デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.6.13

1編 在郷及ビ仕官時代

1部 在郷時代

2章 青年志士時代
■綱文

第1巻 p.224-229(DK010011k) ページ画像

文久二年壬戌二月《(?)》(1862年)

是ヨリ先、従兄尾高長七郎坂下門事件ニ連座セルヲ以テ捕吏ノ検察頗ル厳ナリ。是月下旬栄一長七郎ニ勧メテ、難ヲ信州及ビ京都ニ避ケシム。


■資料

雨夜譚(渋沢栄一述) 巻之一・第一九―二一丁〔明治二〇年〕(DK010011k-0001)
第1巻 p.224-225 ページ画像

雨夜譚(渋沢栄一述)  巻之一・第一九―二一丁〔明治二〇年〕
○上略 元来思慮といふものは、一方に密なると、一方は疎になるもので既に憂国の志士を気取つて、大事を自任した以上は、万事の思想が自然と其点に集つて来るから、一方の農業と商売とは、充分に丹精しないやうになる、サアさうなると、厳正な父だから黙つては居ない、度度叱られました、併し自分もモウ二十二三にもなり、幾分か世の中の事にも馴れて、殊に漢学書生などゝ交際して、国事の議論もするといふ有様であつたから、父も不機嫌ながら、サスガに小児を叱るやうに馬鹿な真似をするな、抔とはいはぬけれども、心の中を察して見ると何となく心配をしられる様子であつた、尤も親が子を思ふのは頗る深切なもので、心配の中にも、書生などの遊歴して来た時に、自分がそれと負けず劣らずに時勢を談論すると、乃公の児は人に対して恥かしからぬものだ、と嬉しさうな様子も見えたが、サウカといつて、近頃の挙動では何時家を飛出して如何なる難儀を仕出すかも知れぬ、といふことも大に心配された様に思はれた、実に今日から回想して見ても自分が二十二才の春、江戸へ遊学した頃から、二十四の冬、京都へ旅行するまでの間に於て、父の痛心苦慮といふものは、真に思ひ遣られる程で、さてさて自分は不孝の子であつたと今更後悔に堪へませぬ、自分が二十三の歳であつたが、正月十五日に、老中安藤対馬守の登城先キを、河野健三《(河野顕三)》などが、坂下門外に待受て斬かけた、其事に連累して、大橋訥庵が捕縛になつて、尾高長七郎も亦嫌疑を受けたが、長七
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郎は其時田舎に来て居たから、田舎までも逮捕の沙汰があるといふことを、自分が聞込むだけれども、長七郎は却て夫れを知らずに、江戸へ出るといつて、既に出立したといふことだから、自分は一方ならぬ心配をして、其夜の十時頃から宅を駈出して、四里程隔て居る、熊谷宿まで追つ掛けて、漸く長七郎を引留めて、偖て貴契は知らぬ様子だが、坂下連中は、其場に出もせぬ児島恭助までも縛られた程だから、此田舎ですら、実は危険千万に思ふ矢先キである、然るに嫌疑を蒙つて居る貴契の身として、此場合に江戸へ出るといふは、余り無謀な話しで、自から死地に就くも同様だに依て、此処から方向を換へて、一刻も早く信州路から京都を志して、暫く嫌疑を避けるのが上分別であらう、と忠告して直ぐに京都の方へ落して遣つたが、其れといふも、一ツには京都の形勢は如何であるか、旁其様子も聞きたいといふ考へもあつたのである、其仔細といふものは、其頃、京都では学習院といふものが立つて、今の三条内大臣が総裁で、諸藩から御寄人といふものが出来て、盛んに国事を論じて居る趣だから、固より逢つたことも見たこともないけれども、京都は攘夷論の根本で、諸藩の有志家も集合して、種々議論もある様子だから、今その実況を知るのは必要である、其故、幕府の嫌疑を避けながら、長七郎に京都行を勧めて遣つたのでありました、


竜門雑誌 第四六一号・第二―三頁〔昭和二年二月〕 【米寿を迎へて】(DK010011k-0002)
第1巻 p.225 ページ画像

竜門雑誌  第四六一号・第二―三頁〔昭和二年二月〕
○上略 東寧は思慮もあり撃剣も立派な腕を持つて居つたが、廻り合せが悪かつた為め、何等の効果もなく、単なる下働きに終り国家社会の表面に現れないで終りました。それにつけても思ひ出さるゝは、坂下門に於ける安藤対島守襲撃のことであります。此挙は東寧も加はる筈になつて居たが、私達は彼に犬死をさせ度くなかつたから我々で切に止めた。そして其の一味から東寧を脱せしめるにも、後暗く逃げるやうなことにしたくない、と云つて過激であつてはならぬと云ふので、尾高藍香が大橋訥庵に引分つて吾々の仲間が不同意だからと主張して、結局東寧は其一味を脱した。若し東寧が此の挙に加つて居たならば、当時日本に一二と云はれた腕であつたから、恐らく安藤対馬守を仆したであらう。然し又其一命もなかつたらう。為すある身を斯様なことで殺すに忍びなかつたから、八釜しく云ふて止めさせた。然るに数年にして病気となり、私が欧洲から帰朝した時遂に三十一才を以て情無い境遇で世を去るに至つた。病気であつたから致し方が無かつたとは云へ、私としては特に親しくした従兄の間柄であり、其の兄藍香は師と仰ぐ人であり、彼の妹は私の妻であつたから、俄に其の人を失つた時の感慨は云ふに辞なき次第であつた。この若くして逝いた東寧のことなどを思へば、私が今八十八才まで生存したことは殆んど奇蹟に近い感があります。○下略
   ○右ハ『米寿を迎へて』ト題スル栄一ノ談話ノ一節ナリ。


渋沢栄一伝稿本 第三章・第五一―五五頁〔大正八―一二年〕(DK010011k-0003)
第1巻 p.225-227 ページ画像

渋沢栄一伝稿本  第三章・第五一―五五頁〔大正八―一二年〕
 - 第1巻 p.226 -ページ画像 
○上略 是より先我国が欧米諸国と国際関係を開きしより、識者の多くは先づ幕府を改造せんことを思ひ、幕府の親族中より英明の世子を迎へて、病弱なる将軍徳川家定を輔翼せしめんとする者あり、当時名諸侯の誉高かりし徳川斉昭 水戸前藩主 松平慶永 越前藩主 山内豊信 土州藩主 島津斉彬 薩州藩主 伊達宗城 宇和島藩主 板倉勝明 安中藩主 等、皆此説を唱へ、幕府の有司中にも亦之に和する者あり、かくて斉昭の第七子にして一橋家を相続せる徳川慶喜を養ひて、家定の嗣子たらしめんとする運動起りしが、大老井伊直弼 彦根藩主之を喜ばず、却て威圧を加へしかば両派の軋轢甚しく、遂に安政の大獄となり、其反動は桜田門外の事変を生じ、世情漸く険悪を加へたり。爾来志士・浪人の幕府を非議し、過激なる運動を企図する者多く、遂に井伊直弼の旧幕僚にして其遺策を継承せる老中安藤信正磐城平藩主を排除して幕府改革の端緒を開かんとするに至る。此計画は最初長藩士木戸孝允 時に桂小五郎と称す 松島剛蔵、水戸藩士西丸帯刀《リイマル》・岩間金平の手に企てられ、後には長藩士周布政之助・宍戸九郎兵衛・小幡彦七水藩士原市之進・野村彜之介・下野隼次郎等も加盟して、其歩を進めつゝありしに、其頃長藩は永井雅楽の建策を容れ、公武合体を以て朝廷・幕府に進説するの際なりしかば志士の過激なる行動を喜ばず、木戸孝允等を検束せしが為に、水長両藩士の密約は遂に行はれざりき。此を以て水藩の志士は、更に宇都宮藩士大橋順蔵 訥庵 菊池教中等と結びて、重ねて安藤信正襲撃の陰謀を企てたり。
此頃尾高長七郎の名声漸く志士の間に高く、四方の壮士の長七郎を訪ひて事を図る者尠からざりしが、長七郎は折しも来遊せる多賀屋勇と共に、輪王寺宮公現親王 後の北白川宮能久親王 を奉じて兵を日光山に挙げ、徐に時変を窺はんと企て、文久元年十月両人相携へて水戸に赴き、原市之進を誘ひしに応ぜざりしかば、菊池教中を宇都宮に、大橋順蔵を江戸に歴訪して之を誘へり。教中は直に同意せしも、順蔵は安藤襲撃の計画熟せんとする時なりしかば、此策を非なりとし、固く教中を制して動かしめず、長七郎等の計画は之が為に挫折せり。かくて安藤襲撃の期定まるに及び、順蔵の門人岡田真吾 宇都宮藩士 等は、別に一橋慶喜を擁して兵を日光に挙ぐるの策を按じ、順蔵の助力を請へるに、端なくも幕府の知る所となり、文久二年正月十二日順蔵先づ捕縛せらる。かくて其同士の徒は約を践みて同月十五日信正を江戸城の坂下門外に傷く。幕府ますます驚き、順蔵と交遊せる志士を物色して、之を捕縛すること十余人に及ぶ、多賀屋勇亦其中にあり。長七郎は初め、勇と共に水戸・宇都宮・江戸の間を奔走遊説して輪王寺宮擁立の策を講じたれども、其事の行はれざるを知り、更に大橋順蔵等の計画せる安藤襲撃の挙に参加するの志あり、郷里に帰りて之を家兄藍香に謀る。藍香乃ち先生及び渋沢喜作等を会して密議せるが、皆之を不可となし「今日一人の安藤閣老を除きたりとも、之に代る者は幾人もあるべく、且襲撃によりて幕議を攘夷論に導かんこと覚束なし、寧ろ他の方法を選びて攘夷の実行を期するに若かず」といふに定まりしかば、長七郎は藍香及び先生等の警告を聴きて、暫く蹤跡を潜め、上州佐位郡の国領村《コクリヤウ》に匿る。かくて坂下門の事起りて其同志の縛に就きたる時は、長七郎既に郷里にあらずして幸に連累を免るゝを得たれども僻地潜居の身、
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都門の消息を解せず、多賀屋勇等捕縛せられて、己れも幕府の偵察中にあるをば知るよしもなく、爾後の形勢を探らんが為に、潜に其地を発して江戸に向ふ。
国領村の人福田治助といふ者、一日先生の家に来り雑談の次に、今日長七郎の出府せし由を語りしかば、先生大に驚き、かくては自ら好みて死地に就くものなりと、夜半俄に結束して其跡を追ふ。天明に及び熊谷駅の旅宿にて追及し、密に坂下事変前後の事情を告げ、出府の危険なるを戒め、暫く難を信州に避けて、木内芳軒 通称源五郎に頼るべきを告げしかば、長七郎始めて嫌疑の身に迫れるを知り、深く先生の好意を謝して其言を納れ、一先づ信州佐久郡下県村なる芳軒の家に匿れ、居ること二箇月の後間行して京都に赴き文久三年の春郷里に帰れり、蓋し上国の形勢を探れるものなるべし。


御口授青淵先生諸伝記正誤控 第二四四頁〔昭和五―六年〕(DK010011k-0004)
第1巻 p.227 ページ画像

御口授青淵先生諸伝記正誤控  第二四四頁〔昭和五―六年〕
○上略 御話。
「○中略 これは木内芳軒と云つて信州の農民で兄が善兵衛と云つて相当の物持であつた。芳軒は撃剣家で、詩を作り、藍香と私とが二度行つて友達となつてをつたので、今回これこれで長七郎をやるから置いて貰ひたいといふ手紙を書いてやつたのだ。」

   ○木内芳軒ハ信州南佐久郡岸野村ノ人ナリ。ナホ安政三・四・五・六年の条ニ掲グル資料ヲ参照セヨ。


藍香翁 (塚原蓼洲著) 第四二―四八頁〔明治四二年三月〕(DK010011k-0005)
第1巻 p.227-229 ページ画像

藍香翁(塚原蓼洲著)  第四二―四八頁〔明治四二年三月〕
     (六)坂下の一挙
時に巷説あり。閣老対州 安藤対馬守は外夷の歓心を得んとするの余り、其の愛妾を以て彼に遺《おく》れり。而して幕僚たる堀織部は其の失体を諫めたれども聴かず、仍て屠腹して死せりと。然も其の巷説は真に虚構の雑説たるに過ぎざりしかども、一犬の虚吠は万犬これを実として喧伝せられき。然して此説を耳にせる長七郎氏は、星夜馳せて其の郷里手計に帰れり。
其の帰れる趣意は甚麼《なに》ぞ? 氏等は安藤閣老を刺さんとせるなり。其の要撃の主謀者は、当時小梅に居れる大橋訥庵 順蔵。宇都宮藩儒其人にして、一味の壮士十幾人。かの堀氏の遺志を継で、此事を挙んと為るにあり。翁及び長七氏 男爵、喜作氏等の間に、議論は種々に交されたれども、結局、長七氏が実行委員として此挙に加はるは面白からずと云ふに帰着せり。如何《いかに》となれば、僅に一安藤を刺したればとて、其の分身たる幾個の安藤は御用部屋の中に猶ほ列なるべく、然も其の暗撃の刺衝を以て、幕議果して鎖攘の方向に傾くべきや、是れ太《はなは》だ憑《たた》むべからざるの疑問に属す。我々は恁《かか》る見据なき計画の夥伴《なかま》に入りて可惜《あたら》一命を棄んよりも、更に或る有力なる方法を取りて、目的たる攘夷を天下に実行せしめ、然して自個《じこ》先づ此れが主唱の士と為るに若《し》かず、との大趣意なりき。然も長七氏も亦た終に翁等の意に随へり。
抑も翁が、かの腥羶の臭を攘はむとせらるゝに、区々たる暗撃等の策
 - 第1巻 p.228 -ページ画像 
を用ひず。挙国一致、四方相応じて一時に其事を為すに非ざるよりは到底功を奏する能はずとせられしは、其の持論なりき。然《さ》れば是より先にも、大橋氏の社中たる河野顕三 安藤閣老要撃の一人にして当時は三島三郎と変名す。下野吉田村の人、坂下の変に死す。時に年二十五・多賀谷勇・菊池教中・小島強介・小山朝弘・横田東四郎・川連虎一郎等の諸氏、窃に翁を延《ひ》きて或る挙を企てむとしたりしをも、翁は其事の徒為たるべきを論じて其を抑止《とどめ》られたりき。後又た彼の多賀谷勇は幕吏に追はれ、鮫島雲城氏 後の中井弘氏の潜居せる妻沼《めぬま》の学堂に来り、翁に頼《より》て迅かに兵を挙むと迫りしも、翁又た時機の熟せざるを諭して、金《きん》を与へて去らしめたり。斯くの如くに翁は彼の軽挙と妄動とを禁められぬ。然れば翁が閣老要撃の一挙を視らるゝや、児戯と迄には無からんも、堂々国家を以て己が任とする大丈夫の為す所には非ずとせられしなり。故に当初は烈々火の如き長七郎氏も、其れが一駁に遇うて遽に気焔を息《をさ》め、且つ其の忠告に従うて、郷里を去り、暫く上毛の地に其の踪跡《あと》を潜められたりき。
粤《こえ》て幾日、果して坂下の変は発《おこ》れり。坂下門の閣老要撃。時は文久二年の正月十五日此と前後して長七郎氏が同志の人々は捕はれたり。時に氏は上州佐位郡国領村《こくりやう》新村名は豊受村に在り、然も此等の消息をば知らで在《を》られしに、事変の報は倒《かへ》つて疾《はや》く翁及び男爵が家の手計《てばか》、血洗島《ちあらひじま》の方には聞えたり。其際《をり》なりき、渋沢家の姻戚たる福田氏 繁之進は其の血洗島なる男爵が家に来りて、長七郎氏が、窃に江戸行を思ひ立たれし事を告げぬ。
驚かれしは男爵なり。其《そ》も道理でありし。此日にして長七氏の其歩《あし》を南にするものは、自ら好むで躬《み》を鼎鑊に投ずるに等しきものなればなり。然れども時は既《は》や午夜《こゝのつ》に近し。唯だ倖ひにして知り得たるは、氏が今夜、熊谷泊りてふ一事なり。血洗島、熊谷駅を距つること実に四里余。然れども徹夜急行せば日の出るに先《さきだ》ちて彼地に到るべし。男爵は便《すなは》ち、結束して家を出でられぬ。
馳《いせ》に馳せたり! 馳て而うして熊谷に到れば、暁色纔に屋瓦を染めて秩父颪に凍る霜華《しものはな》いと白し。唯《と》見れば今扃《と》を開けたるのみの一戸あり。
是れ氏が定宿たる小松屋なり。男爵は先づ氏の消息を訊《とは》んとして突《つ》と入れば、看得たり其人の上框《あがりかまち》に腰うち掛けて、今其の草鞋《わらんづ》の紐《を》を結べる処なるを!
 男『東寧、何うした!』
 長『おゝ君は?』
 男『君はじや無い。貴公不知《しら》んか?』
 男『えゝ? 不知んとは、何を知らんか?』
逆旅の店頭、幸ひに人は居らざるも猶ほ甚麼《なに》をか語らるべき。
男『いや些《ち》と用事じや。まあ戸外《おもて》へ一所に……。』
唯《と》有る樹蔭《こかげ》は密話の席《むしろ》に充られぬ。
 男『不知ぬかい! 大橋も縛られた、小島も捕《や》られた。安対《あんたい》は十五日に坂下で傷を負《う》けて、三島を初め六人と云ふものは其場で討れた。で江戸の騒動《さわぎ》は宛《まる》で火の様だ。其中へ貴公のそのそ出掛て見い、直ぐに捕まる。自ら求めて飛蛾《ひむし》に為るも同様だ……。』
此の意外なる報告には、然しもの長七氏も徒《ただ》目を瞪《みは》るのみ。男爵は重ねて、
 - 第1巻 p.229 -ページ画像 
 『手計でも君の身に就ては非常に心配をして居られるで。先生 藍香翁の御考へでは、暫時《しばらく》君を信州へ落したいと言ふ事だ。其れも本道からは危険《あやふ》いから、間道を選んでとの談であつた。』
長七氏も今は策の出る所を知《しら》れぬなり。乃ち男爵に導かれて、妻沼に到り、更に前途を商議して、氏は終に信州は佐久郡なる下県村《しもあがた》の木内芳軒が家に潜まれ。居ること二箇月にして、再び間行して京師へ上られぬ。是れ当時の畿内なる場所は、蒸々として攘夷の気焔の揚る所、就中《なかに》も京師は実に其の乱竈として、激越心《むね》を焼く如き幾多の議論は、彼の怪奇なる釜中より出づ。便《すなは》ち天下の形勢を探らむとするに最も便利なる土地なればなりき。