デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.6.13

1編 在郷及ビ仕官時代

1部 在郷時代

2章 青年志士時代
■綱文

第1巻 p.230-249(DK010014k) ページ画像

文久三年癸亥八月(1863年)

是年春再ビ江戸ヘ出デ海保塾及ビ千葉塾ニ入ル。居ルコト四ケ月、其間屡々帰郷シテ攘夷ノ事ヲ議シ、七月曩ニ坂下門事件ニ闘死セル河野顕三ノ春雲楼遺稿ヲ刊行ス。是月従兄尾高惇忠・同長七郎・渋沢喜作等ト謀リ、兵ヲ挙ゲテ火ヲ横浜港ニ放チ、外人ヲ鏖殺シ、以テ攘夷ヲ実行セントシ、来ル十一月十二日ノ冬至ヲ期シ先ツ高崎城ヲ攻略シテ之
 - 第1巻 p.231 -ページ画像 
ヲ本拠トスルニ決ス。而シテ此前後武器等ノ準備ヲ為ス。


■資料

雨夜譚(渋沢栄一述) 巻之一・第二一―二三丁〔明治二〇年〕(DK010014k-0001)
第1巻 p.231-232 ページ画像

雨夜譚(渋沢栄一述)  巻之一・第二一―二三丁〔明治二〇年〕
○上略 二十四才の春、即ち文久三亥年に、自分は又江戸へ出て、海保の塾と千葉の塾とに這入つて、塾生をした、此時は来たり帰つたりして足かけ四年計りの間であつたが、其中に段々思考して、終に一の暴挙を企てやうといふことを工夫した、それは如何なる訳かといふに、朝廷からは始終不易に攘夷鎖港の勅諚があるにも拘はらず、幕府に於ては何時迄も因循して居て、今に朝旨を遵奉せぬといふのは、即ち夷狄是膺、荊徐是懲といふ格言に背いて、征夷将軍の職分を蔑如するものである、如斯姿では、目前洋夷のために、我神州を軽侮される次第で、万々一にも、此後若し城下の盟ひをする様に、通商条約でも許したならば、其社我国体を汚辱するものと謂はねばならぬ始末である。仮令和親をするにもせよ、先づ一度は戦つて、相対の力を比較した後でなければ、和親といふものではない、ナニ彼に堅艦巨砲があつても我には所謂大和魂を以て鍛錬した日本刀の鋭利があるから、手当り次第に、斬て斬て斬り捲らう、といふ向不見の野蛮な考へであつて、今から見ると寔に笑ふべき話に過ぎぬけれども、其時は攘夷一途に思込んだ頭脳だから、所詮此幕府で攘夷などは出来ぬ、其うへ最早徳川の政府は滅亡するに相違ない、何故だといふに、世官世職の積弊が既に満政府を腐敗させて、詰る処、智愚賢不肖各其地位を顛倒して仕舞つた、士気の沮喪、人心の解体した、現今の有様でも明らかに分ることである、故に此際一度天下の耳目を驚かすやうな、大騒動を起して、幕政の腐敗を洗濯した上でなければなければ、到底国力を挽回することは出来ない、我々は農民とはいひながら、苟も日本の国民である以上は、我本分の務めでないから、といつて傍観しては居られない、迚も十分の事は為し得られまいが、一番、目覚しく血祭りになつて、世に騒動をひき起す階梯にならうと考へたので、これが前にも申した、暴挙の要旨でありました、去りながら二人や三人で、外国人の中へ斬込むだ所が、それでは生麦一件位の事で、又償金で済むから、兎ても志を得ることは出来ぬ何でも幕府の保ち得られぬといふ様な、一大異変を起すには、如何したらよからうかといふ事を、種々考へて相談をした、其れも多勢の相談ではない、尾高惇忠・渋沢喜作の両人と自分と、都合三人で密議を凝らしたのであつたが、終に一案を立てました、其密議の一案といふのは、即ち一挙に横浜を焼き撃ちして、外国人と見たら、片ツ端から斬殺して仕舞ふといふ戦略であつた、併し横浜襲撃の前に、先ツ高崎の城を乗取て、兵備を整へた上で、高崎から兵を繰り出して、鎌倉街道を通つて横浜へ出れば、通行も容易である、江戸を経過する時は、如何に懦弱だといつても、諸大名なども居て、彼是面倒であるから、鎌倉街道に依るといふ軍法で、随分乱暴千万な話しに相違ないが、是れが若し果して其時に実行したことなら、自分等の首は、二十三四年前に飛で仕舞つたであらう、併し其時は、極真面
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目で、所謂満腔の精神を籠めて諸事を謀議しました、謂はゞ此手筈は斯くすべし、彼の方法は斯様にありたし、又兵器とても、鉄砲は用意し得られぬから、槍と刀とを用ゐることにしやう、其他の用具に至るまで、春以来秘密に買調へたが、詰り万一を僥倖する仕事だから、ドウセ甘くは出来まいが、出来ぬ所が、一死以て止むといふ決心で、刀なども此処で買ひ彼処で買ひして、尾高が五六十腰、自分が四五十腰其外着込みといつて、鍛い皮を鎖りで亀甲形に編み付ケた、剣術の稽古着の様なものから、提灯、其外必用の物の具までも、相応に用意して買集めた、其金は、藍の商売をした勘定の中から、父に隠して支払つたが、凡そ百五六十両位であつたと思ひます、其れから銘々竹槍を持つて、高張提灯を押立るといふ趣向だから、丸で昔しの野武士の様な扮装《いでたち》であつたらうと考へます、
偖て此徒党中の重立つた人々は、尾高両人に、喜作と自分との外に、千葉の塾で懇意になつた真田範之助佐藤継助竹内練太郎横川勇太郎、海保の塾生で中村三平抔で、其他は、親戚郎党の中から、彼是集めて以上六十九人計りあつたかと記憶して居ます、此人々は極秘密に色々の準備をして、俄かに起て不意に高崎に夜打ちを仕掛けて、其城を乗り取らうといふ軍略であつた、其処で此事を発するには、焼打ちが第一だから、何でも火早い時節がよからうといふので、彼の諸葛孔明が風を祈る様な心持で、先づ冬といふ考へを付けて、其歳、即ち文久三年の十一月二十三日と決定した、蓋し此二十三日は冬至に相当して、一陽来復といふ、頗る芽出度吉日であるから、おのづから、彼の陽気発処金石皆透、精神一到何事不成、といふ意味を含蓄して、取極めたのである、
此の事を決定したのは八月頃であつた、○下略
   ○二十三日ハ誤リニシテ、冬至ハ即チ十二日ナリ。


竜門雑誌 第三一三号・第三五―三七頁〔大正三年六月〕 【青淵先生懐旧談】(DK010014k-0002)
第1巻 p.232-233 ページ画像

竜門雑誌  第三一三号・第三五―三七頁〔大正三年六月〕
▲高崎夜襲横浜焼撃 徒党の重立つた人々は、尾高兄弟に喜作と自分との外将官株は千葉の塾で知己になつた真田範之助、佐藤継助、竹内錬太郎、横川勇太郎及び海保の塾生中村三平などで、これらは孰れも文武の能を以て帷幄の議に参し、其他は尾高と予の親戚郎党の中から腕強く気壮なる者が選ばれていづれも小頭の列になつた、総勢挙つて六十有九名、之を統率するは実に藍香と喜作と予とで一発大義を天下に唱へんとする凄殺の気は、陰々として武の北辺刀水の湄に充ち盈ちた、が、号令の厳粛と規約の堅固とは、その事の気勢だも党外の者に示めさず、従容たる藍香は算盤を手にして藍を売り、予は何気なく田畑に出でゝ農事を督し、風雲の会の底事たるかを知らざるの体にあつた、されば岡部の代官も之を悟らず、八州の手先も之を探り得ず、震天動地の挙、一旦其鉾を収めたる後は寂として物無きが如く山雨来らんとして風楼に満つの慨があつた。
 目的は攘夷遂行と封建打破、然して其手段とは果して何? 开は一挙にして横浜の洋館を焼撃ちすると云ふ暴挙、其の前提としては先づ上州高崎城を夜襲して之を攻陥し、兵備を整へた上で高崎から兵を繰
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出し、鎌倉街道を真一文字に横浜を衝て素志を遂げ、更に徐ろに関八州を徇へて天下の形勢の一変を竢といふ策略であつた、事遂げずして仆るればそれ迄、我々は草木に等き、農民には過ぎぬが、苟くも日本国民である以上忠君愛国の情に二つは無い、爰一つ農民より率先して革命の烽火を揚げやう、迚ても充分なことは出来ぬが軍陣の血祭位は出来やうといふ、今から考へれば迚も正気の沙汰とは思はれぬが、其時に在ては決して他に雷同したと云ふではなく真に溢るゝ如き赤誠によつて動いたのであつた。
 高崎から横浜へ出るに鎌倉街道を択んだと云ふ事に就ては一言しなければならぬ、江戸街道を通るのは一番の捷路であるが、江戸を経過する時は如何に懦弱といつても旗本や諸大名もゐるから彼是事面倒になる、さうかと言つて右へ出ると秩父寄になつて山路ばかり、それより中央を通れば、高崎から吉井へ出て、八王子、拝島、飯能、箱根ケ崎を経て行く鎌倉街道に由る方が安全であるとの軍法であつた、六十九人の手で高崎城を陥れ、横浜を焼打ちにする、今の人達から見たら随分無謀な事をしたものだと思ふかも知れぬが、当時の自分達は極めて熱心に所謂満腔の精神を籠めて諸事を謀議したものである。
 其処で此事を発するには焼撃が第一だから、何でも火早い時節が好いといふので、三国志や八犬伝から学んだ軍法を応用し、彼の諸葛孔明が風を祈る様な心持で先づ冬期といふ考をつけ、其歳即ち文久三年十一月廿三日と決定した、蓋し此日は冬至に相当し一陽来復といふ慶たい日であるから彼の『陽気発処金石亦透、精神一到何事不成』といふ意味を含蓄して取極めたのである。而して城攻の方法は八犬伝に里見義実が始めて安房の滝田の城を取つた故智を学び、百姓に提灯を持たせて『お願が御座りまする』と訴へさせて城門を開かせ、無二無三に闖入して一挙に城を奪んとの小説的謀略であつた。
   ○右ハ『青淵先生懐旧談』ノ一節ナリ。


竜門雑誌 第三一四号・第三五―三七頁〔大正三年七月〕 【青淵先生懐旧談】(DK010014k-0003)
第1巻 p.233-234 ページ画像

竜門雑誌  第三一四号・第三五―三七頁〔大正三年七月〕
▲兵器調達に奔走す 扨て兵器は怎麼ものを用ひるのかと云ふに血洗島界隈では鉄砲は一挺もある筈なく、江戸へ出て求めやうにも、それこそ幕府の嫌疑をうける導火線となる訳であるから、それは遺憾ながら思ひ止まる事とし、其代り槍と刀は充分手に入れやうといふので、其年八月の決案以来私が調達の任に当つて密々に江戸へ下つた。藍の買入の為とて父から預かつた三百両ばかりを懐にして。
 秋は既に山野に催ふして、脚袢の塵の風を傷み、俯く笠に落つる日脚も旅の泊りに短かく暮れて、行手を急ぐ一路の傍に、ぽちりぽちりと灯しの家居の声が頼りなく聞えた。江戸へ近づくほど幕吏の警めも厳しいので、王子辺からは旅商人に姿を変へ兎も角も辛との事で草鞋の紐を解いたのは、神田柳原町の武具問屋梅田慎之助方であつた。
 この梅田慎之助と云ふ男は、遉に武具を商ふ位あつて、侠気のある確乎した男で、好んで我等の攘夷論に耳を傾ける位の見識も具え、日頃から天野屋利兵衛を気取る男であつた、以前から撃剣道具の取引をした縁故もあり、喜んで我等を待遇して呉たもので遊学の折などは時
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偶泊つた事もある程の仲であるから、この男をと見込んで扨こそ今度の武具調達を頼む心算であつたのである、自分が突然平日とは打て変つた商人姿で行つたのを見て、慎之助はさも驚いた風であつたがそこは苦労人であるから早くも大体の趣意を察したらしく、五七人の職人がまだ寝ずに店先に騒めいてゐたのを裏の方へ去らせ、自分で濯ぎの水を運んで呉れたりして早速土蔵の二階へ案内して呉れた。そこで件んの刀槍買入の事と、剣術に用ふ稽古着の注文を持ち出すと、慎之助は眤と私の顔を見てゐたが、軈がて『旦那、それは一体何うなさるお意で』と言ひ終るをも俟たず『夫は今は言はれぬ、お前を男と見込での頼みだ、何うか諾と云つて貰ひたい』と言ふと『宜うがす、俺も一度は旦那方の御用に立ちたいと思ふてゐました、長い事は申しません御窮屈でも十日の間この土蔵に匿れてお出なさい』と小気味よく承知して呉れた。
▲今様天野屋利兵衛 慎之助が雄々しい然諾の一言に、自分は吻と重荷を卸したやうな安心を覚えて直ぐにお玉ケ池の千葉の道場に居る真田範之助以下の同志へ使をやり、土蔵の二階に蟄伏しながら様々に軍議を凝らしつゝ、心静かに軍器調達の日を俟つた。この慎之助は既う故人になつたが、明治の御代になつてからは、寄席白梅亭の主人となり、自分が大蔵省出仕時代にはよく遊びに来て昔語をし合つたものである、妻君は体の大きな鉄火肌の女で、夫に劣らぬほどの気性の烈しい方であつて、伜は新太郎と云ひ、これも既う歿つたが慎之助に一人の妹があつた、頃日娘をつれて尋ねて来て、様々の昔語りをして帰つた、其頃は人形遊びに余念もなかつた年頃であるが、既う白髪梅干婆さんになつたのを見て、自分は無量の感慨を禁じ得なかつた。
 扨て刀槍の類は慎之助の働きで、間もなく百二三十腰と云ふものを買整へたが一方の着込みの方はこれは剣術に用ふ稽古着のやうのもので、牛の鍛皮を鎖で亀甲形に編付け、大抵の刀では斬つても容易には切れぬ、それが最も重要なる武具であった、これが八九十枚出来あがつたから、その外必要の物の具に至るまで相応に買集めた、実戦の場合には今の着込を着て、兜の代りに撃剣用の面を被り、銘々竹槍を持つて高張提灯を押立てると云ふ趣向だから、宛然昔の野武士のやうな扮装であつた、これらのものが恰度十日目の夕刻までに悉皆整つたから、慎之助の手で雑穀類と言拵らへ、一方は馬で陸路を血洗島へ、一方は小船町から利根通ひの早船に乗せて利根畔の隣村中瀬の廻船問屋石川五右衛門と云ふものゝ所へ送つた。
 斯くして準備は悉く整つた、時日は十一月二十三日と決定したが、一方の大将たる尾高長七郎は未だ還らぬ、便ち急使を京都に馳せて長七郎の帰郷を促がし、義を金鉄に比し、死を神明に誓へる壮士六十九名、各々横浜の天を睨んでは慷慨し、京都の空を望んでは東寧の帰りを俟つた。蕭々たる悲歌を赤城颪にその壮を加へて軍威頓に昇つた。
○下略
   ○右ハ『青淵先生懐旧談』ノ一節ナリ。


御口授青淵先生諸伝記正誤控 第六〇―六一頁〔昭和五―六年〕(DK010014k-0004)
第1巻 p.234-235 ページ画像

御口授青淵先生諸伝記正誤控  第六〇―六一頁〔昭和五―六年〕
 - 第1巻 p.235 -ページ画像 
又問「先生が文久三年暴挙決行の計として、先づ高崎城を乗取らるゝと定められた。その城を高崎城と目星をおつけになつたのはどういふ訳でございますか。」
御答「あまり小さい城も困る――足場にするに足らぬから。又大きいのも一寸手におへない。高崎城ならば七八万石の大名で乗取るにも易し、手頃だつたと考へたからである。」


渋沢栄一伝稿本 第三章・第五五―六一頁〔大正八―一二年〕(DK010014k-0005)
第1巻 p.235-237 ページ画像

渋沢栄一伝稿本  第三章・第五五―六一頁〔大正八―一二年〕
万延元年井伊直弼桜田門外に斃れ、文久二年安藤信正亦坂下門外に傷きてより、幕威の陵夷日に甚しく、攘夷論の勢力は燎原の火の如く尊王論と和して国内に蔓延せしかば、変を窺ふの徒諸方に起り、志士・浪人の国事に奔走する者漸く多く、隠然として天下の一勢力たり。
之と前後して関西の雄藩も亦活動を開始し、遂に薩長勢力の衝突より破約攘夷を標榜せる長藩は志士・浪人の勢力を羽翼とし、朝廷を擁して其目的を達せんとす、勢の激する所、此に討幕親征を含める大和行幸の公布となり、上国の風雲転た急なり、其波動の地方に及ぶべきは自然の趨勢なり。かゝる折しも先生は文久三年の春再び江戸に出でゝ海保塾に遊び、傍ら千葉道三郎 周作の三子に剣を学び、滞在四箇月ばかりにて郷に帰る、其間屡郷里江戸の間を往来せりといふ。此時に際し先生は深く時事に慨する所あり、身を以て国に許さんの志を立て、其滞府中は力めて有志の輩を物色し、将来事を共にすべき人物を得んことに苦心せり、帰郷の後に及びて公憤益壮に、私に思へらく「朝廷にては屡鎖港攘夷の御沙汰を下さるゝに、幕府は因循して命を奉ぜず、これ征夷大将軍の職分を尽さざるものなり、此の如くんば遂に外夷の軽侮を招き、国体を汚辱するに至らん、仮令和親すとも、一たびは必ず兵匁の間に相見えざるべからず、然れども幕府は世官・世職の余弊を承けて、智愚・賢不肖其地位を顛倒し、今や衰亡に瀕したれば攘夷の実行は得て期すべからず、されば草莾の士蹶起して天下の耳目を聳動せしめ、幕政の腐敗を一新せる後にあらざれば、国力の挽回は望み難かるべし、余輩農民たりといへども、徒に袖手傍観して已むべきにあらざれば、寧ろ一身を犠牲にして改革の端緒を開かんのみ」と。而して藍香も亦思へらく「公平の制度を立て、公明の政を布き、民と共に此国を守らんとせば、郡県の治に拠らざるべからず、かの門閥を尊びて才徳を重んぜず、国家の枢軸に位して治国の要を知らざる者、安ぞ天下を料理し国威を皇張することを得んや、されば今日の急務は政体の改革にあり、かの大老を斬り老中を傷くるが如きは姑息の手段のみ。若し夫れ封建の弊を破りて郡県の制を建て、海内一家の実を挙げんか、攘夷の事始めて行はるべし、又国富み兵強きに至らば、海外諸国と対等の交際を為し、国威を張るを得べし、然らずして交を海外の諸国と締結するは、城下の盟のみ、何の和親かあらん。能く我が富強の実を挙げ、和好の規を結ぶ所以は、唯だ封建を廃して郡県に復し、大小の官吏其器に応じ、其才に従ひ、其職を授くるにあるのみ、此目的を達せんには非常手段に依らざるべからず」と。長七郎及び喜作も先生等と同意見なりしかば、乃ち相議し兵を関東に挙げて事端を開
 - 第1巻 p.236 -ページ画像 
き、徐に時勢の変を伺はんと決したり、これ実に文久三年六七月の事なりき。而して挙兵の名は、当時の大勢力たる攘夷論を標榜して人心を繋ぎ、以て其同志を糾合せんとするなり、其手段としては、其年の冬至十一月十二日一陽来復の日を以て、先づ上州高崎城 藩主松平右京亮輝照を夜襲して之を奪ひ、更に兵備を整へたる後、鎌倉街道を経て横浜居留地の焼討を行ふにありき。
此時に際し、桃井儀八にも亦挙兵の計画あり、儀八は武州北阿賀野 いま大里郡八基村に属すの人にして、名は誠、可堂と号す、東条一堂 上総夷隅郡の人。の門に遊びて才学の誉あり、後庭瀬藩主板倉勝資に聘せられて其師範たり、江戸の藩邸に出入するの傍ら、帷を下して子弟に教授す。安政以後、慷慨時事を憂ひて広く天下の志士と交り、文久三年の春に至り密に長藩士と約する所あり、三月庭瀬藩の禄を辞して本国に帰り、隣邑中瀬村に居を定め、旧に仍りて子弟に教授したれども、そは表面を粉飾するの方便にして、其志は挙兵に存するが故に、帰国の後幾もなく、先づ新田氏の後裔として知られたる上州の名族岩松満次郎 俊純を同国新田郡田島村に訪ひて、謀議を重ねたる後、更に上武各村の有志を糾合するなど、殆ど寧日なく、又屡手計・血洗島の両村にも来り、なほ門下子弟を江戸其他に遣りて計画する所ありしが、八月の初、儀八の長男八郎が、江戸の長藩邸に於て同藩士及び梅村真一郎 島原の人権藤真卿 久留米の人、後に古松簡二と称す等と会見せしは、并に其謀議を重ねしなるべし。抑儀八の計画せる所は、中瀬村を中心として、有志を上武及び越後 儀八の門人越後にある者多きが故なりに募り、岩松満次郎を推して主将となし、一挙して沼田の城を抜き、進みて横浜を襲ひ、形勢不可なる時は沼田の険要を扼して四方の饗応を待たんとするにあり、乃ち十一月十二日冬至を以て其期と定めたり、是れ初より長藩と謀を通じたるものにして、其軍資の如きも同藩より供給せるが如し。蓋し長藩は京都を中心として討幕の策を講じ、大和行幸即ち攘夷親征の名を藉りて之を実行せんと考へたれば、儀八等を幇助して、幕府の本拠たる関東の地を騒擾せしめ、幕府に後顧の患あらしめんことは、其希望せる所なりき。儀八が兵を上毛の地に挙ぐるは、元弘の昔、新田義貞が鎌倉を突きたる故智を学ばんとするものなれば、新田氏の後裔たる岩松満次郎を推戴せんとするも、亦意義なきにあらず。此計画は、諸藩有志の間にも聯絡ありてか、此前後に於て諸藩有志の来りて儀八を訪へる者多く、前記数人の外に、福原美禰助・大楽源太郎以上長州水田謙次・池尻岳五郎以上久留米広田精一宇都宮等は其重なる者なりき。
桃井儀八が挙兵の計画を立てたる時、屡手計・血洗島の両村に来れることは上に述べたるが、今其日記を閲するに、三月二十八日の条に、「油屋新五・長五・兄弟を訪ふ、在らず」七月二十三日の条に、「尾高長太郎来る」、又七月晦日の条に、「手計に長七郎を訪ふ」など見えたり油屋新五は即ち藍香なれば、長五は長七郎の誤なるはいふまでもなく長太郎といへるも、同じく長七郎の誤なるべし、なほ儀八は此際先生の宅にも来りしことありといふ。加之七月某日先生は喜作と共に中瀬村に儀八を訪へるなど、両者の関係やゝ熟せるを見る。はじめ儀八の先生及び藍香兄弟と会見するや、其同志の一人として加盟せんことを
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求めたれども、先生等は文弱の老儒何事をか為すべきとて、心密に之を侮り、其請に応ぜざりき。思ふに先生等の計画は儀八に刺激せられて起り、別に自ら一隊を組織して事を遂げんと欲したるものなるべし。先生等が挙兵の策を決したるは、儀八来訪の後にあるを見ても、之を察するに難からず。然れども既に兵を挙ぐる以上、同志の多きは其喜ぶ所なれば、ほゞ儀八と同一の行動を取り、互に連絡を保ちつゝ事を為さんとしたるにて先生等の中瀬行はそれらの打合せの為なりしか。要するに先生等は儀八の計画には加盟せざれども、さりとて又全くの無関係にもあらず、同時並び起るの約束は成立せるものに似たり。


藍香翁 (塚原蓼洲著) 第四九―五四頁〔明治四二年三月〕(DK010014k-0006)
第1巻 p.237-238 ページ画像

藍香翁  (塚原蓼洲著)第四九―五四頁〔明治四二年三月〕
     (七)非常手段
文久三年、翁、擢でられて手計村の里正《なぬし》となる。是より先、文久元年、既に名主役見習となられき時に歳三十五。気力方《まさ》に剛にして、智慮亦た熟するの時、而して天下の形勢は月に危くして、事は日に非なり。此に於てか翁、乃び男爵、喜作氏等は、或は江戸に出で、或は遊歴して、陽《あらは》に交りを志士に結び、陰《ひそか》に約を郷勇に固くして、後来其所志を行はむとするの地盤なるものを造られたりき。其の大事《こと》を做《なさ》んとするの趣意に曰く、
 公平の制度を立て、公明の政治を布きて、民と共に此国を守らむには、郡県の国体ならざるべからず。彼の官を代《よゝ》にし、禄を世《よゝ》にし、所謂る門閥なるもの而已を尊むで、人の才と徳とを問はず。国家の枢軸たる大官にして、治国の要を知ざる者あり。牧民の責ある地方吏にして、民家の痛苦を問ざる者あり。所謂る鎗奉行は鎗術《りや》を知らず。勘定奉行は算盤を知らず。旗奉行、旗の揮《ふ》り方に暗ければ、町奉行、また市政の方針を弁へず。如是《かか》る情態《ざま》にて此の天下を料理し国威を維持せむと欲するは、かの木に縁《より》て魚を索むると一般にして猶ほ轅《ながえ》を北にして越《えつ》に行んとするがごとき而已。恁くの如きは抑も何故ぞ。予輩を以て之を見れば、曰く、封建の弊なり。世官《せいくわん》の害なり。故に今日の病は、其の根本の制度に在て存するなり。決して彼の大老井伊を斬り、老中安藤を傷けたるが如きを以て、之を改正釐革するを得べからず。然《さ》れば、此の封建の弊を破りて、郡県の制を建て海内一家。家即ち国、国即ち家にして後、始て能く攘夷成るべく、鎖国亦た行れむ。縦《よ》し開国は機運にして、終に彼等と和親の運びに到らむも国にして富み、兵にして強からん乎、吾又た彼を恐れずして、対等の交友たるを得べきなり。否《しか》らずんば、城下の盟《めい》のみ。狗彘《こうてい》の奴隷のみ。何の和親か有らむ。交友か有らむ。故に曰く、我に富強の実を挙げしめて、彼と和好の親を結ばしめむも、亦唯だ封建を廃し、郡県を復して、大小の官吏等、其器に応じ、其才に対して其職を授けむに在る而已。云々。
と。而して此の封建の今《いま》を廃して、郡県の古《いにし》へに復《かへ》さんとするには、勢非常手段なる者を執ざる可らず。すなはち世人の脳底に一大震盪を与へて、其の眼目を一新する程の挙措を作《な》すを要す。とは主謀者たる翁、男爵、喜作氏等の計画なりき。
此の大事を決行せんには、順序として志士の糾合を其の第一着手とす
 - 第1巻 p.238 -ページ画像 
べし。此の趣意に由りて男爵、喜作氏等は其の前年よりして江戸に出で或は海保氏の塾に入り、又た千葉氏の門に遊びて、窃に同盟の壮士を募られたるが、更に此時、一橋家の家来平岡円四郎、川村恵十郎なる二人とも交りを締ばれたりき。是れ一つは平岡氏が有為の材なりしを慕はれたると、他の一つは、其の一橋家に出入するとの名に藉《よ》りて、幕吏が追跡の難を避け、以て其の党与を集むるの便益を計られたる苦肉の策なりし。然して此等の手段に由りて此挙に同ずる者、既に幾十の多きあり。就中《なかにも》。海保氏の塾生なる中村三平、千葉氏の門下たる真田範之助以下五六名の如きは、文武の能をもて、延《ひか》れて帷幄の議に参し。又た翁及び渋沢氏が親属故旧の中《うち》にして、腕強く、気壮なる者は選ばれて小頭《こがしら》の列にあり。之を統率するは実に翁と両渋沢氏にして。一発大義を天下に唱へむとする凄煞《せいさつ》の気は陰として武の北辺、刀水の湄《ほとり》に充ち盈《みて》るが。号令の厳粛と規約の堅固とは、其事の気勢《けはい》だも党外の者に知らしめず。従容たる翁は、算盤を手に藍を売り、勤勉なる両渋沢氏は、田畑に出でゝ農事を督《たゞ》す。其の部下の熊虎たるべき鋭士猛卒も各々鋤鍬を把《とり》りて耕耘に勤め、風雲の会の亦た底事《なにごと》たるかを知らざる者に彷彿《さもに》たり。然《さ》ればにや、領主も竟《つひ》に之を悟らず、代官も亦た探り得ず。震天動地の挙、一旦其鋒を収めたる後は、寂として物無きが如くにして、討《たづ》ねんと欲するに形迹なし。翁等が智略、亦た敬服すべき哉。
目的は既に述《のぶ》るが如し。攘夷遂行と封建打破。然して其の手段は如何。翁等が計画は横浜洋館の焼撃に在り。其の焼撃を為す前提として、高崎を夜襲して其城を奪り。勢を利して直ちに横浜を衝き。更に徐ろに関東を徇《とな》へて、天下の形勢の一変を竢《ま》つ!実に如是《かくのごと》きものなりき。或は曰く、此時隣村中瀬に寓する儒者桃井可堂氏あり、其の二子八郎、宣三と共に、上州沼田に拠りて兵を挙むとす。翁窃かに之と会して、我が挙にして倘し成らずむば、子等宜しく其の後継者たれ。との旨を約せられしとの説もあり。然《しか》も翁及び両渋沢氏等は其の挙兵の期を、一陽来復てふ此年の冬至の日文久三年十一月と決めたり。
時日は定まりぬ。なれど、一方の大将軍たる長七郎氏は未だ還らず。便《すなは》ち急使を馳せて一面には之れを迎へ、氏が一方の大将として、此党に頼まれたるは、無論、其の人物の卓偉なるに在るも、一は其の剣法の非凡なりしが為めなりと云ふ。其の技芸の妙の如きは此れを後章に詳悉しくせむ。他の一面には、兵器を購うに奔走せり。其の兵器は、首に刀槍にして鳥銃は少なし。是れ其物の得易からざると、携帯に人目を惹くの惧れあると、又た其の党中に、妖気を攘はむには宜しく神州の精気たる日本刀を用ふべしとの議論ある等にて、翁は六七十振の刀を江戸にて新たに買れたり。又た防身具には、半冑、着込を用ふる事とせり。
既にして兵器も整へり。乃ち私《ひそか》に着到を注《しる》すに、大将たる翁、副将たる両渋沢氏を外にして、義を金鉄に比し、死を神明に誓へる壮士六十九名! 各々横浜の天を睨《にら》むでは慷慨し、京師の空を望みては長七氏の帰りを待つ。粛々たる悲歌も赤城颪に其壮を加《ま》す十月二十七八日の頃なりき。
 『兄上、長七郎今帰りましたぞ。』
長七氏は実に帰着せるなり。一軍踴躍、一大藩の新たに来り加はれるものゝ如し。


藍香翁 (塚原蓼洲著) 余録・第八―九頁〔明治四二年三月〕(DK010014k-0007)
第1巻 p.238-239 ページ画像

藍香翁(塚原蓼洲著)  余録・第八―九頁〔明治四二年三月〕
 - 第1巻 p.239 -ページ画像 
      ○重代の鎧
攘夷の挙に熱心なる翁が、渋沢男爵喜作君等と一同して、横浜を襲ひ且つ高崎城を奪はむとしたるを、家弟長七郎氏に諫められて、一旦思ひ止まられし事は、之れを本編に詳細《くはし》くせり。然るに其際《をり》、此の一挙の用にとて調達《とゝの》へたる武器類は、翁が郷里、下手計村字下新田なる植木屋、松村紋次郎なる者其党の一人の奔走にて、品物をも購入れ、運送をも為せしなりと云ふ。其の松村が手段はと聞けば、彼の武器類をば、江戸の骨董店《ふるだうぐみせ》にて購ひ、夜間《よのま》をもて、両国、或は千住より之れを船に積み、其上には薪、又は商売物なる植木などを排《なら》べ、江戸にて仕入れし貨物《しろもの》を国許へ送る如くに外見《よそみ》を仮粧《しつら》ひて、利根川を上《のぼ》り、中瀬村より陸揚して、同じく夜陰に翁が家内《やうち》に運入れたる者なりと云へり。なれど其挙も息《やみ》ぬ。右の武器類は再び彼れ松村自身して何処へか取片附けし。○下略


渋沢栄一伝稿本 第三章・第七〇頁〔大正八―一二年〕(DK010014k-0008)
第1巻 p.239 ページ画像

渋沢栄一伝稿本  第三章・第七〇頁〔大正八―一二年〕
○上略 初め先生等が挙兵を策するや、専ら郷党近在諸村の子弟を物色し又交遊中の有志をも語らひしが、其姓名の伝はれる者を挙ぐれば、千葉の塾生真田範之助・佐藤継助・竹内練太郎・横川勇太郎・海保の塾生中村三平等にして、総人数僅か六十九人に過ぎざりき。かくて藍香は同志中の長者を以て主将の任に当り、先生及び長七郎・喜作等は、各一隊に長たるの予定なりしといふ。此の如くにして武器の用意は整ひたり、同志の面々は、前後手計・血洗島の両村に集まれり、今はただ尾高長七郎の帰るを待つあるのみ。


はゝその落葉 (穂積歌子著) 巻の一・第四丁〔明治三三年〕(DK010014k-0009)
第1巻 p.239 ページ画像

はゝその落葉(穂積歌子著)  巻の一・第四丁〔明治三三年〕
○上略 此頃の世のさま年々にますますおだやかならず成り行くにつけてかねてより国を憂ひ。世を憤りおはしましける我大人。尾高の伯父君たち。及び御従兄なる渋沢成一郎ぬし喜作ぬしの始の名など。去年の春の頃より御心を合せられ。こゝかしこの家につどひ国の事を談ひ。又は世のさまをも見。同じ志の人々とよしみ結ばんとて。かたみがはりに江戸へまかり給ひなど。身をいけにへにして国の為に尽させ給ふべき御志を定め給ひければ。ともすれば家の業をもかゝせがちに成り給ひにけり。質朴の御性なりける中の家の祖母君は。わきてそをうたてくおぼし給ひて。まめなりける若とのばらいかなる天魔かみいりけん。百姓の身のいかに思ふとも及ぶべくもあらぬ事に心を煩はすのみならず。それにことよせて家をも思はず。親のいさめをもきかず。そゞろに浮れありくぞ物ぐるほしき。わきて新五郎 惇忠君の始の名は人々の師ともなり親に仕へてことにまめやかなりける日頃にも似ず。そをいさめんともせずなかなかに自ら先ちて若人等をそゝのかすこそ心得ね。など常に打つぶやき給ひければ。打聞き給ふごとに母君の御胸はいかばかりか痛ませ給ひけん。


はゝその落葉 (穂積歌子著) 巻の二・第三一―三二丁〔明治三三年〕(DK010014k-0010)
第1巻 p.239-240 ページ画像

はゝその落葉(穂積歌子著)  巻の二・第三一―三二丁〔明治三三年〕
○上略 わらは生れし年。文久三年の春の頃とかや。開港といひ。攘夷と
 - 第1巻 p.240 -ページ画像 
のゝしりて。世の中いといと騒がしくなり行きぬ。されば父君の常に宣ふなる。士なればとて農なればとて。ひとしく皇国の臣民たるにはかはる事あるべからず。泰平の時ならばこそあらめ。かく国家多事なる折から。志あらんますらをの。おのが家の業なりとていたづらに鋤鍬とりてのみあらんは。国に尽すの道ならずとの御説。今はいよいよ親しく御身に行ひ給ひつべき御決心は。御言葉にも。御行ひにも顕はるゝに。祖父君これをみそなはして。国の憂を憂とするは士農もとよりかはる事あるべからず。され共其身の程をもかへり見ず。あらぬくはだてしていたづらに。犬死せんをいかで御国の為めとはいはん。無益のわざに走り廻らんより。己が本の職をつとめて一畝だに多く耕したらんこそ。国の費さはなる折柄なかなかに国を益する理りなれ。とてから大和古今の人の上によそへてしばしば言葉だゝかひし給ふ。それも只手をつかねてにはおしまさず。信州へ送るべき藍の荷造り。あるは其外の家の事ども為し給ひながら。論じつ駁しつし給ひけるが。大人の御決心はなかなかひるがへすべうも見えさせ給はざりけりとぞ。母君常に御かたはらにて之を聞かせ給ひひそかに御心をいためさせられ人なき折父君に向ひ給ひ。もし家を捨てゝ出でさせ給はゞ二柱の君の御なげきいかにおはしますべき。又此秋の頃生れつべき緑児が上哀とはおぼさずやなどかごとがましう打なげかせ給ひし事もありとかや。ある夕暮まだ春風もいと寒ければ。出ゐの間の障子さしこめて。母君ひとり衣ぬひておはしけり。父君はそが前なる広庭にて男共に指図して。干したる麦を納めさせておはしけるが。男共の納屋の方へ行つる跡にて。ちりたる藁屑を竹のはゝきもて勢ひよくはきよせ給ひながら御声ほがらかに。
 雄気堂々貫斗牛。誓将真節報君讎。剗除頑悪回東駕。
 不問登壇万戸候。
と打吟じ給ひけり。母君聞かせ給ひて思はず針をとゞめておぼしける様。我夫も我兄君もあのから歌を常にいたう好ませ給ふは。そを作りつる古の人と同じ御心におはしますがゆゑにこそあらめ。功なりて身のなり出ん事などはおぼさず。只一筋に国の為めに仇を除かんとて。家さへ親さへ捨て給はんとする御志はあはれますらをなりけり。我身その妻としてかりそめにも其御志を引きたゆませつべきくり言云ひけることいかに云ひがひなしとかおぼしけん。今より心ををゝしくして。我夫家を出で給はんにはふた柱の君の御孝養は我身ひとつに引受けて我夫に内顧の憂なからしめんこそ我身の務なれと。心はたけく思ひ定むるものから。涙ははふり落ちて縫ひさしたる膝の上の衣をぬらし給ひけりとなん。


雨夜譚会談話筆記 下・第六八一―六八四頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕(DK010014k-0011)
第1巻 p.240-241 ページ画像

雨夜譚会談話筆記  下・第六八一―六八四頁〔昭和二年一一月―昭和五年七月〕
青淵先生の東京に於ける御住居の場所
先生「私が始めて江戸に出たのは二十二才の時で其時三ケ月居つた。それから二十四の時、夏から秋にかけ小半年居つた。此時には共に海保漁村の塾に入つて居つたので、私は後の時は其処の塾長を勤めて居つた。塾の費用は月謝、食費共で一ケ月三分だつたのだから、
 - 第1巻 p.241 -ページ画像 
今から見ると随分安かつたものだネ。海保先生は七十近い年で足が悪かつた。そして若先生が其代りを勤めてゐた。私は此若先生に破門されそうになつたこともあつた。それは塾の生徒が夜遊びに出て困ると云つて若先生が私に『君は字が上手だから、一つ塾の規則を壁書にする様に書いて呉れ』と頼まれた。それから或晩私が唆のかした訳ではないが、四五人で夜遊に出て帰ると、九時の門限が過ぎて、十時になつて居る。表門が〆つてあかない。其時四人の中に尾高藍香先生の妻君の弟で丈が高い文作と云ふのが居つた。それで私が『君は背が高いから、オレの肩に上つて門をあけて呉れ』と云つて、門をあけさせて中に這入ると、灯がついてゐる。これは変だと思つて言ると若先生が灯を持つて私等が這入つて来るのを待つてゐる。若先生非常に立腹して、破門するから家に這入つてはいけないと云ふ。私は破門されたら千葉の塾へでも行く積りにして居たところ、此中に諸岡と云ふ立派な医者の弟で十八才になる男が居て、今から自分の家へ帰つても内の者も寄せ附けて呉れないと云つて泣き出したので、私が『行く時は君も喜んで行つたじやないか、今更そんな事を云つても仕方がない。』とは云つたものゝ途方に暮れてゐるので、私が老先生の前へ行つて平あやまりにあやまつたので、老先生が『君は学問も出来るしするから今度は私が何とかしやう』と老先生からとりなしを受けておさまりが附いた事がある。私はそれから京都へ行つて後、仏蘭西から帰つて此塾を訪れたら、若先生が大変褒めて呉れてネ『君はあんな事もしたけれども、何処か見処があると思つた』と云はれた。(哄笑)○下略


御口授青淵先生諸伝記正誤控 第一四四―一四五頁〔昭和五―六年〕(DK010014k-0012)
第1巻 p.241 ページ画像

御口授青淵先生諸伝記正誤控  第一四四―一四五頁〔昭和五―六年〕
仰。「大先生はもう御老人で、滅多に講義もなさらなかつた。其養子の竹径といふ人が主に大先生の代りをしてゐられた。当時の塾生(先生のお家に寝泊りしてゐたもの)は七人許りであつた。塾費は一月に一両ばかりで、朝晩の二食つきである。昼は何かとりよせて食つた。週に二回先生の講義があり、私は左伝をやつた。その他毎日子供が沢山習ひに来る。それを私達が誰々を誰が教へよと命ぜられて教へてをつた。」


渋沢栄一伝稿本 第三章・第六一―六二頁〔大正八―一二年〕(DK010014k-0013)
第1巻 p.241 ページ画像

渋沢栄一伝稿本  第三章・第六一―六二頁〔大正八―一二年〕
○上略 是より先き文久三年の春、長七郎は京都より帰りしが、其頃川連虎一郎と共に河野顕三の遺族を下野に訪ひ、其遺著を携へて再び郷に帰り、之を先生に示し上梓せんことを謀る、顕三は坂下門外に安藤閣老を傷けたる志士の一人にして、長七郎の同志なりき。先生深く顕三の志を憐み、且長七郎の情誼に感じ、遂に自ら資を投じて出版せり、世に伝はれる春雲楼遺稿これなり。当時幕府の罪人たる刺客の為に其遺著を出版し、其人を義に死せる者と公言して嫌疑を避けず以て同志に尽せる情誼は、亦先生の一美事と為すべし。此遺稿を出版せる時は挙兵計画進捗の最中なりしが、刊行成りて後、長七郎は重ねて京都に赴けり、これ更に上国の形勢を探りて其計画に資せんが為なるべし。

 - 第1巻 p.242 -ページ画像 

春雲楼遺稿(渋沢栄一編) 越知通桓小伝(DK010014k-0014)
第1巻 p.242 ページ画像

春雲楼遺稿(渋沢栄一編)
越知通桓小伝
越知通桓。字士威。小字顕三。号春雲生。下毛吉田村人。其先出於伊予河野氏。祖曰守弘。有気節。業医。名声殊著。父曰意伯。亦継祖業。通桓性𦳝儻。少有大志。雖事継述。而意実不屑之。遂専精経史。尤喜忠憤義烈之挙。以仁人志士所難処之事為己任焉。文久二年壬戌正月十五日。改名三島三郎。以節死于都下。年二十有五。以事犯国憲。官吏将籍没其家。居数月。遇赦免之。通桓平居謂母曰。人之富貴利達。観之百年之後。真蜉蝣之栄枯而已。唯挽回倒瀾。維持名教。垂馨名於竹帛。是大丈夫之志也歟。当其図義挙之時。絶不見感憤激烈之色。如詩酒自耽者。雖家人父子。不知其所期。此亦志士処変之道也夫。嗚呼是亦足以見其平生之有所守矣。通桓已死節。或以実告其母。母嘆曰。吾聞衝堅挫鋭。身斃志已者。義士之事也。我児亦有似義士之所為乎。毫無悲泣憐惜之色。可謂有是母。而有是子矣。通桓為人。長身而秀貌。眉目高潔。容姿閑雅。恰如書生。然当其臨事。忠憤激昂。能奮為人難処之挙。遂以此終身。其亦可謂之偉丈夫者歟。
                                 青淵渋沢栄一撰


春雲楼遺稿 (渋沢栄一編) 書春雲楼遺稿後(DK010014k-0015)
第1巻 p.242 ページ画像

春雲楼遺稿 (渋沢栄一編)
書春雲楼遺稿後
辛酉之秋。余遊常野二州之間。遂入武都。多接奇士於稠人之中。迨見通桓而益奇之。其冬臘月。再会武都。互相抃喜。酒酣以佳談。及当世之得失与。
皇路之多難。通桓英気磅礴。悲憤不自堪。奇気横眉間。余以為其人倜儻沈果。胸間磊々而大義分明以節烈先人能進而成功名者矣。遂一咲相別。既而纔十余日。通桓以奇節死。而于時天下奇傑之士。亦多渉忌諱。余於通桓雖交結無二。而未暇収碧血。其後余遠遊関西入。
神京。歴遊山陽諸州。明年春帰郷。則故友落々如晨星。於是与遺友川連生訪通桓之旧居於絹水之西涯。則祖父守弘者已逝。而垂白老母独存。諸遺物散落無幾。纔有此一巻之稿。顧念昔日逢武都。勁酒鮮膾。携美人。剔銀燭。大声悲歌。恍然猶昨。而今乃叩旧居。対草庭。惨然撫巻以読。於余心有不堪感泣血涙焉。遂懐之以帰。示友人渋沢生。々読之大悲通桓之志。憐余情義之切。遂投之剞劂氏。余毎語忠憤義烈之事。而及通桓。独惜其才之大以一死未尽焉。雖然。狂瀾之倒。非得英雄之士奮然起於草奔之中軽一死果決為之者。則何以能挽回之哉。今乃以区々詩巻。欲伝之于世。固非通桓之志。唯其鼓天地之正気。鳴神聖之公道。以存
皇基於万世。是通桓之所以一死報国也。然則後進之士。由之以有所憤起。此固通桓之志也夫。嗚呼。人之称知己。豈偶然乎。吾之知通桓。通桓之知吾。唯吾与通桓知之歟。遂揮涙書其後。
于時文久三年癸亥秋七月
                              武蔵  東寧尾高弘忠誌
   ○春雲楼遺稿本文十丁序文一丁跋文三丁ヨリ成ル。表紙裏見返ニ春雲楼遺稿文久癸亥秋新鎸、青淵蔵版トアリ。本文ニハ越智通桓ノ詩三十八篇ヲ収ム。

 - 第1巻 p.243 -ページ画像 

春雲楼遺稿(写本)跋(DK010014k-0016)
第1巻 p.243 ページ画像

春雲楼遺稿(写本)跋
春雲楼遺稿原本惇忠の家に蔵す一日穂積博士夫人の一覧に供せり夫人感読やます人をして一通を写さしめこれを眷愛諸子に誦せしめんとす斯書は夫人の厳君従四位青淵公蚤年の発版に係り今を距る四十年前国事紛々天下洶々として志士仁人往々蹉跌せし時に当れり其危機たる啻薄冰深淵ならす然るに青淵公の今日あるは其才徳の致す所と雖豈亦神助あるにあらさらむ哉嗚呼夫人の偶爾嘱目感する所より家訓の一科を増すその孝且慈余の嘉尚する所以なり因て其理由を跋すと云ふ
 明治廿六年二月六日東京深川福住坊九番地ニ於て夫人の伯舅武蔵榛沢郡八基村藍香逸人尾高惇忠しるす  


渋沢栄一伝稿本 第三章・第七五―七七頁〔大正八―一二年〕(DK010014k-0017)
第1巻 p.243 ページ画像

渋沢栄一伝稿本  第三章・第七五―七七頁〔大正八―一二年〕
(註一)春雲楼遺稿出版の事情は、尾高長七郎の後序に見ゆ、○中略 又春雲楼遺稿の一本に、署名・宛名・年月・共に欠けたる書翰を貼附せり、先生の知友たることは明なれども、未だ其人を詳にせず、此際に於ける先生及び藍香兄弟の消息を知るの便あるが故に左に掲ぐ。但文中に清川八郎を留置きたりとあるは、文久元年七月八郎が安積五郎と共に、本庄附近に於て、尾高長七郎と会見せるを誤り伝へしものなるべし。
 武州本庄在血洗島農渋沢栄一郎、同親族近村に尾高新五郎と申者とも岡部侯御料民文武を心懸、慷慨甚敷既に彼清川氏留置、公辺御調に相成、深く迷惑之咄抔御座候密に申 上巳・正朔○望の誤か 両度之変事とも、乍陰たつさはり候歟と被察候。されは両度企に携候衆、何れも知己之様子御座候、藍商に而、此辺より御領内まても、年内三四度宛通行仕候由、当夏始而面会仕候所、種々雑話仕候。新五郎弟尾高某、兼而浪士に加り、相応に人も知候居事之由《マヽ》、兄新五郎よりは文武とも余程勝り居、此節は長州罷越居説に御座候。前書栄一郎、過日留守へ相尋、此一冊上梓に付、弘め呉候様、何れ正月面会に而、余事可申趣に而帰候由、先不取敢入高覧候。序申候、折々出府、大橋・藤森へ親く出入候噂に御座候。又佐久郡尾高懇意之者、何歟認物兼而頼置候処、先達而書状差越、切迫之時節相成、持合之金子は領主之有と可相成、少身之事故、如我々武事心懸候者罷出不申候はては不相成事故、従て数人申談、出張いたし可申、不思議に存命罷帰候はゝ、又々写上可申、先料紙返却之由、文通有之候と承候
   ○此書翰ヲ貼附セル一本ハ大正十二年九月ノ震災ニ焼失シテ、今無シ。


(芝崎確次郎)輯書(DK010014k-0018)
第1巻 p.243-244 ページ画像

(芝崎確次郎)輯書           (芝崎猪根吉氏所蔵)
    下野越智通桓始末書
                 河野駅逓少令史謹上
      本姓甲田氏有故母方之姓ニ改
        河野顕三越智通桓
          文久三年壬戌春正月十五日、与同志六人死于
          江戸坂下門外、年廿五、遺屍棄于小冢原、智《(知)》
          音之者収埋于無縁寺境内、明治二年己巳三月
 - 第1巻 p.244 -ページ画像 
          改葬于谷中天王寺境内
右之者下野国都賀郡本吉田村人也、父某蚤没、外祖父河野守弘ニ就而学、成人之後江戸ニ游ひ、医師磯野貞績之門ニ入、平生尊攘之義相唱、奇節之行を成を欲し、多く俊材卓異之士と交、文久辛酉之冬江戸大橋順造、水戸細谷忠斎、宇都宮児島強助、伊予得能淡雲、長州多賀谷勇、武蔵尾高長七郎、肥前中野方造等と倶ニ義挙を謀不果翌春姓名を三島三郎と称し、坂下ノ事に赴申候、癸亥之春、尾高長七郎、下野川連虎一郎来て通桓之遺稿を携去、其友人渋沢栄一上梓題しテ春雲楼遺稿と云、通桓交友にて今日存在之者には松本刑部大判事、松本久美浜県大参事、岡田宇都宮藩大参事、小山浦和県大参事、真中東京府大属、桃井民部権大録、宇都宮主記中井弘造、大橋燾次等、無面識して通誼之者には渋沢大蔵少丞、尾高庶務少佑、桃井庶務少佑等ニ御座候、右之輩に子細承候処、通桓之事蹟前書之通相違無御座候、方今癸丑以来勤王之志有之国事ニ関係死去致、姓名湮没之者有之候ハヽ、取調可申上御布告、旨趣奉畏、右通桓之始末取調春雲楼遺稿壱本当時倉卒誤謬も有之候得共、証拠として相添此段奉申上候、以上
  明治三年                      通桓義弟
    庚午十二月                    河野駅逓少令史
                                  越智通義
                                  再拝謹言


神託(DK010014k-0019)
第1巻 p.244-245 ページ画像

 神託                (尾高定四郎氏所蔵)
      神託
 一近日高天ケ原より神兵天降り
皇天子十年来憂慮し給ふ横浜箱館長崎三ケ所ニ住居致ス外夷の畜生共を不残踏殺し天下追々彼の欺に落入石瓦同様の泥銀にて日用衣食の物を買とられ自然困窮の至りニて畜生の手下に可相成苦難を御救被成候間神国の大恩相弁ひ異人ハ全狐狸同様と心得征伐の御供可致もの也
   一此度の催促に聊ニ而も故障致候者ハ即チ異賊の味方致候筋に候間無用捨斬捨可申候事
   一此度供致候者ハ天地再興の大事を助成仕候義に候得は永く神兵組と称し面々其村里に附て恩賞被仰付
   天朝御直の臣下と相成万世の後迄も姓名輝き候間抜群の働可心懸事
   一是迄異人と交易和親致候者ハ異人同様神罰可蒙儀ニ候得共早速改心致軍前に拝伏し身命を抛御下知相待候ハゝ以寛大の神慈赦免可有之候事
天地再興文久三年癸亥冬十一月吉辰
         神使等(印)謹布告
      右文言早速書写し寄場村々江無洩様触達可申候もしとりすて候者有之候ハゝ立処に神罰可有之候以上
                               当所年寄共江
   ○神託ハ藍香ノ筆蹟ニシテ、義挙ニ方リテ使用セントシタル張札ナリ。紙ハ
 - 第1巻 p.245 -ページ画像 
縦一尺七寸五分、横二尺三寸三分ノ大奉書ヲ用ヒタリ。同文同形ノモノ数枚今ナホ尾高家ニ保存セラル。宛書ニ「当町年寄共江」トアルヲ以テ察スレバ、所々村々ヘ掲示スル目的ヲ以テ数多用意シタルモノナラン。


可堂桃井先生記念碑建設経過について(八基村教育会編) 第九―一二頁〔昭和二年一〇月〕 渋沢子爵閣下講演(除幕式上)(DK010014k-0020)
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可堂桃井先生記念碑建設経過について(八基村教育会編)
                第九―一二頁〔昭和二年一〇月〕
   渋沢子爵閣下講演(除幕式上)
可堂桃井先生ノ除幕式ニ臨ム事ガ出来マシタ事ハ此ノ上モナキ光栄デアリマス。光栄ト云フヨリモ感慨無量デアリマス。単ニ光栄ト云フ人ガアルカモ知レマセンガ迚モ光栄ドコロデナク申スコトニ差支ヘル程ノ感情デアリマス。今日御話ヲシテモ祝辞ニヨツテモ本当ノ感ジハ得ラレマセン。諸君ハ文字ノ上デアリマスガ文字ノ上ニ於テ見タ丈デハ深ク感ヲ得ラレナイ。実ニ接シテ始メテ本統ノ感ジガアルノデアリマス。今日ハ斯様ナ事ガ軽ク見軽ク取扱ハレ勝デアリマス。畢竟皆様方ハ国運隆盛ノ時ニ成長サレタノデアリマスガ可堂桃井先生ガ生レマシタ当時ハ国ガヒツクリ返ル様ナトキニ生レタノデアリマス。私ハ今老衰シマシタケレ共可堂先生ノ徳ヲ慕ヒ且其実際ヲ始メカラ知ツテ居ルノデアリマス。村長サンヤ皆様方ヨリノ御話デ私ハ碑文ヲ書キマシタカラソレニ付キマシテハ私ハ話サナイコトニシマス。
当時ノ模様ヲ知ツテ居ルノハ先程面会シタ九十九才ノ老人ト私一人ダケデアルト思ヒマス。
徳川幕府ノ末ト云フトキハ皆様方ハ歴史ノ上ニテ知ツテ居ラルヽ通リ此日本ノ国ガドウヒツクリ返ルカト云フ様ナ有様デアリマシタ。今日デコソ一天万乗ノ天子様ガ国ヲ統治ナサレテ居ルトキデスカライザ知ラズ。其当時ハ中途ニ将軍ト云フ者ガアツテ支配シテ居ツタノデアリマス。ソコデ当時多クノ志士輩出シテ尊王攘夷ト云フ様ナ事デ世ノ中ハ沸騰シタノデアリマス。可堂先生ハ実ニ其一人デアリマス。可堂先生ガ八ツノトキ家ヲ出テ学ビシコトハ学者ニナリタイト云フ事デハナク、ツマリ東条一堂ト云フ学者ニ就キ勉強サレタコトハ国家ヲ思フ一念カラデアリマス。丁度其ノ頃ガ外交問題デ喧シイ時デアリマシタ。東京ノ遺族ノ方々モ此ノ事ハ充分御承知ノ事デアリマス。私ガ先生ト面会シタノハ私ガ二十三才即チ文久三年ト思ヒマス。桃井先生ノ御孫様ガ御出デニナツテ居リマスガ先生ハ山東ト云ヒ尊王攘夷ヲ唱ヒ江戸ヲ去リ中瀬ニ居ツタノデアリマス。私ハ先生ト二三御話ヲシタ事ガアリマシタガ下手計尾高藍香即チ当主定四郎ノ家ノ者ガ我々ノ中間ノ隊長デアリマシタ。屡々尊攘ノ感強ク論議ヲシテ居ツタノデアリマス。其事ハ国家ヲ此儘ニシテ置クコトハ出来ナイ倒幕スルト云フ事デアリマシタ。而シ年齢ニモ方針ニモ多少ノ異ナツタタメ行動ヲ共ニスルコトガ出来ナカツタ。
文久三年十一月八日家ヲ立チ京都ニ上ツタ。其ノ時ニ事ヲ挙ゲ様ト云フ事デアツタ。其ノ事ハ即チ討幕スルト云フ事デアツタ。此ノ事ハ国家ヲ乱ス其元ヲ断ツト云フ事ヲ論示ニ置イタノデアル。私ト同性《(姓)》渋沢喜作ト二人ハ上方ニ旅行シタ。此レハ他ノ方面ニ活動シ様ト云フノデアル。其ノ時先生ハ自身訴ヘテ出タノデアル。私ハ文久三年ニ死スベキデアツタノガ今ニ至ツタ。ソシテ此ノ席ニ列スルコトガ出来タ事ハ
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幸ト云ヒマセウカ又不幸ト云ヒマセウカ感慨無量デ皆様ノ想像ニ御任セ致シマス。唯明治聖代ガ成立シタノハ偶然デナク其ノ間ニ働イタ者ガ在リシ事ハ事実デアツタ。此ノ尊攘ヲ論ジタ者ハ随分アルガ身ヲ以ツテ之ニ投ジタ人ハ殆ンド無カツタト思フ。唯何人カノ学者ハアツタガ身ヲ殺シテ仁ヲ為ス人ハ少イノデアル。アレ程大志ヲ抱イテ自分一人之レニ至ツタノハ惜イガ其志コソ必ズ賞スベキデアル。而シ形ヨリ見レハ是程ツマラナク情ナキコトハナイノデアル。
蔭ヨリ批評スルナラ如何ニモ其人ガ不仕合セデアツタカヲ思ハレル。「生前ニ否ニシテ死後ニ泰ナル」モノト私ハ碑文ニ書イタガ全ク左様デアルト評論セラルヽ。先生ニ五男アリテ孫ニアタル方々トハ懇意デアリ長男可雄氏ハ横浜渋沢商店ニ入リ生糸輸出業ニ従ヘ末男石井君ハ私ノ創立シタ第一銀行副頭取ニ推薦シ共ニ実業界ニ方針ヲ同ジクシテ居リマス。其他ノ人達モ皆御存ジノ事デアリマス。私ハ事実ヲ評シテ満場ノ人達モ定メシ左様思ハルヽコトデアラウ。私ハ此ノ事ヲ考イテ二十四・五才ニ立返ツテ若クナツタ様ニ思ヘ又老イタ様ニモ思フガ一言ニシテ言ヒバ桃井先生ハ忠実ナ人デ如何ニモ不仕合セナ人デアツタト思フ。而シ死後今日アルニ至ツタコトハ冥スベキコトヽ思フ。私ハ今日ノ除幕式ニ自分ノ思出デアルコトヲ御話シタ次第デアリマス。
                                    満場拍手


渋沢栄一伝稿本 第三章・第七九―八一頁〔大正八―一二年〕(DK010014k-0021)
第1巻 p.246 ページ画像

渋沢栄一伝稿本  第三章・第七九―八一頁〔大正八―一二年〕
(註三)桃井儀八は長州其他の志士と策応し、又先生等と図りて挙兵を策したるものなるが、上国の政変により非常の打撃を受けたれどもなほ屈せずして事端を開かんとせり、然るに主将と仰ぐべき岩松満次郎は後に至りて志を変じ、固く拒みて応ぜず、且先生の計画も挫折せるにより、重ねて其機会を失ひ、十一月の中旬遂に同志を解散せる後十二月川越藩に就きて自首したるが、江戸に送られ吟味の上、福江藩邸に幽せられ、絶食して死せり。此年十二月岩松満次郎より幕府への届書あり、儀八との関係を叙して、一身上の弁護を為せるものなるが其文中に曰く、
 当月 ○文久三年十二月 朔日早朝、私方江出入仕候上州新田郡安養寺村名主源右衛門と申者罷越、家来之者江面会、極内申聞候は、私方江同様出入候武州江原村百姓市内と申者より承候由に而此度浪士共所々江相集り、天朝組・慷慨組と申唱、及徒党、右之両組に而、当月十六七日比、中山道熊谷宿に而勢揃仕、夫より横浜表江出張いたし候趣、前文儀八郎○桃井儀八 儀者天朝組之由云云。
可堂先生事蹟にも此文を引用し、文中に見えたる天朝組が儀八の党なりとせば、所謂慷慨組は先生等の一派を指せるならんといへり。先生等が挙兵を中止せるは十月下旬にありて、時日やゝ合はざる所あれども、農民の密告は過去を現在に伝ふるの誤多き故に、或は此説の如くなりしかも亦知るべからず、記して参考に供す。


可堂先生事蹟 (塚越停春著) 再版・第五四―五五頁〔昭和一一年一二月〕(DK010014k-0022)
第1巻 p.246-247 ページ画像

可堂先生事蹟(塚越停春著)  再版・第五四―五五頁〔昭和一一年一二月〕
 - 第1巻 p.247 -ページ画像 
       (五)志士としての先生
○上略 先生等の計画然かく進捗すると同時に、別働隊とも見るべき今の渋沢男爵、尾高惇忠氏、渋沢喜作氏等の企図、亦大に熟するものありたる如し。藍香翁即ち尾高惇忠氏 伝に拠れば、男爵等は、攘夷遂行、封建打破の目的を以て、志士の糾合を図り、文久二年より江戸に出で、或は海保帆平の塾に学を修め、或は千葉周作の門に剣を学び、窃に同盟の士を募ると同時に一橋家の平岡円四郎、川村恵十郎に交りて、幕吏の嫌疑を避け、遂に海保塾の中村三平、千葉門の真田範之助以下数名の同志を語らひ、一面郷勇を募りて六十九名の壮士を得、又多数の武器を用意したりと云ふ。同く横浜焼討の前提として、冬至の日高崎城を夜襲せむとしたるものにして、全く先生等の計画に同じ。岩松俊純の訴状に、天朝組慷慨組二団体ありと云ひ、先生等の団体を目して天朝組なりと云へり。男爵等の団体或は慷慨組なりしに非ざる歟。天朝組の名は、やがて先生等の義挙が、果して何等の目的を以て事を挙げむとしたる乎を説明す。而して先生等党中一統の所持する切手には、記して「大渡代徳、源福性」とありしと云ふ。竟に其志の小ならざるを見る也。


可堂先生事蹟 再版・第四四―四七頁〔昭和一一年一二月〕(DK010014k-0023)
第1巻 p.247 ページ画像

可堂先生事蹟  再版・第四四―四七頁〔昭和一一年一二月〕
        (五)志士としての先生
○上略 然れども謀は密なるを要す、先生は中瀬村帰還後も、依然として生徒の教授を継続し、楼上楼下時に咿唔の声を聞けり。又詩酒唱和の声を聞けり一面志士の来往謀計にも便宜あるが為めなりしなるべし。
○中略 先生の日録、五月の条「二十五日、周防諸生関口木工来、使之播磨屋。夜来話。二十六日、今朝木工来告別、将赴前橋云。頗有時世談。」と見え、八郎君の詩中
     初秋被訪於福原権藤梅村大楽諸君。偶小田川俣之二友来焉。
     喜賦之
 口角生風談又遵。新涼催月上高楼。徹宵痛飲東寧酒。他日何辺想此游。
とあり、稿本「初秋被訪於福原権藤梅村広田宇津宮人川俣松山人小田武蔵人諸君、偶渋沢二子郷人来。喜賦」と題し、宣三君岩鼻県への書上亦「父は十月中旬、上毛辺に罷出で居候節、西藩有志の面々、前後十数輩中瀬村被来、即夜父之居処に被到候。」と云へる、皆所謂生客熟客也、又珍客也、一として無意義の客に非ず。就中福原は長藩の福原美禰助《(マヽ)》也権藤は久留米の権藤真郷(又古松簡二と称す。本名清水真郷)也。梅村は島原の梅村真一郎也。大楽は長門の大楽源太郎也。広田は即ち広田精一也。小田は先生の門人たる常泉の福島熊太郎、川俣は同く先生の門人たる羽州松山の川俣茂七郎(正木菊之助)也。渋沢二子は、言ふ迄もなく今の男爵栄一君及喜作君也。此外久留米の水田謙次、池尻岳五郎も来り、長藩よりは、若年寄にも相当すべき人、将た下関外国軍艦砲撃の日の勇者等、来り居たりと云へど、今其何人なる乎を知らず。


川俣茂七郎 (阿部正巳著) 第三九―四〇頁〔大正一四年五月〕(DK010014k-0024)
第1巻 p.247-248 ページ画像

川俣茂七郎(阿部正巳著)  第三九―四〇頁〔大正一四年五月〕
 - 第1巻 p.248 -ページ画像 
        七 横浜英艦撃攘の画策
○上略 玆に儀八等攘夷の企挙と期を同じうし、且つ合同して攘夷の目的を達成せんとしたるものに二組あり。一は中瀬の隣村阿賀野村血洗島の惇忠兄弟並に渋沢喜作、同栄一の同志によりて成れる慷慨組にして儀八等、中瀬帰還以前より組織せられたるものゝ如し。一は長州、久留米、津和野の西国諸藩の尊王攘夷志士の東来せるものなり。此西国志士、東来の原因を綜るに、宇都宮藩士広田精一前年来京阪、防長の間に遊びて志士と交り、尊王攘夷の企図定まるや、精一は長州藩の福原美弥助《(マヽ)》、大楽源太郎、久留米藩の権藤真郷、水田謙次、津和野藩《(マヽ)》の梅村真一郎等、長州藩十人、久留米藩五人と八月三日、京都を発して江戸に下り、長州藩邸を根拠として、同志を募り、東西相応じて事を挙げんとす。時に儀八、中瀬に在るを以て、江戸の八郎、宣三等の諸士と会合し、共に中瀬に来りて挙兵の画策をなすことゝなりぬ。或は儀八等の軍用金は長州藩より出てたるやの疑あり。是等西国の志士は中瀬に至りて、儀八を訪ふ。茂七郎を始めとして、喜作、栄一等も会合したり。○下略
   ○阿部正巳著、勤王志士川俣茂七郎ナル小伝モアリ。コレハ大正十五年十月ノ公刊ニシテ、四六版二七頁ノ小冊子ナリ。其ノ栄一所蔵本ノ表紙ニ栄一左ノ如ク鉛筆ヲ以テ記セリ。
昭和二年一月二日一覧書中桃井可堂氏関係ノ項ニ於テ当時余等ノ計画ト類似ノ点多クシテ一読当日ヲ追懐セシムルモノアリ故ニ他日余ガ伝記編纂ノ場合ニ於テ一ノ参考トナルベキヲ思惟シ特ニ一言ヲ附記スト云爾
                                  青淵老人手記


〔参考〕可堂先生事蹟 再版・第四三頁〔昭和一一年一二月〕(DK010014k-0025)
第1巻 p.248 ページ画像

可堂先生事蹟 再版・第四三頁〔昭和一一年一二月〕
        (五)志士としての先生
○上略 元来横浜焼討なるものは、是より先志士の計画したること一再に止まらず。万延元年の冬水戸浪人之を計画して成らず、文久元年八月二十一日には、浮浪の徒海上より横浜を襲ふの説あり、幕府令して警備を厳にしたることあり。文久二年八月二十八日には、長門の来原良蔵外国人を斬らむとして横浜に往き、同藩吏の捕ふる所となり、十一月十二日には、長門土佐の藩士神奈川に集りて、横浜を焼かむとし、亦果さず。殊に先生の親友たる清河八郎の如きも、文久二年六月京都より江戸に帰るや、実に横浜焼討を策し、幕府を紛擾せしめて事を挙げむと欲し、終に文久三年四月十三日、先生の帰還後二旬ならざるに暗殺せらる。然り而して謂ふ所の横浜焼討が然かく屡計画せられて、竟に成らざりしもの、実に先生等の大に鑑みる所也。○下略


〔参考〕渋沢市郎右衛門 同 栄一郎 書翰 古里屋郡治郎宛文久三年七月一九日(DK010014k-0026)
第1巻 p.248-249 ページ画像

渋沢市郎右衛門 同 栄一郎 書翰 古里屋郡治郎宛文久三年七月一九日(中村庫二郎氏所蔵)
以手紙啓上仕候、昨日は参上致色々御馳走ニ相成忝拝謝仕候、則御引合之通極上藍玉弐駄口差上申候間御入帳可被下候、代金之儀弐拾両也別紙受取書差上申候間、此者へ御渡可被下候、残金壱両也御出し味之上是非御願申上度候間御承引可被下候、跡口御相談之儀御都合次第御出被下候御様子之処、小生も明日は小《(少)》々用事に而他出仕候、依之廿二日ニ御都合御出被下度奉願上候、若又御不都合ニ候ハゝ此方より上物
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壱駄口味差上可申候是如何可仕候哉御伺申上候、御報奉待上候
末毫御預之餞《(残カ)》品御引取申候藍玉壱駄、右馬へ御遣し可被下候様奉願上候右御高慮願上候、頓首敬白
   七月十九日
                             渋沢市郎右衛門
                                 栄一郎
  古里屋軍治郎様《(マヽ)》
        貴下
本庄宿 古里屋郡治郎様 貴下 血洗島村 渋沢市郎右衛門
封 亥七月十九日
   ○此書翰ハ栄一ノ代筆ニシテ父トノ連署ナルヲ以テ考フレバ栄一ハ此頃ニ於テモナホ家業ノ手伝ヲ続ケタルモノノ如シ。