デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

1編 在郷及ビ仕官時代

1部 在郷時代

1章 幼少年時代
■綱文

第1巻 p.168-173(DK010004k) ページ画像

安政元年甲寅(1854年)

叔父保右衛門ニ随ヒテ江戸ニ出デ 書籍箱ト硯箱
 - 第1巻 p.169 -ページ画像 
トヲ購ヒ、帰リテ父ニ其奢侈ヲ誡メラル。


■資料

雨夜譚 巻之一・第七―八丁〔明治二〇年〕(DK010004k-0001)
第1巻 p.169 ページ画像

雨夜譚 巻之一・第七―八丁〔明治二〇年〕
○上略 又、父が極巌正な気質だといふ証拠は、自分が十五の歳に、同姓の保右衛門といふ、叔父にあたる人と、共に江戸に出て、初て江戸へ出たのは十四の年の三月と覚えて居るが其の時には父に随行した。書籍箱と硯箱とを買つて戻つた、是は其頃家にある硯箱は、余り粗造の品だに依て、江戸へ出るを幸ひに、一個新調しやうといふことを父に請求したら、宜しい、買つて来いと許可しられたから、江戸へ来て、小伝馬町の建具屋のある処で、桐の二つ続きの本箱と、同じく桐の硯箱とを、双方で能くは記憶して居ないが、代金一両二分ばかりで買取つた、偖て帰宅の後にこれこれの二品を買つたといふ話しをして置たが、其後、間もなく荷物が到着した、サア来て見ると、是まで使用して居たのは、杉の板で打チ付たのが、真黒になつて、丁度今日、自分の宅の台所で用ゐて居る炭取の様な物だから、較べて見ると、苟も桐細工の新らしいのとは、大に相違して、華美にみえる、ソコデ父は大に驚き、且ツ立腹の様子で、斯ういふ風では、ドウモ其方は、此家を無事安穏に保つてゆくといふことは出来ない、乃公は不孝の子を持つたといつて、歎息しられました、但し打つたり敲いたりする様な手荒いことはなかつたが、三日も四日も、心の中で自分を見限つたといふ様な口気で教訓されたことを覚えて居ます、何故に是程の小事を斯くまで厳重に譴責しられたのであるかと、能々考へて見るに、父の心中では斯様に自分の意に任せて、事を取扱ふ様では、詰りドンナ事をするかも知れぬといふ掛念が強い、素より其金を惜まれた訳ではないが、既に古書にも、紂王為象箸、箕子歎曰、彼為象箸、必不盛以土簋、将為玉杯、玉杯象箸、必不羹藜藿衣短褐而舎、茆茨之下則錦衣九重、髙台広室称此、以求天下不足矣、といふてある通り、奢侈の漸といふものは、固より貴賤上下の差別はないもので、一物の微と雖も、其分限に応じて、能く之を初念の発動する所に慎まんければ、終には取かへしのならぬことになるのは、昔から幾らも例のある話しで、今、自分が斯様に美麗な硯箱や書籍箱を買ふ程だから、随て居宅も書斎も気に入らぬといふ様に、万事に増長して詰り百姓の家を堅固に保つことが出来ないといふ、かの微を閉ぢ漸を防ぐといふ意味を以て、斯様に巌しく謂はれたものと思はれました、父の方正厳格であつたことは、此の一事でも分つて居ります、併しこの譴責を受けた時は自分の心中では、余り厳正に過ぎて、慈愛の簿いやうに思はれましたが、それは自分の心得違でありました、○下略


竜門雑誌 第三〇八号・第五七―六〇頁〔大正三年一月〕 【青淵先生懐旧談】(DK010004k-0002)
第1巻 p.169-172 ページ画像

竜門雑誌 第三〇八号・第五七―六〇頁〔大正三年一月〕
▲桔梗門に閉籠らる 十四の年も軈て暮れて、自分は十五才の春を迎へた、世は嘉永から安政へかけての過渡期で、日本は正に内憂外患の禍中に投ぜられてゐた、今の新聞号外のやうな評判記と云ふものが、二三日遅れに自分の村などにも配られてゐたが、百姓生活の気楽さには、そんな噂も耳をかす必要はなかつた、伯父の保右衛門と云ふ人が
 - 第1巻 p.170 -ページ画像 
自分を連れて江戸見物に上つた。
保右衛門と云ふのは、母の妹即ち、自分には叔母に当るお房の夫で、矢張り渋沢の分家であつた、血洗島の実家の墓所から左へ一軒置いて隣りの家である、利根畔から深谷へ通ふ小荷駄に乗つて、青田の中の一筋道を深谷へと向つた、途中事もなく江戸へ着いて、翌日から方々見物して歩いたが、或日の事、一ツ橋辺から迷ひ込んで桔梗門の中へ這入つて了つた、厳めしい門を仰ぎながらツイ浮々と入り込んでしまつたのである、スルト人相の悪い折助が二三人溜りから出て来たそして突如伯父と私を捕へて、大きな眼玉を剥きながら、物置小屋のやうな所へ入れ「コラコラ百姓、泣いたつて吠えたつて此所はお城内だぞ斯うして呉れるから乾干にでもなつて了へツ」と、捨台辞を言つて戸をピシヤリと閉めてしまつた、伯父と私は途方に暮れてどうなる事かと心配してゐたが、私はヒヨイと思ひ付いた、それは父から兼々聞いた事がある、金さへ出せば助かるに違ひない、地獄の沙汰も金次第と云ふから、伯父さん金を出しておやりなさいと云つた、スルト正直一図の伯父は、いやいやそんな事をして反つて罰が重くなりはせぬかと言つて却々それに従はぬ、恰度その時以前の折助が様子を見に来たので早く早くと伯父を急立てゝ金を出すと折助は急に打つて変つた顔付をして、直ぐ解放して呉れた、その時伯父は大層自分の頓智を褒めてお前の智恵で漸う助かつたと大喜びであつた。
父が極く厳正な気質であつたといふ証拠には次のやうな話がある、やはりその再度の江戸見物の時の話で、忘れ難き父の教訓として、今も尚ほ服膺してゐるのであるが、其の時分家にある硯箱は杉か何かの粗造のもので、大分破損してゐたので、江戸へ行つたら新調しやうといふ事を父に請求したら、買つて来てもいゝと云ふ許可が出た、それで伯父と共に小伝馬町の建具屋で桐の二本立の本箱と、同じく桐の懸硯とを、双方で一両二分で買取つた、さうして家に帰つてから、父へこれこれの二品を買つたと云ふ話をして置いたが、その時父は値段だけ聞いて何とも曰はなかつた。
その翌日かに荷物が到着した、さあ来て見ると是まで使用してゐたのは、杉の板で真黒で丁度今日自分の宅の台所で用ひてゐる炭取のやうなものだから、較べて見ると苟くも桐細工の新らしいのとは大に相違して華美に見える。父の顔色は見る見る変つた。
▲消やらぬ心の烙印 父は屹となつて、暫らく私の顔と右の二品を見較べてゐたが、軈て怒気を含んだ声で
 「栄治郎、お前は父の訓戒をよもや忘れはしまい、質素倹約は処世斉家の最も大切な心得であることを、彼れ程兼々言つて聴かしてあるではないか、如何に小供心でも、その本箱と懸硯とが、自分の家に似合ふか似合はぬかと云ふ位の考は付かなくてはならぬ、不似合と知りつゝ気に適つたまゝ買つて来て之を使はうとする了簡では、その心既でに身を亡ぼすもの、此の家を無事安穏に保つて行く事は到底出来ぬ、此品は断じて用ふることならぬ、直ぐに火にかけて焼いて了へ、嗚呼乃公は不幸の子を持つた。」
と言つて数次歎息せられた。
 - 第1巻 p.171 -ページ画像 
自分は父の顔を仰ぐこと出来ず、一言一句喰込むやうな父の訓辞を聴いてゐたが、此時漸う顔を擡げて「叔父さんにも相談して見ましたら別に差支はなからうといふことでしたから、それで買取りました。」と弁解して見たところが、父は益々機嫌が悪く
 「お前は幾才になるか、十五と云へば既う成童である、それに未だ一個の見識も持たぬといふことで何うするか、縦令叔父さんが何と云つたにせよ、一見して欲しいと思つたからとて、それを直ぐに買つて来るのは、取もなほさぬ軽卒の挙動である、若し又考へて買つたとすれば確かに質素の念に欠けてゐる、どちらにしても不心得千万な話ではないか。」
と曰つて、箕子が殷の紂王が象牙の箸を作つたのを見て歎息した例を引いて責められた、勿論田夫野人の為るやうに、打たり擲いたりするやうな事を為る人ではなかつたが、それから四日も五日も、深く心の中で自分を見限つたといふやうな口吻で教訓を重ねられた、その一言一句は、七十四年の今日でも、烙き付けたやうに頭脳の底に刻みつけられてゐるのであるから、実際その時の自分の心の苦痛と云ふものはなかつた、厳しい正しい理窟責めに逢つて、初めは悪い事を為たと後悔したけれども、四日も五日も続け様に言はれると、小供心にも余り酷いと怨む気も出て、次ぎには自分の心を恐れるやうな気にもなり、終には悲しくなつて、何とも言へぬ憂鬱に囚はれるのであつた。
伯父の保右衛門も、叔母も母も喜作の父親の長兵衛なども、かはるがはる自分に代つて父に詫を言つたが、その当座は父の機嫌はなかなかなほらなかつた、自分の生涯に取て、実際これ程残念な失敗はなかつたのである。
▲厳父の丹精家運栄ふ 何故に是程の小事を、斯くまで巌重に譴責せられたのであるかと能々考へて見るに、父の心中では、斯様に自分の意に任かせて事を取扱ふやうでは将来どんな事をするか甚だ懸念に堪えぬ、この不心得が長じると、行末万事につけて奢侈放逸が伴ふのは見え透いてゐる、事柄それ自身は小問題でも、将来に繋るところは実に重大であるとの懸念が強い、素よりその金を惜まれた訳でも何でもないが既に古書にも「紂王為象箸、箕子歎曰、彼為象箸、必不盛土簋、将為玉杯、玉杯象箸、必不羮藜藿衣短褐而舎茆茨之下、則錦衣九重、高台広室称此、以求天下、不足矣。」と言ふてあるとほり、奢侈の漸といふものは、固より貴賤上下の差別はない、一物の微と雖も、その分限に応じて、能く之を初念の発動するところに慎まなければ、終には取返しのならぬことになるのは、昔から幾らも例のある話である、今自分が斯様に美麗な燦たる書架や硯箱を買ふほどだから、従つて居宅も書斎も気に入らぬといふやうに、万事に増長して、つまり百姓の家を堅固に保つことが出来ないといふ、彼の微を閉ぢ、漸を防ぐの意味を以て、斯様に厳しく訓戒されたものと思はれる、父が是れ程厳格な人であつたにも拘らず、酷く叱られたことは滅多にない、こんなに謂はれたことは、後にも前にも是が唯一度であつた、併かしこの譴責を受けた時、自分の心の中では、余り厳正に過ぎて、慈愛の薄いやうに思はれたのは、それは全く自分の心得違ひであつたのである。
 - 第1巻 p.172 -ページ画像 
 あゝ不束なその時の思出よ、この一事を以てするも父晩香の平凡の人物でなかつた事が知られる、あゝ今にして知る父の見識、よき父をもつた自分の十五六才の二個年は、斯くして多幸多福のうちに過ぎ去つた。
   ○右ハ青淵先生懐旧談ノ一節ナリ。


市河晴子筆記 〔昭和二―五年〕(DK010004k-0003)
第1巻 p.172 ページ画像

 市河晴子筆記 〔昭和二―五年〕 (市河晴子氏所蔵)
かけ硯の懸はかけもち等のかけで硯と小箪司兼用の意か
晩香院
 祖父様がかけ硯を買つて晩香院に御叱られになつた御話はしばしば伺うが、そのかけ硯なるものがわからないので伺つて書いておく。


はゝその落葉 (穂積歌子著) 巻之二・第六三丁〔明治三三年〕(DK010004k-0004)
第1巻 p.172 ページ画像

 はゝその落葉 (穂積歌子著)巻之二・第六三丁〔明治三三年〕
○上略 我十四才の時前の家の叔父にともなはれ。始めて江戸見物に出でける時一日城近きほとり見めぐり。桔梗門にやありけん。心無く橋打わたり見附の番所の前を過ぎけるに。そこに居ける役人共棒つき立て出で来り。こやこや。此所は常人の過ぐべき所にあらず。いかに思ひて足ふみ入れたる、としたゝかに罵りこらすに。二人ながらあわてふためきて。こはこよなき粗忽し侍りいかで許させ給へ。とてやがて退き出んとするに。むくつけき田舎人と見やあなづりけん。よび留めて国はいづこ名はいかに。など嘲弄がてら要なき事問ひたゞし。とみに許すべくもあらねば困じはてゝ。我叔父はづかの黄金をそと一人の袖の内に入れければ。俄にけしきかはりて。この後は心せよ。とてからくして許されけり。かしこき御代にあへばこそ。其かみはかく番所の下部どもにたしなめられ。地上にうづくまりける田舎童も。今は衛士の敬礼受けて。大城の大御門に車乗り入るゝ貴人の数には入りけれ。と打ゑみつゝ仰せ給ひき。


渋沢栄一伝稿本 第二章・第二八―二九頁〔大正八―一二年〕(DK010004k-0005)
第1巻 p.172-173 ページ画像

渋沢栄一伝稿本 第二章・第二八―二九頁〔大正八―一二年〕
安政元年の春には米国のペリー提督再び渡来し、遂に神奈川条約の訂結となり、世を挙げて和戦の論に囂々たり、しかども、尚未だ之に激する程の年齢にあらざれば、叔父渋沢保右衛門 晩香翁の妹ふさの夫。 に伴はれて江戸見物に赴きたり。然るに或日如何にして迷ひけん、誤りて江戸城の桔梗門内に入りたれば、両人とも捕へられて物置小屋に幽せらる。保右衛門は正直一途の人なれば、いたく憂ひて魂身に添はず、然るに先生は静思黙考せる後、地獄の沙汰も金次第といへば、賄ひて免るゝ
 - 第1巻 p.173 -ページ画像 
より外なしとて、恐るゝ叔父を促して、見廻りの折助に幾何かの金を贈与せるに、折助の態度俄に変り、厚く将来を戒めて解放せり。保右衛門も亦御身の為めに災難を遁れたりとて、大に喜べりといふ。先生の頓才奇智に富めること、少年時代より此の如くなりき。


市河晴子筆記〔昭和二―五年〕(DK010004k-0006)
第1巻 p.173 ページ画像

 市河晴子筆記〔昭和二―五年〕(市河晴子氏所蔵)
    食ひ逃げの御話
 十六でしたらうね。日本橋小網町の船宿に宿つて居た時の事でしたが、船宿と云つても、大川端の様なのでなく、荷物の廻送なんかのずつと雑な宿で、何軒も同じ様な店が軒ならびに並んで居ましたつけ。何か一寸遊びに出て御昼時だと気がついて帰つて来て上つてね。ホラそんな宿屋では一々室へ御飯をはこびはしない。上つたところの広間が食堂の様なわけで、座ると御膳を持つて来てくれたから、一膳食べてね、何だか変だと思つて見まはすと、店先きに屋号の書いた張灯がズーツとかゝつてゐる。その店号が違つてゐるんでね。さあきまりがわるくつてね。どうも間違へて食べましたつて云ひにくゝつて一膳食べてコソコソ逃げ出したけれど、今でもそのきまり悪さはよくおぼえてゐますよ。
 祖父様は背を丸くしてさもきまりわるそうにクックッと笑はれた。
 ○下略
   ○十六ノ時ノ事ナラントアレドモ安政元年十五才ノ出京ノ時ノ事ナルベシ。


竜門雑誌 第四三三号・第四三頁〔大正一三年一〇月〕 青淵先生説話集(禹の心を心とせよ)(DK010004k-0007)
第1巻 p.173 ページ画像

竜門雑誌 第四三三号・第四三頁〔大正一三年一〇月〕
 青淵先生説話集(禹の心を心とせよ)
○上略 ところが昨年九月一日の地震の結果は実にわが国が嘗つて経験しなかつた悲惨なものであつた、余は十五才の時安政の大地震にあつたが、当時は埼玉の片田舎に居たので江戸の惨状を親しく目撃したのはその年の冬であつたから、大地震を体験したのは昨年が始めてであつた。○下略(九月一日中外商業新報所載)