デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.6.13

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

1章 亡命及ビ一橋家仕官時代
■綱文

第1巻 p.368-406(DK010028k) ページ画像

慶応元年丑乙秋冬同二年丙寅春(1865-1866年)

一橋家財政ノ充実ヲ図ランガ為メ、兵庫・大阪・備中・播磨ニ出張シ、年貢米ヲ兵庫ニ直売シ、備
 - 第1巻 p.369 -ページ画像 
中ニ硝石製造所ヲ設立シ、又藩札ヲ発行シテ播州木綿ノ買入ニ便ニス。帰京後其功ニヨリ勘定組頭ニ進メラル。


■資料

雨夜譚(渋沢栄一述)巻之三・第二―八丁〔明治二〇年〕(DK010028k-0001)
第1巻 p.369-371 ページ画像

雨夜譚(渋沢栄一述)巻之三・第二―八丁〔明治二〇年〕
○上略 前回で概略述べて置た、三事業改良の事を愈々挙行することになつて、先づ第一に、兵庫に出張して、播州摂州等から納る年貢米売捌の方法を立てた、夫までは兵庫に蔵宿があつて、其れに託して、相当な相庭で引受ることになつて居た、なれども其進退は、大阪の代官が全権で取扱ふゆゑに、甚しきは菓子折の為めに三合安く売るといふことがないでもなかつた、詰り全体の取扱も、直段の取極方も、丸で蔵宿といふものに任せてあつたが、自分の考は、摂播両国の一橋領は地味が好いから、随て貢米も良い道理である、故にこの良米を、灘の酒造家の入札払にして、酒の元米に買はせたなら、今までの売捌方よりも、一割以上の高価を得ることは、必らず出来るに違ひない、丁度蔵宿の一人で、東実屋何某といふ男は、普通の才覚があつて、此の改正の用に使へるものと見たから、是の男に談じて、酒造家の元米に売ることを試みた、所が忽ち効能が顕はれて、前年よりは一両に付て升目五合以上高く売れた、併し其時の相庭が何程で、差引利益が幾許あつたといふことは記憶して居りませぬ、続いて備中にいつて、硝石の製造所を立てた、曩に歩兵の募集に来たときに面識になつた、剣客の関根といふ男が、硝石製造の事を心得て居たから、これを使用し、猶土地の重立つた農民にも其旨を申談じて、奨励の為めに少々の元入金を出し、果して完全な硝石が出来たならば、斯ういふ定価で買ひ上て遣るといふ方法にして、四箇所ばかり製造所を開かせました、
それから引続いて播州へ来て、木綿売買の法立に取掛つた、元来播磨の国は木綿が重なる産物で今日でも東京へ来る晒木綿は、大抵播州の姫路から出るのである、尤も一橋の領分は僅かに二万石程の石高であつたが、其村々で出来る木綿も相応に沢山の高であつた、さうして是は大概、村民が自由に大阪に商ふまでゞ、別に仕法も取締もない、処が姫路の方は藩で法を立てゝ、封内で出来るものは、総べてこれを姫路に集め、其れを哂にして、大阪并に東京へ売るやうになつて居るから一反の価を比較すると、姫路の木綿が甚だ高い、然るに其隣村でありながら、一橋の領分になると、価も安く、出来高も比例してみると少ない、折角綿も沢山出来る地方ではあり、又人手も沢山あつて、作れば作るだけ出来るのに姫路の方では立派に一種の物産となつて居るにも拘はらず、如何に領分が狭いといつても、重立つた産物ともならぬのは頗る残念である、依てこれを一つの物産とするには、先づ木綿を拵へる者から価を高く買取て、夫れを大阪又は江戸へ送りて、売るには成丈安くする道を設ければ、必らず盛んになつて、領分の富を増すに相違ない、就ては此の売買の間に、一橋の藩札を作つて、これを流通させ、而して其売買の便利を謀らふと企てました、
偖て此の藩札といふは、現今の兌換紙幣のやうなもので、其頃、中国
 - 第1巻 p.370 -ページ画像 
九州の藩々にては、盛んに流行した、固より紙幣を以て金銀に代へるのは、経済上相当なことで、何れの国にも紙幣のあることは聞て居つたから、敢て怪しむべきものでないと思つたが、当時此の藩札中に於て、長州及び肥後肥前の藩札は、稍や通用が好かつたなれども、姫路其他の藩札は、多くは他領へ通用せぬ、稀れにこれを所持するも、一束の藩札で、一丁の豆腐も買へ得られぬ次第にて、其領内の通用も何割引、或は何掛ケなどいつて、例へば百匁の札に三を掛けて、三十匁に取引するといふ始末であつたから、札の表面に書てある直段は殆ど虚価にして、実価は時の相場に従ふものであつた、現に自分が備中の往返に備前の岡山を通行して、少しの藩札を受取つたが、国境を越すと通用せぬから、其領内にて使つて仕舞はねばならぬといふので、入用でもない物を買つたことである、
抑も藩札の価格が右の如くに低落した原因は、只其正金引換が不充分であるから起るので、申さば諸藩の引換所が時々戸を閉るとか、又は引換を中止するとか、甚しきは他領へいつてこれを使用すれば、夫れ丈の得益があると心得て居る会計役人が多かつた、故に藩札の信用が全く地に落て、前に申した次第に立至つたのである、自分は熟ら此の有様を見て、さても愚かな話しだ、金銀よりも紙幣の方が便利に相違ない、正金を引換準備に立てゝ札を使ふのは便法である、然るを其札が焼ればよいとか、又は人が失へばよいとかいふ様な、泥坊根性でこれを使用するのは、実に笑ふべきことである、国家の通宝に依つて私利を貪るといふものだ、左様な考へでなく、実直に藩札を流通したならば、遂に一橋の札は立派に通用するであらふと思ふた、元来自分は斯様な事に付ては、共時分には別に学問も経験もなく、又外国の紙幣取扱方を聞いたこともなし、謂はゞ腰だめの考案であつたが、今日から思つて見れば、此の時の考案は経済の道理に暗合して居たので、即ち紙幣は此の如き効能をなし、又此の如き過ちを生じ易いものであるから、其効能を取つて過を避ければ、真誠なる紙幣使用の実益を得るものである、
播州の領分で木綿の多く出るのは、印南郡であって、其郡中の今市村といふ処へ藩札引換の会所を設立した、尤も木綿の多く出るのは、今市より二三里北に当つた村々であるが、今市村は土地に財産家も多く相応の家屋もあり、又引換正金を貯蓄するにも、土蔵其他の手当もあり、且つ諸方への運搬便利なども最上であつたから、此の処に会所を定めた訳であります、此の今市の近傍に高砂といふ処があつて、かの有名な尾上の松のある名所、又其近所に曾根村といふがあって、曾根の手枕の松と唱へて、名高い松の樹がありました、さて藩札発行の方法は、木綿買入に付て資本を望む商人へは、其木綿荷物と引換へに、適宜に札を渡し、取も直さず荷為換貸金の手続を為る、若し此の木綿を本人の手で、大阪へ売却しやうとする時には、初め資本に借受た藩札の金高を正金にして、大阪に於て払ひ込めば、其れと引換に木綿を請取ることが出来る、又会所の手で売却を望むものがある時には、会所に於ては売捌手続を立てゝこれを取扱ひ、其売上代金の内から、貸付てある所の藩札代を受取り、差引決算を立てる、其間に些少の手数
 - 第1巻 p.371 -ページ画像 
料を取る都合であつた、
又藩札の引換は今市村の会所と定めて、其準備金は、今市と大阪とに置くものとし、大阪へ置く金は、大阪の豪家に預けて利足を取るといふ仕組で、申さば一万両の藩札を発行すれば、其中の五千両は今市に備へるが、他の五千両は、三十日前に通知すれば返納する約束で、大阪の金主に頂ける、其金主といふのは今堀・外村・津田其他二軒計りであつたが、二十二軒の御為換組の中でも、重立つた金持五軒の用達であつた、最初藩札を拵へる資金から、其他一切の費用に至るまで、皆此の五軒の用達に調達させて、勘定所からは聊も出金せず、只其事を許可するまでのことでありました、
藩札の発行高は、最初に先ツ三万両として、其実施の上にて十万両との予算であつたが、猶其上の都合によつては、弐拾万又ハ三拾万両までも発行する見込でありました、偖て其見込は定まつたけれども、其藩札の原紙製造及び版木の彫刻を命ずる事、又今市の会所を修繕し、大阪の出張所を定むる事などに余程の日数を要したから、自分も丑年には秋から冬まで、播州と大阪とで半年を経過しまして、愈よ実施したのは、丑年の十二月から寅年の初めへかけての事であつたと覚えて居ります、幸に其事務が都合よく行はれて、発行した高が、三四箇月の間に、丁度三万円許《(マヽ)》りになつて、引換も至て少なく、一方に於ては木綿の売買に頗る便利を得たから、最初は新法新法といつて掛念した領内の村民も、此に至つて何れも安心して、怡びの色を現はしました其中に京都から御用状が届いて、藩札事務は、稍や手順も定まつたに依り、他人に扱はせて、自分は帰京するやうにと、奉行から申して来たゆゑに、夫々に手順を示して置て、寅年の三四月頃京都へ帰つて来て、日々勘定所へ出勤して、会計事務を取扱つて居ました、


御口授青淵先生諸伝記正誤控 第三〇―三二頁〔昭和五―六年〕(DK010028k-0002)
第1巻 p.371-372 ページ画像

御口授青淵先生諸伝記正誤控 第三〇―三二頁〔昭和五―六年〕
○質問
 問「先生が一橋藩札発行せらるゝに付正金引替を設けられ、為に一橋の藩札は正貨同様に通用せり。その引替所を置かるゝに付ては、何等かの拠所ありて、之を始められしや。又如何なる御心持にて始められしや」
御答「わしが一橋藩の農兵募集の為に御領分を廻つた時に、その下情を注意して見、またその役人や又農民のいふ所を聴いたが、これは御領分が少いとはいへ、いくらかでもその収入を多くする方法はないものかと思つて、先づ摂津米に着眼した。摂津米は酒の元米となる程よい米で、普通米の値段より一二割方高い相場であつた。それを単に請負で売却してゐるといふのは愚な話だ、とこれを直接に灘の酒造家に売つた所が、従来よりも二割方高く売れ、その純益の増加が壱万円になつた。今の壱万円は何でもないが其頃の壱万円は大したものであつた。又其米の質を上等にせん事を勧誘しよく出来た者の米はその納米を減じてやつた。藩札に就ては、何もわしが兌換券を発行するといふやうな一般的のものをやつた訳ではない。これは単に播州木綿の生産を盛にしよう又その為には売捌に有利な方法をつけようといふ所から考へついたので、それには大阪での売却金
 - 第1巻 p.372 -ページ画像 
は遊ばせておかず当時の掛屋(之は金貸である)津田久兵衛、他二軒合計三軒に対して之を預入れ、これから年当時にしては低利の五六分の利息をとる、又一方製造元の播州では製造家に藩札を以て其資金を年六分許りの低利を以て貸付し、売却の時に回収する。
 印南郡の今市町に、この町には豪家も多い一寸した町であつたので引替所をおき、安い空屋を見付けて藩札の製造もそこでやる、貸付もそこでやる。わしも(子爵)自身で此処に出張して半年許り滞在して事務を見た。発行高は最初の一年目に参万円後に参万円合計六万円許りに上つたかと思ふ。藩札は当時九州備前及姫路藩などでも発行してをり、どうして幕府の許可を得たものかは知らないが、敢て新しい試みといふではない。勿論一橋のは単に木綿売捌の方法として之を採用し、――勿論札といふものは正金で引替へるものとは知つてゐたが――只その利殖法としてかゝる引替を行つたものに過ぎぬ。」


御口授青淵先生諸伝記正誤控 第二四七頁〔昭和五―六年〕(DK010028k-0003)
第1巻 p.372 ページ画像

御口授青淵先生諸伝記正誤控 第二四七頁〔昭和五―六年〕
○上略
問「東実屋といふのでございましたか。」
御答「さうです。――この地方の米は良質で、普通の米から見ると二割方も高いのです。その売捌を見ると誠にまづいので、大阪の代官にセイゼイ云つて(やかましく云つて)、従来の有様(では困ると)を云つて改良させた。よくは覚えんが何でも一年に壱万円近くの増収になつたと思ふ。」
  ○本件ニ関スル栄一ノ談話ハ「青淵百話」九三「産業奨励と藩札発行」其他ナホ少カラズ。然レドモ「雨夜譚」ニ談ルトコロト異ナルモノナキヲ以テ他ハ省ク。
  ○荒木豊三郎編「日本古紙幣類鑑」ニハ「一つ橋領、今市木綿札は渋沢栄一氏の考案になれるもの」トシテ 大阪川口御産物会所 発行ノモノ銀札一匁一種、御産物会所発行ノモノ銭札十文目・五文目・一文目・五分・二分・一分ノ七種、兵庫穀物仲間引請 発行ノモノ銭札一文目・五分ノ二種、摂州組泉州組 発行ノモノ銭札一文目・五分ノ二種、岩田猪兵衛辻田万次郎 発行ノモノ銭札一文目・五分ノ二種、都合十四種ヲ挙ゲタリ。
 ○東京府下荏原郡戸塚町田中銭幣館ニハ左表ノ諸札ヲ蔵ス。


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 今市 《いまいち》 印南郡《いんなみ》 楫西郡ニモアリコノ方ラシ  同  同  同  同 御産物木綿  預手形 同  摂州組  泉州組 同  摂州加茂村  岩田猪兵衛     引請 同  摂州郡村  辻田万次郎     引請 同  兵庫穀物   仲間引受 引替所  播州今市  大阪川口  御産物会所 同 同 同 同 慶応元年 目方  五分  一文目 目方  一文目 目方  五分  目方  一文目 目方 十文目五文目 一文目 五分二分一分 



 - 第1巻 p.373 -ページ画像 

渋沢栄一伝稿本 第四章・第一三三頁〔大正八―一二年〕(DK010028k-0004)
第1巻 p.373 ページ画像

渋沢栄一伝稿本 第四章・第一三三頁〔大正八―一二年〕
○上略 先生は産業振興の為に、慶応元年の秋より二年の初にかけて、数箇月を大阪・兵庫さては播州・備州の領内に送りしが、事業やゝ整頓するに及び、京都よりの召命に接し、同二年三月を以て帰京せり。此月勘定組頭並より勘定組頭に進められ、専ら理財の局に当ることゝなり、此に始めて御用談所出役を免ぜらる。渋沢家文書雨夜譚。
   ○右ノ記述以外ノ財政充実ニ関スル稿本ノ記述ハ専ラ「雨夜譚」ニ拠ルヲ以テ、他ハ之ヲ略ス。
   ○帰京ノ月ヲ「雨夜譚」ハ三四月トシ、「稿本」ハ三月トス。三月ト確定セルハ何等カ根拠アルベシ。


興譲館記録(DK010028k-0005)
第1巻 p.373-375 ページ画像

興譲館記録                  (財団法人興譲館所蔵)
一、慶応二寅年二月中 御側御用人黒川嘉兵衛様、御奉行三輪彦之亟様、御右筆柳下十介様、御勘定組頭渋沢篤太夫様方 御用向にて御下り被遊候節、同月十六日当館え態々御立寄被為遊、教授阪谷希八郎講釈御求に付、希八郎講釈仕候、其内渋沢様之義は其前丑年中御用にて両度御下り毎度館え御出、種々御配意有之候
一、同年四月京都
 御旅館より御役所え相下り候御書付左之通り
                備中国
                 御領に罷在候
                      阪谷希八郎
 右学術宜敷、御領知百姓共え教諭方も行届候段達
 御聴、御序之節御目見可被仰付、且申渡候節も有之候間、道中不差急上京候様
                     大江村庄屋
                       池田丹二郎
                     簗瀬村庄屋
                       山成直蔵
                     西江原村庄屋
                       片山茂久郎
 右希八郎学問教諭之儀に付ては、厚く世話致開業相成、奇特之筋に付、申渡候儀有之候間、希八郎ニ差添上京候様
  但直蔵儀は老年ニ付上京之義は都合次第可致候
 右之趣御書付を以被仰渡候
   月 日
右御代官田口清助様より御申渡に相成候処、希八郎に於て
御上御思召恐入候次第、又差支の角も有之、且は多病に付、右訳書面渋沢様に御辞退申上候得共、再度御書付相下り、県令様并御勘定荒川万五郎様、御筆頭松田大一郎様厚ク御配慮により、早々上京と相定候、直蔵義は御書付通り老衰に付御断り申上、丹二郎は折節御用向繁多、且又忰富三郎上京中に付直様代人相勤候様申送り、茂久郎老人差添、五月十八日出立、道中川支に付同廿八日着、茂久郎富三郎両人惣代仕り、左之通り御褒美被下置候
   銀三枚
 - 第1巻 p.374 -ページ画像 
                    阪谷希八郎
    別段弐枚
右者先年備中国後月郡簗瀬村相趣候以来、御領民共農隙之節勤農教諭行届に且平生学業相励、入門之子弟教育方等宜敷、奇特之事に候、依て為御褒美被下之

  銀三枚ツヽ             山成直蔵
                    池田丹二郎
                    片山杢郎

  銀二枚ツヽ             山足谷助
                    守屋廉助

  銀壱枚ツヽ             平木晋太郎
                    山本朴助
                晋太郎親京助并朴助
                死去々付如此被下置候
右寺戸村教諭所先年取建、阪谷希八郎雇請、教諭方世話為致候に付ては格別骨折、開業以来無懈怠世話行届、奇特之事に候、依て為褒美被下之
                    定光寿平
                    田中応助
                    佐藤正左ヱ門
                    今市健三
                    相谷顕蔵
  右者神戸 御役所に於て、京都より教諭所世話行届御褒置被為遊候段 御口達に相成候
一希八郎義征長相初り
 御上御多用に付、講義は御学問所に於て家老用人共承り候様と申事にて
 六月七日
 御参内御序 御目見被仰付、同九日御学問所に於て講釈相済、同十二日京都出立、大阪にて希八郎中暑に付船路罷下り、同廿六日帰郷仕候
  但し御陣内筆頭藤田大作様御用にて御上京中に付、諸事御引まわし有之候
一御扶持米希八郎え可被下御内意之処、希八郎無余義わけ申立御聴済興譲館教授之者に被下置候趣、御代官田口様に御書付相下り、五人扶持被下置候旨、世話惣代に御申渡ニ相成候、御書付左之通り
  備中国後月郡寺戸村ニ有之候教諭所、先年郡中重立候村役人共取建、阪谷希八郎雇受、農隙之節勧農を初め学問修心之者共厚致世話、追々風土淳朴ニ立直候段達
  御聴、奇特之事ニ被
  思召候、右は畢竟希八郎并村役人共 誠心相貫、教諭方怠惰無之故の儀に付、今度出格之訳を以、教諭所附為御手当五人扶持被下之、依而教諭所之儀は以来興譲館と相唱、永世荒廃無之様精々世
 - 第1巻 p.375 -ページ画像 
話可致候
  但興譲館教頭無之節は御扶持方不被下候
 右之通以御書付被仰渡候ニ付申渡之
   寅六月


竜門雑誌 第六一六号・第一七―二〇頁〔昭和一五年一月〕 慶応年間備中御滞在の渋沢子爵(山本讃七郎談)(DK010028k-0006)
第1巻 p.375-377 ページ画像

竜門雑誌 第六一六号・第一七―二〇頁〔昭和一五年一月〕
 慶応年間備中御滞在の渋沢子爵      (山本讃七郎談)

   山本氏は安政二年備中後月郡梶江村に生れ、阪谷朗廬先生の興譲館に学び、明治四年阪谷家と共に上京せられ、後に写真術を学んで明治三十六年北京に赴き同地にて写真業を営まれ、(当時の北京では最初のわが民間の営業者で、清朝の宮廷御用を勤められたこともある)大正三年に業を嗣子に譲つて帰国された。現在は府下吉祥寺に老後を養つてをられる。本年八十六歳である。

土屋 貴下が、渋沢青淵先生が慶応年間に備中にお出でになられた時の御様子を御存知であられるといふことを、渋沢子爵から承りましたので、当時のことをもつと詳細にわたつてお話願ひたいと思つて参上しました。
山本氏 それは随分古い話でございます。それに私は年をとつて忘れつぽくなつてをりますので、細かい所は覚えてをりませんが、渋沢子爵が一橋家の家来をしてをられた頃のことであります。御承知の通り、子爵は慶応年間に農兵をお集めになるために備中の一橋領へお出でになられまして、興譲館で只今の阪谷男爵の一つか二つの時にお目にかゝられたといふ、その時の事であります。
  興譲館は備中後月郡の寺戸村(今は西江原村となつてゐます)にありまして、私の家は寺戸村の北寄りの梶江村であります。やはり一橋領であります。渋沢子爵は前後二回 ○慶応元年三月及九月 江原の陣屋に参られたのであります。
  その最初の時が農兵取立の御用でありまして、私の兄弟のうち、二番目の讃四郎兄も応募しまして御採用になり、一橋家へ召されて行きました。
  渋沢子爵がその後、備中に参られた時 ○一橋家財政充実のため年貢米木綿の売払、藩札の発行及び硝石製造等に付領内の巡視をなす 私はお目にかゝつたのであります。子爵は領内の梶江村とか芳井村とか簗瀬村とかの庄屋又は豪家を巡回になりまして、そのうち簗瀬村の山成家へお出になつた時、同家に頼まれて、私が子爵のお食事のお給仕をしたりお茶を差上げたのであります。山成家といふのは阪谷男爵の御母堂の生家であります。それから梶江村の隣村に芳井村がありまして、こゝを流れてゐる天神川の川原は景色がよく、夏には興譲館の塾生たちが涼みに出るところになつてゐましたが、此の時丁度この川原の楓が紅葉の盛りでありましたので村民がこゝに、今で申せば園遊会のやうなものを催して子爵を御招待致したのであります。子爵は田口代官以下五・六名のお伴をつれてお出になりました。この時も私はお側について参つてお茶のお給仕など致したのですが、どういふ話からであつたか忘れましたけれ
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ども、子爵はちよつと差してやらうと申されて私をぐつと差し上げられたのであります。左様ですね、子爵はその当時も物柔らかな御態度で、私共もなつかしい感じでした。土下座してお迎へするといふ風のことはありませんでした。
土屋 渋沢子爵が備中にお出でになつた時の服装はどんな風でございましたか。
山本氏 やはり当時のお侍のやうにぶつさき羽織に袴をはいて大小を差してをられたと思ひます。どうも他のことは忘れてしまひましてたゞ子爵のお食事のお給仕をしたり、私を差し上げられたことを覚えてゐるだけであります。
  左様ですね。その頃の思ひ出としては子爵が備中にお出でになつた翌年 ○慶応二年 に例の長州征伐が起りまして、大勢の侍たちが長州にむかつて毎日々々江原村の往還をどんどん通るのを、私は十二・三でありましたが、見物に行つたことなど覚えてをります。
土屋 子爵が備中で代官所に庄屋を集めて募兵の演説をされたことや関根といふ剣術使と試合をされて、打負されたことがありましたが、それについてお話を聞かれた御記憶はございませんか。
山本氏 記憶致しません。後に私が成人してから、かういふことがあつたと聞いてをりますが、梶江村の旧家で酒造家の渡辺といふ家をお訪ねになつた時、その家にあつた屏風がお気に召して御所望になりお持帰りになつたさうであります。
  興譲館にお出でになつたことは話にきいてをります。朗廬先生は酒がお好きでしたから一緒に酒を飲まれたり、詩をお作りになつたといふことなど、なにしろ山の中ですから他に遊ぶところもなかつたのです。
土屋 興譲館の教育方針はどんな風でございましたか。
山本氏 やはり孔子様を尊んで漢学を学ぶ塾でした。毎朝塾生を集めて論語の講義がありました。左様ですね、時間といふものはなく、たゞ早朝からやるといふ風でした。塾生は備中ばかりでなく各藩から来てをりましたから寄宿生もありまして、全体で多い時は七・八十人ゐたと思ひます。
土屋 朗廬先生は幕末に、開港説を唱へられたといふことでありますが、さういふことについては。
山本氏 話には聞いてをりますが、何分私は年少の時分だつたので、先生が先覚者であつたことや種々の論文を出されたといふことは当時はまだ分りませんでした。
  朗廬先生は明治元年に広島の浅野家に招聘せられて同家の顧問となつて広島へ参られ、さうして明治三年に浅野家が上京せられると先生も御一緒に上京せられましたので、翌四月に阪谷家では御母堂様をはじめ礼之介、昌蔵(次雄)、達三さんに只今の男爵(芳朗)の五名に御親戚の阪田実さんと、東京から迎へに来たものと、興譲館の塾生二人と私が加はつて上京致したのであります。この時阪谷男爵が十一・二歳で、私が十八でありました。一行十人が備中の南海岸の笠岡から小舟二艘を仕立てゝ風を待つて舟出し、四晩かゝつて漸く神
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戸の港に着くといふ有様で、当時の神戸は至つて淋しく人家も港場のところにまばらにあるだけでした。湊川の楠公の碑が建つてゐるところなども宿屋が二・三軒しかなかつたことを覚えてをります。神戸に一晩か二晩位ゐまして、こゝからはアメリカの飛脚船――これは外車の船でした――に乗りかへて横浜まで上りました。横浜から更に東京まで小蒸汽船に乗つて朝の十時頃霊岸島に着き、こゝからは歩いて本所の津軽屋敷へ夕方無事辿り着いたのであります。
  朗廬先生が上京せられた後は先生の御親戚で門下生の阪田丈平といふ方が引受けられました。この方は驚軒と号して儒学者でありましたが、議会が開設された時推されて第一期の議員に出られたこともあります。またこの方の弟の実さんは上京後福沢諭吉先生の門に学び、後に慶応義塾の教授になりました。阪谷男爵の御兄弟は実にお気の毒なことに四人兄弟のうち上の兄様が皆早逝せられまして、只今男爵のみ一人御壮健でをられるのであります。
土屋 上京なさつた後で渋沢子爵にお会ひになつたことはございませんか。
山本氏 阪谷家の寄合では時折お目にかゝりましたが、御挨拶申すだけで格別の話はございません。備中でお目にかゝりましたことは、阪谷家でお目にかゝつた節に昔話が出まして、私を差し上げられたことなどお話し申したことがありました。子爵もさういふことがあつたねと笑つてをられました。
土屋 備中から農兵に出られた貴下の兄さんは其後どうなさいましたか。
山本氏 讃四郎兄は明治二年頃備中に帰つて参りました。調練を受けただけで戦争に出たことはなかつたと聞いてをります。兄は明治三十五・六年頃に上京して渋沢子爵を訪ねまして、子爵から漢詩を書いていたゞきました。この兄はもう亡くなりました。
  また父の弟の少貞伯父はやはり朗廬先生の門下生でありましたがこの伯父も後に上京して、将軍家の御殿医林洞海に医学を学びまして、国に帰つて開業してをりましたところ、林御殿医の御推挙によりまして一橋家の御殿医になりました。さういふことで少貞伯父は渋沢子爵と御懇意に願つてをりました。私達兄弟のことばかり申して恐縮ですが、このほか興譲館の塾生が阪谷家を頼つて上京し、勉学したものは沢山あります。

〔参考〕
  ○以下ノ記述ハ一橋家仕官時代全期ニ関スルモノナルヲ以テ、コヽニ纒メテ参考トシテ掲グ。


竜門雑誌 第六二一号・第一―一三頁 〔昭和一五年六月〕 川村恵十郎日記より見たる青淵先生(上)(藤木喜久麿)(DK010028k-0007)
第1巻 p.377-389 ページ画像

竜門雑誌 第六二一号・第一―一三頁〔昭和一五年六月〕
 川村恵十郎日記より見たる青淵先生(上)(藤木喜久麿)
      出郷以後一橋家仕官時代の青淵先生に関する新資料
     まへがき
 予て当編纂所通信上で其の発見を報告した川村久輔(花菱)氏御所蔵
 - 第1巻 p.378 -ページ画像 
の、同氏の先考、川村恵十郎氏の日記簿は、文久三年大志を抱いて郷里を出られた以後の、青淵先生並に渋沢喜作氏の、江戸及京都に於ける御動静をたとへ僅か一部分にしても知ることが出来たことに就て、貴重な資料であるといへる。依て本誌上を借りて其の内より特に青淵先生、渋沢喜作氏と関係ありと見られる記事を抜抄して、御紹介する事とした。
 今まで此間の事情は、青淵先生御口述の「雨夜譚」並に渋沢同族会編纂の「渋沢栄一伝稿本」以外には実証となるべき資料は二・三の断片的資料を除いては皆無ともいへる有様であつて、これ迄に出版された総ての青淵先生伝の、この期間に於ける記述は雨夜譚以外に出るものは一つも無かつた。然るにこの川村恵十郎日記は、文久三年九月青淵先生と川村恵十郎氏の接近に始まり、青淵先生が一橋家に仕官せられる前後の経緯を了知することが出来、且つ青淵先生の御談話では、一切知ることが出来なかつた川村氏の陰の工作、即ち川村氏が青淵先生並に喜作氏の人物に傾倒して、一橋家へその採用方を推薦し、其の間に立つて如何に陰に陽に尽力をしたか、又青淵先生並に喜作氏の京都行の手続に就ても、青淵先生の知られなかつた下準備を、川村氏が施して居たことを知る事が出来た。併し雨夜譚と当日記との間に、日時其他に関し、まゝ幾分の食ひ違ひを生ずる点が発見されるが、雨夜譚は其当時より二十数年を経た後年の御談話であるので、多少の御記憶違ひ等が無かつたとは考へられない。又日記は其日に書記される性質上、日時の点ではこの方が正確であると認めて良いと思ふ。唯惜しむべきことは、元治・慶応年度に入つて、天下は尊皇攘夷の声に満ち京都はそれ等の志士の集中する処となると共に、日記の記事は各藩の動向とか、京都市中に於ける巷説・落首等の記載が断然多くなり、それにつれて青淵先生に関する記事は急に減少し、青淵先生の農兵募集の為めの備中行、又仏蘭西行等に付ての明確な記事を見る事が出来ないのは残念である。
 この日記を読んで最も感じたことは、川村恵十郎氏が、其当時に於てこの農村出の一青年渋沢栄一郎の、有為の材であることを認めて、一橋家へ極力推薦してゐることである。この点川村氏は後年我が経済界に君臨された青淵先生を見出した最初の人であるといつて良いと思ふ。又川村氏によつて青年渋沢栄一郎を引合はされた一橋家の重臣平岡円四郎、松浦作十郎、榎本亨造、猪飼勝三郎等の人々が、数回打寄つてこの両青年の採用方に就て協議し、その旧領主安部摂津守との交渉の煩瑣な為め、一時は不採用と迄決し掛つたのを、又々協議を再開して、この両名のみは何としても採用のことゝ決したのは、青年栄一郎が唯理論一方の慷慨家では無く、実行力を伴つて居ることが見へたからであらう。当日記中にも川村氏が「尤、此者共真の攘夷家に候を何れニ歟弁し候事」と書かれて居る点から見てもそう感じられる。
      一
 扨この日記を御紹介する前に、御参考までに、一応日記の筆者川村恵十郎氏の略伝を述べて置きたい。
 - 第1巻 p.379 -ページ画像 
 川村恵十郎は、武州小仏・駒木野御関所の御関所番川村文助の長子として、天保六年七月多摩郡駒木野村に生れ、長じては同御関所番見習を勤めて居た。文久二年十月恵十郎が二十八歳の時、同所支配の江川太郎左衛門役所へ対して、小仏関所備付の武具類修復方歎願の為め出府する事となつた。この関所備付武具の修復歎願は、既に天保六年以来支配代官所又は御目附等へ数十回に亘つて願ひ出たが、当時外には外国船の我国の四辺を窺ふものがあり、内には尊皇攘夷の声次第に起つて、幕府は漸く二百余年の泰平の眠りから覚め其対策に狼狽を極めてゐる際であつた為めか、この山間の関所などの問題は、当然等閑にされて居たものと見へる。この武具修復歎願の経過に就ては、其出府中の日記「弓箭雑録」の巻首に書いてある万延二年の時の願書の写しを見ると、
  万延二酉年二月廿一日落合源一郎出府之節、御目附浅野一学殿江差出候御道具類御修復其外願書左之通
  小仏関所御備御道具類及大破候ニ付、御修復御座候様天保六未年申立候処、当万延二酉年迄年数廿七年、其間追願書或は取調或は口上書等差出候度数、今般迄三十五度ニ及申候得共、只今以御沙汰無御座候ニ付、無拠支配差越奉申上候儀ニ御座候。就而は右御道具数年限等委細旧記取調書ハ支配江川太郎左衛門方江差出置申候。右御道具御修復其外、方今之御時節柄ニ当リ必用急務之品々、奉申上候通被仰付被下置候様御声懸被成下度乍恐奉願上度候以上
    酉二月廿一日         小仏御関所番
                       落合源一郎
とあつて、相当長期間不問に附されてゐたものと見へる。その為め今回は恵十郎がその全権を負つて出府し、上野山内の浄林院に滞留して江川太郎左衛門役所へ右の請願運動に出入してゐた。翌文久三亥年五月川村は朝廷と幕府方との折衝に関して慶喜公に建白書を差出し、又江川代官所の手代柏木総蔵を介して、一橋家の御用人平岡円四郎に面会して、前記慶喜公へ建白の次第及び農民より募兵する件等を建言した。これ等の建議は何れも平岡の同感する所となつて、平岡は川村に農兵募集のことを命じた。これが青淵先生を一橋家へ結び付ける動機となつてゐる。この時以来、川村は平岡邸へ度々出入する内に其才能を見込まれ、平岡から江川代官所へ交渉して、遂に川村を一橋家へ譲り請けることになり、同年十二月十六日御普請役見習に仰付けられた。この時慶喜公は上京中であつたので直に川村も上京することゝなり、折柄同月二十七日将軍家茂公の上洛について、川越藩主松平大和守の手附となつて京都へ上ることになつた。京都に着いたのは翌文久四子年正月十二日であつたが、同廿三日御呼出しがあつて、二条城におゐて一橋家小十人組雇に仰付られ、翌廿四日一橋家御雇書院番に仰付られ御用談所調方出役を命ぜられた。この御用談所といふは一橋家の政庁で、用人、物頭、目付等が集会して朝廷、幕府、諸藩等に関する事務を扱ふ所であるといふ。次で元治元子年四月十八日には御使役並に御用談所調方頭取を仰付けられた。此年六月十六日の夜、御用談所へ
 - 第1巻 p.380 -ページ画像 
会津、淀、桑名の公用人衆が集つて評議があつたが、折柄平岡は一橋家の家老渡辺甲斐守が上京したので、其旅宿を訪ねて居て不在の為めに評議が決しないので、迎の者を差出したが帰所しない、止むを得ず川村が自身で迎に赴き、同道して御用談所へ帰る途中、暴徒六人に擦れ違ひ様に要撃され、平岡は一人に背後より頭脳へ、一人に腰へ一刀ヅツ斬り付けられて即死した。川村も顔に一太刀斬りつけられたが、ひるまず刀を抜き合せ、自分に斬掛けた者は捨て置いて、平岡に斬り付けた両人の者に打ち向つた処、両人は刀を引いて逃出したので、これを追掛けて一人は背後から突き、一人へは後ろ袈裟に斬付けたので両人は引返して斬り合せたが、遂に川村は一人を仕留め一人には深手を負はせた。この働きが御聴に達し、士道当然之儀とは申ながら、畢竟常々心懸宜敷之儀と一段之事と思召され、同廿日小十人頭格に仰付けられた。この後御使役は御免を願つて、小十人頭格御用談所調方頭取のみを勤めて居たが、慶応元年過人の為め小十人頭は御役御免となつて、御用談所調方頭取一役となつた。其後御目附支配書役となつたが、慶応四年六月廿日御人減しに付いて、御役御免にて寄合入となつた。明治の御代となつては同六年六月に大蔵省に出仕し、以後内務省、正院、太政官、宮内省を歴任して、明治二十四年内閣恩給局勤務を最後に、同二十六年十二月五日依願免官となる。そののちは日光東照宮に禰宜となつて奉仕し、同三十年六月十三日六十四歳で歿した。
      二
 川村久輔氏所蔵の恵十郎氏の日記は、各種の題が付けられて安政より明治三十年まで約八十冊程であるが、其内青淵先生并に喜作氏と関聯のある分は次の五冊である。
  雑日記    (乃文久三年八月廿七日至同年十二月廿五日
  御用留    (乃文久三年十二月十九日至元治元年四月廿四日
  公私雑簿三  (乃元治元年五月朔日至同年十一月廿四日
  雑簿     (乃元治元年十一月廿九日至慶応元年十二月十一日
  備忘     (乃慶応四年四月十一日至明治元年九月十二日
 よつて順次に青淵先生并に渋沢喜作氏と関係ある日記本文を引用して、次にその解説を附けることゝする。
 そこで先づ文久三年八月の「雑日記」を展くと
 廿九日癸丑晴
 ○上略
 一 桑原栄碩来、千葉塾ニ両三輩ハ有之由申来、依之明日同道之様申聞ル。
 三十日甲寅晴
 ○上略
 一 山口市郎左衛門、吉野十郎左衛門、栄碩、常次郎、小川兼四郎吉兵衛等来、農兵取立之儀談判。
とある。これは予て川村恵十郎が平岡円四郎に面会の際、建策した一橋家にて農兵募集の件が採用されて、川村に募兵の内命が出た為め川村はその準備に取掛り、桑原は夫に対して報告に来たのである。
 - 第1巻 p.381 -ページ画像 
青淵先生には、雨夜譚に「二十四歳の春、即ち文久三亥年に、自分は又江戸へ出て、海保の塾と千葉の塾とに這入つて、塾生をした。此時は来たり帰つたりして、足かけ四月計りの間であつたが……」とあるので、この時は既に郷里へ帰られて江戸には居られなかつたと見られるが、三十日に集つた人々の内から、青淵先生並に喜作の姓名が出たのでは無からうかと云ふことも考へられる。
 この桑原栄碩は川村恵十郎とは駒木野以来の同志とみへ、先に川村が平岡に農兵取立を建策した際、平岡から懇意の向で有志の者があればその名前を認めて差出す様と命ぜられて、川村から提出した覚書の中に
                浪人
    医師           甲州道中吉野宿住居
    剣術聊出来            桑原栄碩
                       年齢五十
  此者ハ只々死を潔く致し候者ニ御座候、勿論老年ニハ御座候へ共大概之壮者よりハ頼母敷覚申候。
とある者のことであらう。
この日記で、青淵先生の姓名の初見は、同年九月九日の条に
  九日癸丑晴
  一 銀町壱丁目名倉やより立出、帰路神田明神遥拝、上野江帰来
  一 今日大乗坊事等覚院住職被被付、等覚院寿昌院住職被仰付、依之今日山内法類出入其外招候事。
            安部摂津守殿領分
                武州榛沢郡
                  血洗島村
      川越            渋沢喜作
       大川派          同 栄一郎
  一 平岡行万々相話す、礼を兼る。
と見へて文久三年九月九日に、青淵先生と川村との会見があつたかに見られるが、これは前後の今日大乗坊云々及び平岡行云々の記事とは関聯が見られず、且つ雨夜譚に語られてゐる青淵先生等の横浜焼撃ちの密議が成立し、九月十三日の後の月見の宴に、先生が父君に一身の自由を願出て漸く許しを受け、翌十四日に江戸へ出たといふ話とも時日の前後が生じる。併しこの日記には此外各所に聞込又は会見したと見られる人名が、前後の記事と関聯もなしに散見されるので、これ等は其際に数枚先の白紙の部分に書入れて、日記はそれに関係なく続けられて、この様に記事と記事の中間へ突然と入り込んだ形になつたものと推察される。その点から推すと、九月九日以前に川村が青淵先生并に喜作と会見されたか、或は何人からか其姓名人物を聞き込んで、書入て置いたものと見た方が妥当かと思はれる。
  十六日庚申雨
  ○上略
  一 松浦作十郎、榎本幸蔵(亨造)来、今日御館ニ而長歎息之事而巳有之由、右を演ん為に来候由。渋沢喜作、栄一郎之話致し
 - 第1巻 p.382 -ページ画像 
   候事、尤、聊此等之身分其外之儀申述 ○下略
こゝで初めて青淵先生并に渋沢喜作の噂が、一橋家の番頭助松浦作十郎と目付榎本亨造に話されて居る。これは前記雨夜譚にある、十四日に江戸へ出られたと云ふ直後であるから、未だ会見は無いとしても、両名出府の噂位は耳にして居たかも知れない。
  十八日壬戌晴夜雨
  ○上略
  一 朝渋沢喜作、同栄一郎来、四ツ半頃まて相話ス。尤此者共真之攘夷家ニ候を何れニ歟弁し候事。且今日ニも明晩ニも浦(松)浦方江行呉候様談判候事。
  ○中略
  一 夜平岡行、当今之時勢百事不被行、長歎息之段申述、且渋沢喜作、同栄一郎云々之儀申述候事。尤同人ニ於ても殊外感激之様子相見候事。
この朝青淵先生等は川村をその寄宿先、上野浄林院に訪れて四ツ半頃(現今の午前十一時頃)まで話込んでゐられる。この会見で双方の意気が投合したと見へて、川村に此者共は真の攘夷家であるが何かに役立てたいと云はせてゐる。そして一橋家の番頭助松浦作十郎の処へ行く様に慫憑してゐる。その夜川村は平岡を訪れて、時勢に就て談じ、それに続いて青淵先生等のことを話してゐる。どんな程度に話したか、平岡に殊の外感激の様子が見へたといふから、相当弁説を尽して推挙したことが知られる。
  廿日甲子晴
  ○上略
  ○練塀小路海浦正(保章)之助塾江相尋、渋沢喜作、同栄一郎面会昨夜松浦作十郎方行云々之儀承り候事。
  一 平岡行、両人之儀談判夜迄相掛ル。尤今日猪飼、松浦、榎本等打寄壱杯之事。
  廿一日乙丑晴後雨
  一 極早朝神田明神に参詣、万々相祈。
  一 松浦作十郎方行、両人之儀申談候事。
中一日おいた廿日には、川村が青淵先生等を、寄宿先の海保章之助の塾へ尋ねて、昨夜両人が松浦作十郎方を訪問した際の様子を聞きに来てゐる。又その足で平岡を訪れて、夜に入るまで掛つて青淵先生等を召抱への件に就て談判をしてゐる。翌廿一日は松浦方を訪れて、こゝでも又両人の件について交渉をしてゐる。
  廿三日丁卯陰雨
  ○上略
  一 夕刻より松浦作十郎方行、平岡、榎本、猪飼等寄合万々談判渋沢両人ハ断之積ニ候処、尚又評議改り、是計ハ何れニ歟致し候積りニ治定、大酔。
  ○中略
  一 渋沢両人松浦方江来、夫々江面会。
この日も又川村は松浦方へ出掛けて、一橋家の平岡、榎本、猪飼、松
 - 第1巻 p.383 -ページ画像 
浦等重立つた連中と会つて相談をしてゐる。これは農兵取立に就ての相談と思はれる。渋沢両人は断之積りとあるは、両人が他領の農民であるので、その領主安部家との交渉が面倒な為めであるらしい、併し尚又評議を仕直して、この両人だけは何としても取立てたいと衆議が一決した。かねて打合せでもあつたかして、この席へ青淵先生等が訪れて、以上の人達に紹介された。青淵先生と平岡円四郎とはこれが初対面であつた。
  廿六日庚午晴
  一 朝平岡行、今日出勤之由。渋沢両人模様大ニ宜敷、もはや今日明日之内、安部摂津守殿江懸合ニ相成候由。
中二日おいて川村は平岡を訪れて、青淵先生等の一橋家用人に対する反響を窺つてゐる。平岡も両人に好感を持つて、一両日中に青淵先生等の旧領主安部家へ交渉をすると云つてゐる。
  廿八日壬申晴
  ○上略
  一 一橋稽古場行、比留間相尋面会之処、血洗島渋沢両人之儀、小林清三郎致心配居候様子ニ付、小林清三郎ニ御玄関脇ニ而面会最初より之次第委細相話し候処、尤之由ニ而今明之内安部家江可罷出よし決約。
廿八日には川村は、日本橋浜町の一橋家中屋敷にある剣術稽古場に行つて、比留間といふ者に会つたところ同人の話に、小林清三郎が渋沢両人のことに就て心配をしてゐると聞いて、小林に玄関脇で面会して最初からのいきさつを詳細に話したところ、小林は尤ものことだといふことで安部家への交渉を引受けた。
 この比留間といふ者に就ては、前掲の有志の覚書に
                一橋殿御領所
                  武州高麗郡梅原村
        剣術師範          比留間良吉
                        年齢二十二
  此者儀ハ此列ニ加ヘ候ものニは無之候ヘ共、本御領中之者故書記申候、且又傍々遣ひ候者無之候而は、蟄居いたし候様之儀可有之候
とあつて、この推挙によつて一橋家の道場に、師範として召抱られたものと見られる。小林清三郎に就ては、未だ如何なる人か不詳であるが、尾高定四郎氏所蔵の文久三年十月十九日付尾高藍香宛の青淵先生の書簡に「橋府一条も大因循、因而尚又小林より永田馬場へ掛合申候様仕候、掛合次第何れにか相成申候」とあつて、永田馬場とは安部摂津守の屋敷の所在地であつて、小林が安部家へ交渉することを報らせてゐる。
  廿九日癸酉晴
  ○上略
  一 渋沢両人来ニ付、昨日小林談判之儀能々相話ス、今日は定而懸合ニ参り可申哉之旨、申聞候事。
  翌廿九日青淵先生等は川村を訪ねて、川村から前日の小林との交
 - 第1巻 p.384 -ページ画像 
渉の顛末を聞かされてゐる。
  十月朔甲戌晴夜雨
  一 湯島天神参詣、万々相祈候事。
  一 朝渋沢両人ニ付同道ニ而松浦作十郎方行、両人之模様承り候処只懸合而巳に而返事を不知 ○中略
  一 夕刻より榎本行、平岡立寄之由ニ付平岡行、酒、渋沢両人一条承り候処、未タ安部家より挨拶無之、乍去仮令何様之挨拶有之候共、此儀ハ何れニ歟致し候由、尤品ニ寄候ハゝ用達之風ニも可致哉之由なり。
月が変つて十月朔日、青淵先生等は川村を訪れた。川村は両人を同道して松浦方に行つて、安部家へ交渉の様子を尋ねたが、松浦はたゞ懸合つた事だけは知つてゐるが、返事のことは知つてゐなかつた。夕刻から川村は榎本亨造方へ行つたが、榎本は平岡方へ行つたといふので直に平岡方を訪れて、安部家と交渉の結果に就て尋ねたところ、平岡はまだ安部家から何の挨拶も無いが、たとへどの様な挨拶があらうとも、此件は必ず何んとか致すと云ふ返事であつた。尤も都合に寄つては御用達といふ名目にでも致すかとも云つてゐる。
  十六日癸丑晴
  ○上略
  一 渋沢喜作、栄一郎来候由。
其後半月程して、青淵先生等は川村方を訪れたが、川村は不在であつた。この半月間の青淵先生の御動静は雨夜譚によつても不明である。
前後の様子から見て多分江戸に居られて、かねて計画の横浜焼撃挙兵に入用な武具類の入手に奔走してゐられたことゝ思はれる。
  十七日甲寅
  一 榎本亨蔵方行、留守。
  一 梅田行、渋沢江手紙相渡、小林清十郎《(マヽ)》江罷越可致談判旨申置。
翌十七日川村は、梅田方に青淵先生を訪れて手紙を渡し、浜町一橋家中屋敷の小林清三郎方へ行き、安部家と交渉の件に就て談判をする様に云つてゐる。梅田は慎之助といひ神田小柳町三丁目の道具師で気骨のある男であつた。予てから青淵先生とは交りがあり、先生等の挙兵の計画にも情を知つて、多数の武具類を供給して居た。そんな関係で此頃には青淵先生は梅田方に寄宿して居られたと見へる。
  十九日丙辰晴
  ○上略
  一 榎本享(亨)造より渋沢両人登京可然之書面来、依之右書面両人江得申聞。
翌々十九日榎本から川村宛に、青淵先生等両人の登京然るべしと云ふ書面が来た、それで川村は両人に篤と其事を話したとあるが、これは青淵先生等が川村方を訪れたのか、川村が青淵先生等を尋ねて話したのか、記事が簡単なので判然しない。
  廿日丁巳
  ○上略
 - 第1巻 p.385 -ページ画像 
  一 平岡行、山田尾助来万々談合、其上渋沢両人同道上野行、泊。
翌廿日川村は平岡方へ行つた。山田尾助も来合せて万々談合とあるがその次に、其上渋沢両人同道云々とあつて、青淵先生等も其席に加つて居たと見られるので、この話も青淵先生等の身上に関することかと推察される。其上で川村は自分の寄宿先上野浄林院へ青淵先生等を同道して帰り、泊めてゐる。
  廿一日戊午
  ○上略
  一 安部摂津守家来○(淡カ)島波江方行、渋人(沢)両人一条、平岡より内々相尋可申旨被申付、罷越候趣ニ而談判。
  ○中略
  一 榎本行、明日出立動揺中、両人一条弥登京と治定。
翌廿一日川村は安部家の淡島波江方へ行き、青淵先生等の一条に就て平岡から内々に安部家の意向を聞く様に申付けられたといふ意味で談判をしてゐる。併しその談判の結果に付ては何とも書かれてゐない。続いて川村は榎本方に行くと、榎本方は一橋公御上洛の先発として、翌日の旅支度で混雑してゐたが、その中で榎本と青淵先生等の上京の話を取極めてゐる。
  廿二日己未雨
  ○上略
  一 榎本亨造川崎泊ニ而今日出立ニ付、川越(崎)江罷越、両人一条弥跡より登京決定。
  ○中略
  一 渋沢両人ハ跡より平岡榎本両人為家来為登候積。
  一 川崎宿会津屋泊。
翌二十二日は榎本が、川崎泊りの予定で京都へ向けて出立するので川村はこれを見送り旁川崎まで行つた。日記本文の川越江罷越とあるのは、終りの川崎宿会津屋泊と書かれてゐる点から見ても、恐らく川崎の書誤りであらう。そして、こゝでも青淵先生等をいよいよ後から登京させるといふこと、その時は青淵先生等を、平岡榎本両人の家来といふことにして、京都へ登らせるといふことに取極めてゐる。
  廿三日庚申陰
  ○上略
  一 平岡行、日記附畢ル。
  ○両人先触一条。
  ○中略
  一 渋沢両人平岡為家来為登候積、依之先触等之儀示談。
翌二十三日、川村は川崎から帰つて平岡方へ行き、両人即ち青淵先生等の登京に付ての道中先触の件其他を相談してゐる。結局青淵先生等は平岡の家来として京へ登らせることに決定した。この先触といふのは徳川時代に公吏の道中する際、幕府或は諸侯の当局から、その沿道の宿駅、関所、渡船場に宛てゝ予め人馬の立継、休泊所等を準備するやうに命じた文書のことである。
  廿四日辛酉晴
 - 第1巻 p.386 -ページ画像 
  ○上略
  一 平岡行、夕刻より夜七ツ半時迄相話、尤平岡君本間行九ツ時帰来、夫より万々相話故終ニ七ツ半時ニ至ル。
  渋沢両人も来居、先触一条万々談判 ○下略
翌二十四日も川村は夕刻から平岡方へ行つて、夜といふよりも夜明けに近い今の午前五時頃まで何か話し込んでゐる。尤も平岡は本間方へ行つてゐて夜半十二時頃帰宅したのであつた。青淵先生等も来合せ、共に登京道中先触の件に付いて種々交渉を重ねてゐられる。
  廿五日壬戌
  一 朝、渋沢両人来、同道ニ而罷出、御成道ニ而相別。
  ○中略
  一 平岡行、暇乞。
  ○中略
   ○渋沢両、先触之儀云々談判。
   ○跡々国家之模様相話ス。
  一 平岡泊。
  廿六日癸亥快晴
  一 平岡同道一橋御館江罷出、暁七時参着。
   御殿より両人先触一条

          本所南
           割下水      御祐筆組頭
            七丁目       須賀源八郎

    御先触之儀委細承知仕居候
  右江差越候事。
  ○中略
  一 本所緑町七丁目ニ而、一橋右筆組頭須賀源八郎方行、先触一条談判候処、当人共出府、平岡宅状ニ而其段御申越被下候へは宜敷様取計可申之由。表書左之通

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   泊方       平岡円四郎               宅より   御祐筆中様 



   右の通相認、在中用書、橋府御中之口江差出候へは宜敷よし、悉く相約し罷帰候事。
前夜来暁近くまで平岡方で話し明した川村は、翌朝、出直して来た青淵先生等と共に平岡方を辞し、同通して下谷御成道まで来て別れた。川村はその足で種々用を達して、夜又平岡方へ暇乞ひに行き、又々両人の先触の件に就て念を押してゐる。川村の暇乞ひといふのは、川村もいよいよ上京と決したので、その支度に一時郷里駒木野へ帰るための暇乞ひである。翌二十六日早朝、平岡川村の両人は同道で一橋邸へ行き、青淵先生等の件に就て交渉したところ、一橋家では既に両人の先触の件は、御祐筆組頭の須賀源八郎が委細承知しているから、それへ行くようにとのことであつた。
 それで川村は、本所緑町七丁目の須賀源八郎方へ行き、先触の件を交渉したところ、須賀は万事承知してゐて青淵先生等が出府したなら
 - 第1巻 p.387 -ページ画像 
平岡の宅状――即ち平岡は既に上京中であるため、その留守宅から差出す書状――で申越せば宜敷様に取計とのことで、表書の認め方を教へられ、その封入された書類を一橋家中之口へ差出しさへすれば宜しいといふことに約束して帰つた。
  廿七日庚子陰
  一 朝、渋沢喜作来、依之昨夜須賀源八郎対談之趣申述 且平岡江之書面も相認為見、出府候ハゝ早々平岡江罷越 其上ニ而万万可致所置段申聞、相別候事。
  一 平岡行 ○中略
  一 渋沢両人来候節、一橋江書状差出可遣之旨、万々おやすとのへ談判。
  一 上野帰来、夫々仕度 ○中略
  一 七ツ時過上野暇乞。
  一 飯田町立寄 ○中略 内藤宿万や泊。
翌二十七日朝、川村方を渋沢喜作が訪れた。川村は喜作に昨夜の須賀との対談の様子を話し、又平岡宛の書状も認めて一見させ、出府したならば早速平岡方へ行き、其上で万事所置をする様にと申された。川村はその後で平岡方を訪れた。平岡は既に昨日の慶喜公御上洛に随行して不在であるので、その妻女おやすに青淵先生等が来た節には、一橋家へ前記先触願の書状を差出して遣つて呉れる様にすつかり頼み込んだ。
 この一橋家、特に川村の青淵先生等抱人運動に対して、青淵先生の態度は如何かと雨夜譚を見ると「偖て国家を混乱する手続はといふと、即ち一揆を起して、まづ其手始めに一つの大名を討ち潰ぶして、其兵力を藉り、機会に乗じて横浜を焼討にしたら、必ず外国人が其儘にして置かぬから、兵力を以て日本を討つ、さうすれば到底幕府では支へることが出来ぬであらう、既に兵端の開けた以上は何処からか、真の英雄が顕はれて、徳川の幕府は終に顛覆する、顛覆した後は之に代つて国政を執る者が出来る順序に移るであらうといふ考へであつた、而して愈々事を挙るのは、前夜御話した通り、自分が二十四の年で、文久の三年十一月の末と定めた処が、十月の二十九日に尾高長七郎が京都から帰つて来て、大和五条の暴挙を見た有様を説て、此の事を止めろといつて諫めたのを、自分は大に反対したが、再三再四討論の末、猶退て静思熟慮して見れば、成程此の事は暴激に失するといふ事を見出した、実に長七郎のいふ通り、志は尤だが其志を天下に表白することも出来ず、又万分の一を尽すことも出来ずに、単に流賊一揆と見做されて、幕吏に擒はれて鼎鑊の刑を受けるといふも好ましくない、シテ見れば此の計画は止めるより外に仕方がない、愈々止めるとした以上は、一身の処し方は如何したらよからう、元々此の身を国家の犠牲に供する積りで一且家を出た以上は、安閑として居る事は心にすまぬ訳である、故郷に居ては将来志を伸ばす端緒も得られない、又一つには右の挙動は其時分の探偵吏、即ち八州取締が窺ひ知つて、既に手を廻はして居るといふことを少々聞知つて居た。 ○中略 此の上は暫く身を隠して、旅行でもするより外に仕方がない、それにしても旅行の目的
 - 第1巻 p.388 -ページ画像 
は何処がよからうか、様々相談もしたが、結局京都は輦轂の下で、諸藩に大に目をつけて、少し志のあるものは、皆京都に輻輳する時節であるから、京都へ行くのが上策であらうといふので、同姓の喜作と共に京都に出立することに決定しました、是はたしか十一月の二日三日の頃と記憶して居ます。 ○中略 自分と喜作とは十一月の八日に故郷を立つて十三日まで江戸に逗留して、夫れ夫れの準備をしたが、愈々十四日に江戸を発足して、其日は東海道程ヶ谷宿に一泊したやうに覚えて居ます、そこで此の京都行の手続きは、如何したかといふに、其頃、一橋家の用人に平岡円四郎といふ人があつて、幕吏の中では随分気象のある人で、書生談などが至て好きであつたから、自分と喜作とは其前から度々訪問して、余程懇意になつて居ました。或時、平岡のいふには、足下等は農民の家に生れたといふことであるが、段々説を聞て談じ合つてみると、至つて面白い心掛で、実に国家の為に力を尽すといふ精神が見えるが、残念な事には身分が農民では仕方がない、幸に一橋家には仕官の途もあらうと思ふし、又拙者も心配してやらうから直に仕官しては如何だといふ勧めがあつたから、それには一橋の家来と名を借りて居つたならば、刀剣を帯して歩行くにも、又は槍を持つにも着込を用意するにも、多人数を集めるにも都て人の怪みを招くことが少ない、農民風情では帯刀も憚からねばならぬ制度の下に居る時だから 是は好機会だと思つて、右の平岡に別して懇親して居た。其等の縁故からして、京都へゆく時にも、平岡の家来といふことに仕やうと思つたが、此の時に平岡は既に一橋公の御供で、九月に京都へいつて留守であつたから、其留守宅を尋ねて、細君に其事情を述べて、京都へゆく為に当家の御家来の積りにして先触を出すから、此の事を許可して下さいといつた処が、細君のいふには、兼て円四郎の申付には乃公が留守に両人が来て、家来にして貰ひたいといつたら、許しても宜いといふことであつたから、其義ならば差支ない、承知したといはれたから、両人は平岡円四郎の家来といふ名目で歩行きました。何分素浪人では道中で嫌疑される虞れがあつたが、苟も一橋の家来といへば、容易に捕縛される掛念がないといふので、其予防をしたのであります」とある。青淵先生等は挙兵解散後の幕府方の嫌疑を免れるために、一橋家を利用しやうとして居られたと見られるが、一方この川村日記ではこの両人を一橋家に抱入れ様とし、特に川村は其間に立つて東奔西走してゐる様が目に見る様に読み取れる。又道中先触の件に就ては、青淵先生は平岡の妻女の取計ひの様に語られてゐるが、如何に川村が前々からその下工作をしてゐたかといふことも、当日記によつて知ることが出来た。
 斯く川村は自分が不在でも、青淵先生等の登京が何時でも出来るやうに一切の手続を済ますと、上野浄林院へ帰へり早々に旅支度を調へて、午後四時過ぎ浄林院を暇乞して、郷里駒木野へ出発し翌二十八日夜十二時に帰着した。川村が郷里の一切の跡始末を済まし、次に出府したのは翌々十二月六日であつた。その為めこの間の青淵先生に関しての記事は見られないが、雨夜譚の記述では青淵先生等は十月下旬に血洗島へ帰られ、折柄上方地方の様子を探つて帰郷した尾高長七郎に
 - 第1巻 p.389 -ページ画像 
よつて、上方の形勢を説き聞され、且つ挙兵の時機では無いと諫止された。この長七郎の言に従つて計画中止を決すると、直に同志に其旨を伝へて解散し、青淵先生は喜作と共に、伊勢参宮に託けて文久三年十一月八日郷里を出られた。江戸では平岡方を訪ひ、予て川村の手配通り平岡の妻女おやすの取計ひで、平岡の家来といふ名目で道中の先触も安々と手に入り、同十四日両人は江戸を発し、十一月二十五日無事に京都へ到着されてゐる。
 川村は青淵先生等の上京された翌月の十二月六日、郷里の用務を片付けて出府し、同十一日江川家の柏木方を訪れたところ、一橋家から江川太郎左衛門宛に、支配下武州駒木野御関所番見習川村恵十郎儀、一橋殿用向有之候間、早々京都東本願寺一橋殿旅館へ差出す様との掛合が来てゐた。それで川村は御普請役見習に仰付られ、且つ将軍家茂公御上洛に随行する川越藩主松平大和守の手附となつて、文久三年十二月二十八日京都へ向けて発足した。(未完)


竜門雑誌 第六二二号・第一―一八頁 〔昭和一五年七月〕 川村恵十郎日記より見たる青淵先生(中)(藤木喜久麿)(DK010028k-0008)
第1巻 p.389-404 ページ画像

竜門雑誌 第六二二号・第一―一八頁〔昭和一五年七月〕
 川村恵十郎日記より見たる青淵先生(中)(藤木喜久麿)
    出郷以後一橋家仕官時代の青淵先生に関する新資料
      三
 日記は引続いて次の文久三年十二月十九日書出しの御用留に移ると舞台も江戸を離れて京都に移つてゐる。
 将軍家茂公の上洛に扈従の松平大和守の手附となつて、翌文久四年正月十二日京都へ着いた川村は、同二十三日御勘定奉行松平石見守の申渡しで、一橋家小十人組雇に仰付けられ、翌二十四日に御書院番を仰付られて猪飼勝三郎組に編入され、尚ほ在京中御用談所調方出役を命ぜられた。それで同二十六日川村は一橋家御用談所の内へ居を移した。日記はこゝまで川村自身に関することが多く、月末二十八日初めて渋沢の名が見られる。
  廿八日
  一 渋沢来、同人共之儀平岡相談
  ○下略
川村が御用談所内へ移つた翌々二十八日、青淵先生か喜作かゞ川村を訪れた。それで川村は早速青淵先生等のことを平岡に相談してゐる。
  八日晴
  ○上略
  一 水戸住谷七之丞、横山良之助来、猪飼、喜作出会。
  ○下略
月がかわつて二月八日、水戸の住谷、横山両人が川村を訪問してゐる。其席に猪飼勝三郎、渋沢喜作も同席してゐる。
  九月晴
  ○上略
  一 渋沢喜八(作)、同栄一郎、今日奥口番被仰付、夫より御用談所調方下役出役被仰付、目付方より引渡有之ニ付受取、御書
 - 第1巻 p.390 -ページ画像 
付左之通。
         (数行空白)
  十日晴
  一 渋沢両人引越来、御用談所入、同居之積。
  ○下略
翌九日に青淵先生、渋沢喜作の両人は、一橋家の奥口番を仰付られ御用談所調方下役に任命された。即ち川村の下役となられたのである。日記には御書付左之通とあるが数行空白のまゝで、遺憾ながら御書付の写しはない。青淵先生は雨夜譚で「初めて一橋家に奉公したのは、明瞭には記憶せぬが、二月の十二三日頃かと覚えて居ます」と述べられてゐる。
 翌十日青淵先生等は御用談所へ引越して来られ、川村等と同居することゝなつた。尚ほ青淵先生等は御用談所内へ引移られるまでは、三条小橋脇の茶屋久四郎、即ち茶久といふ旅籠屋に滞留されたことが雨夜譚に見える。
  十四日
  ○上略
        此度江戸表ニ而被召捕候者

                         浮浪人
         川越大川               榛沢七郎
         平兵衛妻ノ弟              実名
       実は武州榛沢郡                尾高長七郎
       下手計村                     二十七
         名主新五郎弟

                            富田三郎
         紀州水野家来              実名
         野中昌庵甥                中村三平
                                二十二

         駒井山城守知行所           治助
       上州那波郡                 実名
         前川原村                 福田治助
         名主彦四郎伜                 二十二

  七郎三郎両人は無宿之旨申立、治助は神田小柳町三丁目慎之助方へ止宿致居候由申立。
 右正月廿三日夕刻、安藤森川人数、板橋宿固罷在、召捕候由。
同十四日の条に尾高長七郎外二人が江戸板橋宿で召捕となつた報が載つてゐる。雨夜譚によると、この飛報が青淵先生の手に入つたのは二月初旬で、この事件が先生の一橋家に仕官をさるゝ決意の動機となつてゐて、当日記の記事とは全く前後することゝなつてゐる。これは川村が耳にしたのが遅れたのか、或は前回に青淵先生等の姓名を初見の際に類推したと同じに、数枚先の白紙に書き込んだのがたまたま十四日の記事に続くが如くに見へたのかも知れない。
 尚ほ尾高長七郎と共に召捕られた中村三平は、曾て青淵先生等の横浜焼撃ちの計画に与した同志であり、又福田治助は渋沢一門の東(宗助)の家の娘こまが嫁ついだ福田彦四郎の息子で、青淵先生とは従弟にあたり、後に渋沢喜作の姉よねと結婚してゐる。
  十五日晴
  ○上略
  一 平岡行、今日薩人を呼、明日三藩会合之積談判。
 - 第1巻 p.391 -ページ画像 
  一 栄一郎を薩州折田江、今日八半時頃来候様申遣ス。
  ○中略
  一 川越家行、山田面会。
  ○中略
  ○尾高之儀相頼。○下略
翌十五日、青淵先生は薩摩藩の折田要蔵方へ使者に行かれてゐる。
 川村は川越藩の山田太郎右衛門に面会して、種々談話の末に尾高長七郎の救出方を頼んでゐる。これは青淵先生から川村に頼まれたからであらう。
  十九日晴
  一 薩州行、折田高崎面会万々相話し、且入門之儀相頼候事。
同十九日に川村は薩藩に行き、折田高崎に面会して種々談話の末に入門之儀相頼とあるのは、青淵先生を築城学者の折田へ入門させることを頼まれたのである。
 翌二月二十日、元治元年と改元される。
  廿四日
  一 早朝新渡戸江罷越候心得之処、黒田、山城、信濃来ニ付、渋沢両人ニ後刻罷出候旨、申遣候事。
二十四日青淵先生等は川村の使として、新渡戸某方へ行かれてゐる。
  廿五日
  一 薩州折田江渋沢栄一郎同道、為致入門候事、尤直様供同様ニ、摂海見分ニも行候積。
この日、川村は薩藩の築城学者折田要蔵の許へ青淵先生を同行して、その内弟子として入門をさせた。そして折田が摂津海辺の見分に出張の際は、新入門ではあるが、すぐさま供人同様にして随行する様に話を取極めてゐる。
 この青淵先生の折田入門の経緯は、雨夜譚に「軈て春暖の頃になると、諸藩士が追々京都に集つて来て、中にも有志慷慨家などゝ唱ふる人々は、頻りに攘夷鎖港を唱へる所から、終に摂津海防禦といふ一問題が起つて来た。これは兵庫開港の論よりして若し外国と戦争をする時には、大阪の海防が必要であるといふ訳であつたのであります。其頃、薩摩の家来で折田要蔵といふ人が、築城学に長ずるといふことで終に幕府から百人扶持を給して、摂海防禦砲台築造御用掛といふことを命ぜられました。全体此の折田といふ人は、今日から見れば、左までの兵学者でもないが、其は大言を吐くことが上手で、其上弁舌に巧みである所から、完全な築城学者と見做されて、此の命も下つたのでありませう。 ○中略 其時自分が考へた所では、何でも幕府の失政を機会にして、天下に事を起さんとするものは、長か薩かの二藩であると思つた。併し是等の事は直接に度々君公へ言上することも出来ないから平岡円四郎へ忠告して、薩藩の挙動に注目せねばならぬ、之を知らむければ京都を警衛することは出来ませぬと申入れた所が、平岡も至極同感で、自分に内話するには、今度折田要蔵が砲台御用掛りで大阪へ行くことになつたが、何とか伝手を求めて折田の弟子になつて薩摩人の内幕に這入る工夫はあるまいか、其れが出来たら面白からうといふ
 - 第1巻 p.392 -ページ画像 
から、それは至極面白い、私が一番遣つて見ませう、其れには斯ういふ懇意もあるから、私の心から出たやうにして、修学の為めに塾生にして呉れろと申込だら、必らず否とは申しますまい、一橋家から頼む時には、却て鄭重になつて嫌疑の種子となるかも測られぬから、寧ろ内弟子になりたいといふことにしたら、事情を探るには極めて都合がよからうと考へます。然らば頼む、宜い、畏りましたといふもので、今の川村正平氏(其頃は恵十郎といつた)の友人に小田井蔵太といふ人があつて、折田とは別懇であつたから、其人から折田に頼むで、築城修行の為めに内弟子になりたいと謂はせると、同時に一橋家からも亦彼れは当家の家来だから、掛念なく教授して呉れと、一言の声掛りをして貰つて愈々折田の塾生になつて大阪へ下つた。其れが四月の初めで自分が漸く奉公住をしてから二箇月ばかり立つた時のことである。 ○中略 全体此の折田といふ人は、薩藩では左まで身分のよい人ではないけれども幕府からの御用といふので、俄かに其宿所に紫の幕を張つて、容体ぶるといふ様な風であつたが、其従者は総て純粋の鹿児島言葉であるから他郷の人には頓と話しが分らぬ。処で自分は稍々鹿児島言葉も、又江戸の言葉も分かるから、他方へ使者の用事などは、いつでも折田から自分へ命じて、大阪町奉行所まで行けとか、又は勘定奉行に逢て、何を打合せて来いとか、又は御目附へいつて、此の事を引合つて来いとか、種々な応接をいひつけられて、謹直に働いて居たが、其れも余り長い間ではなかつた。僅か四月一ぱいで、五月の八日に京都へ帰つて来た、畢竟此の稽古といふも、内実は間諜の為に行つたので、稍々其要領を得たによつて、モウ此の位でよからうと平岡へ通ずると、然らば呼び戻さうといふので、京都へ帰つて来た」と述べられてゐる。この青淵先生の御談話では、折田へ入門したのは四月の初旬となつてゐるが、当日記では二月二十五日に川村が同道して入門したとなつてゐる。この点は青淵先生の御記憶違ひであつて当日記の記事の方が正確であると認めていゝと思ふ。
  廿六日雨
  一 渋沢栄一郎儀、今日折田要蔵摂海見分として罷越候ニ付、要蔵供為致遣し候事。
  一 右ニ付入用金拾両為持遣し候事。
  一 平岡ニ而万々申聞、暇乞云々事。
青淵先生が入門された翌二十六日、折田要蔵は摂海見分として出張することになつたので、早速青淵先生はこれに供して行くことになつた。それに付て入用として金拾両が青淵先生に渡され、平岡から種々申聞けがあつた。
  廿七日晴
  ○中略
  一 渋沢領主江懸合之儀示談。
  ○中略
  一 渋沢之儀ニ付、安部江懸合之草按。
   以剪紙致啓上候。然者其許様御領分武州榛沢郡血洗島村、百姓文左衛門伜喜作、市郎右衛門伜栄一郎儀、昨年中薄々及
 - 第1巻 p.393 -ページ画像 
御懸合候処、此度右両人共、御用談所調役下役江抱入候様中納言殿被存候間、此段及御断候、尤両人共親共も有之趣ニ付、時宜ニ寄、御領内江差支生候儀も可有之候間、是又御含置可被下候
   右之段宜得御意旨
   中納言殿被申付如此御座候以上

                  酒井伯耆守
   安部摂津守殿         戸田能登守

いよいよ青淵先生等も、一橋家に仕官し身分も極つたので、川村は平岡と相談して、安部家へ正式に青淵先生等の譲受けを交渉することゝなつた。この書状は川村の草案であるから、安部家へ送つた文面が、果してこれと同じものであつたかどうか、併し内容ではそう違つたものでは無からうと思ふ。この交渉の結果に付いての記事は当日記から見出すことは出来なかつたが、一橋家からの正式の懸合である上は、安部家としては否も応もあつたものではあるまい。
  二日晴
  ○上略
  一 敬三召連、渋沢同道小田井行、今日遣し候事。平岡、黒川江も相談
三月二日である。この時は青淵先生は既に折田と共に大阪へ行かれてゐるので、この渋沢は喜作のことである。記事が簡単過ぎて前々からの記事なしに、こゝだけ見たのでは判明し兼ねるから、一寸説明を附ける。敬三といふのは川村恵十郎の弟であつて、前々から小田井蔵太へ養子に遣る話が出来てゐた、それで此日川村は喜作を同道して敬三を小田井の家へ連れて行つたのであつた。
  四日陰夜雨
  ○上略
  一 喜作を同之(道カ)、安達精一郎方江此方御決意、弥入京と相成候旨、申遣。
四日にも、喜作は川村の安達訪問の供をしてゐる。
  六日晴
  ○上略
  一 黒川、松浦、榎本、猪飼、川村、渋沢、供七人、都合十三人ニ而嵐山桜花見ニ行、申後より罷出候ニ付着夕刻、食物更ニ無之、天竜寺より清涼寺行、夫より鳴滝より広沢江出。小(御)室より(船脱カ)岡山江出、北野江来、同所ニ而壱杯、亥後帰来、臥。
六日は黒川、松浦、榎本、猪飼、川村、渋沢喜作の六人に、供七人の都合十三人で嵐山へ花見に出掛けてゐる。此の間暫くは、青淵先生には折田の許に入門中であつた為め、このハイクにも同行されて居られない。午後五時頃に出掛けたので嵐山へ着いたのは黄昏で、茶店等も既に片付けてしまつたか、食ひ物もなく困つたらしい、それから天竜寺から清涼寺、鳴滝、広沢、御室、船岡山を経て北野へ出て、こゝで一献して別れ十一時頃に帰宅してゐる。
 - 第1巻 p.394 -ページ画像 
  九日快晴
  一 平岡、平野、猪飼、川村四人ニ而渋沢召連、舞楽拝見行。
大樹参内 舞楽御興行、尤大君江御馳走、滞京之諸侯不残拝見被仰付。
九日には平岡、平野、猪飼、川村の四人は、喜作を連れて御所に行はれた舞楽を拝見してゐる。これは維新史料綱要に「九日、舞楽ヲ紫宸殿ニ行ヒ、大将軍徳川家茂及在京ノ諸侯ヲ召シテ、之ヲ拝観セシム。」とあるに相当する。
  十五日
  ○上略
  一 帰来、平、黒、松、榎、川、渋、集会、長云々之事等議論。
この日、川村は公私の用で各所を訪問し、御用談所へ帰ると平岡、黒川、松浦、榎本、渋沢喜作の五人と会合して長州藩のことなどに就て議論をしてゐる。
  十八日陰雨
  ○上略
  一 渋沢栄一郎一寸帰来、摂海台場絵図並書類持参。
  十九日雨
  一 栄一郎召連、午時迄平岡ニ而談判、夫より小屋ニ而栄一と相話ス。
  ○中略
  一 渋沢栄一郎暇乞、小遣金拾両之事、是ハ平岡より出ス、依之明日出立、尚又大阪行之積。
  一 渋沢両人親類(原本欠字)昨日京着之由、尋来。
去る二月の二十五日折田要蔵方に弟子入して、折田と共に大阪へ下つた青淵先生は摂津海辺の台場の絵図面や書類を持つて、三月十八日に一寸京都へ帰つて来られたので、翌十九日川村は青淵先生を連れて平岡を訪ひ、昼頃まで種々打合せをし、それから小屋に下つて青淵先生と種々話をして居る。これは薩藩の内情などに就て聞いてゐるのであらうと推察される。其夜青淵先生は明日又大阪へ行くといふので、川村方へ暇乞に行つて小遣として金拾両を貰つてゐる。尤もこの金子は平岡から出たものである。
 此日、青淵先生の親類の者某が昨日京都へ着いたといふて川村方を訪れてゐる。日記には姓名を失念したか欠字になつてゐて、誰であるか不明である。
  廿日雨
  一 渋沢栄一郎大阪出立。
  ○中略
  一 渋沢家来今日より差置候積、尤亨造、勝三郎等江談判之上云々之積。
翌二十日朝、青淵先生は雨中を大阪へ出立された。又川村は榎本亨造及猪飼勝三郎へ交渉した上で、此日から渋沢の家来を置く積りにしてゐる。この渋沢家来といふのは、十八日着京、翌十九日川村方を訪れた渋沢両人の親類某のことゝ思はれる。
 - 第1巻 p.395 -ページ画像 
  廿二日快晴
  ○上略
  一 喜作を丸山会江出ス、諸藩二十人程も出候よし。
二十二日渋沢喜作は川村の代理としてゞあらうか、丸山会へ出席してゐる。この丸山会なるものも如何なる会合か判からない。
  廿三日快晴
  ○上略
  一 喜作を浅井新九郎江断ニ遣ス。
翌二十三日も喜作は川村の使をしてゐる。
  廿四日雨
  ○上略
  一 朝、中根勒負来、前同断実以疲弊ニ不堪由、摂海台場云々之儀は何分ニも致し方無之、海軍総督も是又同様 何卒無実御暇、国元台場築造等致し度趣、懇切ニ話し有之、且又 守護職献進云々示談之処、七時頃帳面壱冊達越之。
    但喜作為写
この朝、福井藩の中根勒負が川村方を訪れて、海防其他のことで種々話しあつた。守護職献進云々は、そのころ京都守護職であつた福井藩主松平大岳が、辞職を申出てゐるのを、関白二条斉敬公、将軍後見職慶喜公がその留職を慫慂されてゐた。両人はこの件に就ても話合つたらしい。そして後から帳面壱冊を送り届けて来たので、川村は渋沢喜作にこれを写させた。この帳面といふのは海防に関したものでは無からうか。中根勒負は越前福井藩士で、壮年に江戸に遊学し平田篤胤の門に学んで皇典を講究し、夙く尊王の義を懐いてゐた。嘉永六年に米船が来航して通商を求めた際、幕府は列藩に命を下して海防のことを議さしめた時、勒負は江戸藩邸に在つて、詳かに利害得失を述べた、その答申が悉く的中した為め、それ以来名声列藩の間に顕れて、有志との往復は益々滋くなつたといふことである。
  廿六日晴
  一 平岡行(方カ)より申談。
  今日始而御供ニ出候様申之。依之支度致し、組之者五人召連罷在(出カ)候事。
  ○中略
  一 二条殿ニ而 公御始、警衛士其外支度仕替、下々迄上下ニ而八半時頃御参内有之、夕刻過迄菊□殿ニ相待、六半時頃御所御立
   近衛殿、徳大寺、尹宮、山階御廻勤、夫より御帰相成、尚又御殿ニ而初御供御礼申之、平岡、黒川江も同様。
   平岡行礼申之、且松浦、榎本、新村、並川村、田中、渋沢等行壱杯、大盛会、各快愉之事、後無断罷帰、臥。
翌々二十六日、慶喜公の御参内に初めて御供を命ぜられて、川村は自分の組の者五人を引率して御供をした。この内に渋沢喜作も加はつてゐたことは、帰つた後に川村が平岡方へ初の御供の礼を述べに行くと松浦、榎本、新村、田中、渋沢等も来て、酒宴となつて大盛会であつ
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たとある、この連中も同じく礼に来たものであらう。
  廿八日晴陰
  ○上略
  一 午後、坊城家江贈物、野宮、飛鳥井同断、云々談判御吏(使)者相務、渋沢栄一郎同道、為引合置候事。
二十八日川村は一橋家の使者として、坊城、野宮、飛鳥井の諸家を訪問してゐる。其際に渋沢栄一郎を同道して引き合せて置いたとあるが、これは喜作の書誤りではなからうか、それは翌二十九日の記事に
  廿九日晴
  ○上略
  一 栄一郎大阪より帰来。尤折田同行之由。
とあつて、青淵先生はこの翌日に折田要蔵の供をして、大阪から帰京されたと明確に書かれてゐるので、右のやうな考へも浮んで来る。
  廿九日(三十日)晴
  ○上略
  一 喜作を東辻下野守方江遣ス、帰途深谷半左衛門方、此間之途中間違一条ニ付遣ス。
  ○中略
  一 栄一郎尚又明日下坂之積。
二十九日の次に又二十九日とあるが、これは三十日の書誤りであらう。
この日渋沢喜作は、東辻の松平下野守と深谷半左衛門方へ使してゐる。
 青淵先生は昨日帰京されたが、尚又明日下坂されることになつた。
  四月朔日
  一 渋沢栄一郎、今暁尚又可致下坂候事。
  ○中略
  一 喜作、秦行。
翌四月朔日の早朝大阪へ出立されたことになつてゐるが、当日記にはこの大阪行から帰京された記事が見へないで、その月の八・九日以降に青淵先生が京都で活動してゐられる記事が書かれてゐるので、この度の下阪は期間も極めて短く、七・八日頃には既に帰京せられたことと推察される。これ等の点から推すと雨夜譚の「其れも余り長い間ではなかつた、僅か四月一ぱいで、五月の八日に京都へ帰つて来た」と述べてゐられるのは、折田への入門を四月初旬と思違ひせられたことから、完全に一ヶ月の移動が生じたので、四月八日の朝には大阪の折田要蔵から暇を取つて、帰京されてゐたものと考へても誤りはないと思ふ。これによつて青淵先生が折田要蔵方に入門されてゐた期間は、元治元年二月二十五日から四月七日までの四十二日間であつたといふことが判明した。喜作は秦方へ使に行つてゐる。
  三日晴
  ○上略
  一 今日より喜作を、二条殿御用伺に差出始ム。
この日から渋沢喜作は二条城へ御用伺に出ることゝなつた。二条殿とは関白二条公では無く、将軍家茂公御滞京中の居城である二条城を指したものと思はれる。
 - 第1巻 p.397 -ページ画像 
  五日陰雨
  ○上略
  一 夜、水島引越ニ付振舞有之。
   平岡、黒川、松浦、猪飼、榎本、内川、山岸、新村、荒井、田中、木村、水島、渋沢、川村なり、盛会有之。
去三日水島幸蔵が新に御用談所調役に任命されて、この日御用談所へ引移つたので、平岡始め十三人に振舞があつた。この渋沢も喜作であらう。
  八日快晴
  ○上略
  一 黒川、渋沢両人、四王天、竹田等、城の御茶や行、悉く拝見、御庭絶景。御殿奥(襖)探幽、次、尚信いづれも金地黒画(墨絵)。行幸間、座敷遠州之好。金物後藤祐乗並花鳥(嘉長)之作、絶品多し。御庭御茶や七ツ有之。
  一 中条中務大輔、土岐出羽守同行。親睦。
   昼食酒肴、木下振舞。
八日青淵先生、渋沢喜作は川村、黒川、四王天、竹田等と共に二条城内観の御茶室を拝観されてゐる。中条中務大輔、土岐出羽守もこの拝に同行して、親睦であつたと書いてある。
  九日快晴
  ○上略
  一 八ツ時より栄一郎召連、徳大寺行、明後十一日参上之儀申述候処、明(日脱カ)姓名を被廻候様被申。
  一 二条殿行、藤木甲斐守面会、別ニ御用向無之旨。
  一 野宮行。木下申。
   ○今日、来十八日桂宮江公方様御招請之儀被仰出、中納言様ニも御随従之旨、被仰出候由。
   ○桂殿御礼参上之儀。
   ○一橋殿桂行之節之先番家老、用人之名前記し候様。
  一 飛鳥井行、本多左京面会。
   ○備前塩悪島書面返却之儀云々。
  一 坊城行、浅野主膳面会、明日来候由。
  一 尹宮行、用部屋ニ而酒、近藤大学ニ面会。
  一 山階宮行、用人中面会。是より栄一郎を返ス。
翌九日午後二時から、青淵先生は川村に伴はれて徳大寺、二条城、野宮、飛鳥井、坊城、尹宮、山階宮の各家を廻られてゐる。
  十日
  ○上略
  一 田中、渋栄、見分ニ出ス。
  十一日
  ○上略
   ○昨日より所々要害見分ニ出ス。
   十日、田中源蔵、渋沢栄一郎、鞍馬口より千束辺迄見ニ出ス。
   ○今日、栄一、八瀬村大原口より粟田迄廻ル。
 - 第1巻 p.398 -ページ画像 
   ○黒川、川村、跡(蹴)上より渋谷江廻ル。
   ○源蔵、大井川辺江出ス。
  一 徳大寺殿行、黒川、川村、水島、渋沢弐人拝謁、御酒御菓子被下之。平岡多用ニ付不参。
翌十日から黒川を始め川村、青淵先生等は、京都近郊の要害を見分に廻つてゐる。
 十日には青淵先生は田中源蔵と二人で、鞍馬口から千束辺迄を廻られた。この行程は約四里余りであつた。十一日は青淵先生一人で八瀬大原口から粟田迄を見分されてゐる。この行程は二里弱であつた。見分から帰られてから、黒川、川村、水島、青淵先生、渋沢喜作の五人は徳大寺家へ行き、徳大寺公に拝謁し御酒御菓子を頂載してゐる。
  十二日快晴
  ○上略
  一 黒川、自分、栄一、三人ニ而、粟田口、南禅寺、永観堂、若王寺(子)より鹿ヶ谷江出、如意ヶ岳山中迄登り、中腹ニ而小休、夫ニて相尋候処、未、湖水之見え候迄は、半道余も可参趣ニ付、無拠罷下り、浄土寺より法然寺、慈照寺より銀閣寺え出、夫より白川村出、番所通行、先此処ハ是迄ニ致し、将軍地蔵山、此山吉田山共一箇之岩地なり、一乗寺村より修学寺(院)村御茶屋之前通行、赤山口より左ニ横山と云あり松ヶ崎と相対す崖え出、下加茂行 御影(陰)明神行幸を拝す、頼又次郎ニ逢、上加茂行、大宮通より帰ル、夜ニ入。
翌十二日、青淵先生は黒川、川村と共に三人で、粟田口を振出しに南禅寺から永観堂、若王子と東山添を鹿ヶ谷へ出て、こゝから如意ヶ岳(志賀峠)越を近江の山中まで登つて、こゝで一休みして村人に、琶琵湖を見下す処までは何程あるかと尋ねると、まだ半里余もあるといはれて、よんどころなく下山をなし 浄土寺から法然寺、慈照寺(銀閣寺)へと出て白川村の番所の前を通り、この方面はこれまでとして、次は将軍地蔵の前を一乗寺から修学院村まで行き、松ヶ崎に相対してゐる横山の崖上へ出て、こゝで下加茂へ行幸の御陰神社の神輿を拝して、上加茂まで行き、大宮通りを御用談所へ帰つた。この日の行程約六里半位で、帰られたのは夜に入つてゐた。
  十二(三)日朝陰晴
  ○上略
  一 黒川、栄一、自分三人ニ而大仏より辷石越え出、西ノ山より勧修寺、大石良雄幽栖あり、所持之品十種あり。勧修寺にて昼食。
  一 小野より醍醐、石田より六地蔵、木幡より黄檗山行、三室行夫より宇治平等院、扇芝辺ニ而小休、槙の島、上の島、下の島向島より豊後橋を渡、伏見京橋手前ハりや庄九郎方泊。
前日に引続いて十三日も、青淵先生は黒川、川村に従つて、大仏前を振出しに滑石越を経て西野山から勧修寺へ出た、途中に大石良雄幽栖の跡を見て勧修寺で昼食し、午後は小野から醍醐へ出、石田から六地蔵、木幡を経て黄檗山万福寺へ行き、三室を通つて宇治の平等院へ出た。扇芝辺で小休をして宇治川を渡り、槙島、上島、下島、向島を廻
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つて豊後橋を渡り、伏見に入つて京橋際のハりや庄九郎方へ泊つてゐる。この日の行程は六里弱であつた。尤も、以上の行程は地図の上で見た直線距離であるから、実際では見分といふ上からも枝路へも入り高処へも登りなどして、これ以上の里数を歩かれたと見なければなるまい。この日で見分は一段落が付いたのか、以後当日記簿の終尾の四月二十四日までには、見分の記事は出てゐない。この要害見分のことは雨夜譚其他にも未見の記事で、謂はゞ初耳である。
  十七日
  ○上略
  一 川越行、山田ニ而聊相談し、同人、四王天等同道東本願寺行。
   東照宮拝礼、祈無異成功、後御斉被出之。夫より渉成園行見物、黒川、川村、水島、内川、渋沢弐人なり。
十七日には川村は川越藩に山田を訪れて、同人並に四王天等と同道で東本願寺へ行つた。四月十七日は徳川家康公の御命日であるからである。東照宮拝礼の後同寺の別園、渉成園即ち枳殻邸を見物した。同行者は黒川、水島、内川と青淵先生等両人であつた。
  十八日雨
頭取 今日五ツ時頃御殿出、組頭部屋え控居、四時頃習礼有之、
  於御前、御直々御使役申付ル御詞有之。
  次第
  御次江罷出、酒井伯耆守川村恵十郎と呼上、其時使役申付ルと御口上有之、伯耆守難有と御請、尚又念を入イと御口上畢而退出。
 後御書院二ノ間ニおゐて
  御用談所頭取被仰付候旨、伯耆守申渡有之、畢而御目附江引渡、御目附より同役江引渡有之。
  ○中略
  一 渋沢両人御徒士被仰付之。
翌十八日、川村は慶喜公から直々に御使役を仰付かり、又御用談所頭取に任命された。
 この日青淵先生、渋沢喜作両人も御徒士に進まれた。雨夜譚では「其歳九月の末に、微しく身分が進むで、御徒士になつた。此の御徒士といふのは、奥口番より一級上で、今一級進むときは、御目見以上となるのである」とあつて、約五ヶ月も後のことに述べられてゐるが、これは元治元年四月十八日川村と同時に進級されたのが確実であらう。
  廿日
  ○上略
七日出役 黒川嘉兵衛、川村恵十郎、渋沢栄一郎、七日出役御用被仰付、尤御書付御渡有之。
二十日に黒川、川村、青淵先生の三人は、五月七日から出役御用を仰付けられてゐる。
      四
 次の日記は元治元年五月朔日書起しの「公私雑簿三」であるが、こ
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の以後は最初に記した様な理由で、青淵先生に関した記事は非常に少くなる。
  元治元季五月朔
  ○上略
  一 公方様去廿日一切御委任、御政事一途ニ帰り候様被蒙仰候ニ付、為御欣惣出仕有之。
  一 中納言殿、紫野、舟岡山、上加茂辺巡見有之候積之処、御登城ニ付御延引有之、内実右ニ付黒川、自分、田中、渋沢等、路先ニ罷越、大徳寺並夫々江相達置候処、御延引ニ付尚又断致し鹿苑寺より等持院、竜安寺、小(御)室等之地勢一覧之処、金閣寺南之方究意之勝地あり、右等見分畢而七ツ半時頃帰邸。
この日慶喜公には、京都北部の紫野から船岡山、上加茂辺を御巡見なされるつもりで、黒川、川村、田中、青淵先生等で大徳寺を始めそれぞれ道筋へ、そのことを通達して置いたところ、去四月二十日朝廷から庶政を幕府へ委任されることゝなつたので、その御欣びのため在京の幕臣は惣出仕をすることゝなつた。そのためにこの御巡見は延期されることゝなつたので、又々右の人数でそれぞれへ其由を断りに行きその序でに鹿苑寺(金閣寺)から等持院、竜安寺、御室附近の地勢を見分して、夜九時頃帰邸してゐる。
  三日
  ○上略
   ○渋沢両人、弥明日出立と相定。
  四日
  一 渋沢両人、弥今日出立ニ付書面相認、且駒木野江金子差上候事、書面同断。
この記事はこれだけでは、何処へ出立されることか、一寸判然しないようであるが、川村が駒木野へ金子を托送してゐることから、青淵先生等が関東方面へ旅立たれることが推定される。もしそれに誤がなければ、このことは雨夜譚に「其以前に、自分等から平岡に申述べた事がある。其れは既に我々を御召抱へになる以上は、広く天下の志士を抱へられるが、好からう、就ては関東の友人中にも、相当な人物があるから、其人選の為めに自分を関東へ差遣はされたいと請求して置たことである。平岡も十分に其言を信用して、余り高禄高官を望まず一橋家に仕へる量見のものがあらうか、といふことを時々尋ねられたから、其れは必らずあらうと答へて置た。其れといふのも、自分等が一橋家に奉公する以上は、成るべく同志のものを多人数召抱へられたいとの望みもあり、又一旦関東へ帰つて、尾高長七郎を救ひ出す工夫を運らしたく思ふ矢先でもあり、かたがた此の平岡の推問は、所謂追風に帆といふ様な機会だと思ふたから、若し有志輩を御召抱へになる御詮議であるなら、其人選御用は、是非共私共に仰せ付られたいといふことを頼んで置た事であつたが、大阪出張の留守中に、此の有志召抱への議も行届いたものと見へて、ある日の事、平岡が両人への内話には愈々以て足下等を関東の人選御用として遣りたいと思ふが、屹度見込があると思ふなら、使命を果して来い、併し凡そ如何いふ風にして連
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れて来る積りであるかとの尋だから、両人は屹度たしかにとも申されぬが、先づ撃剣家或は漢学書生などの中で、共に事を談ずるに足るといふ、所謂慷慨の志気に富みて、苟も貪る心のないもの、又は義の在る所は死を視ること鴻毛の如しといふ、敢為の気魄あるものを、合せて三十人や四十人位は連れて来る考へでありますと返答した、平岡は欣然として、其れは誠によからう、随分使ひ道があるから、早々召連れて来るがよいといはれたから、両人は委細畏りましたと請けをして人選御用をいひ付けられた。丁度それは五月の末か、六月の初めであつたと覚えて居ます」と述べられた、青淵先生並に渋沢喜作の両人が関東の一橋家領内其他から有志を募るために出立されたことに当ると思ふ。これも大阪から帰京の御記憶に一ヶ月の狂ひを生じた為め、順押せとなつて五月末か六月初めのことになつて居るが、当日記の元治元年五月四日の出立が正確であらう。
 日記はこの以後同年十一月廿四日まで記載されてゐるが、肝要な六月六日から十月一日までの間の数葉は川村が暴徒の為に遭難したために白紙のまゝであつて記事が中絶してゐる。随てこの人選御用から京都へ帰られた日時は遺憾ながら知ることが出来なかつた。併し同じく川村久輔氏所蔵の文書の内に、青淵先生自筆の持触が一通ある。これはこの関東人選御用の途中(現今の埼玉県入間郡南高麗村下畑)から、京都の一橋家御用談所へ差立てる使に持たせた道中触で、元治元年六月十六日附けのものである。
        覚
 一此者 壱人
右者
 一橋御用ニ付、今十六日御領知武州高麗郡下畑村出立、京都御旅館御用談所迄差遣候間、足痛難渋等有之候節は、人馬等差出し、御定之賃銭受取之、無差支継立可申候、尤も渡船川越等有之場合は、前後宿村申合、是又同様取計可申候、且又休泊之儀は、当人路次之都合ニ而可申談候間、是又無差支様可被致候以上
            御領知
            武州高麗郡下畑村
    子           御用先
     六月十六日
                 渋沢成一郎(印)
                 渋沢篤太夫(印)
                 武州高麗郡
                      飯能村より
                 中山道
                 上州
                   倉野宿
                 夫より
                   大津宿迄
                     宿々村々
                       問屋
                         中
                       役人
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右によつても六月中旬には、まだ関東に滞在されてゐて、帰京されたのは早くとも六月の末であつたらうと想像される。尚ほこの使を差立てた六月十六日に、其当時の青淵先生にとつては杖とも柱とも頼んでゐられた、平岡円四郎並に川村恵十郎が、京都に於て暴徒に襲はれて一人は暗殺され、一人は手傷を負はされてゐるのは何かの暗合であらうか。このことに就ては青淵先生は雨夜譚に「只々自分等が、大に驚愕歎息を極めたのは、関東滞在中、六月十七日の夜、京都表に於て、平岡円四郎が不幸にも、水戸藩士の為に、一橋邸の傍らで暗殺された一事であります。此の凶報の関東へ聞えたのは、六月の末か七月の始めであつたが、田舎の旅行中であつたから、十四、五日も経て、初めて其事を承知しました。自分等が、昨年京都に着してから、一橋家へ仕官するに付ては、別して懇切の世話になり、杖とも柱とも頼んで居る人が、サウいふ不慮の災難をうけたことであるから、其凶報を聞た時には、実に失望極まつた」と述べてゐられる。こゝでも平岡の横死を六月十七日とせられてゐるが、これも維新史料綱要に依つて見ても十六日の夜の出来事であつた。

 次の日記は元治元年十一月二十九日起筆のもので「雑簿」と題されてゐる。
  元治元年十一月廿九日
                      一橋中納言
   此度常野脱走之浮浪共押寄、
   帝都江迫近候ニ付内願之趣被
   聞召候、就而は早々出馬、所置可致
   御沙汰之事
    十二(一)月三十日
                    松平民部大輔
   常野脱走浮浪共押寄、
   帝都江迫近候ニ付早々出馬致し、一橋中納言可受指揮旨
   御沙汰候事
    十二(一)月三十日
  右之通御所より被仰出ニ付、来月三日御発と御治定、依之拙者共儀は一日御先と治定。
かねてから党争を生じてゐた、水戸の書生連と天狗組の間が破裂して所謂水戸騒動となつて天狗組は筑波山に立籠り、幕府の追討軍と戦ひ遂に破れて、北国街道を西上する騒ぎに、慶喜公には御自身兵を率いて江州大津へ出陣された。雨夜譚によると「此の歳十二月初めに、かの常野脱走の水戸浪士が、北国筋から西上するといふ騒ぎで、一橋公には御自身兵隊を引連られて、不取敢まづ大津駅へ出陣になつたが、追々の注進によつて、浪士共の挙動も悉しく知れたから更に路を湖西に取つて、堅田今津を経て、海津まで進まれた。此の時に喜作は他の御用で中国辺へ旅行して居た様に覚江て居るが、自分は此の出兵の御供に加はつて、常に黒川に随従して、陣中の秘書記を担任して居ました」とあつて、青淵先生には黒川嘉兵衛に随従してゐられたとすると
 - 第1巻 p.403 -ページ画像 
この十二月二日の先発隊に加はつて大津へ出張されてゐる筈である。
  十二月二日陰晴
  ○上略
  一 今日御先番黒川嘉兵衛、羽田鉄之丞、内藤勝太郎、川村恵十郎、新倉久太郎、右支配向並消防方三十人、惣人数九十人、七ツ時大津□道蹴上ケ弓屋□茶や見分、夫より大津御本陣悉く見分、尤恵十郎御目附替り相心得、御徒目附万々差図、小普請方打合御取建もの等改□しめ候事。
  一 御本陣御備方、御玄関前番所□□頭同心、御玄関張番御床扣□御門前並両横町小筒組、□□手番所御手前炮術方、御本陣廻り巡邏歩兵組と相定候事。
  一 今日御先一様、藤井ニ而御馳走申度趣ニ而、黒川始相越、消防方相除、相代五十九人《(マヽ)》なり。
十二月二日一橋家の先達隊は、大津街道蹴上ケを手初めに途中見分しながら大津の宿に着いて、慶喜公の御本陣を見分し種々備方の手配をした。この御本陣廻り巡邏の歩兵組には、青淵先生が関東から募られた人々も含まれてゐることであらうし、又青淵先生がそれ等の頭になつてゐられた事であらうと想像される。この日大津宿の藤井方で先発隊一同に対して御馳走があつた。消防方を除いて黒川始め五十九人がこれに出向いてゐる。青淵先生も勿論同席されたものと見られる。日記にはこれに続いて水戸浪士連通過地の風聞が写されてゐて、次の記事に続いてゐる。
  一 丸忠方泊。
  ○中略
      小酔之上
     大津の里にやとり、幻住庵の古こと
     さとのくゝつの話など聞侍りて
                           人延口真似《(廼カ)》
  ひもしくハおあかりやんせお茶つけを頼といひし椎の実よりも
     里のくゝつをさもと思ひやりて
                            同人
  たゝ一度大津の里となさハやな芝居にすめる舞子芸子を
     いくさの道途に大津の駅の丸屋にやとりて
                            同人
  願くハたゝかひやめて此やとのまるやとなして京へかへらん
     題同
                            同人
  (原本空白)
      いくさの道途に同しく
                            同人
  このやとの丸屋となしてたゝかひハさらに内藤勝太郎殿
                            羽田の星乗
  此度の軍奉行のおさしつハ嘉兵衛処江手のとゝく也
                            口真似
  おめてたい御代にしたゝかあふみなる大津の郷の逢坂の山
 - 第1巻 p.404 -ページ画像 
                            藤原雅敬
  しら波のさハくもしハし君か世に淡海の海のハや静ニて
                            藤原雅敬
     志賀の懐古
  おも□□ハ今も老木に□る哉昔なからの志賀の花園
                            橘立影
  ぬかに箭のたつ時ならて○島のやつとこゝろをしる人そなき
                            川村の家満盛
  きのふまでいつかいつかと思ひしにこよひ大津とあに思ひきや
                            渋沢青淵
  去国一身軽於葉、功名千古重如山。
                            同人
  豈説紛々世路難、斯行誓欲解竜顔、男児為国辞桑梓、不斬楼蘭敢不還。
其夜旅宿の丸忠方で一同は酒宴を催し気焔をあげたことであらう。以上の詩歌の類はその席上で詠まれたもので、青淵先生も一首を賦し且つ古語に託して其志を述べてゐられる。又川村は川村の家満盛(山守)といふ戯名で狂歌を詠んでゐる。
 この水戸浪士鎮圧の軍は堅田、今津を経て同十六日海津まで進んで滞陣した時、浪士共は越前の今庄で加賀藩の手に降服して、まづ一段落が附いたので、元治元年十二月の末に京都へ帰陣した。
 年が替つて慶応元年となつて、二月頃に青淵先生は再び役が進んで小十人といふ身分になり、御用談所下役であつたのが下役がとれて出役となられ、御目見以上の格になられてゐるが当日記には見当らなかつた。


竜門雑誌 第六二三号、第一―一〇頁〔昭和一五年八月〕 川村恵十郎日記より見たる青淵先生(下)(藤本喜久麿[藤木喜久麿])(DK010028k-0009)
第1巻 p.404-406 ページ画像

竜門雑誌 第六二三号、第一―一〇頁〔昭和一五年八月〕
 川村恵十郎日記より見たる青淵先生(下)(藤本喜久麿[藤木喜久麿])
    出郷以後一橋家仕官時代の青淵先生に関する新資料
  五月廿八日
  ○備前人数追々罷登候哉之由、最早今日頃も追々着之由。
この備前とあるは備中の書誤りではあるまいか、もし備中であるとすれば、青淵先生が一橋家の領地、備中筋の農兵募集に行かれた件に関聯のある記事である。先生の備中行のことに就ては雨夜譚を見ると(○前掲「雨夜譚」ノ項ヲ引用セルニ付略ス)
 と青淵先生は語られてゐる。この応募の人数が追々と京都へ登つて来ることを指して居るであらう。
 日記は慶応二年三年が欠けてゐて、次は慶応四年(明治元年)四月書起しの「備忘」に移る。川村恵十郎はこの年六月御人減しの為め御役御免となつて寄合入りとなつた。その年八月の条に
  廿日甲戌雨
  ○上略
  一 渋沢成一郎より書面出来、返事出ス、表志書来。
これは維新後大年表の八月の項を見ると、その前日即ち八月十九日に
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「榎本武揚部下二千余人と開陽、回天、蟠竜、千代田、神速、長鯨、美加保、咸臨の船鑑八隻を奪ひ品川湾を脱して陸奥海に去る」とあるので、かの戊辰の乱に、彰義隊の隊長として、上野に楯籠つた成一郎(喜作)が、天野八郎一派と議協はず、これを脱隊して、同志と振武軍を組織して武州飯能に於て官軍と戦つたが、遂に戦に敗れて榎本武揚等と軍艦に乗じて品川湾を去るに当つて、川村に宛てゝ一書を出したものであらう、表志書は即ち自分の北海に去る心得を書いて川村に知らせやうとしたものか。
  廿二日丙子夜来大風雨
  ○上略
  一 渋沢より之書面、伊勢崎野(細)野伝左衛門江出ス。
翌々二十二日に川村は右喜作の書面を上州伊勢崎の細野へ宛てゝ送つてゐる。この細野伝左衛門には喜作の姉わかが嫁いでゐるので、その関係からであらう。
 月替つて九月八日に明治と改元された。その月
  十一日乙酉晴
  ○上略
  一 民部公子御帰来云々
この記事は甚だ簡単であるが、これは西暦千八百六十七年(慶応三年)に、仏国のパリに万国博覧会が開催されるに付て、各国の帝王も皆仏国へ会同される趣であるから、日本からも大君の親戚を派遣するが好いと、仏国公使が建言したので、幕府では種々評議の末に、水戸の民部公子を派遣されることに決し、なほ其博覧会の礼式が済んだ後は、そのまゝ仏蘭西に留学させやうといふ予定であつた。青淵先生もその附添となられて他の一行の人々とともに、慶応三年正月十一日横浜を出帆し、二月二十九日に仏国へ着かれた。博覧会の礼典も無事に済んで、公子は欧羅巴各国を巡回され再び巴里へ還られたのはその年の十一月末であつた。その間に日本では戊辰の変となり大政は奉還され、将軍家は謹慎恭順して朝命に遵ふといふことになつた。それらの事が青淵先生等の許へ委しく知れたのは翌慶応四年(明治元)の三月であつた。それでも未だ公子の留学費は二ヶ年間位は十分に支へることが出来る程はあつたので、尚ほ経費を切詰めても修学を続けるつもりであつたが、間もなく水戸の慶篤公が逝去されて、民部公子がその御相続といふことに決定した為め、已むを得ず御帰国といふことになつて、仏国をその年の九月末に出帆し航海も無事に横浜に帰着されたのは十一月三日であつた。それから推すと民部公子御帰来云々とある記事はこの頃に民部公子一行の御帰朝決定の通信が、仏蘭西から届いたものと見られる。
 尚ほこの横浜帰港の日時を、青淵先生は雨夜譚に十二月三日と述べてゐられるが、これは十一月の三日であつたことは先生御自筆の日記で知ることが出来る。この誤りはその日が西暦では十二月十六日であつた為め、双方を混用されたことゝ思はれる。
 当日記はなほ九月十二日まで断続ながらも書かれてゐるが、これ以外には青淵先生に関聯があると見られる記事は発見出来なかつた。
 - 第1巻 p.406 -ページ画像 
        結び
 この以後の日記は明治五年までの間が欠けて、明治六年六月川村氏が大蔵省へ出仕される前後から始まつてゐるが、この時は既に青淵先生は大蔵省を致仕された後であつた為め、両氏の間に交渉がなく只纔にその六月廿八日の項に「一渋沢立寄」と見られるのみで、如何なる用件であつたか又は単に挨拶の為めか、想橡することすらも出来ない。
 以上で、今回発見の川村久輔氏御所蔵の川村恵十郎氏日記簿のうち、青淵先生並に渋沢喜作氏に関係ある記事の紹介を終るが、この五冊の日記によつて今まで不明となつてゐた月日が明瞭にされたこと、又青淵先生の御記憶違ひによつて誤まつてゐた日時を、是正することの出来た点だけでも望外の喜であるが、なほ其上にも青淵先生の江戸及京都に於ける足跡の一部を、新らたに知ることが出来たことは愉快であつた。併し当日記にはなほこの外にも文字の表面だけを読下したのみでは、浅学なる小生には察知することの出来なかつた青淵先生に関聯のある記事があつたのを、観察の不充分から逸脱してはゐないかを惧れると共に、一橋家を中心とした幕末維新当時の貴重な資料も数多見られたが、当編纂所の仕事の性質上と、時間の都合からこれらを割愛したのは遺憾であつた。もし今後十分の時間を得て、こゝに御紹介した五冊分だけでも、その全文を謄写することの出来る日を期待して筆を擱く。(完)(昭和一五、六、七稿)
(備考)
  日記の本文中虫蝕其他の為めに、文字不明の箇所には其字数に相当する□を宛て、又文字はあるも解読し難い箇所には○を以て表して置いた。