デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.6.13

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

1章 亡命及ビ一橋家仕官時代
■綱文

第1巻 p.412-427(DK010030k) ページ画像

慶応二年丙寅八月十一日(1866年)

是ヨリ先、一橋慶喜将軍ノ名代トシテ長州ニ出征セントス。栄一従軍ヲ命ゼラレ、是日勘定組頭ヲ以テ御使役ニ兼任シ、御用人手附ヲ仰付ケラル。栄一乃チ手書及ビ懐剣ヲ夫人ニ贈リテ別ヲ告グ。


■資料

雨夜譚(渋沢栄一述)巻之三・第八―一〇丁〔明治二〇年〕(DK010030k-0001)
第1巻 p.412-413 ページ画像

雨夜譚(渋沢栄一述)巻之三・第八―一〇丁〔明治二〇年〕
○上略 是より以前に徳川十四代の将軍家茂公は御上洛になつて、寅年の夏頃には、大阪城に御滞留であつたが、子年の秋、長州の毛利が朝命に背き奉つて、勿体なくも禁闕に発砲し、且つ幕府をも蔑如したに依つて、先帝、即ち孝明天皇は甚しく御逆鱗遊ばされて長州征伐の勅命が幕府へ下つた、ソコデ幕府は大いに諸藩の軍兵を催促して、尾張大納言が総督になつて、かの長州征伐を始めたが、大将の軍令も行はれず、各藩の兵気も一致せず、詰り大軍を労した計りで、寸功をも収む
 - 第1巻 p.413 -ページ画像 
ることが出来ずに仕舞つた、依て今年は幕府の親兵に譜代諸侯の軍勢を併せて、即ち幕府一手の軍立を以て再征した処が、矢張長州勢が強くて寄手が弱い、芸州口の戦争などは、恰も連戦連敗の姿で、幕兵は追戻さるゝ計り、何時までも捗々敷い実効が挙らないに依て、朝廷より幕府へ、速かに征討の実効を奏するやうにと、御催促を仰出さるゝといふ所から、終に我一橋公が長州征伐の大任を引受らるゝ事になりました、一体この長州征伐は、幕府に取ては実に一大事で、若しこれを失敗する時は、只さへ衰微した権勢が、益々萎縮して、徳川の天下も、運命が窮ることは必然の場合であるから、一橋公は奮然として自ら任じ、成敗を此の一挙に期して、自身に征討の大任を負はれました訳でありませう、
是が丁度慶応二寅年の夏頃であつたが、サアさうなると、仮令まだ未熟でも、昨年の春兵制を立てゝ歩兵隊を編成したのは、時に取りて要用を為したと、用人などが言つたことがあつた、此の時に自分も長州征伐の御供を命ぜられて、勘定組頭から御使番格に栄転した、前にも述べた通り、自分は勘定組頭の職を命ぜられてからは、一図に一橋家の会計整理に力を尽して、種々勘定所の改良を勉めて居たが、右の如く君公御出馬といふ場合になつては、腰抜け武士となつて人後に落ることは好まぬ気質だから、強て従軍を願つて、御馬前で一命を棄る覚悟でありました、○下略


渋沢栄一伝稿本 第四章・第一三三―一三九頁〔大正八―一二年〕(DK010030k-0002)
第1巻 p.413-414 ページ画像

渋沢栄一伝稿本 第四章・第一三三―一三九頁〔大正八―一二年〕
○上略 かく一橋家の為に東奔西走せる間に、天下の形勢は急劇に推移せり。かの蛤門の事変後、幕府は朝命を奉じて長州征伐の軍を起し、尾州の前藩主徳川慶勝総督となり、諸藩の兵を率ゐて本営を芸州広島に進むるや、長州は一兵をも交へずして降を請ひ、同藩主毛利慶親父子は寺院に蟄居して罪を俟ち、上京軍の主将たりし福原越後・益田右衛門介・国司信濃の三家老の首級を、総督の軍門に献ずるなど、恭順の意を表したれば、総督は兵を撤して京都に帰り、長州に対する処分を後日に譲れり。かく長藩が容易に恭順を表したるは、同藩の附属たりし吉川経幹等を中心とせる、温和派が勢力を得たる為なりしに、幾もなく高杉晋作等の激論派は藩府の態度を憤慨し、寧ろ長防二州を以て覇を天下に争はんとし、兵を以て藩府に迫り、遂に要路の重臣を更迭せり。よりて幕府は再び長州征伐の師を起し、将軍家茂公自ら牙営を大阪に進め、紀州藩主徳川茂承を先鋒総督として、諸藩の兵を統べしめ、老中小笠原長行を豊前小倉に派して九州軍を指揮せしめたれども幕府の兵常に利あらず、石州口に於ては浜田城を奪はれ、九州にては豊前の小倉城を陥れられ、芸州口も亦危く、幕府は殆ど手を下すに由なし。折しも慶応二年七月二十日家茂公大阪城中に薨じ、慶喜公衆に推されて宗家を相続したれども、思ふ所ありて暫く将軍職をば受けられず、喪を秘して自ら征長の途に上らんとし、勅許をも蒙り、節刀をも賜はりたり。これ先生が中国筋より京都に召還せられし数月の後の事なり。
先生は公の宗家相続には反対なれども、公が幕軍を提げて長州に一撃
 - 第1巻 p.414 -ページ画像 
を加へんとするの壮挙には、衷心より賛同せり。二年八月出陣の御供を命ぜられて御使役を兼ぬ、此時の辞令に、「御出陣御供被仰付、御用人手附と可心得候」とあり、蓋し本営附なるべし。されど又心に思ふやう、「余は嘗て尊攘の説を唱へて挙兵の策を按じ、事成らざらん日は、密に長州に走らんとさへ思ひたりき。然るにはしなくも平岡氏に救はれて、一橋家に奉公するさへ奇しき運命なるに、数年前までは事あらば之を頼みて活路を求めんとせし長藩を、今は却て討たんとす、人生の変此に至れるかな」と、感慨禁じ難かりしといふ。さるにても敵は聞ゆる防長二州の精兵なり、一度戦場に出づれば潔く公の馬前に戦死し、かねての知遇に対へ奉らんとて、訣別の書翰を郷里なる夫人の許に寄せらる。


御番頭御用人 日記 慶応二寅年八月(DK010030k-0003)
第1巻 p.414 ページ画像

御番頭御用人 日記 慶応二寅年八月 (伯爵徳川宗敬氏所蔵)
八月廿五日

                   頭役次席
     御出陣中          御右筆組頭
     御使役兼帯に           内川益太郎

                   御用人支配
     同断            御勘定組頭
                      渋沢篤太夫

右当月十一日於奥対談所御家老衆被申渡之。


一橋家 吉田温苗筆記 中(DK010030k-0004)
第1巻 p.414-425 ページ画像

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渋沢栄一 書翰 千代子夫人宛(慶応二年)八月(DK010030k-0005)
第1巻 p.425-426 ページ画像

渋沢栄一 書翰 千代子夫人宛(慶応二年)八月(穂積男爵家所蔵)

一筆示し申あけまいらせ候、そののちはうちたへ御おとつれもなく、人々もいよいよ御かわりなふ御くらし可被成めてたくそんしまいらせ候、こゝ元かわりなふつとめおり候まゝ御しんもしなきよふ御たのみあけまいらせ候、先頃は度々申こし、御元事此方へよひとり可申候旨申進置もはや時節にも相成候まゝあけくれ相待居候ところ、はからすも此度長州江の
御出陣御供被 仰付これよりまかりこし候あいた、思ふ事もとげやらす、さんねんなからしはらく御とめ申まいらせ候
さりなからいくさは武士の常、さほとこゝろにかゝり候事にも無之、やかて吉左右御知らせ可申、日をかそへ御まち可被成候 永々の離別、此度こそ面会之上、山山の苦節御はなし申度、楽の甲斐もなふ、又又二百里も有之候西へまかりこし候こゝろ、御すへもしなされ、引くらへ御両親江孝行おこたりなふたのみ上まいらせ候、うた事も日ましニ生長のよし、女なからもたのもしき事、そのうち面会之期もあるへくとまりわ《(マヽ)》ひまいらせ候、かすかす申のへたく候得共、まことにせわしく候まゝ、思ふ事ものへやらす、あらあらふてとめまいらせ候、めてたくかしく
  八月けふ
                       とく太夫
    おちよとの江
         まへる
 - 第1巻 p.426 -ページ画像 
筆すへなから手計の御はゝにもよろしく御たのみ申あけまいらせ候、又外ニ壱包ハ其許江片身こゝろの懐剣ニ候間、大切ニなされへく、さりとて此身のおとつれわからぬうち、ふりよのこゝろなとなきよふくれくれたのみまいらせ候、もし又こなたなきものにも相成候ハヽ、その後はとくとしあんもこれあるへく、いつれにも目出度かちいくさ御かゑりに相成可申候、そのせつ山山可申上候、かしく
かへすかへすもこの文大事ニかけくたされへく、又手計はゝへは御目にかけ、もしものせつは御さふだんなされへくそんしられ候、よろしくよろしく御たのみもふしまいらせ候、手計兄様江も別ニ不申上候まゝ、是もよろしく頼あけまいらせ候
何事も筆にはつくしかたくおしきなから申のこしまいらせ候、匆々


はゝその落葉 第七―八丁〔明治三三年〕(DK010030k-0006)
第1巻 p.426 ページ画像

はゝその落葉 第七―八丁〔明治三三年〕
○上略 かくて又一年ハ過ぎ行て慶応二年の夏とハなりぬ。かねてよりさまざまのとりざた聞えける長州征伐の事。こたびいよいよ将軍家親ら出て征せ給ふべきに定り。一橋の君にハ先鋒たるべき旨命ぜられ給ひけるにつき。大人も其軍に従ひて出立せ給ふ事とはなりぬ。其時の御ふみに郷里にありける頃より尊王攘夷の志同じきを聞て。はるかに敬慕しつる長州の人々を仇としむかはん事。誠に本意にもどりたるわざなれども。公の命今更にもだしがたし。武士として戦の場にむかハんには。生きて帰らん事を期すべからず。我身の上今しばしおちゐたらんにハ。御身と歌子は我許にむかへとらんとたのめつるかひもなくなりにしぞうらみなる。もし討死する事もあらば。二柱の君の孝養は更なり。歌子が上もよきに頼むぞよ。との由こまやかに云ひおこせ給ひ。一ふりの懐刀を添へて送らせ給ひ。そのかへす書に。こハ武士の妻になりぬる御身が守り刀にとてあがなひ置きたれバ今度の便りに送るなり。かまへて我死なば御身もとの。なぞなぞとな思ひたがへそ。とぞ書かせ給ひける。この御ふみと短刀とは。わらは申しうけて今も猶秘め置きぬ。打見るたびに其時の母君の御心の中押しはかられ参らせて。悲しさ云はんかたもなし。


落葉の一ひら(DK010030k-0007)
第1巻 p.426 ページ画像

落葉の一ひら               (穂積男爵家所蔵)
亡き母君のかたミなる短刀と、玉章とをひとつの箱にをさめおきけるか、こたひ其蓋に家尊の大人の御筆を乞ひまつりぬ、さて此二品のゆゑよしを知り安からしめむとて、かつてものしゝはゝその落葉の中の一ふしをかいしるして添おきはへるになむ
(本文略す)
          大正二年四月
                穂積歌子
                   しるす
  夜寒のあと
消え残る露の玉つさ秋の霜すきし夜寒のあとをこそ見れ
                  栄一
 - 第1巻 p.427 -ページ画像 



〔参考〕須永虎之助 書翰 須永伝左衛門宛 ○(慶応二年)八月三日(DK010030k-0008)
第1巻 p.427 ページ画像

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〔参考〕須永虎之助 書翰 須永伝左衛門宛 ○(慶応二年)九月一三日(DK010030k-0009)
第1巻 p.427 ページ画像

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