一月 血洗島村新畑開発改帳
享保十二年十月 葭地開発反別改帳
寛延二年三月 武蔵国榛沢郡血洗島村藪崩畑帳
明和四年 岡部大林拾九之割左近@ 血洗島江割渡帳
コレラニヨリ血洗島村ニ於テ元禄以後開発ノ行ハレタルコトヲ知ルベシ。而シテ市郎右衛門ノ名見ユルハ寛延二年三月ノ藪崩畑帳ニシテ左ノ如ク記サレタリ。
○上略
一同 ○藪崩畑 三畝廿九歩 市郎右衛門
○其他ノ血洗島村ノ史料ニ関シテハ参考ニ掲ゲタル考証ヲ参照スベシ。
御用留 弘化四未歳正月吉日(DK010001k-0026)
第1巻 p.22 ページ画像PDM 1.0 DEED
御用留 弘化四未歳正月吉日 (吉岡平三郎氏所蔵)
上書之写
矢島村外弐ケ村川筋御普請入用御領分限
国役金納方割賦帳
弘化四未年 岡部
十一月 御役所
○上略
高三百四拾六石六斗九升九合
一金壱両三分永百弐文七分 血洗島村
○中略
右者武州榛沢郡矢島村町田村大塚村三ケ村地内備前堀小山川筋去午年御普請入用之内当未年御領分限り国役金納方書面之通り令割賦候間来十五日限り取立之可相納候以上
午十一月五日 岡部
御役所
御用留 安政四年(DK010001k-0027)
第1巻 p.22-27 ページ画像PDM 1.0 DEED
御用留 安政四年 (吉岡平三郎氏所蔵)
○上略
高三百四拾六石弐斗九升五合
一銀百三匁五分四厘 血洗島村
此金壱両弐分弐朱永百文七分
以廻状申達候然者従公儀去辰年関東筋川々御入用之内国役銀被仰出候ニ付別紙割賦帳之通取立之当月廿五日限可相納候○中略
岡部
御役所
巳十月五日
○前掲明暦弐年ノ地詰帳ニハ田畑屋敷ノ反別ヲ掲グルモ石高ヲ掲ゲズ。コノ国役金割賦達ニヨレバ弘化四年ノ石高三百四拾六石六斗九升九合、安政四年ノ石高三百四拾六石弐斗九升五合ナリ。両者ノ間ニ四斗四合ノ差アリ。然ルニ前掲『八基村郷土誌』所掲石高モ安政四年ノソレト同ジ。同村ノ石高ニ関スル考証ハ参考『青淵先生の血判入門書其他旧記について』ヲ参照スベシ。
- 第1巻 p.23 -ページ画像
天明二年 武州 上州 村々五人組帳 寅三月 岡部領拾弐ケ村 新田領四ケ村
(表紙共十九枚) (吉岡平三郎氏所蔵)
差上申五人組一札之叓
一切支丹宗門之儀堅被遊御改候ニ付、村中不残男女共ニ旦那寺之手形を取差上申通、御法度之宗門当村ニ壱人茂無御座候、自然疑敷宗門御座候ハヽ早々可申上候事
一新地之寺社取立申間敷候、古跡ニ而も修造仕候ハヽ御断申上御下知を請可申候、尤新規之祭礼仕間敷候、并寺社共ニ住持之替り申節御断可申上候御事
一惣而御廻状類無滞相廻シ届候村より請取手形を取可申候、若シ従 御公儀被召呼候儀茂御座候ハヽ、御屋敷江御断申上可罷出候御事
一転変諸勝負一切仕間敷候《(博奕)》、并請人無之質物を取又ハ筋目無之人之物を預り申間敷候、且又下直成払もの無吟味買申間敷候
附、当然之利欲ニ耽博変并三笠附盗賊等之宿仕《(奕)》もの間々有之事ニ候条、右体心得違無之様相守猶又村役人より常々無油断可申渡旨奉畏候御事
一行衛不知ものニ一夜之宿も貸申間敷候、海道筋之宿屋《(街)》ニ而も壱人旅之ものニ宿貸申間敷候
附、浪人村ニ置申間敷候、然共医師抔之儀は勿論其外ニ而も由緒慥成者ニ而所之為ニも不苦ものニ候ハヽ御下知を請可申候御事
一火之用心常々念を入可申候、若シ出火之節は 御領分は勿論御他領たり共早々駈附、其所之 御高札取除夫より場所江駈附消留可申候御事
一御年貢之儀御割付被為下候ハヽ、惣百姓立会拝見仕候上免割可仕候若シ村役人紛敷割方仕候ハヽ百姓之内より早々可申上候、尤御米縄俵共随分念を入相納名主之庭帳ニ附、後日紛敷義無之様ニ可仕候御事
一百姓相煩候歟、又は無拠訳ニ而耕作難成もの有之候ハヽ其五人組として作仕付可申候、五人組ニ而手余候ハヽ村中ニ而仕付少も荒し申間敷候、且又百姓御未進仕欠落仕候ハヽ村中より相弁可申候
附、村之もの逐電仕候ハヽ早々御住進申上御下知《(注)》を請可申候、其外変事御座候節不隠置早々可申上候御事
一新田ニ可成場所、并前々御引高相成候地所趣返作付相成様《(起)》ニ見請候ハヽ、早々申上御見分を請可申候、隠置脇より相知候ハヽ、地主は不及申上ニ村役人迄急度曲事ニ被 仰付候旨奉畏候
附、小百姓退転仕候ハヽ相応之もの見立代り之百姓を取立可申候、持添仕候儀致間敷候、左様之節は早々申上御下知を請可申候御事
一江戸御廻米大豆等之儀、随分念入船頭江相渡シ可申候、江戸着岸之
- 第1巻 p.24 -ページ画像
節万一欠相立、船頭御吟味之上名主組頭無念ニ相極候ハヽ、右不足米村方ニ而相弁其上村役人升取迄急度被 仰付候旨奉畏候
附、御年貢皆済不仕已前穀物一切他所へ出シ申間敷候、并諸勧進入申間敷候御事
一田畑家屋敷等売候もの又は質入之証文あるひハ書置等、名主組頭加判無之候ハヽ出入ニ成候とも御取上無御座候旨奉畏候御事
一田畑永代売之儀御法度之趣相守罷有候、且又売買質入ニ仕候とも十ケ年ヲ限可申候、并沽券高を残し売申間敷候、右躰之儀は頼納と唱厳敷御制禁ニ而、売人買人加判人共曲事ニ被付候旨奉畏候
附、名寄帳古ク相成候而は紛敷義も出来候間、十五ケ年又は廿ケ年之内惣百姓立会相改仕置可申旨奉畏候御事
一田地用水之儀、川懸り池水共ニ任先例ニ水を引、新規義仕間敷候、用水之義兼而被 仰付候通り麁末不仕念入可申候、堤川除危所御座候ハヽ普請仕、村中ニ而不叶候ハヽ正月中旬より御願可申上候并伏樋筧水門等不損様念入可申候
附、道橋損候所は早速取繕ひ往来之難義ニ不成様可仕候御事
一山論水論際目論出来候ハヽ、其村之名主組頭取曖下ニ而相済可申候、且又及争論候節弓鉄炮は不及申ニ脇差ニ而も持出シ申間敷候御事
一百姓子共数多持候《(供)》とも、高弐拾石内之高を分ケ申間敷候、若分不遣候而不叶義候ハヽ御断申上御下知を請可申候
附、百姓所持之山林或ハ四壁ノ竹木ニ而も無御断伐採申間敷候御事
一縁付養子ニ遣候共、又は此方へ貰候共、男女共ニ先方之宗旨相改御願可申上候、且又不如意ニ相成、田畑家屋敷沽却仕候ものハ勿論、他所へ奉公ニ出シ候共御断可申上候、他所より奉公人召抱候ハヽ、慥成請人ヲ取為致証文取置可申候御事
一御領内村々百姓之内、無妻之者共女房可致と存る女有之節、人頼いたし貰掛ケ而候へ共、不釣合之縁組或は差障り候筋有之、女之親得心不致及断ニ付、若者共大勢申合夜分ニ右女を奪取、無体ニ女房ニ致し又ハ奪取得さる時は外々江之縁談を妨ニ付、無拠懇意之もの養女分ニ貰請、女房ニ為致候事抔も有之由相聞、言語同断狼藉之至不届至極ニ候、以来女之親不得心ニ而相断候女を奪取、又は縁談之致妨趣於聞るは当人は早速ニ牢舎申付、追々御吟味之上急度可被 仰付、勿論申合奪ニ罷越候もの共同罪ニ可被 仰付、且又外之者養女分ニ貰請女房ニ為致候事決而不相成事
一御他領之者右体之儀仕出シ、村方之俳佪不相成一件落着之内他村《(徘徊)》ニ差置候事茂有之由、向後右体之者親類縁者たり共 御領内に一夜も留置申間敷候、若シ無拠節は 御役所ニ相届ケ御差図を請可取計候御事
附、名主組頭遠所江罷出候節は御願申上可罷出候、百姓は名主江相届可罷出候、無断我儘ニ他行仕間敷候御事
一兼而被 仰出候通無 御免許而帯刀仕間敷候、万一心得違之もの有之、帯刀仕候趣被及御聞候ハヽ、当人は不及申上村役人親類五人組迄、急度可被 仰付候間別而婚礼吊等之節《(弔)》は村役人心付見遁しニ仕
- 第1巻 p.25 -ページ画像
間敷旨被仰渡奉畏候御事
一婚礼等之義、分限不相応奢りケ間敷義一切仕間敷候、并神事法事等之節も随分軽ク営可申候御事
一村方年中諸入用村中不残立会得心之上割合、後日申分無之様奥書致連判取置可申候
附、無拠筋ニ而印形相改候ハヽ名主組頭ハ
御役所へ印鑑差上百姓は名主江相届改可申候御事
一衣類之義、平日随分麁服を用可申候、祝義仏事あるひハ他村へ参会等之節も、名主ハ絹紬其外は布木綿を用ひ、染色之義目立候色ニ染申間敷候
附、遊芸一切仕間敷旨堅被 仰渡奉畏候御事
一御他領たり共御役人中江対シ不礼慮外仕間敷候、并往来之旅人ニ而も不作法之義仕間敷旨奉畏候御事
一質物取候ものハ、慥成口入を立、印形取質物取引可仕候、若従 御公儀御尋物等御座候節は、取置候質物吟味仕、致符合候品も御座候ハヽ、早速御注進可申上候
附、牛馬之売買是又慥成口入を立可申候御事
一御鷹場之儀は不及申上ニ隣郷ニ而田鳥一切取申間敷候、并御法度之鉄炮堅打申間敷候、若猪鹿荒候ハヽ御願申上威ニ打可申候御事
一五人組小頭之儀可然ものを見立可申付候、組中相互ニ悪敷義は致異見喧嘩口論徒党荷担仕候もの、或ハ不時ニ寄合、大酒仕不依何事ニ我儘成義を申、村中を騒セ村役人五人組之申義も承引不仕ものハ、早々申上、御下知を請可申候、并徒党強訴等之儀及承候ハヽ、早々可申候御事
一兼而被 仰渡候通、御役人中御廻村之節は、所有合之品を以、一汁一菜之外御馳走ケ間敷義堅ク仕間敷候御事
一人之子たるものハ孝行を第一にすへき事也、子ハ親ニ孝を尽し親ハ子を慈愛し弟ハ兄を敬ひ兄ハ弟を憐ミ親類と睦敷朋友と交りすなをなれハ天道之冥慮ニ叶其家富貴ニして災難をまぬかるゝ事ニ候、孝愛之道を常々可心懸旨奉畏候御事
右之通御法度之趣奉畏村々小百姓迄連判仕差上申候、此以後御仕置相背申もの御座候ハヽ、御吟味之上其五人組は不及申上ニ名主組頭如何様之曲事ニ茂可被 仰付候、為後日一札差上申所仍而如件
岡部領何村組頭
誰
年号寅三月 小頭
誰
寅年当番
上手計村
善兵衛 (印)
寅年当番
上手計村
善兵衛
卯年当番
下手計村
庄左衛門 (印)
- 第1巻 p.26 -ページ画像
巳年当番
いせ方村
市左衛門 (印)
午年当番
岡部村
三重郎
代印
長兵衛 (印)
未年当番
普済寺村
源右衛門
申年当番
岡部新田
甚之丞 (印)
酉年当番
岡下村
金右衛門 (印)
戌年当番
矢島村
治兵衛 (印)
亥年
町田村
紋七
亥年
当番 町田村
子年当番
阿賀野村
徳右衛門 (印)
丑年当番
血洗島村
十右衛門
寅年当番
上手計村
仙蔵
卯年当番
下手計村
庄左衛門
辰年当番
大塚村
新八
巳年当番
伊勢方村
市左衛門
午年当番
岡部村
市右衛門
未年当番
普済寺村
源右衛門 (印)
申年当番
岡部新田
甚之丞
酉年当番
- 第1巻 p.27 -ページ画像
岡下村
金右衛門
戌年
矢島村
次兵衛
亥年
町田村
紋七
子年
阿賀野村
善左衛門
○コノ五人組帳ハ天明二年ノモノナレドモ、五人組ノ規定ハ徳川時代ヲ通ジテ変更少キヲ普通トスルモノナレバ、本帳ノ規定モ維新ニ至ル迄殆ンド変更ナクシテ行ハレタルモノナルベシ。即チ栄一ノ在郷時代ニモ血洗島村ハカヽル農政及ビ民政方針ノ下ニ支配サレタルモノナラン。
竜門雑誌 第五八三号・第一―二四頁〔昭和一二年四月〕
青淵先生の血判入門書其他旧記について(土屋喬雄)
○上略
三
次に何れも吉岡平三郎氏所蔵に係る田畑名寄帳其他について御紹介したい。先づ名寄帳《ナヨセ》とは何かといふことについて明確な知識をもたれない人もあるかも知れないから、一応説明致しておくが、江戸時代における土地台帳であると考へて頂けばよい。現に今でも村によつては土地台帳のことを名寄帳と呼んでゐる処さへもある。尤も名寄帳の土台となるものに検地帳又は水帳といふものがあつて、これは土地を検地して土地の位を定め、各筆の土地の石高・反別及びその所持人等を記したものである。しかし、検地は年々行ふのではなく、検地と検地との間に土地が移動するのであるから、その移動を明かにするために、名寄帳なるものを作つたのである。それ故名寄帳の方が経済史の見地から見てより有用なものである。名寄帳には各筆の土地の反別と地番と字名及び所持人の名が記され、譲渡、質入、書入等により土地の移動が行はれるときには、貼紙或は書入れをしてそれを明かにするのが普通である。検地帳と名寄帳との相違はいま一つある。前者においては各筆の土地を主として、人のために之を纒めてゐないが、後者は各人のために各筆をまとめて記してある。
名寄帳のほかに御紹介したいと思ふのは、文政八年の『御年貢小割帳』と弘化三年の『年貢皆済帳』である。前者には同村民各々の所持地高とその年貢負担高が記され、後者には各村民の年貢負担高だけが記されてある。
では、血洗島村の田畑名寄帳其他が青淵先生伝の研究にどういふ関係があるかと言へば、直接には関係がないとしても、先生の生れ故郷である血洗島村の状況及び先生の御生家の事情を知るべき重要資料の一つと見なされるのである。具体的に言へば、同村がその各年度において反別何程、石高何程で、土地を所持した人が何人であつたか、そ
- 第1巻 p.28 -ページ画像
の土地の配分関係がどうであつたか、先生の生家『中の家』渋沢家が幾何の田畑を所持せられたか、又同村民中所持高の点ではどんな地位にあつたか、各村民の年貢負担高が何程であつたか、等が明かにされるのである。およそこれらのことが、青淵先生伝を科学的に掘り下げる意味において極めて必要なことであることは、云ふまでもないことである。
さて、私は本誌本年二月号の『青淵先生伝記資料編纂所通信』に血洗島地詰帳、屋敷帳、御用留等によつて、上述の諸事項につき紹介したが、今回借覧した名寄帳等には二月号の右の記述を補ふべきものが多い。
先づ反別や石高について見るに、文化十五年の田畑名寄帳の末尾には次の如くある。
一 高三百八石九斗三升八合
内
本田壱町三反壱畝拾七歩
上畑拾町三反弐畝廿七歩
中畑七町八反八畝廿八歩半
下畑拾四町六反弐畝弐歩半
下々畑五町壱反廿八歩半
下々畑壱反八畝拾八歩 取下分
下畑弐畝歩 取下分
屋舗 三町七反九畝三歩半
古藪発弐反六畝廿六歩
藪発八反五畝歩
惣合 四拾四町三反八畝壱歩
内下下々畑合弐反十八歩荒地取下ヲ行
〆四拾四町壱反七畝十三歩
○中略
右名寄帳面之義文化十五年寅正月十五日より取掛り廿五日迄地押并名寄帳面迄相仕立申候
与頭 源惣
同 九兵衛
同 源右衛門
同 勘兵衛
同 佐吉
同 武左衛門
名主
吉岡叟左衛門
之を本誌二月号『通信』に掲げた明暦二年の地詰帳、屋敷帳に記された田畑屋敷反別に比較すると、惣計において明暦のそれは、三十九町六反八畝廿五歩、文化のそれは四拾四町三反八畝一歩であるから、明暦二年(西歴一六五六年)から文化十五年(一八一八年)までおよそ百六十年の間に五町歩弱の増加があつたに過ぎない。徳川時代特にその中期以後において耕地反別の増大が一般的に言つて遅々たるものであつたことは、云ふまでもないが、処によつては中期より後期にかけて著増した村もあつた。思ふに血洗島村の反別増加は、徳川幕府成立前
- 第1巻 p.29 -ページ画像
後に急増し、その後漸増したに過ぎなかつたものと思はれる。その戸数が天正の頃の五戸から明暦二年には三十戸となつたのに徴しても明かである。而してこの文化の名寄帳面に現はれた戸数は、諏訪神社をも入れて五十三軒、他村の者にしてこの村に土地を所持せる者十一人である。この村の者にして他村に土地を所持した者もあつたらうと思はれるが、その点は残念乍らこの村の名寄帳・年貢帳だけでは明かでない。
かくの如く、明暦と文化とを比較すれば、反別の増加は一割弱にすぎないが、戸数においては、(この場合名寄帳面には、人口は記してないから戸数のみを問題とせざるを得ないが)七割六分強の増加である。これは何を意味するかと云へば、この村において経済上の変化が相当にあつたことを語るものであらう。即ち、徳川初期においてはこの村の産業は恐らく純農に近いものであつたが、後期には商品・貨幣経済の侵蝕と共に村民の家業にも変化を生じ、たとへば藍玉製造、養蚕、製糸等を副業とし、それがために耕地反別の割に、よく多くの人口を養ひ得るやうになつたものと思はれる。
文政八年の『当酉御年貢小割帳』には
惣反別
四拾四町壱反七畝拾三歩
内三町歩名主給分ニ引
残而
四拾壱町壱反七畝拾三歩
とあり、各地種の反別及び石高については記す所がない。しかし、これには各村民の所持地反別及び年貢金が記されてあるから、名寄帳以上に重要な点もある。文政八年(一八二五年)は文化十五年より七年後であるが、この間に反別の増減はない。尤も後に述べるやうに、個々村民の所持地の移動はあつた。
それより四年後なる文政十二年の『本反御水通地押野帳仕立』の末尾には各地種毎に明記して、左の如くある。
上畑合拾町三反弐畝廿七歩
中畑合七町八反八畝廿八歩半
下畑合拾四町六反四畝弐歩半
下々畑合五町弐反九畝拾六歩半
本田合壱町三反壱畝拾七歩
屋舗合三町七反九畝三歩半
古藪崩合弐反六畝廿六歩(○他には発とあるが、これには崩と記されてゐる。)
新藪崩合八反五畝歩
惣反別合四拾四町三反八畝壱歩
内下下々畑合弐反十八歩荒地取下ニ引
残而四拾四町壱反七畝十三歩ニ候
与頭 友右衛門
文政十二丑年 同 小兵衛
正月より改始メ 同 源惣
同 九兵衛
同 源右衛門
- 第1巻 p.30 -ページ画像
同 勘兵衛
名主 重右衛門
肝煎名主
吉岡叟左衛門
この年にも全く文化十五年のそれと同反別となつてゐる。ただ、与頭、名主の顔触れについては若干の変動が見られる。
天保二年(一八三一年)の田畑名寄帳も十三年前なる文化十五年のそれと大差なく、その末尾に次の如く記されてゐる。
一 高三百八石九斗三升八合
内 本田壱町三反壱畝拾七歩
内弐反廿弐歩 水深荒地引
残壱町壱反廿五歩
上畑拾町三反三畝廿八歩
内壱畝壱歩 悪水落堀敷引
残拾町三反二畝廿七歩
中畑八町壱畝四歩半
内壱反歩 諏訪免引
弐畝六歩 悪水落堀敷引
残七町八反八畝廿八歩半
下畑拾五町弐反七畝壱歩
内五反九畝拾五歩半 悪水落堀敷引
三畝拾三歩 巳より諏訪免引
残拾四町六反弐畝弐歩半
内弐畝歩 取下ケ
下々畑五町弐反九畝拾六歩半
内壱反八畝拾八歩 取下ケ
残五町壱反廿八歩半
屋敷三町七反九畝三歩半
外ニ
古藪発弐反六畝廿六歩
藪発八反五畝歩
惣合四拾四町壱反七畝九歩
組頭
友右衛門
天保二辛卯年 同
小兵衛
正月廿七日より地押 同
二月十二日帳面仕 源惣
立終 同
九兵衛
同
源右衛門
与頭
勘兵衛
名主
- 第1巻 p.31 -ページ画像
十右衛門
天保二年における惣反別は、文化、文政のそれよりも却つて四歩ほど減少してゐる。もしこの調査に何等誤りがないとすれば、文化以後の農村の行詰りを如実に反映したものと言へる。恐らくこの調査には誤りがなかつたであらうことは、後に見るやうに、人口において文化(五十三戸)より文政、天保の方が却つて五戸の減少があり、諏訪神社をも入れて四十八戸となつてゐることによつて証拠立てられるかと思ふ。尤も弘化三年の『御年貢皆済帳』では四戸増して、五十二戸となつてゐることも注意しなければならぬ。要するに血洗島の戸数は先生の在郷時代には五十戸内外であつたと言ふことができる。
なほ反別の点で注意すべきことは文化、文政、天保共に田の反別がわづかに一町三反歩余で、畑の三十八分一にすぎなかつたことである。この点において血洗島の耕地構成上の一大特徴が見られるのである。血洗島は当時の言葉を以てすれば、『田方』の村でなく、『野方』の村であつたわけである。そして、当時の主要作物はおそらく麦・藍・桑・菜種・野菜であつたと思はれる。そのうち藍と菜種とは、今日は消滅し、その代りに『深谷ねぎ』の名を以て知られるねぎ作が大いに増大したのである。
次に石高であるが、文化十五年にも天保二年にも三百八石九斗余である。文政の小割帳などにはそれは記されてないが、恐らく文政度にも同様であつたであらう。然るに、本誌二月号『通信』に御紹介したやうに、弘化及び安政年度においては、三百四拾六石余であり、『岡部陣屋事蹟』には三百八石とある。そこで私は、『これらの村高のうち何れが正しいかは、私には今俄かに決定し難い。他の旧記をも見た上でなければ、明確には言へないが、少くとも江戸時代後期については三百四十六石余と云ふのが、正しいのではあるまいか』と書いたのである。しかし、私は今文化及び天保の名寄帳によつてこの疑問が解けたやうに思ふ。即ち三百八石余といふのも、三百四十六石余といふのも、共に正しいのであるが、その年代において異なるのである。三百八石余は今知りうる限りでは文化度及び天保度の石高であり、その後弘化度までに石高が増加したものと見るべきである。或は岡部藩の租税政策等から伝統的な三百八石余を天保から弘化の間に三百四十六石余に書き替へさせたのであつたかも知れない。何れにしても増加と言つてもほとんど名目上の増加であつたであらう。それ故『江戸時代後期については三百四十六石余といふのが、正しいのではあるまいか』と記したのは誤りであつて、後期においても少くとも名目上変化があつたわけである。
四
以上で反別、石高及び人戸の推移につき述べたが、更に進んで、村民各戸の土地配分関係とそれに於ける『中の家』渋沢家の地位を見なければならない。今便宜のために各戸の持高を明暦、文化、文政、天保度につき表示すれば左の如くである。
- 第1巻 p.32 -ページ画像
明暦二年(地詰帳屋敷帳による) 文化十五年(田畑名寄帳による) 文政八年(年貢小割帳による) 天保二年(田畑名寄帳による) 瀬兵衛 田畑合 一町四畝八歩 清右衛門 田畑合 五反五畝 半兵衛 田畑合 六反四畝十五歩半 半兵衛 田畑合 五反三畝二十歩半 所左衛門 同 一町三反七畝廿八歩半 新蔵 同 四反四畝二歩半 新蔵 同 四反六畝廿一歩半 新蔵 同 七反三畝廿八歩半 三九郎 同 四町三反九畝十一歩 嘉兵衛 同 六反四畝 重次郎 同 四反二歩半 重次郎 同 四反一畝八歩半 平左衛門 畑合 一町二反五畝廿五歩半 九右衛門 畑合 三反二畝五歩半 九右衛門 畑合 二反四畝五歩 九右衛門 畑合 二反三畝八歩半 弥之兵衛 田畑合 四町八反一畝廿二歩 金右衛門 田畑合 一町五反八畝十五歩半 金右衛門 田畑合 一町七反三畝廿一歩半 金右衛門 田畑合 二町一反八畝十七歩 義左衛門 同 一町一畝四歩半 八十七 畑合 七反五畝十七歩 八十七 畑合 八反六畝十七歩 佐重郎 畑合 六反九畝一歩 勘兵衛 同 二町一反三畝廿六歩半 孫兵衛 畑 十五歩 孫兵衛 畑合 九畝十二歩半 孫兵衛 同 二反三畝廿六歩 五右衛門 畑合 五反七畝五歩半 源内 畑合 一反八畝廿三歩 仙太郎 田畑合 七反七畝廿三歩半 忠助 畑合 一反三畝二歩半 助左衛門 田畑合 一町六反四畝十二歩 忠吉 畑 六畝 文蔵 田畑合 一反五畝十六歩 熊次郎 畑合 八畝十二歩半 市左衛門 畑合 一町六畝十五歩 仙太郎 田畑合 七反九畝一歩半 伝右衛門 畑合 一反一畝十八歩半 伝右衛門 畑合 一反二畝六歩 孫四郎 田畑合 三町三反十六歩半 文蔵 同 一反九畝廿八歩半 八五郎 田畑合 三反九畝十五歩 八五郎 田畑合 三反七畝十四歩 久右衛門 畑合 一町四畝十八歩半 勝右衛門 同 四反十七歩半 仙蔵 畑合 二反三歩 仙蔵 畑合 四畝 文右衛門 田畑合 八反四畝九歩半 八五郎 畑合 三反九畝十五歩 惣右衛門 田畑合 一町一反三畝二歩 喜助 田畑合 八反三畝九歩半 長兵衛 畑合 三反六畝十四歩半 仙蔵 同 二反一畝二歩 金次郎 同 四反三畝廿四歩 惣右衛門 同 一町四反四畝廿三歩 長左衛門 田畑合 二町歩 惣兵衛 同 九畝廿六歩 平左衛門 同 九反四畝廿七歩 金次郎 畑合 八畝三歩半 ○ 三右衛門 同 一町三反三畝五歩 平左衛門 同 八反七畝十一歩 市郎右衛門 同 八反二畝十九歩 惣右衛門 同 六反八畝 庄兵衛 同 五反一畝十八歩 三右衛門 田畑合 一町二畝八歩 勘右衛門 同 一町一反一畝十二歩 長之輔 屋舗 一畝三歩 忠蔵 畑合 九反三畝二歩 庄兵衛 畑合 四反廿七 五郎助 同 一町二反四畝十八歩 金二郎 田畑合 六反三畝廿五歩 ○ 忠蔵 同 一町一反六畝七歩 六左衛門 畑 一反九畝十二歩 平左衛門 同 九反四畝廿七歩 市郎右衛門 田畑合 一町二畝廿八歩 ○ 甚右衛門 畑合 七反二畝六歩半 三右衛門 同 一町一畝廿八歩半 惣輔 同 七町二畝廿三歩半 市郎右衛門 畑合 一町二反七畝八歩 徳右衛門 田畑合 一町四反九畝九歩 八右衛門 同 八反四畝十七歩半 善八 同 五反九畝十七歩半 宗助 田畑合 六町二反九畝十三歩 以下p.33 ページ画像 孫兵衛 同 四反二畝十七歩 兵左衛門 畑合 九反四畝廿八歩 伊兵衛 畑合 二反九畝八歩半 善八 同 六反十歩 ○ 権右衛門 同 一町三反七畝二歩半 市郎右衛門 田畑合 一町二畝廿八歩 新右衛門 田畑合 六反八畝十歩半 伊兵衛 畑合 三反七畝十七歩 兵左衛門 同 五反八畝十八歩 惣輔 同 五町七反一畝十七歩 吉松 同 五反一畝十八歩半 新右衛門 田畑合 一町四反四畝十歩 せん 畑 一反四畝一歩半 善八 畑合 五反七畝廿五歩半 文右衛門 同 一町一反五畝一歩半 藤兵衛 畑合 二反三畝五歩半 五兵衛 畑合 五反八畝廿五歩 伊兵衛 同 二反八畝廿三歩半 竜助 同 一町五反八畝廿八歩半 市蔵 田畑合 六反十二歩半 勘左衛門 畑 三反二畝廿五歩半 新右衛門 田畑合 六反二畝廿一歩半 常七 畑合 八畝六歩 仙助 同 八反七畝廿二歩 久左衛門 畑合 五反七畝十五歩半 藤右衛門 同 七反五畝十一歩半 吉太郎 田畑合 六反五畝十五歩 常七 畑合 一反五畝五歩 喜左衛門 同 六反九畝十六歩 文右衛門 同 一町一反五畝一歩半 太吉 畑合 四反七畝廿五歩 吉太郎 田畑合 六反九畝十五歩半 竜助 同 二町二反八畝廿九歩半 伝次郎 同 一反四畝廿一歩 喜重郎 畑合 四畝歩 行説 同 三反七畝十四歩 常七 田畑合 八畝廿八歩 金蔵 畑合 四反二十歩 太吉 畑合 一反八畝廿三歩 喜重郎 畑 一反二畝廿二歩 定右衛門 同 六反一畝廿三歩半 金蔵 同 四反十歩 友七 田畑合 五反四畝八歩 忠八 田畑合 五反五畝廿一歩半 定右衛門 同 一反三畝十二歩 太吉 畑合 四反七畝廿五歩 喜助 畑合 三反二歩 熊吉 同 二反七畝十九歩 伝次郎 田畑合 四反五畝十三歩 音五郎 同 三反二畝十七歩半 音五郎 同 四反三畝十七歩 定右衛門 畑合 四反六畝十五歩半 繁八後家 同 二反七畝十五歩 繁八後家 同 一反八畝八歩半 忠八 田畑合 一町三反七畝八歩半 常右衛門 同 七反八畝廿二歩半 常右衛門 同 二反四畝歩半 助八 畑合 四反五畝一歩 金左衛門 田畑合 一町八畝廿五歩半 金左衛門 田畑合 二町一反三畝八歩半 源次郎 同 二反六畝廿八歩 長蔵 畑合 四反三畝廿七歩 吉兵衛 畑 七畝廿九歩半 繁八 同 五反九畝十一歩半 作左衛門 畑 七畝廿九歩半 長蔵 畑合 五畝七歩半 常右衛門 同 六反九畝歩半 源惣 田畑合 一町五反五畝廿二歩半 源惣 田畑合 一町五反五畝廿歩 金左衛門 田畑合 七反七畝廿九歩半 源右衛門 同 二町二反二畝九歩 源右衛門 同 二町三反五畝廿四歩半 長蔵 畑合 二反九畝廿五歩半 九兵衛 同 七反二畝九歩 友右衛門 畑合 八反四畝十九歩 佐左衛門 田畑合 二反十七歩半 友右衛門 同 七反一畝五歩半 小兵衛 田畑合 一町三反一畝十五歩 源惣 同 一町三反八畝廿八歩半 小兵衛 同 一町一反九畝十二歩 勘兵衛 畑合 一反二十歩半 源右衛門 同 一町四反三畝五歩 勘兵衛 畑合 六畝十歩 九兵衛 同 一反三畝十二歩 以下p.34 ページ画像 九兵衛 同 六反八畝廿歩半 諏訪分 同 五反五畝三歩半 諏訪分 畑合 四反六畝四歩半 武左衛門 同 一町三反八畝十五歩 叟左衛門 田畑合 三町四反五畝廿九歩 十右衛門 田畑合 二町四反二畝一歩半 佐吉 田畑合 一町二反四畝十歩 荻野七郎兵衛 畑合 一町七反一畝七歩半 七郎兵衛 畑合 六反三畝二歩 門吉 畑合 一反二畝十二歩 (横瀬村) (横瀬村) 勘兵衛 同 八畝四歩 安右衛門 畑 七畝歩 定右衛門 畑 七畝歩 諏訪分 同 五反五畝歩半 (同村) (同村) 叟左衛門 田畑合 三町六畝五歩 源右衛門 畑合 九反二畝廿二歩半 源右衛門 畑合 九反二畝廿三歩 荻野竹五郎 畑合 一町五反三畝廿二歩 (普済寺村) (普済寺村) (横瀬村) 忠兵衛 同 二反三畝十一歩半 忠兵衛 同 二反三畝十一歩半 安右衛門 畑 七畝歩 (同村) (同村) (同村) 三右衛門 畑 四畝十一歩半 三右衛門 畑 四畝十歩半 源右衛門 畑合 九反二畝廿二歩半 (上手計村) (上手計村) (普済寺村) 由右衛門 畑合 一反廿三歩 仙蔵 同 一反四畝十五歩 忠兵衛 同 二反三畝十一歩半 (横瀬村) (同村) (同村) 甚之助 同 一反一畝四歩 平蔵 同 一反一畝廿九歩半 三右衛門 畑 四畝十一歩半 (同村) (同村) (上手計村) 善兵衛 同 三畝廿四歩 由右衛門 畑合 一反廿三歩 仙蔵 同 一反四畝十五歩 (同村) (横瀬村) (同村) 善之丞 同 一反三畝十二歩 甚之助 同 一反一畝四歩 平蔵 同 一反一畝廿九歩半 (町田村) (同村) (同村) 平蔵 同 一反一畝廿九歩半 善兵衛 畑 三畝廿四歩 由右衛門 同 九畝二歩 (上手計村) (同村) (横瀬村) 仙蔵 畑合 一反四畝十五歩 善之丞 同 一反三畝十二歩 甚之助 畑合 一反一畝四歩 (同村) (町田村) (同村) 今右衛門 同 五畝廿四歩 善兵衛 畑 三畝廿四歩 (横瀬村) (同村) 磯五郎 同 五畝七歩 茂兵衛 同 三畝九歩 (下手計村) (同村) 平右衛門 同 四畝歩 (阿賀野村)
- 第1巻 p.35 -ページ画像
右の表を一瞥して直ちに知られることは、大地主少く、一町歩以下の零細なる百姓の多いことである。もし副業たとへば藍玉製造、養蚕製糸等のことを考慮に入れず、土地高だけを見れば、貧農が大多数であつたと云ふべき所である。同様の前提を以てすれば『中の家』渋沢家の如きもの一町歩内外の自作農民であつたと見做さるべきである。地主と云つても七町が最大であるから、小地主にしか過ぎない。試みに土地の所持高を六段に分けて分類すれば、左の如くなる。
年度 広狭 五町歩以上 五町歩未満―三町 三町歩未満―二町 二町歩未満―一町 一町未満―五反 五反未満 明暦 二 〇 三 二 一一 八 六 文化十五 一 一 一 九 一八 二三 文政 八 一 一 一 九 一六 二〇 天保 二 一 〇 四 七 一〇 二六
これによれば、江戸時代初期と後期にて土地の配分関係に著しい差異があることが明かにわかる。即ち明暦時代には土地の所持高が著しく平均してをり五町歩以下一町歩以上の農民が過半数を占めてゐた。之に反し、文化以後には一町歩未満の者が、五分の四ほどを占めることゝなつた。即ち、一方に土地の集中、他方に零細化が進展したのである。
かうした動きの中にあつて、『中の家』渋沢家(市郎右衛門がそれである)が、どんな推移をたどつて来たかと云へば、明暦二年においては九筆の田畑と二ケ所の屋敷を所持し、田は三畝廿五歩、上畑は三反九畝廿一歩半、中畑は五畝二歩、下畑は二反五畝十歩半、屋敷は、八畝廿歩、屋敷田畑を合し、八反二畝十八歩を所持されてゐた。当時は一町歩以上の者が多かつたので、同家は、三十戸中二十一番目の他位にあつた。当時農耕が主であつたであらうから、江戸時代初期の同家は一小農家であつたと考へられる。
百六十年を経た文化十五年においては、十五筆の田畑と一ケ所の屋舗とを、即ち
屋舗八畝五歩
開崩三畝廿九歩
田五畝七歩
上畑合三反七畝七歩
中畑合壱反六畝弐拾五歩
下畑合弐反八畝八歩
下々畑三畝七歩
田畑合壱町弐畝弐拾八歩
を所持してゐた。
七年を経た文政八年には、筆数は不明であるが、次の反別を所持した。
一 屋敷八畝五歩
一 藪崩三畝廿九歩
一 上(畑)三反七畝七歩
一 中(畑)一反六畝廿五歩
- 第1巻 p.36 -ページ画像
一 下(畑)二反八畝八歩
一 下々(畑)三畝七歩
一 田五畝七歩
一 大林一反一畝四歩
田畑合一町二畝廿八歩
文化十五年のそれと同じである。ただ相違は大林なるものが加へられてあることであるが、それは計算に入れられてない。この大林なるものについては、後に述べることゝしよう。
それより更に六年を経たる天保二年においては、二十四筆の畑と一筆の屋舗とを所持した。即ち
屋敷九畝弐歩
藪崩四畝廿歩
上(畑)四反八畝拾壱歩
中(畑)壱反六畝廿五歩
下(畑)三反六畝拾七歩
下々(畑)壱反壱畝廿三歩
畑合壱町弐反七畝八歩
となつてゐる。こゝでお断りしておかなければならないが、田畑合或は畑合とあつても、屋敷の反別をも含めた意味である。
以上の四回を比較すると、総計において明暦より文化文政が二反十歩増し、文化より天保が二反四畝十歩を増してゐる。地種の各々について見るに、屋敷については大差なく、八畝乃至九畝であり、田は明暦、文化、文政において四、五畝内外で全体として甚だ少く、しかも天保においては無くなつてゐる。いづれにしても渋沢家の耕地中主要なものは畑で、それが漸増してゐるわけである。明暦より文化に至る六十年間の盛衰のことはわからないが、恐らく、大なる変化なく、十代ほどを経たものと思はれる。文化、文政度においても田畑を合せても一町歩に五畝ほど足りず、天保において畑一町二反弱となつたのである。この文化、文政及び天保の初年は、云ふまでもなく、青淵先生の祖父君の時代であつた。この祖父君については先生はあまり多くを語つて居られないが、『雨夜譚会談話筆記』の中に、「瘤が出来てゐたのでよく瘤の祖父さんと云つた。……祖父さんは百姓育ちで文学等の特殊な趣味などは何もない誠に好人物であつた。家政は不如意で、貧乏と迄は行かなかつたけれども、裕福ではなかつた。」といふ談話がある。この好人物の祖父君も必ずしも家を衰へさせた人でなく、少しではあるが、畑を増加した人であつたのである。しかもこの時代に既に藍玉製造をもして居られるのである。青淵先生の父君晩香翁の時代に家運は大いに盛んとなつたのであるが、それがために祖父君の影が薄い傾きがある。それ故私は、祖父君のときにも幾分でも畑の増加のあつたことを特に指摘しておき度いのである。
さて天保二年の名寄帳については、なほ注意すべきことがある。
その一はこの名寄帳の末尾に『大林名寄』なるものがあることである。市郎右衛門分は二筆で、一反一畝四歩である。大林については今明かでないが、それは文政八年の『小割帳』にも現はれてをり、田畑
- 第1巻 p.37 -ページ画像
と合算せられないことを以て見れば、山林地であつたと思はれる。
その二は市郎右衛門家の所持地の所にも貼紙と書入れがあることである。前に挙げた第三行目『上四反八畝拾壱歩』の所には『上六反四畝五歩半』と貼紙され、第四行目『中壱反六畝廿五歩』の所にも『中六反四畝九歩』と貼紙され、第六行目の『下々壱反壱畝廿三歩』には書入れ訂正があり、『下々壱反六畝廿五歩』となり、従つて合計の所も『畑合壱町弐反七畝八歩』の上に『畑合壱町九反拾六歩半』と貼紙され、その貼紙の上に更に書入れ訂正があつて、『畑合壱町九反五畝拾八歩半』となつてゐる。
これらの貼紙や訂正が、何年度になされたものかは明記されてないが、他の所には天保、弘化、嘉永、安政度の土地の質入れ、譲渡の書入れがあり、最も新しいのは安政七年(万延元年)のそれがある。之を以て見るに、この名寄帳は安政末年まで用ひられたものであつて、それまでの土地の移動は全部記されたものと思はれる。それ故に市郎右衛門家の所持高に対する貼紙及び書入れも、天保二年以後安政七年までの土地増加を示したものであらうと思ふ。その増加は畑のみで七反八畝十歩半であるから、中の家渋沢家にとつては空前の増加であつたのであらう。ところが、この時代は即ち先生の父君晩香翁が聟入りされた以後のことである。何となれば晩香翁の聟入りはおそくとも天保四、五年のことであるから。かくの如く、晩香翁の時代となつて先生の家は畑においても増加があり、なほ藍玉製造販売業も盛大となり、村方二番の富豪とまでなつたのである。
以上の推定の如く、畑合一町九反五畝十八歩半が安政七年までの状況であるとすれば、即ち先生二十一歳までの状況で、先生はその三年後に出郷せられたのであるから、大体以上の高が先生在郷時代の渋沢家の所持高であつたといふことができるであらう。なほ考へなければならぬことは、先生は十五、六歳以後家業にも勉励されたのであるから家運の隆盛、所持高の増大には、先生の勉励も亦与つて力あつたといふことである。
五
私は以上で『中の家』渋沢家の江戸時代における、特に先生在郷時代における所持高を明かにしたが、なほ若干附け加へて御紹介しておき度いことがある。
其一は、あまりに細いことにわたるやうであるが、知られる各年代において『中の家』渋沢家の所持地各筆が何処にあつたかといふことである。尤も精確にその場所を指摘することは出来ないが、その所在した地番や字の名は判るのである。先づ明暦二年当時においては左の如くであつた。
川はた
三十間四尺 下畑一反廿一歩半
十間半
同所
二十九間 下畑一反二畝廿一歩
十三間一尺
あかのさかい
六間半 田十六歩
二間半
- 第1巻 p.38 -ページ画像
同所
四間半 田一畝十三歩
九間半
川はた
十四間半 下畑一畝二十八歩
四間
同所
七間半 田一畝廿六歩
七間半
やしきのまへ
二十一間半 上畑二反四畝廿二歩
三十四間半
同所
廿五間五尺 上畠七畝歩
十三間二尺
同所
十三間二尺 上畑七畝二十九歩半
十八間
同所
七間四尺 中畑五畝二歩
廿間
廿三間
屋敷八畝二十歩
十一間二尺
文化十五年の名寄帳には次の如く列記される。
拾七番
一 屋舗八畝五歩
同
一 開崩三畝弐拾九歩
同
一 田五畝七歩
四拾七番
一 上畑八畝弐拾歩 字曲木
六拾五番
一 上畑弐反弐畝七歩
七拾壱番
一 上畑六畝拾歩 墓所居所前ニ而
弐拾八番
一 中畑壱畝拾六歩 字曲木下ノ淵南
百四拾弐番
一 中畑八畝拾四歩 字本庄通北
百四拾五番
一 中畑六畝弐拾五歩 字同所
五拾九番
一 下畑八畝九歩 字中川原
七拾弐番
一 下畑壱反歩 字同所
五番
一 下畑弐畝六歩 字田端
七番
一 下畑壱畝弐拾五歩 同所
同番
一 下畑壱畝弐拾八歩 同所
八拾番
- 第1巻 p.39 -ページ画像
一 下畑四畝歩 字上荒勺
四番
一 下々畑三畝七歩 字向荒勺
天保二年の名寄帳も次の如く列記する。
一 屋敷九畝弐歩
一 藪崩四畝廿歩
四拾五番之内
一 上壱反弐畝歩 曲木
四拾九番之内
一 上八畝四歩 同
六拾七番之内
一 上弐反弐畝七歩 新右衛門前
七拾参番之内
一 上六畝歩 居所前
三拾番之内
一 中壱畝拾六歩 曲木
百四拾弐番之内
一 中八畝拾四歩 本庄道添
百四拾五番
一 中六畝廿五歩 西久保
五番之内
一 下弐畝六歩 田端
七番
一 下壱畝廿五歩 田ニ成
八番
一 下壱畝廿八歩 同
四拾弐番
一 下四畝七歩半 孫兵衛東
五拾九番
一 下壱反弐畝拾歩半 同
七拾弐番之内
一 下壱反歩 向河原後
八拾番
一 下四畝歩 上荒勺
六拾四番
一 下々八畝拾六歩 同
四番
一 下々三畝七歩 向荒勺
四拾七番
一 上壱反五畝廿四歩半 曲木
廿九番之内
一 中壱反弐畝四歩半 同所
三拾三番
一 中壱反七畝廿弐歩半 同所
- 第1巻 p.40 -ページ画像
三拾三番《(マヽ)》
一 中壱反七畝廿弐歩半 曲木
三拾四番之内
一 中壱反壱畝拾壱歩 同所
百五拾番之内
一 中壱反三畝壱歩 諏訪久保
拾七番之内
一 下々五畝弐歩 下荒勺
八十五番
一 下々弐畝拾弐歩 上荒勺葭野畑
其二は、『中の家』渋沢家の納めた年貢高についてである。その資料としては、文政八年の『当酉御年貢小割帳』と弘化三年の『午御年貢皆済帳』とがある。前者には市郎右衛門家の分として左の如く割り付けられてある。
一 屋敷八畝五歩 市郎右衛門
取百四十四文四分
一 藪崩三畝廿九歩
取五十二文九分
一 上三反七畝七歩
取七百十八文五分
一 中壱反六畝廿五歩
取三百八文
一 下弐反八畝八歩
取四百八十八文五分
一 下々三畝七歩
取五十二文六分
一 田五畝七歩
取九十五文七分
一 大林壱反壱畝四歩
取六十六文八分
〆壱貫九百廿七文八分 口 五拾七文八分
二口〆壱貫九百八拾五文六分
此金壱両三分弐朱と百拾文六分
田畑合壱町弐畝廿八歩
後者には、反別は記さず、金高のみを左の如く記す。
一 金三両弐分弐朱ト百拾四文三分 市郎右衛門
弐百拾五文弐分 夫金
〆金三両三分弐朱ト七拾九文五分
内金三両弐分夏納秋納引
引〆金三分弐朱ト七拾九文五分
両者を比較するに、およそ二両に近い年貢金の増加である。この増加は即ち『中の家』の所持地高の増加を反映するものに外ならないが、同村の他の家の貢納高と比較すれば、如何なる地位にあつたか。
- 第1巻 p.41 -ページ画像
それを明かにする為には、同村各戸の納租高を表示する必要がある。左に掲ぐるものは文政八年及び弘化三年のそれであるが、前者には銭高(貫、文)と金高(両、分、朱)との換算が出てゐるからそれをも表示する。
文政八年年貢小割帳による 弘化三年年貢皆済帳による 半兵衛 一貫一九一文七分 一両二朱六六文七分 半兵衛 一両ト一〇一文九分 新蔵 九三七文 三分二朱五七文四分 新蔵 一両二分ト九七文三分 重次郎 七七五文 三分二五文 重次郎 三分二朱ト三七文四分 九右衛門 四七四文一分 一分二朱九九文一分 栄蔵 一分二朱ト五五文四分 金右衛門 三貫五四文七分 三両五四文七分 金右衛門 三両二分二朱ト一二一文四 八十七 一貫五五八文七分 一両二分五八文七分 佐十郎 一両一分ト八六文九分 孫兵衛 一五八文七分 二朱三三文七分 幸七 一分二朱ト一九文七分 仙太郎 一貫四一一文九分 一両一分二朱三六文九分 孫兵衛 一分二朱ト七五文六分 文蔵 二八〇文 一分三〇文 喜助 一両二分ト六一文二分 伝右衛門 三三二文六分 一分八二文六分 忠助 一分二朱ト八七文八分 八五郎 七八二文三分 三分三二文三分 熊次郎 二朱ト三七文四分 仙蔵 三六七文一分 一分一一七文一分 伝右衛門 二朱ト一一〇文 惣右衛門 二貫七四文六分 二両七四文六分 八五郎 三分ト五二文五分 金次郎 六八六文六分 二分二朱五六文六分 仙蔵 七七文三分 平左衛門 一貫八〇〇文七分 一両三分二〇文七分 直次郎 二両一分二朱ト七二文七分 三右衛門 二貫五五六文三分 二両二分五六文三分 金次郎 二朱ト八〇文七分 庄兵衛 一貫一四文四分 一両一四文四分 平左衛門 一両三分ト九八文 忠蔵 一貫七五二文五分 一両三分二文五分 三右衛門 二両三分ト四一文四分 ○市郎右衛門 一貫九八五文六分 一両三分二朱一一〇文六分 房五郎 三分ト一一八文二分 惣輔 一三貫四二九文九分 一三両一分二朱五四文九分 栄吉 二両一分ト五〇文二分 善八 一貫一〇七文九分 一両一〇七文九分 善八 一両一分ト九七文九分 伊兵衛 五三三文六分 二分三三文六分 伊兵衛 二分ト六六文二分 新右衛門 一貫三〇三文三分 一両二分一八文三分 新助 二両二分二朱ト三八文 吉松 九八九文七分 三分二朱一一四文七分 吉松 二分二朱ト一二一文六分 文右衛門 二貫二二七文五分 二両二朱一〇二文六分 市蔵 一両二朱ト一一五文六分 竜助 二貫八六九文九分 二両三分一一九文九分 長兵衛 三両二分二朱ト一二三文二分 常七 二七三文三分 一分一〇三文三分 吾助 二両一分ト五六文四分 吉太郎 一貫二〇四文四分 一両二朱七九文四分 常七 二朱ト一〇四文三分 太吉 八六九文九分 三分一一九文九分 喜平治 一両一分二朱ト一〇文七分 伝次郎 二九〇文六分 一分四〇文六分 喜重郎 二朱ト四九文 金蔵 一貫五九文五分 一両五九文 勘五郎 八六文八分 定右衛門 一貫一二五文九分 一両二朱三文九分 源左衛門 一分ト一〇三文五分 忠八 一貫五〇文 一両五〇文 金蔵 三分ト七七文二分 喜助 五三一文 二分三三文 藤太郎 一分ト三文九分 音五郎 六四五文七分 二分二朱一〇〇文七分 忠八 三八文六分 繁八後家 五一二文四分 二分一二文四分 音五郎 二分二朱ト七二文三分 常右衛門 一貫五〇一文三分 一両二分一文三分 繁八 一分ト九八文二分 金左衛門 一貫九八二文四分 一両三分二朱一〇七文四分 嘉七 一分二朱ト八八文九分 長蔵 一貫四八文五分 一両四八文五分 金左衛門 三両二分二朱ト一一九文一分 佐左衛門 二一八文六分 二分九五文六分 長蔵 一〇二文五分 源惣 二貫九八二文九分 両三分二朱一〇七文八分 吉兵衛 二朱ト一一四文四分 源右衛門 三貫九四〇文九分 三両三分二朱六五文九分 惣兵衛 九九文 九兵衛 一貫貫[衍字]八二文 一両一分二朱七文 諏訪堂 一分ト二四文八分 以下p.42 ページ画像 友右衛門 一貫四四二文一分 一両一分二朱六七文一分 鎮守奉納畑 三分ト七九文一分 小兵衛 二貫二〇二文一分 二両二朱七七文一分 土取(村持) 六六文三分 勘兵衛 三二九文四分 一分七九文四分 ○市郎右衛門 三両三分二朱ト七九文五分 諏訪分 二五八文六分 村中ヨリ弁金 幸之助 三両二朱ト四四文四分 叟左衛門 六貫五八八文二分 六両二分八八文二分 源右衛門 五両二分ト九四文四分 荻野七郎兵衛 三貫二〇六文七分 三両二朱八一文七分 孫右衛門 一両三分二朱ト七八文一分 (横瀬村) 権右衛門 六九文六分 安右衛門 一一七文五分 ― 友右衛門 三両一分二朱ト二二文八分 (同村) 小兵衛 二両三分ト二文 源右衛門 一貫八一一文七分 一両三分六一文七分 十右衛門 四両二朱ト三一文二分 (普済寺村) 渋沢宗助 一一両三分ト二七文三分 忠兵衛 四二二文八分 一分二朱四七文八分 荻野七郎兵衛 二両二分ト二六文五分 (同村) (横瀬村) 三右衛門 八一六文四分 ― 源右衛門 一両三分二朱ト三九文一分 (上手計村) (普済寺村) 由右衛門 一八七文八分 二朱六二文八分 粂八 九一文四分 (横瀬村) (上手計村) 甚之助 一八六文八分 二朱六文八分 由右衛門 二朱ト六九文 (同村) (横瀬村) 善兵衛 六三文七分 ― 甚之助 二朱ト七四文一分 (同村) (同村) 善之丞 二三一文六分 ― 丑右衛門 六八文 (町田村) (同新田) 平蔵 二三八文五分 二朱一一三文五分 金左衛門 一〇三文七分 (上手計村) (同村) 仙蔵 二八八文三分 一分三八文三分 善之丞 一分ト三一文一分 (同村) (町田村) 平左衛門 七六文三分 (北阿賀野村) 佐右衛門 七二文三分 (南阿賀野村)
右表に示されたやうに、文政八年においては『中の家』渋沢家年貢は村民中第十番目の納め高であつたが、弘化三年には第四番目となつてゐる。しかしこの順位は必ずしも富の順位を正確に示すものではなかつた。何となれば、年貢は所持高に対するものであつて、富の程度そのものに対するものでなかつたからである。言ひ換れば富の一部分に対するものである。富の順位については青淵先生自ら雨夜譚に『自分が十六七才の頃よりして……、頻りに家業に勉強したから、家道も追々と繁昌になつて来ました。殊に父は常に家業を大切に、丹精を尽されたから、村の中では相応の財産家と謂はれる程になつて、第一は宗助が物持ちで、其次は市郎右衛門だと近郷近在の評判であつた。商業の外に、少しは質も取り金も貸すといふ業体も取扱ひました。』と言はれてゐるやうに、村方第二の家であつたのである。
かくの如く、『中の家』渋沢家の資産は主として藍商によつて作り上げられたものであつて、農家としては決して大地主でなく、二町歩足らずの小地主であつたのである。そして、その小地主としての年貢高は以上の如くであつたが、領主が先生の家に課した負担は単にそれのみでなかつた。商業による富に対しては『御用金』を課した。それについては先生が雨夜譚に語られ周知のことであるから、ここに述べる必要はない。
其三は、『中の家』渋沢家も加入してゐた『相続懇意講』についてである。嘉永二年己酉十二月吉日と日附のある『相続懇意講御連名帳』を見ると、それは頼母子講であつた様である。会主は吉岡幸之助、笠原金右衛門、笠原源右衛門の三名、引請世話人は渋沢宗助、吉岡友右衛門、吉岡権右衛門、吉岡小兵衛、吉岡直次郎の五名である。壱
- 第1巻 p.43 -ページ画像
口金弐両二分掛けで、口数三拾弐口、寄金八拾両、内五両割返し、五両会料、手取金七拾両といふ相当大規模な頼母子講であつた。
それ故、凡ての村民が加入してゐるのではなく、重立つた人々のみが加入してゐる。村方では渋沢宗助が二口、吉岡友右衛門、同小兵衛、同直次郎、渋沢市郎右衛門、同長兵衛、同孫右衛門、広瀬屋初五郎が各一口、福島金左衛門、渋沢新助、林音五郎、渋沢善八、吉岡半兵衛、同新蔵、吉岡平左衛門が各半口づつ加入してゐる。他村民では横瀬村荻野七郎兵衛が二口、上手計村児玉友二郎、下手計村橋本友右衛門、町田村今井紋七、横瀬村三友善治郎、下手計村尾高幸五郎、成塚村河田弥左衛門、高畑村大沢新左衛門、滝瀬村福地六之丞、横瀬屋友四郎が各一口、宮戸村堺野定八、同新右衛門、町田村岩崎小四郎、横瀬村荻野八郎左衛門、阿賀野村小暮善右衛門、飯塚伊助、中瀬村西田佐右衛門、横瀬村三友又右衛門、北阿賀野村橋本三左衛門、同貞八、上手計村新井甚助、下手計新田松村紋次郎、初島村塚越幸右衛門、横瀬村荻野作右衛門 同村同重五郎が各半口である。『中の家』渋沢家は『安政二年三月十七日当り』となつてゐる。
この連名帳について注意すべきことは、普通の農村の頼母子講に比して金額が大きいことが一つである。それはこの地方に養蚕農家や藍玉商が多く、富の程度の高かつたことを語るものであらう。今一つ注意すべきことは、各村民が苗字を明かに記してゐることである。恐らく凡ての人が苗字帯刀御免の家柄であつたとは思はれぬが、私の文書には苗字をも記す慣例があつたものと解すべきであらう。
其四は、元禄以後明和までの検地帳についてである。尤もいづれも本田畑のそれではない。先づそれらを列挙しよう。
一、元禄五年 武蔵国榛沢郡血洗島村干上検地帳
二、元禄九年 干上り開発畑改帳
三、正徳二年 血洗島村藪崩畑旱上畑改帳
四、享保二年 血洗島村新畑開発改帳
五、享保十二年 葭地開発反別改帳
六、寛延二年 武蔵国榛沢郡血洗島村藪崩畑帳
七、明和四年 岡部大林拾九之割左近山血洗島村江割渡帳
右のうち一より六までは、元禄以後の開発地特に畑地の検地帳で一における畑合計、六町五反五畝十二歩半、二のそれは畑一町二反一畝廿二歩、三のそれは畑八畝十八歩、四のそれは畑一反九畝廿八歩、五のそれは畑一町四反四畝二十五歩半、六のそれは畑八反五畝歩、七のそれは林四町三反十三歩である。これが明暦から文化までの間における開発畑の全部であるか否かは明かでないが、前に述べたやうに明暦に比較して文化の増加は、五町歩弱であるから、このうち幾分の荒廃地が出来たことが想像されるであらう。
これらのうちで、市郎右衛門の名の出るのは、六と七であるが、六においては藪崩畑一筆三畝廿九歩、七においては二筆九畝廿三歩が市郎右衛門分となつてゐる。六のそれも七の分も前に述べた名寄帳などに記入せられてあつたものであるが、その起りがこれらによつて判るのである。
- 第1巻 p.44 -ページ画像
六
私は以上で今回入手した旧記類の紹介及び分析を一応試みたつもりであるが、先生の剣道稽古の事及び先生の御生家の農家としての推移等を大体つかむことができたのは欣快に堪えない。
以上のほかにも紹介すべきことは多いが、今回はこれに止めて他日を期することゝしよう。
(昭和十二・四・一二)
竜門雑誌 第五八八号・第一―一三頁〔昭和一二年九月〕
血洗島村の幕末租税関係資料について(土屋喬雄)
一 はしがき
青淵先生伝記資料編纂所において先生の誕生地である血洗島村の幕末の情勢を今少しく掘下げて調査する必要を感じ、今まで数次にわたつて旧記古文書の探索を試みた。その若干については既に本誌に数回にわたつて紹介しておいたが、今回更に数多の貴重なる資料を見出すことができた故、その若干について紹介しておきたいと思ふ。
今までに紹介した資料は大部分渋沢治太郎氏所蔵或は吉岡平三郎氏所蔵の分であつたが、七月下旬血洗島へ行つて拝借して来たものは、八月号の編纂所通信にも書いた通り、大部分は諏訪神社に保管されたもので、一部分が吉岡平三郎氏所蔵のものである。諏訪神社保管のものゝうち、今までに他で見ることのできなかつたのは年貢関係の公文書であるが、これは徳川時代の村の事情を知るために非常に重要なものである。吉岡平三郎氏所蔵のものゝうち重要なのは、血洗島村に関する助郷関係文書である。同村助郷関係文書は筆者も数年前某書肆で偶然見出し、購入しておいたものがある。両者を照合して血洗島村の助郷関係が明かにせられるのである。この紹介文では、これらの諸資料につき少しく紹介してみたいと思ふ。
二 血洗島村割付状の考察
第一に紹介したいのは、血洗島村の「御年貢可納割付之事」である。これは割付状、免状とも言はれるもので今日の徴税令書に相当するものである。尤も相当すると言つても、種々の点において両者の間に大なる相違のあることに注意しなければならぬ。
相違点の一は、今日の徴税令書と異つて、個人に対して命令されるのではなく、村に対して命令される点である。周知のやうに、旧幕時代において村は、種々の点において共同的であり、また連帯責任をもつてゐた。租税についても村に対して賦課せられ村として納付したのである。もし村民中年貢を納め得ないものがあれば、親類、五人組が代つて納付する連帯責任を負ひ、親類や五人組も代つて納付し得ないときは、村が代つて納付したのである。尤もこの場合、納め得ない村民の分を常に親類、五人組、村が無償で立替へるのではなく、原則として納め得ない者が土地其他のものを質に入れ或は抵当に入れ、米金を借りて納めたのである。しかし、場合によつては村民が村から夜逃げをして了ふこともあり、一家の働き手が急に死んだり、一家族が死
- 第1巻 p.45 -ページ画像
に絶えて了ふといふこともないではない。かうした際には村が全く無償で納税をしなければならない。かゝる制度であつたために、旧幕時代には割付状は村に対して交付され、村民が全部立会ひ、甲乙なく、即ち各村民の持高に応じ按分して公平に各村民に割付け、之を名主において取りまとめて納めたのである。
次に紹介するやうに、血洗島村の割付状は、文久二年から明治六年までの分があり、その間明治五年の分が欠けてゐる。明治四年までの分はいづれも「御年貢可納割付之事」となつてゐて、その上に干支が冠せられてある。明治六年の分は「癸酉租税上納割付帳」となつてゐて、名称も内容も変化してゐるが、実質において割付状と同じものである。ところが明治七年の「戌御租税引合帳」や「戌御租税小割帳」となると性質が違つて来て、村に対して割付けるものでなく、各村民の負担額を記すに過ぎないものとなつてゐる。周知のやうに、明治六年から地租改正が行はれて、明治七年には租税制度は変化してゐるのである。
相違点の二は、課税標準等において大なる相違のあることである。それも租税制度の特徴から来てゐることは、云ふまでもない。今日の地租は賃貸価格に対して課せられ、明治六年の地租改正から賃貸価格に改正される迄は、地価(法定地価)に対して課せられたのであつた。然るに、地租改正以前、詳しく言へば豊臣時代、徳川時代及び明治六年までは石高を課税標準としたのである。それ故割付状には先づ村の石高が明記されるのである。血洗島村の石高については、私は前々から考証を記した。本誌本年二月号の「編纂所通信」や本年四月号の「青淵先生の血判入門書其他旧記について」においてこれを述べたが、肝腎の幕末の割付状を見ることができなかつたために、幕末については決定的な断定ができなかつた。が、今度幕末の割付状を見るに及んで石高の問題は殆んど全く解決されたのである。即ち少くとも文化年代以降明治四年までは、公称石高は、三百八石九斗三升八合であつたのである。弘化四年及び安政四年の「御用留」にそれぞれ三百四十六石六斗九升九合、三百四十六石二斗九升五合とあり、「八基村郷土史」七八頁に石高三百四十六石二斗九升五合とあるのは、如何なる根拠によるものか明かでないが、公文書に記された公称でなかつたと考へるべきであらうと思ふ。
石高の次には各地種毎に反別が記され、「此取永」として各地種毎に年貢金が記され、反当り年貢金も記されてゐる。血洗島村の年貢金合計は、左の如くである。
文久二年 永八三貫八九七文五
同三年 永八三貫九五四文六
元治元年 永八四貫二七五文七
慶応元年 同
同二年 同
同三年 同
明治元年 同
同二年 同
- 第1巻 p.46 -ページ画像
同三年 同
同四年 永八四貫三九九文七
同六年 一六三円七七銭一厘
文久二年より元治元年まで三年間少しづゝ年々増加し、元治元年以降明治三年まで、七年間は全く動かず、明治四年に少しく増加してゐる。明治五年の分がないのは遺憾であるが、同六年には、円銭厘勘定となつてゐる。四年と六年との増減は遺憾ながら明かでないが、六年は五年より幾分の増加となつてゐることは、後に掲げる六年の割賦帳中の記載によつて察せられる。
次に注意すべきことは年貢が金納であることである。徳川時代の年貢は一般には米納が主であつたと言はれてゐる。だが、私の知り得た限りでは、幕府の天領では金納の地方又は、部分的に金納であつた地方が少くなかつた。ことに畑地については金納がむしろ多かつたやうに思はれる。私領でも関東、関西など大都会に近い村では金納の多かつた藩は少くなかつたやうである。血洗島村は、周知のやうに、安部摂津守の領地で私領であるが、畑方は勿論田方も金納化されてゐる。尤も田方については「但見取之節石代金壱両ニ付壱石替」とあつて、石代納であるが、畑方は純粋の金納である。そして田方は文久二年「反百八十六文取」、文久三年以降「反百九十一文取」であり、上畑は「反百九十三文取」、中畑は「反百八十三文取」、下畑は「反百七十三文取」、下々畑は「反三十五文取」、屋敷は反「百七十七文取」、藪発の一は反二百九文取、藪発の二は、反百七十三文取、林銭は反六十六文取といふ税率となつてゐる。この点で注意すべきは、田方の税率が上畑以下で中畑との中間に位するに過ぎないことである。周知の如く、徳川時代においては田方は一般に畑方よりも税率が高くなつてゐる。それにも拘らず、血洗島村において田方が上畑よりも税率が低くなつてゐるのは、田の位が悪かつたゝめであらうと思ふ。屋敷に対する年貢金も低率でないことも注目すべきことであらう。
大体以上のやうな相違が、今日の徴税令書と旧幕時代の割付状との間にあるわけであるが、解説はこれに止めて、次に文久元年の「当戌御年貢可納割付之事」を揚げ、文久三年以後明治四年までの分は、相違点のみを指摘し、明治六年の分は全体として形式上大変更ある故、全部を掲げる。下に(1)(2)等々数字を入れたのは、勿論筆者の入れたもので、文久三年以後の分の相違点を指摘する便宜のためのものである。
当戌御年貢可納割付之事
武州榛沢郡
一高三百八石丸斗三升八合 血洗島村 (1)
此反別四拾四町弐畝拾歩半 (2)
壱町三反壱畝拾七歩 田方 (3)
四拾弐町七反廿三歩半 畑方 (4)
此訳
去ル丑ヨリ当戌迄拾ケ年季 (5)
本田壱町三反壱畝拾七歩 但 見取之節石代金壱両ニ付壱石替 (6)
内弐反廿弐歩 巳ヨリ水深荒地引 (7)
- 第1巻 p.47 -ページ画像
但去ル巳ヨリ来ル亥迄七ケ年季 (8)
残壱町壱反廿五歩 (9)
此取永弐貫六拾壱文五分 反百八拾六文取 (10)
上畑拾町三反三畝廿八歩 (11)
内壱畝壱歩 前々悪水落堀敷引 (12)
残拾町三反弐畝廿七歩 (13)
此取永拾九貫九百三拾五文 反百九拾三文取 (14)
中畑八町壱畝四歩半 (15)
壱反歩 諏訪免引 (16)
内
弐畝六歩 前々悪水落堀敷引 (17)
小以壱反壱畝六歩 (18)
残七町八反八畝廿八歩半 (19)
此取永拾四貫四百三拾七文八分 反百八拾三文取 (20)
下畑拾五町弐反七畝壱歩 (21)
内訳
拾五町弐反五畝壱歩 (22)
五反九畝拾五歩半 前々悪水落堀敷引 (23)
内 三畝拾三歩 巳ヨリ諏訪免引 (24)
小以六反弐畝廿八歩半 (25)
残拾四町六反弐畝弐歩半 (26)
此取永弐拾五貫弐百九拾四文 反百七拾三文取 (27)
弐畝歩 取下 (28)
此取永七文 反三拾五文取 (29)
下々畑五町弐反九畝拾六歩半 (30)
内訳
五町壱反廿八歩半 (31)
此取永八貫三百弐拾八文五分 反百六拾三文取 (32)
壱反八畝拾八歩 取下 (33)
此取永六拾五文壱分 反三拾五文取 (34)
屋舗三町七反九畝三分半 (35)
此取永六貫七百七拾文四分 反百七拾七文取 (36)
合取永七拾六貫八百三拾九文三分 (37)
外
一藪発二反六畝二拾六歩 (38)
此取永五百六拾一文五分 反二百九文取 (39)
一藪発八反五畝歩 (40)
此取永一貫四百七拾文五分 反百七拾三文取 (41)
一永二貫五百八拾二文六分 百姓林銭 (42)
此反別四町三拾三歩 反六拾文取 (43)
一永二貫四百四拾三文六分 口永 (44)
但永百文ニ付三文宛 (45)
納合永八十三貫八百九十七文五分 戌納辻 (46)
- 第1巻 p.48 -ページ画像
右者当戌御取箇書面之通相極条名主組頭惣百姓立会無高下令割賦来ル霜月限リ急度可皆済若於令遅滞ハ以譴責可申付者也
望月太輔(印)
若森正作(印)
文久二戌年十月 (47)
出役無印 春名金左衛門
向作之進(印)
右村
名主
組頭
惣百姓
(右の裏書)
表書之通無相違可皆済者也
朝倉只之進(印)
(48)
豊泉善左衛門(印)
文久三年亥年のそれは、(5)において「当亥ヨリ来ル申迄十ケ年季」となり、(10)において
此取永弐貫百拾六文九分 反百九拾壱文取
内永五拾五文四分免上増 内永五文当亥増
となり、(37)において
合取永七拾六貫八百九拾四文七分
内永五拾五文四分 免上去戌増
となり、(44)において
一永弐貫四百四拾五文三分 口永
内永壱文七分去戌増
となり、(46)において
納合永八拾三貫九百五拾四文六分 亥納辻
内永五拾七文壱分 去戌増
となり、(47)において春名金左衛門の代りに春名三太夫(印)が入つてゐる点で、相違がある。
元治元年子年の分が文久二年のそれと異なる点は左の如くである。
一、(5)を欠く。
二、(7)より(10)の代りに
内訳
去ル亥ヨリ来ル申迄拾ケ年季
壱町壱反廿五歩 取下
此取永弐貫百拾六文九分 反百九拾壱文取
当子ヨリ来ル申迄九ケ年季
壱反壱畝拾弐歩 当子起返取下
此取永百九拾七文弐分 反百七拾三文取
去亥増
同年季
六畝拾弐歩 右同断取下
此取永百四文三分 反百六拾三文取
去亥増
- 第1巻 p.49 -ページ画像
同年季
弐畝廿八歩 右同断取下
此取永拾文三分 反三拾五文取
去亥増
となつてゐる。
三、(37)は 合取永七拾七貫弐百六文五分
内永三百拾壱文八分 去亥増
四、(44)は 一永弐貫四百五拾四文六分 口永
内永九文三分 去亥増
五、(46)は 納合永八拾四貫弐百七拾五文七分 子納辻
内永三百弐拾壱文壱分 去亥増
六、(47)は 前年分と同じ。
慶応元丑年分は前年即ち元治元年分と数字において全く同じであるが、「去亥増」なる註記は勿論なくなつてゐる。
慶応二寅年の分も数字において前年分と全く同じく、ただ(48)において、朝倉の代りに馬場兵右衛門(印)が入り、順位は豊泉の次ぎである。
慶応三卯年の分も数字において、前年分と全く同じであるが、ただ(47)には春名の代りに井上八十八が入る。
明治元辰年の分は数字及び名も全く前年分と同じ。ただ、(47)の井上八十八、(48)の豊泉善左衛門はいづれも「出役中無印」と記されてゐる。
明治二巳年の分も数字は全く前年と同様であるが、(47)は望月次郎左衛門、茂木三之進、若森正作三名の署名押印、(48)は馬場景基、織田六郎兵衛両名の署名捺印となつてゐる。
明治三年、同四年、同六年の割付もあるが、これらはいづれも帳簿になつてゐて、明治二年までの分が巻物となつてゐるのとは、形式の上では相違がある。但し内容の点では大なる相違はない。
明治三年の分は前年分のそれと数字においては全く同じであるが、(47)は左の如くに変つてゐる。
半原藩
明治三年十月 図
図
また(48)は全く消滅してゐる。
明治四未年の分は内容的にも若干の相違がある。(15)までは前年の分と全く同じであるが、(16)以下(20)までは左の如くに変つてゐる。
六畝廿歩 諏訪境内引
内 外三畝拾歩 未起返
弐畝六歩 前々悪水落堀敷引
小以八畝廿六歩
残七町九反弐畝八歩半
此取永拾四貫四百九拾八文八分 反百八拾三文取
内永六拾壱文本免入増
(23)以下(27)も前年分と変つてゐる。左の如くである。
- 第1巻 p.50 -ページ画像
内五反九畝拾五歩半 前々悪水落堀敷引
残拾四町六反五畝拾五歩半
此取永弐拾五貫三百五拾三文四分 反百七拾三文取
内永五拾九文四分 本免増
(37)も三前年と異なり、左の如く変つてゐる。
合取永七拾七貫三百弐拾六文九歩
内永百弐拾文四歩 去午増
(44)(46)も左の如く変つてゐる。
一永弐貫四百五拾八文弐分 口永
内永三文六分 去午増
納合永八拾四貫三百九拾九文七分 未納辻
内永百弐拾四文 去午増
(47)の変化は左の如くで、(48)は消滅してゐる。
半原県
明治四辛未年十月 図
図
明治六年の分に至つて形式内容共に大いに変化してゐるので、その全文を左に掲げる。
(表紙)
癸酉租税上納割賦帳 武蔵国榛沢郡 血洗島村
検是 武蔵国榛沢郡
一反別四拾四町弐畝拾歩五厘 皆畑 血洗島村
内
反別六反弐畝廿弐歩五厘 前々悪水落堀敷引
反別壱反三畝拾三歩 前々諏訪大神境内引
小以反別七反六畝五歩五厘
残反別四拾三町弐反六畝五歩
此貢金百五拾四円五拾四銭弐厘 免上
内金拾弐銭九厘 去壬申増
外
一藪発畑壱町壱反壱畝廿六歩 大縄場
此貢金四円六銭四厘
去壬申同
一反別四町三反三歩 林税
此貢金五円拾六銭五厘 御改正厘限
外金弐毛 去壬申減
納金百六拾三円七拾七銭壱厘
右者癸酉租税書面之通候条総百姓立会無甲乙割賦致決御算来五月限急度可致上納者也
明治六年十二月 熊谷県令 河瀬秀治 図
- 第1巻 p.51 -ページ画像
右村
戸長
副戸長
総百姓
翌七年の分としては、二つのものがある。その一は明治七甲戌年十二月、血洗島村年番吉岡十郎と署名された「戌御租税惣引合帳」で、他は、同じ署名のある「戌御租税小割帳」である。前者は、村民各人の租税額のみをそれぞれ列記したものであり、後者は各村民の持地を明細に記し、それに対する租税額をも明記したものである。
(未完)
〔参考〕竜門雑誌 第五八九号・第一―一八頁〔昭和一二年一〇月〕 血洗島村の幕末租税関係資料について(承前)(土屋喬雄)(DK010001k-0030)
第1巻 p.51-61 ページ画像CC BY 4.0
竜門雑誌 第五八九号・第一―一八頁〔昭和一二年一〇月〕
血洗島村の幕末租税関係資料について(承前)(土屋喬雄)
三 血洗島村皆済目録の考察
次に血洗島村の「御物成皆済目録」を紹介しよう。「皆済目録」は、大ざつぱに云へば、前に紹介した割付状に対する領収書である。しかし、簡単にさう云ひ切ることができない点もある。何となれば、割付状において、賦課した以外の税目も記されてをり、またそれにおいて賦課した年貢金から差引かれた分も計算されてゐる場合もあるからである。前に述べたやうに割付状が交付されれば、村民全部が立会ひ、甲乙なきやう所持高に応じて按分し、之を名主において取りまとめ、更に割付状にも記載されてない租税分をもとりまとめて納付する。全部皆済すれば始めて皆済目録を交付され、全村民が始めて安堵するのである。そして名主において之を大切に保存するのが例である。割付状について述べた特徴が大体そのまゝ皆済目録にも当てはまると見てよいわけである。
血洗島村の皆済目録は、文久二年から明治四年までが揃つてをり、五年分は「地租納通」、七年分は「御租税皆済帳」なるものがある。六年の分は残念ながら見当らない。五年及び七年の分は本来の皆済目録とは、後に述べるやうに、形式の変化したものである。それ故こゝでは、明治四年までの皆済目録に重点をおいて説明するが、血洗島村のそれは多くの村の皆済目録に比較すれば簡単な形式のものであらうと思ふ。先づ「納辻」として割付状の末尾に記された田租、畑租、宅地租、林租及び口永(加徴銭)の合計なる銭高を掲げ、そのうち名主給と大豆代永を控除する。名主給は云ふまでもなく名主即ち村長に対する俸給であつて、これは年貢の中より支配者によつて給与されるものであるが、便宜上差引くことゝなつてゐるのである。大豆納なるものは、年貢及び小物成のほかではなく、そのうち、一部を代納せしめたものである。そのほか割付状になかつた項目としては、「夫金」と「酒造役永」がある。夫金はいはゆる課役であつて、人夫を提供せしめる代りに金納せしめたもので、天領における三役に当るものであらう。酒造役永は天領における酒造冥加永に相当するもので、即ち酒造株に対する特許税とも云ふべきものであらうと思ふ。
皆済目録は即ち村に対する普通の租税の全種類を網羅したものであ
- 第1巻 p.52 -ページ画像
るから、以上が血洗島村が維新前より廃藩置県までに納めた普通の租税の全部であつたわけである。藍玉商売や絹織物等の副業に対しては課税されず、ただその原料即ち藍作、桑作に対して畑租が課せられたのみである。但し、それ以外に用金があり、これを一種の租税、即ち臨時税と見られ得ないこともない。そして用金は主として富裕な村民に課せられたものであり、この村の富裕な村民は主として藍玉商売によつて富を致したものであるから、用金は藍玉商売に対する臨時税であると云つてよいかも知れない。なほ、そのほかの労役税として助郷役があつたのであるが、それは後に紹介するやうな事情で中仙道の助郷ではなかつたのである。
かくて、我々は割付状及び皆済目録によつて血洗島村の幕末における、従つて青淵先生の在郷時代の末の頃における普通の租税の種類及びその総額を知り得るのであるが、その動きは即ち左の如くである。
田租、畑租、宅地租、林租、口永、夫金、酒造役永合計 大豆代納分 文久二年 金八五両二分 永一一九・一五 一九俵 三年 金八一両三分 永 七五・三五 同 元治元年 金八二両三分 永一三七・四五 九俵一斗九升五合 慶応元年 金八五両三分 永二四七・三五 一九俵 二年 同 同 三年 同 同 明治元年 金八六両二分 永 四三・三五 一二俵 二年 金八五両三分 永二四七・三五 一九俵 三年 同 同 四年 金八二両一分 永 二〇・四五 同
以上は血洗島村全体の租税の種類及び税額であるが、前にも述べた通り、その額は各村民に持高に応じて配分されたのである。この各村民の負担額については、文久以後の分は資料がないので判らぬが、本誌本年四月号拙稿「青淵先生の血判入門書其他旧記について」の一九―二二頁に(本書二九―三一頁)文政八年及び弘化三年のそれを掲げておいた。
ともかく以上で文久二年以降明治四年までの血洗島村の普通の租税制度を概説したのであるが、以下に文久二年、明治元年、同四年の皆済目録を掲げ、其他の年度のそれについては、異同を指摘するに止めておき度い。
戌年御物成皆済目録
血洗島村
一永八拾三貫八百九拾七文五分 戌納辻 (1)
金三分永弐拾弐文弐分五厘 名主給 (2)
内金壱両壱分永弐百三拾弐文 大豆拾九俵代永 (3)
小以金弐両壱分永四文弐分五厘 (4)
残金八拾壱両弐分永百四拾三文弐分五厘 (5)
一大豆拾九俵 当戌大豆納 (6)
一金三両三分永百文九分 夫金 (7)
三人八分五厘壱毛之内 (8)
一永百弐拾五文 酒造役永納 (9)
金八拾五両弐分永百拾九文壱分五厘 (10)
納合
大豆拾九俵 (11)
- 第1巻 p.53 -ページ画像
右者当戌御年貢金書面之通令皆済間小手形引上一紙目録相渡者也
文久二戌年十二月 望月太輔
若森正作 (12)
向作之進
右村
名主
組頭
惣百姓
文久三年亥年の分の文久二年のそれに対する相異点は、(1)が「永八拾三貫九百五拾四文六分」、(5)が「残金八拾壱両弐分永弐百文三分五厘」、(7)が「一金なし 夫金」、(10)が「金八拾壱両三分永七拾五文三分五厘」、(12)において三名の外春名三太夫(印)が第三番目に加はり、四名となつてゐる。他は全く文久三年の分に同じ。
元治元年子年の分は、(1)が「永八拾四貫弐百七拾五文七分」、(3)は「金弐分永弐百四拾壱文」、(4)は「小以金壱両弐分永拾三文弐分五厘」、(5)は「残金八拾弐両三分永拾弐文四分五厘」、(6)は「大豆九俵一斗九升五合」、(7)は「一金なし 夫金」、(10)は「金八拾弐両三分永百三拾七文四分五厘」、(11)は「大豆九俵壱斗九升五合」となつてゐる。
慶応元年丑年の分は、(1)は元治元年の分と同じ、(3)、(4)は文久二年と同じ。(5)は「残金八拾弐両永弐拾壱文四分五厘」、(6)(7)(8)(9)みな文久二年と同じ、(10)は「金八拾五両三分永弐百四拾七文三分五厘」、(11)は文久二年に同じ、(12)は四名にして前年に同じ。
慶応二年の分は悉く慶応元年の分と同じ。
慶応三年の分も(11)まで悉く慶応元年の分と同じ。ただ、(12)において春名の代りに井上八十八署名す。他三人同じ。
明治元年の分は、維新第一年の分であるから、全文を掲げる。
辰年御物成皆済目録
血洗島村
一永八拾四貫弐百七拾五文七分 辰納辻 (1)
金三分永弐拾弐文弐分五厘 名主給 (2)
内金三分永百八拾六文 大豆拾弐俵代永 (3)
小以金壱両弐分永弐百八文弐分五厘 (4)
残金八拾弐両弐分永六拾七文四分五厘 (5)
一大豆拾弐俵 当辰大豆納 (6)
一金三両三分永百文九分 夫金 (7)
三人八分五厘壱毛之内 (8)
一永百弐拾五文 酒造役永納 (9)
金八拾六両弐分永四拾三文三分五厘 (10)
納合
大豆拾弐俵 (11)
右者当辰御年貢金書面之通令皆済間小手形引上一紙目録相渡者也
明治元辰十二月 望月次郎左衛門(印)
若森正作(印)
出役無印 井上八十八 (12)
向作之進(印)
- 第1巻 p.54 -ページ画像
右村
名主
与頭
惣百姓
明治二年巳年御物成皆済目録の明治元年のそれと異なる所は、(3)が「金壱両壱分永弐百三拾弐文 大豆拾九俵代永」、(4)が「小以金弐両壱分永四文弐分五厘」、(5)が「残金八拾弐両永弐拾壱文四分五厘」、(6)が「一大豆拾九俵」、(10)が「金八拾五両三分永弐百四拾七文三分五厘」となつてゐる。(12)は
望月次郎左衛門(印)
茂木三之進(印)
若森正作(印)
と変つてゐる。
明治三年午年御物成皆済目録は、明治二年の分と数字の点は全く同じ。しかし、後書は左の如く変つてゐる。
右者当午租税金書面之通令皆済間小手形引上一紙目録相渡もの也
明治三庚午年十二月 半原藩
図 図
右村
名主
組頭
惣百姓
明治三年に至つて初めて「租税金」なる名称が生じたのである。
明治四年の分は廃藩置県後最初のもの故、全文を左に掲げる。
未年御物成皆済目録
血洗島村
一永八拾四貫三百九拾九文七分 未納辻
金三分永弐拾弐文弐分五厘 名主給
内金壱両壱分永弐百三拾弐文 大豆拾九俵代永
小以金弐両壱分永四文弐分五厘
残金八拾弐両永百四拾五文四分五厘
一大豆拾九俵 当未大豆納
一永百弐拾五文 酒造役永納
金八拾五両壱分永弐拾文四分五厘
納合
大豆拾九俵
右者当未租税金書面之通令皆済間小手形引上一紙目録相渡者也
元半原県
明治四辛未年十二月
図 図
右村
名主
組頭
惣百姓
明治五年分の「皆済帳」は見当らないが、同年分の「地租納通」なるものがある。これには各納人の地組納付高を列記してあり、各々に入間県租税課の円印が割印されてある。これは円銭計算のものである。明治七年の分としては明治七甲戌年十二月、血洗島村年番吉岡十
- 第1巻 p.55 -ページ画像
郎と署名のある「戌御租税皆済帳」なる帳簿がある。これにも各納人の納付高が記されてゐるが、五年の分と異なり、両、分、朱、文計算のものである。そしてこれには県の印が押されてない故、名主の控と思はれる。
四 血洗島村の助郷問題
以上に述べた租税は、普通の租税であるが、周知の如く、維新前五街道附近の村々には助郷役なるものが課せられてゐた。それは、云ふまでもなく、五街道宿駅の常備人馬に不足を生ずるとき、予め指定しある宿駅の近村に対して人馬の提供を命ずるものであつた。この助郷役は幕末においては苛重なものとなり、往々にして宿駅近傍の諸村を疲弊せしめたのである。又往々にして百姓の逃散や一揆の原因となつたことも周知である。それ故に往時宿駅の近村にとつては、助郷役は極めて重大なる問題であつたのである。
血洗島村は、云ふまでもなく、中仙道深谷宿の近村である。それ故私は嘗てこの村にとつても助郷役は重要な問題であつたらうと想像してゐた。然るに同村の郷土史家に聞くところによれば、血洗島は助郷を免除されてゐたとの事である。「八基村郷土史」八四頁にも、横瀬村荻野七郎兵衛の略伝中に『従来御伝馬なるものあり、百姓の困難一方ならず、九代目七郎兵衛繁曹率先して八ケ村の有志に詢り大に尽力する所あり、天保九年遂に御伝馬免除の請願を聴許せられ、為に八ケ村の農民は夫役の重荷を脱するを得たり』とあつて、天保九年以後は助郷役が免除されたといふことになつてゐる。しかし、その理由については郷土史家からもこの郷土史からも詳細に知ることは出来なかつたのであるが、昨年私は某書肆から明治二巳年三年荻野と署名のある「天保九戌年九月御伝馬御免除御請証文写」と「安政五午年正月助成金上切永々御免除御請証文御代官川上様御役所御割印付写」とを綴合した写本を手に入れ、それによつて当時の事情をやゝ詳細に知ることができた。又七月下旬血洗島へ伺つたとき、吉岡平三郎氏所蔵記録のうちから御伝馬免除願書の写しをも拝借して来た。これによつて更に遡つてこの問題につき知ることを得たのである。それ故以下にそれらによつて当時の事情をできるだけ詳細に紹介することゝしよう。
先づ吉岡氏所蔵記録を見るに、これは天保八年に奉行所へ横瀬村、北阿賀野村、町田村、南阿賀野村、血洗島村、上手斗村、下手斗村、大塚村、成塚村の九ケ村より差出した願書で、従来これらの村々が上州世良田御宮(東照宮)御用を勤め、且つ中瀬村定助郷を勤め居る故、中仙道の助郷は今後共免除願ひ度しとの趣旨のものである。そして従来の来歴を詳述してゐる点で価値あるものであるが、残念乍ら、破損があつて寛保二年の分以後しかわからない。
寛保二年の条には『以来中仙道筋宿助郷村より差替村等相願候而も助役不仕候様御書付頂戴為仕度段御願申上候処、御評定所御帳に記置合印取置候間……外より差替村等にも願出候はば右之訳幾度も其度々申出べく重役之義は不被仰付候間、一同急度相心得候様被仰渡候』とあるが、かゝる命を受けたのは、九ケ村は上州世良田御宮(東照宮)御用を前々より勤めあるを以て、中仙道助郷差替村を他村より願ひ出でても
- 第1巻 p.56 -ページ画像
免ずるといふのである。明和五年の条には『御宮御用之義は御裁許も有之人馬差出来、其外御武家様方御通行之砌中瀬村人馬に而不足之節は高島村之外九ケ村江助人馬触当来候段相違無御座候間、御宮御用は勿論御武家様方御通行之節人馬触当次第無遅滞可差出段被仰付』とあり、又他の条にも『中仙道……大御通行御座候ても当村々之義は世良田御宮御用相勤中瀬村定助郷之義に付助加合等も相勤候義一切無御座候』とあつて、これらの村々は、世良田御宮御用のほか、中瀬村の定助郷であつたため、中仙道の助郷には出たことがなかつたといふのである。
文化十二年には、『日光御神忌之節世良田御宮之義は三月中御取越御法会に付御地内江小屋立置私共村々より多人数相詰御用相勤申候』とある。また同年「日光御神忌御国役」五ケ年取立があつたが、九ケ村は『御宮御用相勤候に付御免除被成下置』れた。天保二年琉球人参府の時も国役を仰せ付かつたが、九ケ村は免除された。国役とは臨時の出費のある際、幕府が国を定めて石高に対し米金を納めしめたものである。此時代にはこれらの村は国役さへも免除されたことは注意すべきことである。
また町田村、南阿賀野村、血洗島村、上手斗村、下手斗村、大塚村の六ケ村は『領主陣屋諸役相勤、別而右六ケ村共田方一切無御座候得共、御廻米津出荷物運送等夥敷、其上同領拾ケ村之内四ケ村は大高田方村に而溜井用水路浚等仕候に付陣屋役は右六ケ村に而持切相勤難渋仕候』とも述べられてゐる。こゝに云ふ陣屋役については明確には判らないが、前に述べた夫金以外のもので、実際に人馬を出したものであらうと思ふ。
次の条には、『九ケ村共利根川小山川取巻地窪に付出水之節は百姓居宅迄水押上げ家財農具夫食等迄も流失及飢渇候に付囲堤破損繕ひ等莫大之儀、猶又 御宮御用並諸家様御通行等越立、中瀬村助郷人馬共一ケ年千弐三百人程も相勤誠に重役難渋仕候』とある。これによつて、これら諸村が水災、御宮御用、中瀬村助郷により多くの人馬を出せることが明かである。
更にこれら九ケ村につき天保五午年に中仙道深谷宿助郷矢島村から差替村に請願があり、同六未年にも血洗島村、上手斗、下手斗の三村につき中仙道本庄宿助郷仁手村から差替村に願出でがあり、同年六月深谷宿助郷沖宿村外五ケ村から差替村の請願があり、同七申年十月にも中仙道深谷宿助郷新井村外二ケ村から差替村の請願があつたが、何れの場合にも御宮御用及び中瀬村助郷のことを申立て免除になつたのである。かくの如く天保年間において中仙道助郷諸村から特に度々差替村の請願があつたのは、恐らく当時に至つては農村の疲弊一般に甚しく、ために助郷の負担を他に転嫁せんとの要求が強くなつたためであらう。
しかし、屡々助郷を転嫁せられんとしたこれら諸村もこれを廻避せんとしたのは必然のことであつて、こゝに天保八年の請願となつたのである。そしてその際前々よりの御宮御用及び中瀬村助郷の由来を詳記して請願したのである。かくてこの願書の末尾には左の如く記され
- 第1巻 p.57 -ページ画像
てゐる。
上略 前書奉申上候通之次第ニ而往古より是迄中仙道筋助郷等相勤候儀聊無御座全重々役相勤居候村々一同追年及潰候外無御座困窮落入実々難渋仕候間、何卒以 御慈悲此段被為聞召訳、当村々之義は宿助郷より差村ニ仕願立候共御取用ひ不相成段御免除御書付頂戴仕度奉願上候。尤是迄助郷村々より私共村々を差替村に相願候度々御差紙頂戴仕罷出、先例を以御免除相願候迄数日江戸詰仕農業相休候上雑用等相懸り難儀至極仕候ニ付、右之通御免除御書付被下置候上は為冥加 御宮御境内ニ有之候間口弐間奥行壱間厚板家根惣板張之番小屋弐ケ所私共村々ニ而造立修覆共引請可仕候間、何卒以 御慈悲願之通御免除御書付被下置候様幾重にも奉願上候。以上。
即ちこの天保八年の願ひの趣旨は、諸村より差替村の請願ある度に免除申請の煩労を避けるため中仙道助郷免除の書付を下附され度く、冥加として世良田御宮の番小屋二棟を造り、また修覆をも引請け度しといふのであつた。しかし、幕府は冥加として更に大なる犠牲を要求したものゝ如く、この時の願はそのまゝ容れられなかつたやうである。筆者所蔵の「天保九年戌年九月御伝馬御免除御請証文写」によれば、その後上納金願ひを出し容れられてゐるからである。次にその全文を掲げることゝしよう。
差上申一札之事
私共村々上納金願之趣先達而御代官大原左近様松坂三郎左衛門様両御手附衆被差遣御糺有之、御奉行所之御沙汰ニ可任筋之旨被仰渡候処、今般被召出御糺之上左之通被仰渡候
一私共村々之儀上州世良田 御宮御用人足相勤罷在、此上最寄宿方助郷等被仰付候而者、右御用差支之程難斗、依之此度道中筋為助成村々一同ニ而冥加金七百両上納仕、助郷差村免除之儀奉願候所願之通上金被仰付助郷差村免除被仰渡候
但右上納金之儀ハ最寄御代官山本大膳様上州岩鼻御陣屋江相納候上、改而右御金村方江御貸渡被遊候間、年壱割之利金七拾両づつ年々可相納旨被仰渡候
右被仰渡之趣一同承知奉畏候、仍御請証文差上申所如件
清水領知
天保九年戌九月廿九日 武州榛沢郡横瀬村
役人惣代
名主 安右衛門
清水領知
安部摂津守領分
依田兵庫知行
同郡阿賀野村
役人惣代
組頭 伊助
黒田豊前守領分
同郡成塚村
役人惣代
組頭 直右衛門
安部摂津守領分
同郡血洗島村
- 第1巻 p.58 -ページ画像
大塚村
右村々役人惣代
名主 武右衛門
組頭 小兵衛
安部摂津守領分
安部鏻之助知行
同郡 町田村
上手斗村
下手斗村
右村々役人惣代
名主 紋七
組頭 粂八
同 磯五郎
道中御奉行所
これによれば、八ケ村は、中仙道筋助成金として金七百両を上納し、それにより中仙道助郷を免除され、その上納金はそのまゝ八ケ村に貸下げられ、年一割の利子金七拾両づつを上納するといふのである。ここで八ケ村とあるは、北阿賀野、南阿賀野を合併し、阿賀野村となつたためであると思ふ。それ故前の九ケ村と同様であらう。而して次に掲ぐる「安政五午年正月助成金上切永々御免除御請証文御代官川上様御役所御割印付写」によれば、その利子七拾両は「中仙道追分宿貫目御改所」の入用に使はれ、年々納められて安政三年に至つた。その間十九年である。即ちその納額は壱千三百三十両に達する。然るに其後むしろ一時に金七百両を返納して、永久に中仙道助郷を免除さるゝを得策と感ずるに至つたものの如く、安政五年に七百拾七両弐分を上納し、永久に中仙道助郷免除を請ひ、遂に許されたのである。この請願書及び許可状は重要なものであるから、その全文を左に掲げることゝしよう。
差上申御請証之事
元御支配所
武州榛沢郡横瀬村
元御支配所
安部摂津守領分
依田福三郎知行
阿賀野村
黒田和泉守領分
成塚村
安部摂津守領分
血洗島村
大塚村
安部摂津守領分
安部大勝知行
町田村
上手斗村
下手斗村
金七百拾七両弐分 上ケ金宿場助成御貸附之内より御差加被仰付候分
此利金七拾壱両三分
内
金七拾両 中山道追分宿貫目御改所諸御入用ニ御遣払可相成候分
- 第1巻 p.59 -ページ画像
金壱両三分 弐厘五毛通御貸附方諸御入用ニ可相成分
右者横瀬村外七ケ村之儀上州世良田 御宮御用人足相勤候ニ付、最寄宿方助郷等被仰付候而者右御用差支之程難斗候間、道中筋為助成冥加金七百両上納仕差村免除之儀天保九戌年中道中 御奉行所江奉願候処、願之通上ケ金被 仰付助郷差村免除被仰渡、且上納金之儀者岩鼻御陣屋江相納、改而右村々へ御貸渡、年壱割利金七拾両宛御取立、中山道追分宿貫目御改所諸御入用ニ御遣払之積ニ相成、右之趣を以去々辰年分迄利金相納来候処、近来違作打続村借財相嵩、追々身上不如意ニ相成候もの出来、利金納方にも差支、無拠他村身元ケ成之親類共より助成を請、夫是ニ而漸納続来候次第ニ有之、当時之姿ニ而者追々困窮陥、終ニ者潰退転之ものも出来可申体ニ付、右上ケ金之内御下ケをも相願度候得共、従来格別之訳を以助郷差村免除ニ付、右金七百両は返納仕、猶又金拾七両弐分差加、合金七百拾七両弐分者改而上納切仕候間、外向江御貸出之上利金追分宿貫目御改所諸入用ニ御遣払金御渡方相成候様御仕法立之儀奉願上候ニ付、御取調御伺中去巳利金者先達而上納仕候処、今般書面金七百拾七両弐分者願之通上納切之上宿場助成御貸附之内江御差加被仰付、当午年分より其年々右御貸附御取扱御代官様におゐて利金七拾壱両三分之内金壱両三分者弐厘五毛通御貸附方為諸御入用御引去残金七拾両ハ是迄之通追分宿貫目御改所諸御入用ニ御遣払之積、且右差出金之起立後年違失不及様相願候ニ付、其年々利金御引渡済之上其段御取扱御代官様より横瀬村阿賀野村御支配御代官様江御達相成候様御下知相済候間、右金七百拾七両弐分者当御役所へ可相納旨被 仰渡候趣一同承知奉畏候。依之御請印形差上申処如件。
武州榛沢郡
横瀬村
阿賀野村
成塚村
血洗島村
大塚村
町田村
上手斗村
下手斗村
右村々惣代
右横瀬村名主
安政五午年正月 荻野七兵郎衛(印)
町田村名主
川上金吾助様 紋七(印)
御役所
前書之通金七百拾七両弐分上納仕候ニ付御請証文奉差上、然ル処御伝馬助郷差村永久 御免除被 仰付難有仕合ニ付、村々ニおゐて当 役所様冥加をも相弁右差出金之起立後年違失無之様仕度奉存候間、何卒出格之以 御慈悲今般被 仰渡候御請証文写江御割印被成下置候様偏ニ奉願上候、以上
右
午正月 荻野七郎兵衛(印)
- 第1巻 p.60 -ページ画像
紋七(印)
川上金吾助様
御役所
前書之通請証文写差出候ニ付為後年令奥判相渡もの也
割印
川上金吾助
役所(印)
午正月
この許可証によつて中仙道助郷問題は終局的に決定したのであつて、この安政五年以後は血洗島村も中仙道助郷問題によつて悩まされざるに至つたのである。だが、それが為に村々は大なる犠牲を払つている。この年は青淵先生十九歳であるから、この事件を聞知されたのであろうと思はれる。しかし、先生はこの事件については何等語られなかつたやうである。もし先生がこれにつき語られたと仮定するならば、恐らく封建制度の一例として語られたのではないかと思ふ。周知のやうに先生はその二年前御用金一件で封建制度の専制を満喫され、それについては憤懣を以て語られてゐるのであるから。
それでは、この事件は何故に封建的専制の一例であらうか。前に紹介したやうに、これら八ケ村は「世良田御宮人足御用」及び中瀬村助郷といふ大なる徭役労働の負担を受けてゐた。それ故に従前はその理由を以て中仙道助郷を当然に免除され来つた。その理由で国役をさへ免除され来つたのである。然るに天保度以降中仙道助郷の負担転嫁の要求が強まるに至つて、幕府はそれを利用してこれら諸村に圧迫を加へんとしたのである。要するに封建的誅求を強化せんとしたのであつた。そして、つひに金七百両という大金の犠牲を以てこの不当の負担を永久に免れようとしたが、それは直ちに借金となり、年一割金七拾両の利子を年々払はなければならぬことゝなつた。八ケ村であるから一ケ村平均九十両の借金、年々約九両の利払である。封建的抑圧を以て取上げた金を強制的に高利にて貸し下げたわけである。村民にとつては二重三重の犠牲であつた。之を血洗島村について見るときは、前に見たように、文久以後について諸税総額八十五両である。天保より安政までの分は明確ではないが、それと大差はなかつたろうと思はれる。さうだとすれば、中仙道助郷役を免れんがための償金の利子のみで、他の総租税額の一割以上に及ぶのである。その償金額は総租税額の十割以上にも及んで居る。他の徭役即ち「世良田御宮御用」中瀬村助郷役、及び領主に対する陣屋役の分量については明かでないが、相当の負担であつたと想像される。その上になほ、かゝる負担を被つたのであつて、安政五年に七百十七両余を一時に上納して永久に中仙道助郷を免れることゝなつたとは云へ、この御伝馬一件は明かに幕府の封建的圧制の一例に数へ得べきものである。
最後に一言しておき度いが、前に引用したやうに、「八基村郷土史」は八ケ村について『従来御伝馬なるものあり、……天保九年……夫役の重荷を脱するを得たり』と述べてゐるので、あまりに漠然として真相に触れてゐない。むしろこの一件を謳歌するが如き表現である。しかし事実は上述の如く、天保九年以後従来なかつた負担をも受けるこ
- 第1巻 p.61 -ページ画像
とゝなつたのであつて、決してその時在来の助郷を免れることになつたのではないのである。誤解のおそれある記述であるから、一言是正しておきたいのである。
五 むすび
私は以上で幕末における血洗島村の租税制度を一応考察し得た。しかし租税制度は云ふまでもなく土地制度と相関連するものであるから本稿は本誌本年四月号の拙稿と相関連して見らるべきものである。即ち私は両稿によつて幕末における血洗島村の土地制度、租税制度の大体を明かにすることができたわけである。
かやうに私が、青淵先生伝記資料編纂関係者として一見間接的すぎるかのやうに見える問題の研究に努力を費したのは、一は青淵先生の在郷時代の生活の背景を成るべく詳細に知り度いとの要求に基くのである。また二には明治・大正・昭和を通じてその最大の偉人の一人であつた青淵先生の誕生地として記憶せらるべき血洗島村の郷土史は特に重要であるといふ考慮にも基づいてゐる。尤も私の研究は未だ充分ではない。これ以上のことは郷土の史家達にお願ひしなければならないし、将来一層詳細な研究がなされることを期待するのであるが、これだけでも明かにし得たことは、私にとつては大きな喜びである。何となれば、これだけでも、青淵先生の誕生地血洗島村が幕末において如何なる情勢にあつたか、村民は如何なる封建的圧制の下に苦んでゐたかが、一応分るし、封建制度に対する反抗者であり、批判者であつた青淵先生の思想及び行動の由つて来る所も、一応は理解し得るからである。
ともかく、私はこれで幕末血洗島村の研究を一段落とし、一層詳細の考証は郷土史家達にお願ひする次第であるが、この機会に資料の探索、貸与等に多大の御援助を頂いた、渋沢治太郎氏、尾高定四郎氏、吉岡耒作氏、吉岡平三郎氏、吉岡義二氏、山口平八氏、山口律雄氏の諸氏に特に深謝の意を表する。(完)(昭和一二、九)