公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15
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安政二年乙卯(1855年)
是ヨリ先嘉永六年ヨリ病メル姉ノ看護ニ心ヲ用ヰシガ、是年姉ノ病ニ関スル迷信ヲ打破ス。
雨夜譚 巻之一・第七―一〇丁 〔明治二〇年〕(DK010005k-0001)
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雨夜譚 巻之一・第七―一〇丁 〔明治二〇年〕
○上略 自分には姉が一人あるが、其姉が病気の為に、両親は勿論、自分も大に心配もし、困難もしました、或時、親戚の人から、此の病気は家に祟りのある為だから、祈祷をするがよいといふ勧誘を納れて、父が姉を連れて、転地保養旁上野の室田といふ処へ行かれたことがある、此の室田といふは、有名の大滝がある処であります、偖て其留守中に家にあるといふ祟りを攘ふために、遠加美講といふものを招いて、御祈祷するといふことで、両三人の修験者が来て、其用意に掛つたが、
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中坐と唱へる者が必要なので、其役には、近い頃、家に雇ひ入れた飯焚女を立てることになつた、而して室内には注連を張り、御幣などを立てゝ、厳《オゴソ》かに飾付をし、中坐の女は目を隠し御幣を持て端坐して居る、其前で修験者は色々の呪文を唱へ、列坐の講中信者などは、大勢して異口同調に遠加美といふ経文体のものを高声に唱へると、中坐の女始めの程は眠つて居る様であつたが、何時か知らずに、持て居る御幣を振り立るのを見て、修験者は直ちに中坐の目隠しを取つて、其前に平身低頭して、何れの神様が御臨降であるか、御告げを蒙りたい抔といつて、夫から当家の病人に付て、何等の祟りがありますか、何卒御知らせ下さいと願つた、スルト中坐の飯焚女めが、如何にも真面目になつて、此の家には金神と井戸の神が祟る、又此家には無縁仏があつて、其れが祟りをするのだ、とサモ横柄に言ひ放つた、其れを聞た人々の中でも、別して初めに祈祷を勧誘した宗助の母親は、得たり顔になつて、ソレ御覧、神様の御告げは確かなものだ、成程老人の話しに何時の頃か、此家から伊勢参宮に出立して、其限り帰宅せぬ人がある、定めし途中で病死したのであらうといふことを聞て居たが、今御告げの無縁仏の祟りといふのは果して此話しの人に相違あるまい、ドウモ神様は明らかなものだ、実にありがたい、而して此祟りを清めるには、如何したらよからうといふ所から、又中坐に伺つて見ると、それは祠を建立して、祀りをするがよいといつた、全体、自分は最初から、斯様な事はせぬがよいと言つたれども、弱年者のいふことだから採用しられなかつたが、愈々祈祷をするに付ては、何か疑はしき処もあつたらばと思つて、始終注目して居たが、今無縁仏といふに付て、其無縁仏の出た時は、凡そ何年程前の事でありませうか、祠を建るにも、碑を建るにも、其時が知れむければ困りますといつたら、修験者は又中坐に伺つた、スルト中坐は凡そ五六十年以前であるといふから又押返して、五六十年以前ならば何といふ年号の頃でありますかと尋ねたら、中坐は天保三年の頃であるといつた、処が天保三年といふと今から二十三年前の事であるから、其処で自分は修験者に向つて、只今御聞の通り、無縁仏の有無が明らかに知れる位の神様が、年号を知られぬといふ訳はない筈の事だ、斯ういう間違があるやうでは、丸で信仰も何も出来るものじやない、果して霊妙に通ずる神様なら、年号位は立派に御分りにならねばならぬ、然るに此見易き年号すらも誤る程では、所詮取るに足らぬものであらう、と詰問を放つた処が、宗助の母親は横合から左様な事をいふと、神罰が当るといふ一言を以て、自分の言葉を遮りましたけれども、明白な道理で、誰にも能く分つた話しだから、自然と満坐の人々も興をさまして、修験者の顔を見詰めた、修験者も間が悪くなつたと見へて、是は何でも野狐が来たのであらう言ひ抜けた、野狐のいふことなら猶更祠を建てる、祀をするといふことは不用だといふので、詰り何事もせずに止めることになつたから、其修験者などは、自分の顔を見て、さてさて悪い少年だ、と言はむ計りの顔付でにらみました、
○此事ヲ安政二年ノ事件トナスハ、右談話中「天保三年といふと、今から廿三年前の事である」トアルニヨリ推定セルナリ。今之ヲ確ムルニ由ナシ。
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○後掲懐旧談『父母の俤』ニハ「未だ十四才の子供の悲さ」トアリテ、十四才ノ時ノ如クニモ思ハル。
竜門雑誌 第三〇八号・第五四―五七頁〔大正三年一月〕 【青淵先生懐旧談】(DK010005k-0002)
第1巻 p.175-177 ページ画像
竜門雑誌 第三〇八号・第五四―五七頁〔大正三年一月〕
▲遠加美講の御祈祷 邸宅の裏の淵が、森として蒼く、そして鏡の如く静かな夏の朝であつた、曇つた空はいよいよ低く下りて来て、西東何方へ吹くとも知れぬ迷つた風が、折々さつと吹き下りる。
姉は其頃極つたやうに、朝起きるとすぐ裏の淵の岸に佇んで、物思はしげにジツと水面を見入るのが癖であつた、そうしてゐるうちに、泫然と落泪したり、又或時は口も听《(マヽ)》けず、呼吸も絶えたやうに硬くなつて、瞳を一点に据えた儘、小半時もさうして釘付の様に佇んでゐた。青田を掠めて来て、藍蔵の方へ吹ぬける風に、鬢のもつれを払はうともせず、扱帯の儘で、赤土の崖を淵の岸へと下りて行く、その崖には湿気を含んだ白い鱗苔が斑らに生えて、凹みには水が溜つてゐた、驚きながらも、姉の袂を放さじものと堅く握つて、兎もすれば滑りさうな崖をソロソロとついて下りた、松の枝からチラホラと落ちて来る枯れ松葉が、頭の上に降りかゝる、崖の裾から殺ぎ落したやうな傾斜地には、野生の蟹釣草、鳴子稗、スカンボなどが、滋れるだけ、脊を伸ばして今が見頃の花をすいすいと立てゝゐる、そこへ来ると、病人は又もやスタスタと崖を上つて家路に帰る、淵の岸まで来るといつも満足して引返すのであつた。
家内中の心配を一身に集めてゐたばかりではなかつた、父の実家なる宗助の母親が、大の凝固まつた迷信家であつたので、この病気は家に祟のある為かも知れぬ、何を措ても祈祷をするがよいと頻に勧誘したけれども父は迷信が大嫌ひで、容易に聞入れなかつたが、その中に病人を連れて転地保養旁々上野の室田と云う滝のある処へ行かれた。
▲無縁仏否定の一矢 然るに父の不在中、母は到頭宗助の母に説伏せられ、将又四囲の圧迫に抗しかねて、家にあるといふ、その祟を攘ふ為め遠加美講といふものを招いて御祈祷をすることになつた、余も父と同じく少年時代より迷信をひどく嫌つたので、その時極力反対したけれども、まだ十四才の小供の悲さ、一言の下に伯母などに叱りつけられて、余が説は通らなかつた、さて両三人の修験者が来てその用意に掛つたが、中坐と唱へるのが必要なので、それには無智文盲の飯焚女を立てることになつた、而て座敷には注連を張り御幣を立て、中坐の女は目を隠し御幣を持て端座してゐる、其前で修験者が色々の呪文を唱へ、列座の講中信者などは、大勢で異口同音に遠加美と云ふ経文体のものを高声に唱へると、中坐の女、初めのうちは眠つてゐるやうであつたが、何時かは知らず持つてゐる御幣を矢鱈に振立てた、この有様を見た修験者は、直ぐに中坐の目隠を取て其前に平身低頭し「何れの神様が御降臨であるか御告を蒙りたい」などゝ言ひそれから「当家の病人に就て何等の祟がありますか、何卒御知らせ下されたい」と願つた。
すると飯焚女めが如何にも真面目になつて、此家には金神と井戸の神が祟る、又此の家には無縁仏があつて、それが祟をするのだ。とさも
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横柄に言放つた、それを聞いた人々はさも驚いて顔を見合せてゐる、別して祈祷を勧誘した宗助の母親は、得意顔になつて鼻高々と、それ御覧なさい、神様の御告は確かなものだ、道理で私の小さい時老人達から聞いた話に、何時の頃かこの家から伊勢参宮に出立して、それ限り帰宅せぬ人がある、定めし途中で病死したのであらうということを聞いてゐたが、今の御告の無縁仏の祟といふのは、果してこの話の人に相違あるまい、あな恐ろしや、どうも神様は明らかなものだ、まことに有難い事であると、曰つて喜び、而してこの祟を清めるのは、如何したらよからうと中坐の女に伺つて見ると、それは祠を建てゝ祀りをするがよいと曰つた。
全体自分は最初から此事には反対であつたので、愈々祈祷をするに就ては、何か疑はしい所でもあつたらば、屹度看破して呉れやうと、手ぐすね引いて始終注目を怠らずにゐたが「今無縁仏と曰つたに就て、私の家にその無縁仏の出た時は凡そ何年程前の事でありませうか、祠を建てるにも碑を建てゝ供養するにもその時代が知れなければ困ります、」と先づ質問の第一矢を放つた。
▲高飛車の迷信打破 無縁仏否定の第一矢を放つと、ものものしい扮装をした修験者は、セヽラ笑ふやうな態度を見せて、その旨中坐の飯焚女に伺つた、すると中坐は事もなげに、凡そ五六十年以前であると言つたので、自分は又押返して「五六十年以前ならば、何と云ふ年号の頃か」と聞くと、中坐はそれは天保三年の頃であると云ふ返答、ところが天保三年は今より廿三年前の事であるから、その御祈祷の出鱈目なる事は、最早や争ふべき余地がないまでに見透された、心中凱歌を奏した自分は、儼然として威儀を正し、
「只今、御聞の通り、無縁仏の有無が明らかに知れる位の神様が、年号を知らぬと云ふ事は、些と辻褄の合はぬ事かと思はれる、斯ういふ間違がある様では、全然信仰も何も出来る訳のものぢやない、果して玄機霊妙に通じ、破邪顕正の大威力を持たるゝ神様なら、年号位は立派に御解りにならねばならぬ、然るにこの観易き年号すらも誤る様では、所詮取るに足らぬものであらう。」
折伏の高飛車に出でゝ、矢継早に詰問の第二矢を射放つと、修験者は見る見る顔色を変へて、座にも堪えぬ挙動をしたが、宗助の母親が横合から「左様な事を言ふと神罰が当る」といふ一言を以て自分の言葉を遮つたが、是は明白の道理で、誰れにも能く解つた話であるから、満座の人々も興を醒まして、修験者の顔を穴の明くほど見詰めた、そして何ういふ言葉を以て抗争の余地を剰さぬこの難詰に応ずるだらうと云ふ興味をも、自然と満座の人々は起さぬ訳にはゆかなかつた、すると修験者は既う迚も太刀打が出来ぬと観念はしたものゝ、それでも当座の繕ひに「是は何でも野狐が来たのであらう」と言ひ抜けた、そこで自分は
「野狐と云ふ事なら、猶更祠を建てる必要もなく、祀りをする必要もない。」
と言ふと、はじめには最も熱心に主張した宗助の母親も我を折て、そんな事なら何も祀りをするにも当るまいといふので、結局何事もせず
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に止めることになつた、それ故修験者は、いかにも怨めしさうにさてさて悪い少年だといはぬばかりの顔付で自分を睨まへた、私は勝誇りたる会心の笑を禁ずる事が出来なかつた。
それぎり宗助の母親は、ぶツつり加持祈祷と云ふことをやめてしまつた、村内の人々はこの事を伝へ聞いて、以来修験者の類を村には入れまい、迷信は打破すべきものぞといふ覚悟を有つやうになつた、父が上州の室田から帰つて来て、母からこの事を聞き「栄治郎のやりさうな事だ」と言つて笑はれたのを、今でもしかと記憶には存してゐるのである。
○右ハ『青淵先生懐旧談』ノ一節ナリ。
竜門雑誌 第四五五号・第一―二頁〔大正一五年八月〕 我が経歴を問はれて ギュリック氏に答ふ(青淵先生)(DK010005k-0003)
第1巻 p.177 ページ画像
竜門雑誌 第四五五号・第一―二頁〔大正一五年八月〕
我が経歴を問はれて――ギュリック氏に答ふ――(青淵先生)
○上略 姉が病身であつたので、皆々非常に心配しました。私も少年ながらに、姉の看病には出来るだけ尽したので「活溌な性質の子であるのに感心である。実によくする」と云つて、人々から褒められたことを覚えて居ります。○下略
青淵百話(渋沢栄一著) 坤・第七三五―七三六頁〔明治四五年六月〕(DK010005k-0004)
第1巻 p.177 ページ画像
青淵百話(渋沢栄一著) 坤・第七三五―七三六頁〔明治四五年六月〕
余が少年時代
○上略 余が十五才の時であつた。自分には一人の姉が脳を患つて発狂し二十才といふ娘盛りでありながら、婦人にあるまじき暴言暴行を敢てし、狂態が甚だ強かつたので、両親も余も之を非常に心配した。兎に角女のことであるから、他の男に其の世話はさせられぬ。余は心狂へる姉の後に附随して歩き、様々に悪口されながらも、心よりの心配に駆られて能く世話をしてやつたので、其の頃近所の人々の褒め者であつた。○下略
渋沢栄一伝稿本 〔第一章・第九―一二頁 大正八―一二年〕(DK010005k-0005)
第1巻 p.177-178 ページ画像
渋沢栄一伝稿本 〔第一章・第九―一二頁 大正八―一二年〕
先生父母に仕へて孝に、兄弟に友なり、先生十四才の時姉君に縁談あり、其議殆ど整へる時、晩香翁の実家なる宗助異論を唱へたり、そは此家の俗説に尾崎狐といふあり、如何なる者なりや知る人もなけれど其狐の住めりと言ひ伝へる家を、俗に尾崎狐の家筋と称して大に忌嫌へり。然るに、今度の縁談の家は此家筋なりとて、宗助の極力反対せるが為に、遂に破談となりしかば、姉君は之が為に憂鬱病を発し、遂には物狂はしくなりて、父母の心痛大方ならず、さりとて農業に商業に家事多忙なれば、母君も専ら看護に従ひ難き事情あり、先生之を悲み又両親の心情を察し、自ら奮つて看護の任に当らんことを請ひ、爾来一年余りの間、心を砕き意を用ゐて姉君の世話をなしけるが、其外出する際の如き、常に随行して警護せり。病人は之を厭ひて、先生を罵ることもあれども、先生は毎に慰めて逆らはず、危しと思ふ時は詞穏に之を制するなど、苦心大方ならず、されば之を見る人々も、十四五の少年にして、よくもかく看護することよと称讃せり。
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姉君の病を療せん為に、父君の伴ひて上野の室田なる大滝に行きたる留守中の事なりき、渋沢誠室 名は徳厚、通称を宗助といふ、晩香翁の兄 の妻にて先生の伯母に当れる人は、非常なる信仰家なりしが、此病気は家に祟りのあるが為ならん、之を禳ふには遠加美講の修験者を頼みて祈祷せんといふ、母君等之に従ひしかば、其日三人の修験者来りて祈祷す。祈祷には中座といへる神と人との間に立つべき中介者を必要とするにより、下女を使用せり。かくて室内には注連を張り御幣を立て、厳かに飾付を為し、中座の女は目隠をなし御幣を持ちて端坐すれば修験者は種々の呪文を唱へ、列座せる講中の信者なども、異口同音にトホカミエミタメと唱ふ。中座の女は初め眠るが如くなりしが、暫くして持ちたる御幣を振立つるや、修験者は進みて其目隠を取り、更に其前に平身低頭して、孰れの神の御降臨にや御告を蒙りたしといひ、又当家の病人は何の祟りにてかくなれるにや御知らせありたしといふに、中座の女は、此家には金神と井戸の神とが祟りたり、又此家に無縁仏ありて祟りをするなりと言ひ放てり。之を聞きて伯母なる人得意となり、神の御告はあらたかなるものなり、嘗て老人の話を聞くに、いつの頃なりしか伊勢参宮に赴きて帰らぬ者ありといふ、無縁仏の祟りといふは是れなるべしといひ、此祟りを禳ふには如何様にせば可ならんと、修験者をして中座に尋ねしむるに、祠を建立して奉祀すべしといへり。先生は初よりかゝる祈祷には反対なれども、少年の言用ゐらるベくもあらざりしが、此に至り問ひて曰く、無縁仏が此家を出でたるは何年程前なりや、中座の曰く、五六十年前なり、先生又其時の年号は如何と問ふ、中座の曰く、天保三年なりと、先生乃ち修験者を顧み、天保三年は二十三年の前なれば、無縁仏の有無を知り得る程の神ならば、年号を誤ることあるべきはずなし、之を誤れるは信じ難き証ならずやと詰問せり。伯母は傍より、さやうなることいひては神罰を蒙るべしとて遮りたれども、神の御告なるもの明かに矛盾せるによりて、列座の人人も興をさまし、一同に修験者の方を見やりたれば、修験者も当座遁れに、之は野狐の来れるならんといふ、先生又野狐ならば猶更祠建つるの要なかるべしと詰問せしに、修験者も語塞りて、そこそこに退出し祈祷は無効に畢れりといふ。
〔参考〕実験論語処世談 (渋沢栄一著) 第五四九―五五〇頁 〔大正一一年一二月〕 【神仏と戦と疾とに対する信念】(DK010005k-0006)
第1巻 p.178-179 ページ画像
実験論語処世談(渋沢栄一著) 第五四九―五五〇頁 〔大正一一年一二月〕
神仏と戦と疾とに対する信念
◎渋沢の神信心は漠然
子之所慎。斎戦疾。(子の慎む所は斎と戦と疾となり)
玆に掲げた章句は、弟子が孔夫子の平生に就て評したもので、若し論語を編した者が、程子の説の如く有子・曾子の二人であるとすればこれは斯の二人の意見である。若し又物徂徠の説の如く琴張・原思の二人の手に成つたものだとすれば斯の二人の意見であるが、孰れにしても又誰が観ても、孔夫子は其平生に於て、斎即ちモノイミ、戦即ちイクサ、疾即ちヤマヒの三つに対しては大事を取られ、モノイミを仕て意を誠にするに力め、容易に戦を主張せず、大に衛生を重んじて居
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られたものと思はれる。兎角自信力の強い英雄豪傑になれば、運命を軽んじ、敵を蔑り、身を軽んずる傾向を生じ、如何に傍若無人に挙動つても、自分の力によつて天を制し、敵を制し、疾をも制することの能きるやうに思ふ傾きを生ずるものだが、毫も斯る軽卒なる考を起し給はず、運命を重んじて慎重にモノイミを致されたり、漫りに我が勇に誇つて敵を軽んずる如きことを為さず、細心の注意を以つて衛生の道を重んぜられた所に、孔夫子の孔夫子たる偉い点がある。
然し私には什麼したものかモノイミをするといふやうな習慣がない又世間の或る人々のやうに毎朝先祖を祀つてある仏壇の前に跪いて礼拝することも致さなければ、或る特種の神を信心して之を拝むといふが如き事をも、私は致さぬのである。畢竟私は百姓の家に生れて、幼時より爾んな礼儀作法を馴らされなかつた結果であらうと思ふが、又モノイミをしたり、或る特種の神仏を難有がつて之を拝んだりするのは迷信であるといふ事を、幼年の頃から父から説き聞かせられて居つた為めであらうと思ふ。さればとて私には敬神尊仏の念が全く皆無かと謂へば、爾うでも無い。父母の菩提を弔ふ念もあれば、又鎮守を始めとして神社仏閣を尊崇する念もある。要するに私の神や仏に関する観念は頗る漠然たる抽象的のもので、或る人々の懐く観念の如く、人格人性を具へた具体的の神仏と成つて居らず、たゞ天といふ如き無名のものがあつて、玄妙不可思議なる因果の法則を支配し、之に逆ふ者は亡び、之に順ふ者は栄えると思つてるぐらゐに過ぎぬのである。然しこれが私の信念であるから、前条に申述べた中にも屡々御話した如く、「天、徳を予に生ず、桓魋其れ予を如何せん」との確乎動かすべからざる自信を以つて、世に処し得らるゝのだ。
〔参考〕実験論語処世談 (渋沢栄一著) 第五九九―六〇一頁 〔大正一一年一二月〕 【流行の神様】(DK010005k-0007)
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実験論語処世談(渋沢栄一著) 第五九九―六〇一頁 〔大正一一年一二月〕
流行の神様
◎怪力乱神は中庸の外
子不語怪力乱神。(子、怪力乱神を語らず。)
孔夫子は、詩・書・執礼等、人を善美に導く資けとなるやうな事ばかりを常に口にせられ、苟も道理の上から観察し、到底あり得べからずとせらるゝ如き怪異不可思議の化物談じみたことや、徒に力を誇つて匹夫の勇を揮ふ如き話や、臣にして君に反き子にして親を弑せる如き悖徳の譚や、幽遠にして人智の能く測り知る所に非る鬼神に就ての議論なぞを、決して口にせられなかつたものであるといふのが、玆に掲げた章句の趣意である。
怪しいと思はるゝ妖怪変化と雖も、之を深く研究すれば、毫も怪むを要せざるものとなり、力自慢の勇士に関する物語と雖ども、或は話し様の如何によつて、士気を鼓舞する一助にならぬとも限らず、悖礼悖徳の革命にも、亦歴史的に観察すれば多少の意義を存し、鬼神に関する議論も哲学上から観察したら全然無価値のもので無いやも知れぬが、人が斯くの如き世間に普通で無い極端な事柄に趣味を絶えず持ち怪・力・乱・神を口にして居るやうになれば、その人の思想は自づと平衡を失し、極端な行動を取つて得意とするまでになり、言行共に中
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庸を喪ふに至る恐れのあるものだ。これ孔夫子の取らざる所である。依つて孔夫子は断じて怪・力・乱・神を語るまいとの、御決心をなされて居つたものらしく思へる。怪・力・乱・神を語らぬとは、つまり中庸の道を守らうとの心懸が盛んであらせられたとの意に外ならぬのである。
怪異不可思議の事を信ずると否とは、必ずしも其人の学問・知識の程度によるものでは無いらしい。存外な学者で幽霊を信じたりする者がある。さうかと思へば又一方には、無学の者で一切妖怪じみた事を排斥し、之れを信ぜぬものがある。私なぞは是まで申して置いた中にも屡々談話した通りで、一切神いぢりといふものを致さぬのだが、若い時分には其れでも慰み半分に淘宮術を覚えてやつてみた事がある。淘宮術には昨今大分信仰者があつて、之により日常の去就進退を決するほどの人も無いでは無いが、素は支那の天元術から来たもので、天保五年に幕府の御留守番同心組頭を勤めた横山丸三といふ人の案出した一種の術で、十二支・十干・八品などにより自分の性状を知りその欠点病所を匡正陶冶せんとするのが趣意だ。易の乾兌離震巽坎艮坤によつて八卦を立つるのと同じく、陰陽学の一種であると観て宜しかろう。昨今では、何んなものか知らぬが、私の若くつて能く遊んだ頃には、吉原の芸者などに之を信ずる者が却々多くあつて、それらと一緒になつてる間に、何時と無く私も其れを覚えたのだが、全くの慰み半分で、別に之によつて進退去就を決したりなどしたわけでは無い。然し或る人々に取つては、之も亦坐禅の如く修身斉家の一法になるだらう。九星とても亦同様だ。
白河楽翁公の如きは、学問もあり智慧も優れ、精神の立派な人物であらせられたに拘らず、従来談話した中にも既に申述べ置ける如く、幕府の老中に任ぜらるゝや、自分の一命は素より、妻子眷族の生命までも懸けて、窃に深川の聖天様へ起誓せられて居る。楽翁公に似合はしからぬ事だと思ふが、怪異を信ずると否とは、其人の学問なぞよりも寧ろ、却つて其人の教育やら境遇に因ること故、楽翁公は御出生が元来殿様なる為め、幼少の頃より奥女中なぞに、かの如き迷信じみた思想を吹き込まれて来た結果、我々から観れば馬鹿気て見ゆる如き起誓などを、正心誠意の迸つた余り、敢てせらるゝに至つたものだらうと思ふ。私の交つた維新の元老なぞには、この迷信に属する怪異を信ずるやうな人は無かつたもので、井上侯でも伊藤公でも、全く迷信がかつた事の無かつた人である。大隈侯なども勿論さうである。