デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.6

1編 在郷及ビ仕官時代

1部 在郷時代

1章 幼少年時代
■綱文

第1巻 p.92-168(DK010003k) ページ画像

嘉永六年癸丑(1853年)

是年ヨリ家業ヲ助ケ、農耕・養蚕ノホカニ藍葉ノ買入、藍玉ノ製造及ビ販売ニ従事ス。又是年米使ペリーノ渡来ニ刺戟セラレ、栄一ノ胸中攘夷ノ念ヲ萌ス。


■資料

雨夜譚 巻之一・第三―七丁〔明治二〇年〕(DK010003k-0001)
第1巻 p.92-94 ページ画像

雨夜譚 巻之一・第三―七丁〔明治二〇年〕
○上略其れから十四五の歳までは、読書撃剣習字等の稽古で日を送りましたが、前に申す通り、父は家業に付ては甚だ厳重であつたから、十
 - 第1巻 p.93 -ページ画像 
四五歳にもなつたら、農業商売に心を入れむければならぬ、何時までも子供の積りでは困るから、向後は幾分の時間を家業に充てゝ、従事するが宜い、勿論、書物を読むだといつて、儒者になる所存でもあるまい 左すれば一通り文義の会得が出来さへすれば それで宜い、尤もまだ十分に出来たでもあるまいが、追々に心を用ゐて油断さへなくば始終学び得られぬといふこともない訳だから、モウ今までの様に、昼夜読書三昧では困る、農業にも、商売にも 心を用ゐなければ、一家の益にはたゝぬといはれました。
偖て其農業といふのは麦を作つたり、藍を作つたり、又は養蚕の業をするので、商売といふのは、自分の家で作つた藍は勿論、他人の作つたものまでも買入れて、それを藍玉に製造して、信州や上州秩父郡辺の紺屋に送つて、追々に勘定を取る、俗にいふ掛売商売と唱へるものであります、自分が十四の歳即ち嘉永六丑年には、関東は余程の旱魃で、一番藍は誠に不作であつたが、幸に二番藍は頗る能く出来たから父のいはれるには、今年の二番藍は上作だによつて、可成沢山に買入れたいが、乃公は信州上州の紺屋廻りに出掛るから、買出しに行くことは出来ぬがドウカ買ひたいものだ、御祖父さんは父の養父自分の祖父敬林居士と云ふ人モウ年を取つて、余り家事の世話は出来ぬけれども、今年の藍を買ふこと丈けは、何卒あなた留守中に心配して下さい、又栄次郎自分の幼名も子供ながら、前途商売の修行に、御祖父さんの供をして、其駈引を見習うがよい、と細々留守中の事共を示して置て、旅立たれました、
そこで自分の思ふには、自分とても、藍の善悪の分らぬことはない、好シ、一番父上の留守中に買て見せやうといふ考へをして居たが、其中に藍葉買入の期節になつたから、初日には祖父に随行して矢島といふ村へ行つて、一二軒買付ました、其時、自分の心では、父は世間で藍の鑑定家だといつて、褒られる程の人であるから、これに随行するのは恥かしくないが、最早老耄したといはれる御祖父さんに随行して、藍を買ひ歩行くのは、人が笑ふであらうといふ妙ナ考へを起して、ドウカ自分一人で買入れて見たいと思つたから、御祖父さん、私は横瀬村の方へゆきたいと思います、と言つた処が、祖父は自分のいふことを怪しむで、おまへ一人で往ても仕方があるまいと言はれたから、左様サ、一人では仕方がないが、ドウカ廻つて見て帰りたいといつて、ソレカラ幾らかの金子を祖父から受取て、それを胴巻に入れて、着物の八ツ口の処から腹に結び 祖父に別れて横瀬村から新野村にいつて、藍を買ひに来たと吹聴したけれども、其頃、自分はまだ鳶口髷の小供だから、自ら人が軽侮して信用しなかつた、併し自分は、是まで、幾度も父に随行して、藍の買入方を見て居たから、是は肥料がすくないとか、是は肥料が〆粕でないとか、或は乾燥《ホシ》が悪いからいけないとか、茎の切り方がわるいとか、下葉が枯《アガ》つて居るとか、丸で医者の病を診察するやうなことを謂ふのを、聞覚えて居て、口真似位は何んでもないゆゑ、一々弁じた処が、人々が大きに驚いて、妙ナ小供が来たといつて、却て珍らしがつて相手になつたから、終に新野村ばかりで、都合廿一軒の藍を悉く買つて仕舞つた、其れを買ふときには、おまへの藍は肥料がわるい、本当の〆粕が遣つてないからいけないなどゝいふ
 - 第1巻 p.94 -ページ画像 
と、成程左様で御座ります、ドウしてそれが分りますかといつて、村の人に大層褒られた。其翌日は、横瀬村に宮戸村、又其翌々日は、大塚島村や内ケ島村の辺りを頻りに買つて歩行くのを見て、祖父が乃公も一所にゆかなければならぬといふから、ナニあなたが、行んでも宜しいといつて、大概其年の藍は一人で買集めたが、程なく父も旅先から帰つて来られて、自分の買入れて置た藍をみて、大きに其手際を褒られたことがありました、元来、父は農業と藍の商売とは至て大切であるといつて、熱心に勉励して居られたから、自分も十六七歳の頃から、共に其事に力を入れて、一方の助けをするやうになりました。


竜門雑誌 第三〇四号・第四二―四四頁〔大正二年九月〕 【青淵先生懐旧談】(DK010003k-0002)
第1巻 p.94 ページ画像

竜門雑誌 第三〇四号・第四二―四四頁〔大正二年九月〕
○上略自分が生れた時は、祖父が微禄して村中の百姓仲間でも中以下の貧しい家に数へられる時であつた。祖父は人一倍利かぬ気の烈しい人であつたから、日増に衰へ行く家の有様を思ふにつけ、祖先に対してどの面下げて弁解をされよう。縦令土を嘗めても家運を恢復せねばならぬといふて、日がな一日汗水垂らして働いてゐた。○中略
 宗家を襲いだ父晩香は、養父母の期待を経となし、実父母の垂訓を緯となして、夜の目も寝ずに刻苦勉励した。家は代々農を以て本業とし、農間には藍錠を製造して紺屋に売捌いてゐたので、実家から年期を限つて融通された金銭を以て、今まで他手に渡つてゐた田地を順々に取戻し、桑畑を整理して養蚕をする事から、藍圃を手入して藍錠を製る事から、さてはその藍錠を信州上州辺の紺屋に売る事から、凡て一人で作男を励まし、骨身も惜まず奮闘した。斯様に父が勉強されたお蔭には、家運がめきめきと盛返して来る、殊に父は藍の鑑定が最も確かで、近郷には肩を並ぶるものなき名誉をもつてゐたので、年々の藍の買出には良い葉を沢山に仕入れて莫大の儲をする、祖父の喜び、実家の喜び、そのうちには我々兄弟が順々に生れる、私の生れた次に《(ママ)》は家道日増に繁昌して、村でも分限者の仲間入をするやうになり、二三番目の資産家に列すると云ふ勢であつた。○下略
   ○右ハ『青淵先生懐旧談』ノ一節ナリ。


竜門雑誌 第三〇七号・第四二―四六頁〔大正二年一二月〕 【青淵先生懐旧談】(DK010003k-0003)
第1巻 p.94-97 ページ画像

竜門雑誌 第三〇七号・第四二―四六頁〔大正二年一二月〕
▲書を抛て鍬を把る  その時分血洗島から手計の藍香宅へ書籍包を抱へて通ふた自分の姿は、まだ歴然と記憶に残つて居る。
秋雨上りの焦げるやうに暑い田舎路、それでも樹蔭抔に立寄ると瑟々と身に沁みていかにも秋らしい、魚の肌に障る《(マヽ)》やうな日であつた、母が手織の木綿縞禿た薩摩下駄を滑らしながら、先祖代々の墓地の横を、父が実家の宗助の垣根について、村郊に出ると藍の出来栄えの好いので評判の俗称三友歩《(マヽ)》の畑が、うねうねと下手計の方へと続いている、中稲を苅る頃で、清水川に添ふた左の田圃の其処此処に忙しく働いてゐる人々の影が見えた、熟れた稲の香、さらさらと共擦る穂波のさゞめき、霖雨で色褪せた野菊も蓼も浸るほど水増した田川の縁には、群れ飛ぶ蝗の羽が銀のやうに、午後の日に光つて見えた、もう狐色になり掛けた諏訪神社の大きな槻には禊も済んだ注連が涼しい風にゆらめ
 - 第1巻 p.95 -ページ画像 
いてゐる、桑畑と藍畑との間を幾曲りすると、樹立の寂びた藍香の邸が見える、門の前には極つて長七郎が竹刀を持つたり抔して自分が来るのを待つて居た。
 十四歳までは此様にして殆ど毎日のやうに、藍香の家に通ふた、然るに其頃から自分の身の上に就いて父が気遣ひ出した、父は家業に就いては甚だ厳格であつたから、子供に武士風の教育ばかりして、百姓育ちにならずに、学生風になつては困るとの杞憂から、自分に向つて読書を止めたら何うかと云はれた 撃剣の方は親類の者が農間を見て、春秋又は寒中など都合の好い時を定めて稽古をするのであるから、農業の妨げとはならぬが、読書の方は年中不断で、且つ朝夕引籠つて遣らねばならぬ事であるから、農業に取つては大いに差支へる、作男などは朝から耕作に出ても、これから俺の代りになるお前が読書の為めに、作男共を指揮せぬやうになると甚だ困る、作男の見せしめにもならず、第一家業がつとまらぬ、それを父が第一に気を傷めて居たのであつた、それで父は自分を戒めて「十四五歳にもなつたら、農業や商売に心を入れなければならぬ、何時までも子供の積りでは困るから、向後は幾分の時間を割いて家業に従事するがよい、勿論書物を読んだと云つて、儒者になる所存でもあるまい、さすれば一ト通り文字の会得が出来さへすればそれでよい、最もまだ十分に出来たのでもあるまいが、追々に心を用いて油断さへしなければ始終学び得られぬと云ふこともない訳だから、モウ今迄のやうに昼夜を構はぬ読書三昧は止めにせよ、農業にも商売にも心を用いなければ一家の益には立たぬ」といはれた、固より父の命に背く訳にはゆかぬから、それからは日々田畑へ出て、百姓の稽古をすることにした。
さてその農業と云ふのは麦を作つたり、藍を作つたり、又は養蚕の業をするので、商売と云ふのは自分の家で作つた藍は勿論、他人の作つたものまでも買入れ、それを藍玉に製造して信州や上州、秩父郡辺の紺屋に送り、追々に勘定を取る、俗に掛売商売と唱へるのであつた。
▲浦賀の黒船と二番藍  鍬は斯う把るもの、草鞋は斯く穿くものと父から教へられて作男と共に畑へ出た、この時祖父敬林は七十六歳の頽齢で、隠居の身の上になつてゐたが、父の丹精で家運は恢復する、村でも二三の指に折らるゝ身上となつたにつけても孫の栄二郎が毎日毎日読書三昧に耽つてゐるのが気遣ひで堪らなかつたらしい、それが翻然として本を棄て、耒耟を手にすると云ふ健気な自分の覚悟を見て涙を流さぬばかりに喜んだ、
 「気をつけておやりよ、鍬先に足を噛まれな」
斯ういつて隠居所からノソリノソリと出て来た祖父の姿が今も眼に見えるやうである。
五六人の作男に連れられて畑へ出た、田圃路を行き尽して、赤土の坂を上つて、高台の原に出た、雑木林、松林、それらの間を新たに拓いたらしい畑には虫が鳴いてゐる、路傍に湿地茸抔の生えた凹路を、自分は新しい希望に輝く眼を睜りながら歩いて行つた、秩父や浅間の連嶺が劃然と色づいた襞を朝日に晒らして見える朗かな朝であつた。
この年即ち嘉永六の丑年にはペルリが浦賀へ来て開国貿易を迫つた歳
 - 第1巻 p.96 -ページ画像 
である、寛政の名相松平楽翁公が天明年中露艦の北海を窺ふこと頻りなるを聞かれ、当時の画家谷文晁に命じて露艦に擬へて宝船の図を画かせ
  この船のよるてふことを夢の間も
        忘れぬぞ世の宝なりける
と讃して深く世を戒められたのであつたが、気も心も楽々と伸びた世人は楽翁公の訓誠をも意とせずして、浪の御船の意《(マヽ)》の好きてふ太平の酔夢を醒さなかつた、やゝその心あるものも、我国は神国である、醜夷の黒船よし来り寇すとも、伊勢の神風は忽ち彼等を海の藻屑とする事、弘安の昔の如くなるべしと確信してゐた、併しながら高天ケ原は遼かである、神意は竟に知る可らず「世の人の誠ごゝろをつくしての後こそ吹かめ伊勢の神風」は事実であつた、対岸と見し火災は忽ち此方へ燃へて来た、初度の警鐘は文化四年の蝦夷の騒乱に乱打され、次は翌五年の長崎の変、これに次いで更らに最も耳底を驚かしたのは天保九年の英艦モリソン号事件であつたが、此れはただ風説にのみ止つて、帆影も見えず砲声も聞えず、海鷗夢なほ穏かに、幕府も諸藩も再びその太平を続け得る如き安楽の臥床に眠ることを得た、丑年の浦賀一発の砲声は、真に容易ならざる響を我国に齎らしたのであつた。その噂が血洗島に伝はつた時は、耳許をグワンと打たれたやうに感じたのであるが、まだ十四歳の少年であり、農業見習の為めに自分と村の先覚者藍香の許へも遠ざかつてゐたので、それほどには感せずに毎日々々田畑へのみ出てゐた、然るにこの年は関東は余程の旱魃で、一番藍は散々の不作であつたがその為めに二番藍は頗る豊作であつた、父は「今年の二番藍は沢山に仕入たいが、俺は信州上州の紺屋廻りをするから買出に行くこともならぬ、お祖父さんはモウ年を取つてお出だが、今年の藍を買ふこと丈けはお頼みします、又栄二郎も子供ながら商売の修業にお祖父さんの供をして、その駈引を見習ふがよい」と細々留守中の事を示し置いて旅立たれた。
▲藍葉買入に成功す  そこで自分の思ふには、藍の善悪位は分らぬことはない、宜矣一番父の留守中に買つて見せやうと云ふ考を起してゐたが、そのうちに藍葉買入れの期節になつたから、初日には祖父に随行して矢島と云ふ村へ行き一二軒買付た、その時自分の心では父は世間で藍の鑑定家だといつて褒められる程の人であるから、これに随行するのは恥づかしくないが、最早や老耄したといはれる祖父に随行して藍を買ひ歩くのはさぞ人が笑ふであらうといふ妙な考を起し、どうか自分一人で買入れて見たいと思つた、それ故「お祖父さん、私は横瀬村の方へ行き度いと思ひます」と言つた所が、祖父は自分のいふ事を怪んで「お前一人で往つても仕方があるまい」と云はれたから「左様です、一人では仕方がないが、どうか廻つて見て帰り度いものです」と言つた、それから幾らかの金を祖父から受取り、それを胴巻に入れて、着物の八ツ口の所から確乎と腹に結び、祖父に別れて新野村に入り藍を買ひに来たと吹聴したけれども、その頃自分はまだ鳶口髷の小供だから、村人が軽侮して信用しなかつた、併し自分は是まで幾度も父に随行して、藍の買入方を見て居たから、是は肥料が少いと
 - 第1巻 p.97 -ページ画像 
か、又は肥料が魚粕でないとか、或は乾燥が悪いからいけないとか、茎の切方が悪いとか、下葉が枯れてゐるとか、丸で医者の病を診察するやうな事を曰ふのを聞覚えてゐて口真似位は出来た故、それを一々弁じたところが、人々は大に驚いて妙な小供が来たと、却つて珍らしがつて相手になつたから、終に新野村ばかりで都合二十一軒の藍を悉く買つて仕舞つた、それを買ふ時には「お前の藍は肥料が悪い本当の魚粕が遣てないからいけない」などゝ言ふと「成るほど左様で御座ります、どうしてそれが判りますか」といつて大層村人に褒められた。その翌日は横瀬村、宮戸村またその翌日は大塚島村や内ケ島村の辺りを頻りに買つて歩くのを見て祖父が「俺も一所に行かねばならぬ」といふから「なにお祖父さんは行かんでも宜しい」と言つて、その年の藍は大概一人で買集めた。程なく父は旅先から帰られ、自分の買入れて置いた藍を見て、大きにその手際を褒められたことがあつた。
元来父は農業と藍の商売とは、至つて大切であるといふて熱心に勉強して居られたから、自分も十六歳の頃から、共にその事に力を入れて、一方の手助けをするやうになつた、その中に段々趣味が変化してゆき、藍製造や農業を努める事が面白くなり、作物の出来具合なぞも、他人のを見ては善悪をいひ、自家のことも利を収めるといふよりは、丹精の顕はれ来ることが大に嬉しく、又作男も予が自ら農場に立つて指揮すれば、大変に働らくので、総てこれらに趣味をもつて、十七八頃より二十歳までは、読書以外に家業に出精する事も、快楽の一つとなつたのである。
   ○右ハ『青淵先生懐旧談』ノ一節ナリ。


御口授青淵先生諸伝記正誤控 第一二頁〔昭和五―六年〕(DK010003k-0004)
第1巻 p.97 ページ画像

御口授青淵先生諸伝記正誤控 第一二頁〔昭和五―六年〕(竜門社所蔵)
問「一本に子爵少時自ら肥料をお運びになつたやうに書いてございますが、実際に施肥や運搬を遊したのですか。」
お答「それは百姓ですからせねばならぬ。よく若い同志で下肥かつぎの競争をしたが、わしは力があつたのだが、どうも肩が弱くて、いつも残念乍らかなはなかつたよ。」


御口授青淵先生諸伝記正誤控 第七頁〔昭和五―六年〕(DK010003k-0005)
第1巻 p.97 ページ画像

御口授青淵先生諸伝記正誤控 第七頁〔昭和五―六年〕
問「子爵自ら縄も綯ひ、草鞋も作り遊されたるや」
御答「作りました、たゞあまり上手ではなかつたけれども」


御口授青淵先生諸伝記正誤控 第一八五頁〔昭和五―六年〕(DK010003k-0006)
第1巻 p.97-98 ページ画像

御口授青淵先生諸伝記正誤控 第一八五頁〔昭和五―六年〕
○上略仰「お前は蚕をかつた事があるか。」佐治「ございません。」仰「さうか――桑の芽が早く出来過ぎて桑の遅れる事もあり、蚕の方が桑に遅れる事もある、蚕の方を温かくするとこれを早める事が出来るのだよ。そこが中々加減物で――実地をやつた人でなければ判らない。」
○中略仰(田沢看護婦へ)「お前は養蚕を知つてゐるか。」田沢「いゝえあまり存じません。」仰「獅子休は知つてをるか」田沢「獅子休は存じませんが、庭起は存じてをります、――第一眠とか第二眠とか申しま
 - 第1巻 p.98 -ページ画像 
すでございませう。」その後第一眠より第四眠まで詳しく御説明ありたり。


竜門雑誌 第四五六号・第九五―九六頁〔大正一五年九月〕 国家的にも個人的にも大切なる蚕糸業(DK010003k-0007)
第1巻 p.98 ページ画像

竜門雑誌 第四五六号・第九五―九六頁〔大正一五年九月〕
 国家的にも個人的にも大切なる蚕糸業
    ◇幼時から養蚕にいそしんだ
 ◇私は久しぶりに去る十七日、郷里の埼玉県八基村の養蚕業を視察し、同時に熊谷にある県の蚕業試験場へ立寄り永井場長其他の職員からいろいろと近代的の蚕糸業進歩の有様を見たり聞いたりした。こんな老人が蚕糸業の事をとやこう言ふのではござらんが、元来私の母親は養蚕に熱心であつた為めに私も小供の時分から二十四歳の青年になる迄で桑給れや、上簇や熟蚕(私の方ではヅウ)拾ひ等を手伝ふたものだ。簇なども今日のやうな島田簇などもなく、豆柄とか菜種柄を用ひて繭を作らせたものであつた。蚕種は福島の掛田方面から来る川久種とか川藤種とかを原種として、上手のものは白繭大巣種を飼育し、なかなか見事の良繭を得たものだが、余り上手でない人は青白のような強壮本位の蚕種を飼育した、私の家は上手であつたがそれでも青白を一枚位は飼つた。桑の栽培法も今日のような学理の応用はなく、十文字とか青木翻れ、市平等であつたが、桑のよく育つのは砂混ざりの土質で空気の流通がよく、日光のあたりのよいと言ふ処を選んだものだ。コサ地(樹蔭地)や陰湿の地の桑を蚕に給れると蚕がくさり安いとか又は繭から蛆(蠁蛆)が出る――当時は昆虫学に関する知識がない為め――皆んな蛆が繭から涌くと考へて居つたものだ。
    ◇明治初年日本生糸の改良を力説高唱した
 ◇斯様に養蚕知識の幼稚なる時代に蚕の手伝ひしたり、出来た蚕種をばお得意先に売て歩いた事もある。私も二年間種箱を背負ふて県の南部の小川、入間、所沢方面まで行つた。其の時が確か私の二十三四歳頃であつた。従て渋沢の老人が蚕の自慢話をすると言ふ人があるかも知れぬが、全く事実の事だから仕方はない。○下略
   ○右ハ大日本蚕糸会報・第三五巻第四一三号(大正一五年七月号)ニ掲載サレタル栄一ノ談話ノ一節ナリ。同会報ノ記者ノ請ニヨリ談話シタルモノナリ。竜門雑誌ニ転載スルニ当リ訂正ヲ加ヘタリ。
   ○農耕養蚕ニ関スル栄一ノ談話ハ何レモ簡単ナルモノナレドモ、コレラノ家業ニモ相当ニ努力シタルモノト察セラル。


市河晴子筆記(DK010003k-0008)
第1巻 p.98-99 ページ画像

市河晴子筆記 (市河晴子氏所蔵)
    ◇藍について
 藍はね、農業とあれども化学工業と売りさばきの商業とを兼ねたかなり面倒なものでね、うちでは農業の部分はしませんでした、あの辺は地味が藍に適してゐるので、皆百姓が藍を作つてゐたものです、蓼藍と云つてね、一番藍二番藍と七八月頃にはかなり上げる、そうこの位(三尺……二尺五寸)に成るものでね、そのまゝ置くと花が咲く(母上あかのまんまの様なと云はる)、そうまーあんなものだが、それまで置くと葉が悪くなるから、その前にかつて干します。葉をむしつてね、そこまでが百姓
 - 第1巻 p.99 -ページ画像 
の仕事で、その次の寝かすと云ひますがね、それは加減がむつかしいしするから、百姓はしないで、それを買ひ集めて仕上げて売るのが、中の家《なかんち》の業体《ぎようてー》なんです。
 買う時には百姓のところを廻つて、これは〆かすより外の肥料をやつたとか、天気や地味や水利や作り方の上手下手で葉に上下が出来るから、従つて価に高い安いが出来る、それを鑑定するのが一つの技術でしてね、その買ひ集めた藍を納屋にむしろを敷いて積み重ねて、水を程よくかけて又むしろをおゝつて置くと、一種の醗酵作用でかなりな熱が出ますがね、これを寝すと云つて、その間も水の加減や、むしろの厚さなどいろいろにするので、手もかゝり、上手にするとずつと色がよくそまる様になつて価も高くうれるので、晩香院は御上手で、よく講釈なさつたものですよ、さうして六十日も寝して灰汁を入れて、臼でつくと、まるで黒い餅そつくりな物が出来る、それをこの位(直径六寸位か)の団子にしたのが藍玉なんですよ、すつかり出来るのがかれこれ十一月近くになるが、それからこれを紺屋に売るのだが、紺屋と云つても百姓紺屋で、農間《ま》に染物をする様な小さな紺屋だから、何軒も何軒も売つて歩かなければならない。
 売り方は今も来るかね、越中の薬屋があるだろ、あの式で、品物を先に送つて置いて、後からかけを取りに行つて、使つただけの代金をもらつたり、後の注文を聞いたりするので、春秋は様子を見に、正月と盆はかけ取りに、年四度は廻らなければならない、むつかしくて急がしい業体だが、それだけに又甘くやると仲々利分が多くてね、畑仕事の百姓一方じや仲々資産の作れるものじやないが、藍葉の仕入に鑑定が上手で、ねかし方がいゝと一駄十両……二十六貫でしたがね……おしまひには十五両にも売れる(後々二十両までになつたがこれは諸式が上つたのにつれて上つたのだから別ですがね)これが中ん家の経済を豊にしたもとですよ。
 紺屋は多く信州で、小県だけで五十軒からありました、藍玉は俵につめて、十貫目俵四俵づけと云うのだが、信州は山地だから坂は三俵づけでやりましたが、何しろあゝした山国だから雪が深くつて、香坂峠や、内山峠でなんぎした事もありましたつけ、小県では大がい二十五両の切り餅つて云う、こんなの□を百両も胴巻に入れて歩いてごらん、中々疲れるもので、大てい上田で金にかへて帰つたものです。
 この藍はインドの山藍と云う、これは木で葉の細い、それにまづ圧されて、これはちつとあくが強いので、まだ蓼藍を追のけるまでには行かなかつたが、その次のコールターから採るんだろ、薬品の藍がヨーロツパから入つて圧倒されてしまいましたよ、阿州では今もやつてゐるかネ?
 中のうちで、この業体を廃したのは、晩香院御かくれの直ぐ後でした、何分あんな風で馳つけはしたものゝ、直接この事に御遺言は頂けなかつたが、中の家は皆で盛り立てゝ行けと云う御趣意から考えて、藍は中々むづかしい業ていだし、その上昔の越中の薬屋式の売り方も時勢にともなはなくなつて来るので、三年父の道を改ずとは云うが、これはすぐさま廃して下さいつて云つてね、何しろ家をあづかる人のやりいゝ様にして置かなくてはならないと思ひましたからね。

 - 第1巻 p.100 -ページ画像 

竜門雑誌 第三〇五号・第三〇―三一頁〔大正二年一〇月〕 【上毛に対する懐旧と希望】(DK010003k-0009)
第1巻 p.100 ページ画像

竜門雑誌 第三〇五号・第三〇―三一頁〔大正二年一〇月〕
○上略十二才の時から十四五才の間には、祖父の敬林と二番藍の買占めに武州寄の上州の村々を駈廻つた事もある。
○下略
  ○右ハ栄一ノ『上毛に対する懐旧と希望』ト題スル談話ノ一節ナリ。


竜門雑誌 第五四〇号・第一〇頁〔昭和八年一一月〕 【一村の興隆と自治的精神】(DK010003k-0010)
第1巻 p.100 ページ画像

竜門雑誌 第五四〇号・第一〇頁〔昭和八年一一月〕
○上略私の故郷の此地方では、総て藍作であつて、私共が居つた時分にも、此藍作が一番大切のものであつたと思ふ。父などが『藍田は家を興す』などと云つた。如何に此土地に藍作が関係したかを証拠立てゝ居る。○下略
  ○右ハ栄一ガ明治四十一年九月廿八日八基村民ノ招請ニ応ジ、同村鎮守社諏訪神社ノ祭典ニ臨メル際、同地方農業家ノ為ニ為シタル『一村の興隆と自治的精神』ト題スル講演ノ一節ナリ。


御口授青淵先生諸伝記正誤控 第四〇頁〔昭和五―六年〕(DK010003k-0011)
第1巻 p.100 ページ画像

御口授青淵先生諸伝記正誤控 第四〇頁〔昭和五―六年〕
御話「藍の売買はすべて完全なる信用づくで、先づ値段もきめずに荷を送つて了ふ。さうして使つた後からその出来栄如何でもつて後から其値段を申渡す。けれどもそれが誠に立派に行はれた。中にはその値段で悶着をする人もあつたにはあつたが。藍作の手心に熟練した人では中手計の金八(キンパチ)があつた。」


竜門雑誌 第二八二号・第二二―二三頁〔明治四四年一一月〕 【実業教育の今昔】(DK010003k-0012)
第1巻 p.100 ページ画像

竜門雑誌 第二八二号・第二二―二三頁〔明治四四年一一月〕
○上略私の身上に就ては只今細野君(代議士)から述べられたが、親類関係からでもあらうが、褒め言葉が多かつたやうに思ふ、洵に申訳がない、私は初めて伊勢崎町に来たのではない、余程古い以前には度々来た事がある、君等の親父が未だ生れぬ時代であつた。
▲当時の伊勢崎 は千戸の戸数もない町であつた、今日の繁昌した有様に較らべると昔の事を考へても一向に様子が解らない程である、私の郷里は当町から三里ソコソコの処である、埼玉県大里郡血洗島で利根川の側にある、農業の暇に藍を売りに来た、此処は織物の盛んな土地で紺屋へ藍を売りに来たのであるが、今ま悉く当時の事が記憶にはないとしても、其当時の伊勢崎町は、今日如き繁昌な町ではなかつたと思ふ。兎に角昔とは変つては居るが、今日参つても殆ど故郷と同じ感がある、足利から向ふは東武鉄道で経過した事もあるが、その以外は始めてである、併し木崎といひ、世良田と云ひ、又境と云ひ、何れも記憶に存する処である、アノ森、アノ川の目に触るゝ毎に古き記憶を喚起し、所謂故郷忘じ難しで頗る興味を覚えたのである、而して五十年の間に段々進んで来た伊勢崎へ来て、而かも此の立派な学校の講堂で、諸君に会し、愚見を陳述するといふ事はアノ山を見るよりもアノ森を見るよりも一層深い興味を覚ゆるのである。○下略
   ○右ハ、栄一ガ明治四四年一〇月一五日群馬県伊勢崎ニテ開催セル佐波教育会講演会ニ臨ミ、試ミタル『実業教育の今昔』ト題スル演説ノ一節ナリ。其直後上毛新報紙上ニ連載セルヲ竜門雑誌ニ転載セルナリ。

 - 第1巻 p.101 -ページ画像 

雨夜譚会談話筆記 上・第六―八頁〔大正一五年一〇月―昭和二年一一月〕(DK010003k-0013)
第1巻 p.101 ページ画像

雨夜譚会談話筆記 上・第六―八頁〔大正一五年一〇月―昭和二年一一月〕
○上略
敬「今晩は余り準備をしないで参りましたから、二つばかりお伺致します、先づ――長野県神川村大字岩下の観世音菩薩に就て――これは斯う云ふ話であります。岩下の観世音は子供のくつめきと云ふ病気をよくするとて信仰せられて居る様でありますが、お祖父様も子供の時此病気に罹られたので此観音様を信仰すると快癒せられた其処で御礼に大般若波羅密多経三百六十巻を御寄附になり、渋沢市郎右衛門之を寄附す、と御祖父様のお手で署名してあると云ふのです。藍を売りに信濃地方へ行かれて居た折の事かと思ひます。くつめきと云ふ病気もどの様なものか判然しないのであります。」
先生「そう云ふ記憶がない、観音様を信仰する様なこともなかつたが――何でも布引観音と云ふのには一度参つた事がある、其は例の牛に引かれて善光寺詣と話のある処で上田から小諸へ行く街道であります。又信州で病気に罹つた事はお父様に伴られて行つた時あの地方では盛んに餅を食はせるので藍を売りに行くと行く先々の紺屋で食はされた、出されると必らず食つた、然も其餅が随分大きなものであつた。すると非常に秘結して結局黄疸と云ふ病気に掛つたことがある。そして伊勢屋正吉方へ泊つて医者に診てもらつたが、それは十六七才の時のことであります。此布引観音には前述べた様に一度参詣したことがあり、其縁故で布引鉄道と云ふ会社の株主になつた。由来私は無信心で寧ろ排仏論者である。神様の方はそうでもないが、そして神社では南湖神社など楽翁公の尊霊を祀る意味で其建設に尽力したことがあります。」


雨夜譚会談話筆記 下・第六七二―六七三頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕(DK010003k-0014)
第1巻 p.101 ページ画像

雨夜譚会談話筆記 下・第六七二―六七三頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕
維新前後の旅装及旅行用具に就て
先生「これは変つた質問であるが、信州へ商売で出掛けたときは普通の商人の身装で、別に変つた所はない。角帯を締めて、半股引に脚絆、草鞋ばきと云ふ支度であつた。それに両掛けと云つて、中に雨具、帳面等を入れた物を両肩から懸けるものだが、これは可成り重かつた。尚ほ道中の用心に脇差を一本差したが、私は撃剣を学んで居たから少し長いものを用ひた。兎もすると刀と間違へられる位に長いものであつた。出掛けたのは重に信州、伊勢崎等であつた。又秩父の方面へも行つた。信州へ初めて行つたのは十五六の時分と思ふ。伊勢崎へは、一晩泊りで四五軒も廻れる位だから、手軽に行けた。伊勢崎秩父は私が一手に引受けて廻り、新しい得意も開拓して商売をやつた。」○下略


雨夜譚会談話筆記 下・第七五五―七五七頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕(DK010003k-0015)
第1巻 p.101-102 ページ画像

雨夜譚会談話筆記 下・第七五五―七五七頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕
御病歴に就て
先生「○上略十六、七才の頃だつたと思ふ。お父さんに連れられて信州の紺屋廻りをした時、丁度正月で行く先々で雑煮を喰はされて胃を
 - 第1巻 p.102 -ページ画像 
悪くした。それがなかなか癒えず、到頭黄疸になつて仕舞つた。あとでお父さんが『お前は余り食べ過ぎるヨ』と叱言を仰言つたから、私が「お父さんはそんな無理な事を仰言るけれども、紺屋廻りをして雑煮を出されると、自分は御辞退なさつて、その申訳に、私に『お前頂いたらどうだ』と仰言るから、我慢して食べたんです、と云つたらお父さんは何とも申されなかつたヨ。(哄笑)本当だヨ。考へて見ても、一日紺屋を五軒廻るとしても、一軒で餅を三ツづゝとすると――それも田舎の餅は大変大きいのだヨ――一日に十五食ふ事になるだらう。大抵信州に行くと十七、八日位は滞在したから毎日そんなに食はされては、大抵胃の強い人でも参つて仕舞ふヨ。」(哄笑)
敬「お祖父様は餅を二十八お食べになつたと云ふんだから……」
先生「イヤ、それは一度に食べたんぢやないヨ。一日にそれだけ食つたんだヨ。(哄笑)何でもあの時は、信州の上田で具合が悪くなつて、五日位引籠つて居つたが、癒らず、家に帰つて、到頭黄疸になつた。」


過眼触耳即記(尾高淳忠稿)[尾高惇忠稿か?](DK010003k-0016)
第1巻 p.102 ページ画像

 過眼触耳即記(尾高淳忠稿[尾高惇忠稿]) (尾高定四郎氏所蔵)
藍商私論序
淵上ノ渋沢氏徳厚君曰藍商ノ進退ハ実ニ乱世ノ務ノ如シト又渋沢氏美雄君曰藍商ノ所置ハ国家ノ政令ノ如シト信ナル哉二君ノ言吾少年ヨリ二家ヲ師トシ日々ニ勉励スル事今ニ至リテ十余年其言ニ背エテ《(マヽ)》過チ其言ニ従ツテ危キヲ免カル事寡ラス今ヤ大イニ発明スル処有因テ二家ノ言ニ折衷スルニ私論ヲ以テシ編成号ケテ藍商私論トイフマツ其大小同類微細一理ナル事ヲ論ジテ立言シテ曰藍商ノ進退ハ乱世之務ノコトシトハ陶朱曰貴極反賤又曰物貴出ス事糞土ノコトシ賤キトキハ収ル事珠玉ノ如シト其進退失節商必貴買必賤其得利ナシ歳之豊凶ヲ察シ品之否可ヲ明ニシテ狐疑ナク上品ヲ撰ンテ是ヲトル己ガ胸算ニ当ル時ハ疑ナカレ違フ時ハ彊ベカラス是孫子所謂算多キハ勝算ナキハ敗ルモノ乎ソノ藍商ノ所置ハ国家ノ政令ノゴトシトハ孔子曰赦小過挙賢才択人貸物ソノ業ヲ精クシテソノ事ニ専一ナル人ヲ択ンテ与ヘスンハ必敗産産ヲ敗其弊其君ニ帰スモシ其人ヲ得ルニ至リテハ古名君賢臣能吏ヲ挙国郡委ネテカエリミサルカ如ニイタスベシ其人至テ少シヨツテ小過ヲ赦シテ業ノ精敷ヲトルベシ二家之比喩是ノゴトシ是譬ハ九牛之一毛(以下欠)


竜門雑誌 第五九六号・第一〇―一一頁〔昭和一三年五月〕 寿杖を頂きて(伊藤半次郎)(DK010003k-0017)
第1巻 p.102-103 ページ画像

竜門雑誌 第五九六号・第一〇―一一頁〔昭和一三年五月〕
 寿杖を頂きて (伊藤半次郎)
 私は安政六年十月十八日、信州小県郡丸子町伊藤佐七の二男に生れ、即ち今を去る八十年前であつて、徳川家茂が十四代の征夷大将軍に任ぜられ、憂国の志士吉田松陰が江戸で刑せられた年である。私は八才で村内の栄蓮寺に登山入学した。即ち寺小屋学問で、爰で教ふる学科は、いろは、村名付、国尽し等が習字学科で、読書は庭訓往来、実語教、古状揃、四書五経と云ふ段になるのであるが、五経まで寺小屋で
 - 第1巻 p.103 -ページ画像 
修了する人は滅多に無い。私の十五才の時即ち明治六年に学制が発布され、六才以上の男女を悉く学に就かしむる事となり、私は寺子屋を退学し、昼は農事にいそしみ、夜は村夫子に四書、五経、十八史略、日本外史、八家文等の素読を受けたが、村夫子には之を口授するのみにて講義をする程の力が無かつた。其頃土地では伝統的に俳句が行はれ、五百題や七部集に拠て頻りに作り、父が洗耳と云ふて俳句を作る所から父に直して貰ひ、神社の奉額奉灯等の催しがあれば出句し、或は東京に名の聞えた宗匠の許に添則を乞ひなどする事を、唯一の娯楽として居た。
 私が青淵先生に知遇を得たのは、私の家は祖先から半農半商で、商と云ふのは、農事の傍ら土地で云ふ紺屋で、当今の言葉で云へば染職業者で、其主たる材料は藍玉である。其藍玉の製造元は即ち武州榛沢郡血洗島の素封家渋沢市郎右衛門氏で、即ち青淵先生の生家で、何つの頃から取引を開始されたのか、多分前々代からの事で、所謂旧い取引先で、申さば私の家は得意先であつた。
 青淵先生が文久三年十一月家門を出て国事に奔走せらるゝ前は、厳君市郎右衛門氏と共に一年に両三度程は注文取とか、掛け集めとか、商用の為めに私の家に来訪あり、厳君は又大なる俳句好きで、当時江戸で名高い、七部大鏡、芭蕉句解参考など著したる月院社何丸に師事し、土地で三十六人集の一人であらるゝ程の名家であつたから、私の父の嗜好と頗る一致して、私の家に来訪せらるれば、商談は僅か数分時で、後は俳談に時を移され、或る時は私の家に宿泊せられし事も度々であつたとの談話が残つて居ります。○下略


伊藤半次郎(松宇)氏談話(DK010003k-0018)
第1巻 p.103-106 ページ画像

伊藤半次郎(松宇)氏談話
            昭和十三年六月九日
            於小石川(関口町)芭蕉庵
                  聴問者 土屋喬雄
                        山本勇 筆記
 (土屋)貴所のお書きになつた竜門雑誌の五月号(第五百九十六号)の「寿杖を頂いて」を拝見して、信州の伊藤家と血洗島の渋沢家との御関係についてもつと詳しくお話願ひたいと思つて、参上いたしました。
○折角お出で下さつたが、とりたてゝ申上げることもありませんので、御失望だらうと思ふ。何しろ七、八十年以前の話ですから。
 この間長野の小県《ちいさがた》出身の軍人の集る会に招れまして、丁度貴所の方から青淵先生のお若い時分の事についてお尋ねを受けてをりました折でしたので、其処で何か昔のことを聞き出せないかと期待して参つたのですが、百人ばかりも集まられた皆さんが皆私より若い人ばかりで(註、伊藤氏は本年八十才)、何にも知りませんでした。また、爺さんなどから聞いたといふ話も、ぼんやりした話ばかりでした。『確かに自分の家でも渋沢さんの藍玉を使つたらしい』といふ爺さんから聞いたりした話はしてをりました。
 (土屋)青淵先生が貴所の御郷里へお出になつたことについて、ハツキリした御記憶が御座いますか。
 - 第1巻 p.104 -ページ画像 
○それがどうもぼんやりしてをりまして、たしか「藍屋さん」と呼ばれる人が、私の家に藍玉をもつて来たり注文を取りに来たりして、泊つたのを記憶してをります。青淵先生が藍玉の御商売で信州へお出になつた頃は、私は未だ四つ五つの子供ですし、私が物心ついた時分には、先生はもう国事に御奔走になつて西京の方へ行つてしまはれる、父君の方も既に年老いて信州へはお出にならなかつたのだらうと思ひます。そんな訳で私にはお二方の記憶はありません。それで折角お出下さるのに申訳ないと思ひまして「洗耳軒記」をとり出して置きました。これは尾高惇忠さんが――署名は惇孝となつてをりますが、惇忠さんに違ひありません。尾高新五郎です、この頃は惇孝とおつしやつたのでせう。(註、新五郎初諱を惇孝と称す)―元治二年に私の父佐七に書き与へたもので、今まで信州の田舎にあつたのですが、家を継いでをります私の兄といふのは俗物でして、かういふものは、一かう分りませんから、私がもつて参つたのです。これによりますと、はつきりしたことが分りますし、また、私が竜門雑誌の五月号に書いたことが嘘でないといふ立派な証拠になると思ひます。
  (「洗耳軒記」を通読)
 (土屋)お宅と血洗島の渋沢家は何時頃からの御交際であつたか、といふやうなことについての御聞伝へはございませんでせうか。
○この「洗耳軒記」に『吾与青淵先歴遊于此国世必訊問締交十余年』とありますし、これを書かれたのが元治二年と記してありますから、元治二年より十余年前からの御交際であつたことは確でありますが、それ以前は分りません。
 (土屋)御祖父様時代からの御交際でせうか。それとも御尊父様時代からでせうか。
○それはどうもはつきり致しません。私が考へまするに、「青淵先生六十年史」によりますと、渋沢家では先生の親御の時代に藍玉商売をお始めになつたやうですから、その時分からの御交際ではないのでせうか。(「六十年史」云々は誤――聴者)
 (土屋)貴所の御尊父と青淵先生の御尊父との御年はどうだつたでせうか。
○私の父よりも先生の父君の方が上ではなかつたと思ひますが、どうもはつきりしたことは覚えてをりません。
 (土屋)信州のお宅には先生や先生の御尊父の藍玉の商売に関する手紙など御座いませんでせうか。
○郷里の方にも御座いますまい。田舎の者共はかうした文墨のことなどに一向無頓着ですから。幸ひこの「洗耳軒記」は保存してをりましたので、こちらへ私が持つて来たのです。
 (土屋)何かそのほかお宅で言ひ伝へは御座いませんでせうか。
血洗島の渋沢家との御関係の点について。
○私の家では父の父が染職業を始めたといふことです。そして、先に申した通り、渋沢家は先生の父君が藍玉の御商売をお始めになつたやうですから、どうしても、それ以前からの御附合とは思へません。やはり初めは、商売の方の関係からだつたでせうから。後では、雑誌
 - 第1巻 p.105 -ページ画像 
(註、前掲)にも書きました通り、父君と父の俳句の御交際は深かつたやうですが。
 私の家は、染職業は先々代から始めたのださうですが、庭に三百年位経た松がありますから、家は古いやうです。また、古いといふ話です。染色場が家に並んで在つたことは、私も幼少の頃から覚えてをります。余談ですが、父がやつてゐた頃の染職の弟子が後で江戸に出て、相当大きな店を開いて居りました。
 (土屋)貴所の御祖父君のお名は。
○爺は喜代八、父は養子で佐七と申しました。
 (土屋)お宅で使はれた藍は渋沢家のものばかりだつたでせうか。
○渋沢さんのばかりではありません。阿波のものと武州のと両方です。といふのは染る物の向き向きによつて違ひますから、両方のものを使ひ分けしてをりました。御承知のやうに藍は阿波のものが一番上等でした。
 武州からは渋沢さんと渡瀬《わたらせ》の高柳が来てをりました。高柳の方は渋沢さんよりずつと後です。渋沢さんの方は父君が年を召されてお出になれなくなり、先生は国事に御奔走といふことで、この間御附合がとぎれてゐる時分に高柳が来たわけであります。父君御健在の頃は武州のは渋沢さんの藍だけでした。
 阿波からは東覚園の志摩重兵衛といふ人が来てをりましたが、これも俳句をやる方で偉い人でした。
 しかし、家で使つた藍は渋沢さんの方が近くもあり、主でした。藍香翁も藍玉の御商売をなさつて御附合がありました。当時両家は一緒にやつてをられたやうです。
 俳句の方のお附合は雑誌(註、前掲)に書いて置いた通りで、この方も中々盛んであつたやうです。私がこんな古い話が幾らか出来ますのも、幼少の頃から俳句が好きでやつてをつたからで、そんな因縁から御父君の遺墨を探して『晩香遺薫』の御編纂にお助けが出来た次第です。これも雑誌(註、前掲、第五九六号)に書いて置いた通りであります。
 (土屋)御郷里のお家には昔の藍玉帳……藍玉をどれだけ買入れたかといふことを書いてある台帳のやうなものは残つてゐませんでせうか。
○どうでせうか。確かに残つてゐるものが在つた筈ですが、反古にでもしてしまはなかつたかと思ひます。
 (土屋)おついでの時にお調べを願ひます。尚ほ御郷里の近くに渋沢家と関係のあつたところはありませんでせうか。
○私の郷里は、只今は丸子町になつてをりますが、当時は丸子村と申してをりました。この丸子村の近村の紺屋も渋沢さんと取引がありました。家内の家の隣りの伊藤姓を名乗る家でもさうでしたし、丸子の近くの尾野山にも、それから依田川にそつた依田村(昔は武石村と申しました)や佐久小県の方にも行かれたやうです。佐久の方は藍玉の取引だけで風流の方は分りませぬ。
 (土屋)先生や先生の父君について何か逸話をお聞きになつてゐませんか。
 - 第1巻 p.106 -ページ画像 
○私の姉はよく物語つてをりました。長女でして元治三年《(マヽ)》にお嫁に行きまして、先年九十才でなくなりました。私は子供で何も分りませんでしたが、姉は嫁に行く年頃でしたから、よく覚えてゐまして、お二人が大さう御立派な方だつたと申してをりました。
父君も先生も腰に一本差しておゐでになつたさうで御座いますよ。左様です、御商売でお出になる時に一本差しだつたと申します。


高地茂左衛門宛藍玉通(嘉永五年以降)(DK010003k-0019)
第1巻 p.106-112 ページ画像

高地茂左衛門宛藍玉通(嘉永五年以降)(渋沢子爵家所蔵)

図表を画像で表示--

 (表紙)  嘉永五年壬子   藍玉通  春壬正月吉日 (裏表紙)  武州血洗島   渋沢市郎右衛門 市村  高地茂左衛門様行 



       愛出度始
 亥十一月廿六日出荷改入               イ
 一藍玉四箇                      盤若印
  代金七両也                       壱駄
    内壱両弐分 直引                    サニ

 子三月出荷五月入                  亥子
 一同 四箇                      青海印
  代金七両三分也                     壱駄
    内金壱両弐分 直引                   ハウ

  〆弐駄
 引
 〆正ミ金拾壱両三分也
     内金三分也別ニ直引

  子八月十三日                    受取
   内金七両壱分也

 引
  〆金三両三分也
  右之通慥ニ受取此処皆済仕候
   丑正月十八日

 子七月廿六日出荷 但シ赤岩ヨリ御引取可被下分切手差置
 一藍玉弐箇                     テ
  代金四両也                     紫雲印
    内金三分也直引                   片荷

 引
  〆金三両壱分也
  丑正月十八日                    受取
   内金弐両也

 子十一月廿七日出荷改入荷              子イ
 一藍玉四箇                      玉紫印
 改正味代金六両弐分弐朱也 無引
  丑八月十三日                   岩村田ニ而
   内金三両也                    受取

   寅正月廿八日                  岩村田ニ而
    内金弐分慥                   受取
                           岩村田
   〃四月十八日                  由右衛門殿ヨリ
    内金壱両弐分也                 受取

   〃壬七月十七日
    内金壱両也                   受取

 - 第1巻 p.107 -ページ画像 
  残金      入割ニ付格別
               直引
   寅閏七月十七日相済

      寅年始
 丑十一月廿五日出荷〃十二月入            イ
 一藍玉四箇                      玉紫印
 改正ミ代金五両三分 無引                 壱駄
         内金壱両也〃入割ニ付格別直引

  寅壬七月十七日
   内金壱両也                    受取
 引
  〆金三両三分也
   右之通慥ニ受取此処
     皆済仕候以上
      卯正月十九日

      卯年始
 寅十一月七日出荷十二月入              別
 一藍玉四箇                      紫雲印
  正ミ代金六両三分也 無引                壱駄

 卯三月廿四日出荷四月入               手作
 一同 四箇                      青海印
  正味代金六両三分也 無引                壱駄
  〆弐駄

  正味代金拾三両弐分也
       内金弐両弐分直引
       内金弐分也格別直引

  卯八月六日
    内金五両也                   請取
 引
  〆金五両弐分也

  右之通慥ニ請取此処
  相済申候以上
   辰正月廿七日

      辰年始
 卯十一月十三日出荷〃廿二日入            ロ
 一藍玉四箇                      東錦印
  正ミ代金六両弐分也                   壱駄
         内金三分直引                ヤモ

 辰三月十一日出荷廿八日入
 一同 四箇                     チ
  正ミ代金七両弐分也 無引              青雲印
             ワモ               壱駄
         内金三分直引

  〆弐駄
 引
〆正ミ代金拾弐両弐分也
         内金弐分也別引
   辰八月六日
    内金五両也                   請取
   巳正月廿九日
    内金三両也                   請取
  引
   〆金弐両也
       かし

 - 第1巻 p.108 -ページ画像 
      巳年始
 辰十一月一日出十一月十四日入
 一藍玉四箇                     別改
  正味代金七両壱分也 無引              刀川印
         内壱両三分直引              壱駄

   巳八月十六日
    内金弐両也                   請取

   午正月廿七日
    内金壱両也                   請取

   〃八月十九日
    内金弐両也                   請取
 引
   〆金弐分也
       かし

 巳十二月十五日出午二月十八日入
 一藍玉四箇                     イ
  正ミ代金七両壱分也                 青淵印
          内壱両三分直引             壱駄

   未正月十八日
    内金弐両也                   請取

   未八月十九日
    内金弐両也                   受取
                         代栄一郎

  引
   〆金壱両弐分
        かし

 午十一月廿八日出荷十二月十八日入
 一藍玉四箇                     イ
  正ミ代金七両也                   青淵印
        内金壱両弐分直引              壱駄

   申正月廿五日
    内金三両也                   請取
                         代栄一郎

  引
   〆金弐両弐分
        かし

 辰年より是迄
  五駄残金〆金六両弐分也
          内壱両弐分也格別直引

  引
   〆金五両也

    酉正月十八日
       内金弐両也                請取

   未年新口
  未十一月廿五日出荷申正月十四日入         イ
 一藍玉四箇                      青淵印
 正ミ代金七両弐分也                    壱駄
  内三箇                   大田部村
  代金五両弐分弐朱也                 長吉殿行

 引〆壱箇
 代金壱両三分弐朱也
         内金三分也格別負引

 申四月十七日出六月五日入
 一同 四箇                     チ
  正ミ代金六両三分也                 東錦印
          内金壱両三分負引            壱駄

   〆
   引〆金六両壱分弐朱也

  申八月五日
    内金三両也                   請取
                         代栄一郎
 - 第1巻 p.109 -ページ画像 
   申八月十四日                   請取
    内金壱両也                代栄一郎

 惣引〆残金五両壱分弐朱也
   酉八月七日
    内金壱分弐朱也                 受取

  又引〆金五両也
   戌正月十七日
    内金壱分弐朱也                 受取

   戌八月廿三日
    内金壱分弐朱也                 受取

   亥正月十七日
    内金壱分弐朱也                 受取

   亥八月九日
    内金壱分弐朱也                 受取

   子正月廿日
    内金壱分弐朱也                 請取

   子八月廿一日
    内金壱分弐朱也                 受取

   丑正月十八日
    内金壱分弐朱也                 受取

   〃八月七日
    内金壱分弐朱也                 受取

   寅四月十二日
    内金壱分弐朱也                 受取

   〃八月五日
    内金壱分弐朱也                 受取

   卯正月廿五日
    内金壱分弐朱也                 受取

   〃八月十四日
     内金壱分弐朱也                受取

  引〆金壱分弐朱也
  右之通慥ニ受取不残相済申候以上
   辰正月廿九日

      申新口
 申十二月三日出荷酉正月廿四日入
 一藍玉四箇                     ロ
  正ミ代金八両壱分也                 青淵印
          内金壱両弐分負引            壱駄

   酉八月十六日小諸布七御届ニ而
    内金弐両弐分也                 受取

   戌正月十七日
    内金弐両也                   受取

   戌正月廿六日
    内金弐分也                   受取

    引残金壱両三分也
  右之通慥受取相済申候以上
     戌八月廿三日

 戌正月五日出二月廿八日入
 一藍玉四箇                     十一
  正ミ代金九両弐分也                 青雲印
         内金壱両壱分格別負引           壱駄

   戌八月廿三日
 - 第1巻 p.110 -ページ画像 
    内金三両壱分也                 受取
  引
   〆金五両也
  右之通慥受取相済申候以上
   亥正月十七日

   戌七月十八日出十月十六日入           二十○
 一藍玉四箇                      青雲印
  正ミ代金拾両壱分也                   壱駄
         内金弐両壱分荷物不働ニ付負引

   亥正月廿五日
    内金壱両弐分也                 受取
  引
   〆金六両弐分也
  右之通慥受取此処相済申候以上
   亥八月九日

 亥二月三日出四月入
 一藍玉四箇                     ア
  正ミ代金拾弐両三分也                青雲印
           内金弐両壱分負引           壱駄

  引
   〆仕切金拾両弐分也
         内壱分尚又引

   亥八月九日
    内金壱両弐分也                 受取
  又引
    〆金八両三分也                 請取

      子二月二日此処相済申候
 八月廿二日出荷
 一藍玉四箇                     ア 山通
  代金拾三両弐分也                  雲井印
        内金壱両弐分直引              壱駄
        弐分尚又引

  引
   〆金拾壱両弐分也

   子二月二日
    内金壱両也                   請取

   子八月廿一日
    内金五両也                   請取
   引
    〆金五両弐分也

  右之通慥ニ請取此処相済申候
   丑正月十八日

当年相改正ミ附
 子二月十七日出荷四月廿一日入
 一藍玉四箇                     十 山通
  正ミ代金拾三両三分也 無引             雲井印
          内弐分弐朱 駄賃引           壱駄
          内壱分弐朱 負引

   丑正月十八日
     内金弐両也                  請取
    引
     〆金拾両三分也
 右之通慥ニ請取此処相済申候以上
    丑八月七日

 丑正月十日出荷二月廿二日入             六 大手
 一藍玉四箇                      蒼天印
  正ミ代金拾五両三分也 無引               壱駄

 - 第1巻 p.111 -ページ画像 
          内金壱分弐朱負引
   寅正月十八日
    内金拾両也                   請取
  引
   〆金五両壱分弐朱
  右之通慥ニ請取此処相済申候以上
   寅八月五日
 寅正月九日出荷〃月廿八日入
 一藍玉四箇                     ロ 大手通
  正ミ代金三拾壱両也 無引              蒼天印
         内金四両也格別負引            壱駄

   卯正月廿六日
    内金五両也                   請取

   〃四月廿日
    内金壱両也                   請取

   〃八月十四日
    内金八両也                   請取

 引
  〆金拾三両也
    右之通慥ニ受取此処相済
    申候以上
     辰正月廿九日

 卯二月九日出四月十一日入
 一藍玉四箇                     イ 大手通
  正ミ代金弐拾八両弐分也 無引            雲井印
          内金弐両弐分              壱駄
              格別負引

   辰正月廿七日
    内金三両也                   請取

  引
   〆金弐拾三両也
    右之通慥ニ請取此処
    相済申候以上
     辰八月十二日

 辰二月十五日出二月廿二日入
 一藍玉四箇                     イ
  正ミ代金弐拾八両弐分也 無引            雲井印
          内金弐両也駄賃共負引          壱駄

   巳正月廿六日
    内金拾両也                   請取

   〃八月九日
    内金拾四両也
  引                         請取
   〆金弐両弐分也

    右之通慥ニ請取此処相済
    申候以上

 巳二月九日出荷三月朔日入
 一同 四箇                     イ 山通
  正ミ代金三拾六両弐分也               蓬莱印
          内壱両ト弐朱駄賃立替引         壱駄
          内金弐両三分弐朱負引

   午正月十八日
    内金拾壱両弐分                 受取

   午八月六日
    内金拾五両也                  請取
  引
   〆金六両也

    右之通慥請取此処不残
    相済申候以上

 - 第1巻 p.112 -ページ画像 
      未正月廿六日
 午二月十八日出荷三月廿四日入            ニ
 一同 四箇                      竜池印
  正ミ代金四拾両也                    壱駄

   未正月廿六日
    内金壱両也                   請取

   〃九月二日
    内金拾両也                   請取

   申正月廿六日
    内金拾四両也                  請取

   〃八月十七日
    内金五両也                   請取

 未二月五日出荷〃十六日入              リ
 一藍玉四箇                      青海印
  正ミ代金四拾両也                    壱駄

   酉三月二日
    内金弐両也                   受取

 〆二駄
   代金八拾両也
    未ノ正月ヨリ酉三月迄
      内金三拾弐両也
   引
    〆金四拾八両也
      内金弐拾四両也 負引
   直引
     〆金弐拾四両也
    戌二月廿二日
     内金七両也                  受取
   残り金之儀者当七月金拾両也
   来ル亥一月金七両二度ニ御渡し
   可被下候筈ニ而判取長江記申候《(帳)》

    戌十月四日                 七月分
     内金七円也                  内受取

    亥四月廿四日
     内金五円也                  受取

    〃九月廿五日
     残金五円也                  受取
    右之通り不残皆済相成候也


藍玉通帳の事 塩川啓之助氏談(DK010003k-0020)
第1巻 p.112-113 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

紺屋兼吉宛藍玉通 (安政三年以降)(DK010003k-0021)
第1巻 p.113-117 ページ画像

紺屋兼吉宛藍玉通 (安政三年以降) (手塚弥右衛門氏所蔵)

図表を画像で表示--

 (表紙)   安政三年丙    藍玉通   辰正月吉日 (裏表紙)   武州血洗島    渋沢市郎右衛門   神畑村    紺屋兼吉様 



      慶度始
 卯十一月十一日出十二月入り             ロ
 一藍玉四箇                      青雲印
  正ミ代金七両也 無引                  壱駄

 辰三月十五日出五月七日六月十日入          手作
 一同 四箇                      蒼天印
  正ミ代金七両三分也 無引                壱駄

 〃三月十七日出五月七日入              チ
 一同 弐箇                      青雲印
  正ミ代金三両弐分也 無引                片荷

 〃八月十七日出九月廿六日入
 一同 弐箇                      同印
  正ミ代金三両弐分也                   片荷

 〆三駄
  辰八月十一日
   内金四両也                    受取
   内金三両三分   三駄ニ付
 引          格別負引
  〆金拾四両也
 右之通慥受取此処相済申候
 以上
  巳正月廿三日
  此分小島村ニ而御勘定請取
  別紙受取書相済

      巳年
 辰十一月十六日出荷巳三月廿八日入          イ
 一藍玉四箇                      青淵印
  正ミ代金六両三分也                   壱駄
  無引

 巳正月九日出三月九日入               不二
 一同 四箇                      蓬莱印
  正味代金九両壱分也                   壱駄
   無引

 - 第1巻 p.114 -ページ画像 
 巳閏五月廿七日出七月一日入             ト
 一同 四箇                      蒼天印
   正ミ代金七両三分也                  壱駄
 〆三駄
 正ミ代〆金弐拾三両三分也
         内金四両三分
             格別直引

  巳八月十二日
    内金三両弐分也                 受取
 引
  〆金拾五両弐分也
  右之通慥ニ受取此処相済申候
  以上
   午正月廿四日

      午年始
 巳十二月十五日出午三月十七日入           イ
 一藍玉四箇                      青淵印
   正ミ代金六両弐分也 無引               壱駄

 巳十二月廿六日出午三月十四日入           不二
 一同 四箇                      蓬莱印
   正味代金八両壱分也 無引               壱駄

 午四月五日出荷六月入改               別
 一同 四箇                      蓬莱印
   正ミ代金八両壱分也 無引               壱駄

 〃二月廿日出荷六月入改               別
 一同 四箇                      蒼天印
   正ミ代金七両三分也 無引               壱駄
  〆四駄

   午八月十六日
    内金四両也                   請取
 四駄
  正ミ代金三拾両三分也
         内金四両三分 格別直引
         内金四両也 午八月十六日分引

 引
  〆金弐拾弐両也
 未正月廿四日
  内金拾六両也                    請取

 残金六両也
 右之通慥受取此処相済申候以上
                       代栄一郎

   未八月十四日

 午十月廿七日出荷十二月十八日入           リ
 一藍玉四箇                      蒼天印
   正ミ代金七両壱分也                  壱駄
       内金壱両也 負引

 午十二月六日出荷二月九日入             ロ
 一同四箇                       青雲印
   正ミ代金六両三分也                  壱駄
       内金壱両壱分也 負引

 未三月十七日出荷四月七日入             登
 一藍玉八箇                      竜池印
   正味代金弐拾両也                   弐駄
       内金三両弐分 格別引

 - 第1巻 p.115 -ページ画像 
 〆四駄
 代金〆三拾四両也
       内金五両三分 格別引
       内金三分也 年柄御入割付
             尚又引

   未八月十四日
    内金四両也                   受取
                          代栄一郎

 引
  〆仕切金弐拾三両弐分也 定
   申正月廿三日
    内金拾五両弐分也                請取
                          代栄一郎

  残金八両也
  右之通慥受取此処不残相済申
  候以上
   申八月十一日                 代栄一郎

      未年新口
 未十月廿九日出荷十一月廿四日入           ニ
 一藍玉四箇                      雲井印
   正ミ代金七両壱分也                  壱駄

 未十一月出荷申正月廿七日入             別
 一同 六箇                      蓬莱印
   正ミ代金拾三両三分也                 壱駄半

 申閏三月出五月入                  登
 一同 六箇                      竜池印
   正ミ代金拾八両三分也                 壱駄半

〆四駄
 代金〆三拾九両三分也
       内金六両壱分 格別負引
 引
  〆仕切金三拾三両弐分也
       内金壱両也 尚又別負引
   申八月十一日
    内金弐両也                   受取
                          代栄一郎

   酉正月廿四日
    内金拾八両弐分也                請取

 引
  〆金拾弐両也
     かし
     内金弐分 格別負引

  右之通慥受取此処不残相済申
  候以上
  酉八月十二日

      申年新口
 申十二月出荷酉二月十四日入             イ
 一藍玉四箇                      雲井印
   正ミ代金九両弐分也                  壱駄

 酉正月出荷二月三日入                ハ
 一同 四箇                      蒼天印
   正ミ代金拾両三分也                  壱駄

 酉二月廿五日出荷四月六日入             十一第一
 一同 四箇                      竜池印
   正ミ代金拾弐両弐分也                 壱駄

 - 第1巻 p.116 -ページ画像 
 酉四月十五日出六月入                登
 一同 四箇                      竜池印
   正ミ代金拾四両弐分也                 壱駄

 〆四駄
  代金四拾七両壱分也

 酉八月十二日
  内金壱両弐分也                   受取
  内金拾両也                     特別負引
  内金弐両壱分也                   尚又引
 仕切金三拾三両弐分也
 右之通慥受取此処不残相済申
 候上
  戌正月廿二日

 酉十二月十九日出二月入               四
 一藍玉四箇                      蓬莱印
   正ミ代金拾弐両弐分也                 壱駄

 酉十二月十一日出二月入               十一
 一同 四箇                      竜池印
   正ミ代金拾五両也                   壱駄

 戌二月十日出三月廿三日入              五
 一同 四箇                      蓬莱印
   正ミ代金拾弐両三分也                 壱駄

 戌四月廿五日出六月廿二日入             ホ
 一同 四箇                      竜池印
   正ミ代金拾四両也                   壱駄

 戌七月四日出                    三
 一同 四箇                      蓬莱印
   正ミ代金拾弐両三分也                 壱駄

  〆五駄
   代金六拾七両也
    内金拾三両弐分 格別負引

   戌八月廿九日
    内金拾両也                   受取

   戌十二月八日
    内金弐拾五両也                 受取

   戌十二月九日
    内金拾八両也                  受取

  引
   〆金弐分也
    戌十二月九日不残相済

 戌七月四日出十月十二日入              三
 一藍玉四箇                      蓬莱印
   正ミ代金拾弐両三分也                 壱駄

 戌七月十八日出十月廿一日入             十八
 一同 四箇                      蓬莱印
   正ミ代金拾弐両三分也                 壱駄

  〆弐駄
   代金弐拾五両弐分也
        内金三両弐分也 格別負引

   戌十二月九日
    内金五両也                   受取

  引
   〆金拾七両也
 - 第1巻 p.117 -ページ画像 
  右之通慥受取不残相済申候以上
   亥正月廿二日

  亥正月廿二日
  一金弐拾両也                   前金
                            受取
 戌十一月廿七日出亥正月十四日入           ニ
 一藍玉弐箇                      竜池印
   正ミ代金八両壱分也                  片荷

 戌十二月廿一日出二月五日入             二十
 一同 四箇                      竜池印
   正ミ代金拾七両也                   壱駄

 亥正月六日出二月十六日入              二十六
 一同 四箇                      蒼天印
   正ミ代金拾五両弐分也                 壱駄

 戌十二月廿一日出五月廿一日入            四三十二壱
 一同 四箇                      蓮莱印
   正ミ代金拾六両也                   壱駄

 亥二月九日出五月廿一日迄入             三十八
 一同 四箇                      蓬莱印
   正ミ代金拾五両也                   壱駄

 亥二月出四月ヨリ五月迄入              八箇四十四六
 一同 八箇                      青雲印
   正ミ代金弐拾六両弐分也                弐駄

 亥二月出五月五日入                 四十三
 一同 四箇                      青海印
   正ミ代金拾四両也                   壱駄

 戌十一月廿七日出四月廿八日入            二三廿一壱
 一同 弐箇                      竜池印
   正ミ代金八両壱分也                  片荷

 〆弐駄
  正ミ代〆百弐拾両弐分也
         内金弐拾壱両弐分也
               格別負引

      亥八月六日
       内金拾五両也               受取
       内金弐拾五両也             正月中
                            前金引
  惣引
   〆金六拾四両也
  右之通慥ニ請取此処皆済仕候
  以上
   子正月廿八日


手塚弥右衛門宛藍玉通(明治二年以降)(DK010003k-0022)
第1巻 p.117-121 ページ画像

手塚弥右衛門宛藍玉通(明治二年以降)(手塚弥右衛門氏所蔵)

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 (表紙)   明治二年己巳    藍玉通   春壬正月良日 (裏表紙)   武州血洗島村    渋沢市郎右衛門  神畑村   手塚弥右衛門様 



 - 第1巻 p.118 -ページ画像 
      愛度始
 巳十二月六日出荷午正月廿五日入           新
 一藍玉四箇                      鳳鳴印
   正ミ代金四拾六両也                  壱駄

 〃十二月六日出荷午正月廿八日入           新
 一同 四箇                      鳳鳴印
   正ミ代金四拾六両也                  壱駄

 〃十二月六日出荷午二月二日入            新
 一同 四箇                      鳳鳴印
   正ミ代金四拾六両也                  壱駄

 〃十二月六日出荷午正月廿五日入           一
 一同 四箇                      竜池印
   正ミ代金四拾五両也                  壱駄

 巳十二月六日出荷午正月廿八日入           一
 一同 四箇                      竜池印
   正ミ代金四拾五両也                  壱駄

  〆五駄
   正ミ代金弐百弐拾八両也
    午正月廿六日
     内金百両也                  請取

 午二月十三日出荷四月四日入             ホ
 一同 四箇                      寿海印
   正ミ代金四拾七両也                  壱駄

 〃四月四日入
 一同 四箇                      同印
   正ミ代金四拾七両也                  壱駄

 〃三月廿二日弐ツ入四月四日弐ツ入〆四ツ入      ル
 一同 四箇                      竜池印
   正ミ代金四拾三両也                  壱駄

 〃四月四日入
 一同 四箇                      同印
   正ミ代金四拾三両也                  壱駄

 〃三月廿二日弐ツ入四月四日弐ツ入〆四ツ入      チ
 一同 四箇                      蓬莱印
   正ミ代金四拾壱両也                  壱駄

 午四月廿四日出荷七月四日入             ホ
 一同 四箇                      寿海印
   正ミ代金四拾七両也                  壱駄

 午四月廿四日出七月四日入              ホ
 一同 四箇                      寿海印
   正ミ代金四拾七両也                  壱駄

 午四月廿四日出七月四日入              ル
 一同 四箇                      竜池印
   正ミ代金四拾三両也                  壱駄
 惣
  〆拾三駄
   正ミ代金五百八拾六両也
         内金五拾六両也 御入割ニ付
                 格別負引

  午八月十一日
    内金三百両也            但シ上田札ニ而
                            請取
    内金百両也             午正月内取分
                            引
 〆金四百両也
惣差引
  〆金百三拾両也
  右之通慥ニ請取此処不残相済
  申候以上

 - 第1巻 p.119 -ページ画像 
     未正月廿二日
 午十一月廿四日出荷十二月十八日弐ツ〃廿二日弐ツ〆四ツ入
 一藍玉 四箇                    イ
   正ミ代金四拾七両也                竜池印
                              壱駄
 午十一月廿四日出荷十二月十八日ヨリ廿二日迄入
 一同 八箇                     手
   正ミ代金八拾壱両也                蓬莱印
                              弐駄
 午十一月廿四日出荷未正月廿三日四ツ入〃二月十日四ツ入
 一同 八箇                     イ
   正ミ代金九拾四両也                竜池印
                              弐駄
 未正月九日出荷〃二月十日四ツ入〃二月 入
 一同 八箇                      同印
   正ミ代金九拾四両也                  弐駄

 正月五日出荷二月十日入                カ
 一同 四箇                       蓬莱印
   正ミ代金四拾弐両也                   壱駄

 〃二月七日出荷〃十五日入               タ 山通
 一同 四箇                       鳳鳴印
   正ミ代金四拾六両也                   壱駄

 同 日出荷〃十六日入                 タ 山通
 一同 四箇                       鳳鳴印
   正ミ代金四拾六両也                   壱駄

 〃二月九日出荷〃廿五日入               ヨ 山通
 一同 四箇                       蓬莱印
  正ミ代金四拾壱両弐分也                 壱駄

   〆拾壱駄
  正ミ代金四百九拾壱両弐分也
                           ヨ
   内金壱両三分三朱ト                蓬莱印
           九百文                駄賃立替引
                           タ
   内金壱両三分弐朱ト                鳳鳴印
           壱〆百四十文             駄賃立替引

   内金壱両三分一朱ト                同印
          壱〆三十文               駄賃立替引

  未三月廿四日
                          上田札
   内金五拾両也                   請取

 未四月十七日出                   ヨ
 一藍玉四箇                      蓬莱印
   正ミ代金拾壱両弐分也                 壱駄

 未六月廿一日出七月入                天門
 一同 四箇                      竜池印
   正ミ代金五拾両也                   壱駄
         内金四両ト三百文 弐駄
                   立替引

  〆弐駄
   正ミ代〆金九拾壱両弐分也
 〆拾三駄
  正味代〆金五百八拾三両也
          内金九両弐分弐朱      佐久通五駄
                三〆六百四拾文  御立替駄賃
                           〆二ツ引

          内金
   未八月廿八日                太政官札
    内金金百五拾両也                請取

   未八月廿八日                上田藩札
    内弐百五拾両也                 請取
 - 第1巻 p.120 -ページ画像 
  二
   〆金四百両也

 未九月廿三日出荷十月入               天門
 一藍玉四箇                      竜池印
   正ミ代金五拾五両也                  壱駄
                              山通

 〃九月廿六日出荷十月入               天門
 一同 四箇                      竜池印
   正ミ代金五拾五両也                  壱駄
          内金四両也 弐駄賃立替引        山通

  〆拾五駄
   正ミ代〆金六百九拾三両也
          内金拾三両弐分弐朱ト     七駄賃御立替
                 三〆六百四拾文      〆引
  内取
   三筆〆金四百五拾両也引 未三月ヨリ八月迄
 引
  〆金弐百弐拾九両ト
         百拾文
        内金七拾四両ト   銭狂御入割ニ付
              百拾文       負引

 惣引
  〆金百五拾五両也
  右之通リ慥ニ請取不残此処相
  済申候以上
   申正月廿二日

      申新口
 未十二月廿八日出荷申正月十二日入          六
 一藍玉四箇                      竜池印
   正ミ代金五拾六両弐分也                壱駄
          内金壱両三分一朱ト
               弐百七拾壱文    駄賃御立替引

 申二月八日出荷同廿三日入              六
 一同 四箇                      竜池印
   正ミ代金五拾六両弐分也                壱駄
          内金壱両壱分一朱ト
               四〆六百弐拾九文  駄賃立替引

    申三月廿八日
     内金五拾両也                 請取

    〃八月十五日
     内金五拾両也                 請取

 申七月廿五日出荷八月十四日入            手
 一同 四箇                      竜池印
   正ミ代金五拾八両也                  壱駄
           内金弐両一朱ト
                 廿五文   駄賃立替引

    申八月十五日
     内金五拾両也                 請取

 申十月廿三日出荷十一月八日入            手
 一藍玉四箇                      竜池印
   正ミ代金五拾八両也                  壱駄

 〃 日出荷十一月八日入               手
 一藍玉四箇                      同印
   正ミ代金五拾八両也                  壱駄
           弐駄賃立替
             金三両三分一朱ト壱〆百文引

   〆五駄
    正ミ代〆金弐百八拾七両也
    申十一月十四日
 - 第1巻 p.121 -ページ画像 
     内金七拾両也                 受取
    内取四筆
      〆金弐百弐拾両也

    内金九両ト六〆廿五文     五駄賃御立替引
    内金三拾弐両ト三〆七拾五文   別段直引
  惣引
   〆金弐拾五両也
   右之通リ慥ニ受取不残皆済ニ
   相成申候以上
     酉二月廿七日


竜門雑誌 第三五〇号・第八八―八九頁〔大正六年七月〕 【上略五月十四日に出掛けて…】(DK010003k-0023)
第1巻 p.121 ページ画像

竜門雑誌 第三五〇号・第八八―八九頁〔大正六年七月〕
○上略五月十四日に出掛けて信州旅行を致しました。小諸、上田、長野、松本、諏訪の五箇所に二晩づつ泊つて演説しました。お話する程の事もないが、只信州地方が昔し十六七から二十一二才まで五六年間旅行した土地でありますから、其の六十年以前の旅行に較べると、如何に変つて居つたかと云ふことは、殆ど想像外であると云ふ感じを以て旅行した。上田では七十に垂んとする婆さんが尋ねて来た。其頃面会した人ではなかつたけれども、或は其の婆さんの兄さんが紺屋で、私の行つた時分大いに取引をしたとか云うやうな古い関係のある人で、殊に可笑しいのは、安政三年の通帳を持つて来て「是れある以上は慥に此上もない証拠であります」と云ふ。其の安政三年のは其の中に記載してある受取の計算は慥に私がしたのであります。坐ろに懐旧の情を催して感慨無量であつた。○下略
   ○右ハ大正六年五月栄一ガ信州旅行ヨリ帰リテ後試ミタル談話ノ一節ナリ。


上田郷友会月報 第六二〇号・第一五―一七頁〔昭和一三年九月〕 渋沢翁と紺屋手塚の老婆(柴崎新一)(DK010003k-0024)
第1巻 p.121-123 ページ画像

上田郷友会月報 第六二〇号・第一五―一七頁〔昭和一三年九月〕
 渋沢翁と紺屋手塚の老婆 (柴崎新一)
 大正六年五月十五日渋沢栄一翁来田の際、其旅宿鷹匠町成沢氏別邸を訪れた田舎出の七十余りの一老婆があつた。何か深いおもゝちで翁に面会を求めた、応接の係の者は不審に思ひ容易に取次をなさなかつた。すると老婆は包の内より手織の土産白絹を出し、又古びた通帳二冊を示し、之れを渋沢さんに御覧を願へば必らず御面会が出来るとの事であつた。夫れでは兎に角と云ふので、応接係は其通帳を直様翁に差出すと、翁、暫らく熟覧し、はたと膝を打ち、直ぐ其お婆さんをこちらへとの事で、老婆は翁の居間に至り、五十余年振りの面会で懐旧談に花が咲き翁も時の移るを忘れ、為めに当日翁の講演時間が一時間余も遅れ一座の者を驚異せしめ、当時我上田に残された一逸話であつた。
 此の老婆こそ川辺村神畑紺屋(染物)業手塚弥右衛門氏母すゑと云ひ、当時七十一才の老年であつた、手塚家は先代より紺屋を営み其実直なるを見こまれ、渋沢翁の父市郎右衛門氏特に援助し藍玉を供給せし関係より営業頓に発展し多きは六百両余の取引の年もあつた程である。同家は常に渋沢家の恩義に感謝しつゝありし折柄五十余年後翁の来田を聞き、而も青年時代翁数回取引に来られ、其際面識ありし老婆が、唯一の証拠物件たる通帳を携へ旅宿に翁を尋ね、互に古稀を越え、紅顔のおもかげは失せたるも、懐旧の物語りには若返り昔を偲んだとの
 - 第1巻 p.122 -ページ画像 
事である。
 其証拠物件の通帳は、藍問屋たる翁の父武州血洗島渋沢市郎右衛門名儀藍玉通で、一冊は安政三年より文久三年迄記帳のもので、内に未年(安政六年)申年(万延元年)酉年(文久元年)の三回栄一郎代筆として翁の記入した箇所がある、又藍玉の中に青淵印と云ふのがあるのを見れば、翁の号青淵は或は之れに因んだものであらうか。一冊は明治二年より同六年迄の記帳である、此の通帳の記入より推定するに、翁初めて藍玉取引に来信せられしは、安政五年十九才の時で、瞬後四ケ年文久元年正月二十二才迄《(ママ)》である。翁、大志を懐き父の許を得本業を捨てゝ江戸へ上られたのは文久元年二十二才の時であれば、即ち出府直前迄来信せられた訳である。
 上田の講演終り帰京せられ、七月翁より手塚家へ宛左の書状を贈られた。
 貴翰拝読、益々御清適欣慰之至りに候、然ば老生先頃上田地方漫遊之節御老母には旅宿まで御来訪被下、御心入の御土産御恵贈、且老生少年の際御家と御取引致候藍玉之通帳御持参相成、五十年の往事を追懐いたし、感慨之情難堪候、依て当時上田懐古と申し一詩を相認め、幅物に仕立、近日差上可申候間、悪詩且拙筆に候得共所謂一種の記念として御保存被下度候、但右幅物は目下表装中に付、出来次第送呈可仕候、先頃御恵贈品の御礼として粗品差上候処御丁寧の御挨拶に預り、却て恐辣仕候《(悚)》、通帳はいつ迄も御保存被下候趣拝承、前申上候拙作も共に御所蔵相成候はゞ忝奉存候、右拝答旁宜しく得貴意候、敬具
   七月十四日                 渋沢栄一
                            拝復

      手塚弥右衛門様
 尚々、本文に申上候詩作は老生十九才の時にして、旧稿其儘揮毫せしものに付御了承可被下候、即貴家に御保存可相成通帳に両年を経過せしまでに御座候、為念追録申上置候也
次で左の七言律を揮毫せられた立派に表装の大幅を贈られてある。
   百尋楼郭撑青穹 懐起当年父子雄
   半夜危機圧北越 三旬奇策扼山東
   籠城堪感士民属 列市可看布帛豊
   一点氷心化凛冽 朔風捲雪飛寒空
    丁巳六月録上田懐古之旧作
               青淵時年七十八
 此の詩は書状の追書にある通り、翁十九才即ち初めて入信せられた時の作である。翁が其青年の際上田に来られて痛感せしは『真田の強かつた事』と『寒気の酷いこと』だと物語られたさうだが、此の七言律は其意味だらうか。
 手塚家ではこの縁故により、老婆は翌年翁の飛鳥山の邸に於ける藤見の宴に招待を受けて上京し、歓待を蒙つた事があつたが大正十五年八十才の高齢で歿した。同家では特に翁に依頼して戒名を揮毫し墓碑を建てゝある。
 - 第1巻 p.123 -ページ画像 
 昭和六年十一月翁九十二才で歿するや、嗣子敬三氏より関係方面へ贈られた記念の巻物が同家に一巻保存せられてある、白河楽翁公の教訓『楽亭壁書』を翁九十才の時揮毫せられた複写である、翁がいかに楽翁公に私淑して居られたかゞ解る。
 旧幕時代には村々に若者連の集まる場所に力試をする力石と称するものがあつて、今日尚処々に残されて居るものがある、神畑の伝ふる所によれば、翁、青年の際御得意廻りに来られ、村の若者連に参加し此の力石を試みたが、群を抜き若者連一人として翁に及ぶものがなかつたとのことだ。察するに翁十五六才で既に経書に通じ、剣を磨き、文武両道に達したとの事であれば、常に神身の鍛錬を怠らず一些事でも此の如きものがあつたと思はる。
 若冠大志を懐き江戸へ上り、幕末東奔西走危難の間に出入し、後ち明治政府理財の礎を作り、民業の振興を企図し、我国実業界に貢献せられたるもの頗る偉大、其第一人者たる大人格を完成せられたのは蓋し神身鍛錬の賜であらう、又以て翁に学ぶべきものが多い。
                       (昭和十三年八月稿)


上田と渋沢子爵 【伊藤伝兵衛(上田市長); 柴崎新一(元上田市助役); 手塚弥右衛門】(DK010003k-0025)
第1巻 p.123-125 ページ画像

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金森平助宛藍玉通 (安政四年以降)(DK010003k-0026)
第1巻 p.125-130 ページ画像

金森平助宛藍玉通 (安政四年以降) (飯島重晴氏所蔵)

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 (表紙)   安政四年丁    藍玉通   巳正月良日 (裏表紙)   武州血洗島村    渋沢市郎右衛門  上田房山   金森平助殿 



      慶度始
 巳三月十四日出四月入
 一藍玉四箇                     青雲印 壱駄
   正ミ代金六両也
  右之通慥ニ請取此処不残相済
  申候以上
    巳八月十三日

 巳七月十八日出九月二日入             リ
 一藍玉四箇                     刀川印 壱駄
   正ミ代金五両弐分也 無引
           内金三分也 格別直引

    午正月廿五日
     内金三両弐分也                   受取

   引
    〆金壱両壱分也
    右之通慥ニ受取申候以上
     午四月十日相済

      午年始
 午二月十七日出三月八日入             吉
 一藍玉四箇                     玉泉印 壱駄
   正ミ代金五両三分也
          内金三分   格別 直引
   引
    〆金五両也
    右之通慥ニ請取相済申候
      未正月廿五日

      午年新口
 午十二月廿九日出荷二月二日入           ロ
 一藍玉四箇                     青雲印 壱駄
   正ミ代金六両弐分也
          内金壱両也   格別引
   仕切金五両弐分也
    未八月十七日
     内金五両也                     受取
                             代栄一郎

  引
   〆金弐分也
  申正月廿三日不残相済
 未七月廿四日出荷九月二日入            ホ
 一藍玉四箇                     玉紫印 壱駄
   正ミ代金六両壱分也
 - 第1巻 p.126 -ページ画像 
          内金壱両弐分 格別負引
   引残金四両三分也
  右之通慥受取此処不残相済申候以上
                             代栄一郎

      申正月廿三日
 午八月出荷申正月小牧より引取入          チ
 一藍玉弐箇                     むらさき印
   正ミ代金三両壱分也                   片荷
          内金三分也 格別負引
  引
   〆金弐両弐分也

 申正月出荷二月五日入               六
 一同 四箇                     青雲印 壱駄
   正ミ代金八両也
         内金壱両三分也 格別引
   仕切金六両壱分也
  二口
    〆金八両三分也
   申八月十日
    内金五両也                      受取
   申八月十一日
    内金弐両壱分也                    受取
                             代栄一郎

   引
    〆金壱両弐分
   右之通慥ニ請取此処相済申候以上
    酉正月廿四日

 申七月十四日出荷九月入              第一
 一藍玉四箇                     蓬莱印 壱駄
   正ミ代金九両壱分也
         内金壱両壱分 負引

    酉正月廿四日
     内金四両弐分也                   請取
     内金壱分也                    尚又引
   残金三両壱分也                     受取
  右之通不残相済申候以上
    酉八月十三日

 申十月十日出荷十二月十五日入           保
 一藍玉四箇                     蒼天印 壱駄
   正ミ代金九両三分也
         内金壱両也 負引

 酉四月十五日出七月八日入             登
 一同 弐箇                     竜池印 片荷
   正ミ代金七両壱分也

 酉六月二日出荷八月十三日入            十ロ
 一同 弐箇                     青雲印 片荷
   正ミ代金四両三分也
 〆弐駄
  代金弐拾壱両三分也
     内金五両                    格別負引
  引〆金拾六両三分也

   酉八月十三日
     内金五両也                     受取
 - 第1巻 p.127 -ページ画像 
   酉十一月廿七日
     内金壱両也                     受取
   残金拾両三分也
  右之通慥受取此処相済申候以上
   戌正月廿四日

 酉九月十五日出十一月廿五日入           五
 一藍玉四箇                     蓬莱印 壱駄
   正ミ代金拾弐両也
         内金弐両 格別負引
    戌正月廿四日
                          いせ政為替
     内金五両也                    受取
  引                      四月迄
   〆金五両也                      別引
    戌四月廿五日
     内金三両也                    受取
      引
       〆金弐両也
   戌八月廿八日受取相済

 酉十二月十一日出戌二月入            五
 一藍玉四箇                    蓬莱印 壱駄
   正ミ代金拾弐両弐分也

 戌正月五日出二月入               ニ
 一同 四箇                    蓬莱印 壱駄
   正ミ代金拾弐両三分也

 戌二月十日出三月入               ハ
 一同 四箇                    竜池印 壱駄
   正ミ代金拾三両弐分也
 〆三駄
  代金三拾八両三分也
         内金五両壱分 格別負引
   仕切金三拾三両弐分也
    戌八月廿八日
     内金弐拾五両也                 受取
    戌十二月八日
     内金五両也                   受取
   引
    〆金三両弐分也                  受取
  右之通慥受取相済申候以上
   亥正月廿二日

 戌七月四日出閏八月入             三
 一藍玉四箇                   蓬莱印 壱駄
   正ミ代金拾弐両三分也
                        二十
 戌七月十八日出十一月迄入            青雲印 壱駄
 一同 五箇                  十八
   正ミ代金拾四両弐分也            蓬莱印 壱箇

  〆
  代金弐拾七両壱分也
     内金四両壱分也 格別直引
   仕切金弐拾三両也
     亥正月廿二日
      内金拾八両也                受取
   残金五両也
 - 第1巻 p.128 -ページ画像 
  右之通慥受取相済申候以上
    亥八月六日

 戌十一月廿七日出亥正月入          ニ
 一藍玉四箇                  竜池印 壱駄
   正ミ代金拾六両弐分也

 戌十二月廿一日出亥一月入          十二
 一同 四箇                  蓬莱印 壱駄
   正ミ代金拾五両三分也

 亥正月六日出亥二月入            二十六
 一同 四箇                  蒼天印 壱駄
   正ミ代金拾五両壱分也

 亥二月七日出六月五日入           四十三
 一同 四箇                  青海印 弐駄《(マヽ)》
   正ミ代金拾三両弐分也
  〆四駄
   正ミ代〆金六拾壱両也
         内金八両也 格別負引
  引
   〆金五拾三両也
   亥八月六日
      内金弐拾五両也               受取
 亥七月十五日出荷十月入           ヌ
 一藍玉四箇                  蓬莱印 壱駄
   正ミ代金拾六両也              次江出ス
 又引
   〆金弐拾八両也
  右之通慥ニ請取此処皆済仕候
  以上
   子正月廿八日
    亥七月十五日出荷十月入        ヌ
 一藍玉四箇                  蓬莱印 壱駄
   正ミ代金拾六両也
         内金壱両弐分 負引
  引
   〆仕切金拾四両弐分也
    子四月廿一日
     内金弐両也                  請取
   又引
     〆金拾弐両弐分也
   右之通慥ニ請取此処不残相済申候以上
    子八月十九日

 当年相改正ミ附
 亥十二月廿三日出三月入           イ
 一藍玉弐箇                  蓬莱印 片荷
   正ミ代金八両三分也 無引
                       七
一同 弐箇                   蓬莱印 片荷
   正ミ代金九両壱分也 無引
  〆四箇
   正ミ代金拾八両也

 子三月十二日出四月廿一日入         十二
 一同 四箇                  青海印 壱駄
   正ミ代金拾弐両三分也 無引

 子三月廿三日出五月廿三日入
 - 第1巻 p.129 -ページ画像 
                       十三
 一同 弐箇                  雲井印 片荷
   正ミ代金六両三分也 無引

 子四月十二日出五月廿二日入         ホ
 一同 弐箇                  竜池印 片荷
   正ミ代金拾両也 無引
  〆四箇
 惣〆三駄
  正ミ代〆金四拾七両弐分也
      内金四両弐分也  不景気柄ニ付格別負引

     子八月十九日
      内金五両也                 請取

     丑正月廿五日
      内金弐拾三両也               請取
   引           来四月迄
    〆金拾五両也     かし
   右之通慥ニ請取此処不残相済申候以上
     丑八月十二日


      子年新口
 子十二月十七日出二月廿六日入        十一
 一藍玉四箇                  蓬莱印 壱駄
   正ミ代金拾七両也 無引

 丑二月十八日出 四月十九日弐ケ入 四月廿九日弐ケ入
                       イ
 一同 四箇                  蒼天印 壱駄
   正ミ代金拾六両弐分也 無引
 〃正月十日出荷四月廿九日入         一
 一同 四箇                  蓬莱印 壱駄
   正ミ代金拾八両也 無引
  〆三駄
  正ミ代金五拾壱両弐分也
          内金壱両弐分 格別負引

    丑八月十三日
     内金拾両也                  請取
    寅正月廿六日
     内金弐拾五両也                請取
  引
   〆金拾五両也

  右之通慥ニ請取此処皆済仕候以上
   寅八月十二日

 寅二月九日出荷 内弐ケ三月十四日入 内弐ケ四月十二日改入不足 内弐ケ四月十六日入
                       ロ
 一藍玉四箇                  蒼天印 壱駄
   正ミ代金三拾壱両也 無引
 〃二月十日出荷四月九日入
                       は
 一同 四箇                  竜池印 壱駄
   正ミ代金三拾七両也 無引
 〆弐駄
 正ミ代金六拾八両也
         内金八両也 格別負引
   卯正月廿三日
 - 第1巻 p.130 -ページ画像 
    内金拾五両也                  請取
   〃八月十一日
    内金弐拾両也                  請取
  引
   〆金弐拾五両也
     内壱分別ニ引
  右之通慥ニ受取此処相済申候以上
    辰正月廿七日
 卯二月九日出荷 四月五日弐ケ入 七月三日弐ケ入 〆四ケ不残入
                       七
 一藍玉四箇                  蓬莱印 壱駄
   正ミ代金三拾五両也

 卯八月二日出荷十一月廿二日入        九
 一同 四箇                  蒼天印 壱駄
   正ミ金三拾五両也
 〆弐駄
   正ミ代金七拾両也
          内金五両也 格別負引
   辰正月廿七日
    内金六両也                   請取
    内金五拾五両也                 請取
  引
   〆金四両也
  右之通慥ニ請取此処不残相済申候以上
    辰八月十九日
 辰二月廿日出荷四月十二日入         ロ
 一藍玉四箇                  蓬莱印 壱駄
   正ミ代金三拾六両弐分也 無引
 卯十二月出辰二月廿九日 矢沢村常五郎殿ヨリ引取分出ス
                       十一
 一同 弐箇                  蒼天印 片荷
   正ミ代金拾七両也 無引
  〆壱駄弐箇
   辰八月十九日
   新通写出ス


渋沢さんの藍玉通について「金森屋 飯島重晴氏談 柴崎新一氏談」(DK010003k-0027)
第1巻 p.130-131 ページ画像

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渋沢さんとの取引 田口磯右衛門氏談(DK010003k-0028)
第1巻 p.131-132 ページ画像

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神林常五郎宛藍玉通 (元治元年以降)(DK010003k-0029)
第1巻 p.132-138 ページ画像

神林常五郎宛藍玉通 (元治元年以降)(神林常五郎氏所蔵)

図表を画像で表示--

 (表紙)   元治元年甲    藍玉通   子正月之吉 (表紙裏)相改正味附 (裏表紙)   武州血洗島    渋沢市郎右衛門  矢沢村   神林常五郎様 



      始
 亥十二月廿二出荷 二月十六日入 三月二日入 イ
 一藍玉八箇                  蓬莱印 弐駄
   正ミ代金三拾五両也 無引

 子二月十三日出 三月十三日入        八
 一同 八箇                  蒼天印 弐駄
   正ミ代金三拾弐両也 無引

 子二月十八日出 三月十四日 三月十五日 入 十
 一同 八箇                  雲井印 弐駄
   正ミ代金弐拾七両弐分也 無引

 子三月十二日出 四月九日入         十二
 一同 四箇                  青海印 壱駄
   正ミ代金拾弐両弐分也 無引

 〃三月十二日出 四月廿五日入        十二
 一同 八箇                  青海印 弐駄
   正ミ代金弐拾五両也 無引

 子七月廿日出 八月九日入          十五
 一藍玉八箇                  彩雲印 弐駄
   正ミ代金弐拾八両弐分也 無引

 〆拾壱駄
  正ミ代〆金百六拾両弐分也

  子八月廿日
   内金四拾両也                   請取

   内金拾三両弐分也            不景気柄
 引                     御入割ニ付格別
  〆金百七両也               負引

  右之通慥ニ請取此処不残相済申候以上
    丑正月廿六日

 子七月廿日出 十二月廿一日入 古      十五
 一 藍玉八箇                 彩雲印 弐駄
   正ミ代金弐拾八両弐分也 無引

 子十二月十七日出丑二月廿九日 三月六日 入 ト
 一 同 八箇                 雲井印 弐駄
   正ミ代金弐拾八両弐分也 無引

 - 第1巻 p.133 -ページ画像 
 丑正月十日出荷 二月廿一日入 二月廿二日入 一
 一 同 八箇                 蓬莱印 弐駄
   正ミ代金三拾六両也 無引

 〃二月九日出荷四月十三日入         ニ
 一 同 四箇                 蓬莱印 壱駄
   正ミ代金拾七両也 無引

 丑二月十八日出荷 三月十八日四ツ入 四月一日八ツ入 四月廿一日四ツ入 〆十六
 一 藍玉拾六箇               イ
   正ミ代金六拾六両也 無引         蒼天印 四駄

 〃二月九日出 五月十五日入         二
 一 同 四箇                 蓬莱印 壱駄
   正ミ代金拾七両也 無引

  丑八月十三日
   内金五拾両也                   請取

 丑六月廿三日出荷九月廿七日入        十
 一 同 八箇                 ウ蒼天印 弐駄
   正ミ代金三拾五両也 無引

 〆拾四駄
  正ミ代〆金弐百弐拾八両也
        内金五拾両也 八月十三日入金引
        内金六両也 格別負引
 引
  〆金百七拾弐両也   定
  寅正月廿五日
   内金百五拾両也                   請取
   内金拾両也              上田伊勢屋政吉殿江
        但シ天保六拾六〆文          為替手形
   二口〆金百六拾両也                 請取
   引〆金拾弐両也
  右之通慥ニ請取此処不残相済申候以上
     寅八月十三日

 丑十二月十二日出荷寅正月廿七日入       イ
 一 藍玉四箇                  蒼天印 壱駄
   正ミ代金三拾壱両也 無引

 〃十二月廿五日出荷寅二月五日入        一
 一 同 四箇                  竜池印 壱駄
   正ミ代金三拾九両也 無引

 〃十二月十七日出荷寅三月十四日入       六
 一 同 四箇                  蓬莱印 壱駄
   正ミ代金三拾六両弐分也 無引

 寅二月九日出荷二月十八日入          ロ
 一 同 八箇                  蒼天印 弐駄
   正ミ代金六拾弐両也 無引

 〃二月十日出荷四月六日入           は
 一 同 四箇                  竜池印 壱駄
   正ミ代金三拾七両也 無引
 〆六駄
  正ミ代金弐百五両弐分也
        内金拾八両也 不陽気ニ付格別負引
   寅八月十一日
    内金八両也                    請取
   卯正月廿二日               上田伊勢屋方ヘ
    内金弐拾両也              銭ニ而請取
   卯正月廿四日
 - 第1巻 p.134 -ページ画像 
    内金五拾両也                   請取
 惣引
  〆金百九両弐分也
         かし
         内金六両也 尚又別段直引
   卯四月十八日
    内金九拾両也                   請取
 又引
  〆金拾三両弐分
       内金壱両也別ニ引
  右之通慥ニ請取此処不残相済申候以上
     卯八月十一日

      寅年新口
 卯二月九日出荷卯三月廿九日入         七
 一 藍玉四箇                  蓬莱印 壱駄
   正ミ代金三拾五両也 無引

 卯二月九日出四月廿九日入           ニ
 一 同 四箇                  竜池印 壱駄
   正ミ代金三拾八両弐分也 無引

 卯三月廿三日出五月一日入           手
 一 同 四箇                  蒼天印 壱駄
   正ミ代金三拾四両弐分也 無引

 〃四月廿八日出荷八月十五日入         手
 一 同 四箇                  蒼天印 壱駄
   正ミ代金三拾五両也 無引
 〆四駄
  正ミ代金百四拾三両也
        内金拾両也 格別負引
   卯八月十一日
    内金五両也                    請取
   〃十二月朔日
     内金百両也                   請取
 引
  〆金弐拾八両也
  右之通慥ニ請取此処不残相済申候以上
     辰四月四日

 卯十二月廿五日出荷辰正月廿六日入       十一
 一 藍玉四箇                  蒼天印 壱駄
   正ミ代金三拾四両也 無引

 〃出荷                    十一
 一 同 四箇                  同印  壱駄
   正ミ代金三拾四両也 無引
  〆弐駄

 卯十二月廿五日出辰四月六日入         四
 一 同 四箇                  蓬莱印 壱駄
   正ミ代金三拾五両也 無引
 辰二月廿日出三月廿二日入           ロ
 一 同 四箇                  蓬莱印 壱駄
   正ミ代金三拾六両弐分也 無引
  辰二月廿九日
     十一                  上田
   内 蒼天印弐箇               房山町
        代金拾七両也 引           平助殿行
 - 第1巻 p.135 -ページ画像 
   辰壬四月四日
    内金拾両也                    請取
 辰二月廿日出五月三日四ツ入          チ
 一 藍玉四箇                  竜池印 壱駄
   正ミ代金四拾両也 無引
   辰八月十九日
    内金三拾両也                   請取
   〃十二月十六日
    内金五拾両也                   請取
   巳正月廿五日
    内金五拾両也                   請取

 辰七月十二日出荷十月廿八日入         ト
 一 同 四箇                  蓬莱印 壱駄
   正ミ代金三拾八両弐分也

 〃十月二日出荷十二月四日入          ロカ
 一 同 四箇                  蒼天印 壱駄
   正ミ代金三拾六両弐分也
 引〆六駄弐箇
   正ミ代金弐百三拾七両弐分也
       辰四月ヨリ巳正月迄四度
        内金百四拾両也 引
        内金拾九両弐分也 格別負引
 惣引
  〆金七拾八両也
  右之通り慥ニ請取此処不残相済申候以上
     巳四月朔日

 辰十二月廿八日出荷巳二月十一日不残入    ロハ
 一 藍玉八箇                 雲井印 弐駄
   正ミ代金七拾両也

 巳正月十日出荷二月十二日不残入       ロハ
 一 同 八箇                 雲井印 弐駄
   正ミ代金七拾両也

 〃二月七日出荷 三月二日四ツ 〃八日四ツ 〆八ツ入
 一 同 八箇                三
   正ミ代金七拾七両也            蓬莱印 弐駄

 辰十月十二日出荷巳二月上田平助殿ヨリ引取入
 一 同 壱箇                ロカ
   正ミ代金九両弐朱也            蒼天印
                          弐分五厘也
 辰七月十二日出荷巳二月上田平助殿ヨリ引取入 手
 一 同 壱箇                 青海印
   正ミ代金九両也                弐分五厘也
 〆六駄弐箇
  正ミ代金弐百三拾五両弐朱也
      内金弐拾壱両弐朱也 不景気ニ付格別負引
    巳八月十五日
     内金八両也                   請取
    〃十一月廿六日
     内金百両也                   請取
    十一月廿八日
 - 第1巻 p.136 -ページ画像 
                         上田伊勢屋ヘ
内金拾両也                    御渡ニ而
                         受取
   午正月廿五日
    内金五拾両也                   請取
 惣引
  〆金四拾六両也
  右之通り慥ニ請取此処不残相済申候以上
    午四月朔日

 巳七月卅日出荷九月十日入           イ
 一 藍玉四箇                  蓬莱印 壱駄
   正ミ代金三拾七両也

 巳十二月六日出荷午正月十三日入        四
 一 同 八箇                  蓬莱印 弐駄
   正ミ代金七拾六両也

 午正月七日出荷二月十四日入          十
 一 同 四箇                  蓬莱印 壱駄
   正ミ代金三拾八両弐分也

 同日 二月十四日入              十
 一 同 四箇                  蓬莱印 壱駄
   正ミ代金三拾八両弐分也
 〆五駄
  正ミ代金百九拾両也
     内金拾七両也 御入割ニ付格別負引
    午八月十二日              上田藩札ニ而
     内金三拾両也                  請取

 午八月一日出荷閏十月廿六日入         ロ
 一 同 四箇                  雲井印 壱駄
   正ミ代金三拾四両也

 〃八月一日出荷十一月廿五日入         ロ
 一 同 四箇                  雲井印 壱駄
   正ミ代金三拾四両也

 〃九月二日出十一月廿五日入          ヌ
 一 同 四箇                  竜池印 壱駄
   正ミ代金四拾三両也
  〆三駄
   正ミ代金百拾壱両也
      内金九両也 格別負引
 二口
  〆八駄
  正ミ代金三百壱両也

  未正月廿三日                  上田藩札
   内金五拾両也                    請取

  未正月廿四日              上田伊勢屋方ニ而
   内金五拾両也                 太政官札
                             請取
  〃三月廿五日
   内金三拾三両也                   請取

  〃八月廿九日              上田房山町
   内金三拾両也              紺屋平助殿ヨリ
       但シ此分請取相渡置候            請取
  五筆
   〆内金百九拾三両也
 引
  〆金八拾弐両也
 - 第1巻 p.137 -ページ画像 
  右之通り慥ニ受取此処不残相済申候以上
     未十二月十二日

      未年口
 午十一月廿四日出未正月十八日入        手
 一藍玉四箇                  蓬莱印 壱駄
   正ミ代金四拾壱両也

 未正月五日出荷二月十一日入          カ
 一同 四箇                  蓬莱印 壱駄
   正ミ代金四拾弐両也

 〃日出荷〃日入
 一同 四箇                  同 印 壱駄
   正ミ代金四拾弐両也

 〃二月六日出荷〃十六日入           リ
 一同 四箇                  青海印 壱駄
   正ミ代金四拾両也               山通

 〃六月十五日出七月十七日入          ヨ
 一同 四箇                  蓬莱印 壱駄
   正ミ代金四拾弐両也              山通
 〆五駄
  正ミ代〆金弐百七両也

    内金弐両也 青海印
           駄賃立替引
    内金弐両 蓬莱印
           駄賃立替引
    内金弐拾也《(ママ)》 御入割ニ付
               格別負引
   申正月廿三日
    内金三拾両也                  請取

   〃八月十六日
    内金百両也                   請取
 引
  〆仕切金五拾三両也

  右之通り慥ニ受取此処不残相済申候以上
     申十一月十六日

 未十二月廿九日申正月十二日入        ヨ
 一藍玉四箇                  蓬莱印 壱駄
   正ミ代金四拾九両也
         内金壱両三分ト      駄賃立替
               五百八拾壱文     引

 申二月八日出荷同十六日入          合
 一藍玉四箇                  蓬莱印 壱駄
   正ミ代金五拾両弐分也
        内金壱両弐分三朱ト     駄賃立替
                壱〆拾四文     引

 〃七月廿七日出荷八月廿七日入        四
 一同 弐箇                  蒼天印 片荷
   正ミ代金弐拾壱両也

 〃七月廿九日出荷八月廿七日入        二
 一同 弐箇                  竜池印 壱駄
   正ミ代金弐拾六両也
        内金壱両三分三朱ト     駄賃
            七十文〆四箇     立替引

 〃九月三日出荷十月廿日入          八
 一同 四箇                  竜池印 壱駄
   正ミ代金五拾五両也
 - 第1巻 p.138 -ページ画像 
        内金弐両一朱ト
           五百四十五文 駄賃立替引
 〆四駄
  正味代〆金弐百壱円五銭

   酉二月二十八日
    内金三拾両也                  受取

   酉十二月三日
    内金弐拾両也                  受取

   同日
    内金五両也                   受取
 引
  〆金百四拾六円五拾銭
   戌三月一日
    内金拾七円五銭                 受取

   右者当八月金三拾五円来ル亥一
   月金三拾五円両度ニ御勘定被下
   候筈ニ而判取帳御記被下候上者
   残金者勘弁仕候以上

    戌十月三日                 八月分
     内金弐拾円也                内受取
    亥二月廿八日                八月分
     内金拾五円                  受取
                       渋沢保七代 印
    〃九月廿九日
     内金拾五円也                 受取
                        猶又別格
     内金四円也                  負引

       是者金森氏御入割も
       有之且長年之御懇意
       筋ニ付別段負引致し
       候也
   残金拾六円也                   請取
   不残皆済相成候也             代
                         渋沢孫四郎
   亥十月七日                 須永伝蔵


上田郷友会月報 第六一九号・第五―七頁〔昭和十三年八月〕 渋沢栄一翁青年時代 藍玉販売に矢沢へ来る(柴崎新一)(DK010003k-0030)
第1巻 p.138-140 ページ画像

上田郷友会月報 第六一九号・第五―七頁〔昭和十三年八月〕
 渋沢栄一翁青年時代
   藍玉販売に矢沢へ来る (柴崎新一)
○上略 翁の父市郎右衛門藍玉の問屋を営み、嘉永安政より明治初年迄我小県佐久地方へ之を販売し、紺屋(染物屋)へ取引のため往来せられ、各所に其取引通帳が残りて居る、志賀の神津丸子の工藤矢沢の神林上田の某神畑の手塚等は其取引の主なるものであつたとの事である、栄一翁亦青年の時(安政年間十六七才より二十才迄の間か)最初父に伴はれ其後二三年所謂御得意廻りに藍玉販売に来信せられたことがあつた、其逸話等は予幼少の頃家父等より屡々聞かされたものであつた。
 偶々翁喜寿に達し功成り名遂げ本邦実業界の第一人者として其第一線を退きたる翌大正六年五月尾高氏外数氏を伴へ我信州に来遊せられ、其十五日上田町に於て講演会を開催せられ、了りて観水亭に歓迎晩餐会を開かれた、予亦之に加り、偶然にも座席第一番を引当て翁と席を列ぬるの光栄を得た、翁当時男爵七十八才矍鑠として壮者を凌ぎ、其平民的典型は慈父の如き好々爺であつた、酒間席上に於ても二回起
 - 第1巻 p.139 -ページ画像 
ちて訓話的の講話を試みられた、予、翁が青年時代此の地方へ藍玉販売に来られた懐旧談を聞かんがため席を列ねしを幸、先づ刺を通ぜしに翁熟覧の上
 『殿城村とは何処ですか』と問を発せられた。
 『殿城村は昔の矢沢です』と答ふるや、翁黙頭され
 『アヽ矢沢ですか、其矢沢ならば神林と云う紺屋があつた筈だが、私が青年の時藍玉取引に二三回参りました、今、其神林と云ふ家はありますかどうですか』と問はれた。
 『翁が御若い時御出になつた事は神林家からもよく聞かされて居りましたが、今親しく承るを得、誠に感慨無量のものがあります、其神林家は現在も村の上流で而も続いて紺屋を営みて居ります』と答ふるや、翁喜悦のおもゝちにて、更に
 『矢沢は旗本領で其代官屋敷があつて、序に其処の道場へ往つて剣術をやつた事もあつたが、其処はどうなつたか』
 『其処は田中家と云つて、今も村第一流の有力者であります』
 と答へ、更に予家父等より聞かされた横浜蚕種輸出問題を問ふや
 『アヽ其蚕種輸出の事に付ては明治八九年頃迄世話をしました』
 等、此の如く一些事ですら実に六十年前の記憶を澱みもなく物語られたのは、其偉人の頭脳の別である事を痛切に感ぜしめられた。
 後数日、翁との会談の有様を紺屋神林家当主に物語つた処、幸に同家に当時取引の通帳が保存してあつた、其附込内容は左の如きものである。○写真略
 藍玉には蓬莱印、蒼天印、雲井印、青海印、彩雲印、竜池印の種類があり、四箇を以て一駄とし、年々多きは十三四駄、少くも七八駄宛取引して居る、又其価格は毎年二百三四十両宛で、当時の貨幣価値を推算するに如何に藍の貴重なものであり、又其商取引の大きかつたかが推測せられ随つて渋沢家の有力なる問屋であつたことが証するに余りがある、明治七年に至り商権を譲つて夫れより渋沢保七の名義となつた、通帳中明治四年未正月請取中に『上田藩札にて請取、太政官札にて請取』等の記載がある、明治初年に於ける貨幣制度不統一時代を偲ぶに足るものがある。
 神林家の談を聞くに、翁初めて父市郎右衛門に伴はれ取引に来られた際、父君商談中寸暇をも空しくせず懐中より書冊を出し、片隅に於て黙読せられて居つたとの事で、既に此の青年に家人の注目を惹いたさうであるが、此の一事でも翁が非常の勤勉家であつた事が解る、察するに翁は有名の論語の愛読者で、而も之が実行者である処を見れば其懐中の書冊は或は論語であつたらうか。
 通帳は総て渋沢市郎右衛門名義であるが、其内容は果して何人が書かれたか判明しない、其内には或は翁青年の際の書筆もあらんか、兎に角、以上神林家の談、及び予親しく翁より聞いた直話等を綜合し、此の通帳は所謂生きた教科書として尊重すべきものである、尚、同家には明治十六年十月二十九日附第一国立銀行便箋を用ひた翁自筆の書簡が一通ある。
 其後神林家当主常五郎氏翁を訪ふの希望起り、前記歓迎会に於ける
 - 第1巻 p.140 -ページ画像 
会談の緑故により、予の紹介状を携へ上京し、翁を飛鳥山の邸に訪ひ、親しく面会、其懐旧談を聞き歓待を受け、大に面目を施して帰郷せられた事があつた。(昭和十三年七月)


藍玉送状(DK010003k-0031)
第1巻 p.140 ページ画像

藍玉送状 (渋沢治太郎氏所蔵)

図表を画像で表示藍玉送状

      送状           八貫目入  一 藍玉        拾俵    右之通相送り申候間    御改御請取可被下候    以上           血洗島村      未 四月七日 鷲五郎    上唐子村      石川弁蔵様 




藍玉請取(DK010003k-0032)
第1巻 p.140 ページ画像

藍玉請取 (渋沢治太郎氏所蔵)

図表を画像で表示藍玉請取

     請取         拾貫目入  一 藍玉       五俵    右之通慥ニ受取申候    為念如此御座候以上     未四月十五日         血洗島村            鷲五郎     藤重郎様 



   ○此送状及ビ請状ハ栄一ノ祖父ノ時代ノモノナレドモ、其形式ハ後年マデ踏襲セラレタルモノナルベシ。



〔参考〕竜門雑誌 第六〇三号・第一―五頁〔昭和一三年一二月〕 青淵先生直筆の藍玉通(一)(土屋喬雄)(DK010003k-0033)
第1巻 p.140-144 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕竜門雑誌 第六〇四号・第一―一四頁〔昭和一四年一月〕 青淵先生直筆の藍玉通(二)(土屋喬雄)(DK010003k-0034)
第1巻 p.144-152 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕橘屋甚平宛藍玉通 (安政四年以降)(DK010003k-0035)
第1巻 p.152-158 ページ画像

橘屋甚平宛藍玉通 (安政四年以降)
          (長野県南佐久郡野沢町 滝沢清司氏所蔵)

図表を画像で表示--

 (表紙)   安政四年丁    藍玉通   巳孟春良日 



 - 第1巻 p.153 -ページ画像 
      愛度始
 辰十一月朔日出荷十一月廿一日入古玉         別改
 一藍玉四箇                      青雲印
  正ミ代金七両壱分也 無引                壱駄
             決着
 辰十二月廿日出巳一月六日入 ワヤ          イ
 一同 四箇                      東錦印
  正ミ代金六両也 無引                  壱駄

 巳三月九日出四月十二日入              手
 一同 四箇                      雲井印
  正ミ代金七両壱分也 無引                壱駄
      此分末ヘ出ス

  〆弐駄
   代〆金拾三両壱分也
         内金三両弐分 不働ニ付
                格別直引

   巳八月六日
    内金四両弐分弐朱                請取

   巳十一月九日
    内金壱両弐分也                 受取
   引
    〆金三両弐分弐朱也
  右之通慥ニ受取相済
   午正月十六日

 巳三月九日出四月入                 ホ
 一藍玉四箇                      雲井印
  正ミ代金七両壱分也                   壱駄
        内金弐両〇弐朱也 格外負引

   午正月十六日
    内金弐分也                   受取

   同四月四日
    内金弐分也                   請取

   同八月九日
    内金弐両也                   請取
  引
   〆金弐両弐朱也
  右之通慥受取此処相済申候以上
                        代栄一郎(印)

    未八月十日

 午二月十六日出荷四月九日入             ト
 一藍玉四箇                      青雲印
  正ミ代金六両三分也                   壱駄

 午四月臼田町久三郎殿ヨリ御引取分
 一同 壱箇                      東錦印
  正ミ代金壱両壱分三朱也
  〆壱駄壱箇
   正ミ代金八両三朱也
        内金弐両壱朱
            御入割ニ付格外引

   未正月十七日
    内金三両也                   請取

   未八月十日
    内金壱両也                   請取
                         代栄一郎(印)
   残金弐両弐朱也
  右之通慥受取相済申候
 - 第1巻 p.154 -ページ画像 
     申正月十六日
                         代栄一郎(印)
 午十二月廿九日出荷未正月入             ロ
 一藍玉四箇                      青雲印
  正ミ代金七両也                     壱駄
        内金壱両弐分也 格外負引
   仕切金五両弐分也 定
        内金壱分御入割ニ付格別引

   申正月十六日
    内金壱両也                   請取

   申閨三月晦日
    内金壱両也                   請収
  引
   〆金三両壱分也
 右之通受取此処相済申候以上
    申八月五日

   未十一月出荷申正月廿一日入           リ
 一藍玉弐箇                      刀川印
  正ミ代金三両壱分也 弐両壱分仕切            片荷

 申正月九日出荷卅日改入               四
 一同 弐箇                      雲井印
  正ミ代金四両弐朱也 三両壱分弐朱仕切          片荷

 申四月十五日出五月十五日入             六 山通
 一同 四箇                      青雲印
  正ミ代金七両弐分也                   壱駄
  〆弐駄
   代金〆拾四両三分弐朱也
           内金三両壱朱 負引
           内金三朱駄賃立替引

   申八月五日
    内金三両壱分也                 請取

   酉正月十七日
    内金六両也                   請取

   残金弐両壱分弐朱也
  右之通慥受取此処相済申候以上
     酉八月六日

 申十月十日出荷十八日入               保 山通し
 一藍玉四箇                      蒼天印
  正ミ代金九両弐分也 ヨヤ                壱駄

 酉二月廿六日出三月入                八
 一同 四箇                      青海印
  正ミ代金拾両也 クロ                  壱駄
        内蒼天印弐箇引取筈
  引
   〆壱駄半
   代金拾四両三分也
        内金三両壱分也 格別直引

   酉八月六日
    内金五両也                   受取
  引
   〆金六両弐分也
   右之通慥受取此処不残相済申候以上
     戊正月十六日

 酉九月十七日出十月三日入
 - 第1巻 p.155 -ページ画像 
 一藍玉四箇                     八 山通
  正ミ代金拾両也                   青海印
        内金壱両壱分弐朱 格別負引         壱駄
    戌正月十六日
     内金四両也                  受取
    仕切金四両弐分弐朱也
   右之通慥受取此処相済申候以上
     戌八月廿二日

 戌二月四日出十三日入                七 山
 一同 四箇                      蒼天印
  正ミ代金拾壱両也 クモ迄                壱駄
   戌八月廿二日
    内金六両弐分也                 受取

 戌五月七日出七月十九日入              三 山
 一藍玉四箇                      蓬莱印
  正ミ代金拾弐両壱分也                  壱駄

 戌閏八月廿日出                   二十一
 一同 四箇                      蒼天印
  正ミ代金拾壱両壱分也                  壱駄

   亥正月十□日             取手村定次郎殿行
    内金拾両也                蒼天印仕切
                            受取
   亥正月十六日
    内金拾壱両也                  受取
  〆三駄
  引残金七両也
    内金五両也格別負引
  引
   〆金弐両也
  右之通慥受取此処不残相済申候以上
    亥七月廿八日

 戌十二月一日出十二月廿四日入            合 山
 一藍玉四箇                      蒼天印
  正ミ代金拾弐両三分也                  壱駄
        内金壱両壱分也 負引

 戌十二月十八日出廿四日入              二十二 山
 一同 四箇                      蒼天印
  正ミ代金拾三両壱分也                  壱駄
    此分大沢村行
  引
   〆金拾壱両弐朱也
  右之通慥受取此処相済申候以上
     亥七月廿八日

 亥四月十日出五月九日入               十九 山
 一藍玉四箇                      蓬莱印
  正ミ代金拾四両壱分也                  壱駄

 〃八月廿一日出十一月廿日改入               山
 一同 四箇                      蒼天印
  正ミ代金拾三両弐分也                壱駄
  〆弐駄
   正ミ代金弐拾七両三分也
        内金四両壱分也 格別負引
  引
   〆仕切金弐拾三両弐分也 定
 - 第1巻 p.156 -ページ画像 
   子正月十九日
    内金拾七両弐分也                請取
 又引
   〆金六両也
  右之通慥ニ請取此処不残相済申候以上
   子八月廿一日

      亥年新荷口
 亥十二月廿三日出荷子正月八日入          イ 山通
 一藍玉四箇                     蓬莱印
  正ミ代金拾八両壱分也 ツ○引             壱駄

 子三月廿三日出〃四月九日入            五 山通
 一同 四箇                     蒼天印
  正ミ代金拾六両三分也 イヤ引             壱駄
 弐駄
  〆金三拾五両也
       内金三両弐分也 格別負引
 引
  〆金三拾壱両弐分也
         内金弐分也別ニ引

  子八月廿一日
   内金六両也                    請取

  丑正月十六日
   内金拾壱両也                   請取

  〃八月六日
   内金拾弐両也                   請取
 引
  〆金弐両也                     請取
  寅八月四日此処不残相済

 丑正月九日出二月廿二日入             二 山通
 一藍玉四箇                     蓬莱印
  正ミ代金拾七両弐分也 無引              壱駄

    寅正月十六日
     内金拾弐両也                 請取

   〃八月四日
    内金弐両也                   請取

   卯正月十六日
    内金弐両弐分也                 請取
   残金壱両也 駄賃立替共引
  卯正月十六日相済

 寅正月十二日出荷二月七日入             ロ
 一藍玉弐箇                      蒼天印
  正ミ代金拾五両弐分也 無引               片荷

 同月四日出荷二月十一日入              二
 一同 弐箇                      蓬莱印
  正ミ代金拾七両弐分也 無引               片荷

  〆壱駄
   正ミ代金三拾三両也
        内金四両也 格別負引

   卯四月十二日
    内金弐分也                   受取

   〃八月五日
    内金六両也                   請取

  辰正月十八日
    内金弐拾両也                  請取
 - 第1巻 p.157 -ページ画像 
  引
   〆金弐両弐分也
         かし
        内金弐分尚又直引
    又引
      〆金弐両也
   右之通慥ニ請取此処不残相済申候以上
    辰八月十一日

 辰二月十七日出二月廿二日入             六
 一藍玉四箇                      蒼天印
  正ミ代金三拾弐両也 無引                壱駄
       内金三両也 駄賃其外
             格別負引
    辰四月廿八日
     内金四両也                  請取
   引
    〆金弐拾五両也
  右之通慥ニ請取此処不残相済申候以上
   辰八月十一日

 辰七月十日出荷十二日入               ト
 一藍玉四箇                      蓬莱印
  正ミ代金三拾六両弐分也                 壱駄
        内金壱両也 駄賃引
        内金四両弐分格別負引
   引
    〆金三拾壱両也
  右之通慥ニ請取此処不残相済申候以上
    巳正月十五日

 〃十月五日出荷十一月六日入             五合
 一同 四箇                      蓬莱印
  正ミ代金三拾八両也                   壱駄

   巳三月廿五日
    内金壱両也                   請取

   巳八月八日
    内金弐拾両也                  請取
    内金九両也 不働ニ付
  引       駄賃共負引
   〆金八両也
  右之通慥ニ請取此処相済申候以上
    午正月十六日

 巳二月十日出荷 三月三日弐ツ 二月廿七日弐ツ 〆四ツ入
 一藍玉四箇                     イ
  正ミ代金三拾六両弐分也               蓬莱印
        内金五両弐分 駄賃共負引          壱駄

   午正月十六日
    内金拾弐両也                  請取

   〃八月五日
    内金拾両也                   請取
  引
   〆金九両也
  右之通慥ニ請取此処不残相済申候以上
    未正月十五日

 - 第1巻 p.158 -ページ画像 
 午二月十二日出荷〃廿日入              十一
 一同 四箇                      青海印
  正ミ代金三拾八両也                   壱駄

   未正月十五日
    内金拾五両弐分也                請取
    内金五両也 駄賃御立替 其外負引
  引
   〆金拾七両弐分也
  右之通慥ニ請取此処不残相済申候以上
    未八月廿二日

 未二月四日出荷三月十九日入             リ
 一藍玉四箇                      青海印
  正ミ代金四拾両也                    壱駄
         内金四両也 駄賃御立替共 其外負引
  引
   〆仕切金三拾六両也
   未八月廿二日
    内金拾八両也                  請取
        内金壱両也 尚又負引
  引
   〆金拾七両也
  右之通リ慥ニ請取此処不残相済申候以上
    申正月十五日

 未九月十九日出荷十月二日入             手
 一藍玉四箇                      竜池印
  正ミ代金四拾九両弐分也                 壱駄
        内金壱両ト      駄賃立替
            弐百八拾文     引
        内金五両弐分也 駄賃立替共
                   負引
   申正月十五日
    内金拾両也                   請取

   申八月十日
    内金弐拾四両也                 請取
  引
   〆金拾両也
  右之通リ慥ニ受取不残相済申候以上
    酉二月廿一日

図表を画像で表示--

 (裏表紙)  武州血洗島村   渋沢市郎右衛門(印)  野沢村   橘屋甚平様 




〔参考〕竜門雑誌 第六三二号・第二―四頁〔昭和一六年五月〕 滝沢家所蔵渋沢家藍玉通について(土屋喬雄)(DK010003k-0036)
第1巻 p.158-160 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕紺屋喜右衛門宛藍玉通(嘉永五年以降)(DK010003k-0037)
第1巻 p.160-164 ページ画像

紺屋喜右衛門宛藍玉通(嘉永五年以降)(渋沢子爵家所蔵)

図表を画像で表示--

 (表紙)   嘉永五年壬子    藍玉通   春王正月吉日 



      愛度始
 子三月出荷〃六月入                      異手
 一 藍玉四箇                         青海印
   代金七両三分也 ワイ                     壱駄
        内金壱両弐分也 直引
 仕切
   正ミ金六両壱分也
        内金壱分別ニ引

   子八月九日
    内金弐両也                       受取
  引
   〆金四両也
 右之通慥ニ受取相済申候以上
    丑正月廿三日

 当丑年ヨリ相改正ミ代金附ニ仕候間
 以来左様御承引可被下候

 子十月十七日出荷十一月入                  子イ
 一藍玉四箇                          玉紫印
   代金八両也                          壱駄
       内金壱両弐分也 直引
  引
   〆正ミ代金六両弐分也 無引

 丑四月十日出荷五月入                    ト
 一同 四箇                          千代錦印
   改正ミ代金六両壱分也 無引                  壱駄
  〆弐駄
  〆正ミ金拾弐両三分也
   内金弐両壱分 別段
           直引
   丑八月十四日
    内金三両也                       受取

   寅正月廿四日
    内金五両弐分                      受取
  引
   〆金弐両也 来ル三月迄
         かし
  右之通慥ニ受取此処相済申候以上
     寅閏七月廿一日

 丑十一月保野村弥右衛門殿ヨリ送               イ
 一藍玉壱箇                          玉紫印
   正ミ代金壱両弐分弐朱也

 〃 同 壱箇                        別製
 正ミ代金弐両壱分也                      蒼天印
   〆金三両三分弐朱也
 - 第1巻 p.161 -ページ画像 
        内三分弐朱 御入割ニ付 直引
  引
   〆金三両也
  右之通慥ニ受取申候以上
     寅閏七月廿一日

 丑十一月廿五日出荷〃十二月入                イ
 一藍玉四箇                          玉紫印
   改正ミ代金五両三分也 無引                  壱駄

 寅七月卅日出〃八月入
 一同 四箇                          花紫印
    正ミ代金五両三分也                     壱駄
  〆弐駄
   正ミ代〆金拾壱両弐分
        内金三両也直引

   卯正月廿四日
    内金六両也                       請取
  引
   〆金弐両弐分也                      受取
        内壱分尚又引
  右之通慥ニ受取此処相済申候
     卯八月十一日

 寅十一月七日出 〃廿三日入                 イ
 一藍玉四箇                          玉紫印
   正ミ代金五両三分也 無引                   壱駄
        内金壱両壱分 直引

 卯三月十五日出四月入                    手作
 一同 四箇                          蒼天印
   正味代金八両壱分也 無引                   壱駄
        内金壱両壱分 直引
  〆弐駄
  引
   〆仕切金拾壱両弐分也
        内金弐分別ニ直引

   卯八月十一日
    内金弐両也                       受取

   正月廿三日                 上田伊勢屋政吉殿江
    内金三両也                   為替手形
  引                             受取
   〆金六両也
        内壱分也尚又引
  右之通慥ニ受取相済不残相済申候
     辰正月廿三日

      辰年始
 卯十一月十三日出十二月入
 一藍玉四箇                      東錦印
   正ミ代金六両弐分也 無引               壱駄
        内金壱両壱分引

 辰正月五日出荷二月入四月八日改           別製
 一藍玉四箇                      蒼天印
   正ミ代金八両壱分也 無引               壱駄
         内金壱両壱分引
  引
   〆金拾弐両壱分也
        内弐分也格別直引
   辰八月十日
    内金三両也                   受取

   〃十一月十一日
 - 第1巻 p.162 -ページ画像 
    内金四両也                   受取
  引
   〆金四両三分也
  右之通慥ニ受取此処相済申候以上
     巳正月廿四日

               巳四月十七日改入
 辰十一月十日築地村富治殿ヨリ引取切手渡
 一藍玉弐箇                      青海印
   正ミ代金三両弐分                   片荷

                巳四月十七日改入
 〃十一月十日築地村富治殿ヨリ引取切手渡
 一同 四箇                      東錦印
    正ミ代金六両弐分也                 壱駄
  〆
 巳三月九日出四月十六日入              手
 一藍玉四箇                      雲井印
   正ミ代金七両壱分也                  壱駄
       此壱駄次江出ス

  無引
  〆壱駄半
  正味〆金拾両也
       内金弐両也 格別直引
   巳八月十二日
    内金三両也                   受取
  引
   〆金五両也
  右之通慥ニ受取相済申候以上
     午正月廿四日

 巳三月九日出四月十六日入              手
 一藍玉四箇                      雲井印
   正ミ代金七両壱分也                  壱駄
        内金弐両也 格別負引

   午八月十六日
    内金壱両也                   請取

   未正月廿四日
    内金三両弐分也                 受取

   未八月十五日
    内金弐分也                   受取
  引
   〆金壱分也                    受取
     申四月六日相済

 午二月廿六日出荷六月入改              ト
 一藍玉四箇                      青雲印
   正ミ代金六両三分也                  壱駄
        内金壱両弐分也 格別直引

   未八月十五日
    内金弐両也                   請取
                           代栄一郎

   申正月廿三日
    内金弐両也                   受取
                           右同人

   〃                      蚕種ニ而
    内金弐分也                   受取
  引
   〆金三分也                    受取
  右之通慥受取相済申候
     申四月六日
 - 第1巻 p.163 -ページ画像 
 午十二月六日出荷未二月入
 一藍玉四箇                     ロ
   正ミ代金七両也                  青雲印
        内金弐両也 格別負引            壱駄

  申四月六日
    内金壱両也                   請取
  引
   〆金四両也
  右之通慥受取此処相済申候以上
                          代栄一郎
    申八月十一日

      未年新口
 未十一月廿五日出荷十二月十八日入          イ
 一藍玉四箇                      青淵印
   正ミ代金六両三分也                  壱駄
        内金壱両壱分 直引

 申閏三月 五月入                  ホ
 一同 四箇                      雲井印
   正ミ金七両三分也                  壱駄
        内金壱両壱分直引
  弐駄
  引
   〆仕切金拾弐両也
        内金三分也 格別負引

   申十一月十八日
    内金弐両也                   請取
                          代栄一郎

   酉正月廿四日
    内金三両弐分弐朱也               請取
  引
   〆金五両弐分弐朱也
           かし

   酉八月十二日
    内金弐両也                   受取

   酉十一月廿六日
    内金壱両也                   受取
    内金弐分弐朱也 尚又引
  又引
   〆金弐両也
  右之通慥受取此処不残相済申候以上
   戌正月廿三日

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 (裏表紙)  武州血洗島   渋沢市郎右衛門 [img 図]印  小泉村   紺屋喜右衛門様 



   ○此藍玉通ハ古書店ヨリ購入セルモノナリ。小泉村トハ信州上田在ノ小泉村ナラン。嘉永五年ヨリ文久二年マデ十一年間ニ亘ル記入アリ。取引ニ於テ文久元年以降ヲ欠ク為ニ、開港以後ノ物価暴騰ヲ知ルベキ資料トハナラザルモ、安政六年及ビ万延元年ノ栄一ノ記入アリ。各年度ノ銘柄別取引高ヲ左ニ表示ス。

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  以下p.164 ページ画像   年度    青海        玉紫          千代錦       別製 蒼天    花紫      手作 蒼天    東錦      手 雲井     ト 青雲     ロ 青雲   青淵      ホ 雲井    箇数合計  金額合計 嘉永五子年  四箇、七両三分   四箇、八両                                                                                             八    一五両三分 嘉永六丑年            五箇、七両一分二朱   四箇、六両一分   一箇、二両一分                                                                    一〇    一五両三分二朱 安政元寅年            四箇、五両三分                        四箇、五両三分                                                            八    一一両二分 安政二卯年                                                   四箇、八両一分  四箇、六両二分                                           八    一四両三分 安政三辰年   二、三両二分                         四箇、八両一分                   四箇、六両二分                                          一〇    一八両一分 安政四巳年                                                                    八箇、一四両二分                                  八    一四両二分 安政五午年                                                                             四箇、六両三分  四箇、七両                   八    一三両三分 安政六未年                                                                                             四箇、六両三分          四     六両三分 万延元申年                                                                                                     四箇、七両三分  四     七両三分 



〔参考〕竜門雑誌 第二〇四号・第八―九頁〔明治三八年五月〕 ○戦争と経済(DK010003k-0038)
第1巻 p.164-165 ページ画像

竜門雑誌 第二〇四号・第八―九頁〔明治三八年五月〕
        ○戦争と経済
○上略 今一つ本問題と関係の薄いことで一言申上げて見たいことがございます、蓋し此事は私の唯だ一身の懴悔談であつて決して諸君を裨益するどころではない寧ろお恥かしい御話でございますが斯る機会に一言を述べまするも又自から慰めるためにも相成らうと考へるのでございます。(謹聴)私は前々にも申す通り百姓でありまして此東京より二十里ばかり田舎の埼玉県の農民でございます、百姓と申して何だか大層卑下して申上げるやうであるがさうでない、真に百姓だから百姓だと云ふのであります、不図したことで故郷に居ることが出来ぬでそれから浪人になりました、其浪人になつたと云ふのは如何なる理由でなつたかと云ふと即ち攘夷家と云ふものであつた、攘夷家と云ふのは即ち外国人を逐払ふと云ふので、其時分に大層な流行でありました、年を老つた方は幾分か御覚えがありませう、今日は甚だ流行遅れの御話である、攘夷家と云ふもので到頭国に居られぬで京都の方に彷つてそれから続いて明治になる前年に欧羅巴へ旅行したのであります、欧羅巴へ旅行をする頃初めて攘夷と云ふことは出来ぬものであると云ふことを発明致しました、けれども十四五才から二十六七才迄十二三年の間は決して攘夷が出来ぬものではなからうと信じた、真に外国人をば見掛け次第に斬りたいやうな観念が致したのでございます、実に懴悔談でありますが今顧みますると云ふと只々赤面至極であります、抑も外国との交通は幕府時代になりても昔から幾回もありまして終に幕府の末路に至りて開港をせねばならぬと云ふ場合に立至つて国家に大騒
 - 第1巻 p.165 -ページ画像 
動を惹起したのであつた、けれども弘化の始めに和蘭よりの通知があつて英仏の両国より軍艦を以て交通を勧めに来ると言ふて来た、それから数年経つて嘉永六年ペルリが浦賀に参つたのでございます、それが丁度私の十四の時である、斯様に申すと余程の老人でありまするが併しまださうは老耄れぬつもりであります(大笑)其翌年に又再び参られた、終に仮条約が出来ると云ふことになりました、其頃に政治を執つて外交談判を致した幕府の閣老は阿部伊勢守堀田備中守或は間部下総守若くは安藤対馬守、終に伊井掃部頭と云ふ人が大老になつて追々に外交が進んで参つたのであります、其頃です、私共幕府が外国に対する政略は唯だ己れが怯懦なるために服従するのである、所謂城下の盟であると其頃流行した水戸風の学問から支那宋末の歴史を読みて秦檜は金と和した或は王倫孫近と云ふ者は皆な姦臣で是等は皆な国を誤る者であると云ふて胡澹庵の斬奸の表だとか或は李綱の上書だとかさう云ふやうな書物を見て所謂慷慨悲歌の士で世の中を押廻はしたのであります、其頃には攘夷は必ず出来るものだと考へた、斯様申すと私ばかり甚だ智恵のない人の如くに御聞きなさるか知らぬが其頃の輿論と云ふものは殆ど左様であつた、否な輿論のみではない、畏れながら孝明天皇が闔国焦土となるとも攘夷はせねばならぬと云ふ叡慮は屡々あらせられたことである、然るに前に申す通り明治の初め欧羅巴に参るに付いて段々世の中の有様を察して是は攘夷と云ふことにのみ考へ居つたのは大に心得違だと覚悟して爾来三十七年間誠に心得違な智恵のない人間だと今も尚恥ぢて居りましたが、再び考へて見ると矢張昔の幕府の官吏が政を誤つたと云ふことも決してなかつたのでない、又其時分に外国にも差別があつたと云ふことを吾々解釈せなんだのである、若し誠に今日の露西亜であつたならば矢張攘夷と覚悟したのが誠に尤であつたも知れぬ、丁度文久元年である、露西亜は対州を占領しやうと掛つたが英吉利が力を尽したために漸く対州を引払つたことが歴史に明瞭に書いてあります、果して然らば其時に吾々の夷と狄言ふた亜米利加は夷狄ではなかつた、英吉利も夷狄ではなかつたが、併し露西亜は夷狄であつたのである、斯く判断しますと三四十年前の攘夷家は聊か今日に於て面目を保つことが出来ると申して宜しいのである(喝采)若し此中に其当時の攘夷家が在るならば定めて蟄息してござらふが、今私の懴悔する如くに吾も其時分の攘夷家だと自から思はるゝのでありませう。(拍手大喝采)
   ○右ハ栄一ガ明治三十八年三月十五日国民後援会ニ於テ試ミタル演説ノ一節ナリ。


〔参考〕総長ト外国人トノ談話筆記集 【○上略 私が丁度十四の時、其時は嘉永六年で、…】(DK010003k-0039)
第1巻 p.165-166 ページ画像

総長ト外国人トノ談話筆記集(渋沢子爵家所蔵)
○上略 私が丁度十四の時、其時は嘉永六年で、○中略 丁度亜米利加のコンモンドル・ペルリが黒船を率ゐて日本へ参りました時で、亜米利加と日本とが戦争にでもなつたらどうしようかと、未来の事を心配しまして、それから書物を読んだものです。○中略 丁度其頃に「清英近世談」といふ本を読みましたが、之は阿片の騒動で支那と英吉利とが戦争をした、其戦争の事を書いた支那の本で御座います。林則除といふ支那
 - 第1巻 p.166 -ページ画像 
の役人が規則にそむくからと云つて英国の船が積んで来た害になる阿片を没収して焼いて了つた。それが悪いとて支那に戦争を仕掛けた、此英吉利の支那に対する仕方はどうも人道に背く仕方である、自分の利益の為に、理窟で勝つた人を力づくでいぢめたといふので、誠にわるい事をするものだ、外国といふはおしなべて悪い事をするものだ、かう云ふ風に一般に考へるに至りました。私は少年ながら亜米利加がどういふ仕向をするものかと恐がらない所ではない、色々と大人も申しますし、色々に心配したのであります。少年ながら我国を思ふ為であります。○中略 もしも日米戦争にでもなつたら、英吉利に支那が被つたやうな事があるならば、日本は殆んど人類でないやうな待遇を被らねばならぬと心配したのであります。○下略

   ○右ハ布哇ノ実業家ウオルタ・デリンガム氏夫人並ニ子息ガ昭和六年二月四日飛鳥山邸ニ栄一ヲ訪問セル際同子息ガ十四才ナルヲ聞キ、栄一十四才ノ思ヒ出ヲ語レル一節ナリ。
   ○右談話ニ述ベラレタル『清英近世譚』ハ前編五巻、後編五巻ヨリ成ルモノノ如シ。編者ノ見得タルハ、前編五巻ノミナルモ、前編ノ跋ニ「近世談全部十巻分為 前後二篇、自阿片烟之濫觴、至奕山義律結和交、是為 前篇、自逆将再陥 定海、至欽差大臣申奏和儀、是為 後篇、乃従道光十九年及 二十二年、両国結 兵忠臣死節之顛末、巨細全備、無 復遺憾 焉」トアルヲ以テ後編アルコト察セラル。前編ハ、嘉永三年庚戌春三月ノ叙アリ。ソノ著者明カナラザレドモ、早野恵ナル者ノ刊行ニ係ル。因ミニ『清英近世譚』ニ類スル書ニ、嘉永二年刊行『海外新話』(五巻)、安政二年刊行『海外余話』(五巻)等アリ。内容ハホボ同様ノモノナリ。


〔参考〕竜門雑誌 第二九六号・第一八頁〔大正二年一月〕 新年所感(青淵先生)(DK010003k-0040)
第1巻 p.166-167 ページ画像

竜門雑誌 第二九六号・第一八頁〔大正二年一月〕
 新年所感(青淵先生)
   旧臘都下の各新聞記者が代る代る青淵先生を訪ひ新年の所感を問ひておのかじし年頭の紙上に掲載したる談片は多少重複する所なきに非ざるも亦人によりて説を異にするの趣味深し一括して玆に掲ぐと云爾(編者識)
     中央新聞(一月一日掲載)
▲痛恨記念の年 昨年は予が七十回の誕辰に当り窃に其年の多幸ならんことを祝福して止まざりき然に予が祈願は却て反対の結果となれり畏も上 聖天子の登避遊ばされたるを始め予が親近故旧の簀を易へたるもの亦少からず寧ろ痛恨悲哀を記念すべき悪年なりき然るに今や乾坤一転其の思出多き年は長に逝き希望新たなる癸丑の春を迎ふ。六十一年前の癸丑の年即ち嘉永六年は我帝国にも予が一身にも多事なる年なりき其年の春十三才にて予は初て江戸の地を踏む猿若町三座の劇場より往さ来るさの浮れ男の難閙せる吉原を見物せしめつゝ予が父は慷慨禁ず可らず辞色厳然として云ヘり今や世を挙げ遊興安惰、浮靡の弊風滔々人は太平の夢に酔ひ又一人の思を百年後に馳するものなしと雖も何時の世か永久の春あらんやと予は父の言を聞き世の転変免れ難きを思ひぬ果せる哉其年六月ペリー来つて黒船の雄姿堂々近海を圧するや太平の宿酔忽ち醒めて世を挙げて唯疑惧狼狷花の巷は一朝にして人心恟々の修羅場と化したり。今や六十一年の星霜を重ね四周情況昔日の如くならずと雖も逝者は斯の如くにして反つて行かずと蘇東坡の詠ぜしが如く時は代れど等しく之れ癸丑の年、大正新政の初頭に当り内
 - 第1巻 p.167 -ページ画像 
外多事の折柄或は又嘉永の昔を繰返さざるなきや否や。


〔参考〕竜門雑誌 第三〇一号・第一六頁〔大正二年六月〕 日米国交の今昔(青淵先生)(DK010003k-0041)
第1巻 p.167 ページ画像

竜門雑誌 第三〇一号・第一六頁〔大正二年六月〕
 日米国交の今昔(青淵先生)
    本篇は六月二日国民新聞記者が本年の今月今日は六十年前米国より黒船渡来の当日なりとて青淵先生を訪ひて其感懐を叩き翌三日の同紙上に掲載せるものなり(編者識)
   想起す嘉永六年の今月今日は四隻の黒船相州浦賀沖に殺到し日本は永き太平の夢より醒めて端なくも鎖国の鑰漸く開かれ遂に今日の文明に達したる実に国民的大記念の当日なり。昔は我れ鎖国を唱へて米人之を奨め今は我進むで米人鎖国を唱ふ、彼我顛倒玆に極つて感殊に深きものあり。黒船渡来に発奮してより今日に至る迄日本文明の為めに貢献し殊に今回の加州問題に関して関係鮮なからざる渋沢男爵を訪ひて今昔の感を叩く
「あゝ六月二日! 左様嘉永六年でしたなあ」と感慨に堪えざるものの如かりしが軈て徐ろに語り出る様「私が二十里在の田舎から親に伴られ江戸見物に来たのは忘れもせぬ嘉永六年花咲く弥生の頃であつた茅葺の屋根や田畠のみ見慣れた私の幼い眼には江戸の町が眩しい如に映じた、全く先年の慢遊に驚かされた紐育のブロード、ウエーや倫敦のロンバードストリート以上に吃驚した、其頃は事実徳川家の末路は近づいて居たのであるが外形上の権力は些しも弛んでは居なかつた、町々の木戸が堅く鎖されて居る有様や参勤交代の大業な状を睹ては何時迄も太平が打続くであらうと思はれた、然るに数ケ月を経たぬ六月にペルリーが来た、黒船来! 黒船来! の噂は忽ち田舎にも凄まじく響いて、大変な評判となつた、ヤレ日本の小船が何十艘行つても黒船の周囲が囲めぬとか、ヤレ梯子を掛けても登れないとか、黒い火事の如な煙を吐いて自然に歩るくとか、三人寄れば黒船の噂で持ち切り「髯ムシャの唐人が陸へ上つたから日本は異人に取られて了ふぞ」などゝ夜も碌々眠られぬ程の大騒ぎになつた斯くて彼れは切に開国の必要を説き貿易を勧め世界人類の権利の同一を主張し天与の交通便宜を無視して鎖国せる不利を説き万一日本が肯ぜぬ場合は威力を以てすべしと迄強硬に日本を説き其翌年に至つて再びハリスを派し凡ての利害を説き日本を文明に導いて世界のお仲間入をさせ各国との親善を進めてくれた、此は深く深く感謝せざるを得ない、所が六十年後の今日加州に於ては思ひがけざる邦人排斥問題が実現されて世界の趨勢を説き人道の原則を説いた米国が反対に日本から御説法の百万陀羅を聞かされて居る、六十年の昔正義人道を説いて日本を文明の域に導いて呉れた米国が、当時より文明の程度も著しく進んだ今日自ら天理人道に背き暴戻極まる野蛮の言行を敢てして居るなど実に想像も及ばない不条理の極みである。米政府は今度の排斥も加州の或一小部分に過ぎぬと称して居るが、何故自国民の暴戻を矯正する事が出来ぬのか甚だ遺憾に堪えないと同時に憤怒の念を生ぜずには居られなくなる。併し六十年の昔既に日本を啓発して呉れた親切気のある米人は早晩必ずや排斥の如き偏見を棄てゝ吾人の希望が達せられる事と信じて居る。私は思ひ出深き記念の当日特に此言の空しからざらん事を祈るものである。」

 - 第1巻 p.168 -ページ画像 

〔参考〕竜門雑誌 第二八七号・第三七頁〔明治四五年四月〕 白木屋呉服店講話会に於て(青淵先生)(DK010003k-0042)
第1巻 p.168 ページ画像

竜門雑誌 第二八七号・第三七頁〔明治四五年四月〕
 白木屋呉服店講話会に於て(青淵先生)
   本篇は本年二月二十二日白木屋呉服店に於て催せる同店講話会に於ける青淵先生の講話の要領なりとて同店発行の雑誌「流行」に掲載せるものなり。
                             (編者識)
○上略 想ふに白木屋といふ呉服店は、百年であるか二百年であるか、長い歳月を経て名声を墜さず御維持なすつて居つたことゝ存じて居ります、斯く申す私も御主人にお話しましたが、貴下の生れる前に、此お店へ来て、姉の嫁入道具を買うたやうに覚えて居ります、其時に昔のお店の二階へ上つて昼飯の御馳走を戴いたのを今も能く記憶に留めて斯ういふ大きな家で僅かな買物をしても、斯くの如き饗応をして呉れるものか田舎などにはこんな例はないがと思ふて奇異の感を為したのは、貴下には前世界のお話と御聴なさるであらうが、私は自分の身に触れて居ることであるから、其やうに古くないやうな感がすると申したのです、要素があつたといふのは其処である、さういふやうな地歩を占めてござつたから、此の発達も順序的に進んで行つたらうと御察しするのであります。
   ○栄一ガ白木屋ヲ見タルモ、嘉永六年ノコトナランカ。


〔参考〕竜門雑誌 第三一七号・第七一頁〔大正三年一〇月〕 ●三越の開店式(DK010003k-0043)
第1巻 p.168 ページ画像

竜門雑誌 第三一七号・第七一頁〔大正三年一〇月〕
●三越の開店式 兼て建築中なりし同店は愈其工を終へ九月廿八日午前十一時を以て其開店式を挙行せり定刻となるや其新築店舗楼上五階西方に設けられたる式場に於て取締役会長代理藤村喜七氏の式辞朗読あり次いで建築主任技師横河民輔氏工事概略の報告あり斯くて大隈信常氏は大隈伯の代理として祝詞を朗読し金子子爵、久保田東京府知事阪谷東京市長等の祝辞あり終りに倫敦の百貨店セルフリツチ及ハロツタより送れる祝電を披露して式を閉ぢ旧館二階に設けられし食堂に於て午餐の饗応あり軈てデザートコースに入るや青淵先生拍手に迎へられて起ちて祝意を披瀝して曰く
 自分の曾祖父は当時田舎より東京見物に出で三越の前身たる越後屋呉服店を見て其営業の盛大なるに深く感奮し田舎へ帰りて農事に励み産を起すに至りしは全く同店の賜物たるなり更に自分の出京するや先づ越後屋呉服店を見舞ひて曾祖父の言を思ひ出し一入感ずる所ありたり然るに同店は其後益々盛大に赴き今日斯くの如き宏壮の建物に文明の利器を具備し総ての点に於て最善を尽され居れるを見ては感一入深し向後地方よりの見物は先づ此三越呉服店を見舞ひ其壮麗なる建物と盛大なる営業振りを見、更に幾多国産の陳列せらるゝを見て必らずや大に感奮する事なるべしされば新たなる三越呉服店は独り産業上のみならず国民教育上に資する所少なからざるべし。
と斯くて和気靄々の間に散会したるは午後一時過なりしと。
   ○栄一越後屋ヲ見タル年ハ明カナラザレドモ、嘉永六年ノコトナランカ。