デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.6.13

1編 在郷及ビ仕官時代

1部 在郷時代

2章 青年志士時代
■綱文

第1巻 p.219-224(DK010010k) ページ画像

文久元年辛酉春(1861年)

江戸ニ出デテ儒者海保漁村ノ門ニ遊ビ、又剣客千葉栄次郎ノ道場ニ出入ス。居ルコト二ケ月余ニシテ帰ル。


■資料

雨夜譚(渋沢栄一述)巻之一・第一七―一九丁〔明治二〇年〕(DK010010k-0001)
第1巻 p.219-220 ページ画像

雨夜譚(渋沢栄一述)巻之一・第一七―一九丁〔明治二〇年〕
○上略 自分が読書の指南を受けた尾高惇忠の弟に、長七郎といふ人があつて、自分よりは二ツ年長で、大兵の上に腕力もあり、且又撃剣に於ては、非凡の妙を得た人であつたから、撃剣家にするといふので、其以前から江戸へ出て居たが、是も折々江戸から友人の書生を連れて来て、頻りに慷慨憂世の談論をするといふ有様であつた、左なきだに下心あることだから、自分も遂に二十二の年に、内心では此儘田舎に百姓をして居ることは成し得られぬ、といふ覚悟をしました、其頃、長七郎が下谷練塀小路の海保といふ儒者の塾に居て、サウシテ剣術遣ひの所へ通つて居たから、夫れを便りに、ドウカ自分も江戸へ出たいといつた、処が其時には、父が余程八釜しく小言をいつて、今此の商売を打捨てゝ、書物を読むために、家の事を粗略にしては困る、サウいふ量見では、まだ安神が出来ぬといふ意味で、大に教誡しられたけれ
 - 第1巻 p.220 -ページ画像 
ども、自分に於ては、永く江戸に居る積りはない、只春先キ農業の閑暇に、少しは本も読みたいといふ考へであるといつて、強て請求して到頭父の許しを受けたから二タ月余りも江戸に出て、海保章之助といふ儒者の塾に這入つて居つた、其真意は、到底百姓をして居る時節でないといふ考へで、即十七才の時に発した念慮が増長した訳で、其に付ては、世には段々名ある人もあることだから、広く当世の志士に交遊して、議論も聞きたく、又は実際に当世の模様も見たいといふ志が益々熱くなつて来たのである、斯ういふと思慮も余程周密の様に聞えるが、其実は、山気が追々高ぶつて来たといふのでありませう。偖て海保の塾へ入学してから、両三日を経て孟子の講釈を遣らせられた時には、大勢の書生に笑はれて、赤面して両腋から汗を出したこともあり、又其後にも塾則を破つて、先生に叱られた事もあつたが、素より自分の念慮は、敢て書物を充分に読まう、又剣術を上達しやうといふ目的でない、只天下の有志に交際して、才能芸術のあるものを、己れの味方に引入れやうといふ考へで、早く云つて見れば、かの由井正雪が謀反を起す時に能く似て居た、其中に世の中は益々騒々しく成て来て、種々の出来事もあつたが、それは近世歴史などに書いてあるから、夫れを読でみれば委しく分る事だに依て、今玆で一々これを話しませぬ、かくて其歳の五月頃まで海保の塾に居て、頻りに書生連に交際したが、又お玉が池の千葉といふ撃剣家の塾に這入て、剣客の懇意を求めて居た、其訳は、今申す通り、読書撃剣などを修行する人の中には、自然とよい人物があるものだから、抜群の人々を選むで、終に己れの友達にして、サウシテ何か事ある時に、其用に充る為めに、今日から用意して置んければならぬといふ考へであつた。


渋沢栄一伝稿本 第三章・第四五―五一頁〔大正八―一二年〕(DK010010k-0002)
第1巻 p.220-224 ページ画像

渋沢栄一伝稿本   第三章・第四五―五一頁〔大正八―一二年〕
   第三章 遊学
天明・寛政・以来外警漸く繁く、北海には蝦夷・樺太に於ける露人の侵略あり、西南には長崎に於ける英人の暴行ありて、国民は二百余年泰平の眠より覚め、護国の急を感じたれば、或は国防を痛論し、或は攘夷を高唱せしが、隣邦支那が阿片の事によりて英国と戦ひ、遂に地を割き金を償へる事実には、最も痛切に刺激せられたり。是より先、識者間の議論は、外患に対して国家を保全せんには、先づ政治の刷新を要すといふにありしが、天保以後に及びては一段進化し、政治の刷新は、幕府を撤廃して政権を朝廷に統一するに如かずといへる尊王論を発揮せり。此外交問題によりて具体化したる尊王論は、外国に対する敵愾心より起れる攘夷論と合して、所謂尊王攘夷論の洪流を漲らすに至れり。かゝる折しも、嘉永六年には、米国のペリー提督、露国のプーチヤチン提督、等前後渡来して開国を促しければ、翌安政元年幕府は先づ米国と和親条約を締結し、次で露・英・仏・蘭の諸国に及び、程なく是等の諸国と修好通商条約も締結せられて、我帝国はまた鎖国の一孤島にあらず、此に於て主権の統一と国威の宣揚とを目的とせる尊王攘夷論の勢力が、海内を風靡せるは蓋し自然の趨勢なり。殊にペリー提督の高圧的態度と、幕府が何事も唯々諾々彼に屈服せる態度とは
 - 第1巻 p.221 -ページ画像 
いたく尊攘論者の反感を招きて、世論頓に沸騰し、天下の形勢将に一変せんとす。此時に当りて世論の指導者たる者も、指導者によりて行動する者も、概ね皆中流以下の士人なりき、凡そ世官・世禄の時代に先づ腐敗する者は上流階級なるが、此時に於ても、諸大名及び其家老用人などいへる者、多くは凡庸の輩のみ、社会の中堅として健全なる意志を有する者は、却て中流以下の士人階級に存したり、而して之と共に此気運を助くる者は、同じく中流の恒産を有する百姓・町人ならざるべからず。
されども江戸時代に於ける百姓・町人の地位は極めて憐むべきものなり、其下級の輩はいふまでもなく、中流の恒産を有し、士人と斉しき教育を受け、智識・能力・士人と選ぶ所なき者といへども、武家政治は武士にのみ権力を附与し、百姓・町人をば、武士を扶助なすべき一種の機関として待遇するに過ぎざりき。産業の発達せず、経済機関の備はらざる時にありてはこれ亦已むを得ざる現象なるべけれども、江戸時代の中葉以後、産業の発達著しく、都鄙に富豪の簇出するに及び彼等が武家に対して金穀を融通し、債権者の地位に立ちて、士人の経済を左右すべき力を有するに至りては、富豪の或者は武士の圧制が謂れなきを思ひ、漸く反感を抱けり、殊に農村に土着せる者は、大抵剛健の気風を守り、自ら家事の経営に任じて、一家を維持するの能力を具へ、殊に書を読み武技にも携はれる者は、自己の地位に就いて不満を感ずることも亦早し、既に不満を感ず、いかでか当時の社会制度を謳歌すべき、若し機会の乗ずべきあらば、武家の圧制より脱出して、自己の地位を向上せんと欲したるべきは、想像に難からざるなり。今や外国関係の発生より、国民の多数は覚醒して、遂に一大変動を生ぜんとす、是れ実に彼等の乗ずべき好機会なりき、此に於て百姓・町人より起りて国事に奔走せる者其人に乏しからず、薩州の森山棠園、長州の白石正一郎、土州の吉村寅太郎、宇都宮の菊地教中、出羽の清川八郎、武蔵の近藤勇の如きは、其最も雄なる者なりき、而して我が青淵先生も亦此気運に導かれて蹶起せる一人なりしなり。
先生が武士の跋扈を憤り、農民たる境遇に甘んずるを潔しとせざるに至れるは、其十七才の時、岡部陣屋の刺激に基き、爾来年と共に此念慮の長ぜることは既に述べたるが如し、而して先生をして更に憂国の志士たらしめしものは、尾高藍香と尾高長七郎となりき、藍香幼より文武に志し、早くより郷党の間に重んぜられしが、天保十二年徳川斉昭が水戸城外なる仙波ケ原に追鳥狩を催し、大に兵を練り武を講ずるや、藍香父に伴はれて之を参観し、いたく其勇壮なるを喜ぶと共に、いつしか水戸の士風を慕ふに至り、長ずるに及びて藤田東湖の弘道館記述義、常陸帯、会沢憩斎の新論等を愛読して、ますます其感化を受けたり、されば嘉永六年米艦渡来以後、天下漸く乱れんとするや、いたく幕府の為す所に平かならず、密に尊攘の志を抱きて郷党の子弟を導けり、然れども身は既に家を承けて農商の業に従ひ、国事の奔走に便ならざるが故に、弟長七郎に旨を授けて四方に遊ばしむ、長七郎容貌魁偉、膂力無双、尤も撃剣に長じ、成童にして既に抜群の手腕あり且文学を嗜みて造詣浅からず、固より農商に服するを甘んぜざりしか
 - 第1巻 p.222 -ページ画像 
ば、藍香の命を受けてに大に喜び、安政の初年以来、北は両毛の山河を踏破し、南は江府の名家を歴訪して、文武の業を励みつゝ徐に天下の形勢を探れり、而して其江戸に遊ぶや、海保漁村 章之助、上総の人 に文学を、伊庭軍兵衛 秀業、幕臣 に武技を学びたりき、かくて其見聞する所を郷里に報告し、又屡其朋友を伴ひ来りて慷慨談論しければ、農村の少年等も之に励まされて、眼を国事に注ぐ者あり、此時に当り、先生と渋沢喜作とは藍香門下の双璧として、郷党の牛耳を執りしが、藍香の持説と長七郎の説話とに刺激せらるゝこと多く、漸く身を以て国に許すの志あり、殊に先生の晩香翁に代りて各地に赴ける間には、自ら商業以外の友人を生じ又志士・文人等の来遊に接して聞見を広むるを得たれば、二十才前後に及びては純然たる尊王攘夷論者となり、長七郎・喜作と共に藍香を中心とせる一団は、端なくも刀水の浜に小梁山泊を現出したり、かくて先生等は藍を製し蚕を養ひ、鋤鍬を手にして粒々辛苦し、領主の為に年貢を納むるに甘んずること能はず、其頃藍香が長七郎に贈れる詩に「正気堂々感聖神、丈夫心事見天真、何図挫狄尊王計、却及吾人処士身」といへるは此志気の発露せるなり、此時に当りて先生も亦謂へらく、豊太閤は尾張の農民より出で、徳川家康は三河の小大名より起りて、共に覇業を為せり、漢の高祖は下沛より起りて四百余州を平定し以て二百余年の炎運を開きたり、世間豈将相の種あらんやと、古人を回想しつゝ英雄豪傑を以て自任ぜんとし、今は平凡なる農民の境遇に甘んずること能はざるに至れり。
されども晩香翁は之を喜ばず、現在の運命に安んじ、農商の本業に努力するを以て自己の本分なりと考へたれば、先生を戒むるに常に其意を以てせり。先生已むを得ずして之に従ひたれども、其志は奪ふべからず、文久元年二十二才の春に及び、遂に江戸遊学の事を晩香翁に懇請せるに、翁は農商業を打捨てゝ遊学するは宜しからず、かゝる精神にては我家の将来も案ぜらるなどいひて、いたく不興なりしが、先生が修業は農業の閑暇なる春季に於てするのみ、永く江戸に留るにはあらずとて、再三再四之を強請し、漸く其許可を得たり。此に於て先生は尾高長七郎が海保塾にあるをたよりて江戸に赴き、同じく漁村の門に学が、滞在二箇月余にして郷に帰る、其間先生は講学の士と交を締びて、経史を論じ詩文を応酬するなど、専ら文学の修養に身を委ねしが、天下の形勢につきても注意を怠らざりき。

   ○海保漁村ハ諱元備、字郷老、別名紀之、字春農、漁村ハ其号ナリ。寛政十年十一月二十二日南総武射郡北清水村ニ生ル。幼ニシテ学ヲ好ミ、二十二才堅○録数巻ヲ著ス。文政四年二十四才ノ春江戸ニ出デ太田錦城ノ門ニ入ル。天保元年三十三才松平但馬守其子弟ヲ率ヰ君ニ請ヒテ師ト為ス。同年秋居ヲ下谷久保町ニトシ、諸生ヲ教授ス。久保町ヨリ練塀小路ニ移レルハ嘉永元年五十一才ノ五月ナリ。栄一ガ文久元年春入門セルハ即チコノ塾ナリ。而シテ漁村ハ当時六十五才。漁村ノ逝去セルハ慶応二年九月十八日ニシテ、享年六十九才、漁村ノ著述ハ三十種ニ及ブ。(『海保漁村先生年譜』ニヨル)漁村ノ墓碑ハ、『本所区史』ニヨレバ、同区番場町ノ普賢寺ニアリキ。参考ノ為左ニ同区史(第四五三―四五五頁)ノ記事ヲ掲グ。年譜ト碑文ト齟齬スル所アリ。字一ハ郷老トシ、他ハ郷元、或ハ純卿トス。大人名辞典ハ純卿トス。
 - 第1巻 p.223 -ページ画像 
     普賢寺は同町五十二番地に在り高竜山と号し明王院と称した。天台宗にして浅草寺末である、文明元年僧良円の開設に係り歌舞伎伝助所持の地蔵尊がある。震災前迄本堂玄関の傍に大碑があつた。海保漁村の墓碑で其の文は左の如くである。
     漁村海保府君碑碣 海保元起
    海保府君既葬之明年。門人将謀表其墓。咸曰。先生学為醇儒。行為君子。法応昭諸不朽。顧誰当任其事。於是其不肖嗣元起。奉其遺稾泣曰。先人謙遜寡欲。未嘗与雕華之士。以声誉相馳驟。而其最昵交称知己者。今皆相続凋謝。其一時交往者。亦恐不能悉其平生矣。幸有先人自述在焉。請以碣墓左。粗叙其梗概於端耳。冀以副先人雅素之意矣。咸曰。然。乃謹叙曰。君諱元備。字卿元。別名紀之。字春農。漁村其自号。姓源。海保氏。南総武射郡北清邑人。考諱修之。号恭斎。妣北田氏。生三子。君其季也。生七八才。恭斎君授以句読書字。終日不倦。恭斎君憐之。数令之休。不肯。廼遣之通信於隣里。君疾走往復。事毎速弁。後或有急。恭斎君輒曰。非純卿則不可。頗以為累。北田氏後以為咲。純卿君之小字也。年十四。始徠江戸。不堪喧囂。泣曰。是豈可読書耶。未数月帰郷。既長。覃思経術。稔廿四再来江戸。首受知柳沂劉君。遂倶遊于錦城師之門。錦城師一見大嗟異之。許以遠到。及錦城師歿。君与荒井尭民。実謀営建其墓碣。天保庚子。周易古占法刻成。識者称其精確。後三稔遊乎京師。尤為日野亜相公所賓礼。明年閣老佐倉侯。招礼諸儒。啓迪其藩士。君亦与焉。嘉永壬子。水戸公聞公名召見之。将使講経其邸。有沮之者。不果。先是秋田侯及閣老浜松侯。聘君為儒官。皆不応。安政丁巳。暁湖棠辺二劉君。与□庭劉君謀而請于大府。以君為医黌舎儒学教授。処士命授《(教カ)》授。自君始云。後五年疾作廼自撰墓表。誌其後曰。安政庚申寝疾。延至文久紀元。荏苒弥留。計将不起。乃或幸而能愈。亦慮気力漸衰。精神益耗。不能長視息天地間。則他日以此代墓上之文。其又無不可也。既而病稍小康。乃復握管讎温古籍。訂正著書。興会所至。間亦摹帳。未曾一日懈。所著経説雑著卅余種。将相続刊行問于世哉惜。世変多故。君亦老而益病。慶応二年八月。旧痾復大発。遂以九月十八日不諱。距其生寛政十稔十一月廿二日。得年六十有九。以是月廿日。葬本所普賢寺域内新塋。君気貌淳古。寡言笑。不嘉間語空談其接人一以渾厚和平。不俯仰以取客。亦不矯激以矜気節。其自述曰。処士無他所長唯略知読書。亦唯純乎一於治経。不嘉汎渉。嘗謂漢経師説。雖有異同。要得之於七十子遺伝。則今日治経。唯当原之於注疏。徴諸各経。参之於史子集之言。弁訂其異同。研覈其是非。以求合於古聖賢立言之旨。如是焉耳。凡宋以後好自抒心得者。一切置之不取也。前後所著若干種。周易古占法。及漁村文話。既刊行世。他易書詩三経及論語。有漢註攷。中庸大学。有鄭子義。孝経孟子左伝国語。並有補証。又有孟子年表。書及中庸。晩加訂正。余未及釐革。文章軌範補注七巻。嘗課及門之士。輯録成書。待老筆記。見聞異辞。三書皆係平生所雑記。嘗論古人経説。散見於歴代史𨓏𨓏有足補古注疏之遺者。不一而足。亦略手輯就緒。曰十七史経説。又論西洋説。唯天文暦学。称為精確。然亦有得有失。若近日所唱地動之説。実与緯書妄談符。極為不経。況其所主張祅教者。最大害於世道人心。此不可不弁者。有祅教紀原。余経説及雑著。亦不下数十種。蓋処土少壮。従太田錦城先生学是以其於経義。一在乎恢張師説。然其不易従者。亦必有所論弁補正。不至阿乎所好也。幼従其先考恭斎府君受句読。皆依古注疏。其晩稔専用力於此。亦非偶然云。性孤僻。其読書行巳。不合時趨。是以後終身轗軻以歿焉。此似為可憫。而処土終不以此易彼也。漁村老夫自誌。慶応三稔才在彊梧単閼秋九月。不肖嗣元紀稽穎拝書拝叙。
    この由緒ある寺も、昭和二年五月十八日付を以て府下北多摩村大字染谷字尾原に移る事になつた。
 - 第1巻 p.224 -ページ画像 
   ○千葉道場ハ、千葉周作ノ開ケル道場ナリ。周作ハ安政二年十二月歿セリ。『大日本人名辞書』ニヨレバ、周作ニ五子アリ、長ヲ岐蘇太郎、次ヲ栄次郎トイヒ、栄次郎亦剣ニ熟スト。而シテ栄次郎文久二年正月歿シタレバ、文久元年春栄一ノ出入セル頃ハ栄次郎指南ニ当レルカ。但シ文久三年八月栄一再ビ千葉塾ニ入レル時ハ、三男道三郎兄ノ後ヲ継ギ指南ニ当レリ。コノ点『御口授青淵先生諸伝記正誤控』ニ「その時は道三郎が先生であつた」トアルニヨリ明カナリ。


市河晴子筆記(DK010010k-0003)
第1巻 p.224 ページ画像

市河晴子筆記             (市河晴子氏所蔵)
   西洋人を初めて見られたのは
 そう海保塾に居た時だつたらう。二十二才かね。浅草の中店だつたが、男が二人居てね、その時の詩をはじめは忘れたが、おぼえてゐますよ。
 祖父様は満面に笑をふくんで
『……偶々浅草に遊んで異人を見る腰問の宝刀躍り出でんとほつす。思ひ起す子房の暴秦に椎するを』物そうだねー
   ○海保塾に関スル栄一ノ談話ハ文久三年八月ノ条ニ掲グ。