デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.6.13

1編 在郷及ビ仕官時代

1部 在郷時代

1章 幼少年時代
■綱文

第1巻 p.61-92(DK010002k) ページ画像

弘化二年乙巳(1845年)

栄一幼時ヨリ強健・怜悧ニシテ、剛情ナレドモ、忍耐強ク、天性秩序ヲ重ンジ、父母ニ孝、兄弟ニ友ナリ。是年初メテ父ニ句読ヲ授ケラレ、尋デ従兄尾高惇忠ニ従ヒテ学ヲ修ム。又書法ヲ初メ父ニ、尋デ伯父誠室ニ、武芸ヲ従兄渋沢新三郎ニ学ブ。


■資料

竜門雑誌 第三〇六号・第二八―三〇頁〔大正二年一一月〕 【青淵先生懐旧談】(DK010002k-0001)
第1巻 p.61-63 ページ画像

竜門雑誌 第三〇六号・第二八―三〇頁〔大正二年一一月〕
○上略 さういふ家に生れ、左様いふ父に薫陶された自分は、何事もなくて成長を急いだ、一歩々々に築き上げた渋沢家の柱石は、年毎に鞏固を加へて家運は日に増し繁昌するが、生れる子は何ういふものか皆つぎつぎに夭死する。五男八女の同胞のうち、女では長女の阿仲と私の妹の阿貞、男は斯くいふ私がたつた一人、都合三人の子が渋沢家唯一の宝と愛しまれ、殊に自分は唯一人の男の子であるから親の鍾愛も
 - 第1巻 p.62 -ページ画像 
一入で、渋沢家を大成するものは栄二郎の外にはあるまいと、深く深く希望を繋けて育てられ、藍の買入れの明暮も忙しく四方を駈廻る暇々さへ、乳呑児栄二郎の将来を楽しみに、何呉と祖父や妻と嬉しき言葉を交して居た。
 もとより此処は城下を離れた村住の事産衣を飾る宮詣でにも不自由なく生立たとは言へ、物心づく手習草紙に硯の筆を運ぶには、父が情けの仮名手本を便よる外はなかつた、父とても己が気魄を此子に紹がせたさの一筋に、五歳の時から学問の手解きにと、その頃大に行はれてゐた『三字経』と云ふを口づから教へはじめたのであつた。
 その三字経時代のもつと前に遡つて、母なる人がなつかしき追懐の一つとして自分に語り聞かせた事を記憶えてゐる、それは私がまだ襁褓に居る二歳か三歳の事である。不思議にも物事をきちんとせねば承知せぬ気性があつた、召使ひのものなどが座敷の出入に障子を半分ほど開けた儘にして置くと、それが気に掛るかして廻らぬ口でその障子を開けろ開けろと呼びたてる、何でも障子を中途半端にして置くのが嫌ひなので、開けるものなら開けて置くがよし、閉めるものなら閉めたがよいと云ふのであつたらしい。
▲乳房に縋る幼年期 家が栄えて来ると出入の人も繁くなる。藍商人が来る、親戚の誰彼が四季折々の手土産提げて見舞に来る、華蔵寺の鐘の鳴らぬ日はあつても、客間に客の絶えた事はない、母の乳房に縋つて風車の廻るに興ずる頃、客が入つて来る時、辞して帰る時、障子を半ば開けた儘にして置くと、自分は母の懐からしげしげと見て、『また障子を閉めずに行つた』と叱るやうに言ふので、客の手前母は極りを悪がつて、言ふな言ふなと制すれど聴かばこそ、ピシヤと閉めきらぬうちは飽まで執念く叫び立つるので、はじめての客などは赤面して引退がる、で母などは困つた児だ、初めての客には誠に気の毒だと詑びてゐた、今でも部屋の襖でも雨戸でも開けかけたり閉めかけた儘にして置く事が嫌ひなので、いつも孫どもに笑はれてゐる。何でも物事に対して秩序を求める、これは成長するにつれて漸次増長した性癖の一つであるが、また他の一面には、物事に対して執念深いほど忍耐力が強かつた、それについて思い出す事が一つある、確かに五歳の時と記憶する。
 徂く春を追ひ立てるやうな強い南風は目に見えぬ大きな鞭を揮るつて、邸中の花を片つ端から叩き落した、雛芥子も散つた、木蓮も亡びた、青い衣をつけた勝利者は、夏といふ勇ましい名乗をあげて到る処の野山を占領して了つた。
 亡びたる者にも怨はある、春の怨が凝つて恐らく雨となるのであらう、果てしもなく薄暗い日が打続いて、弱い女が嗚咽するやうな雨が頻りに降る、終日小歇なき檐滴の音を聞き暮らして、灯の点く頃には袷の襟辺が薄寒いやうにも感じられた。
 その日は雨もあがつて蝉も啼初やう暑い日であつた。秩父の峰に春の日が隠れると、西の稲荷の樹の間を洩るゝ湖のやうな薄青い空には、三日月の淡い影が小さい舟のやうに泛んでゐた、二ツ年上の喜作と前の桑畑で別れて帰つて来ると今しも家人は宗助の宅に何か催され
 - 第1巻 p.63 -ページ画像 
るので、私のみ一人残して出て行かうとする処であつた、自分は一人残さるるのがいかにも不満でたまらないので、突如母の袂に獅噛ついて一緒に連れてつてと強請んで見たが、到頭連れずに出て行つて了つた、留守には年老いた夜番の爺と六七人の作男と婢が二人、自分は框の処に潜然と泣いてゐたが、どうしても一人取残されたのが不平で堪らない、一つ隠れて母を困らしてやらうと、こつそり奥の一間の押入の内へ潜込んで、今に帰つて大騒するだらうと徽臭い蚊帳をスツポリと頭から被つて隠れてゐると、何時の間にか降り出したのであらう、土蔵に続く暗い庭一面の若葉を叩く夜の雨は、さながら遠い方から大勢の人が跣足で押寄せて来るやうにも聞えた、それを怖ろしいやうな心細いやうな心持で聴いてゐるうちにいつの間にかうとうとと眠つて了つた。
 この眠は翌朝まで続いた、眼を醒して押入を出て見ると、父親は大きな声で留守の者を叱りつけてゐる、栄二郎が見えない為めに、徹夜家探して見たがこの押入には気が着かなかつたらしい、自分は其時散散父に叱られたが、この子の強情には呆れたものだと、母親は深い溜息を吐いてゐた、悪い事をしたと思う半面には胸が空いたやうな軽い誇を禁じ得なかつた、誇るほどの事ではないが、それほど私は幼少の時分から肯かぬ気の忍耐力が強かつた。○下略
  ○右ハ『青淵先生懐旧談』ノ一節ナリ。


雨夜譚会談話筆記 下・第七五五―七五六頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕(DK010002k-0002)
第1巻 p.63 ページ画像

雨夜譚会談話筆記 下・第七五五―七五六頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕
○上略
御病歴に就て
先生「概評して、私の健康は極くよかつた。子供の時分、お母さんが私が風邪を引くのを心配して、着物を沢山着せられた、遊びに出てゐると、羽織を持つてお母さんが、私のあとを追廻されると云ふ程だつた。その為めか、青年の頃は却つて風邪を引き易くなつて、一度などは『お母さん、あなたの御蔭で私は大変皮膚が弱くなつた』など言つた事があつた。するとお母さんは『まーお前はひどい事を言ふ』と申された。○下略


渋沢栄一伝稿本 第一章・第七―九頁〔大正八―一二年〕(DK010002k-0003)
第1巻 p.63-64 ページ画像

渋沢栄一伝稿本 第一章・第七―九頁〔大正八―一二年〕
○上略 先生はかゝる家に生れ、かゝる父母に薫陶せられて生長し、家運の日にまして繁昌せるに反し、先生の兄弟は多く生育せず、数人の同胞中には、たゞ姉のなかと妹のていとあるのみ、他は皆夭死し、殊に男子は先生一人のみなれば、掌中の珠として父母の寵愛を一身に鍾めたり、殊に母君は先生の風邪に昌されんことを憂ふるの余り、幼き時より強ひて厚着せしめしかば、之が為め却て風邪に罹り易くなりたりとて、後には母君も後悔せられしとぞ、されど先生の体質は極めて強健にして、殆ど病床に親しめるは少かりき、尚健康に関しては別に細説する所あるべし。先生は幼き時より、物事を整頓せざれば心のすまぬ性質にて、召使の者などが、座敷の出入に障子を半分ほど開け放し置く時には、廻らぬ
 - 第1巻 p.64 -ページ画像 
舌にて障子を開けよと呼びたりとぞ、蓋し開くにもあらず閉すにもあらず、いづれの方にもなし置かざるが不快なればなるべし。されば来客ありても、其去るに臨みてさることある時は、母君の乳房に縋りながら、又障子を閉めずに行きたりと高声にいふにぞ、時には客の耳に入ることもありて、母君の気の毒なる思ひをなせるも屡なりき。此風遂に性癖となり、今日にても襖・障子などの半閉半開を嫌ふは、先生に接近せる者の能く知れる所なるべし。蓋し総ての事の秩序を正しく整理するを喜ぶは、先生の天性なり。
先生は幼より剛情なりき、一日親族なる渋沢宗助の家に事の催ありて、両親は先生一人を残し置きて彼の招に赴かんとす、たまたま先生戸外より帰りて之を知り、母君の袂に縋りて同行を求めたれども許されず留守には年老いたる夜番の爺と、数人の作男と二人の下婢あるのみ、先生は残り居て一人泣きつゞけたれども、やがて不平の余り、せめては父母を驚かさんものをと、潜に奥の間の押入に匿れたるが、いつしか眠に堕ちて両親の帰るをも知らず、晩香翁等は又幼児の在らざるを怪み、手を尽して門外までも探したれども見えず、さすがに押入までには気もつかず、徹夜大きに騒ぎて、留守の人々も苦慮大方ならざりしに、翌朝に至りて先生目覚めて自ら出で来るや、父母は此子の剛情には呆れたりとて、驚と怒と喜とを雑へて、いたく歎息せりといふ。先生父母に仕へて孝に、兄弟に友なり。○下略


雨夜譚 巻之一・第二―四丁〔明治二〇年〕(DK010002k-0004)
第1巻 p.64-65 ページ画像

雨夜譚 巻之一・第二―四丁〔明治二〇年〕
○上略 自分が書物を読み初めたのは、慥か六歳の時と覚えて居ます、最初は父に句読を授けられて、大学から中庸を読み、丁度論語の二まで習つたが、其れから七八歳の時、今は盛岡に居る尾高惇忠に習う事になつた、尾高の家は、自分の宅から七八町隔つた、手計村といふ処であつたが、此尾高といふ人は、幼少の時から善く書物を読むで、其上天稟物覚えのよい性質で、田舎では立派な先生といはれる程の人物であつた、殊に自分の家とは縁者の事でもあるから、父は自分を呼んで向後、読書の修行は乃公《オレ》が教ゆるよりは、手計村へいつて尾高に習う方がよいといひつけられたから、其後は毎朝、尾高の宅へ通学して、一時半か乃至二時程づゝ読むで帰つて来ました。
 しかし其読方は、今日学校で学ぶやうに、丁寧に復読して、暗誦の出来るやうなことはせずに、只種々の書物、即ち小学蒙求四書五経文選左伝史記漢書十八史略元明史略又は国史略日本史日本外史日本政記其外子類も二三種読むだと覚えて居るが、全体尾高の句読を授る方法といふのは、一家の新案で一字一句を初学の中に暗記させるよりは、寧ろ数多の書物を通読させて、自然と働きを付け、此処は斯くいふ意味、此処は斯ういふ義理と、自身に考へが生ずるに任せるといふ風でありましたから、唯読むことを専門にして、四五年を経過しましたが漸く十一二才の頃から、幾らか書物が面白くなつて来ました。それも経史子類などの、堅い書物が面白く会得が出来たといふ訳ではなく、只自分に面白いと思つた、通俗三国志とか、里見八犬伝とか、又は俊寛島物語といふ様な、稗官野乗の類が、至て好きであつたのでありま
 - 第1巻 p.65 -ページ画像 
す、其処で、此事を尾高に話して見たら、尾高のいふには、其れは最も宜い、読書に働きを付けるには、読み易いものから入るが一番宜いドウセ四書五経を丁寧に読むで腹にいれても、真に我物になつて、働きの生ずるのは、段々年を取て、世の中の事物に応ずる上にあるのだから、今の処では、却て三国志でも八犬伝でも、何んでも、面白いと思つたものを、心をとめて読みさへすれば、何時か働きが付て、外史も読める様になり、十八史略も史記も漢書も追々面白くなるから、精精多く読むがよいといふので、猶更好むて軍書小説の類を読みましたが、其極すきな証拠には、丁度十二歳の正月、年始の廻礼に、本を読みながら歩行いて、不図、溝の中へ落ちて、春着の衣裳を大層汚して大きに母親に叱られたことを覚えて居ます。
其れから十四五の歳までは読書撃剣習字等の稽古で日を送りました。
○下略


竜門雑誌 第三〇六号・第三〇―三四頁〔大正二年一一月〕 【青淵先生懐旧談】(DK010002k-0005)
第1巻 p.65-68 ページ画像

竜門雑誌 第三〇六号・第三〇―三四頁〔大正二年一一月〕
○上略
▲三字経と尾高藍香 五歳の春から親しく父の口授の下に習ひはじめた「三字経」と云ふのは、其頃汎く世上に行はれたもので
  「人之初。性本善。性相近。習相遠。」
などゝ韻を踏んで、倫理、道徳、天文、歴史、文学を極めて平易に説いた、三十枚程の本であつた。
  「三綱君臣義。父子夫婦従……。蚕吐糸犬守夜。……」
朗々として誦ずる父が句読は、今尚ほ耳底に在る心地がする。それから孝経、小学、大学、中庸と段々教はつた、小供には記憶し悪い漢字であるから、よく忘れることがある、忘れた時は父から叱られるが、それが恐ろしいので、忘れないやうに一生懸命で復習して居たこと抔をよく覚えてゐた。又その頃両親が
  「この児は覚えがよいから、少し勉強させたら学問が出来るだらう。」
などゝ話して居られた事も覚えてゐる、やがて論語の二まで読み進んだ時に、家でも忙がしいし、それに所謂父子の間では世間でも余りやらぬ事だ、寧ろ漢籍の師匠を取つて勉強した方が為めになる、斯う云ふので父は親戚の漢学者尾高惇忠の許へ読書に行くやうにと命じた、それは私が七歳の年であつた。
 尾高惇忠と云ふのは、父晩香の実姉阿八重が、隣村手計村の吏正尾高勝五郎《(里正尾高勝五郎)》(保孝)に嫁し、数人の子を生んだ、惇忠は其の第三男で、通称を新五郎と云ひ藍香と号した、この人は私の従兄であり、私の先輩であり、私の師匠で且つ義兄である。私の一身上には非常に重大な関係があるから、別に後に詳しく述べる事とするがこの藍香は非常の天才で、七歳の頃四書の句読を受くる時から夙く頴敏の誉を得同時に書法を伯舅渋沢氏に学び、更に遊歴儒者として此村に来れる菊地菊城に就て経義を講じたのみで、殆んど独学でやつたのであるが、却々の学者として近郷に隠れなき声名を博してゐた。
 尾高の家は自分の宅から七八町の東であつた、それからは毎朝尾高
 - 第1巻 p.66 -ページ画像 
の家へ通学して一時間半か乃至二時間位づゝ読んで帰つて来た、其の頃の日課と云へば、単に読書と習字ばかりであつたが、当時の読書法は、今日学校で学ぶやうに、叮嚀に復読して暗誦の出来るやうなことはせずに、只種々の書物、即ち小学、蒙求、四書、五経、文選、左伝、史記、漢書、十八史略、元明史略、又は国史略、日本史、日本外史、日本政記、其外子類も二三種読んだと記憶してゐるが、全体尾高の句読を授ける方法と云ふのは、自家独特の新案で、一字一句を初学のうちに暗記させるよりは、寧ろ数多の書物を通読させて自然と働きをつけ、此処は斯ういふ意味、其処はどういふ義理と、自身に考へが生ずるに任かせるといふ風であつたから唯読むことを専門にして四五年を経過した、一日に十五六枚より多い時は三四十枚も読む、只訳も分らずに凡そこんなものだらうと云う漠然たる見当しか付かなかつた、斯て次第に読書趣味が進んだと見え十一二歳の頃から書物が面白くなつて来た。
▲稗官野乗を耽読す 十一二歳の時から読書趣味も進んで来て、書物が面白くなつて来たとはいふものゝ、それが経史子類などの堅い書物が面白く会得が出来たといふ訳ではなく、只自分に面白いと思つた軍談稗史小説の類が至つて好きであつた、尤も最初に読んだものは俊寛島物語でこれに手をつけはじめたのは、恰度十歳であつたと記憶する、その頃小説としては京伝、種彦、馬琴などの作がいくらもあつたが、自分は殊に馬琴の作を好み、趣向に勧善懲悪の意を含ませ、結構が奇々怪々であつたから、それが非常に面白かつた、通俗三国志、里見八犬伝などの稗官野乗の類が至つて好きで、父の実家からよく借りて来ては頻りに耽読した、八犬伝などは三回も四回も繰返して読んだ美少年録、お俊伝兵衛、三勝半七なども読んだ、殊に三国志、漢楚軍談、呉越軍談などは殆んど寝食を忘るゝまでに耽読し、その中に現はれて来る孔明、玄徳、関羽、張飛、曹操、孫権等の人物を評論しては、自分もその豪傑の仲間入した位に肩を聳やかしてゐた。
 幼年時代から少年時代を経過して、憂国慨世の青年時代に到達する迄、竹馬の友として親しくした朋友には、渋沢喜作、尾高長七郎の二人がある、孰れも私の従兄で年は私より二歳づゝ上であつた、父の実家の宗助の宅にも一歳上で孫二郎と云ふのがあり、晩年宗五郎と称した人がゐるが、これは一向読書趣味などのない人で余り親しくしなかつた、喜作は昨年病歿したが、同時に国事に奔走して横浜焼打、高崎城奪取など云ふ陰謀を企らみ、其の後時勢が一転して、自分が幕臣となり洋行するまで、始終境遇を一にした、又長七郎は国事に熱中した余り、不幸にして其終を完うせなんだが、兎に角藍香翁を中心にしてこの三人が武州の僻陬に回天旋地の大謀を企んだ仲なので、この話をするにも感慨は一入切なるものがある、喜作、長七郎の事は藍香翁に次で後に詳しく述べる事とする。
 さて私の六七歳頃から八九歳までの間は、根喰をいぢり、独楽を弄ぶ、夏などは裏の淵で水泳ぎをする位のもので、今の時世のやうに玩弄などゝ云ふものはなかつたものだが犬は大変好きで成るべく強さうな犬を飼つて貰ひ、村中の小供を集めて自分の犬を連れ出し、隣村の
 - 第1巻 p.67 -ページ画像 
犬と喧嘩させては喜んで居た、殊に私が八九歳の頃はこの犬の噛合に興じた絶頂で、その頃、隣村北阿賀野の銀蔵と云ふ中百姓の家に「黒」と呼んだ逞ましい獰猛な闘犬がゐた、純粋の日本犬で耳が逆立ち、尻尾がキリキリと捲揚がつて、全身漆黒の毛並美しく、眉間のところに自毛輝やく一点の星があつた、この黒の向ふところ四隣敵なしと云ふ有様で、自分の許の犬などは始終この黒の為めに悩まされ、残念で口惜くて遺恨骨髄に徹してゐたが、自分の犬はそのうち病死して了つたので、熊五郎と云ふ私の従者の様にしてゐる男が、彼の黒を一層の事此方で貰ひ受けたらよからうと云ひ出した。
▲熊五郎と闘犬「黒」 この熊五郎と云ふのは、私よりは五六才年上の男で、やはり渋沢の流れを汲む古い分家の次男であつた、毎日のやうにやつて来ては家来のやうに自分に侍いてゐた、この熊五郎がまた私に輪を掛けたやうな大の犬好きで、私の犬の噛合に隣村迄を駈廻る毎に始終影の形に添ふ如く連添ふてゐた、体格の頑丈に出来た力のウンとある従者としては最も勇敢な、そして最も忠実な男であつた。
 自分の家の犬が病に斃れて、意気沮喪してゐる処へ熊五郎がやつて来て、「坊ちやん、落胆するには及びませぬ、熊五郎奴には善い思案が厶りまする。」と斯う言つて熊五郎は私に銀蔵許の黒を貰つて了ひませう、それが一挙両得の策で厶りますると囁いた、私は急に元気づいて得意顔の熊五郎を框の上から凝と見た。
 藍の蒸れる匂ひが藍倉の方から通つて来る、門の脇の百日紅の花弁が音もなく翻りと地に墜ちる、家人が昼寝期の静けさを見澄まして、両人は田圃伝へに北阿賀野の銀蔵の家へ走つた。
 何うして迚も手放すまいと思つたのが容易くその黒を呉れたので、私の喜びは非常であつた、昨日までの怖ろしい敵が今日からは自分の所有物、併かも黒は近郷に並ぶものなき逸物、斯くと聞いた遠近の人は、耳を聳て目を丸くして驚いた、淵の上の坊ちやんの得意想ふべしである。
 数十度の戦場を潜り抜いた古剛者、それに熊五郎と云ふ好参謀を配したのだから黒の嚮ふ処挑んで勝たざるなく、邀へて破らざるなく、「渋沢の黒」の名は恐怖を以て迎へられ、猜疑を以て囲まるゝ有様であつたが、遂に人の為めに猜まれて後肢をブラブラになるまで斬られた、その時は既うこれで殪れる事かと心配したが、間もなく平癒つて前にも倍した武者振を現はし、ソラ渋沢の黒が来たと云へば、犬を飼ふ家では戸を閉めて外へ出さぬ程に怖れられた、自分はまたこの黒の咬合振を記憶えてゐる、敵に向つても悠々として何処を風が吹くと云ふ態度をしてゐるが、イザとなるとウオーツと吼えてどツと起立り様躍り込んで突如敵の咽喉許に咬付く、そして敵が急所の痛手に藻掻き苦んで、絶入るやうな悲鳴をあげるまで凝乎と抑へてゐる、斯うした老巧な咬合振は駈出しの闘犬などにはなかなか出来ぬ事である、この手で大抵の敵は平伏て了ふ、斯ういふ時は例の犬の先生役の熊五郎がこれも凝と黒の戦振を監視してゐて、万一形勢我に非なりと見る時は嗾けもするが、大抵の場合は息を殺して眺めてゐる、斯くして黒の全盛時代は可なり長く続いた。
 - 第1巻 p.68 -ページ画像 
 熊五郎が黒を愛する事は、自分以上であつた、よく田舎にはある慣ひの、その頃馬が病死でもすると、野山などの棄場へ棄てゝ仕舞つたものである、ところがこの馬の肉を犬に喰はせると、大変気性が荒くなつて元気も一倍出て来る、黒が漸く全盛期の下り坂になりかけると熊五郎の心配は並大抵ではなかつた、自分の骨肉に対するやうに劬はつて、よく土蔵の廂の下の犬小屋へ蹲まつてなでたり擦つたりしてゐたが、或時馬棄場から窃と死馬の肉を斬取つて喰べさせてゐた事がある、私はまた家へよく来る深谷町の福岡春清と云ふ漢法医に頼んで、黒の為めに薬を調合して貰つた事などもある、思へば七十余年前の夢物語、熊五郎は既う十四五年以前に歿つて了つた。○下略
  ○右ハ『青淵先生懐旧談』ノ一節ナリ。


渋沢栄一伝稿本 第一章・第一二―一四頁〔大正八―一二年〕(DK010002k-0006)
第1巻 p.68 ページ画像

渋沢栄一伝稿本 第一章・第一二―一四頁〔大正八―一二年〕
○上略 先生十四五才の頃には最も闘犬を好めり、常に村内の児童を集めかねて飼養せる愛犬を牽きて、隣村の犬と闘はしむるを楽みとせるが其頃北阿賀野村の百姓銀蔵といへる者の家に、黒と呼ばれたる猛犬あり、全身漆黒の毛並美はしく、眉間に一点の白毛明星の如く輝きて、向ふ所敵なし先生いたく之を羨み、遂に懇望して飼犬となしたり。爾来此黒を携へ歩きしに、挑んで勝たざるなく、邀へて破らざるなく、渋沢の黒といへば近郷中に並ぶ者なき逸物として知らるゝに至る。されば愛撫の情亦深く、後年其病に罹るや、深谷町の医に託して薬を施せりといふ。以上に叙したるが如く、先生は少年時代より細心の注意に富み、秩序を重んじ、整理を喜ぶの風あり、長ずるに及びて沈着剛毅、容易に物に心を動かさず、且勝ち気にして負けじ魂を有せるなど、先生将来の性質は早く此頃より顕はれたり。加之闘犬を好みたるを見ても、其静的の人にあらずして、動的の人たるを想見するに足らんか。其友子の情に厚かりしは、人倫に厚き所以にして、弱齢にして既に迷信を排せるは、亦漢学教育に負ふ所あるべく、共に非凡の資あるを察すべきなり。要するに先生は早熟の人なり、早熟の人には往々中道にして廃する者あれども、先生は才徳年と共に長じて円満成熟せられしは、尋常神童の比にあらず、それらの事情は更に次章に叙せんとす。


竜門雑誌 第三一四号・第一一―一二頁〔大正三年七月〕 余が始めて論語を読みし時(青淵先生)(DK010002k-0007)
第1巻 p.68-69 ページ画像

竜門雑誌 第三一四号・第一一―一二頁〔大正三年七月)
  余が始めて論語を読みし時(青淵先生)
 私の少年の頃には当時徳川幕府の膝元たる江戸に於ける教育の主たるものは漢学であつた。多くの武士……大名、旗本、御家人の学ぶべきものは漢学である。そして其論理的学問は主として四書によるものであつたが四書は難しいので、少年に対しては三字教或は蒙求、小学などを読ませ又孝経も読ませた。此等はみな少年のもので、十才以上になれば四書、五経を漸次了つて歴史物に進むが順である。私は田舎者であつたが、田舎でも身柄のよい百姓は些か宛は漢学を学ばせたものである。田舎では普通の人は四角文字を読むものでない。四角文字は農業の妨げであるとて之を禁じてゐた、禁じたといふよりは、読む
 - 第1巻 p.69 -ページ画像 
力がなく又暇もないのである。私も百姓の生れだから充分といふ訳にはゆかなかつたが、普通の少年よりは記憶がよいといふので六七才頃から三字教を父より学んだ。私の姉は私よりは五才上で私と一しよに学んだが姉は往々忘れた個所があるに拘らず、私はよく記憶してゐたから、其為め父は私を賞めて姉は何時も叱られた。それ故本を習ふ時丈けは姉と仲が悪くなるといふ有様であつた、論語を読み始めたのは其翌年であつたと思ふが、巻の二の泰伯篇の辺りに来て、父は最早や自分の手におへぬし、又忙しくもある処から、親類の私には十才上の従兄に当る藍香と称する尾高新五郎といふ人に依頼してくれたので、私は夫れよりは四五町を距てた従兄の所へ通ふた。此尾高は又埼玉県の東部の菖蒲村といふ村の菊地菊城といふ人に就て学んで、相当に出来る人であつた。菊地といふ人は私の十四五才頃迄は月に何回か尾高の家へ来たのであつたが、私も都合三四回は其講義を聞いた事があつた。始めは文字の真義なぞは一向判らず、只だ師の口によつて発音される通り、解せぬながらも繰り返してゆく中に字体が解り、漸く読む丈けは出来て、後には面白さが生じ読みも達者になつた。さうなると講義を聞いても質問を頻りに起すようになつて来る。それで何日であつたか何でも第二巻公冶長篇かの
 子謂子貢曰。女与回也孰愈。対曰。賜也何敢望回。回也聞一以知十。賜也聞一以知二。子曰。弗如也。吾与女弗如也
といふの処を私がよく解釈したといふので、此菊地といふ人に賞められた事を今でも覚えてゐる。其後も一度か二度能く解釈して賞められた。併し私は学問の間に農事に従事せなければならぬので、親から少し止められた。父は何でも「行つて余力あれば以て又文を学ぶ」とあるではないかなどゝ叱つたものである。
 私はそれに稗史野乗が好きで、三国志中の玄徳が立身の間に艱難が多い処なぞ面白く読んだ。馬琴の作も殆んど読み尽した。其他眼に触るゝ限りの此種の本を二里程離れた本庄といふ処の貸本屋から借りて読み、先方で月二回程取替へに来るのが待ち遠くて、よく自から出掛けて行つた。そして往き復りに読み歩くといふ程で、或年の正月には其為めに溝へ落ちて衣服を汚して叱られた事もある。
 其後明治の初年に於ては世の中が騒しくなり、我我も彼地此地と東奔西走してゐた為に書物どころの話ではなく、論語なぞも暫く見なんだが、明治六年銀行業に携はる事になると同時に、何か一身の舵をとつて行くに必要なるものをと考へた上が此論語の事を想ひ起した。爾来四十余年私は常に此論語を愛読して来たものであるが、私の論語を愛読するといふ事は、元来商人は銖錙の利を争ふ者である、賢者も一歩を誤れば利の為には道を失ふ事がある、況んや商人に於てをや、これはどうでも俗世間に在つても尚ほ身を誤らざる様、拠るべき規矩準縄を有せねば危険であると感じたが為である。(新日本掲載)


藍香翁 (塚原蓼洲著) 第一七―一八頁〔明治四二年三月〕(DK010002k-0008)
第1巻 p.69-71 ページ画像

藍香翁(塚原蓼洲著) 第一七―一八頁〔明治四二年三月〕
        (四)翁の学風
然《さ》ばかりに困難《むづか》しかりし家中《いへ》の風波も、青年なる案針手《あんじんしゅ》の翁が巧妙な
 - 第1巻 p.70 -ページ画像 
る操縦に由りて、礁《いは》にも乗り上げず、潮にも溺れず、今や平和の海を行く如き一家とはなれりき。此等の始終に太《いた》く感心せられたるは、翁が叔舅《をぢ》、かの血洗島なる渋沢市郎右衛門氏なり。『彼者《あれ》は非凡《ゑら》い。あの通りの孝心である上に、今度の執計《とりはから》ひなどは老成人《としより》も敵はぬ。其上に身持は堅固、商売には出精、学問は出来る、才智は鋭し、末頼もしい壮者《わかもの》で、いづれ世の中に何か一仕事すべき豪傑《えらもの》になるであらう』と。然れば氏も翁を愛すること猶ほ子のごとく、彼《か》の製藍の業の如きは、特に力を用ひて幇助《たすけ》られ、又子息栄一君今の男爵をして、翁に就きて読書の句読を受けしめられぬ。此れに附きての男爵が親話を、左に記すべし。曰く、
 私が翁の家へ書物を教《をそ》はりに行つたのは、七才《なゝつ》の時と覚えて居る。翁は私より十年上だから、蓋し十七の年でしたらう。十七の青年では有つたが中々善く書《ほん》をば読んだ。私などが子供心にも、江戸の聖堂の御儒者といふ先生方でも、此人ほどには善く読めまいと思ふ程に達者に読むだ。
 で、私が最初に教はつたのが論語で。それから孟子。所謂る四書五経、小学、と上げて、更に文選、史記、漢書。又たそれに取り交《ませ》て十八史略、国史略、日本外史、日本政記などゝ読んで貰つた。又た私が十四五の時と記憶《おぼえ》て居る。翁は何所からか浜田弥兵衛、山田長政、鄭成功の伝記といふものを持て来て私に示された。私は其れを読んで、非常に面白く感じたので、其中の不審の点について、『此処は何う?彼処は何う?』と質問をした。処が翁は大層喜んで、其書の主公たる弥兵衛、長政、国姓爺《こくせんや》に就て、書物以外の逸話をも話して呉れられたので、私はついに覚えぬ興を以て一晩聴いたことを今以て記憶て居る。で、お話は戻るが、翁が句読《くとう》の授け方は、尋常のとは違つて、一種の『捗遣《はかや》り主義』でした。其の時分の句読教師が生徒に教ふのは、其書の一箇所を丁寧に読せて、幾《ほと》んど諳誦の出来るまでにして、扨て其次へ移つたものゝ様に記憶て居る。例へば論語なら『学而時習之、不亦説乎。有朋自遠方来、不亦楽乎。人不知、而不慍、不亦君子乎。』――これを何遍も繰返して善く記憶てから、其次の『子曰』に移るといふ風にした。処ろが翁のは其れとは違つて。『私は一種の読書法を遣る。』と云つて、只だ無暗に読ませる、一度に三十枚も四十枚も読む。で、所々に、『此処は恁う云ふ意味である。其所は斯う云ふ趣意である。』と、句読兼講義といふを遣《や》る。『此れが読書の力を附けて、効能を早く収める方法である。』と言はれて居た。或は是れは、翁自分が読みたい為に、名を此の新機軸に藉りたのかも不知《しれ》ぬ。然も果して此の『捗遣り法』が教授法として善いか、悪いか、それは不知《しら》ぬが。兎に角意味も解らぬ暗誦法よりも、『句読兼講義法』は、私共には幾許《いくら》か其の効果を収められたかの様に感じて居る。又た翁が文字の力と云ふも非常なものでした。あの文選など、如彼《あんな》な難かしい文字のみの並列《ならべ》てある書物でも、翁は只だ少しく字引を引く位のもので、大抵はすらすらと読み下した。勿論所謂る百姓読では有つたらうが、何にせよ二十才未満《はたち》の青年であつて其程の読書力の有つたと云ふは
 - 第1巻 p.71 -ページ画像 
驚くべき理《わけ》のもの。今考へても何分普通《なみなみ》の者では無い。我々には真似も出来ぬと謂ふものでありました。
渋沢男爵は偉人なり。其の所親《しょしん》に私しせらるゝ人に非ざるなり。其の私しせられざる偉人の男爵にして、推服せらるゝ恁くの如きを見る時は、青年時代に於ける翁が見識、その学力、夙《はや》く既に尋常《よのつね》のものに非ざるを知るに足る。然も其の『捗遣り主義』なる教授法は、飽く迄も時日の徒費を惜むといふ経済兼実用主義の、翁が面目の這裏《このうら》に躍如たるもの有るにあらずや。すなはち翁は、凡てに附きて、無益《むだ》といふ事を太《いた》く嫌はれたり。何物にもあれ国土の用を為すものを、徒《むだ》に費やすことを誡められたり。故に自身も家に在る時は、一寸の間も光陰を空しく送らるゝと云ふことは無かりき。商売の暇ある時は、耕作し。耕作をしつゝ又た店商《みせあきなひ》をもせられたり。然も其の計算点簿、往復錯綜の間と雖も、読書は少間《しばらく》も之れを廃せず。猶其の鍬鋤を手にせらるゝ時太甚《はなはだ》しきは其の道行く際《をり》も巻を目にして、読み、歩み、且つ労作するを恒《つね》とせられき。然れば翁の学問の大部《おほく》は、此等零砕の時間を利用せられしより出でゝ、人知らぬ間に早くも一廉《いつかど》の学者と為られしなり。別言すれば、翁は其の精力の有る限りを尽して、自家の為め、寧ろ国家の為に、其の効を致さんことを謀られたるなりき。
とは言ふも翁は又た、世の道学者流の如き頑《かたく》ろしき方には無くて、時としては花を憐み、月をも翫《もてあそ》び、興に乗じては詩賦をものせらるゝ事もあり。然れども其の詩も賦も、常に忠孝の誠を基として、かの思無邪《おもひよこしまなし》の本意を蔑《ないがし》ろにせらるゝ事なし。○下略
    ○「困難しかりし家中の風波」トハ、藍香ノ祖父母ト母トノ不和ヲ指ス。


竜門雑誌 第二九二号・第一五頁〔大正元年九月〕 【総秀院喜作居士の霊前に於て】(DK010002k-0009)
第1巻 p.71-72 ページ画像

竜門雑誌 第二九二号・第一五頁〔大正元年九月〕
○上略 私が居士との交誼は、親戚の関係は申すまでもございませぬが、第一に郷里を同うし、又年輩を等しうし、其嗜好に其業体に、其教育に殆ど一身分体と申しても宜しい有様に、成長致したのでございます。時恰も時勢の変遷に遭遇しまして、共に郷里を去つて、一身の位地を変更すると云ふ場合に至り、再び転じて遂に此聖代に浴すると云ふ境遇に至りまする其経路は、所謂高山もあれば大川もあり、峻嶺もあれば、懸崖もあり、又或る場合には其道路平坦砥の如く、春の霞の長閑な時にも際会致したのでございます。居士と私との生涯は之を別けて三段に言い得ると思ふのでございます。郷里に成長致して、共に其業を勉め、其業務の間に農民ながら文武の道に心懸け、聊か社会国家に貢献しやうと考へたことも、全く同一でございます、その初め幼少の時などを回想しますると、多分私が七才の時であつた、疱瘡を病んで居る際に、他の友人では自分が安じられぬ。是非新屋敷から喜作が来て呉れねば、私は食事をせぬと云うて、母親を大層困らせたことがある、依て之を通ずると居士は喜んで来りて終日私を慰撫して呉れたなぞと云ふことは、今も尚ほ記憶に存して居ります、軈て成童になりましてから互に家業に従事し、相共に其業を勉励しました、両人の父が兄弟であつて、其志を同ふしたから勢ひ両人も親しく相交はることは理の当然でございます、共に郷里に於て業体を発展しやうと考へて居
 - 第1巻 p.72 -ページ画像 
つた。○下略
    ○右ハ「総秀院喜作居士の霊前に於て」ト題スル栄一ノ談話ノ一節ナリ。


はゝその落葉 (穂積歌子著) 巻之二・第二七丁〔明治三三年〕(DK010002k-0010)
第1巻 p.72 ページ画像

はゝその落葉 (穂積歌子著)巻之二・第二七丁〔明治三三年〕
○上略 或る夜の御物がたりに。我身十才ばかりの頃。御許らの父君は十一。今万年町に住ませ給ふ喜作ぬしは十三四才にて。日々我が兄君の許に物学びに通はせ給ひければ。我も折々傍にありて聞き参らする事ありき。ある時教子たち帰り給ひし後。今日兄君の講じ給ひし某の書何々の章の何々とあるところ。心得がたく侍るを如何なる事にかをしへ給へと云ふに。兄君家の業にて心いそしくおはしゝ折にやありけん。うるさき事をも問ふものかな。女子のさる事知り得て何にかする。と仰せしかば。口惜しうて。女子なりとて人には侍らずや。人として物の理り知らまほしと申すを。要なきわざと宣ふは。兄君の御言葉とも覚えず。とて顔赤うしていきまきけるを。母君きゝ給ひて。やよ千代よ。そは常にも似ずおとなしからず。兄に向ひて礼なきことないひそとたしなめ給ひしを。兄君いやとよ。千代が申すこそことわりに侍れ前に云ひしはそゞろ言なり。女子なりとて人の道知らでよかるべしやは。此後はいとまだにあらば。千代をはじめ妹等にもひじり文のはしばし教へ侍るべし。とて其析論語のいづれのまきにかありけん。一ひら二ひら我ために講じ聞かせ給ひき。其後年たくるまゝに。兄君はいよいよことわざしげくなり行かせ給ひ。我等も蚕飼または糸とり機おりなど万づの手わざにいとなかりければ。ことに書典に向ふ事こそなけれ。兄君のよりより古の忠臣孝子の上などねもごろに語り給ふを。衣ぬひながら打きく夜もありき。されば我身から書は一くだりだに読み得ず。手も人なみにだに得書ねど。おろおろ物の道理知り得たるは皆兄君の御いつくしみによるなりなど仰せられけり。
  ○「はゝその落葉」ハ、栄一ノ長女穂積歌子ガ藍香ノ妹ナリシ母ヲ偲ビテ著ハシタルモノナリ。


渋沢栄一伝稿本 第二章・第二一―二三頁〔大正八―一二年〕(DK010002k-0011)
第1巻 p.72-73 ページ画像

渋沢栄一伝稿本 第二章・第二一―二三頁〔大正八―一二年〕
○上略 先生五才の時、晩香翁初めて三字経を口授せり、之を先生が読書の始となす、やがて古状揃・消息往来をも課し、習字には千字文を用ゐたり。晩香翁の自書して与へたる消息往来尚存す尋で孝経・大学・中庸を学び 進みて後藤点の論語に及び、同書の巻二に至れる時、専門の師に就くべしとて、尾高新五郎惇孝、後惇忠と改む、藍香と号す、以下藍香と記すに随従せしむ、時に七才なりき。新五郎は翁の姉やへが隣村下手計の名主尾高勝五郎保孝に嫁して生める所にして、先生の従兄に当る。藍香は嘗て此村に来遊せる菊地菊城に就いて経義を問ひたる外は、別に師と称する者もなく、独学にて和漢の群籍を読み耽り、ほゞ学事に渉る、先生が教を受け始めし頃は、漸く十七才の青年なりしが、既に夙慧の名ありしといふ。かくて先生は七八町許り距りたる藍香の家に通学し、論語里仁篇の素読より始めしが、四書を畢りて小学・五経に及び、年長ずるに従ひて、蒙求・十八史略・元明史略・国史略・日本外史等を読み、唐宋八大家文・文選・古文真宝等の講義を聴き、傍ら詩を作り文を綴ることをも学べり。
 - 第1巻 p.73 -ページ画像 
先生十一二才の頃、文字に熟するに及び、読書の趣味と共に長じたれば、課業とする経史・子類の外、軍談・稗史・小説等にも興味を感ずるに至れり。其始めて読みたるは俊寛島物語にして、引つゞき通俗三国志・里見八犬伝・漢楚軍談・呉越軍談等を耽読し、書中の英傑の風采を想望し、小き肩を聳かして孔明・玄徳・関羽などを以て自任じたり。藍香も之を制せずして、「読書力を養ふには、読み易きものより入るを便利とす、四書・五経を学びたりとも、世に処し身に行ふは年長けての事なり、何なりとも面白しと思ふものを注意して読みたらんには、自ら文義等をも会得して、経史の講習に裨益尠からざるべし」とて、寧ろ奨励せしかば、先生之を喜び、或は晩香翁の実家より.或は本庄町の貸本屋よりつぎつぎに借読して、夜の更くるを忘れしことも屡にて、就中馬琴の著作は最も愛読せる所なりき。されど晩香翁は先生が余りに軍談・小説に耽けるを見て、かゝるものは何の用にも立たぬものなり、真面目なる書を読めと、口癖の如くに注意せしが、既に藍香の奨励あり、己も亦好む所なれば、後には翁に秘して閲読したりといふ。先生が十二才の春、父の代理として年始の廻礼を命ぜられ、本庄町に赴ける時、同地の貸本屋に返却すべき書籍ありしかば、途中之を携へて歩みながら読み始め、いつしか佳境に入りて気を奪はれ、誤ちて溝中に陥り、新装の春着を汚したれば、廻礼も出来ずして引返し、いたく母君に叱責せられたる処へ、藍香年始の礼に来りて母君を宥めたることもありき。
  ○栄一ノ読書始ハ自ラ『雨夜譚』ニ六歳トイヒ『青淵先生懐旧談』中ノ『父母ノ俤』ニハ五歳トイフ。稿本ハ後者ヲトリ、五歳トス。何レガ正シキカ今確メガタケレドモ、此処ニハ最初ノ談話タル『雨夜譚』ニ拠リテ、六歳トス。


御口授青淵先生諸伝記正誤控 第一一五頁〔昭和五―六年〕(DK010002k-0012)
第1巻 p.73 ページ画像

御口授青淵先生諸伝記正誤控 第一一五頁〔昭和五―六年〕
                     (竜門社所蔵)
御訂正(五)○沢田謙著「渋沢翁一代記」五頁挿入写真を「渋沢子爵の勉強せし部屋」と説明してあるが、之に就て仰。
 「これはたしかに尾高先生の御座敷には相違ないが、子供は座敷などで勉強させるものかね、私は二階の狭い所で勉強したのだ。」
   ○『御口授青淵先生諸伝記正誤控』ハ、栄一ノ晩年渋沢事務所ノ佐治祐吉氏ガ栄一ノ諸伝記ヲ読ミ上ゲ、栄一ニ誤謬ノ訂正ヲ請ヒ、コレヲ筆記セルモノナリ。


御口授青淵先生諸伝記正誤控 第一一四頁〔昭和五―六年〕(DK010002k-0013)
第1巻 p.73-74 ページ画像

御口授青淵先生諸伝記正誤控 第一一四頁〔昭和五―六年〕
                     (竜門社所蔵)
幼にして怜悧(四)○沢田謙著「渋沢翁一代記」第四頁第三段の六十年史引用文「十三四才ノ頃ニ既ニ成人ニ異ラズ」に就て仰あり。
 仰「それはほんたうだよ……十二の時にね、村で獅子が出た時にお前が「法眼」になれると云はれてね、自分が実は雄獅子の出る家と極つてゐたので、法眼なんか嫌だ、自分は雄獅子になる、それが『理の当然だ』と云つた。すると未だ十二の子供がどこで覚えたか、理の当然などゝいふ言葉を覚えてゐるといつて、人々が驚いた事があ
 - 第1巻 p.74 -ページ画像 
る。友助といふ村の人が、『お前さんどこから覚えて来た』といふからね、『なあにそれ位の事は誰でも知つてるよ』と云つた所が、友助は『わしは六十近い老人だが、こんなませた事を云ふ子供は未だ見た事が無い』と云つてね……」


竜門雑誌 第四八一号・第三〇四頁〔昭和三年一〇月〕 郷党及親戚故旧に厚き青淵先生(穂積歌子)(DK010002k-0014)
第1巻 p.74 ページ画像

竜門雑誌 第四八一号・第三〇四頁〔昭和三年一〇月〕
    郷党及親戚故旧に厚き青淵先生 (穂積歌子)
○上略 惣じて大人は人から受けた恩義及び厚意等を深く感じて末長く忘れることの無いに反し、人を怒り人を憎むといふことは極く稀れで、若し有つたとしても直ぐ打忘れてしまはれます。大人が青年であつた時代、郷里で親戚の年長者の一人に、至つて我儘な人が有りまして、始めの中は大人の学才を褒めそやし、「自分の親類中にこの様な秀才が有る」などと自慢もして居たが、追々大人の学才が其人より遥かに優つて居ることを知ると共に嫉視する様になり、常に意地の悪い事や、皮肉な事ばかり云ふ様になりました。心の広い大人も腹に据かねることもあつたさうですが、議論して其人をやりこめなどすると、親類間に面倒を生じ、父上に心配を掛けることにもなるべき事情が有つた故、いつも口を箝んで堪らへられたさうです。若年の時のことではあり、流石の大人も其憤懣は余程印象が深かつたと見え、折にふれてその悔しかつたことを話し出されますが、然しいつも斯様に付け加へられます「人の勉学修業には傍からの刺戟が大なる功を奏するものである。後になつて考へればあの人の意地の悪い言行が、大いに自分を鞭撻してくれたのであるから決して恨むべきでは無い」と申されます、斯様に何事も善い方にのみ解釈せらるゝのが大人の天性であります。○下略
  ○ココニ「青年であつた時代」トアレド、或ハ少年時代ノコトナランカ。


渋沢栄一稿本[渋沢栄一伝稿本]第二章・第二三―二四頁〔大正八―一二年〕(DK010002k-0015)
第1巻 p.74 ページ画像

 渋沢栄一稿本 第二章・第二三―二四頁〔大正八―一二年〕
○上略 先生が藍香に就きて読書せる頃より、又書法を伯父誠室徳厚、通称を宗助といふ、誠室は其号なりに学びたり。誠室は中村仏庵の門人にて柳公権・顔真卿などの風を善くする者なり、先生初は其風を規模せしが、二十才前後の書に藤森天山に類するものあるは、天山に親炙せる感化ならん。天山に親炙の事下文に見ゆ其後は何となく古法帳を臨模して自得せる所多し。先生生来筆まめにして、毎日の日記、応酬の書翰を始め、他より依頼せらるゝ序跋・碑文の類まで、労を厭はずして執筆すること、老境に入りて後も変ることなし。且又武芸は晩香翁が神道無念流を学べる故を以て、同流なる従兄渋沢新三郎長徳、後ち通称を宗助と改むに就きて受けたり、新三郎は誠室の子にして、川越藩の師範役大川平兵衛の門に入り、免許皆伝を得たる剣客なり。藍香の弟なる尾高長七郎弘孝又は弘毅後又弘忠と改む、省斎又東寧と号す同平九郎後ち先生の養嗣子となる事は後章に詳なり。及び同族渋沢喜作晩香翁の兄文左衛門の子、蘆陰と号す、後年一橋家に仕ふるに及び、成一郎と改め、維新後また喜作に復す、今通じて喜作の称を用ゐたり、先生と同村に住す等皆先生と同門なりき。此中長七郎と喜作とは年令も同じ程の従兄弟なれば、竹馬の友として特に親交を重ね、互に文武を研鑚したるが、長ずるに及び先生と手を携へて国事に奔走せることは、後章にいふ所あるべし。
 - 第1巻 p.75 -ページ画像 

雨夜譚会談話筆記 下・第八二六―八二九頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕(DK010002k-0016)
第1巻 p.75 ページ画像

雨夜譚会談話筆記 下・第八二六―八二九頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕
先生の書に就て
先生「私は一番最初お父さんから手本を書いて貰つて、それを習つた。今度『晩香遺薫』と題して私のお父さんがお書きになつたものを纏めて本にして、出す事にしてゐるが、その中にある商売往来は私が手本に書いて貰つたものだヨ。それから更に進んで、お父さんの兄さんで宗助と云ふ人――此人はお父さんの生れた家を嗣いだ人だが――誠室と号して中村仏庵の門人であつた。唐様の書をうまく書いた人だが、何でも顔真卿や柳公権を学んだそうである。仏庵は江戸の書家で、市川米庵と同時代かそれともそれよりも前の人かも知れない。○中略一言にして評すれば、仏庵の字はぎこちなく、米庵の字は曲る処で高くなつてゐる。○中略私の書と云ふのは、そんな深い研究をやつたのではない。十二、三才の頃からお父さんに教はり、それから伯父さんの誠室先生に就いて十八才頃まで稽古をしたまでゞある。手習を始めて見ると、お父さんは『此子は手筋がいゝ、少し手習をしたらよからう』と云つた。それでその気になり誠室先生の家に月に二度位自分の習つたものを持つて行つて、直してもらつた。そうすると誠室先生が『此処が伸び過ぎてゐる。此処は力が足りない』などとよく直して呉れる。それから帰つて再び叮嚀に書き更えて持つて行く内に、多少興味も出て、六、七年間はよく手習をした。今はやる人も少くなつたやうだが、正月には私は必ず書き初めをした。都良香の詩で、気霽風梳新柳髪、氷消浪洗旧苔鬚と云つた文句などをよく書いた、誠室先生も『栄さんはなかなかうまい。おれの後が継げるヨ』と云つたりした。それから私が十九才の頃になると世の中が騒しくなつて来て、私も国事に心を傾けると云つては語弊があるが、多少とも国事に興味を持つようになつたから、敢て項羽の轍を履んだ訳ではないけれども、所謂』書は姓名を記するに足るのみ……』で、手習の方はすつかりやめて仕舞つた。すると誠室先生が『栄さんは近頃一寸も書いたものを持つて来ないが、そんなに怠けるやうでは駄目だ』と注意して呉れた。」○下略


晩香遺薫(DK010002k-0017)
第1巻 p.75-76 ページ画像

晩香遺薫

書は以て名姓を記するに足るのみ学ぶに足らずとは楚の項羽の豪語なるも爾後彼土の文運隆興するに随ひ書道も亦発展し漢魏より明清に至るまで幾多の名家輩出して各其長所を発揮し以て大に文化を稗補したりされば我邦にても其影響を受け台閣山林を通じて筆札の技に勉焉せしかば古来能書を以て称せらるゝ人士の多き殆ど枚挙するに遑あらず然るに幕府の末造以来泰西の文物移入して苟も学に就くものは其流風を追ふに忙しく筆札の如きは措いて問はず唯塗鴉を事とし恬然として恥ぢざるのみならず甚しきは筆札に巧なるものを目して世事に迂なりとし其拙なるものは即ち日新の学事に忠なる所以なりと曲解するに至れるは実に慨歎に堪へざるなり余が先考晩香翁は同族渋沢宗助君の第
 - 第1巻 p.76 -ページ画像 
三子にして余が王父只右衛門君の嗣となり市郎右衛門と改称し一意家業の農商に励精して以て家道を中興せられたり翁は六十三年の生涯を畎畝の裏に終へられたれども資性高潔にして意志堅実少時より学を好みて略経史に通じ能く大義正道を理解せられ殊に風雅の嗜浅からず俳諧を能くせられしが其筆札に巧なるは夫の顔骨柳筋既に専家の域に入れりと称せらるゝ長兄誠室君の筆力にも譲らざるものあり以て其人格才識を知るべきなり惟ふに古人は書は心画なり心正しければ筆正しといひて筆蹟を以て人格の反映となせり余は頃日郷里の生家なる渋沢元治治太郎兄弟より其秘襲せる先考の遺墨を借覧して深く此に感ずる所あり且当年の慈育と訓誨とを追懐して之を徒爾に看過すること能はず乃ち余等の少時書して与へられたる手本及俳句集の中より数種を選出して之を石版に附して一書となし晩香遺薫と題して同族各家及近親の児孫に頒ち各一本を蔵せしむることゝせり蓋し余は敢て児孫に向つて先考の筆蹟を誇らむとするにあらず唯此本を受くるものをして常に之を愛読し困りて以て先考の高風を偲び大に感発する所あらしめんことを庶幾ふのみ
  昭和五年六月
                           九十一翁渋沢栄一識
                         
  ○『晩香遺薫』ハ昭和五年栄一ノ刊行ニ係ル。美濃版和紙石版刷和装ノ二巻本ニシテ、栄一序及ビ凡例ヲ記セリ。上巻ニハ『司馬温公家訓』、『朱子家訓』、『白鹿洞書院掲示』、『神君御教書』、『賢君御教諭』、『商売往来』、『女消息往来』、『大和往来』ヲ、下巻ニハ俳諧ヲ収ム。


市河晴子筆記(DK010002k-0018)
第1巻 p.76 ページ画像

市河晴子筆記 (市河晴子氏所蔵)
 書道に関するもの
 本当の手習ひは誠室老人に十二位の時分三四年習つただけで、手筋は悪くなかつたと見えて、御書きぞめの時褒美をくれたりしたので、最中だつたよ。どうして最中と云へば大したものでしたからね。その頃の御菓子と云へば、わるい砂糖のかためた様なもの位でしたからね。でそれがうれしくて少い時ははげんだけれど、大きくなると御ぢいさんただの書ばかりの人で、世の中の風雲の急なことも何も御存じない。あんなところで時をつぶしてはもつたいないなんて、だんだん捕まるのをいやがり出したから駄目ですよ。○下略
  ○『市河晴子筆記』ハ、栄一ノ外孫即チ故穂積陳重博士三女ニシテ市河三喜博士夫人タル筆記者ガ、栄一ノ晩年其ノ談ル所ヲ筆記セル写本ナリ。


雨夜譚会談話筆記 下・第七〇二―七〇四頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕(DK010002k-0019)
第1巻 p.76-77 ページ画像

雨夜譚会談話筆記 下・第七〇二―七〇四頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕
白石「撃剣は如何でございましたか」
先生「撃剣は少しやつた。目録を貰ふ処までなつたが、宗助の方の新三郎と仲違ひをして、目録は貰はず仕舞だつた」
渡辺「目録と云ひますと、今の初段でございますネ」
先生「マア私は、田舎初段位の処だつたらう。大川平三郎のお祖父さんに大川平兵衛と云ふ人があつた。此人は腕ききで、田舎者から川
 - 第1巻 p.77 -ページ画像 
越の松平大和守にかゝへられた程であつた。此大川平兵衛の弟子が、渋沢新三郎で、免許取りであつた。流儀は神刀無念流であつたから、私は、神刀無念流渋沢新三郎門人渋沢栄治郎と名乗つた。尾高長七郎等と二三度修業のため野州、上州の辺を廻つた事もある。出掛けるのは、家業の合間を見て、大抵春、秋、冬の三遍位で、少くも十日間掛つた。その外に、誰々が来たと云つては、寄り寄りに試合を催すこともあつた。私が新三郎と仲が悪かつたと云ふのは、新三郎は人を圧迫するやうな質で、誰も新三郎に向つて物を言へないと云つた塩梅だつたのに、私のみが口をきいたり、議論をしたりしたからである。」


雨夜譚会談話筆記 下・第七八一―七八三頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕(DK010002k-0020)
第1巻 p.77 ページ画像

雨夜譚会談話筆記 下・第七八一―七八三頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕
先生が大川平兵衛氏などの御供して武者修業に御出懸になつてゐた時の模様に就いて
先生「私は小さい時から渋沢宗助に撃剣を教つて居つたが、其時迄は宗助はまだ免許皆伝されてゐなかつたから、表向きは大川平兵衛の弟子と云ふ事になつてゐた。昔は免許皆伝されてゐない中は、弟子をとる訳には行かなかつた。それから後宗助が免許皆伝を受けたから宗助の弟子になつたが、其頃は宗助はまだ新三郎と云つて居つたので、私は神刀無念流渋沢新三郎門人渋沢栄治郎と云つた。大川平兵衛氏に連れられて行つたのは、俵瀬の萩野と云ふ家であつた。そこに千代三郎と云ふ子があつて、それに稽古をつける事を頼まれたからであつた。内から先生と二人で歩いて行つたが、先生と私の二人分の道具をかつがされて肩が痛くてたまらなかつた。途中で妻沼の町により聖天様に参つて、それから歓喜院と云ふ寺で昼食の御馳走になつたのを覚えてゐるヨ。先方には一週間ばかり泊つて、先生は千代三郎に稽古をつけてやつた。千代三郎と云ふのは弱くて私と稽古をして、私でも押倒せる位であつた。その時先生から『あまりひどい事をするな』と注意されたヨ。其後尾高長七郎と一緒に武者修業とまでは行かないが、撃剣をやつて、上州から方々廻つた事が数回ある。長七郎は撃剣は飛び抜けて強かつた。力に於ては私はひけを取らなかつたが、竹刀を持つてはまるで子供扱にされた。」
渡辺「そんな武者修業にお出掛けになるのは家業のない間でございましたか。」
先生「家の仕事の暇な時を見計つて出掛けました。」○下略


御口授青淵先生諸伝記正誤控 第九八頁〔昭和五―六年〕(DK010002k-0021)
第1巻 p.77 ページ画像

御口授青淵先生諸伝記正誤控 第九八頁〔昭和五―六年〕(竜門社所蔵)
御訂正 年譜 三頁。回顧録ノ頁数ナリ 十二歳「後ち其の印可を受く」とあり。受けずと御訂正。


神道無念流入門書(DK010002k-0022)
第1巻 p.77-80 ページ画像

神道無念流入門書(渋沢長康氏所蔵)
     (巻物)
 - 第1巻 p.78 -ページ画像 
           起請盟文前書
     一神道無念流兵法剣術口伝秘術数条一軸無所残令授之畢全不可他見他言事
     一当門子弟他国居住之輩全背師家不可疎遠事
     一当門子弟忘師恩不可奔入他流之門事附有子孫而学兵法者永可為門下事
     一兵術道場壁書之数条堅守同門与子弟一旦叺信結交和順而不可鬱怒事
     一一流之奥旨令授之条々造次密隔之不可離心事
      右之条々於相背者兵法之冥理永癈鬼神冥罰不可遁者也故奉請霊社冥道致牛王之血誓仍如件
                 摩利支尊天
               八幡大菩薩
               飯綱大権現
               大川平兵衛
                源英勝(花押)
     渋沢新三郎殿
               尾高新五郎
                 淑慎(爪印)
             武州宮戸
               金井宇市良
                 直信(血判)
             同州下手計
               尾高弥三郎
                 誠慎(血判)
              同
               尾高安五郎
                 重慎(血判)
             同血濯島
               渋沢豊孫
                 直登(血判)
     嘉永三年庚戌正月五日
             同所
               渋沢喜作
                 英朋(血判)
             同所
               渋沢栄治郎
                 美雄(血判)
 - 第1巻 p.79 -ページ画像 
     嘉永四年辛亥三月廿三日
             同州宮戸村
               金井弁吉(血判)
     嘉永六年癸八月日
             上州佐位郡島村
               田嶋森蔵
                  美和(血判)
               田嶋只之助(血判)
               橋本牛松(血判)
     嘉永七甲寅年正月日
             同州同郡島村
               栗原善助(血判)
     嘉永七甲寅二月十五日
              同村
               田嶋弥三郎
                 俊徳(血判)
     嘉永七甲寅年三月四日
             武州榛沢郡横瀬村
               鳥羽安之丞(血判)
               富田仙次郎(血判)
       同年寅三月七日
              同村
               荻野嘉八郎(血判)
       同年寅十一月十九日
             上州佐位郡島村
              町田虎右衛門(血判)
               田嶋新吉
                 源周茂(血判)
       同年寅十一月十九日
              同村
               町田勘助(血判)
       同年寅十二月九日
             武州榛沢郡横瀬村
               富田弥吉(血判)
               荻野幸次郎(血判)
       同年寅十二月十八日
             同州同郡大塚村
               塚原米次郎(血判)
       安政二年二月十五日
              同村
               松村梅五郎(血判)
       同二月十九日
             同州同郡牧西村
               森庫三郎
                 村久(血判)
       同三月十日
             同州同郡宮戸村
               金井源吉(血判)
               金井馬之介(血判)
 - 第1巻 p.80 -ページ画像 
     安政三年辰ノ正月廿九日
             同州同郡下手討村《(下手計村)》
               望月岩次郎(血判)
       同年辰二月五日


剣法試数録(DK010002k-0023)
第1巻 p.80-89 ページ画像

剣法試数録 (尾高定四郎氏所蔵)

図表を画像で表示剣法試数録

 (表紙) 剣 法 春正月之吉日 試数録 嘉永四年辛亥 (裏表紙)   尾高弥三郎弘毅   大川英勝徒   神道無念流 



          目出度始
              渋沢ニ而
     正月            渋沢新三郎
      五日              壱試合
                   尾高新五郎
                      弐試合
                  合三試合
              自家ニ而
     二月            尾高善五郎
      九日              壱試合
                   同 安五郎
                      壱試合
                  合弐試合
              渋沢ニ而
     三月            渋沢新三郎
      十六日             弐試合
                   大川周造
                      弐試合
                   尾高安五郎
                      壱試合
                合五試合
              渋沢ニ而
     三月            渋沢新三郎
      十七日             弐試合
                   大川周造
                      弐試合
                   尾高新五郎
                      弐試合
                   渋沢喜作
                      壱試合
                合七試合
              甲源一刀流
              高橋三五郎門人
              上州新町人
 - 第1巻 p.81 -ページ画像 
              当時尾高勝右衛門傭夫
     三月            吉兵衛
      廿三日             弐試合
              渋沢ニ而
     四月            大川先生
      四日              弐試合
                   渋沢新三郎
                      弐試合
                   尾高新五郎
                      弐試合
                   荻野広三郎
                      壱試合
                   岩田嘉吉
                      壱試合
                   渋沢豊孫
                      壱試合
                  合九試合
              渋沢ニ而
      六日           大川先生
                      壱試合
                   渋沢新三郎
                      壱試合
                   尾高新五郎
                      三試合
                   金井宇一郎
                      壱試合
                  合六試合
              渋沢ニ而
      七日           大川先生
                      壱試合
                   渋沢新五郎《(渋沢新三郎)》
                      壱試合
                   尾高新五郎
                      弐試合
                   同 安五郎
                      壱試合
                   岩田嘉吉
                      弐試合
                   渋沢豊孫
                      三試合
                   同 喜作
                      壱試合
                   同 栄次郎
                      弐試合
                  合拾三試合
              渋沢ニ而
      八日           大川先生
                      弐試合
 - 第1巻 p.82 -ページ画像 
                   尾高新五郎
                      弐試合
                   渋沢豊孫
                      壱試合
                   同 喜作
                      壱試合
                   同 栄次郎
                      壱試合
                   岩田嘉吉
                      壱試合
                  合八試合
              渋沢ニ而
      九日           河野与吉
                      弐試合
                   渋沢豊孫
                      壱試合
                   同 喜作
                      壱試合
                   同 栄次郎
                      壱試合
                   岩田嘉吉
                      壱試合
                  合六試合
              渋沢ニ而
      十日           大川先生
                      弐試合
                   渋沢新三郎
                      壱試合
                   川田豊治郎
                      壱試合
                   尾高新五郎
                      弐試合
                  合六試合
              渋沢ニ而
      十一日          大川先生
                      弐試合
                   渋沢新三郎
                      三試合
                   河野与吉
                      壱試合
                   金井宇一郎
                      壱試合
                   渋沢豊孫
                      壱試合
                   同 栄次郎
                      壱試合
                   岩田嘉吉
                      壱試合
                  合拾試合
 - 第1巻 p.83 -ページ画像 
              渋沢ニ而
      十二日          大川先生
                      弐試合
                   渋沢新三郎
                      壱試合
                   川田豊次郎
                      壱試合
                   尾高新五郎
                      壱試合
                  叔父
                   渋沢宗助
                      壱試合
                   同 豊孫
                      壱試合
                   同 喜作
                      壱試合
                   同 栄次郎
                      壱試合
                   尾高安五郎
                      弐試合
                  合十試合《(マヽ)》
              渋沢ニ而
      十四日          大川先生
                      壱試合
                   渋沢新三郎
                      三試合
                   川田豊次郎
                      三試合
                   尾高定四郎
                      壱試合
                  同流岡の人
                   斎藤岩吉
                      壱試合
                   渋沢豊孫
                      壱試合
                   同 栄次郎
                      壱試合
                  合拾壱試合
              渋沢ニ而
      十五日          大川先生
                      弐試合
                   渋沢新三郎
                      弐試合
                   尾高新五郎
                      弐試合
                   同 安五郎
                      壱試合
                   渋沢栄次郎
                      壱試合
 - 第1巻 p.84 -ページ画像 
                  合八試合
              渋沢ニ而
      十六日          大川先生
                      壱試合
                   渋沢新三郎
                      二試合
                   川田豊次郎
                      壱試合
                   尾高新五郎
                      壱試合
                   河野与吉
                      壱試合
                   尾高安五郎
                      壱試合
                  合七試合
              渋沢ニ而
      十七日          大川先生
                      壱試合
                   渋沢新三郎
                      壱試合
                   峯川勇之進
                      壱試合
                  合三試合
              自家ニ而
      十八日          大川先生
                      壱試合
                   渋沢新三郎
                      壱試合
                   尾高新五郎
                      壱試合
                   川田豊次郎
                      壱試合
                   尾高定五郎
                      壱試合
                   尾高尊父様
                      壱試合
                   渋沢喜作
                      壱試合
                   同 豊孫
                      壱試合
                   同 栄次郎
                      壱試合
                   河野与吉
                      壱試合
                  合拾試合
              斎藤ニ而
      十九日          大川先生
                      壱試合
                   川田豊次郎
 - 第1巻 p.85 -ページ画像 
                      壱試合
                   尾高新五郎
                      壱試合
                   同 安五郎
                      壱試合
                   斎藤勇之助
                      壱試合
                  合五試合
              斎藤ニ而
      廿日           大川先生
                      壱試合
                   尾高安五郎
                      壱試合
                   斎藤雄之介
                      壱試合
                   渋沢豊孫
                      壱試合
                   同 栄次郎
                      三試合
                  合七試合
              斎藤ニ而
      二十一日         大川先生
                      壱試合
                   川田豊次郎
                      弐試合
                   尾高安五郎
                      壱試合
                   斎藤雄之介
                      壱試合
                   渋沢豊孫
                      壱試合
                   同 栄次郎
                      壱試合
                  合七試合
     五月            大川先生
      三日              三試合
                   河野与吉
                      四試合
                   尾高安五郎
                      四試合
                   渋沢豊孫
                      四試合
                   同 栄次郎
                      壱試合
                  合十六試合
              自家ニ而
     八月            小谷野元之助
      十五日             弐試合
              自家ニ而
 - 第1巻 p.86 -ページ画像 
     十月            賢兄
      四日              弐試合
              斎藤ニ而
     霜月            大川先生
      廿一日             弐試合
                   河野与吉
                      壱試合
                   斎藤雄之助
                      壱試合
                   尾高安五郎
                      壱試合
                  合五試合
              斎藤ニ而
      廿二日          大川先生
                      弐試合
                   河野与吉
                      壱試合
                  合三試合
              渋沢ニ而
      廿三日          大川先生
                      弐試合
                   河野与吉
                      弐試合
                  合五試合《(マヽ)》
              渋沢ニ而
      廿八日          大川先生
                      壱試合
                   渋沢新三郎
                      弐試合
                   河の与吉
                      壱試合
                  合四試合
              斎藤ニ而
      朔日           大川先生
                      弐試合
                   河野与吉
                      壱試合
                   金井宇一郎
                      壱試合
                   尾高安五郎
                      壱試合
                  合五試合
              斎藤ニ而
      二日           大川先生
                      弐試合
                   斎藤雄之助
                      弐試合
                   金井宇一郎
 - 第1巻 p.87 -ページ画像 
                      壱試合
                  合五試合
              斎藤ニ而
     (原本日付ヲ欠ク)     大川先生
                      弐試合
                   尾高新五郎
                      壱試合
                   金井宇一郎
                      壱試合
                   斎藤雄之助
                      壱試合
                  合五試合
              自家ニ而
     (原本日付ヲ欠ク)     尾高新五郎
                      弐試合
                   金井宇一郎
                      壱試合
                   尾高安五郎
                      壱試合
                   渋沢豊孫
                      壱試合
                   同 栄次郎
                      壱試合
                  合五試合《(マヽ)》
        亥十二月寒稽古於渋沢氏
      五日           渋沢先生
                      弐試合
                   尾高新五郎
                      弐試合
                   金井宇一郎
                      弐試合
                   尾高安五郎
                      弐試合
                   渋沢豊孫
                      壱試合
                   同 栄次郎
                      壱試合
                  合八試合《(マヽ)》
      六日           渋沢先生
                      弐試合
                   尾高新五郎
                      弐試合
                   金井宇一郎
                      壱試合
                   尾高安五郎
                      壱試合
                   田嶋森蔵
                      壱試合
                  合七試合
 - 第1巻 p.88 -ページ画像 
      七日           金井宇一郎
                      三試合
                   尾高安五郎
                      弐試合
                   渋沢栄次郎
                      壱試合
                   同 豊孫
                      壱試合
                  合七試合
      八日           渋沢先生
                      弐試合
                   尾高新五郎
                      弐試合
                   斎藤岩吉
                      弐試合
                   田嶋森蔵
                      壱試合
                   尾高安五郎
                      壱試合
                   渋沢豊孫
                      壱試合
                   同 栄次郎
                      壱試合
                  合十試合
      九日           渋先生《(マヽ)》
                      弐試合
                   斎藤岩吉
                      弐試合
                   尾高安五郎
                      弐試合
                   田嶋森蔵
                      壱試合
                   渋沢豊孫
                      壱試合
                   同 栄次郎
                      壱試合
                  合九試合
      十日           渋沢先生
                      弐試合
                   尾高新五郎
                      四試合
                   金井宇一郎
                      壱試合
                   尾高安五郎
                      弐試合
                   渋沢豊孫
                      壱試合
                   同 栄二郎
                      壱試合
                   合十一試合
 - 第1巻 p.89 -ページ画像 
      十一日          先生
                      弐試合
                   金井宇一郎
                      壱試合
                   斎藤岩吉
                      弐試合
                   尾高安五郎
                      弐試合
                   渋沢豊孫
                      壱試合
                   同 栄次郎
                      壱試合
                  合九試合
      十二日          先生公
                      三試合
                   尾高新五郎
                      弐試合
                   金井宇一郎
                      弐試合
                   尾高安五郎
                      壱試合
                   田嶋森蔵
                      壱試合
                   渋沢豊孫
                      壱試合
                   同 栄次郎
                      壱試合
                  合十二試合《(マヽ)》
     今日ニ而修
     正月四日
       惣〆試合数
         弐百七拾六試合
   ○嘉永四年ハ栄一十二才ナリ。三ノ試合ハ栄一ガ剣道稽古ノ初期ノコトニシテ、前ニ掲ゲタル入門書ニヨレバ栄一ノ正式入門ハ三月廿三日ナレバ、入門ノ翌月ヨリ試合ニ出デタルナリ。栄一ノ試合ニ出デタル月日及ビ其回数ヲ表示スレバ左ノ如シ。但シ不明ノ日モアリ。

図表を画像で表示--

 十二月 五月 四月 月 四日? 五日 七日 八日 九日 十日 十一日 十二日 三日 七日 八日 九日 十一日 十二日 十四日 十五日 十八日 二十日 二十一日 日 一 一 一 一 一 一 一 一 一 二 一 一 一 一 一 一 一 一 一 回数 



 - 第1巻 p.90 -ページ画像 

増田明六日記 第十八号(DK010002k-0024)
第1巻 p.90 ページ画像

増田明六日記 第十八号(増田正純氏所蔵)
昭和二年五月二十二日 日 雨
○上略
大川平三郎氏の中里邸に於て催された同氏祖父平兵衛氏の剣道会に招かれて参列した。
故平兵衛氏は、上州前橋藩主松平侯剣道師範の家筋にて、神道無念流を伝へ、門弟三千を数へしも、其多くは既に故人となりしが、当時免許皆伝の高弟奥平鉄吉・金子才十郎の両氏剣道指南として、県警察又は武徳会に勤任し、前者は七十六、後者は七十四の老齢ながら、矍鑠として壮者を凌ぎ、技又優秀を以て聞ゆるを以て、平三郎氏は往事を偲ぶの余り、両氏を聘して剣術仕合を挙行したのである。両氏の外に四氏の撃剣家ありて試合を為し、後奥平氏の故平兵衛先生の無念流の型あり、最後に田中栄八郎氏、女婿万里小路男の金子氏に請ふて撃剣ありて式を終りたる際、渋沢子爵の懐旧談ありて、十二時半終了。
子爵の懐旧談中に、故平兵衛先生剣法の抜群なるを述べ、令息栄助周造両氏亦撃剣家たり、就中平三郎氏の先考周造氏の剣法は、父平兵衛氏に学びたるものなるが、亦頗る達人にして打込の鋭敏なるは、平兵衛先生より尚鋭かりし旨語られたり、子爵が十五歳の時、平兵衛先生に従ひて妻沼に赴きたる旨の談話もありたり。



〔参考〕雨夜譚会談話筆記 下・第六八六頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕(DK010002k-0025)
第1巻 p.90 ページ画像

雨夜譚会談話筆記 下・第六八六頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕
○上略
渡辺「食事に就いて、子爵は何にも仰言らずに何でもあるものを召上るやうですが、別に好き嫌いは御座いませんのでせうか。」
先生「私でも旨い不味い位はわかる。料理の事も多少弁へてゐる。小さい時宗助の家でお客がある様な場合は、喜作と一処によく手伝に募集された。岡部藩の武士が来ると、勝手の方へ廻つて料理の手伝をした事を記憶してゐる。」
○下略


〔参考〕教諭書(DK010002k-0026)
第1巻 p.90-92 ページ画像

 (表紙)
教諭書 (渋沢治太郎氏所蔵)
 口教
一朝おひなり候ハゝ手水を御つかひなされ候てまつ神様を御拝ミなさるへしこれは此日本は神様の御国なれは神様の御預にて皆々御飯たへ衣服を着申事も是皆神さまの御かけなれは一ばんに神様に御辞義をなされ候て御礼御申上なされ候か第一ニ而候
一次に御仏壇へ御むかひ御拝ミなさるへし是は皆様の御先祖と申て曾祖父様曾祖母様やまた祖父様祖母様なとも御仏壇のうちにこさらせらるゝゆヘ是又おゝちゐ様方の御かけにて皆々さま御成人なされ今日御飯を一度もかけすにおあかりなされ候事はおゝちゐさまおかけにて御座候御飯をあかりなされ候事はつゐにはならぬ事にて候御年のまいら
 - 第1巻 p.91 -ページ画像 
ぬうちにおめしをあかるはとなたさまの御かけ尤たちまちおやこ様方の御かけかなけれはあかられぬといふ事をよくよく御かんかへ被成へく候それゆへ御仏壇ニて御礼を御申上なされと申事にて候則此内に御存生のおやこ様方への御礼もこもり申候
一三度の御飯をあかるときと寝しなと御祖父様御母様とゝさまかゝさまへ手を御つきなされ候ておめし御あかりあそはされ候へ御寝なり候へと御挨拶なさるへし是も親こまさま方先へたへ候へと先へ寝候へと仰せられ候ハゝ其時然らは御先へたへ候と手を御つき御断御申上なされ候て御先へ御あかりなさるへく候寝しなも又其通になさるへく候何とも仰られす候ハゝ御まちなされ候て御一所に御あかりなさるへく候
一いつ方へも御出の時は手を御つきなされ候てとゝ様かゝ様へ御尋なさるへく候是もゆけと仰せられ候時は手をつきなされ参てさんしましよと御申なされ御出なさるへく候御帰りなされ候時もまたまた手を御つき只今帰り候と御申上なさるへく候御遊ひも久しく外に御座候へは親御様あんしなされ候間折ゝ御帰りなさるへく候
一御二人の親こ様の仰せられ候事は何事にてもあいと速に御返事なされ候て機嫌能仰付候通になさるへく候さやうになされ候へは御成人なされ候て後々御仕合よろしく候親こ様の御心に御そむきなされ候方ハ後々御不仕合にて難儀をなされ候子供の時の孝行と申事は何も外の事ニ而ハ御座なく候先あさおきるより晩寝るまでとゝさまかゝさまの仰ある事をあいあいと御申なされ口こたへせすとゝ様の御さしづの通りなされ衣服三度の御飯お菜髪結事手水つかふ事此外何にてもあひあひときけんよく御返事なされ親こ様の御気にさか 《(ら脱)》ハす朝から晩まてきけんよく御遊ひなされ又手習よミものに御出なされ候時分にはとゝ様かゝ様の御世話にならぬやうに寺へゆけよみものせよと仰せられ候ハゝ早速御出なされけふは又用事かあるやすめと仰せられ候ハゝ御やすミ被成とにもかくにも一言もそむかすとゝさまかゝさまの仰せの通になされ候が此上もなき御孝行にて候扨おちゐさまはゝ様はとゝさまのまたとゝさまなれは猶もつてたいしになされねはならぬ事にて御座候
右の事ともよくよく御覚へなさるへく候
夫童子の覚え知へき事先日月の出る方を東と言入るかたを西といふ也東に向ひ右の方ハ南左りハ北なり上ハ天と云下は地といふ一年ハ十二月正二三を春といひ四五六月を夏七八九ハ秋十十一十二月ハ冬也春夏秋冬を四季と言扨五節句の事正月元日は年始三月三日ハ上巳五月五日ハ端午七月七日七夕九月九日ハ重陽是也また二季とハ盆と節季を言七月十五日を中元といゝ八朔とハ八月朔日の事也十二月晦日ハ歳暮なり年号ハ年の名なり十干は甲乙丙丁戊己庚辛壬癸十二支ハ予丑寅卯辰巳午未申酉戌亥春夏秋冬是を四季と言也

 神君御教書
人の一生は重荷を負ふて遠き道を行かことくいそくへからす不自由を常と思ひは不足なく心に望おこらは困窮したる時をおもひ出すへし堪忍は無事長久のもとひ怒は敵と知るへし勝事はかり知てまくる事をしらすは害其身にいたる己を責て人をせむるな及さる事は過たるよりま
 - 第1巻 p.92 -ページ画像 
されり

 賢君御教諭
 九箇条
楽は苦の種苦は楽のたねと知るへし主と親とは無理なるものと知れ下人ハたらぬものとしれ子ほとに親を思ひ子なきものは身にたくらへて近き手本にせよ掟におちよ火におちよ分別なきものにおちよ恩を忘るる事なかれ色と酒とは敵と知るへし朝寝すへからす噺の長座すへ《(か脱)》らす小なる事に分別せよ大なる事に驚くへからす九分ハたらす十分はこほるゝと知れ分別は堪忍にありと知るへし
 天保十二丑年
 十月初五日写
                (裏表紙)
                    渋沢なか女
   ○コノ教諭書ハ、晩香ガ天保十二年、即チ栄一誕生ノ翌年ニ書キテ栄一ノ姉ナカ女ニ与ヘタルモノナレドモ、同時ニ他ノ子女ニ対スル教育方針ナリシナラン。
   ○コノウチ神君御教書以外ハ『晩香遺薫』ニ収録セラレザルモノナリ。


〔参考〕吉岡いく氏談(DK010002k-0027)
第1巻 p.92 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。