デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.6.13

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

1章 亡命及ビ一橋家仕官時代
■綱文

第1巻 p.365-368(DK010027k) ページ画像

慶応元年乙丑八月十九日(1865年)

是ヨリ先、一橋家ノ財政充実ヲ図ラントシ、三案
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ヲ建言シテ容レラル。是日勘定組頭並ニ転ジ、御用談所出役ヲ兼ヌ。


■資料

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之二・第五九―六二丁〔明治二〇年〕(DK010027k-0001)
第1巻 p.366-367 ページ画像

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之二・第五九―六二丁〔明治二〇年〕
○上略 偖て此の兵隊組立御用で領分内を巡回して、更らに二ツ三ツ考案を起しました、其考案といふのは、一橋家も今日の如く、始終幕府から沢山に金穀を受けて居る訳けにはいかぬであらふ、仮令小サイ領分ながらも、経済上の道理から、少しでも収納を多くして、領分の者も富むやうな事を工夫して見たい、是は詰り自分の本領であると考へが付たので、先ツ第一、播州は上米の沢山に取れる所であるが、此の播州から収納する年貢米を兵庫で捌く事になつて居る、処がそれは兵庫の蔵方と唱へる人の扱ひに任せて、代官の注意が届かぬ所から、米の価が甚だ安くある、若しこれを灘西の宮辺の造酒家に売ると、大きに直段が相違する、又播州は白木綿の沢山出来る所で、一ツの国産ともいふ程なれども、之を大阪で売るに、何等の方法を施したことも聞かぬ、なれどもこれに適当の仕法を設けたならば、領分の物産も増殖し其間に利益も生ずるであらふ、又備中にては古き家の下から硝石が沢山に取れるので、これを製造して営業にして居るものもある、是らも当時必要の品であるから、何か法を立てたら利を起す工風がありはせぬか、先づ摂播の年貢米は僅か一万石位であるが、今少し高く売れば直に五千両位の相違はあらふ、又播州の木綿を大阪へ販売するに付ては、その方法により、為めに物産も殖へて、従て運上を取上ることが出来る、又備中で硝石の製造法を立てるも、一ツの利益である、既に兵備の事は、自分の建言で、歩兵の組立は出来たけれども、其実、兵事は、自身適当の仕事ではない、寧ろ此の瑣少なる領分ながらも、其々仕法を立てて、其富を益して、随て一橋家の収納を多くするやうな工夫がありさうなものだから、其方へ力をいれて仕事した方が面白くはないかといふ考が起つて来た、
○中略
偖て前にもいつた、廻米の法を改ること、播州の木綿を一ツの物産として、これに方法を設けること、備中に硝石の製造場を開くこと、此の三ヶ条の建言をした所が、黒川を始め其他の用人連中も至極賛成だといふので、直に其取扱を自分に命ずることになつた、然るに其事は現今の身分にては差支があり、会計上に係ることだから、会計の係りを命ずるといふ評議になりて、其年の秋、勘定組頭といふ役に転じて食禄弐拾五石七人扶持、滞京の御手当が月給弐拾壱両となり、御用談所出役は兼任で諸藩の用がある時には出るが不断は勘定所に出勤して其事務を取ることを命ぜられました、此の勘定組頭といふ役向は、其上に勘定奉行といふものがあるけれども、勘定所全体の要務は大概組頭が権を執つて居ること、幕府の慣例と同じく、一橋も其通りにして随分緊要なる役向である、殊に自分は前にもいふ領分の改正に必要あつて、用人よりの内談に依て命ぜられた組頭であるから、勘定所にては大に重く取扱はれたのみならず、用人は自分を大に理財に長じた人と思つたとみえて、一橋の財政上充分の改正を自分に委任するとの内
 - 第1巻 p.367 -ページ画像 
意であつたゆゑ、たとへ自分に於て差当り良法妙案はないにもせよ、兵制を説くよりは理財の方がまだしも長所であると自信したから、此の時より一橋の会計上に就て、十分に整理をして見やうといふことを思ひました、○下略


雨夜譚(渋沢栄一述)巻之三・第一―二丁(DK010027k-0002)
第1巻 p.367 ページ画像

雨夜譚(渋沢栄一述)巻之三・第一―二丁
○上略 前夜御話しした通り、勘定組頭に転役した後も、御用談所詰の仕事が兼務に成つて居たが、偖て勘定所に這入つて見ると、其方の用向が多くして、大概掛り切る様になりました、素より比較にはなりませぬが、此の勘定組頭といふのは 恰も今日の大蔵次官の職掌であつた、偖て何れの藩でも、勘定所には前例旧格等の多いことで、新規の人が突然這入つても、一月や二月の間に、其格例すら覚え切る事は容易でない、況やこれを改革するは、一通りや二道りの困難ではないと思ひました、抑も一橋家の勘定所の組織といふのは、先ツ勘定奉行が両人、勘定組頭が三人あつて、其他に平勘定及び添勘定といふが何十人といふ程あり、御金奉行、御蔵奉行、御金方、御蔵方又は御勘定所手附抔と唱へ、総体の人数は百人以上もありました、又領分の支配をする各御代官所の役人も、総て勘定奉行の支配下であつたからなかなかの大役所にて、自分一人の力で直に面目を改めることは出来ないけれども元来の目的は、藩の財政を改革せねばならなぬといふ気で這入たものだから、何組全体の勘定に余地を生じて、其余地を以て兵備を整へ、且つ通常の事務も、勉めて改良する精神であつた、故に奉行にも自分の考へを内話し、同役又は配下の人々にも、些細な事まで此の取扱振りは、斯うしたら好からふ、此の事は、斯う改正する方が好からふ、又甲の事務は、乙の事務に合併して一局となし、丙の繁雑を分けて丁の閑職に加ふれば、執務上、便利でもあり、道理に照らしても、亦正当であるなどと常に注意して、改革に力を用ゐて居つた、○下略


渋沢栄一伝稿本 第四章・第一二七―一三〇頁〔大正八年―一二年〕(DK010027k-0003)
第1巻 p.367-368 ページ画像

渋沢栄一伝稿本 第四章・第一二七―一三〇頁〔大正八年―一二年〕
○上略 先生は一橋家の財政についても充実を謀るの志あり。従来一橋家は十万石の領地を有する外、慶喜公が禁裏御守衛総督の任にあるの故を以て、幕府より毎月米七千五百俵 初め毎月一万俵下賜の沙汰ありしも、公は其内二千五百俵を辞せること、一橋家記録に見ゆ。尚此米の外に月手当金あれども、其額詳ならず。 を賜はるといへども、かゝる要職にあるが為に、用度豊ならず、此に於て先生は先づ家政を整理し、傍ら産業の利を興して、一橋家の基礎を鞏固ならしめんことを思ひ、且かゝる事業こそ、兵事よりは寧ろ己の長所なれと信じたれば、此度領内巡回の際も、深く殖産興業の事に注意せしが、其経済的眼識は、幾多利殖の道の存せることを発見せり。即ち播州の年貢米は、従来兵庫にて売捌くの制なれども、米質佳良なれば、之を灘・西の宮の醸酒家に売却せば、高価を得るの利あるべきこと其一なり。又播州は白木綿の産に富めども、之を大阪に於て販売する方法宜しきを得ず、故に改善の途を講じなば、領内の物産も増殖し、相当の利益あるべきこと其二なり。備中には多く硝石を出し、之が製造に従事する者あり、適当の方法を設け、軍用品として販売せば、世上の需用尠からずして、利益あるべ
 - 第1巻 p.368 -ページ画像 
きこと其三なり。募兵の本務の傍ら、此の如き産業に著目せられしは先生が財政・経済・殖産に対する特長の発露なりといへども、其宿論なる一橋家の発展を期する政治的意味を含めるは論なきなり。
先生が一橋家の財用を充実せしめんが為に、産業を起すの三策を建つるや、黒川嘉兵衛先づ之に賛同し他の同僚とも謀れる後、公の允許を経て、其議漸く決したれば、先生をして専ら事に当らしめんとし、慶応元年八月十九日特に擢でゝ勘定組頭並に補し、二十石・四人扶持と別手当五人扶持とを賜ふ、御用談所出役故の如し。されど今後は従前の如く出役を専務とせず、主として力を勘定所に尽すべしとの旨なりき。初め先生が一橋家に仕へし時は、同姓喜作と常に同じ職務に服したるが、此時喜作は軍制所調役組頭に補したれば、これより先生は理財の方面に当り、喜作は軍事の方面に力を致すことゝなり、職務上に於ては袂を分つに至れり。蓋し各の長所により、互に其志す所に嚮へるにて、此後は久しく行動を一にするの機会を得ざりき。
抑も勘定組頭といへるは勘定所の次官にして、三人あり、長官たる勘定奉行 二人 を補佐する者なり。下に平勘定・添勘定・勘定所手附などいへる属吏と、金奉行・蔵奉行・金方・蔵方などいへる支配向あり、概ね幕府の職制に則れるものなるが、先生が其任に就けるは、特殊の事務、即ち改革案及び産業経営等、既に君公の允許を得たる新事業の担当なれば、奉行に撃肘せらるゝことなく、自由に其手腕を振ふを得たり。○下略


御番頭御用人 日記 慶応元丑年八月(DK010027k-0004)
第1巻 p.368 ページ画像

御番頭御用人 日記 慶応元丑年八月 (伯爵 徳川宗教氏所蔵)
八月廿八日

  在京中           御徒頭格
   御納戸頭兼帯江      小普請奉行
                     宮下九八郎

   御納戸頭席        御納戸頭助
   御勘定組頭江            森源蔵

   小普請奉行過人江     御納戸頭格
    早々帰府        御勘定組頭
                     中田官兵衛

   御軍制所調役組頭     小十人並ニ而
       勤方是迄ノ通   御用談所調方出役
                     渋沢成一郎

   御勘定組頭並江      同
       勤方是迄之通   同
                     渋沢篤太夫

   御右筆助江        御勘定格
                御右筆助
                     渡辺健介
                       ○以下四人略ス

右之通去ル十九日京都
御旅館於御書御二之間御家老列座加賀守殿申渡之《(院脱カ)》、侍座藤次郎之旨京地より申越之。