デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.6.13

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

1章 亡命及ビ一橋家仕官時代
■綱文

第1巻 p.406-412(DK010029k) ページ画像

慶応二年丙寅七、八月(1866年)

将軍徳川家茂薨ジテ嗣ナシ。幕府一橋慶喜ヲ迎ヘテ将軍ト為サントス。栄一渋沢喜作ト共ニ原市之進ニ就テ其不可ナル所以ヲ切論ス。行ハレズ。


■資料

雨夜譚(渋沢栄一述)巻之三・第一〇―一三丁〔明治二〇年〕(DK010029k-0001)
第1巻 p.406-408 ページ画像

雨夜譚(渋沢栄一述)巻之三・第一〇―一三丁〔明治二〇年〕
○上略 所が其間際になつて、大阪御滞在の将軍家茂公が俄に薨去といふ大変になつて、其れが為め、一橋公が長州征伐の一件を沙汰止みになり、却て老中板倉周防守、大目附永井玄蕃頭抔が京都へ来て、一橋公に将軍家の御相続を御勧め申上るといふことになつて来た。
此の御相続一条に付ては、種々評議もありましたが、元来一橋公が将軍家の儲君に立つといふことは、去る安政のはじめ、十三代の将軍温恭公の生前に於て、京都から是非とも一橋を儲君にとの御内諭もあつたことであるが、其時の元老井伊掃部頭が、一橋公の賢明を忌むでこれを嫌ひ、朝命に遵はざるのみならず、甚しきは其為めに一橋を幽閉して、終に此の家茂公が紀州から這入つて、温恭公の後を継ぐやうにしたのである、さういふ行掛りもあり、殊に追々時勢も迫つて来て、徳川幕府の危いことは恰も累卵と一般であるから、此の場合に誰も将軍とする適当な人物は一門の中にないといふ所から、右の通り一橋公を
 - 第1巻 p.407 -ページ画像 
出すことに一致したものと見えて、終に一橋公に将軍家相続の話しが向いて来たのであります、
此の時に、自分と喜作とは、其噂さを聞くや否や、大に其不可なることを唱へたが、其時には黒川嘉兵衛は権勢が衰へて、原市之進といふ人が用人の筆頭になつて居た、此の原と云ふ人は水戸出身で弘道館の教頭をも勉め、漢学も相応に出来て、黒川とは違つて、随分人才といふ評判もあり、且ツ事物の弁へもあつた人である、自分も此の人とは其前から厚く懇意にしたものだから、今度の一条に付ても、此の人に向ては御相続の不可であるといふことを屡々論談したことである、其論談の趣旨は、今日の徳川氏は、これを家屋に譬へていふと、土台も柱も腐り、屋根も二階も朽ちた、大きな家の如きものである、若し之を修繕しやうといふには、大黒柱一本を取換たとて、其れで保つものではない、詰り改造する外に、革新の道はない、なまなか修繕を企て柱を換へたり棟を改めたりすると、却て其破潰を速にする様なものゆえ、寧ろ此の儘に捨置て、脇の方から添柱を建るといふ、姑息法で維持するがよい、併し其れでも維持が出来ぬときは破潰する外はない、仮令如何様なる明君良主が相続しても、到底此の儘で中興は出来ぬ、然るに今一橋公は賢君であるの材能が多いのといつて、御継統の将軍となし奉つたとても、恐れながら君公一人ではドウすることも出来ず或は却て滅亡を早くするやうなことがあるかも知れぬ、其訳は、目下の処では、天下の人が皆幕府の役人が悪いとばかりにいつて居るからまだしも目の注ぐ所怨みの帰する処が緩なれども、向後賢明の君が相続したとなると 百般の感応力が著しく強くなる訳である、試みに吾人一家の事に比しても、主人が留守とか又は病気なれば、少々の手落をも恕する情合になるが、若し主人が儼然として在宅する時には、微しの落度にても、気が付かぬとか、失敬の待遇をするとかいつて、容赦せぬのと同様であるから、今一橋公が大統を継いで将軍家の御相続をなさるといふは、丸るで死地に陥るので、実に失策の極、危殆千万な事柄である 故に何卒相続の事は切に御止まりにならんことを願ひたい、其代りに自分等の考案は、此の累卵の如き危い幕府たりとても、これをして一日も長く保つ様にするのには、一橋公は御相続を御辞退になり、他の親藩から幼弱の人を撰んで、将軍家の継統として、一橋公には相替らず御輔佐の地に居られて、依然として京都守衛総督の御職掌を尽さるゝが、御双方の得策であると思ふ、併し此の総督の大任を完全に尽すといふ日には、兵力といひ財用といひ、現今の有様では何の役にも立たぬから、宜く此の機会に投じて、畿内又は其近傍に於て、五十万若くは百万石の封土を御加増になるといふ計画になされたいものであると、例を引き実を挙げて、再三再四説いた処が、原市之進も素より天下の形勢は能く知つて居たから、自分の言ふことを尤と思ふて、如何にも足下の言ふ所は尤に思はれる、夫程迄に思ふなら、御前へ出て其趣を言上して呉れいといふので、直に君公に拝謁を願つて、親しく意見を開申する運びになつた、処が其翌日、君公には板倉、永井等の懇請を御許容になつて、俄に大阪へ御下りになりましたゆえ、残念ながら此の拝謁のことは叶はずに仕舞ました、
 - 第1巻 p.408 -ページ画像 
   ○慶喜宗家相続ノ経緯ハ、「徳川慶喜公伝」巻三、第二十二章「宗家相続」ニ詳シ。


雨夜譚会談話筆記 上・第三六二―三六四頁〔大正一五年一〇月―昭和二年一一月〕(DK010029k-0002)
第1巻 p.408 ページ画像

雨夜譚会談話筆記 上・第三六二―三六四頁〔大正一五年一〇月―昭和二年一一月〕
 ○渋沢子爵○中略 慶応二年の冬、慶喜公が御相続になつた。其秋の頃であつたと思ひますが、其時の私の心持を申上げると、今、徳川の御家の御相続は、此ぐらゐ御不利のことはないから、矢張陰の位置に立つてお援けなすつた方が宜からう。正面御主人にお立ちなさると、総てを御自分でお引受なさらなければならぬ。すると必ず他の圧迫が来るに相違ない。今の有様では当主が力が弱いから、自ら京都を脅かす。諸藩の仕向けも申さば軟かであるけれども、内が強くなければ風当りが尚ほ激しくなると云ふことは目に見えるやうに察せられる。殊に薩長が一緒になれば甚しきは勅命を擁して来るやうになるから、益々面倒になる。まだ御一家中であつても老中から嫌はれて居る間はよいけれども、之をお引受になると、まるで位置が変つて、非常に不利のお立場になるから、是非お引受のないやうにと云ふことを頻に苦心しまして、そこらを奔走して到頭原市之進に切実に話しました。けれども原が私の説に果して同意して呉れたのか、若くは拠どころないと思つたのか分りませぬが、まあお前の云ふ所も無理からぬやうに思ふが、何分今日の場合さう云ふ説は聞届けられまいと察し上げる、兎に角御前に申上て見るから、お直に申上げて見ろと言はれました。翌日其沙汰があるかと思つて居りました所が、火急に御下阪と云ふことになりまして、遂に大阪で御相続が確定されてしまひました。私共は大変落胆しました。まあ其時分には一橋のお家に於ても吾々は直々お会ひを願ひたいと云つても出来ない位の位置であつたのですが、それが今のやうな有様になつたから、尚更吾々は、御家の事に対して意見を申上げるなどと云ふ訳にはいかなくなつた。実に掌中の珠を他人に取られたやうな気がして、口惜しくもあり、えらい御迷惑の立場にお立ちなさるだらうと云ふことを、敢て先見の明があつたと云ふ訳ではありませぬけれども、深く御心配申上げて居りました。○下略
   ○右ハ「徳川公爵家御家政に就て」栄一ノ談話セル一節ナリ。


竜門雑誌 第三〇九号・第一四―一五頁〔大正三年二月〕 【故徳川慶喜公の大偉勲】(DK010029k-0003)
第1巻 p.408-409 ページ画像

竜門雑誌 第三〇九号・第一四―一五頁〔大正三年二月〕
○上略 前に申上げた通り文久三年に京都へ参りまして、元治元年の二月に御奉公を始めましたから、即ち今年で五十年になります。元治元年が子歳で、子、丑、寅、卯、辰と即ち私が一橋藩に仕へてから五年目で世は王政維新になつたのであるから、僅に数年間でありますけれども、此頃は世が様々に変化しましたから大層歳月が経つたやうに思ふた。其の数年間に、例へば一ツ橋の兵制を改革するとか、或は財政を整理するとか、今で申せば軍備拡張、財政整理と云ふやうなことに付て私は余程力を尽したのであります。但し其の間は二、三年であつて只今萩野君の講演中にございました通り、慶応二年寅歳の七月徳川十四代将軍の薨去、其の後継者となると云ふことは、我が慶喜公に取つ
 - 第1巻 p.409 -ページ画像 
ては実に容易ならぬ困難なる場合であつたのです。今日から熟考しますると此の宗家の相続と云ふことは、所謂将来を予想して初代に家康公があつたから終りに自分が立つて、此の帝国に瑕瑾を付けずして朝幕間の政権の受授をしやうと云ふ大決心があつたやうに思はれます。私共の凡眼にはそれが分らなかつたから、将軍家の相続と云ふことに付て私は切に不同意を申したのであります。萩野君は其の当時の有様を叮嚀に講演になりましたが、私も青年ながらに其の時代の形勢が能く分つた。分つたに依つて、此の相続を為されば御一身にて諸方の攻撃の衝に当り、甚だしきは先年長州が朝敵の汚名を受けたことがあるが、悪くすると同様の境遇に陥らざるを得ぬ。今日の幕府と云ふものは到底此の姿で維持することは難いのであるから、此の際に宗家を御継ぎ為さると云ふことは、所謂飛んで火に入るやうなものであるといふて、私は一ツ橋の家来として頻りに将軍家相続に反対して重臣によりて極力諫め上げたのでありましたけれども、親しく言上することも出来ずに終に御相続になりました。私の身に取りては数年間一橋藩に勧めて、今日御相続になつた為め主君を失つたやうな観念がして、世を味気なく感ずるやうになつたのでありました。○下略
   ○右ハ栄一ガ大正二年十二月十二日東京高等商業学校ニ於テ開カレタル東京市講演会ニ臨ミテ為シタル講演「故徳川慶喜公の大偉勲」ノ一節ナリ。


竜門雑誌 第三三三号・第三三―三四頁〔大正五年二月〕 【東照公と前将軍】(DK010029k-0004)
第1巻 p.409-410 ページ画像

竜門雑誌 第三三三号・第三三―三四頁〔大正五年二月〕
○上略 丁度子丑寅卯の四年を一橋家に御奉公をして居る間に、卯年《(マヽ)》には十四代の将軍家茂公が薨去になつて余儀なく慶喜公が入つて徳川宗家の御相続をなさらなければならぬことに相成つたのであります、これは私は公の御為めに大に悲しんだのである、宗家御相続といふは御一身からいふと将軍職をお継ぎなさるのですから、栄達の如くにも見えますけれども其時の幕府といふものは殆ど累卵の危きをなして居りまして、諸藩の間に種々の物議があり此際御相続なされば恰も各方面から来る攻撃の的になるのである、殊に幕府は数代の老中が政事を誤り井伊掃部頭・間部下総守・安藤対馬守などの失政は特に天下の人心を損じ諸藩は幕府を飽き切つて居る、朝廷も最早左様思召したか、心ある人士は三条とか岩倉といふ人々は折もあつたら討幕策を立てようといふことで、既に業に物議を十分に起して居ります、此時に当りて公が将軍にお成りなさるといふは実に先の見へないなされ方と、斯う私は思つたから原市之進といふ人を通じて切にお諫め申しましたが、到頭事情が許さぬことゝ見へて、私共の申上方は御採用にならずして御相続といふことゝなつて、十五代将軍とお成なすつた訳であります、この事は私の真に歎息した事でもう徳川家は是れで倒れるといふ感じを起しました、又己れ一身も折角一橋家に仕へて幾分か君にも知られ、説も行はれる様になつたから、諸藩と相伍して万一幕府の倒れる場合には、諸藩と共に何か相当なる活動も出来るであらうといふ考であつた、その頃の政事を論ずる者は今日の如き完全なる郡県制度が立つとは思はなかつた、詰り一時は豪族政治といふ様なものに変化するであらうといふ想像を持つた、それは私ばかりでない現に西郷隆盛氏など
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もさういふ考を持つて五大名に大老を命じて幕府の政事を執らせ、而して慶喜公を其中へ加へたらよからうかといふたことがある、これ等有志の説に全然反対して慶喜公が将軍になられたならば直きにも騒動が始まるだらうと私は予想して居つた、殊更会津と薩摩長州とは始終仲が悪かつた、文久亥年に長州が堺町御門の御固めを罷められたといふのは薩摩と会津の一時合意の力によつたので、元治元年長州が天竜寺に拠りて蛤門に向つて発砲した時も会津と薩摩とが力を合せ、独り二藩ばかりでなくその他の諸藩聯合し、その力によつて長州を追ひのけた、これが元治元年七月十九日の事で壬子の乱《(マヽ)》といふのである、然るに其薩摩と長州とが本当に力を合せる様になり、其上朝命を以て討幕といふことになれば 幕府は戦争をして勝つたら格別だが、若し勝たなかつたならば倒れるに違ひない、故に私は王政復古とは気が付かず薩長が天子を戴いて天下の政を執るだらうと想像しました、右等の理由を以て公の御相続は甚だ宜しくない、時勢已むことを得ずば幕府は倒れるとも是非がないと私は思ふたのであります、然るに其建言は容れられず慶喜公は将軍の御相続をなさるといふことになつて、殆ど落胆して居るうちに、私は仏蘭西行を命ぜられて、慶喜公の末弟烈公の十八人目のお子で余八郎麿、即ち民部大輔と申したお方がその時分京都の本国寺といふ寺院に陣営してござつたのが、遂に千八百六十七年に開かるゝ仏蘭西の大博覧会へ使節としてお出になり、その博覧会が済むと仏蘭西で四五年間留学なさつて、外国の学問を修めてお帰りなさる筈、それについて相当の供人を要するといふので、私は仏蘭西の学問は出来なかつたけれども、随行を命ぜられた、此命を私に伝へたのは原市之進氏である、○下略
   ○右ハ栄一ガ、大正四年四月東照宮三百年祭ノ挙アルニ際シ静岡教育会ノ招聘ニ応ジ、同月十九日静岡師範学校ニ於テ開催セル同教育会総会ニテ試ミタル「東照公と前将軍」ト題スル講演ノ一節ナリ。


徳川慶喜公伝 巻之三・第三八七―三九〇頁〔大正七年一月〕(DK010029k-0005)
第1巻 p.410-411 ページ画像

徳川慶喜公伝 巻之三・第三八七―三九〇頁〔大正七年一月〕
○上略 此時栄一は公が宗家御相続あらせらるべき由を洩れ承るや、いたく憂懼に堪へざりき、そは余が嘗て薩藩の内情を偵察せんが為に、折田要蔵の門に在りし時より薩藩の志士とは交り博く、同藩有力の壮士中に討幕の計画ある事をも、ほゞ偵ひ知りたるが、後西郷吉之助が京都に在りし時之を訪ひて、さまざまに国事を談論し、如何にせば大政を改張し得べきかと問へるに吉之助の答に、「幕府今日の有様にては何事をも為し得べからず、速に其制度を建て直し、新進の士をして政に与らしめざるべからず、されど其事急に行はるべからざれば、先づ有力なる大名五家ほどを挙げて、幕政の議定に預らしめ、新進の士は之に参与して、一新を図る外はあるまじきなり」といへり。五家は薩州長州・肥前を挙げたれども、其他の一をば忘れたり 余は是等の説を思ひ合せて、斯かる人々に疎まるる幕府を、公の相続し給はんこと甚だ不利なり、世間の人々は、幕府の同情を天下に失ひたるは、其罪諸有司にありとのみ思ひ居れるに、さしも賢明の声誉まします公の御相続とありて、若し其施政輿望に副はざらんには、非難は必ず公の一身に集まるべし、さりとて公の賢明
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も声望も、今の如き幕吏を以てしては、百事御心に任すべくもあらず、結局失敗に了りて、責一人に帰すること必定せり、宜しく他の親藩より幼少の人を選びて宗家を継がしめ、公にはいつまでも補佐の位地に立ち給ふべし、且一橋家には兵力なく、財力も亦乏し、其力なくして幕府の為に尽さんとすとも、心に任せざるべければ、此際兵を養ひ武を講じ、府庫を富ますと共に、一橋家を一の親藩となし、大坂城を請ひ受けて城地となさば、一朝変あらん時、京都を擁して関西の諸藩を圧せんことも自由なり、幕府の為にも公の御身の為にも、之に過ぎたる良策はあらじ、御相続は却て幕府の滅亡を促すものなりと確信しければ、原市之進に就いて此意見を坡瀝したるに、「足下の言ふ所如何にも道理あれば、御前に出でゝ申上ぐるやうに」との事なりしが、公には御事繁くて拝謁の機会を得ざる中に、御相続は既に内定して進言するを得ざりしかば、余が失望・落胆・不平・不満やるかたなかりき。程経て余は清水民部大輔 昭武 に供奉して仏蘭西に赴きし時、同国に滞在せる栗本安芸守と本国の政事を談じて、「一橋殿将軍となり給ひて、幕府の運命既に極まりぬ」と歎息せしに、安芸守は如何思ひたりけん黙して答へざりしが、やがて政権奉還・王政維新の報知巴里に達するや、安芸守は余にいへらく、「嚮に足下が幕府の運命極まれりといへる時はよもさる事はあらじと思ひしに、今にして足下の卓識に敬服せり、さすがは長く京坂に在りて、天下の形勢に通暁せられたり」と称賛せり。されど今より思へば、余が其時の意見は勿論、安芸守の称賛せる卓識も、亦謬見たるを免れざりしなり、若し公が御相続の御事なかりせば誰か克く幕府令終の大任を完くすべき、余が当時の進言の行はれざりしこそ、却て国家の幸なりけれ。今御相続の事を叙するに際し、昔夢を追尋して聊此に附記す。○下略


渋沢栄一伝稿本 第四章・第一三五―一三八頁〔大正八―一二年〕(DK010029k-0006)
第1巻 p.411-412 ページ画像

渋沢栄一伝稿本 第四章・第一三五―一三八頁〔大正八―一二年〕
○上略 先生の嘗て折田要蔵の門に在りし時、広く薩藩士と交り、同藩の有力者中に、討幕の計画あるよしをもほゞ偵ひ知りたるが、後西郷吉之助が京都にありし時、之を訪ひて国事を談論せし序に、如何にせば幕政を改張し得べきかと問ひ試みしに、吉之助答へて、「幕府今日の有様にては、何事をも成し得べからず、但し旧制を改廃し新進の士をして政に与らしめば、或は成ることあらん、されど此事も急に行はるまじければ、先づ有力なる五大藩を挙げて幕政の議定に与らしめ、新進の士は之に参与して改革を図るを急務とす」といへり。五大藩は薩長土肥の四藩と今一藩は詳ならず 先生深く其卓識に敬服せしことなれば 今慶喜公の宗家相続問題の起るに及びて、心に謂へらく、「此の如く識者に疎まるゝ、幕府を、公の相続せられんは甚だ不可なり、今日の幕府は恰も朽ち果てたる家屋の如し、一二の修繕を加へたりとも、遂に維持すべからず、憖に手を下さば却て破壊を促進せんのみ、寧ろ傍より支柱を施して顛倒を防ぐの優れるに若かず、我が公は此支柱たるべき地位にあり、目下世人が、幕府の同情を失へるは、其罪諸有司にありとのみ思ひ居れり、今賢明の誉れある公が相続して、施設する所若し輿望に副はずんば、非難は必ず公の身に集まらん、さりとて幕府の頽敗は公の賢明と
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いへども遂に匡救すのからず、されば宗家相続は畢竟自ら死地に投ずるものなり、宜しく他の親藩中より幼少の人を選びて主となし、之を輔佐教導せば、或は以て命脈を維持するを得べし、是れ其支柱たらざるべからざる所以なり。此の如くにして尚形勢の不可なるあらば、幕府は其衰亡するがまゝに放任し、一橋家は宗家に代りて家名を将来に伝ふべきのみ。孰れにしても此際一橋家の実力を増し置くこと、最大の急務なれば、大阪城を請ひ受けて之に拠り、近畿地方に五十万石乃至百万石の加封を受け置くを要す」と考へたれば、之を原市之進に説けり。市之進は水藩に於ける激派の領袖として、名声世に顕れ、文久元治の交、一橋家の御雇となりてより、常に公の左右に侍し、平岡円四郎の没後には、公の参謀として言聴かれ謀行はれたれば、用人の筆頭たる黒川嘉兵衛も、此頃に至りては員に備はるのみにて、家中の全権市之進の手中に帰したり。此を以て先生も亦専ら市之進に入説するを捷径と信じたるなり。市之進は耳を傾けて先生の説を聴き了りて、最後に公に拝謁して親しく言上すべしとありければ、時を候ひて謁を請はんとする折しも、相続の議内定せしかば 遂に進言の機会を得ず、先生の不平落胆大方ならず、「嗚呼公は賢明の誉れありとはいへども要するに紈袴の貴公子なり、此の如き有様にては、幕府の前途亦知るべし」と、渋沢喜作と相共に浩歎の声を洩しけるが、「さるにても大事既に去りて復た為すべからず、余輩は再び浪人の昔に帰るべきか、浪人したりとて策の施し難きを如何にせん、さらばとて此まゝにて安居すべきにもあらず、寧ろ死生を度外に置きて、一橋家を去るより外に手段なかるべし」など語り合へり。されど今より当時の情勢を達観する時は、実にも公の辞避を許さゞる勢たりしを、先生等は壮年の時眼光未だ透徹せず、此に思ひ及ばざりしなり。此時公が相続したればこそ、能く紛糾せる時局を収拾して、幕府令終の美を完くしたるなれ。先生も亦嘗て此事を回憶して、余の意見の行はれざりしは、却て国家の幸福なりきといへり。