デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.6.13

1編 在郷及ビ仕官時代

1部 在郷時代

2章 青年志士時代
■綱文

第1巻 p.249-259(DK010015k) ページ画像

文久三年癸亥九月十三日(1863年)

栄一既ニ身ヲ以テ国ニ殉ゼント決意セルヲ以テ是夜父ニ請ヒテ家督ヲ辞セントシ、懇談夜ヲ徹ス。暁ニ至リテ父遂ニ之ヲ允ス。尋イデ翌十四日挙兵準備ノ為メ江戸ニ出デ月余ニシテ帰ル。是日急使ヲ京都ニ遣シテ尾高長七郎ノ帰京ヲ促ス。栄一江戸滞在中偶々一橋家用人平岡円四郎等ノ知遇ヲ受クルニ至レリ。


■資料

雨夜譚(渋沢栄一述)巻之一・第二四―二八丁〔明治二〇年〕(DK010015k-0001)
第1巻 p.249-251 ページ画像

雨夜譚(渋沢栄一述)巻之一・第二四―二八丁〔明治二〇年〕
○上略 偖て段々と其時日の迫て来るに付けて、余所ながら父に決心の程を知らせたいと思つて、其年の九月十三日は、後の月見といつて、田舎では観月の祝ひをする例があるから、其夜、尾高惇忠と渋沢喜作の両人を、自分の宅に招いて、父も同席で世間話しをするうちに、それとなく自分の一身を自由にすることの相談を始めた、全体自分の企望する所は、父から此身を勘当して貰ふといふ覚悟であつたが、さればといつて、子が親に向つて、突然勘当して下さいともいはれぬものだから、先ヅ世の中の起き伏しから、話しの緒《いとぐち》を開いて、此天下は終に乱れるに違ひない、天下が乱れる日には、農民だからといつて、安居しては居られぬ、故に今日から其方向を定めて、乱世に処する覚悟をせんければならぬ、といひ出した所が、父は其話しを遮つて、それは其方の説が分限を越えて、謂はゞ非望を企てるといふことになる、根が農民に生れたのだから、ドコまでも其本分を守つて、農民に安んじ
 - 第1巻 p.250 -ページ画像 
たがよい、併し幕府の非政を論じたり、閣老なり、諸侯なりの失職を謗議したりして、善悪忠邪等を見分る程の知恵を開くのは、固より自己の一見識として、何も妨げはないけれども、身分上に付ては、左様な不相応の望みを起さむでも宜しい、時世を論ずるのは妨げはせぬけれども、身分の位置を転ずることは量見違ひだから、何処までも制止せむければならぬと謂はれたから、自分は押返して、成程父上の仰しやる所は一応御尤だけれども、日頃、大人《あなた》が世のなりゆく様を御歎きなさるのも、私と同情で、或は一層深い程にも伺つて居るのでは御坐りませぬか、一体、今日武門の政事が斯くまで陵夷して、次第に腐敗する有様になつた以上は、最早此日本は如何なるか分りませぬ、若し日本の国が陸沈する様ナ場合になつたと見ても、己れは農民だから、微しも関係せぬといつて、傍観して居られませうか、何事も知らぬならばそれまでのこと、苟も知つた以上は、国民の本分として、安心は出来ぬことであらうと思はれます、最早此時勢になつた以上は、百姓町人又は武家の差別はない、血洗島村の渋沢家一軒の存亡に頓著なさる事はなからう、況や私が一身の進退上に付ては、猶更の事の様に存じます、只今仰せの分限を守るといふことは、誠に当然至極の事で御座りますが、乍去人世の事は常に処すると、変に処するとの間に於て自から差別を生じて、同一に論定することは出来ますまい、イヤ論語には斯ういふことがある、孟子にはアヽいふことがあるなどゝいつて其問答は中々長いことで、終に夜が明けて仕舞つた、
勿論、自分は敢て議論がましく、無暗に父に反対して、高声に討論した訳ではなく、只諄々と論じて居る中に、夜が明けた、スルト父は思ひきりのよい人で、夜が明けてからモウ何もいはない、宜しい、其方は乃公の子じやないから、勝手にするがよい、段々の議論で時勢も能く分つたから、サウいふことを知つた上からは、其れが其身を亡ぼす種子になるか、或は又名を揚げる下地になるか、其所は乃公は知らぬ、好しや時勢が十分に知れても、知らぬ積りで、乃公は麦を作つて農民で世を送る、縦令政府が無理であらうとも、役人が無法なことをしやうとも、其れには構はずに服従する所存である、然るに其方は、それが出来ないといふなら仕方がないから、今日から其身を自由にすることを許して遣はす、夫れに付ては、最早種類の違ふ人間だから、相談相手にはならぬ、此上は、父子各其好む処に従つて、事をする方が寧ろ潔よいといふものだといはれて、漸く十四日の朝になつて、一身の自由を許されました、
此時に自分は父に向つて、是迄は家業も勉強して、藍の商売も拡張したけれども、既に国事に一身を委ねるといふ以上は、父母に対しては此上もない不孝な次第でありますが、到底此家の相続は出来ませぬから、速かに自分を勘当して、跡は養子でも御定め下さいと申しましたら、父のいはれるには、今突然勘当といつても、世間でも怪しむから兎も角も家を出るがよい、愈ヨ出たのちに勘当したといふことにしやう、又養子の事は、其後でも遅くはないと思ふ、向後其方が如何様の事をして死んだからといつて別に罪科を犯した事さへないければ、此家に迷惑を生ずる筈もあるまい、万一嫌疑で縛られても、家に対して
 - 第1巻 p.251 -ページ画像 
は何事もあるまいから、今俄かに勘当届を出すには及ばぬ、併し是上は、モウ決して其方の挙動には彼是と是非は言はぬから、此末の行為に能々注意して、飽までも道理を踏違ひずに、一片の誠意を貫いて、仁人義士といはれることが出来たなら、其死生と幸不幸とに拘はらず乃公はこれを満足に思ふ、と教誡されたことは、今でも猶耳の底にあるやうに思はれて、話しをするのも、中々落涙の種子である、
ソコデ又父のいはれるには、是から江戸に出て、全体何をする考へである、と頻りに尋ねられたが、自分は意中の機密だけは、決して話さない、何故といふに、若し此機密を微しでも話したならば、其れこそ父は力、を極めてこれを厳禁されるに相違ないから、只種々の話しにまぎらして隠然と暇乞をするやうな次第で、先づ漸く親の許しを受けて是れでモウ心配はない、愈ヨ十一月に事を挙るには、其前の準備もあり、人数も集めむければならぬから、九月十四日に江戸へ出て、凡そ一月許り逗留して居て、十月の末に田舎へ帰つて来た、所が追々事を発する期日が近寄るから、此処彼処の土蔵の隅に匿してある、槍、刀其他、着込みの類もスハ勢揃ひといふ時に差支なく其れを出す積り、猶其外にも種々の手筈もあるから、同志の中で役割を設けて、誰と誰とは何処へ向ひ、誰と誰とは何事を負担するといふことを定め、又地勢を十分に見て置かねばならぬから、是は自分が見に行く都合であつた、尤も九月十四日に江戸へ出る時に、此の事を発するには、先づ京都の様子を明らかに承知するが必要だといふので、京都滞在中の長七郎の所に飛脚を遣つて、且つ略ぼ斯ういふ計画に定めたから、要用の人物なら何人でも連れて関東へ帰つて来い、といふ委しい手紙を持せて遣った、其頃は、斯様な秘密の手紙は通常の飛脚屋へは出せない、殊に至急の事だから、武沢市五郎といふものを其使ひに充てた、○下略


渋沢栄一伝稿本 第三章・第六二―七〇頁〔大正八―一二年〕(DK010015k-0002)
第1巻 p.251-254 ページ画像

渋沢栄一伝稿本  第三章・第六二―七〇頁〔大正八―一二年〕
○上略 先生等が挙兵を企つるや、素より確実なる成算あるにあらず、唯一身を賭して天下を匡救し、社会改革の大業を成さんが為に危地を踏まんとするものにして、死は素より其覚悟する所なりき。然れども一度年老いたる父君の将来を思へば、断腸の情に堪へざりしならん、計画は秘密を要す、敢て洩らすべきにあらざれども、せめては心ばかりの暇乞をも申し、己れが亡き後の処分をも為し置かんとて、同年九月十三夜観月の宴を開き、藍香・喜作等を招ける折、晩香翁も其席に臨みしかば、雑談の末機会を見て、それとなく進退の自由を求めたり、此時先生の企望せる所は後患を免れんが為に勘当を受くるにありたれども、謂れなくさる要求もなし難ければ、先づ世上の有様より談話の端緒を開きたる後、徐に語りて曰く「此の如き状態にては天下は終に乱れぬべし、天下乱るゝ時は、仮令農民たりとも安居すべきにあらず、されば予め其方向を定めて、乱世に処する覚悟をなすが肝要なり」といへるに、翁は之を遮り「そは身の分限を知らざるの説なり、既に農民に生れしからは、いづくまでも其本分を守りて、農民たるに安んずべきのみ、汝が幕府の秕政を論じ、大名・有司の進退を議するは、一箇の見識としては妨げなしといへども、身分の上につきていはゞ、か
 - 第1巻 p.252 -ページ画像 
かる不相応なる望みを起すべきにあらず、時務を論ずるは可なり、分限を越えて非望を企つるは不量見なり」といへり。先生答へて曰く、「父君の仰せは実にさることなれども、幕府の政事此の如くに腐敗せるからは、我国の前途は寒心せざるを得ず、若し我国が浮沈する場合に遭遇したりとも、なほ且我等は農民なるが故に関知する所にあらずとて、坐視傍観するを得べきか、既に国家の大事なりと心附きたる上は、進んで匡救の道を講ぜざるべからず、時勢此の如し、豈武家たり百姓たり町人たるを問ふの遑あらんや。血洗島に於ける渋沢一家の存亡既に顧るの要なし況や児が一身の進退の如きは尚更の事なるをや、人各分限を守るべきは仰の如くなれども、そは平時の事なり、変に処するには自ら異なる所あるべきには候はずや」など、諄々として語り合ふ間に、いつしか夜は明けたり。翁は決断の早き人にて、先生の述ぶる所一理あるを知り、又其決心の堅きを看破せしかば、夜の明くると共に翻然として言を改めて曰く「可なり、余はまた何事をも言はざるべし、もはや汝は我が子にあらず、進退たゞ汝の欲するがままにすべし、余はあくまでも本分を守りて農業に従ひ、縦令領主・役人等が如何なる無法の事をなさんにも、それに頓著せずして服従する考へなるが、汝はしかなし能はずとならば、せんかたなし、父子各其好む所に従はんのみ」と、玆に始めて一身の自由を許されたり。此時先生重ねて翁に請ひて曰く「これまでは膝下に侍して家事を勉め、藍の販売にも力を致したれど、既に身を国事に委ぬる上は、到底此家を相続すること叶ふまじ、父君・母君への不孝は謝するに余りあれども、願はくは不肖を勘当し給ひ、然るべき者を妹に配して養子とせられたし」といへるに「否々、突然勘当せんは却て人々の疑を招くべし、汝はともかくも速に出奔せよ、其後に勘当せりといふことにせん、養子の如きは急を要せず」とて、之を郤けたる後「かくなるからは余は自今決して汝の挙止につきて啄を容れざるべし、汝も亦宜しく身を慎み道理を弁へ、一片の誠意を貫きて仁人義士たるを得ば、其死生と幸不幸とに関はらず余は満足すべし」と、懇切に教諭せられたれば、先生深く翁の心中を思ひやりて暗涙に咽びたりき。かくて翁は詞を改め、江戸に赴きて何事をなす考へなりやと頻りに追及したれども、計画は素より洩らすべきにあらねば、遂に之を告げざりしといふ。
先生此時二十四才、血気方に旺なり、挙兵の計画既に熟して、進退の自由をさへ許されたれば、雄飛の時を得たるを喜び仮令事敗れて屍を戦場に晒すも、亦人生の快事なりと、意気軒昂たり。此に於て晩香翁の許諾を得たる其日、即ち文久三年九月十四日、竹沢市五郎を京都に急派して、長七郎に帰国を促すと共に、自身も亦江戸に赴きて同志と往来し、滞在月余に及べり、其間先生はかねて交を結べる柳原の道具師梅田慎之助の家に寓して、諸般の準備に従ひ、又折しも出府中なりし渋沢喜作と共に、同志と往来して結束を固くせり。初め先生等の暴挙を企つるや、郷里には一挺の鉄砲なく、さりとて江戸に於て求めんには、計画露顕の虞あれば、已むを得ず其購入を中止し、寧ろ獲易き刀槍を十分に用意するに若かずといふに定まり、先生専ら調達の任に当ることゝなりたれば、其出府中を機とし、慎之助に託して多数の刀
 - 第1巻 p.253 -ページ画像 
槍・著込・高張提灯等を購入せんとす。慎之助気節あり、且つ侠気に富みたれば、情を知りて密々に周旋し、遺憾なく之を供給せしかば、更に慎之助の手により、雑穀と称して陸路より血洗島へ、水路より中瀬村の廻船問屋石川五右衛門の宅に送り届け、藍香邸の土蔵と先生の家の藍庫に密蔵せりといふ。
先生が江戸滞在の間に、偶然にも一橋家との関係を生ずるに至れり。是より先、喜作は当時一橋家に禄仕せる川村恵十郎と交遊せしかば、先生もいつしか恵十郎と相知り、尋で其紹介により喜作と共に同家の用人平岡円四郎・用人格黒川嘉兵衛・目付榎本亨造・番頭助松浦作十郎等の知遇を受くるに至る。円四郎は実名を方中《ケタチ》といひ、有名なる岡本花亭の第四子にして、出でゝ平岡氏を冒せる者なり、嘉永六年以来一橋家に仕へて、慶喜公に信任せられ、小姓より進みて用人となり、家中の権力其手に帰して威勢並ぶ者なし。嘉兵衛も亦円四郎に次いで勢力あり、共に進歩的意見を有して、旧弊を革新するに力めたる有為の人々なりき。されば円四郎等は時勢の漸く紛糾するを見て、之に備へんが為に、浪人にても百姓にても、相当の人物あらば、之を家中に招致して、其才能を伸べしむるの必要を感じ、著々実行したりき。川村恵十郎は甲州駒木根《(甲州駒木野)》の関守の子なりしを円四郎に抜擢せられしなり、此他関東に於る一橋家領内の農民にして武芸に達せる者にて、新規召抱の命を拝したるも亦尠からず、恵十郎が更に先生等を紹介せるも、亦かゝる意志に出でたるが如し。かくて先生等は屡円四郎等と会見して、時勢を論じ攘夷を談ずるに及び、円四郎等も其才能の凡ならざるを見て、有為の青年として之を愛撫し、先生も亦力めて彼等に接近し一橋家に対して多少の聯絡を附けんことを思へり。乃ち「一橋家の家臣として奉公するは欲する所にあらざれども、御用達などの名義によりて出入を許されなば、事ある時には四五十人の壮士を率ゐて相当の軍務に従ふべし、されば何かの名義を以て家来分となることは出来まじや」との旨を円四郎等に請求せるに、円四郎はいづれ評議の上にて沙汰すべしとの事なりしが、他領の百姓にては急に其運びに至り難しとありて、遂に不調に帰したり。先生が一橋家家来分の名義を欲したるは抑故あり、当時農民は帯刀する能はざる定めなるに、先生等は国事に奔走せるが為に、禁を犯して双刀を帯し、且つ常に慷慨時事を論じたれば、領主たる安部家より注視せらるゝあり、殊に此度非常の企を為さんとして、密に同志と往来し武器を購ふなど、嫌疑に渉ることのみ多ければ、よくせずば一身の危険を保し難し、故に一橋家を利用して領主の嫌疑を免れ、併せて計画上の利便に供せんとせるなり。今や其希望は遂げざりしも、先生等の才能は頴脱して、夙に円四郎等の認むる所となり、深く信任せられたれば、なほ幾多の便宜なきにあらざりき。折しも此年八月十八日京都には政変起りて、慶喜公は其善後策の為に幕命を奉じて上京し、円四郎随行の命を受けしかば、乃ち先生と喜作とを招きて同行を勧めたり、思ふに行く行く機を見て家中に推挙せんの心なりしなるべし。先生等は挙兵の期日近づきたれば、元より之に応ずるの意思なけれども、同志の人々が郷里を出発するに際し、相当の口実を藉るには、一橋家中の随員として上京するよしの名
 - 第1巻 p.254 -ページ画像 
義を得、且は道中の宿駅・関所をも安全に通過し得べき保証等、何事につけても利益多かるべしと考へたれば「若し貴意に従ひなば、如何様の手続にせば可なるべきや」と尋ねしに、「余の家来といふことになすべし」といふにぞ、先生はいたく其好意を謝し、「只今急に御同行致し難けれども、追つて後より上京仕るべし、其際には御家来の名義を借用せん」と約束せり。先生此時実に上京の意あるにあらざれども此一時権宜の答弁が、程なく事実となりて現はれしことは、詳に次章に記すべし。


渋沢栄一伝稿本 第三章・第七七―七九頁〔大正八―一二年〕(DK010015k-0003)
第1巻 p.254-255 ページ画像

渋沢栄一伝稿本  第三章・第七七―七九頁〔大正八―一二年〕
(註二)先生が平岡円四郎より京都へ同行を誘はれしことは、文久三年十月十九日先生等より藍香への書中に見ゆ、其他にも挙兵の為に出発せんには、伊勢参宮と称して郷を発する計画なりし事等、参考すべき事実多ければ、左に掲ぐ。之によれば「橋府一条も大因循」などの句ありて、何事か一橋家に頼らんとせし事情あるを思はしむれども今詳ならず。
 発後寒冷日に相募候処、益御健勝御周旋被遊候条、欣適不過之候、其後都下之形勢、誠以十分之当期不可疑と奉存候、真田外三四輩抔も、殊之外大奮然、期限迄之無事を苦居候様子、依而兼而約し候通、前後不残発足に相成候、尤も真田は明廿一日に相成可申候、何れ下旬迄、郷里辺迄参着可相成候、右御頷迄申上候《マヽ》。扨此間上州御周旋、格別之御首尾、委細は蘆陰兄 ○喜作より承及、且右木村君へも面会、色々弁論、一段之儀、御高配敬服々々、右に付木村近辺、夫々同志も有之候様子、殊に博徒に而胆略有之候人物三人有之候由、是非一議論仕候はゝ、大に用所も可有之見込、蘆陰兄途上に而木村より承知仕候、依之段々論議仕、是非々々右作略に仕度決議、委細は木村へ申托、一度帰郷被致候、因而は大兄之御配慮に而、右、博徒へ、彼地迄罷越面会之上論説被遊候はゝ、好機会も可有之奉存候、右御配慮伏而奉祈候、尤も仔細丁寧木村へも申托候間、定而可申上存候、宜御高配伏而奉祈候、橋府一条も大因循、因而尚又小林より永田馬場へ掛合申候様仕候、掛合次第、何れにか相成可申候、近隣之声言は宜御計置可被下候、一橋公も必々登京に相成候様子、付而は是非両生には御供被仕度、平岡・榎本・抔被申候、右僕等発郷之声言妙計と奉存候、御含、其旨御声言被下置度奉願候、実に千才之一機会、呉々も不可疑と決心、一段大奮起、独歩都下を厭倒《(マヽ)》いたし候、乍然郷里は相成丈謹粛に致度候間、不騒然様御配慮可被下候、外有志も発郷之声言は参宮抔宜敷候、尤も夫は吉岡両三生抔、外御村連抔之処、是は其中御談置被下、御作略被遊候様奉願候、武器も梅田に而好機会に而余程相調申候、革具足に而手堅物十人前、外着込弐十人計、剣具弐十人位は調立に相成候、右御心配無之様申上候、右之条条有増申上候、余在面声頓首々々敬白
    十月十九日
                              渋沢喜作
                                栄一
 藍香尾高大兄
 - 第1巻 p.255 -ページ画像 
         玉案下
   ○此書翰ハ尾高定四郎氏所蔵ナリ。句読点ハ『稿本』ノ編者ノ附シタルモノナリ。

(川村恵十郎)襍日記 ○文久三年八月廿七日ヨリ 同年十二月廿五日マデ(DK010015k-0004)
第1巻 p.255-258 ページ画像

(川村恵十郎)襍日記 ○文久三年八月廿七日ヨリ 同年十二月廿五日マデ
                         (川村久輔氏所蔵)
九日 ○文久三年九月 癸丑晴
一今日大乗坊事等覚院住職被仰付等覚院寿昌院住職被仰付依之今日山内外法類出入其外相招候事
                            安部摂津守殿領分
                               武州榛沢郡
                                 血洗島村
                                     渋沢喜作
                              川越大川派  同栄一郎
 ○下略
十六日 ○文久三年九月庚申雨
○上略
一松浦作十郎榎本幸蔵来今日御館ニ而長歎息之事而己有之候由右を演ん為に来候由渋沢喜作栄一郎之話致し候事尤聊此等之身分其外之儀申述○下略
 ○下略
十八日 ○文久三年九月壬戌晴夜雨
○上略
一朝渋沢喜作同栄一郎来四ツ半頃まて相話ス尤此者共真之攘夷家ニ候を何れニ歟弁し候事且今日ニも明晩ニも浦浦方《(松浦方)》江行呉候様談判候事
○中略
一夜平岡行当今之時勢百事不被行長歎息之段申述且渋沢喜作同栄一郎云々之儀申述候事尤同人ニ於ても殊外感激之様子相見候事
 ○下略
廿日○文久三年九月甲子晴
○上略
○練塀小路海浦正之助塾《(練塀小路梅浦正之助塾)》江相尋渋沢喜作同栄一郎面会昨夜松浦作十郎方行云々之儀承り候事
一平岡行両人之儀談判夜迄掛ル尤今日猪飼松浦榎本等打寄壱杯之事
 ○下略
廿一日○文久三年九月乙丑晴後雨
○上略
一松浦作十郎方行両人之儀申談候事
 ○下略
廿三日○文久三年九月丁卯陰雨
○上略
一夕刻より松浦作十郎方行平岡榎本猪飼等寄合万々談判渋沢両人ハ断之積ニ候処尚又評議改り是計ハ何れニ歟致し候積りニ治定大酔
 - 第1巻 p.256 -ページ画像 
○中略
一渋沢両人松浦江来夫々江面会
 ○下略
廿六日○文久三年九月庚午晴
一朝平岡行今日出勤之由渋沢両人模様大ニ宜敷もはや今日明日之内安部摂津守殿江懸合ニ相成候由
 ○下略
廿八日○文久三年九月壬申晴
○上略
一一橋稽古場行比留間相尋面会之処血洗島渋沢両人之儀小林清三郎致心配居候様子ニ付小林清三郎ニ御玄関脇ニ而面会最初より之次第委細相話し候処尤之由ニ而今明之内安部家江可罷出よし決約
 ○下略
廿九日○文久三年九月癸酉晴
○上略
一渋沢両人来ニ付昨日小林談判之儀能々相話ス今日ハ定而懸合ニ参り可申哉旨申聞候事
 ○下略
   十月
朔甲戌晴夜雨
○上略
一朝渋沢両人来ニ付同道ニ而松浦作十郎方行両人之模様承り候処只懸合而己ニ而返事を不知
一夕刻より榎本行平岡立寄之由ニ付平岡行酒渋沢両人一条承り候処未タ安部家より挨拶無之乍去仮令何様之挨拶有之候共此儀ハ何れニ歟致し候由尤品ニ寄候ハゝ用達之風ニも可致哉之由なり
 ○下略
十六日 ○文久三年十月癸丑晴
○上略
一渋沢喜作栄一郎来候由
 ○下略
十七日 ○文久三年十月甲寅
一梅田行渋沢江手紙相渡小林清十郎江罷越可致談判旨申置
 ○下略
十九日 ○文久三年十月丙辰晴
○上略
一榎本享造《(榎本亨造)》より渋沢両人登京可然之書面来依之右書面両人江得申聞
廿日 ○文久三年十月丁巳
○上略
一平岡行山田尾助来万々談合其上渋沢両人同道上野行泊
廿一日 ○文久三年十月戊午
 - 第1巻 p.257 -ページ画像 
○上略
一安部摂津守家来□島波江《(淡島波江カ)》方行渋人《(渋沢)》両人平岡より内々相尋可申旨被申付罷越候趣ニ而談判
○中略
一榎本行明日出立動揺中両人一条弥登京と治定
 ○下略
廿二日 ○文久三年十月 己未雨
一平岡行餞別拾円被出候処相返ス
○中略
一榎本亨造川崎泊ニ而今日出立ニ付川越《(川崎カ)》江罷越両人一条弥跡より登京決定
○中略
一渋沢両人ハ跡より平岡榎本両人為家来為登候積
一川崎宿会津屋泊
廿三日 ○文久三年十月 庚申陰
○上略
一平岡より小子江為餞別金十両被贈候事
○中略
一平岡行日記附畢ル
 ○両人先触一条
○中略
一渋沢両人平岡為家来差為登候積依之先触等之儀示談
 ○下略
廿四日 ○文久三年十月辛酉晴
○上略
一平岡行夕刻より夜七ツ半時迄相話尤平岡君本間行九ツ時帰来夫より万々相話故終ニ七ツ半時ニ至ル
 渋沢両人も来居先触一条万々談判○下略
廿五日 ○文久三年十月 壬戌
一朝渋沢両人来同道ニ而罷出御成道ニ而相別
○中略
一平岡行暇乞
○中略

○渋沢両《(人脱カ》先触之儀云々談判
○跡々国家之模様相話ス
一平岡泊
○下略
廿六日 ○文久三年十月癸亥快晴
一平岡同道一橋御館江罷出暁七時参着
 御殿より両人先触一条
                      御祐筆組頭
              本所南割下水七丁目    須賀源八郎
 - 第1巻 p.258 -ページ画像 
   御先触之儀委細承知仕居候
 右江差越候事
○中略
一本所緑町七丁目ニ而一橋右筆組頭須賀源八郎方行先触一条談判候処当人共出府平岡宅状ニ而其段御申越被下候へは宜敷様取計可申之由表書左之通

図表を画像で表示--

 泊方      平岡円四郎             宅より  御祐筆中様 



 右之通相認在中用書橋府御中之口江差出候へは宜敷よし悉く相約し罷帰候事
廿七日 ○文久三年十月 庚子陰
一朝渋沢喜作来依之昨夜須賀源八郎対談之趣申述且平岡江之書面も相認為見出府候ハゝ早々平岡江罷越其上ニ而万々可致所置候段申聞相別候事
一平岡行○中略
一渋沢両人来候節一橋江書状差出可遣之旨万々おやすとのへ談判
○下略
   ○右日記ノ記事簡ニシテ不明ノ箇所少ナカラザレドモ、前掲稿本ノ解釈ヲ裏付クルニ足ルべシ。


竜門雑誌 第四九八号・第二―三頁〔昭和五年三月〕 【徳川慶喜公の知遇】(DK010015k-0005)
第1巻 p.258-259 ページ画像

竜門雑誌  第四九八号・第二―三頁〔昭和五年三月〕
○上略 抑初め私が例の暴挙の計画をした時代に江戸に往つたことがあるが、其時分に時折り平岡円四郎氏を訪れてゐた。これは一つには時勢の推移を知り、一つには又慶喜公の御心事を窺はんためでもあつた。平岡氏は又私が農家に生れ乍ら、文学の話も出来、武の方も満更素人でない――謂つて見ると、全くの水飲百姓ではなさそうだ。相当の家庭に育つて、君臣父子の道も一通り弁へてゐる――と云ふ処を買つて呉れたようである。自分として見れば、ヨシ深い根拠はなかつたにしても、一通り内外の事情を知り、国事を憂へて居つたから、一橋公は果して幕政を改革し得る人であるか、それとも柳に風式の態度を執る人であるか、其の辺のことが見究めたかつたのである。平岡氏は岡本近江守と云ふ何でも五千石かの旗本で立派な家柄の人の伜で其処から平岡へ養子に行つた人である。相当に学問があり曾ては評定所留役をも勤め、仲々弁説もさわやかで、人の揚足を取ることなどはそれはうまいものであつた。私を此平岡氏の所へ連れて行つて呉れたのは、川村恵十郎と云ふ人で、其の前に口上を以て紹介して呉れたのは柏木総蔵と云ふ人であつた。柏木は菲山代官江川太郎左衛門の手附であつた。川村は私と喜作と両人を平岡氏に引合せて「百姓育ちにしては、面白い奴だ」と、褒めた意味の言葉で紹介したらしく、其関係から文久三年の秋だつたと記憶するが、平岡氏が「一度連れて来い、会つて見やう」と云つたとかで、喜作と両人で行つたのが初まりである。川村の人物に就ては、此人は時勢を見て騒ぐと云つたやうな処はなかつたが今日の儘では済むものでない、早晩幕政の改革は行はれる位の事は知
 - 第1巻 p.259 -ページ画像 
つて居つたやうに思ふ。私は此点に就て、まだ若年ではあつたが、日本外史などに教へられて「王政復古は当然来なくてはならぬ。幕政三百年にして人物は漸く低下し、其役に連る者は、お座敷勤め式の人が多くなり、気骨ある人は、却つて引込むと云ふ有様になつてゐる。此際此儘での推移は到底不可能である」と考へてゐた。平岡氏に初めて会つたのは、根岸のお行の松傍の平岡氏の屋敷であつた。前にも話したように此時は丁度私等は暴挙について密かに相談してゐる最中であつた。○下略
   ○右ハ『徳川慶喜公の知遇』ト題スル栄一ノ一節ナリ。


御口授青淵先生諸伝記正誤控 第四〇頁〔昭和五―六年〕(DK010015k-0006)
第1巻 p.259 ページ画像

御口授青淵先生諸伝記正誤控  第四〇頁〔昭和五―六年〕
御話。平岡円四郎の紹介者。
 「私を平岡の処へつれて行つたのは柏木総蔵(之は江川太郎左衛門の手付の人)河村恵十郎(甲州の駒木野の関守役の一人)の両人であつた。どうした訳合で此両人と知合になつたかははつきりしない。」