デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.6.13

1編 在郷及ビ仕官時代

1部 在郷時代

2章 青年志士時代
■綱文

第1巻 p.229-230(DK010013k) ページ画像

文久三年癸亥八月二十四日(1863年)

長女宇多子生マル。


■資料

はゝその落葉 (穂積歌子著) 巻の一・第四―五丁〔明治三三年〕(DK010013k-0001)
第1巻 p.229-230 ページ画像

はゝその落葉(穂積歌子著)巻の一・第四―五丁〔明治三三年〕
○上略 文久三年の秋より冬の頃までの事ども。雨夜譚に大人のものがたらせ給ひし如くなりければ。祖父母の君たちを始め参らせたれもたれも束の間だに御心のどけきことおはしまさゞりけん。さる中に八月二十四日わらはは生れたりけり。御身重くおはしし程より。産屋やしなひの中にさへわたりて。胸をつらぬき身をふるふばかりの御物思ひおは
 - 第1巻 p.230 -ページ画像 
しましけん事は。押しはかりまひらすにも涙のみ先立ちて。つたなき筆にはいかでつぶさに書き尽さるべき。


青淵先生子孫一覧(DK010013k-0002)
第1巻 p.230 ページ画像

青淵先生子孫一覧
渋沢栄一―――宇多《(長女)》
   母ハ前配尾高氏、文久三年八月二十四日生、穂積陳重ニ嫁ス。


穂積歌子 (蘆谷蘆村著) 第三―四頁〔昭和九年一月〕(DK010013k-0003)
第1巻 p.230 ページ画像

穂積歌子(蘆谷蘆村著)  第三―四頁〔昭和九年一月〕
○上略 今から丁度七十一年の昔、文久三年八月二十四日に、今では此の八基村の中の一つの字となつてゐる、其の頃の榛沢郡血洗島の旧家渋沢家に、一人の女児が生れました。父は此の家の跡取り息子たるべき今年二十四才の栄二郎で、母はその妻廿一才の千代子であります。此の二人の夫婦の間には、昨年の二月、すでに市太郎といふ男の子が生れたのですが、秋の初めから、猛烈な痳疹が此の地方に流行し、まだはひはひも出来ぬ市太郎は、あはれにも病魔の犠牲となつて、あの世へ行つてしまつたのでありました。そのあとに生れた女の子ゆゑ、一家のよろこびは格別。名をば歌子とつけ、一家こぞつて、抱いたりかかへたりの大さはぎです。幸ひに母千代子の肥立ちもよく、お乳もたくさんあつて、赤ん坊は日ごとにまるまると肥り育つてゆきました。臍帯神さまにあやされるとかいひますが、母の膝の上に眠りながらにこにこと笑ふ嬰児の顔は、まことに可愛いものです。しかし、無心に笑つてゐるこの嬰児の上には、大きな運命がかかってゐたのでありました。
 無心の笑ひが、有心の笑ひになり、おすはりができて、はひはひが出来てちよちちよちあわわが出来て、こゝまでおいで、甘酒進上と、手拍子につれて、よちよちと歩きだすやうになつた幼女の周囲には、何時もさびしさの影がありました。何故のさびしさ。それは父親が居なかつたからであります。
 歌子さんは、物心ついた時から。父の顔を知りません。母の千代子と、祖父母とは、一人の幼女を、父の忘れ形見でもあるかのやうに、いつくしみ育てながらも、家の中にただよふ寂寥の影を追ひ払ふことが出来ませんでした。○下略