デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.6

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

1章 亡命及ビ一橋家仕官時代
■綱文

第1巻 p.338-365(DK010025k) ページ画像

慶応元年乙丑三月(1856[1865]年)

是ヨリ先、二月下旬歩兵取立御用掛ヲ命ゼラル。是月備中・播磨・摂津・和泉四ケ国ニ於ケル一橋領ヲ巡廻シ、兵四百数十名ヲ募集シテ帰ル。此時備中寺戸村ニ阪谷朗廬ヲ訪フ。


■資料

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之二・第四五―六一丁〔明治二〇年〕(DK010025k-0001)
第1巻 p.338-344 ページ画像

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之二・第四五―六一丁〔明治二〇年〕
○上略 其趣向といふのは、是まで一橋家には、兵備といふものが少しもない、御床机廻りといふ君公の親兵様の弓馬槍剣に達した壮士が百人ばかりあつたけれども、是は戦陣に立て敵中へ進撃するものではなく唯君を護衛するの責任を以つたもので、外に御徒士御小人などいふ足軽体の者もあつたが、これも兵士とは見られない、又御持小筒組といふものがあつて(即ち此席に居る大久保なども当時其一人であつた)小銃を撃立てゝ軍をしやうといふ人々で、不完全乍らも歩兵の資格は備はつて居たが、是とても僅かに二小隊ばかりの少数で、殊に訓練有素といふ強みのあるものでない、殊に此御持小筒組は幕府から附与された、謂はゞ御客兵隊といふやうな有様で幕府よりの仕向は成丈け兵力の附かない様にしてあつた、固より一橋は隠居役であるから、別段に兵隊などはいらぬ訳だけれども、今日の御大任、即ち京都守衛総督の職掌に対してみると、少しの兵備もないといふのは、随分訝しい話しであると思つたから、或時黒川に向つて、守衛といふ文字は、守り衛るといふ字訓であるが、苟も御当職御奉命の上からは、幾分か兵隊がなくては、御守衛といふ
 - 第1巻 p.339 -ページ画像 
は、有名無実ではありませぬか、今日二小隊や三小隊の歩兵では、真逆の時には、何の役にも立ませぬ、其上幕府からの差向ケであるから向ふの都合で何時でも勝手に取換へて仕舞ふといふ姿、殆と兵備のない手ブラ同様の有様であります、是ではなかなか京都守衛総督の職任に適《かな》つたこととは謂はれますまい、と論じて見た処が、黒川のいふには成程それは甚だ適切の論である、しかし目下如何とも仕方がないといふものは、外でもない、即ち此の上幕府から兵隊を借り様とするも既に此までに月々金一万五千両づゝ、其外に米が五千石ツヽ其為めに宛行はれてあるから、再び借用といふことも出来ぬ、但し金の遣り繰りは付くとするも、兵は人を要するものだに依つて、別に工夫がつかぬとの事であるから、自分のいふには然らば私に一工夫があります、御領内の農民を集めて歩兵を組立てたら、随分千人位は出来ませう、御話のやうに金の工夫が付くものなら、二大隊の兵は忽ち備へる事が出来ますといつたれば、黒川は如何にも妙案だけれども、中々其人数が容易に集るものでないが、それには何か目的の立つたことであるか見込んだ目的のあるならば、先づ其法案を立てゝ見るがよいといひますから、ソレハ必らず見込みがあります、併し其委しい手続は、何にしろ拝謁を願つて、御前に於て、篤と意見を申上たいと存じますといつたら、ソレハよからう、早速拙者から申上やうといふことになつた、此の拝謁といふことは、随分尋常の格式からいふと、面倒なものであつたが、自分は既に折田の一件から帰つたときに一度、其後にも一両回拝謁を願つたことがあつて、最初から都合三四度も御前に出て親しく言上したことがあるから、今度も又両三日を経てから、拝謁を許されて、言上した趣意は、京都御守衛総督の職任を十分に御尽しなさるには、是非とも兵備が入用である、兵備を設くるには、先づ歩兵隊を編製するが第一である、而して其兵員は領分から農民を集めるが一番好い趣向である、併しこれを集めるに至ては、深く注意をせねばならぬ、地方役人などが、只役向一ト通りで募集した位では、中々立派な兵隊を撰ぶことは出来ぬ、それには京都から適任の人に此の募集方を命ぜられて、領分内へ派遣の上、一般領民を各所に招集して、能く今日の時勢を説き含め、募集の趣意を会得させて、此の応募は全く領民の義務であると、自から進んで出る様にせねばならぬ、といふことを委しく陳述して、偖て其御用は、不肖ながら何卒私へ仰せ付らるゝ様に願ひたい、如何にも粉骨砕身して必らず、相応の人を連れて来て、兵備の御設けが速に立ち、各藩を凌駕するやうな立派ナ兵隊の出来まする様に致します、と不遠慮に言上した、然る処此の建言が御採用になつて、其翌々日、自分が歩兵取立御用掛をいひ付られた、其頃は軍制御用掛といふものがあつて、黒川が其掛長で、物頭抔にも数人の掛員があつた、勿論此度の歩兵取立御用掛も、同じく此の掛中のものでありました、右の命を蒙つたのは二月の二十八日あたりであつたと覚えて居る、尤も自分の考では、自身も田舎の農民から駈出す程の事だから少し誘導したならば、続々望み人があらふと見込をつけて居た、元来一橋家の領地といふは、摂州に一万五千石、泉州に七八千石、播州に二万石、備中に三万二三千石、都べて八万石、外に二万石は関東
 - 第1巻 p.340 -ページ画像 
にあつて合計草高十万石の御賄料であつた、然るに備中は備中丈ケの代官所が、井原村といふ処にあつて、摂泉播の三ヶ国は大阪の川口に代官所があつた、依て京都の御勘定所から御用状を以て 斯く斯くの訳で歩兵取立御用掛として渋沢篤太夫(一橋家へ奉仕の時篤太夫と改称すべき旨申聞られて爾後これを通称とした)を派出するにつき、百事同人の指図に従ふべしとの通知になつて、自分は其時に、今日は仙石原に居る須永を下役に伴れて、まず大坂の代官所へいつて、代官に面会して、御用の要領を申述べると、大坂の連中は如才ないから、至極大切の御用とは万々承知致して居ります、併ながらまづ備中の方を前になすつたら好からふ、備中の方が出来さへすれば、摂泉播は容易に出来ます、と如何にも安々出来さうに、代官始め重立つた掛官等がいふから、是は備中の方さへ出来れば、此の方は訳もなく出来ると思つて、然らば備中から着手しやうといふて、大坂を出立した、尤も凡そ四月中旬頃にも、備中の方を仕舞つて来て、播州の村々から先に手を附るから、代官所からも其時に誰れか出張せられよ、何れ日限は其時々に通知するから、と向後の手筈など荒増し打合せて、大坂を旅立したのは三月四日頃の事であつた、
それから四五日の旅行で、三月八日頃に備中の井原村《江原村》へ着した、其前夜に御領分の重立つた荘屋が十人ばかり、板倉といふ宿駅まで出迎ひに来て居たが、此の処は御普代大名の板倉侯の城下であるから、宿内では鄭重の取扱をして、市中通行の際などは、下タに居ろうといふ下坐触迄して、我ながら、中々の威光を増したやうに思はれた、尤も京都出立の時に、田舎への出役であるから、少しは形容も必要だといふので、鎗持合羽籠などを持たせて、長棒の駕籠に乗つて行くといふ次第であつた、此の長棒駕籠といふのは、幕府でも目見え以上の身分でなくては、用ゆることのならぬ制度であつたが、一橋家でも幕制に倣つて 目見え以上の者に乗用を許されて居たのである、自分は俄武士であるから、斯様なことをするのは甚だ不似合であつたらうと思ふた。それから其翌日、御領分の備中の后月郡の井原村に到着して、御代官にも面会し、又村々の荘屋にも御趣意の次第を面談して、御領内村々の二男三男にて、志あるものは速かに召連れて出ろと説諭した処が、御代官などのいふには、兎も角も村々の子弟を陣屋まで呼び出して、自分から直接に申渡す方が宜しからうといふことで、日々村民を呼び出し、陣屋の白洲へ出て、サテ今般かくかくの訳であるぞと言ひ聞かせると、附添の荘屋が何れ篤と申し諭しまして、御奉公致しますなら直に御請に出ますといつて、ガラガラと戸を明けて出て往くといふ有様で、毎日毎日此の通りで、多人数出ては来るけれども、一人として募りに応じて兵隊に出やうといふ者がない、ソコデ自分の考へるにはドウモ不可思議なことだ、乃公ならば大悦びで願ふが、ドウいふ訳で志願者がないのであらうと、更に言葉を丁寧にして、反復説諭していふには、一体各の量見では今日の時勢を何と心得て居るかしらぬが、世の中は何時までも波風たゝぬ泰平無事ではないぞ、今にも軍が何処から始るまいものでもない、左様なれば、己レは昔から百姓である、と安心しては居られぬぞ、其故血気壮んな手前共は、今の中に早く奉公を願つて、御領主の為めに働いたならば、上にも目のあることだか
 - 第1巻 p.341 -ページ画像 
ら、器量次第に立身功名の出来得る世の中であるから、土臭い百姓で生涯を終らんよりは、一番奮発して出るが宜い、斯く言ふ乃公も、元は百姓であつたが、今日の時勢に感じて、終に一橋公に奉仕して、此の度の御用をも命ぜられた次第である、などゝ深切に話したり、又厳格に諭したり、手を代へ品を代へて、感動する様にと色々工夫を凝らしたけれども、矢張一人として応ずる者がないから、弥以て疑念が生じた、是には必らず子細があるに違ひないと思つたが、何分其訳が見出せぬ、去ればとて京都で立派に請負ふた事柄であるに依て、今更募集が出来ぬといつて、空手《からて》で帰京する訳にも参らず、マア少し気長に考て居たら、其中に又思案も出るであらうと思ふて、是より後は村々の呼出しを止めて仕舞つて、扨て村々の荘屋に向つて、此の近辺に撃剣家はあるまいか、又学者はないかと尋たら、剣術の先生には関根某という人があり、学問では阪谷希八郎先生があります、此の阪谷先生は寺戸村といふ処で興譲館といふ学校を立てゝ、教授をして居りますといふから、成程兼て噂を聞て居た先生である、それでは、早速に阪谷を訪問しやうといつて、自分が一首の詩を作り、それに酒一樽を添へて、明日推参するといふ書面を贈つた、其詩の転結丈ケ記憶して居るが催喚紅友為通刺《(マヽ)》、先探君家無限 春、といふ句でありました、ソレカラ翌日は興譲館を訪ふて、先生は勿論、重立つた書生等と時事を談じて帰つて来て、其次には阪谷先生と書生とを自分の旅宿に招待して宴会を催したが、其時阪谷先生が開港論を主張するから、自分は之に反対して、是非共攘夷しなければならぬ、と駁撃の矢を放つて、頻りに開鎖の得失を討論した、処が阪谷先生が、ナンボ役人でも此の事ばかりは役人外で話しをせねばならぬといふから、勿論それれは面白イ、充分に議論しませうといつて、互に城府を開いて、痛飲縦談に時を移し、所謂唾壷の挫るをも覚えぬ程で、誠に近頃の愉快であつた、其後又池田丹次郎といふ者の宅にいつて、彼の関根といふ撃剣家と手合せをして見たが、評判ほどの達人でもなく脆《もろ》くも自分の打つ太刀を受損じて、負ケを取つた処から、直に其等の噂が立つて、此の頃来て居る御役人は、通常の俗吏ではない、学問といひ、剣術といひなかなかあつぱれの手際である、と一人が言へば二人が応じて、忽ち虚名が高くなつたから、近傍の村々で稍文武に心掛のある少年子弟抔は日々尋ねて来て、学問上の話し剣術の試合などを仕たことであつたが、或日のこと、此の近辺に何ぞ面白い事はないかと聞てみると、備中には春の中、鯛網といふことがあるといふから、興譲館の書生又は近傍の子弟などを同行して、其鯛網に出掛た、是は海中に網を下げて船で引寄せて来る仕掛で、鯛が其網の下を潜れば、底なしの網だからいくらも逃げ路はある訳ながら、只上の方ばかりへ寄て来る故、皆捕獲しられて仕舞ので、鯛が沢山に入つた時には、海面が赤くなるほど寄つて来る、そこで見物人が酒樽をなげて祝つて遣ると、軈て漁夫は二三尾の鯛を以て礼に来る、又価を出して買ふにも甚だ低廉なことである、自分等の一行は其鯛を料理して 酒を飲み詩を吟ずるといふ、愉快を極めたことであつた、右等の遊興に五七日を費して居ると、陣屋元トの村で二人、外の村方で二三人、是非京都へ召連れられて、一橋
 - 第1巻 p.342 -ページ画像 
家へ奉公の出来るやうに、心配を頼むといふものが出て来たから、それは奇特なことである、望みに任せて伴れてゆかふが、唯其丈ケの口上のみでは都合が悪いに依て、其望みの趣を斯様に書面に認めて来いといつて、下書を遣ると、其通りに認めて持て来たから、是れで本望を遂げる見込がついたと稍安心して、其志願書を預り置て、さて少し用談があるといつて、其夜荘屋一同を旅宿に呼寄せ其方達《そなた》に殊更の用談といふものは、此の間から段々と京都の有様を申聞けて、子弟二三男を京都へ召連れ、歩兵に組立てゝ御領主、即ち一橋家の護りとなつて御奉公をさせやうといふ趣意で、その人も見たり又丁寧に説諭もしたことであるが、一人も望み人がないといふから、今日まで日を送つた処が、玆に斯様な願書を出したものがある、此の人々の中には、総領息子もあり、又は二男三男で、凡そ五人程である、同じ備中の人でありながら、僅かの時日自分に接遇せし人の中から四五人も志願者があるのに、数十ヶ村数百人の内で一人も望み人のないといふ道理は有間敷筈、シテ見ると是は定めて各方を掣肘するものがあるゆえ、思ひながら尽力することが出来ないのであろうと推察するのであるが、万万一左様いふ意味のあることならば、乃公は是までの一橋の家来のやうに、普通一般の食禄を貪つて、無事に安んじて居る役人と思ふと大きな間違であるぞ、事と品によつては、荘屋の十人や十五人を斬り殺す位の事は何とも思はぬから、各方に於ても余りグズグズすると、其儘には決して差置かれぬ、乃公が看破した所は間違ひはない、察する処陣屋の役人が、彼是面倒を厭つて、掣肘して居るのであろうが、今の時勢を何と思ふて居るか、果して左様いふことがあるとすれば、代官であろふが荘屋であろふが、毛頭容赦はしない、元来篤く自信して自分から此の募兵の事を建言の上で、此の責任を負ふた以上は、成敗共に此の一身を以て当る所存で居るから、固より此の役目に就ては、因循姑息の処置は決して致さぬ考である、今此の通り自分の赤心を打明けて話したから、各にも包み隠さずに、是迄の機密を陳述したが宜いと詰かけて談じて見ると、全く推察の通り相違なかつた、其中重立つた荘屋の一人が、進み出ていふには、旦那様の御目鑑の高いので、迚も包み隠しは出来ないから、皆の衆も有体に申上るが宜いと言ひ出した、スルト同席の仲ヶ間が口をそろへて、ドウカ貴殿から何分宜しく申上て下さいと言つた、其処で前の一人が実は誠に恐入ました義で御坐りますが 御代官様が内々私共に仰しやるには、一橋も近頃は段々山師が多くなつて困る、現在執政の中の黒川などは、元ト下賤から成上つて、山師根性から様々の事に考をつけてアヽいふ身分に成つたのである、其本人が此の通りの人物だから、矢張り浪人が好きで、従来御家にない事を色々思付て、村々へ種々面倒な事を申越すことであるが、一一其申越す事に服従して居る時には、詰り領内人民の大難義になるから、成丈ケ敬して遠ける様にするがよろしい、今度の歩兵取立の事も誰もいやで御坐る、一人も志願する人はないと言へば、それで済む、しかし此はなしは極々秘密でないと、拙者も迷惑するから、篤と分別するがよい、と懇切な御内意で御坐りますゆえ 望人は沢山ありましたが、ソンナ事をいつてはならぬと誡しめて置て、一人も願ふものがないと
 - 第1巻 p.343 -ページ画像 
申上たので御坐ります、然る処旦那様が書生や剣術遣ひ抔を御愛しなさるので、私共が押へても押へられずに、終に直に自身から内願をしたので、顕はれまして、甚だ相済みませぬが、何卒内分に御聴済を願ひます、若し此の事が表立ちますると、ドンナ事になるかも知れませぬ、又御代官に対して荘屋一同が将来の勤向にも拘はる事で御坐ります故、何卒御用捨を願ひますと、さすが律義の田舎荘屋、根も葉も残らず白状したから、自分も詞を柔らげて、左様であつたか、それで何事も能く分つた、ナニ出願人が充分に出来さへすれば、別に咎めはせぬ、又其方達の迷惑にならぬやうに御代官にも談して、更にモウ一度説諭の仕直しをするから、其時には十分心配をしろ、間違ふと屹度承知はせぬぞといつたら、彼等は平身低頭して、ナニ御代官から御内意さへなくば、私共に於ては決して間違ひませぬと請けをしたから、モウ造作もないと思つて、其翌日、代官所へ談判として出掛ました、
代官への応接は、荘屋を談ずるやうには往かぬから少し改まつて、過日以来段々説諭致した処が、更に応ずる者のないものは、全くまだ説諭の届かぬ所があるゆゑと思ふから、更に明日から更めて説諭致したい 其に付て一応御心得のためおはなしをするが、今般の御用向は、君公にも深い御思召があつて、殊更に仰せ出されたことで、既に一橋に兵隊がないことは、各方も御承知の事であらふ、又現在の御職任ハ京都守衛総督であることも御承知であらふ、付ては是迄のやうに、一人の兵隊もなくては守衛総督の御職掌は尽せぬから 急に兵備を整へやうとするのは、所謂泥坊を見て縄を綯ふと一般であるが、併しそれでもないよりは優る訳であるから、責ては領分の子弟の二三男で、志願の者を集めて、兵隊を組立たならば、万一の時には相当の用に立つであろうといふ所から、不肖ながら拙者が歩兵取立御用掛を仰付られて参つた処が、過日来種々に説諭すれども、一人も出願人がないと荘屋共から申立つるけれども、それは全く事実志願人のないのであるか、又は人撰の致し方が悪いのであるか、抑もまた御代官、即ち貴殿平生の薫陶が悪い為めに、一人の応募者もないのか、何れ何処かに其原因があるであらふ、就ては貴殿も能く御熟考なさい、又拙者は此の職掌が勤らぬといつて辞職すれば、夫れまでの事であると思はるゝと、夫れは大に御心得違ひといふもので、苟もかゝる重大の御用を御請けして遥々当地まで出張致し、夫々着手したからには、若しも出来ぬといふ時には、その証拠を明了にせねばならぬ、然る時は貴殿にも如何なる迷惑を及ぼすかも知れず、又平常貴殿が地方へ対する教訓が、代官たるの職掌に適はぬといふやうな結果が出て来はせぬかとも御案思申ます、故に明日よりの再説諭には、貴殿よりも重立つた荘屋其他の人々に能々利害を御示しになるが好い、然らざれば、或は御同前身柄に障るやうな事が生ぜぬとは申されぬ、拙者は昨今一橋に仕官したのであるから、永年の間共に禄を食んだものではないが、苟も一日たりとも同じ君の禄を食んで、藩籍を共にして居れば、何処までも忠実の考を以て、御話しをせんければならぬ、夫故に念の為め一言申して置から能く勘考の上で返答をなさいといふと、代官も困つた様子で、委細承知しました、全体厳重に示してあるので御坐りますが、猶又今度は一
 - 第1巻 p.344 -ページ画像 
層厳重に、などゝと分疏をしました、
ソコで翌日から再説諭にかゝると、今度は続々願ひ出るものがあつて忽ち備中で二百人余りも出来た、其上に当村には斯様に身体の大きな男があるから、別段に御召連れを願ふ、ソレハ面白イ、旗持にするが好い、又斯ういふ豪胆な者が御坐る、ソレモよからふ、伴れて行かふといふので、当然組立つた外に二十人計りも余分に出来たから、其連中は何月何日頃に出立して京都へ参れといふことを定めて、玆に始めて本望を果し、応募人名書抔を取調べて、尚丁寧に御主意をいひ含めて、備中を出立し、それから播州摂州泉州を廻つた、所が既に備中で斯様斯様といふ通知があつたから、各村で精々拵へて出す様な訳になつて居て、一度呼出して説諭すると、ズンズン願人があるといふ有様で、忽ち御用が弁じて、総体の人数が凡そ四百五十六七人出来たに依て、ソコデ五月の中頃に京都へ帰つて復命をした、処が速に大役を仕遂げて御満足に思召すといふ御褒詞と、白銀五枚に時服一ト重ネを賞賜せられました、其後追々募集の人数が各地から来著するから、いづれも紫野の大徳寺へ止宿させて置て、其れを訓練する為めに、軍制局に於て種々の評議をして、其大隊長は物頭の中に両人あつて、洋式の兵制を一通り心得て居るけれども、指図役頭取とか、又は指図役などに乏しきゆえ、彼是と人繰りをして、其役を定めたが、丁度其年の七月になつて聊か兵制の組立が出来たのであります、其勤向に付ても或は事を取扱つた役人の不正を摘発して其人を退けたり、又其兵隊給養の事に付ても、種々に心配をしたこともあるが、夫等を一々申すと大変に長くなるから、これは略して置きませう、
○中略
少し話が跡戻りを致しますが、曩に歩兵組立の為めに領分内を旅行の時に、ありふれた事ではあるが、其土地に名誉ある人、又は孝子義僕を褒賞するは、地方政事の必要と思ひたれば、巡回中に聞糺し、例の興譲館の阪谷先生を始めとして、或は備中にて親孝行の婦人とか、年老て健全なる独身者とか、又は摂泉播にて農業丹精の人とか、地方にて奇特の功あるものとか、凡そ十余人の善行者を取調べて、帰京の上其褒賞の事を用人へ具状した、処が速かに採用せられて夫々褒賞に与かり、特に興譲館の阪谷先生は京都へ呼出して君公の謁を賜はり、相当の褒詞があつて、学校へは扶持方を附与されたから、地方にては、一橋の徳を称し、且つ渋沢が来てから善政が多いとて、大に自分の評判もよくなつたといふことであつた、


阪門会ニ於ル演説筆記 (渋沢栄一自筆稿本)(DK010025k-0002)
第1巻 p.344-348 ページ画像

阪門会ニ於ル演説筆記 (渋沢栄一自筆稿本)
                  (男爵阪谷芳郎所蔵)
 特に斯る御席にて演説らしく申し述べる程の価値ある事ではありませぬが、総じて追善会には既往の談話が適当と思ひますから、五十年前の昔語りも故人を偲ぶ主旨に協ふと考へまして、玆に一場の懐旧談を致します。全体諸君御揃の後に於て御話する筈なれども、私に先約ありて時間の都合があしき為めに御集りの方々に対して開陳する事に致します。阪谷朗廬先生が漢学に造詣深かりしことは、玆に喋々を要
 - 第1巻 p.345 -ページ画像 
しませぬが、私と先生が親交を結びましたのは慶応元年の春であるから、今日から五十二年前であります。私は文久三年の冬埼玉県なる故郷を離れて京都に流浪し、一昨年薨去せられた徳川慶喜公、即ち一橋家に仕官して賤職に就きました、それは元治元年の二月であつた、其頃の天下の形勢は実に朝夕を測らずといふ有様であつたから、僅々一年間の奉公中に、私は一橋家の当時の御職掌から推察して、余りに兵備の少きを憂ひて建白を致しました、其趣旨は現に我が君公は禁裡御守衛総督として、京師の守備を総督せらるゝのである、又会津藩松平肥後守は守護職、桑名藩松平越中守は所司代であるが、京都の守衛は蛤御門堺町御門等の九門の外に、七口十一越といふて、各方面から京都に入るへき口々及山越の箇所とを共に防備すべき必要がある、其総督の位地に居らるゝ一橋公の兵備としては、床机廻りといふて親兵様の剣槍術に達した壮士が数百名あるが、是は君側の守衛に止まりて、戦陣に立つ兵隊とは言はれぬ、又幕府から附けられたる歩兵はあるけれども、三ヶ月毎に交代するといふ有様で少しも力にはならぬ、斯る薄弱なる軍備で、御守衛総督といふは実に耻づべきの至りである、是非此際相当の兵隊を組織するのが必要である、而して此兵隊を作るには農兵を募集するに限る、既に其頃幕府に於ても小栗豊後守の建策によりて、農民から歩兵を組立て居る、就ては一橋御領の農民を勧募して此歩兵隊を組立てる事に致したいものである、元来私は農民より家を捨てゝ、自ら好むで今日の身柄となつたのである、御領地の農民も説諭すれば、其子弟輩には必ず喜むで募集に応ずると思ふ故に、一大隊を五百名として二大隊即ち千人位は、屹度摂泉播及備中の御領地にて募集し得ることが出来る、と建議した、一橋要路の重役は黒川嘉兵衛、榎本享造、原市之進、梅沢孫太郎抔といふ人々にて、種々評議の末、私の建白を採用して歩兵組立と決定しました、それが慶応元丑年の二月頃と記憶します。
偖私は歩兵組立の御用を命せられて、発足前に特に君公に拝謁を許され、御面前に於て愚存をも陳上したから、真に一身の名誉と思ふて、是非とも予期の如き人数を募集したい、万一募り得ざれば死すとも帰京すまじといふ大決心を以て京都を出立しました、其時は恰も三月節句頃であつた。
先づ大阪に抵り、代官所に於て埼玉清兵衛といふ人其他の役員に面会して、兼て京都なる一橋勘定奉行よりの通達もありたれば、私の拝命せし御用の次第を陳述して、着手の順序を相談すると、大阪の代官は如才なき人にて、此歩兵組立の事は意外の御用向ではあるが、今日の時勢が意外だから、已むを得ざる事として、一橋家の領地は備中が石高も人口も最多数である、故に先づ備中に於て着手せられ、大阪の方即ち摂泉播三国は跡廻しにするが相当の順序と思ふと言ふて、難を他に譲られた、私は其狡猾を心悪しと思ひしも、備中は地方の人気も文武を好むと聞及びしにより、其説に同意して、大阪は帰途の事と定め直に備中に出張し、一橋領に入りて江原といふ陣屋のある町の中江屋に止宿し、早速代官稲垣練造氏に面会して、御用向の次第を通知し、各町村より出張せし庄屋総代十余名の人々にも会見して、其翌日より
 - 第1巻 p.346 -ページ画像 
代官所の白洲に、御領内各町村の青年即ち二三男を呼集めて、先年来欧米諸国から和親通商を請求せられて、幕府はこれを朝廷に奏聞し、終に全国諸侯伯の衆議を尽さるゝ事となり、且京都の警衛肝要なりとて、幕府開けてより類例なき、当一橋の御家が禁裡御守衛総督といふ容易ならざる御職に任せさせらるゝも、畢竟日本開闢以来初めて生じたる一大事変ともいふべきである、依て一橋家にても兵備充実の必要ありて、玆に歩兵組立の事を決定し、即ち拙者其人選御用を仰付られて、当地に出張したのである、斯く申す拙者も江戸近在の農民であるが、数年前一橋家に仕官して、今日の任務を奉ずるのである、真に目今の時勢は武士平民の差別はない、国民挙つて忠君報国の効を奏すべき、所謂千歳一遇の時機であるから、一同篤と此道理を了承して、早早企望の旨を申し立る様にせられたい、歩兵としての任務、又其待遇等に付ても、遠慮なく質問せられなば、拙者の心得居る丈けは丁寧に説明すべしと、懇切に申示し、後月小田上房の三郡順次に、毎日同様に白洲の演説を継続せしも、一人も企望の申出がない、そこで私は何か事情のある事と疑念が生じたから、一と先呼出しを中止した。
夫れから地方の文学又は武術の事を聞合すと、寺戸村に興譲館といふ漢学塾がありて、阪谷朗廬先生が教授して居る、又江原町に池田丹次郎といふ富豪がありて、関根某といふ剣客を迎へ、子弟に剣術を教授するといふことであつたから、私は此等文武の人々に接近すへき手段として、先づ朗廬先生に面会を求むる為め、酒一樽と悪詩一絶を送りて回答を請ふた、其拙作は今も阪谷家に保存されて、現に今日展覧の遺墨中に加へられてある、朗廬先生は極めて真率簡易なる御人で、毫も城府抔は設けずして、直に私を引見せられた、其時は侍坐した書生は誰であつたか、其名を記憶せぬが、両三名居られたと思ふ、初対面の口誼が済むと、別段私を尊敬も軽蔑もせず、至て平易に談話され、次第に時勢談に及ぶと、先生は頻りに開国説を主張された、是は私には実に意外に感ぜられて、種々に討論を試みたれども、先生は平然として其説を抂げない、而して其開国の主旨は今日欧米諸国の和親通商を望むのは、決して往昔の旧教派の侵略主義ではない、然るを日本では只之を排斥して、諺に謂ふ人を見れば盗賊と思ふの故態を以てするは、人道に欠くるのみならず、世界協同の趣旨にも背馳する故に、朗廬は徹頭徹尾開国主義であると言はれた、私も一橋家に任官して後は当初の攘夷一点張ではなかつたけれども、是まで江戸に京都に漢学者たる人に会見すると、皆攘夷鎖港論であつたに、独り朗廬先生の此開国説には少しく怪訝の念を生ぜしも、其日は極論に至らずして、盃酒の間に種々の意見を交換し、先生が酒を嗜む為めに痛飲快談、玉山将に頽るゝといふ有様であつた、其夜塾中の諸氏と約して、数日の後備中に有名なる笠岡沖の鯛網を一覧した、当日は書生連が大勢同行したから、小船数艘で二三里の沖に出て、鯛網の場処に抵ると、魚の多く集る時は、海面が赤く見える、見物人から酒樽を海上に投ずると、漁夫は網中の鯛を持ち来りて答礼する、直にこれを料理して飲酒の下物とするといふ、実に愉快なる遊興でありました、又其翌日は池田氏の家に抵りて撃剣を試むると、幸に其師範たる関根氏より私が少しく強
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かつたから、地方の人は口々に、今度出張の御役人は文学もありて撃剣も上手だと評判された。
斯の如くして四五日を経過すると、学生中の二三の青年から、私が帰京の時には京都に連れ行かれたいとの内願があつた、依て私は其青年に企望の趣旨を書面にて提出せしめ、やがて庄屋総代一同を旅宿に招きて、さて言ふやうは、頃日来歩兵組立の事を陣屋の白洲にて説諭せしも、一人も企望者なしとの事なるが、此程拙者の手許へは、斯く上京の事を出願する青年がある、これによりて察するに、他に壅塞する者ありて、拙者の説諭徹底せざるものなるべし、抑も今般の拙者の任務は、実に一橋家に於ては未曾有の事なれば、時勢に通暁せざる人より見れば、奇異の観あるも無理ならねども、過日来再三陳述せし如く真に非常の御時節故に、斯る非常の御用もある次第なれば、此道理を能々聞訳られ、此上一段の尽力あられたし、殊に拙者今般の御用は、一命を睹して御受せし事なれば、縦令一人の企望者なしとて、此儘に京都に復命は致し難き事なれば、各方にも能々覚悟して回答せられたし、斯くまで拙者の衷情を吐露するも、各方に於て尚も隠蔽せらるゝに於ては、已むを得ず自己の一命を捨つると同時に、各方をも此儘には差置くまじと、血眼になりて詰め寄せると、庄屋総代は肝を潰して遂に其事実を打明けた、其白状によると、全く代官稲垣氏が時勢に暗く、只事勿れ主義によりて、領内の青年は総て企望せぬ事に取計ふべしとの内意ありしにより、自然壅塞の姿となりたる次第が明瞭になつたから、私は其翌日陣屋に抵りて、代官に面会して、世界の大勢よりして京都の近状に至るまて、丁寧反覆に説明し、且つ自己の決心を昨夜庄屋総代に告げしと同じく厳重に陳述したれば、稲垣氏も悟る処ありたるやうにて、再応白洲の説諭を請はれ、私もこれを承諾して、更に呼出して再演せしかば、直に続々企望の申出ありて、不日に四百人余の合計を得、播州泉州摂州も所謂破竹の勢にて、首尾能く歩兵組立の御用を果して帰京せしは五月中旬であつた、其時は今日の男爵はまだ二歳の幼児であつたが、奇縁とも言ふべきか、其後両家は今日の間柄となりて、私も此阪門会に出席するに至りしは、実に既往は夢一場といふべきである。
右の御用に付て、私は一橋御領地の実況も幾分了解したるにより、帰京後黒川氏に意見を具陳して、播州と備中に殖産的事業を計画し、且黒川氏に地方の巡視を請ふて、其年の秋巡廻ありしかば、朗廬先生は其時黒川氏とも会見せられ、越えて翌春一橋公は先生を京都に召されて謁見を賜ひ、賞詞と扶持米の下付ありしも、先生はこれを興譲館に寄附せらるるものとして、自己は辞退せられた、斯く一橋公の学問を奨励せしは、賢君の良政と観るべきも、先生の行為自己に薄くして興譲館に厚きは、亦以て美談を後世に伝ふるものといふへし、右に述べたるは私が朗廬先生を知りたる経歴談であるが、是より私は先生の性格と学殖に就て観察したる点を、簡単に申添へて見やうと思ひます、蓋し先生は博学強識にして殊に文章に長ぜられたばかりでなく、実に人格高き御人であつて、而して其性温厚円満、聊も物に凝滞せず、能く世と推移した、唯其至誠の本質よりして自然に毅然犯すべからざる
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ものがあつた、其一例を挙ぐれば、極めて平易の言詞を以て開国の事を論じられ、種々の反対攻撃あるも、毫も其説を変ぜざる如きは、実に卓見ある人と言ふべきである。翻て当時の漢学者を回想するに、藤森弘庵の如き大橋訥庵の如き、鷲津毅堂の如き、何れも其頃江戸の大儒として名声高かりしも、皆鎖攘一図の論者であつた、此時に当りて外国を夷狄野蛮として排斥すべきものにあらずとの意見を以て、断々乎として其説を変ぜず、終に明治の聖代に遭遇せられしは、真に先見の明ありと賞賛せざるを得ぬ、今日此席に展覧せらるる遺墨中
 曰不能克己者、為私欲之奴隷、曰人民品行為邦国百事之源確哉、欧賢之言、支那名語符合矣、能行此道、心広体胖、所謂自主自由者、立而浩然正大之気塞天地之間
                    森安信平氏所蔵
 とある一幅を見ても、東西洋の哲理をして、融合帰一したるものと思はれる、今や特典を以て先生に贈位の御沙汰ありしは、独り阪門会諸君の喜悦ばかりでなく、苟も先生を識る者の共に欣躍措く能はざる所である、想ふに先生は、其家人故旧に満足せしむる程の長寿を保ち得ずして、其逝く年早かりし憾はあるが、斯く阪門会の諸君が大勢相集りて盛大なる此追悼会を開き、殊に子孫繁昌して家道も亦隆盛なるは、先生に在りては其身に御贈位ありしに勝りて地下に於てお喜びなされ、而して私が今此席に於て陳述したる昔語りも、或は破顔一笑せらるゝであらうと思ふのであります。
    大正丙辰冬日
                             渋沢栄一識
                               朱印
                               
  ○コノ演説ハ大正五年一月一五日上野精養軒ニ於テ開カレタル阪門会主催故阪谷朗盧贈位祝賀会ニ於ケルモノナリ。竜門雑誌第三三六号ニモ掲載セラルヽモ、栄一自筆稿本ハ之ニ訂正ヲ加ヘタリ。玆ニハ新タニ句点ヲ加フ。


渋沢栄一伝稿本 第四章・第一一五―一二七頁〔大正八―一二年〕(DK010025k-0003)
第1巻 p.348-352 ページ画像

渋沢栄一伝稿本 第四章・第一一五―一二七頁〔大正八―一二年〕
○上略 先生は益主恩の忝きを感じ、恪勤の奉公を励みける折しも、一橋家に軍制改革の議ありて、黒川嘉兵衛・榎本亨造の二人軍制掛を命ぜらる。一橋家記録書送帳 原来一橋家には、床几廻といへる百余人の旗本勢と幕府より附属せられし二小隊の銃隊あるのみにて、兵力甚だ不足なれば、嚮に慶喜公の禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮の命を拝せし時、原市之進・梅沢孫太郎等を水藩より雇用して顧問に備へ、又同藩の兵二百余人を借り受けて、総督の手兵となしたり、然れども床几廻の外は皆客兵なれば、有事の時に当りて便宜を欠くの恐なきにあらず、これ軍制改革の起りし所以なるべし。此に於て先生は其宿論なる一橋家の勢力を培養して他日の雄飛に供ふべきの議を建て、嘉兵衛に説いて曰く、「家中の兵力を充実するにあらざれば、君公の進退も自由ならず、況や遠く京地に駐在して重責に任ずるをや、宜しく領内の農民を募りて歩兵隊を組織すべし」と。嘉兵衛之に賛同したれば、先生更に公に見えて進言して曰く、「君公御守衛総督の重任を完くし給はんとならば、兵備なかるべからず、兵備を設くるは歩兵の編制を急務とす、先づ領内
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の農民を募集せさせ給ふべし、臣請ふ募集の任に当らん」と。公之を納れ、乃ち軍制改正御用掛となし、歩兵取立人撰御用として領内を巡回することを命ぜらる。之を二月下旬の事とす。渋沢家文書
当時一橋家の領地は、前にも述べたるが如く、摂津・和泉・播磨・備中・武蔵・下総・下野・越後の八箇国に散在す、一橋領内人数帳 先生は前年既に関東地方を巡回したれば、此度は近畿・中国に向はんとて、須永於莵之輔 後に伝蔵 を従へ、先づ大阪川口なる一橋家の代官所に赴けり。此代官所は摂津・和泉・播磨・三国の領地を管掌せる者なるが、其代官某は備中の方を先にせんことを勧め、備中にして事行はれば、近畿は容易なるべしといへり。先生之に従ひ、大阪を発して備中国後月郡江原村《シツキ》に著したるは三月八日なりき。先生は御目見以上の行装にて長棒の駕籠に乗り、槍持を従へ、合羽籠などを持たせたれば 江原に著せる前後は、領内の荘屋十人余り板倉宿まで出迎へたり。板倉は幕府の譜第大名なる板倉氏の所領なれば、宿駅の取扱も鄭重にして、市中通行の際の如き、「下に居らう」といふ下座触までなしたるなど、書生時代の境遇とは霄壌の差あり、先生も我ながら威光の盛なるに驚けりといふ。かくて先生は代官にも面会し、村々の荘屋にも趣旨のある所を伝へ、村中の二三男にて志ある者を召連れ来るやうにと説諭せるが、代官等は村民を陣屋に呼出せる上、先生より直接申渡すこと然るべしといふにぞ、爾来連日村民を陣屋の白洲に招きて、歩兵取立の趣旨を演達せしに、附添の荘屋等は、「いづれ篤と申諭したる後、御奉公の意ある者あらば御請致さすべし」と答へて退出するのみ、遂に一人の募に応じて兵士たらんと申出づる者もなし、先生深く之を怪しみ、反復説諭して曰く、「汝等は今日の形勢をば如何に心得たるにや、世の中はいつまでも波風立たぬ泰平無事なりと思ふは誤りにて、今にも戦争の始まるものと覚悟すること肝要なり。さる場合には、己は昔よりの百姓なればとて安心すべきにあらず、されば汝等の如く血気壮んなる者は速に募に応じ兵士となりてこそ、領主への奉公となるなれ。上にも鑑識おはしませば、器量次第にて立身功名の出来る世の中なり、土臭き百姓にて生涯を終らんよりは、奮つて御請すること得策ならずや。かく申す某とても元は百姓なりしが、時勢に感ずる所ありて一橋公に仕へ、此度の御用をも承るに至れるなり」と、手を代へ品を代へて彼等を奮起せしめんとしたれども、遂に一人の応募者をも得ざりき。先生益怪み、これには子細あるべしと思へども、其事由を知る能はず、さりとて空しく引揚ぐべきにあらざれば、暫く募兵の事を急がずして時機を待たんと決心せり。是より従来の態度を改めて、此附近に撃剣家やある、又学者やあるなど荘屋に尋ねしに、「剣術の先生には関根某あり、学者には阪谷希八郎先生あり」と答ふ。希八郎は同国川上郡の人にて、号を朗廬と称し、儒学を以て聞ゆ、興譲館を同地に建て、子弟を教授せり。以下朗廬と書す 先生かねて其名を伝聞せしかば、先づ之を訪問せんとて旨を通じ、副ふるに一絶を以てす、其後半に曰く、「喚催紅友為通刺《(マヽ)》、先探君家無限春」と、蓋し酒を餽れるなるべし。かくて先生の朗廬を興譲館に訪ふや、其師弟と時事を談じ、次日又師弟数人を旅宿に招きて饗宴を催せり。此時朗廬は開国を主張し、先生は攘夷を
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説きて相下らず、所見相異なれりといへども、此一夕の会合は両人をして互に知己に感ぜしめたり。先生は又関根某といふ剣客とも手合せして容易に之に勝ちたり。此に於て先生の名声俄に高く、今度来れる役人は通常の俗吏にあらず、学問・剣術に練達の人なりなど口々にいひ伝へたれば、文武に志ある近郷の青年子弟等は我も我もと先生を訪問して、或は学事を談じ、或は剣術の試合をなす者尠からず。先生又同地方にて行はるゝ鯛網を利用し、興譲館の書生又は附近の青年を携へて船遊を試みるなど、巧に其心を収攬せしかば、旬日の後は彼等益先生と相親み、遂に陣屋元の村にて二人、他の諸村にて数人、一橋家に奉公せんことを請ふに至れり。先生乃ち、「汝等の依頼は誠に奇特の次弟なれば、望に任せて京都に伴はん、されども口頭のみにては不可なれば」とて、書面に認めて持参せしめ、其願書を受領せる夜、再び荘屋一同を旅宿に招き告げて曰く「今回の募兵につきては、先頃より詳に其趣旨を述べ、村民をも引見したるに、遂に一人の希望者もなしといふ、然るに今日かゝる願書を呈出せる者あり、此人々の中には、或は総領もあり、二三男もありて、数人に及べり、僅の時日に余の接遇せし者にても数人の志願者ある程なるに、数十箇村数百人の間に一人も希望者なしといふは、あるまじきことなり。これには定めし子細あるべし、万一子細あらば遠慮なく申立てよ、余は従来此地に来れる諸役人の如く、食禄を貪りて無事に安んずる者にあらず、次第によりては其儘に捨て置かざるべし。思ふに陣屋詰の役人どもが掣肘して此に至れるならん、余の観察は決して誤まざるべし。今日の時勢に当り悪しく心得て御領主の御不為を図る者あらば、代官にても荘屋にても屹度処分すべし。余は堅き決心ありて、自ら請ひて此任に当りたれば、成敗共に其責に当らんとす、断じて因循姑息の行動を許さず。余はかくまで赤心を打明けて語る上は、汝等も亦包み隠すこと勿れ」と厳しく申達したり。此時重立ちたる荘屋の一人席を進みて同役を顧み「かく明鑑を蒙りたる上は、今更包み隠すも無益なり、有りのまゝ申上げては如何」といふに、衆皆之に賛同し、「然らば御身一同に代りて申上げられよ」と答ふ。此に於て其者先生に語りて曰く、「誠に恐れ入りたる次第なれども、代官の仰に、一橋家にては近来山師のみ多くなりて、よからぬ事のみ為すやうになりたり。現に黒川嘉兵衛などいへるは、下賤よりの成り上り者にて、山師根性を有するが故に、浪人を好み、御家の仕来りに背ける新規の事柄を企て、種々面倒なることを申越せども、一々之に従はゞ村方の難儀なるべし、敬して遠ざくるに若かず。今度の歩兵取立なども、皆々厭《イヤ》がりて応ずる者なしといへばそれにて済むことなり。されども此談話は極めて秘密になし置かざれば、拙者等も迷惑なれば、篤と分別せよとの内意なりき。されば志願者は多かりしかども、申立つれば代官の訓示に背くこと故、一人もなしとは申たるなり。然るに閣下が書生や剣客を愛撫せらるゝより、我等の制馭も功を奏せず、却つて彼等自身内願までするやうになりたるにて、相済まざる次第ながら、此儀幾重にも内分に御聴済ありたし。若し表立つことゝもならば、ゆゝしき大事にて、荘屋一同の勤向にも拘はらん」など、律義なる人々、正直に告白せり。之を聴きて先生は
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言を和らげ、「誠にさることなりしか、それにて事情分明せり、志願者さへ多くあらば、別に咎むるにも及ばず、又汝等の迷惑にならぬやう代官とも交渉して、今一度村民等へ説諭すべければ、其際には十分に力を添へよ」と申渡したるに、一同は決して違背せざるべきを誓ひて退出せり。
翌日先生代官所に赴き、儼然として代官に告げて曰く、「募兵の事に関しては過日来段々と説諭を加へたれども、更に応ずる者なきは、説諭の不行届なるが為なるべしと思へば、更に明日再び説諭する所あらんとす、それにつき一応貴意を得たきことあり、抑此度の御用向は、君公にも深き思召ありて仰出されたるなり、一橋家に兵士を有せざるは、卿等の知る所なるべし、かゝる有様にては、御守衛総督の御職掌を尽し難ければ、兵備を整へて急に応ぜんとす、これ盗を見て縄を綯ふの類なれども、無きには優るべし、せめて領分の二三男中より、志願の者を集めて兵士となさんには、万一の際相当の御用にも立つべしとの御趣旨にて、不肖ながら余輩歩兵取立御用掛を命ぜられて此地に出張せしなり。然るに今に一人の応ずる者なしと荘屋ども申立てたるが、これ果して其言の如く誠に志願者のなきが為か、或は人撰の方法宜しきを得ざるが為か、抑また代官たる卿等が指導の方を誤れるによるか、必ず其一に居らん。余輩も重大なる任務を帯びて来れる上は、其原因を調査して、責の帰する所を明にせざれば已まざるべし。然る時には卿等の身に如何なる迷惑を及ぼさんも図り難く、憂慮の情に堪へず、卿等希くは熟考せよ。又明日よりの再説諭には、卿等も荘屋其他の人々に条理を語り聞かせて、功を奏するやう尽力ありたし、然らざれば互の身柄に障りを生ずるの虞なきにあらず。余が一橋家に仕へたるは近年の事なれども、一日たりとも君主の禄を食みて、仕ふる所を同くする者なれば、何事も打明けて謀るこそよけれと思へば、念の為に御談じに及べるなり」といへるに、代官はいたく恐縮せる様子なりしが「委細の趣承知せり、これまでとても十分に達し置きたれども尚又一層厳達すべし」など分疏せり。
かくて先生の再び村民等を会して説諭するや、今は之を妨ぐる者もなく、代官・荘屋等も力添へたれば、志願者相続きて起り、備中のみにて二百余人を得たり。此外尚此の如き大男あり、別段に御召連ありたしと請ふ者あれば、旗持こそ適任なれとて召抱へ、又かゝる豪胆の輩ありといへば、それも召連れんとて、普通の志願者の外に、二十余人の特別人撰に係る者をも出すの有様なりしが、孰れも期日を定めて上京を命じ、人名書をも調製したる後、更に播磨・摂津・和泉の三国を廻るに、既に備中の風聞伝はり居たれば、村役人等の周旋十分に行はれ、此地にても二百余人を得て、総人数四百五十余人に達したり。かくて五月中旬を以て帰京しけるに、速に大任を遂げて御満足に思召さるゝよしの褒詞あり、白銀五枚、時服一を賜ふ。程なく募集せる人数ども京都に来著せしかば、之を紫野の大徳寺に置きて訓練し、七月の頃に及び始めて歩兵隊の成立を見たり、此訓練に先生は関係せざりしが、或は掛員の不正を摘発して其人を退け、或は給養の方法に苦心するなど、いたく尽力せりといふ。
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 一橋家の記録を按ずるに、摂津・和泉・播磨・備中・諸国の一橋領より鉄砲組に召抱へられたる数十人の姓名を載せたり、歩兵の外、諸隊に編入せられし者も亦多かりしなるべし。
先生は今度の巡回中、募兵の傍、かねて人情風俗をも視察し、芸能ある者はいふに及ばず、農商の徒にして、業務に功績ある者、さては孝子・節婦・義僕等に至るまで、一々調査を遂げ、凡そ十余人を得たれば、帰府の上、之を用人に具申し、褒賞の沙汰を請へるに、允許ありて、孰れも褒詞・恩賞の栄典を施さる。中にも備中後月郡なる興譲館は、同地の代官手代角田米三郎が、阪谷朗廬と議して設立する所にして、建築は領内の荘屋以下有力者の出資により、経費は代官所の貸附金と掛金講の資金とを以て之に充て、代官所之を監理せり。即ち半官半民の郷校たりしが、朗廬一世の碩学を以て教授の任に当り、子弟を導きしかば、文教日に盛に、諸国より来遊する者亦尠からざりき。先生朗廬と交を訂するや、深く其才学に敬服し、帰京の後詳に具状しければ、慶応二年公は特に朗廬を京都に召して謁を賜ひ、且つ五人扶持を授けて家中の士たらしめんとす。朗廬固く辞して拝せず、扶持米をば興譲館に賜はりて、興学の資に供せんことを請ひて許さる。公は尚朗廬を京に留めて其用を為さしめんとの意なりしも、朗廬は大義名分のある所を説き、一橋家に仕官することの素志にあらざるを陳述し、辞して郷に帰れり。かゝる事どもありて朗廬の名声は興譲館と共に顕れ、諸藩学士の東西に往来する者、必ず此地を過訪するに至れり。尚又領内の諸村に於ても、先生の巡回後、善政の行はるゝを見て、深く先生を徳とせりといふ。日本教育史資料、阪谷朗廬略歴


渋沢栄一 詩(DK010025k-0004)
第1巻 p.352 ページ画像

渋沢栄一 詩           (男爵 阪谷芳郎氏所蔵)
  訪阪谷詞伯其興譲館偶賦一絶以贈
芳雨彩雲随処新 此間転欲試吟呻
催来紅友為通刺 先探君家無限春
   正                 渋沢栄一
 右慶応元年三月、渋沢子爵カ一橋家歩兵取立ノ御用ニテ備中ニ出張中、余カ父朗廬ヲ訪問ノトキ、酒一樽ニ添ヘテ贈ラレタルモノ、今ヲ去ル六十六年前ノ古文書ナリ、
   昭和五年五月五日
                      芳郎識
                       


阪谷朗廬 詩(DK010025k-0005)
第1巻 p.352 ページ画像

阪谷朗廬 詩           (男爵 阪谷芳郎氏所蔵)
  謝青淵渋沢君携酒見訪         朗廬
過客已聞時変新 陽和三月亦酸呻
一樽紅滴花間雨 喜見村頭有脚春
   又
倚席銀盤列八珍 山人不做世人顰
千秋豪傑聊翻弄 侑此准南一味真
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富の日本 第二巻・第三号・第二二頁〔明治四四年三月〕 応接間随筆(DK010025k-0006)
第1巻 p.353-354 ページ画像

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竜門雑誌 第二七五号・第二四―三一頁〔明治四四年四月〕 【上略 一月の中旬頃でありま…】(DK010025k-0007)
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竜門雑誌 第二七五号・第二四―三一頁〔明治四四年四月〕
○上略 一月の中旬頃でありましたが、私は少しも識らぬ人でありますが、備後の神辺といふ処に重政雄造といふ人があります、其重政雄造といふ名も手紙が来たので初めて承知したのでありますが、突然にも送られた其書状に、私が四十有余年前五言の古詩を額に書いた其写が添へてあつた 其詩といふのは其時分私が攘夷説を主張した詩であります、私は詩作が至つて拙劣だが 五十年前は上手であつたとは申せぬので、今より尚下手に相違なかつた故に熟練の御方から見れば、詩にも語にもならぬと仰しやるか知らぬが、兎に角五言古詩として作つたものであります、それを添へて手紙に曰く是は青淵小史と書いてあるからお前の書いたものゝやうに思ふ、まだ一度も御目に懸つたことは無いが多年実業界に在つて頻に仁義道徳を唱へて経営して居るといふ其為人を窃に欽慕して居つた、偶然にも斯ういふ額面の剥しを見付けたから自分は尊重して居つたけれども、果して実物かどうか分らぬ、紙も大変汚れてある処々に斑点がある、落款はあるけれどもそれがはつきり分らぬ位に磨滅して居る、旁々以て事実お前が書いたものであるか、而して其詩はお前の作つたものであるか、又此処に応双竜舎主人之需と書いてあるがそれは何人であるか、それこれを尋ねると斯ういふ手紙が参りました、見ましたところが其詩は五十字ばかりの詩でありますが、至つて貿易を嫌ふた田家感懐といふ意味で、頗る時勢を誹謗した作である、其善悪は第二に措いて、自分は一向其時分に其様な詩を作つたことは記憶して居らぬ、唯其中に一二の覚えがある、確か安政戊午の年と覚えて居りますが、時の大老職井伊掃部頭の命令で、天保時代に作つた小判を更に値を上げて、一両の小判を三両一分二朱に通用させるといふことがあつた、其時分の伝説には自らさういふ政令を布いて自分で密に他より小判を買はせたといふ、それは誹謗であつた
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かも知りませぬが兎に角井掃部頭《(伊脱)》は暴政を行ふ人であると云ふて既に安政の疑獄といふては今も世人のやかましく言ふところである、当時の幕府の親藩又は党上方、学者総ての人を一網したといふ程であつたから、私も田舎の百姓として怪しからん政治家があるものだ、此様な人は肉を啖はねばならぬ、此様な人は骨を挫かねばならぬ、と云ふて憤慨して居つたのです、而して其詩の中に其事が少し意味してある、それから最一つには安政条約以後、貿易の有様は多く生糸を売るだけであつて、他の貿易品は殆んど無かつた、そこで私共の郷里は養蚕地方であつたからして頻に生糸を製造して居る、其生糸を売る為めに農業を十分にしなければ機を織ることも十分にせぬ、唯糸を繰ることばかりを努めて居ると云ふて憂国の士が大層憂ひて居つた、今日から見れば胡盧であるけれども其憂ひたことが其詩の中にある、それは私が二十才から二十五六までの間に頻にそういふことを論じて居つたのでありますから、どうも其詩が或は自分の作であつたらうと思ふたが今日草稿も何も遺つて居りませぬから確かに分らぬ、故に此重政といふ人に下の如く答へてやりました、どうも写しだけでは一向分りませぬ、併し私は備中に旅行したことがあるから果して書いたものか何か遺らぬとは限らぬけれども唯是だけでは自分が書いたのかどうか分らぬから願はくば其実物を送つて見て下さいと斯ふ云ふてやりました、やがてそれを送つて寄越した、叮嚀に見ましたら果して自分の書いたのに相違ないのです、若しそれが願はくば偽物であつたならと思うて居りましたが、悲いかな実物であつた、其時分私の考の間違つて居つたことは今更慚愧に堪へぬ次第でありますが、其送つて来たものを唯返さうかと思ひましたけれども余り興のない話になりますし、五十年後であつても多少申訳をしないと面目を失ふことになりますから、一つ小品文を作つて而も当月の初に其送られた額面に更に添書をして返しました、其事柄を一つ御話をしやうと思ふのであります、即ち此処に其詩を写して持つて参りましたから其詩及其詩に添書をして申訳をした文章を玆に申述べて渋沢は昔斯ういふ説を述べたものだが、今日は斯う変つて居るといふ、即ち光陰は百代の過客で其光陰に依つて万物の逆旅中にいろいろ御客が変化する有様を御話するのであります、其詩といふのが斯うです、余程拙劣ですから玆に喋々することは御耻しうございますけれども一通り誦んで見ませう。
  ○ココニ掲ゲラレタル詩ハ前掲資料ノ詩ト同一ノモノナルニヨリ省ク。
 是は二十六の時に書いたのでありますが詩はもう少し前に作つたのでございます、他のことはそんなに間違つて居りませぬが「不織又不耕。只有繅車鳴」機も織らなければ耕作もしないで唯糸繰車を鳴らして居るだけであると斯う言つて慨歎した渋沢が、今日は生糸輸出を盛にしなければならないと頻りに奨励するのは甚だ自家撞着で面目ない訳ですが、其時分の考は貿易は国を富ますといふことを私は知らずして、唯生糸を製して売るといふことは殆ど夷狄に貢を納めるやうな感じを持つて此の如き詩を作つたのです、決して自分は人を欺く積りで言ふたのではなかつた、併し五十年後の今日は其考の間違であるといふことを覚へて居りますから、既に昨年も生産調査会に於て蚕種を統
 - 第1巻 p.356 -ページ画像 
一して生糸を奨励すべしといふ意見を述べ、現在も口を開けば其事を唱導して居ります、何んでさういふ考が違うかと云へば、畢竟智恵が至らなかつたのでありますが、其頃の形勢に対しては、唯愚なる考とばかりと侮られぬかも知れぬのです、何んに致せ、余り其儘返却しては折角寄せて呉れた人に申訳も無く、又興味も薄いと思ふたから、跋文体のものを書いて此程送つてやりました、是も大方に御目に懸ける程のものでもございませぬが其理由を漢文に書いに過ぎぬのです。
  ○ココニ掲ゲラレタル漢文ハ前掲資料中ノ後備神辺云々ノ文ト同一ナルニヨリ省ク。
 斯ういふ文章を加へて返したのでございます、一面識の無い人でどのやうな位地、どのやうな境遇であるか存じませぬが、手紙を見ますると、ちょつと漢籍の素養などあるらしう見受けまするが、重政雄造なる人は如何なる身柄であるか、又何故に反古の様なものを穿鑿して珍重して殊に私に照会の手紙を寄せて来たか、其意志のある処は頓と分らぬけれども、彼の言ふ所は平素渋沢を崇拝して居つたから、其断片でも欲しいと思うた処、幸に之を得たから保存しやうと思つたが、果して真実でないと残念だから之を質すといふことです、是は誠に私の経歴中の昔語に過ぎぬのでありますが、私が当時頻りに攘夷鎖港を論じ、貿易は国家衰亡の基なりと考へたことは、甚だ恥づべき訳でありますけれども、併し唯単に是が耻辱とばかり私は思はぬのでございます、斯様申すと尚既往の誤謬を弁解する如く聴えますが、丁度此事に似寄つた一つの談話がありますで続けてこれを御話を申上げたいと思ふのであります。
 一昨年私は亜米利加に旅行した、此旅行に於て到る処に歓迎を受け種々なる演説も致しましたが、殊に一日少し興に乗じて亜米利加の人人にも激昂的な口調を用ゐたと認めらるゝ演説を致したことがあります、それが丁度前の話に似た所がある、十月の初日でありましたが、スラキウスといふ処へ参りました、此処にフルべツキといふ人が居ります、此人は昔し長崎に居つた人で其親が和蘭人で宣教師であつたやうに思ひます、今スラキウスに居るフルベツキ氏は、其日本に永く居つた人の子で、日本に産れ、日本に生長した人で日本語を能く使ふ、其人が士官学校体のものをスラキウスに建てゝ居ります、其処に実業団の或る一部の人を招いて、学校をも観せ、在学の生徒にも会見をさせ、饗応をしたいから来て呉れといふので、市街から丁度一時間程も要する位距つて居る田舎でありましたが、一部の人々が招かれて参りました、そこで学校を観、種々なる饗応を受けましたが多くは士官を養成する学校でありますから、軍人が多く来会した、一行が参観を了つてから一食堂で立食の宴がありまして、其処に出てフルベツキ氏も演説しましたが、特に演説した人がグリフイスといふ人で、日本帝国といふ書物を作つた人であります、是は日本の事情を余程精しく知つて居る、維新の初頃、日本に永く居つて日本の状態は斯様である、日本の開港は斯ういふ訳であると、総て帝国の事を詳密に取調べた人でありまして、日本の事態を能く知つて居る、此人が日本通を以て任じて居りますので、安政の頃の事に説及ぼして前にも申述べました大老
 - 第1巻 p.357 -ページ画像 
井伊掃頭《(大老井伊掃部)》を頗る称讃し、井伊掃部頭があつたに依つて、始めて日本の開国の基礎が定つたといふやうに演説をしたのであります、是は私共から論じますと、事実を少し誤つた言葉であるに因て、私は大に之を弁駁せざるを得ぬでグリフイス氏の演説に対して大にこれを論破し、殆んど討論会的の演説をしたことがあります、グリフイス氏の言葉に依れば、其当時の日本人、西洋の事情を知らぬ人達が西洋人を目して唯夷狄である野蛮人である禽獣である、来る人は必ず国を侵略するのであるといふやうな観念を持つ場合に、井伊掃部頭はさうでなく是非開国に限るといふ決断を以て条約を締結した為めに日本が開国になつたといふ称讃の言葉である、それに対して私の弁駁は、右の論説は少し趣旨が違ふ、グリフイス君は日本精通者を以て自ら御任じなさるであらうけれども日本人はグリフイス君より尚精しく日本の事情を知つて居る、殊に外国人より観たる当時の事情は、或は揣摩もあり、臆測もあらうが、其実況を審にして居る者は今日は沢山ありませぬ、私は其時分官途に居らぬから細かに知らぬけれども、安政五六年の頃は二十才ばかりになつて国家に多少心を用ゐて居つたから、井伊掃部頭の為人がどうである、彼のペルリの来た時、国の交は斯様である、其時分の攘夷を唱へた人の精神は如何であるといふやうなことは、グリフイス君より私の方が精しく知つて居る、亜米利加の「コンモンドル」ペルリは日本の誤謬を釈かう、日本の鎖港を開かうと思うたは好意に相違ないが、併ながら其時分の外国が皆好意的行動であつたかなかつたかは御考ありたいと思ふ、其外国中には何か@隙があつたら、是に乗じやうといふ内心のあつたことも事実分つて居る、苟も我国を大切に思ふ人民であつたならば、敵愾心の有るといふことは洵に宜べなることであるから、徳川幕府の末に憂国の志士が鎖国の主義を執つたといふことも、日本の開明を遅らせたといふ虞はあるけれども、当時に於ては果して誤謬とばかり云へぬのである、現に安政条約の一年前に或る大国が対島を借用しやうと言つたことを貴君方は御耳に入つて居らぬか、若し是等の国をして其需めに応ずるといふことであつたならば、日本は今日如何なる有様になつたであらうか、吾々が実業団として今日米国に旅行するやうな時機をも或は無からしめたかも知れませぬ、故に日本をして今日あるを致さしめたのは、敵愾心ある国民の力であるといふても宜いのであれば、井伊掃部頭が日本を存立せしめたといふ評論は其当を失つたことである、若し果して御説の如くであるなら渋沢は徹頭徹尾 頑不霊の者になるが、之に反して私の前に述べた説が正当であるといふならば、グリフイス君の御説は誤りと云はなければならぬのである、要するに折角の日本精通な御方であるけれども、もう一歩進んだ所迄を御知りなさらぬのは、外国の御人で已むを得ぬ事と思ふによりて 日本人として叮嚀《(寧)》に弁駁して置かねばならぬ、斯る御席に於て学者たるグリフイス君の御説に対して駁撃的のことを言ふは好まぬが、私の位地として已むを得ず此処に申述べるのであると、例を引き事実を挙げて論駁したのであります、演説が了るとグリフイス氏が手を握つて、左様仰しやれば或は聴違ひがあるかも知れぬ、私は形跡から言つたので、事実を知らぬから貴君が形跡以外の真相を
 - 第1巻 p.358 -ページ画像 
述べたるは日本人としては御尤である、私は駁撃を受けても貴君に対して御怨みは申さぬ、或はつまらぬことを言ふと思つたか知らぬが、向ふもさるものさういふことがありました。
 是は前の拙作の詩を四十七年後に弁解をしてやつたと同じやうな話でありますが、維新以前の有様といふものは、今日から論ずれば攘夷論鎖国論をした人々は実に冥頑不霊のやうに見えますけれども、唯頑冥でばかりあつたとは云へぬのである、是等の事は今日の青年に話しても何等の効能は無い、併し或る場合にはきかぬ気といふものが効能を持つといふことを考へねばならぬ、唯敵愾心と云へば喧嘩好きのやうな語弊を生じ、人は敵愾心を存せねばいかぬと云ふと、穏当な教訓になりませぬけれども、併し唯人は柔順にして、時に宜しくといふばかりでは真正な人間に成り得られぬといふことを覚悟して欲しいと思ふのであります、私は此の如く弱年、若くは青年の時代に時を誤り、考を違へたことは五十年過ぎて大に後悔すべき点も多いけれども、其後悔すべき点の中にも、或る場合に其心のあつたのが多少己れをして奮励せしめ、己れをして努力せしめたと思ふことなきにしもあらずであります、故に此重政といふ人の来書に対する話、或は亜米利加に於てグリフイス氏の演説に対して反対した事柄は、余り誉れとして御話することではありませぬけれども、詰り自分の信ずる所を一歩も枉げぬといふ精神だけは御諒し下さることであらうと思ひます、どうぞ若い御方々には、さういふ気力、さういふ精神を持つて欲しいと思ふのであります、況んやそれをして考を間違へ、地位を誤らずして其方針を始終立て通すに於てをや、今日は唯私が頃日斯ういふ書面を送られて応答したこと、申さば古い耻辱を此処に表はして、而して其間に多少の弁解の言葉があらうと思ふので其事を述べて諸君の気力を旺盛たらしめたいといふことを希望した次第でございます、是で御免を蒙ります。(拍手)
  ○右ハ明治四四年二月一一日埼玉県学友会大会席上ニ於ケル栄一ノ講演ノ一節ナリ。
  ○本資料ニ掲グル詩ガ此時ノモノナリヤ、或ハ慶応二年ノモノナリヤ、明カナラザレドモ「二十六の時に書いたのであります」トアルニヨリ、今仮ニ此時ノモノト認ム。


竜門雑誌 第四四五号・第八―一三頁〔大正一四年一〇月〕 一老人の手紙に関連しての思い出(青淵先生)(DK010025k-0008)
第1巻 p.358-362 ページ画像

竜門雑誌 第四四五号・第八―一三頁〔大正一四年一〇月〕
 一老人の手紙に関連しての思い出
                     (青淵先生)
 七月中旬、突然、柏木交一と云ふ一向聞いたこともない人から次の様な手紙を寄せられた。
   私は、今から六十年前私が十八才の時(本年七十八才)貴殿が江原一橋の陣屋に来られて、募兵をせられた時に之に応じて来つたものに候、思へば六十一年の昔、転た懐旧の涙にくれ申候、朋輩のものは、皆死亡し私一人と相成、今日に至るまで漸く余命をつなぎ居申候。此度、興譲館より貴殿の御編纂に相成候彼の徳川慶喜公伝を拝借致し、全部一読致し、公の心事の公明、正大、且つ順逆
 - 第1巻 p.359 -ページ画像 
に迷はず、断の一字を以て幕末の難局を切り盛りし玉ひし忠誠に対し、実に満腔の敬意を表すると同時に、伏見(鳥羽方より先きに砲声聞えたり)戦争に従事し、今日迄生き長らへし私が、明治大帝の洪恩に蘇られし慶喜公の伝記〓貴殿が、心血を注いで編纂し玉ひしこの記録を一読して、溜飲の下りたる如き心地致し候事を告白致申候。野生は其後三十四年間学校教育に尽し、晩年を恩給にて送り居り候もの、何等貴殿に求むる所あつて音信致すものに無之、六十年前の昔をしのぶと同時に、当時の貴下が今尚ほ矍鑠として、邦家に尽瘁され慶喜公の寃罪、誤解を天下に訴へて、消極的の大偉人の面影を、躍如たらしめられし挙に対し、当時の一兵卒たる私として老の涙を禁ずる能はず、為めに此一書を呈するものに有之候。
                       早々頓首
 名前には覚えはありませぬけれども、六十年前私が尽力した歩兵取立てに応じて出て来た者であると云ふことだから、因縁は無いとは云へない。その人が私の心血を注いだ徳川慶喜公伝を読み、その主意のある所を明かに了解して呉れたことを、病中ながら一読して深く感動しました。それでその感想を通じ度いと思ふたので自身の手で左の通り返事しました。
  客月十六日附御門生大塚信男氏代筆之御懇書拝見致し候、先以て益御清適抃賀之至に候。老生昨年冬より持病の喘息にて、今尚全快に至らず籠居罷在候、昨今は少々宛外出も出来候に付、其内復旧可致と存候。尊翰によれば、貴兄は六十年の昔、老生が一ツ橋藩御領地備中地方に於て、歩兵募集の御用にて出張の際の応募兵の一人として、七十八才の高令を維持せられ、教育家として御尽瘁の趣、殊に老生十数年来の努力を以て編纂発表致候、徳川慶喜公伝を御熟読相成、公が世界の大勢と、皇国の将来とを観察せられ、維忠維誠以て幕末の難局を収拾被致候御心事を、御推察被成候事は、平常の御修養にも起因可致候も、真に感歎の至と老生に於ては、特に陳謝の涯に御座候。老生は一橋家譜代の家来と申にも無之、徳川幕府に対しても縁故なき身柄に付、公の御伝記編纂の事は、種々再考致候も 此際の事情を充分に彰明にして 真相を現出せむには、詰り詳細なる公の御伝記発表より方法無之と相考へ、即ち此挙に出候を、存寄らざる六十年前老生の募集によりて兵員に加り、終に今日に及びし貴台より、特殊の観察を以微衷貫徹致候様相成候義は、何等因縁にても相存候事かと思惟いたし候義に御座候。貴台とても既に八十に近き老齢に有之、老生は八十六才に相成候故に会見の如何とても難期候へ共、自然御出京の機会も候はゞ、弊屋へ御来訪、往時迫懐談に一夕を費し申度存候。右不取敢貴酬如斯御座候。敬具
  尚々病後の執筆意を尽さず候へ共、御懇書を一覧して、老生は実に無上の快心を覚え、所謂食を忘るゝの想有之候、故に拙文ながら心事其儘に相認候に付、篤と御判読被下度候右為念申添候也。
すると折返してこんな手紙を寄せられました。
  さなきだに脆き老の涙も、御鄭重なる貴殿の御親書に接しては、
 - 第1巻 p.360 -ページ画像 
繰返し繰返しうれし涙にくれ、拝読いたし候、近来は、御持病にて御苦しみなされ候趣、何卒十分御摂養御長命あらん事を蔭ながら祈り上申候。私は、常に、人に向つて、伏見戦争の話をすると、一口に「アヽ朝敵軍の方でしたか」と言はれるのが、残念に有之、殊に年を取ると気が短くなつて、腹が立つてたまらぬ事有之候に貴殿の彼の書物を一読致候以来は、何となく肩幅広く感じ居り候処へ、御丁寧なる貴殿の御書状に接し、誠に何とも云ひ様なき感に打たれ、嬉しくてもう何時世を了り候ても、更に遺憾は無之心地致申候、回顧すれば、五十八年前、聯隊長河野佐渡頭殿、大隊長新庄源六郎の部下にて、伏見京橋の北にて戦ひ、吾が持てる銃身に小銃弾を受けて相退候当時を思へば、茫乎として夢の如くに候。共夢の中の人は皆殆ど世を去り候と存候に野生のみ生残り、当時の募兵掛たる貴殿より、嬉しき彼の御書翰を頂くといふ事は何たる仕合せものに候ぞ、全体小生眼を病み居り候に付、大塚信男君に代筆を願ひ申候にも不拘、御親書を下され、感謝の余り不細工千万ながら、此一書を認め申候段、不悪御推読被成下度、此頃は徳川御一家の系図を、彼の書物により、写し取り候抔、何やかや、一層若帰り申候、幸に御自愛の上、邦家の為、益御尽力是祈り申候、先は御礼旁々御見舞迄如斯に御座候。早々頓首
其文句は左程でもありませぬが、其感動の状歴々として見るべく、誠に心嬉しいことであります。
 それに就ても想ひ起すのは歩兵取立のことであります。一橋公が京都の御守衛総督に任ぜられたものゝ、殆んど兵備がない。勿論所領の石高十万石も御賄料としてで、将軍の御厄介の身柄であるから、居城と云ふものはなく、陣屋のみで、頗る消極的なお家柄であつた。その御主公が京都御守衛総督となつたのであるから、兵備などのないのは当然である。其時分の一ツ橋家の武力は将軍から歩兵を僅か二小隊(約八十人)貸してもらつてあるのみで、而も様子を見るとそれも何時取り上げられるか判らぬ、従つて兵士は真に訓練せられて居らず、一致して死を恐れぬと云ふやうな意気もなく、ほんの御用勤めである。其処で私は、これでは駄目である。少くとも歩兵、騎兵、砲兵を備へた一大隊位の兵備は作つて置かぬと、如何なる事態が起るかも知れぬと憂へて居たのである。そして私は兵制はどうしても洋式とせねばならぬと説いた。攘夷論者の私が洋式の兵備を論ずるのは一寸可笑しいやうであるが、予て両者を比較して見て、西洋式を採らねばならぬと、深く感じて居たからである。其処で、私は当時の状況を見て何とかして、一ツ橋家に兵力を備へ度いものであると思ひ、平岡円四郎氏の亡き後を享けて事務を執つて居た黒川嘉兵衛氏に、その必要を力説した。この黒川と云ふ人は数年にして退き後に浦賀奉行となつて、彼の吉田松陰が国禁を犯した時、之を捕へ取請べた人で、特に学問があるとか、優れた人物であるとか、云ふやうな人ではなかつたが、当時としては相当な人であつた。黒川氏は賛成したので其執成によつて慶喜公に直接申上げた処、公からも大体の御許容があつたので、細々した事を取調べた末、私が歩兵取立御用の命を受けて、御領分で摂津、和
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泉、播磨、備中へ出向することになつた。この御領分の石高は七万石位で、備中が最も多く四万石近かつた。即ち慶応元年春、備中へ赴き募兵に着手した。然るに困つたことには、代官の稲垣林蔵と云ふ人が旧習を墨守する人で、此頃一ツ橋家の政治向が段々変り、色々の説を持つて行くので、之を嫌ふ風があり、私の行つたことなども、面白からず思つて居たらしい。
 私は直に各領分の庄屋に通知して、代官屋敷に白洲を立て、今日は何処の郷、明日は何組と云ふやうに、毎日呼び出した。そして一ツ橋家が京都御守衛総督になつたこと、世の変遷の有様、且つ今当の募兵の理由、訓練の有様や、待遇のこと等を詳細に説明し、強制はしないが二三男は出て欲しい、私は御領分の者ではないけれど諸君と同じく百姓であつた、それが今では斯うして兵士の募集に来て居る、などと噛んで含めるやうに申し伝へた。然るに数日を経ても応募して来る者がないので、私はどうしてもその間に何事かあると察した。其処で五日位経てから「この辺に学者は居ないか」と聞くと、阪谷朗盧と云ふ漢学の先生が寺戸村で興譲館といふ塾を開いて居ると云ふ。又「撃剣の出来る人は居ないか」と聞いた処が、池田丹次郎の孫が撃剣が好きで其処に関根と云う先生が居ると云ふことであつた。
 私は先づ寺戸村の朗盧先生に、酒二升と詩を添へて「お目にかゝり度い」と申込んだ処が喜んで迎へると云ふことであつたから、阪谷氏を訪問した、又其の翌日は池田へ行つて撃剣をやつたりした。処が今度来て居るお役人は学問もあり、撃剣も強い、と云ふやうな評判になつた。そして興譲館の学生六七人と共に鯛網見物に行くことになり、三里ばかりを徒歩で笠岡へ行き、舟中で大いに時事を談論したのである。其中の一人で山本三四郎と云つた者であつたかと思ふが「お帰りの時、是非伴れて行つて下さい」と云ふ。
私は、申出のないのは、応募を阻止して居る者があるからだと見て居たから、これ幸と、其者に願書を書かせ、其晩直ちに庄屋を呼び出し「自分は募兵の職務を帯びて来たが、この分では徒労に終りさうである。若し募集出来ぬとすれば私は生きて京都へ帰れない。併し徒らに自滅はせぬ。現に望んで願書を出した者さへあるから、志願者のないことはない筈である。これは中間で阻止して居る者があるからに違ひないと思ふ。果して左様であるならば、代官であらうが、庄屋であらうが毛頭容赦はせぬ」
と強い言葉で云つた処、七人ばかりの庄屋の内七日市の庄左衛門と云ふのが「御目鑑が高いので、迚も包み隠しは出来ませぬから有体に申上げます。実はお代官様が到底望みがないと申せ、とのことでしたから、余り勧めもしなかつたのでした。併し、お代官に左様なことを申上げないやうに願ひます」
と私の想像して居た通りの事実を云つた。其所で私は翌日代官稲垣氏を訪ねて
「一般に主意が徹底して居ないやうであるから再説諭をして貰いたい国家の大勢はどうだ、幕府の有様は斯うだ、国として兵力を養ふことは、頗る必要で大切である。新らしい事が嫌ひだとて、一ツ橋に相当
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の兵備を設け得られぬならば、私は生きて帰れぬ」
などと説いた処、稲垣も、自身の募兵阻止して居ることを、私が知つたと、薄々気付いたと見え、また更に白洲を立て再説諭をした。処が今度は甘く行つて、相当多数の人数が集り、帰途播州・大阪等でも募集し、全部で七百ばかりも出来た、この柏木交一と云ふ人も此時に応募して来た一人であるとのことである、柏木氏の手紙に関聯して六十年の昔を想起し一通りの御話をした訳であります。                    (九月十日談話)
   ○右ノ談話中ニ掲ゲラレタル柏木氏書簡並ニ之ニ対スル栄一ノ返書ハ興譲会報 第一六号(大正一四年一 月 日) ニ掲ゲラレタリ。最初ノ柏木氏書簡ノ奥書ハ左ノ如シ。
     大正十四年七月十六日
     岡山県後月郡西江原新町
               柏木交一
                 七十八才
           柏木先生門弟
               大塚信男
                  代筆
     青淵
      渋沢栄一殿
    之ニ対スル栄一ノ返書ノ奥書ハ左ノ如シ。
      大正十四年八月二十二日
                渋沢栄一
       柏木交一様
           貴酬
    柏木氏ノ二度ノ書簡ノ奥書ハ次ノ如シ。
      大正十四年九月三日
                柏木交一拝
        渋沢大人玉案下


竜門雑誌 第四三九号・第三―四頁〔大正一四年四月〕 【危難の回顧】(DK010025k-0009)
第1巻 p.362-363 ページ画像

竜門雑誌 第四三九号・第三―四頁〔大正一四年四月〕
○上略 次に京都に出でて一ツ橋に仕へた当時二度危険に遭遇した、その一度は私が一ツ橋の歩兵組立御用を仰せつかつた時、歩兵を募集して新らしい兵隊を五百人ばかり京都へ伴れて来た。そしてその宿舎がなかったものであるから、紫野大徳寺の附属寺へ分割して下宿させた。その世話を宮下某といふ者がやつて居た、往々にして属吏の間には、斯様な時品物を安く入れて高く入れたやうにし、その頭をはねるとか賄を悪くして私曲を行ふとか云ふことがあるものであるが、此の宮下某も其類であつた、それは外の事でも左様であつたかと思ふが、蚊帳で私利を得て居た事実を私が見つけ出したのである、と云ふのは募集して来た歩兵から蚊帳に付て苦情を訴へたものがあつた。私としては募集の関係から責任もあるし、一ツ橋からは相当な手当が出て居るのに、蚊の這入るやうな古蚊帳をあてがふのには、私曲があるに相違ない、捨てゝ置くべきでない、果して宮下がやつたことかどうかはまだ判明しなかつたけれど、私は腹が立つて堪へられぬ。其処で他の手で調べ上げて見ると、この蚊帳は損料で借りたものである事が明らかになつた、然るに之が為めに支払つた代価は非常に高く新らしいものが買へる程であつたから、私は直ぐに軍制取調方と云ふ役向の黒川嘉兵衛と云ふ人に、歩兵からの申出、其後の取調べの趣などを詳細述べた結果、宮下某の悪事が判明したので忽ちに免職されてしまつた、処が此人が甚だしく私を怨んで『只では置かぬ』と云つて居た、これは私
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として当然の事をしたので、何等やましい所はないが、或は害を受けるかも知れんと思つた。併し本人は弱いので仮令襲はれた所で大したことはないと私もそれ程に思はなかつたけれど、若し腕の立つ人を頼んで来れば如何いふことになるかも知れぬと覚悟をして待つて居たがどうした訳か遂に来ずにしまつたから、この危険も去つたのである。これなどは私には少しも悪い処はないのであるが、世の中には偶然に危険が横つて居る一つの例である。
 また他の一は余り公然と話しの出来ないやうなことであるが、幕末に新選組と云ふものがあつた、その中の若い者との間に婦人関係で或間違ひがあり、新選組の近藤勇の手に属する連中が七八人で私の役宅に押しかけて来、此方では渋沢喜作等と防禦の手筈を定め、若し乱暴でもするやうだつたら刃向ふ積りで居た処、幸に治まり乱暴もせず引取つた、これは余り名誉な話ではないが、何分時代が幕末で人心が非常に昂つて居ると共に、皆刀剣を帯びて居たのだから、いざと云へばすぐ生命のとりやりになる、此時なども一歩間違へば血を見ずには納まらなかつたであらうと思ふが、身近く危険を感じたのみで幸に事なきを得たのであつた。
   ○右ハ「危難の回顧」ト題スル栄一ノ談話ノ一節ナリ。


竜門雑誌 第四八八号・第三頁〔昭和四年五月〕 【特に竜門社会員に望む】(DK010025k-0010)
第1巻 p.363 ページ画像

竜門雑誌 第四八八号・第三頁〔昭和四年五月〕
○上略 軍制御用係の時であつた、宮下豊太郎と云ふ者があり、この人の悪いことを発いた為め、その人から斬ると云はれたことがある。それは備中あたりから募集して来た傭兵を紫野大徳寺の或る下寺へ入れて置いた処、蚊帳が悪いで蚊がは入つて仕方がないと云ふ。そして私に「募集して居た時の言葉と只今の御取扱ひには非常な差がある」とて苦情を申し込んで来たので、私は責任上よく調べると、右の宮下が係の主任である処から商人とぐるになって、穴のある悪い蚊帳を納めて居たことが判り、私がその事実を申述べたため、直ちに免官になつたので、私を怨んだのであるが、別に問題も起らずにすんだ。○下略
   ○右ハ昭和四年五月十一日栄一ガ試ミタル「特に竜門社会員に望む」ナル談話ノ一節ナリ。


御口授青淵先生諸伝記正誤控 第一七三頁(昭和五―六年)(DK010025k-0011)
第1巻 p.363 ページ画像

御口授青淵先生諸伝記正誤控 第一七三頁〔昭和五―六年)
農兵募集に就て
○中略
仰「○中略 私の農兵を募つたのは幕府の小栗上野介が農民兵を募集したそれにならつたのである。私も、かうして集めたその兵が、どうかといふ事は集めた上の訓練の上の事である。残らず奉公心が強いだらうとは考へなかつたが、無いよりは遥かにましだと考へたのである」


はゝその落葉 (穂積歌子著) 巻の一・第七丁〔明治三三年〕(DK010025k-0012)
第1巻 p.363-364 ページ画像

はゝその落葉(穂積歌子著)巻の一・第七丁〔明治三三年〕
○上略 それより後ハうきが中にも大人の御許より恙なくおはしますてふ折々の御消息をたのみにて。都の空のみながめ暮し給ふほどに。其年
 - 第1巻 p.364 -ページ画像 
もいつしか暮れて慶応元年の春の頃とかや。近き村に住みけるなにがし伊勢に詣で都にものぼり。播磨の名所まで見めぐりて帰りけるが。ある時家に訪ひ来て語りけるハ。やつがれ先つ日播磨なる舞子明石など見めぐりたるかへさ。敦盛塚のほとりにてむかひの方よりよしありげなる武士の行装とゝのへてねり来るにあひぬ。路をさけつゝふとみれバ。乗物のうちなる武士ハ栄次郎ぬしに似たりけり。あまりに思ひがけぬ事なれバいぶかしみてたゝずみ居る程に。あとに添ひてあゆみゆくハ虎之助ぬし(大人の御従弟須永伝蔵ぬしの始の名)にまぎれもあらず、あなやと呼びかけまくせしかど。かなたにてハさらに心づき給はぬさまなり。つき従へる侍たちあまたありて。其さまのいといかめしきに心おくれてためらふひまにはやとく行過てけれバ。追ひしきて名のらんもさすがにて其まゝ止みにけれど。あはれ其折心をはげまし名のりかけて対面し言づてなりとも承り来たらんにハこよなきつとともなりぬべかりけるにあまりに心よわかりしを後に悔むもかひぞなき。と申しゝとぞ。語りつる人よりも打聞給ひたる祖母君母君こそなかなかに残り惜しうハおぼし給ひける。後の御消息によりて。そハ公用にて備中の国まで行かせ給ひける御道の程の事なりけりとハ知らせ給ひけり。此時大人ハ寺戸といふ所にて阪谷ぬしの父君に始めて対面し給ひけりとぞ。


(渋沢栄一)書翰(川村恵十郎宛)(慶応元年)三月二九日(DK010025k-0013)
第1巻 p.364-365 ページ画像

(渋沢栄一)書翰(川村恵十郎宛)(慶応元年)三月二九日
                  (川村久輔氏所蔵)
  尚々、どふか御用ニ相立候人当組立度彼是配処致候得は随而時日も相掛り、且費用も多分入用ニ候、乍然等閑ニ組立候は所謂安物買の銭失ひと存少くは費し候而もよき物を組立度奉存候、御見込より少々費用相嵩ミ候儀は後日取調可申上候、宜御含置可被下候
一書啓呈仕候、其後は打絶書状も不申上候処、愈御清逸可被為入奉賀候、随小子幸に無事罷在候、是御休神被下度奉存候、然は別紙申上候通人撰方之儀も略相調備中筋丈差進申候、其中拾八人程帯刀為致候者是は芸術も有之、且は気力も有之只々之歩兵ニ而は何分組立ニ相成兼折節人数も不足ニ付右様取計、且先頃申上置候廉も有之候儘敢而越爼之罪を得候心得ニ而取計申候、宜御執成被下度奉希候、尤も御取扱等は一切同様且稽古も同様之心得、只々帯刀丈致度志願夫も公費と申にも無之自分相便し万一接近之節は銃陣に而も刀槍は御用可有之候、左候はゞ其節御用に相立候覚悟に候間偏に相願度由申立候、其意難黙止大小持参之儀差許候位之事に御坐候
尤も備中之風俗は面白き士風大に用ゆる処有之候様子ニ奉存候、夫は後日上京之上可申上候
○御用状にも申上候通備中筋より上方見込等迄巨細は惣代共江相渡候御用状ニ而申上候、此御用状は途中ニ而右人数着之節御不都合有之候而は不相成と奉存候故急速申上候儀ニ付、先着には候へとも却而後に認申候儀ニ御坐候、其思召ニ而御覧可被下候、右等数条得尊意度如斯御坐候、頓首再拝
    三月廿九日
                         渋沢篤大夫
 - 第1巻 p.365 -ページ画像 
  川村恵十郎様
二白京都近日之御模様は如何被為在候哉、何分隔絶色々之風評而己苦心之事共多端に御坐候、もし御次《(マヽ)》も有之候ハヽ御知らせ被下度奉希候



〔参考〕徳川慶喜公伝 巻四・第五〇一―五〇二頁〔大正七年一月〕(DK010025k-0014)
第1巻 p.365 ページ画像

徳川慶喜公伝 巻四・第五〇一―五〇二頁〔大正七年一月〕
備中国後月郡は一橋家の領地なり、慶応元年、著者、農兵募集の命を啣みて彼の地を巡視せる時、村邑に功労ある者、及孝子・義僕・節婦の輩を調べ、始めて儒者阪谷朗盧にも面会せり、朗盧は通称を希八郎名を素といひ、同国川上郡 旗本の士戸川氏の采邑 の人なるが、嘉永四年八月より後月郡簗瀬村 今芳井村に属す 桜谷に黌舎を開きて子弟に教へたり。一橋家の代官手代角田米三郎其名を聞き、聘して学事を託せしかば、学舎を寺戸村に建て、興譲館といひ、学行世に聞えたりければ、余の京都に復命せし時、朗盧の事をも言上し、黒川嘉兵衛にも説く所ありき。嘉兵衛も尋で備中に下りて朗盧の賢を知り、亦之を公に薦めしかば、慶応二年、公は朗盧を京都に召見して、論語を講ぜしめられる。朗盧激しく勤王を説き「徳川家三百年の恩は大なれども、朝家三千年の鴻恩には比すべくもあらず」と言ひ放ちたれば、侍座せる人々手に汗を握れるに、公は頷かせ給ふのみにて、何の問はせらるゝ所もなく、却て子弟教授の労を賞せられて、銀五枚・五人扶持を賜はりき。朗盧いかに思ひけん之を辞して「是れ臣の私すべきにあらず。願はくは興譲館に賜はりたし」と言上せしかば、公乃ち任用の命を止め、其扶持米を以て興譲館に賜はりぬ。