デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.6.13

1編 在郷及ビ仕官時代

1部 在郷時代

2章 青年志士時代
■綱文

第1巻 p.259-268(DK010016k) ページ画像

文久三年癸亥十月二十九日(1863年)

是ヨリ先是月二十五・六日頃尾高長七郎京都ヨリ帰京ス。是夜長七郎上国ノ形勢ヲ説キテ、挙兵ノ無謀ナル所以ヲ切論ス。栄一等論難大イニ努メタルモ、遂に開悟シ、中止ニ決ス。


■資料

雨夜譚(渋沢栄一述) 巻之一・第二八―三二頁〔明治二〇年〕(DK010016k-0001)
第1巻 p.259-260 ページ画像

雨夜譚(渋沢栄一述)  巻之一・第二八―三二頁〔明治二〇年〕
○上略 十月の廿五六日頃になつて、尾高長七郎が京都から帰つて来た、ソコデ是迄の成行きを詳細に話して、向後事を挙る手続の事も相談して、旁京都の形勢を尋ねて見た所が、長七郎の考へは、丸で反対で、種々に異論があつた、今日から見ると、其時長七郎の意見が適当であつて、自分等の決心は頗る無謀であつた、実に長七郎が自分等大勢の命を救つて呉れたといつてもよいといふものは、外でもない十月廿九日の夜、愈ヨ其事の挙止を決する為めに、手計村の惇忠の家の二階で惇忠長七郎は勿論、自分と喜作と中村三平と、五人集合して評議を始めたが、長七郎のいふには、暴挙の一案は大間違ひである、今日七十人や百人の烏合兵では、何することも出来ない、好しや計画通りに高崎の城が取れたにせよ、横浜へ兵を出すことは思ひも寄らぬことである、直に幕府や近傍諸藩の兵に討滅されることは明亮である。実に乱暴千万な考へといふものだ、詰り只百姓一揆同様に見做されて仕舞ふであらう、実際横浜まで押出して、居留外国人を攘斥しやうとするには充分訓練した兵でなければ出来る訳のものじやない、成程諸藩の兵も幕府の兵も、弱いには相違ないが、兎も角も人数が多いから、容易に打破ることは出来ない、現に十津川浪士の様な者で、藤本であれ松本であれ、相応に思慮才覚もある人だけれども、僅に五条の代官位を破つた迄で、直に植村藩に拒ぎ止められて仕舞つた、其人数も百人余りあつて、しかも中山侍従といふ有名の公家が盟主になつて、藤本鉄石
 - 第1巻 p.260 -ページ画像 
と松本鋭太郎とが死力を尽したけれども、天子の関東御親征といふ論が遽かに変じて、三条公始め七卿が長州へ落るといふことになると、忽ち散り散りばらばらになつて、藤本と松本とは討死して仕舞つたといふ有様ではないか、してみれば、高々よくいつた所が、十津川浪士位の事であらう、但しそれでも幾分か天下の士気を鼓舞することは出来得るであらうが、其効能は実に些細なものだ、其些細な効能の為めに、数十人のものが打揃つて死むで仕舞ふのは、残念ではないか、実に残念だから、飽までも不同意であるといふ、自分はこれに反対して成程十津川暴挙に比較して視れば、今の想像も適当であらうが、併し今俄かに我々が其丈ケの力を持つ工夫は決してない、さればといつて其力の増すことを謀た上でと謂ふ時には、何時といつて、大事を挙る日はあるまい、終には知らず知らず人後に落ちて、此壮挙を決行することの出来ぬ様になるのは必然であらう、既に我々同志のものは、陳勝呉広を以て自ら任じて、天下の志士に率先することを期したのではないか、今我々が事を起したならば、仮令一敗地に塗れた所が、天下の同志者がこれを見て、四方から奮起して、終に募府の天下を潰すであらうから、詰り我々は其血祭りになるのだ、秦の敗れて漢の高祖が天下を平らげた時にも、此血祭りは随分多くあつた、今日幕府を亡ぼす端緒を開く為めに、其血祭りとなることなら我々の本分は足る訳である、若しもまだまだといつて居る中に、不幸にして幕府の嫌疑を蒙つて、縲紲の辱しめを受けた上で、徒らに獄中の鬼となるまいものでもない、迚も死ぬと定めた以上は、事の成敗などは天に任せて置て、此処で彼是論ずるには及ばぬから、唯一死を以て事を挙る所存である、と頗る切迫した論をした所が、長七郎は、イヤそんな事をいつても、今此計画したやうな乱暴なことをして、万一流賊一揆と見做されて、悉く縛首の刑戮に逢ふ様なことがあつては、残念だから、何処までも力を極めて留めるといふ、自分は決してやめぬ、必らず決行するといふ、此時も徹夜して論じた末に、長七郎は自分を殺しても挙行を抑止するといふし、自分は長七郎を刺しても挙行するといふので、終に両人して殺すなら殺せ、刺違ひて死ぬといふまでに、血眼になつて論じたけれども、長七郎は飽まで承知せずに此の企てを止めるから、ソコデ自分も退て熟ら考へて見た所が、成程長七郎のいふ所は尤である、軽々しく一揆を起しても、迚も好い出来栄を見ることは見込のないのだから、唯死を以てするといつた所が、百姓一揆同様に見做されて、此連中の重立つた者が幕府の獄吏に辱かしめられて、空しく刑場の露と消る事になると、唯初の目的に届かぬばかりでなく、世間に於ては児戯に類した挙動だ、などと評判されまいものでもない、サウなる日には詰り我々に続きて起る志士もなく、謂はゞ犬死になるかも知れぬ成程長七郎の説が道理である、是は一番緻密に謀慮せぬければならぬと気が付たから、愈ヨ止めることにしようと感悟した。○下略


はゝその落葉 (穂積歌子著) 巻の一・第五―六丁〔明治三三年〕(DK010016k-0002)
第1巻 p.260-261 ページ画像

はゝその落葉(穂積歌子著)  巻の一・第五―六丁〔明治三三年〕
○上略 後に母君の仰せられけるは。我夫兄君を始め人々のいとも危ふき企を思ひ起し給ひ。すでに事をあげんと為し給ひける時。長七郎君が
 - 第1巻 p.261 -ページ画像 
しひてさへぎりとゞめ給はずしもあらば。事の破れて後あさましき幕府の咎をうけて。うからやからのはしまでもいかなるうきめにかあひにけん。いとおそろしき事なりけり。げに長七郎君は人々の為には命の親にてましましけり。さるに其御身はなかなかに幸なくて。うきよの限見はて給ひける事のいといとほしさよ。と常に打なげかせ給ひけり。こは長七郎君はこれよりさき江戸より京都にいたり更に大和に入り十津川浪士とも交りてよく時のさまを知らせ給ひければ今事をあげんには必らずやぶれて。望ある若人たちの空しく命を失ふもの多かるべければ。しばらくとゞめてひそかに時のいたるをまち。おのれひとり事を起して身を犠牲にし。せめて攘夷のいくさのいとぐちをだに引き出して。こたび思ひ立ちたる人々の志の程をも果さばや。と深く思ひ定め給ひける故なりとぞ。
さてかの企をしひていさめ止めける折。集りける同志の若人ばらは云ひがひなしとてひたすらはやり憤りけるを。長七郎君にはいといたう力を尽してさとしなだめ一まづおのがしゞ退き帰らしめ給ひ。大人と成一郎ぬしとの都へとて出立たせ給ひける後も。かの人々をして志をかへず又かろがろしきふるまひなく。静かに時を待たしめんとて。それらが許に折々おとづれてねもごろに語ひなぐさめ給ひなどさまざま御心尽させ給ひ。又ひとつには彼企ありける事を深く秘めて世にもらさじとつとめ給ひける。○下略


渋沢栄一伝稿本 第三章・第七一―七五頁〔大正八―一二年〕(DK010016k-0003)
第1巻 p.261-263 ページ画像

渋沢栄一伝稿本  第三章・第七一―七五頁〔大正八―一二年〕
○上略 十月の下旬に至りて、長七郎は漸く郷里に帰着したり、先生乃ち藍香兄弟・喜作及び中村三平と共に尾高邸の楼上に集まりて会議せり、長七郎は計画の経過を黙聴すること数時の後、徐に口を開きて曰く、「此計画には余も亦嘗て同意を表したるのみならず、寧ろ熱心に賛成したる者なり、然るに此度上国に遊びて形勢を観察するに、時機真に可ならざるもの多し。余が出発の初に於ては、諸藩の志士・浪人は長藩を盟主とし、朝廷を擁して討幕の計画を進め、気勢頗る挙り、大和の行幸一たび行はれなば、勤王の軍所在並び起るべしと思はれしに、豈図らんや薩長軋轢の結果は、八月十八日の政変となりて、討幕派の公卿は悉く処罰せられ、薩藩を中心とせる公武合体派の勢力代り興りて、長藩は宮門の警衛を免ぜられ、其藩兵は三条中納言実美以下七人と共に本国に奔れり。之と策応せし松本謙三郎・藤本津之助・吉村寅太郎等は兵を五条に挙げしに、踵を回さずして敗れ、平野次郎等は生野に兵を挙げしに、是亦忽ち撃破られて或は戦死し或は縛に就きたり。今や我輩烏合の衆を以て事を挙ぐるも、不成功に終るべきは明なり。幸にして高崎城を奪ひたりとも、兵を横浜に出さんことは思ひも寄らず、横浜まで押出して外人を攘斥せんには、十分訓練せる兵にあらざれば不可なり。又諸藩の兵も幕府の兵も、尫弱なるには相違なけれども、其兵数多きが故に、之を打破るは困難なり、一敗地に塗れて百姓一揆同様に見做され、はかなき最後を遂ぐるに至らんこと、殷鑑遠からず、十津川の浪士五条の挙兵に関係せる人々をいふを見よ、藤本津之助・松本謙三郎など、思慮才覚ある人々なるに、僅に五条の代官を斬つて身則ち亡び
 - 第1巻 p.262 -ページ画像 
たり。其人数は百名を越え、有名なる中山侍従忠光を主将と仰ぎしも、朝議一変して三条中納言等の長州に走ると聞ゆるに及びては、衆皆潰乱せるにあらずや。よし我等の計画が都合よく運びたりとも、恐らくは十津川浪士程の事を為し得るに過ぎざるべし、之が為に多少天下の士気を鼓舞するを得んも、挙兵の成績に至りては、殆どいふに足らざるべし。かゝる効果の乏しきことを敢行して、有為の士を非命に斃れしむるは遺憾なれば、余はあくまでも不同意なり」といへり。先生之を駁して曰く「十津川の事・五条の挙に就きて考ふる時は、いかにも足下の説の如くなるべし、さりとて幕府及び諸藩の兵と対抗し得べき実力を備へたる後にせんとせば、果して何時をか期すべき、我等既に陳勝・呉広を以て自ら任じ、天下の志士に率先するを誓へり、縦令事敗るとも、同志の徒相尋いで起らば、幕府を倒すこと敢て難きにあらず、我等はたゞ天下の為に犠牲たらんのみ、何ぞ成敗利鈍を顧みるの遑あらんや」といへば、長七郎も屈せず「失敗を暁りつゝ無謀の計画を進めて、流賊同様の最後を遂ぐるは、決して志士の本懐にあらざれば是非とも思ひ止まるべし」とて、激論夜を徹するも、長七郎はなほ自説を執りて屈せず、固く之を争へり。此に於て先生等漸く上国の形勢に鑑み、冷静に再考するに及びて、其説く所道理に中れるを暁りたれば、衆と共に其言に従ひ、遂に挙兵を中止することゝなれり。此時長七郎は先生等の反省を喜びつゝも「此の如き義士仁人ありながら、其志を伸ぶること能はず、嗚呼天も亦無情ならずや」とて、声を放ちて号泣せりといふ。蓋し長七郎は上京して八月十八日後の事情を詳にし今は挙兵の時機にあらざるを暁りたれば、初志を翻して先生を諌止せしものゝ、回天の気運の否塞せるを歎きて、自ら無量の感慨に堪へざるものありしならん。実に長七郎の説けるが如く、先生が兵を関東に挙げんとの策は、其時を得たるものにあらず、かの八月十八日の政変以来、天下の形勢全く一変して、討幕派は中心を失ひて混乱し、其中の機敏なる者は、皆鋒鋩を収め跡を晦まして、密に再挙の時機を待てり。さすがに長七郎は上国に出入して此形勢を察し、強ひて先生等を諫止せること、真に時宜に適したる意見なりしなり。此際桃井儀八の計画も挫折して行はれず、後遂に中止となる。亦上国の波動を受けたるなり。後に先生此時の事を回顧して、余が幸に生命を完くして今日に至れるは長七郎の力なりといへること、誠に其故ありといふべし。先生等既に長七郎の言に従ひて計画を中止するや、直に其旨を伝へて同志の団結を解くと共に、自身の進退につきても考慮する所あり、思へらく、「既に身を捨て家を去りて国家に尽くさんと決心せし上は、徒に郷里に閑居すべきにあらず、郷里にあらば、八州取締といへる幕府の警吏は常に非違の輩を物色す、よくせずば嫌疑を蒙り逮捕せられまじきにあらず、旁此地を去るに若かず」と、乃ち名を伊勢参宮に託し喜作と共に京都に赴かんとす。蓋し其頃京都には諸藩の志士多く集りたれば、身を匿し事を図るに便宜あるを以てなり。かくて十一月八日二人相携へて京都に奔れることは、便宜次章にいふべし。されど藍香は一家の戸主として、家政万端の責に任ずるが故に遠行すべからず、又長七郎は元来剣客として世に知られ、多少粗暴の行あれども人之を
 - 第1巻 p.263 -ページ画像 
憎まざるが上に、京都より帰郷せるばかりにて、再び引き返さんも面白からねば、剣道の指南をなしつゝ、時機を見て先生等の跡を追はんと藍香と共に其居村に留れり。


藍香翁 (塚原蓼洲著) 第五五―六六頁〔明治四二年三月〕(DK010016k-0004)
第1巻 p.263-266 ページ画像

藍香翁 (塚原蓼洲著)  第五五―六六頁〔明治四二年三月〕
      (八)大激論
即夜、会議は翁の家に開かれたり。其の光景は如何。その決議は如何。殊に其の特使を得て昼夜兼行、驚いて其の故山の本営に帰れる長七氏の議論は如何。抑も氏は曩に、身を挺して坂下門に安藤閣老を刺んとしたる者。又た眼《まの》あたりに和州の天誅組なる者の一挙を見たる者。然も壮齢二十六。必ずや進むで此挙の急先鋒として、其の鬱抑せる慷慨の気を電光一揮の下に漏すならむ。不知氏《しらず》の提議は如何。
事は案外なり。翁等数人の談話を黙聴多時《しばら》くせる氏は、徐《やほ》ら其頭を掉つて厲声一番せり。
 『僕は此挙は、大不賛成だ!』
 『甚麼《なに》?!』
と翁等は、聞ける耳を疑はれき、
 『不賛成とは。……抑も何が不賛成……?』
 『余程此挙は、愚な挙だと思ふから不賛成です。失礼ながら御兄様も、渋沢君等も、我のみを知て彼を知《しら》れぬ。否《いや》、猶ほ僕をして痛切に言《いは》しむれば、彼も知らず己も知らんで、可惜《あた》ら為す有るの躯を、竹槍席旗の百姓一揆として首を斬れて仕舞うに了るのだ。実に没要領《つまら》ぬ事!で僕は大不同意ので……。疾く其の同志等は解散をお為せなさるが宜しからう!』
思はざりき如是《かくのごと》きの異議を此人の口より聞むとは。一同は唯目と目とを視合せたり。否、目と目とを見合せたるには止まらで、
 『長七郎!変心かツ?!』
 『咄!卑、卑怯!!』
恁る叫喚《さけび》は座隅より発《おこ》りて。就中《なかに》も中村三平、真田範之助等の壮士は逸くも剣を手にしたり。他の者も亦た之れに応ぜり。
 『斬《や》れツ!!』
 『待てツ!』
と抑止《とどめ》られしは翁にして。
 『他の意衷も聞んで濫りに刀を執るなンぞ! 其れこそ卑怯だ。……長七君が胸臆と云ふは今拙者等が訊く。各位《おのおの》は静粛《しづか》に其の議論を傍聴《きかツ》しやい!』
恁く一喝を加へられしは、両渋沢氏なりき。
此の問答に就ては、男爵の嘗て編者に語られたる者、最も詳密を尽して毫も余蘊無し。乃ち之を左に録す。曰く、
此の会議は、当時我々の未来の運を定めるに大切な会議で有つて、然も豪い反対の議論が、予想外の長七郎の口から出ましたから、其で到頭其日には纏まらず、其夜は徹夜して、翌日も一日論じ合つたのです。
 此《これ》で其の議論の激烈《はげし》かつたも御了得《おさとり》になれ様が、其の長七郎の異議
 - 第1巻 p.264 -ページ画像 
と云ふのは、恁う云ふ趣意のです。『左様な軽挙は、単《ただ》に自他一同の不幸を来すに過ぬので、国家に取つては何等の益も無い。各々の希望攘夷と郡県を達する処では無い、全然《まるで》我々は草賊と視られて、屍を野に曝すか、否らざれば、縲紲の辱めを受けて首を獄門に梟されるのが終局《をはり》である。其の趣意も一向貫徹せずに、徒《た》だ乱離の人と為つて刑戮に触れる。実に此位ゐ愚な話は無い。』と恁う云ふ説を以て我々の企図を一概に暴挙として止めやうと為た。
 其処で、翁は勿論、私なり、喜作なり、其他其の評議の席に列した数名の人は、皆此の長七郎の異見に反対した。『決して草賊などの汚名を受る事は無い。且つ精神一到底事《なごと》か成ざらむやだから、必らず我々の冀望は貫徹し得る者と信ずる』と主張した。けれども長七郎は猶ほ八方に当つて其を論破した。先づ十津川事件と云ふのが其前に有つたが、此は御存知の藤本鉄石、松本奎堂抔と云ふ、何れも有力の人が中心で、京都の公家衆《くげ》の、然も過激の中山侍従が代表者で、大和へ行て旗を挙げ、五条の代官所を打破つて、代官鈴木源内を殺して、其から兵を集めて近隣の諸侯を徇《とな》へやうと為た。処が高取の植村藩に支へられて、思ふ様に事が運ばず。殊に藤堂の兵に押寄せられて、一戦直ちに軍《いくさ》が敗れて、頭立つた者は討死をし、其余は散々に為て仕舞つた。長七郎は其の実況を最も好く知つて居るから、『此の我々の挙は、恰も十津川と同じ様な結果に為る。高崎の城を奪ることは決して出来るもので無い。縦し奪れた所で横浜を衝く抔は思ひも寄ぬ義で。出れば近隣の諸侯に喰留られる。其の奪つた高崎の城も攻落される。然して右に云ふ縛り首に為る。実に妄挙である。軽卒の行為である。』と言つて切りに止めた。
 処が、私は最も実行の熱心者で有たから、此時長七郎と殊に激論をした。『然う御前《おまへ》は言うけれども、何時まで此の形勢を恁うして便々と眺めて居るのか。成る程五条の暴挙が成功を為なんだと云うことは自分も聞て居る。我々の目論見も、果して目的を達し得らるゝか何うかと云うは分らねども、苟くも尊王攘夷と云うことを唯だ口にのみ言うて人に誇らうと云ふ料見では、お互に無いでは無いか。何時も言ふ此の国家は、徳川家の国家でも無ければ、大名の国家でも無い。日本国民の国家である。日本国民の国家であれば、国内の戦争は兎も角として、外国との関繋とあれば、国民全体で負担せねば為らぬ。徳川幕府の開ける以前の元亀天正頃の国乱は、武人連中の権力争ひだから百姓町人は関せぬでも好いが、外国に対する今日は然様《さう》は行ぬ。我々国民は此の日本国民として、其れ丈の責務《つとめ》もあれば覚悟も要る。況んやお互に志士を以て自ら任じて、国歩の艱難を何うにかして救はうと思ふには、一死国に報ゆるのは固より其分で、此外には別の手段も無い。だから世間からは狂と呼れても愚と罵られても、其は其者の言うに任せて、我々は我々で其の信ずる所を行《や》る。全体此の目論見などは御前から述て、私共が其を止ると云ふのが順序であるに、我々の代表者の位置に居て、国家の為には一身を抛つと云ふ覚悟の御前から箇様の議論を聞くのは幾んど意外だ。目前の成敗ばかり論じて我々の行動を妨害《さまた》げると云ふのは、事
 - 第1巻 p.265 -ページ画像 
理顛倒の話である。察するに御前は命が惜く為つたのだらう。剣術は如何に強くても、精神《たましひ》が腐敗《くさ》れては役に立ぬ。情け無い事だ。』と激論に及むだ。
 すると長七郎は声を放つて、大に慟哭《ない》て『恁く迄事理《こと》を分けて論じても解らぬとは其方《そちら》こそ情け無い料見だ。併し何と言ても抑止《とめ》る。多数の人には換られぬから腕力《うでづく》でも抑止る。若し渋沢が何処迄も決行《やる》と云ふなら僕の命を棄ても止る。』と言ひ張ると。私は又た『長七郎を殺しても行《や》る。』と、既に刺違へる迄の覚悟をした事は記憶て居る。
 然う云ふ様に迫詰《せりつめ》た結局が、長七郎の言ふ事を是《ぜ》とせねば為らぬ次第と為つて、竟《つひ》に此の一挙は一時見合せと云ふ事に終つた。此は翁も極めて残念に思はれたらうが。其処は理義を見る眼の敏《はや》い人だから『過つた』と思ふと決して其事に就て執念くは論《いは》れぬ。『然らば今暫く天下の形勢を窺《み》やう。』と云ふことで此の一埒は其儘と為りました。
 此で猶一つ御話を致したいのは、翁の家庭の仕附であつて、勿論此の一挙一条などは家内《かない》の女抔《もの》には話さぬが、何しろ一日一夜に亘つた我々壮士の激論である。鉄拳こそ飛ぬが、随分我知らぬ大声も出た。で翁の母親、妹などは、今に何事か出来はせぬか。起りはせぬか。と実に心配を為たやうで有たが。併し家は百姓でも、国家の大事と云ふ事は平生から心得て居る。又た忠臣義士の伝記も、演劇《しばゐ》や講談、読本類《よみほん》でも見て知てゐる。箇様な我々の企図《くわだて》などに婦人の口出しをするのは甚だ宜しく無い事だ。主人《あるじ》たる者の此上も無い恥辱だ。此様な際には不知《しら》ぬ顔をして、差控へて居らねば為らぬと云ふ事を明白《ちやん》と心得て居られたから、此の長い議論の間に、立聞一つ為る者も無く。其が済んだ後でも、蔭口《うはさ》を半分立てた者の無かつたのは、流石に翁の仕附の立派なのと、一家の輯睦して居る工合が判ると思ひます。
 猶ほ、此夜の事件《こと》に就いて一言を要すべきのは、彼の長七郎が慟哭《ない》た事です。私初め喜作も其外も、かの行懸りで逆上《のぼせ》ては居つたが、其の長七郎の哭《な》く容子が、余程事変つて見えたので孰れも驚いた。
 処が此後間も無くして、同人は風《ふ》とした過失《あやまち》から人を殺《あや》めて、刑罰《しおき》には処《あ》はなんだも、竟に其の為に残念な終局《をはり》を遂げましたが。或は此時に精神に異常を来した、其れが其の原因《もと》に為つたのでは有るまいかとも思ひます。兎に角惜しい事を致したは言ふ迄もなく。同人が事を作すに熱心に、全幅の精神を傾注して吝まずといふ尊とい性質を有つて居つたのも、此れで判ることゝ存じます……。
事は無為《ぶゐ》に治りたれども、然ればとて其の漏泄の惧れ絶て無しとも限られず。既に閉《た》てられぬ人の口を防遏《ふせ》ぐに由無しとする時は、未だ雨ふらざるに門戸を繆綢する其の善後の策を差向き講ぜざる可らず、との議は引続き起りて、遂に両渋沢氏は、暫く難を京師に避くべしと云ふに決したり。是れ此事たる、男爵及び喜作氏が主として諸地方を奔走せられ、自づから其筋の目にも多く触られしかの疑ひあるを以てなり。但し、長七郎氏は、昨今の新顔なれば仔細無かるべく。翁は、家事の都合上其家を去るべからず、との議に由りて、猶ほ居村に留まられき。すなはち其月十一月の八日を以て、両氏は伊勢参宮の名の下に郷里を発ちて、江戸
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に出で、暫時滞留の後、東海道を西方《にし》に上られき。
此の遠慮も実に左の事あるに由《よれ》るなり。当時上武の間に関東取締なる吏員ありて、此等の吏員は其手に逮捕と糺問の権を握れり。然も其の部下には所謂る『目明し《めあか》』なる徒数名《もの》ありて、挙動の異《あやし》むべき者あれば、捕へて仮《ゆる》す無し。故に此等の視る目を避るは今の急務とすと。なれど倖にも人々は彼等の嚊《か》ぐ鼻を脱《のが》れて、翁は尚依然たる里正《なぬし》にして郷先生たり。農家にして、且つ藍商たりき。然して翁は又た、此際、左の如き考案を持せられしと云ふ。曰く、今日の形勢を以て見る時は攘夷鎖港は或は行ひ得ざるものあらむ。既に行ひ得ずとする時は、今後に起るべき国家の困難は、通商の利鈍なり。兵戦の敗るゝや固より恐るぺき者あるも、其害や猶ほ一時的《いちじのもの》たり。夫《か》の商戦に衂《やぶ》るゝが若《ごと》きは、其禍真に測るべからずして、我国の膏血は其量を竭くして彼に奪ひ去らるべし。此を防ぐの策如何。唯だ本を固くし、源を深くし、智識を研き、徳行を厚くし、農桑を力め、工芸を励みて、彼が饜《あ》くなきの慾を挫きて、其の侵掠を禁《とゞ》むる一事あるのみ。と、乃ち此日よりして一面農工の事に念《おもひ》を凝らし、大に国本を強うするの策を講究せられしと云ふ。蓋し翁が後来勧業に就ての経営なるものは、或は此日に於いて其の脳裏に胚胎せし歟。猶其は章を重ねて説くところあらむ。



〔参考〕竜門雑誌 第二六五号・第二二―二四頁〔明治四三年六月〕 【上略 昨年私は亜米利加に…】(DK010016k-0005)
第1巻 p.266-267 ページ画像

竜門雑誌  第二六五号・第二二―二四頁〔明治四三年六月〕
○上略 昨年私は亜米利加に旅行しまして、シラキウス(紐育州)といふところで、日本に長く居られたところのフルベツキといふ人の息子に会見しました、息子と申しましても六十才位になります(大笑)其人が学校を設けて居ります、其学校に於てグリフヰスと云ふ人にも面会しました。此の人は「日本帝国」といふ問題で書物を著述した学者であります、亜米利加ではさまで有名な学者ではないけれども、実によく日本の事情を詳に調べて居ります、此グリフヰス氏が其学校で「日本実業団を迎ふ」といふ意味の演説を致しました、此の演説を聞くに及んで、私は大に弁ぜざるを得ない次第となりました、而已ならず大に私の心を刺撃して一言饒舌りたくなりました、故に順番に拘はらず所謂飛入りに罷り出でまして一場の演説をしました、それが先刻伴君の申されました横浜焼打事件であつたのであります、今其の事を此処に繰り返すのでありますから別に耳新しい話では御座いませぬ、維新後玆に四十三年の歳月を経まして、国家は富強隆盛に進んで参りました、開国以後から数へますと五十五六年、百事順序好く進んで来たといふ事は頗る喜しい次第であります、併しコンモドルペルリが嘉永六年浦賀に入港しました時の日本といふものは、どうであつたかといふに実に固陋千万な有様であつたのです、而してコンモドルペルリが来た以前は第一に日米両国間に通商を開きたい、蓋し宇宙といふものは左様に極く狭い考へを以て只一方に偏在するものではない、人道といふものは須らく交を厚くし相愛し相助けて友誼相共に通ぜなければならぬかといふ主義でやつて来たのであります、併し其の時に同じく日本に来た他の国々が皆一様であつたかといふとこれは期し得られないので
 - 第1巻 p.267 -ページ画像 
あります、今日より三百年余のイスパニヤ、葡萄牙等の宗教家の主義といふものはそんなものではなかつたのであります、宗教家を送り、之れに次で兵士を輸り、兵士と宗教との関係を以て機会よくば其の国を占領するといふのであつた、丁度日本へもその通り多くの宗教家を送つて来たのでありす、其の時分に攘夷論が熾に起りましたといふものは、諸外国皆一様に友誼を厚くするといふ事を期し得られない。故に和の攘夷を主張し横浜焼打を企図したのは奪略主義を持つて来る外国を攘斥するものであつて米国の如き人道に基き友誼を重んずる国を攘斥したのではなかつたと弁じました。
此の席に居らるゝ諸君は今度外国と親しむべし交るべしであるといふ事は素より言を俟たないのであります、若し夫れが我が国を侵害せらるゝといふ事であつたならばどうでせう、決して御承知ありますまい、勅語にもある通り「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」といふ事があるでせう、私当年の攘夷論といふものは其意味であつたのであります、決して亜米利加を攘夷するではない、侵略せんとする外国を攘夷するといふ事である、此の辺の処を誤解して下さるなといふて弁解したのであります、グリフヰスは如何にもさうであつたかといふ事で翻りて意志相投じ肝胆相照して共に手を握つたのであります、横浜の焼打事件は私が見聞の狭い結果から此の観念が強かつたのかも知れないが、其の頃渡来の外国人には侵略的のものが一部分あるだらうと思つたからやつた事でありまして、他の意味で焼打を企てたものではないといふ事を確言して置きます、侵略的の外国人ならば、焼打すると云ふことは今日の諸君も之は同意下さる事だらうと思ひます、其時の行為が若い時分の突飛な思案、乱暴な計画でなかつたならば諸君のお譏りを蒙る事もなからうと思ひます、丁度本年で五十年程経過しました昔語りであります。横浜焼打事件はさういふ事であつたといふ事を一言弁解して置きます。○下略
   ○右ハ栄一ガ、明治四十三年四月二十日関西旅行ノ途次大阪ニテ大日本商学界ノ請ニ応ジ中ノ島公会堂ニ於テ試ミタル講演ノ一節ナリ。


〔参考〕竜門雑誌 第三三七号・第二七頁〔大正五年六月〕 【道徳と経済との一致】(DK010016k-0006)
第1巻 p.267 ページ画像

竜門雑誌  第三三七号・第二七頁〔大正五年六月〕
○上略 私は微力で余り世に功能も成し得ぬ。併し、故郷を出掛けた時が二十四才であつたから、丁度五十三四年前である。其頃から堅い信念を持つて居た、夫は覚束ないながら、国家に尽さうと云う精神。実は乱暴な書生気質で、事に依ると或る大名の城を焼討すると云ふ考へをした位であつたから、余程過激であつたけれ共、併し、自己の利益をしやうと云ふ意味でなくて、詰り国家に尽さうと云ふ心から若気の至りでさう云う暴戻な思案を為したのである。矢張り一種の信念は其時から有つたと申してもよいと思はれる。○下略
   ○右ハ『道徳と経済との一致』ト題スル栄一ノ談話ノ一節ナリ。


〔参考〕竜門雑誌 第四六一号・第二頁〔昭和二年二月〕 【米寿を迎へて】(DK010016k-0007)
第1巻 p.267-268 ページ画像

竜門雑誌  第四六一号・第二頁〔昭和二年二月〕
○上略 十七八才位の頃から、一つの考を有つて居りました。それは当時存在した甚だしい階級的差別がよろしくない。之は是非廃せねばなら
 - 第1巻 p.268 -ページ画像 
ぬ。それには封建制度を打破し、日本の国風を改革しなければならない。これが国民の一員としての為さねばならぬ義務であると云ふのでありました。これは私が日本外史などに刺戟せられた為めでありませう。その為めにさうした考へを持つことがよくないと、親から叱られたり訓戒をせられたりして、一度は思ひ止つたが、其後四五年の間家業を手伝ひながら勉強して居る内、対外関係が急迫し、遂に晏如たるを得ず、封建制度の改革もさることながら、今外国の侵略を受けることは、国民として座視するに忍びないとし、此処に外敵を打ち払はうと云う自惚心を起し、暴挙の計劃をするに至りましたが、事を挙ぐるに及ばずして止めました。○下略
   ○右ハ『米寿を迎へて』ト題スル栄一ノ談話ノ一節ナリ。


〔参考〕尾高定四郎氏談(DK010016k-0008)
第1巻 p.268 ページ画像

尾高定四郎氏談
 ○青淵先生『焼討一挙』異説
 私が渋沢治太郎さんのお母さん○青淵先生ノ妹てい子から伺つた話ですが、
『子爵が横浜外人街焼討計画の会合をこゝで(尾高氏宅二階)なさつて明方にお家へ帰られて、お父さんに「結果はどうだつたか」と訊ねられて「瓦解」と一言いはれたのを自分は障子の陰で聞いた』
といふことでした。しかし、これは他の話と少し違ふので、確かに聞いたことは聞いたものゝ今迄口外は致しませんでした。
 あの時青淵先生の「伊勢参宮」のことがたやすく出来たのをみるとお父さんも表面は別として、自分の子供が何をしてゐるか位は考へておいでになつたらうし、又内々にはお許しになつてゐたのではないかと考へられます。
 また、治太郎さんのお母さんは御承知の通り賢夫人でございましたから、お聞き違ひとは思はれません。
   ○昭和十一年十月十六日尾高定四郎氏ヨリ同氏邸ニテ伺ヒタル談話ノ一節ナリ。聴取者土屋喬雄、太田慶一、山本鉞治、市川弘勝、山本勇。