デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.6.13

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

2章 幕府仕官時代
■綱文

第1巻 p.428-435(DK010031k) ページ画像

慶応二年丙寅九月七日(1866年)

幕臣ニ転ジ、陸軍奉行支配調役ト為ル。幾許モナク命ニ依リ書院番士大沢源次郎ヲ逮捕シ、武勇ヲ称揚セラル。然レドモ快々トシテ楽マズ、十一月ニ至リ致仕センコトヲ決意ス。


■資料

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之三・第一三―一八丁 〔明治二〇年〕(DK010031k-0001)
第1巻 p.428-430 ページ画像

 雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之三・第一三―一八丁 〔明治二〇年〕
○上略 右の次第にて、終に一橋公が将軍家相続といふことに決して、その事を藩中へ仰渡されたから、自分等も其事を承知したが、誠に歎息といはふか、残念といはふか、其時の心中は、今考へても実に失望の極でありました、是も尋常人の考へから申せば、自身の仕ふる君公が将軍家相続になつたのだから、或は幕府へ召連れられて、相当な役人になれるも知れぬ、左すれば出世の道が広くなる訳だに依つて、大きに仕合せだと喜ぶ筈であるが、独り自分等両人は、最早大事去りぬ、此の上は如何したら好からう、又元の通り浪人にならふか、イヤ待て、浪人になつても行く先きはない、去ればとて、長く斯うしても居られぬ、既に一橋家に仕官して両三年生延びたから是から又死ぬ工風を廻らさふ、一橋公も今日将軍家を相続なさるやうでは最早望みはない、賢明なといつても、矢張り大名は大名だから仕方がない、詰り我々の建言が十分に腹に入らぬであらふ、言が行はれぬ以上は、止むを得ぬから去るの外はないなどゝ、寄々相談して居たが、八月に至つて愈よ将軍家相続となられて、自分等も幕府の方へめし連れられて幕臣の末班に列することになり、一橋家の重役中にても原市之進・梅沢孫太郎榎本亨蔵などは、或は御目附或は御使番と、其等級に応じて夫々の役向に転じたが、我々は固より位地が低いから、陸軍奉行支配調役といつて、御目見以下の役向をいひ附られて 幕府へ勤仕する訳になつた、前にも云ふ通り、大きに先望して居るから、少しも用が手に附かない、朝も早くは出勤せず、書物でも読んで、昔の英雄豪傑を友として、法螺を吹いて居るといふ風になつた、
 回想すれば、一橋家へ仕官してより既に二箇年半の歳月を経、言も行はれ説も用ゐられ、辛苦計営して聊か整理に立至つた、兵制会計等の事も、皆水泡に帰したのは、実に遺憾の事であつた、併し勘定所の事務丈けは、丁寧に後任者に引継をして、其中にも藩札の始末は斯くすべし、貢米の事は此の通りにするが好いといふ意見を留めて、一橋家を立去つた事である、偖て自分等は大阪にて幕府の役人となつて、只旅宿に居て威張て居たれども其後新将軍家は京都に御登になりて自分等も御供にて、京都に於ては毎日陸軍奉行の詰所の脇にある我々の詰所に出て居ると、同役も凡そ十四五人あつて、組頭と唱へる者が一人あった、此の組頭は森新十郎といふ人で、小才気のある江戸ツ児風
 - 第1巻 p.429 -ページ画像 
の男であつた、自分は固より快々として楽しまず、随て職務をも勉強せなんだが、其中に料らず一ツの出来事に遭遇しました、それは、其頃大沢源次郎といふ御書院番士が、禁裡御警衛のため、番頭の手に属して京都に滞留して居たが、此の大沢に国事犯の嫌疑があるといふので、京都町奉行から陸軍奉行へ掛合になつた(大沢の身分は御書院番であるが禁裏御警衛番士の勤向が陸軍奉行の支配であつたから此の掛合になつたのである)然るに此の大沢には多人数の共謀者があつて、兵器銃砲の用意迄も整ふて居るとの評判ゆゑ、陸軍奉行の役所でも軽々に手を附ることが出来ぬといふので中々の騒ぎでありました。此の一事を見ても、其頃幕史の怯懦なりしことが知れるが、終に此の大沢を捕縛する為めに新撰組を頼むことになつた、処が大沢は陸軍奉行支配下の人だから、奉行の名代に調役組頭又は調役の中から新撰組に附添ふといふことになつて来たが、組頭といふのは例の柔弱の小才子だから、さういふ処へ出掛るのを好まない、然らば誰行け彼行けといふ中に、渋沢は根が浪人で、強い事には恐れぬ男だから、彼に命じたらといふので、此の貧乏籤が自分の処へ落ちて来た、処が自分はソンナ事が好きだから、得たり賢こし、宜う御坐りませう、が併し如何したら好いのでありますかと、組頭に尋ねてみると、組頭のいふには、元来此の大沢は陸軍奉行の支配であるから、足下は新撰組を同道していつて、奉行の名代を以て、大沢に御不審の筋があるに依て、捕縛して糺問するから、左様心得ろといへば、其れで用はすむ、夫から直に新撰組に渡して、捕縛させて江戸へ送る丈ケの事だとのこと、ソレは造作もないこと、其れでは京都町奉行の屋敷へいつて、新撰組の隊長近藤勇に引合へますといふので、それから直に京都町奉行の役宅に於て近藤に面談して、新撰組の壮士六七人に警衛されて、其夜北野近辺の或る家に休息して、大沢の動静を探偵して見た処が、大沢は北野辺の寺院に止宿して居るが、折節他出中であつて、程なく帰宅するとのことであつたが、間もなく又探偵係から、大沢の帰宅したといふことを報知して来たに依て、新撰組の壮士等は直に其寺院へ踏込んで捕縛するから、其上にて自分の使命を達するやうにせられよといふから、自分はこれを拒んで、ソレハいけない、けれども兼てさういふ手筈に町奉行の役宅で引合つてあつたから宜しいじやないか、イヤそれでは自分の職掌が立たぬ、仮令組頭と打合せがあつても、此の職務は自分が命ぜられた上からは自分の考に応ぜぬことは承諾せぬ、謂はゞ自分が正使であるから、奉行の命を伝へぬ前は、大沢はまだ罪人にはならぬ、罪人にならぬ先きに、貴所等がこれを縛ることは出来ない筈だから、自分が奉行の代理で大沢に逢つた上、御不審の廉があるから捕縛して糺問するゆゑ、左様心得ろといふたら速に捕縛して宜しい、捕縛してから言渡しても宜じやないか、捕縛してからいひ渡すといふ事は相成らぬ、ダガ若し大沢に用意があつて、言渡す間際に斬つてかゝつたら如何する積りだ、ソンナ事は御如才ないから心配するに及ばない、斬て掛つたら、此の方も其積りで相手になる、足下にそんなことが出来るか、馬鹿なことをいふな、自分は紈袴武士とは違ふぞ、などゝ戯談半分に問答して、共に一笑を催ふしたが、終に警固の壮士は門前に待たせて、置て、自分は近藤勇と共に寺院の中に進み入つて、源次郎
 - 第1巻 p.430 -ページ画像 
は宅に居るかといふと、其以前に種々評議した程にもなく、源次郎は既に寝て居たものと見えて、やがて寝衣を著たなり、睡むさうな眼をして出て来たから、自分から奉行よりの命令を伝へ、両刀を取揚げて直に捕縛した、是で自分の職掌はすんだから、大沢源次郎は新撰組の手から町奉行所へ引渡して、其夜三時頃に奉行の旅宿に復命した、其時の奉行といふのは今の溝口勝如氏で、其頃は伊勢守といつて、頗る怜悧の声聞があつた人であるが、泰平の役人だから此等の細事にも深く心配して、自分の復命するのを、寝ずに待つて居た、依て大沢捕縛の手続を逐一申述べた処が、奉行も大層喜んで、誠に使なる哉使なる哉といつて、羅紗の羽織を当坐の褒美にとて貰つたことがありました、併しながら是は此の頃の出来事で済んで仕舞ば其限りのことであるが前にもいつた通り、日に増し境界が面白くない、何となく世に望みが薄くなつて来た、其処でつくづく考へて見るに、今一二年の間には、屹度徳川の幕府が潰れるに相違ない、迂濶に此のまゝ幕府の家来になつて居る時は、別に用ゐられもせず、又敢て嫌はれもせず、謂はゞ、可もなく不可もなくして終に亡国の臣となるに相違ない、就ては此の処を去るより外に仕方がないが、此の処を去るには如何するがよからふかと、只色々と屈託して居たが、何分思案が附かぬから、急に出奔することも出来ず、一橋に居た時分には、度々君公に拝謁も出来たのが、御相続後には、願つても拝謁は出来ず、原市之進などさへ、何か垣根越しに物をいふ様な姿で、充分の御輔佐も出来ぬ様子であるから、殆ど懐いた玉を奪はれたやうな心持で、種々に愚痴が増して来る、さればとて何時までも因循して居れば、亡国の臣となることは必然であるから、モウドウモ仕方がない、いよいよ元の通り浪人になると覚悟を定めたのは、其年の十一月頃でありました、


雨夜譚会談話筆記 上・第三六四―三六六頁 〔大正一五年一〇月―昭和二年一一月〕(DK010031k-0002)
第1巻 p.430-431 ページ画像

雨夜譚会談話筆記 上・第三六四―三六六頁 〔大正一五年一〇月―昭和二年一一月〕
○渋沢子爵 ○中略 其中に一橋の御家来中で、悉く名前は覚えて居りませぬけれども、或る小人数の者が幕府の方へ召連れられることになり、今お話した原市之進などゝ云ふ人は第一に其方へ挙げられました。私なども矢張其仲間に這入りました。併し私共は固より位置が低いものですから陸軍奉行支配調役と云ふ役を命ぜられました。何と致しましてもまだお目見以下の位置であつたのです。溝口伊勢守と言はれた人が陸軍奉行で、其支配下に属することになりましたがもう快々として楽まず、何となるか暫く黙つて様子を見る外ないと斯う思つて、時々原市之進には稍々懇意ですから、どうなるものかと云つて聞きに行く位のことで、申さば成行を唯ぢつと眺めて居ると云ふ有様でした。併し職掌は――陸軍奉行の詰所に各軍人関係の人が、歩兵頭、砲兵頭、騎兵頭と云ふやうな人が寄合ひまして、其俗事役をして居りましたものですから、其中に平岡準蔵さんが――平岡さんは其時歩兵頭でした――軍人の方、私等は俗事役。軍事に属する俗事役と云ふものがなければならぬものですから、其俗事役を勤めた。時々斯う云ふ書付を書いて呉れ、斯う云ふことを調べて呉れと言ふやうな訳で、此等の取扱をやるのが私共の役であつた。森新十
 - 第1巻 p.431 -ページ画像 
郎とか云ふ人が其時の組頭で大分幅を利かして居りました。其中に突然と原市之進から仏蘭西行の事を内交渉を受けて大いに喜んだ。それは今申上げた職に就いてから軈て一箇月も過ぎてからです。
 ○下略
   ○右ハ「徳川公爵家御家政に就て」ノ栄一ノ談話ノ一節ナリ。


市河晴子筆記(DK010031k-0003)
第1巻 p.431-434 ページ画像

市河晴子筆記 (市河晴子氏所蔵)
     大沢の話
 都大路もこの頃はとかく血なまぐさい風に吹まくられて、歳暮と云うに夜に入れば店は早々大戸をたてゝ、只一軒蒲焼屋の風流な懸行灯に「まむし」の文字のみ明い、大徳寺へ帰る老僧が香しい匂を浅間しと珠数に払つて通つた後は、人足も絶え、店先きはひつそりと淋しいが、二階座敷は灯も華かに、定めし玉虫色に口紅さした舞妓連れの御客かとのぞいて見れば、大きな相違、正面には渋沢篤太夫、二十七歳の若盛り、悠然として座つてゐる、これに対して新撰組副長として、泣く子もだまる土方歳三、その左右には殺伐の化身の如き面魂の新撰組の腕利き四五人、指二本の巾に開けたさかいきの狭さは、自から心の狭量短気を示し、食ひそらした□《(不明)》いからした肩に当時飛ぶ鳥を落す新撰組の権威をひけらかし、づらりと並んで肱を張る、土方がまづ口を切つて
 「今日貴殿が大沢源治郎を糺弾に向はるゝにつき、御警護を陸軍奉行より命ぜられましたにつき、彼は中々の腕利、かつ種々戒心あるよしも耳にいたしました故、腕に覚えの有る者をすぐつて同道いたしてまゐつた故、はゞかりながら御安心下されたい、只今しのびの者を彼の宿所大徳寺へつかはしてござれば、そのたちもどるまでに捕縛の手筈を御打ち合せ申さうでござらんか」
 渋沢
 「手筈と申す程の事は無用でござらう、拙者が出むいて御奉行の命を伝達いたすまでのこと、成程大沢方では多数の壮士を養うと云う聞き込みもござれば、万一それ等が拙者を遮る様のことでもござつたら、その者どもの始末、御手数ながらよろしく御頼み申します」
 「いや、しかし大沢は自身も中々不敵な侍、事の破れと見て自暴自棄となり、いかなる危害を貴殿の御身辺に加へましようやも計られません、こりやまづ拙者たちが踏み込んで、大沢を縛り上げて後、貴殿が御申し聞けられた方が万全の案かと存じるが」
 「いやそれはなりませぬ、大沢源治郎と申す人は、身柄は御禁裏附番頭の重職にあるもの、しかも御嫌疑の筋は、薩藩と通じて幕府に不軌を企てると云う、重大事とは申しながら確たる証拠は無く、薩藩の論客と懇親にて手紙の往復頻繁と申す程の事でござれば、薩藩の事とさへ云へば、風声鶴唳にも驚く当今の事勢故、どれ程の根柢有る事実なるやも不明でござる、さればこそ御奉行の命令にも、御不審の廉あるにつき、江戸へ護送御吟味有るよしを申し渡せとござる、その際大沢に、もし御吟味の席で曲直を争はうと云う正しい心がござつたら、恭しく御うけいたすでござらう、又理不尽に手向い
 - 第1巻 p.432 -ページ画像 
たさば、余儀なく縄打つてひつたてる、こりや当然の処置、しかしいまだ御不審かゝつたる身とも知らぬ重き身柄の侍を、有無も云はせず縛り上るは義理から申しても正しくござらん、又、情から申すも武士の情にはづれた仕打、渋沢に左様な卑怯なふるまひは出来ませぬ」
この時、左の小鬢に刀創の有る一人がニツタリ笑つて
 一
 「いや一応立派な御説でござるが、彼れは聞えた武芸の達人でござるぞ、手向いたさば何とされる」
 渋沢
 「知れた事を、彼れが暴力を以て切つてかゝらば、渋沢にも腕がござる」
 一
 「しかし、失礼ながら俗事係文筆の御用を主とせられるあなたには……」
 渋沢
 「云はれな、拙者とてちとのたしなみはござる、又、大沢が風聞程の達人でござつて、力及ばざれば斃れるまでのこと、さすれば大沢が不軌を図つたることが分明となり、拙者の職分は完きを得る、方方は、拙者の身体の傷く事のみ懸念されて、拙者の面目のそこなはるゝを顧みられぬ、御好意に似て迷惑いたす」
 一
 「……」
今度は右の一人がひきとつて
 二
 「いや、その面目思へばこそ押してかく申すのでござる、新撰組の我々が護衛してまゐりながら、その御当人が相手に切られてしまつたでは、あなたの面目は立つにしても新撰組の面目がつぶれ申すわ、こりや是非まづ大沢をくゝし上げずばなりますまい、のう、方々」
若い者一同うなづく、渋沢はキツとみやつて
「これはけしからん、今日の御用は拙者が直接の使用を帯び、方々は護衛の職分ではござらぬか、使命は主、護衛は客でござるぞ、然るに護衛の面目を立てる為、使命を正々堂々と果すさまたげして顧られぬとは、こりや全くの主客顛倒、さはどの事が御わかりござらんのか、たゞし又無理と御承知あつて、横車を押さるゝか、さらばこれより陸軍奉行に御同道してこの旨を報告し、警護をつけらるゝ事を御辞退いたし、拙者は単身大沢方へ出向き申す」
渋沢は色をなして立たうとする、新撰組もいきごむ、土方が押止めて
 「まづ静まられい、方々は渋沢氏の御言葉を何と聞かれた、こりや恥を知る武士として御もつともの御説ではござらんか、土方は心服いたした、いや渋沢氏、御胸中拙者は十分了解仕つたによつて、これらの人々に異存は申させません、只大沢の旅宿の玄関までは御同道を許されたい、万一奥の間に剣戟の音でも起らば飛込んで御助勢もいたしたし、そこもとに万一のことのござつた場合は、せめて御
 - 第1巻 p.433 -ページ画像 
亡躯に辱めの及ばざるやう、又下手人を取逃さぬやうの手配もいたさねばなりませんから」
 「いやその分のことなら、こちらからこそ御配慮頼み入ります、先刻からの無礼の言は、使命を思ふ余りと御容赦下されい」
 「何の何の、こちらこそ、とかくこの面々は腕をたのんで血気にまかせて角目立ち、組の頭立つ者に世話を焼かせます、若い者の常と御聞き捨て下されたい、しかしそこもとは御分別の程を拝聴すれば、老成な御人ではござるが、御見うけしたところではまだ御若い、いくつになられますかな」
 「当年、二十七才に相なります」
 「さらば拙者とは大分御下じや」
と、うちとけて盃をあげる、やがて襖を開けて、岡引きが入つて来る
 「エー、只今大沢は旅宿へもどりましてございます」
しからばと人々は身仕度にかゝる、渋沢は目釘をしめす、人々より流れる殺気に感じてか、燭台の火はおびえた様にゆらめく。
 銀砂子の様に星のきらめく寒天をかぎつて、大徳寺の大屋根が漆の様に黒い、本堂の横を抜けて、人々は大沢の宿なる一つの坊へといそいだ、古び切つた小さな玄関には、夜目にもしろく、禁裏御番頭大沢源治郎宿所と書いた白木の札がかゝつてゐる、式台の前で渋沢は土方に
 「しからば、これで」
と、会釈する、新選組は
 「御油断なく」
と、答えて、その辺を警戒する、一人は土方が頤で合図すると、裏の方へ見張りに廻る、渋沢は玄関にかゝつて
 「頼まう」
と、声をかける、声に応じて書生が出てくる
 「陸軍歩兵頭俗事係渋沢篤太夫と申すもの、大沢氏に御面会いたしたい」
 「主人は、もはや床につきましてございますが」
 「いや、御奉行より火急の御用あつてまかり出た、是非とも御面談をと御取り次ぎ下されたい」
 「しからば」
と、引込んでじきに出て来る、
 「こちらへ御通り下さい」
と、案内につれて渋沢は正面襖に入る。
 四辺静寂、薄闇りの中に、只今キチンとぬぎそろへられた雪駄の表の白さのみがくつきり目立つて、主人の安否を一層心配させる、忽ち次の間から、どやどやと書生が四五人、おつ取刀で玄関をのぞく、はり込んで居た新選組ににらまれて、そのまゝ息込む者、止める者じりじりと引込んでしまう、その時裏へ廻つた一人が「ごめんなさいごめんなさい」と云う小者の衿がみをつかんで来る、
 「○○氏、そやつはいかゞいたした」
 「何台所口からあはてゝ飛出してまゐつた故、他所の壮士どもに急
 - 第1巻 p.434 -ページ画像 
をつげにでもまゐるのかと存じ、ひつとらへてまゐつた」
 「いえ、どういたしまして、私は近頃御かゝへの者で、何か存じませんが、只今不意に若い御侍が一人で御見えになつて、こちらの旦那に何かいたけ高に申し聞けられると、強いと云つた旦那が一も二もなく恐れ入りましたと平伏された様子がどうもおかしい、こりや大変、こんなうちに居てかゝり合ひになつてはたまらぬと、逃げ出したばかりでございます、どうぞ御助けを」
これを聞いて人々やゝ安心のところへ、正面襖から渋沢がゆうゆう現れて
 「土方氏、大沢は御申し渡しの趣、神妙に受けられました、ついては大沢の身柄は御辺に御ひき渡しいたす、さし出た申し分ながら、態度殊勝に見うけました、その辺御斟酌あつてよろしくはからはれたい、伊勢守様にもさぞ御まちかねでござろう、拙者はこれより報告の為本能寺へまかりこす、御免下され」
土方はそのまゝ奥へ、人々は表札をはづす等、それぞれ働く中を渋沢はゆうゆうと帰つて行く。

 この話も有名なので、よく書いてあるから、言葉を出来るだけその当時の通りにしておきたいと思つて書いた、それで祖父様もわりに念を入れて、言葉をなほして下さつた、もともと祖父様は他の人の話でも見かけ等にとらはれず、説の精神をのみ御らんになる、そこが大きいところだが、祖父様の昔話も只昔の事だから、話されるのでなく、十分話すに足りる筋だからくりかへし聞かして下さるので、その人物の様子、顔、着物、用語等は、はなはだ概念的な描写しかして下さらない、西郷さんと云へば「大きくてね」だし、アンペラトリスは「きれいでね」だし。
 でもこの当時の言葉は、一番ゴチヤゴチヤであつたそうな、侍ではまあ常の話だと「あなた」「私」で、初対面、上の人に向つた時、議論になると「貴殿」「拙者」であり、「身ども」と云うのはずつと相手を見下した言葉であるそうな、君僕は漢学塾でチヤンカラの意味で早くから使はれてゐた。
 新選組は、組の性質上、土方等も若い人たちを「めしつれて来た」とは云はず、「同道」程度にあしらつてゐたとおつしやつた。
 諸国の侍で強藩の者は、又その国なまりを誇とする時もあつたが、お互ひにわかりにくかつたり、田舎つぺーと見られたくなかつたりするので、御国なまりをかくすには、左様しからばが都合がいゝので、そんな意味からも御芝居流のもの云ひをすることがあつたとお話になる。
 祖父上御召しブツサキ羽織はかまにもすそに黒すぢあり。


渋沢栄一伝稿本 第五章・第一四九―第一五〇頁 〔大正八―一二年〕(DK010031k-0004)
第1巻 p.434-435 ページ画像

渋沢栄一伝稿本 第五章・第一四九―第一五〇頁 〔大正八―一二年〕
徳川慶喜公が一橋家を出でゝ宗家を相続せるは、慶応二年八月二十日の事なるが、此時先生も公に随ひて幕府に入り、九月七日陸軍附調役を命ぜられたれば、始めて将軍家の御家人となれり。 辞令に、「取来候元高に召抱へられ、
 - 第1巻 p.435 -ページ画像 
並の通り御足高を下さる、役金も下さるべし」と見ゆ。 回顧すれば一橋家に仕へてより既に二年有余に及び、職任卑く食禄多からざれども、慶喜公の眷顧を受くること浅からず、殊には平岡円四郎・黒川嘉兵衛・原市之進等の信任する所となり、言行はれ説用ゐられて、兵制・会計の事など、孰れも整理の緒に就けるに今更之を打棄てゝ去るは先生の遺憾とする所なれども、今は已むことを得ず、其専当せる勘定所の事務を後任者に引継ぎ、藩札の始末は斯くすべし、貢米の処分は斯くするこそよけれなど、詳に意見を述べて其人に忠告したり。此時に当り一橋家中の人々は尚旧慣に因循し、慶喜公に召連れられて直参の士たるを喜び合へるに、先生は之と見る所を異にし、幕府の衰亡既に目前に迫れるを見つゝ公の相続せらるゝを不可とし、かゝる有様にては、前途の望も既に絶えたりとまで悲観せるが故に、快々として楽まず、加ふるに一橋家に在りし頃には、屡々公にも拝謁したれども、公は征夷大将軍といふ武家の棟梁におはし、自身は幕府に入りてより却て御目見以下の卑職に列せられたれば、今は其事も協はず地位の懸隔殊に甚しく原市之進などに会見するさへ隔てある様に思はれたれば、心中ますます面白からず、寧ろ断然食禄を辞し、再び浪人となりて自由に国事に奔走せんと、玆に漸く其志を決したるが、末だ断行せざるに先だち、思ひもかけぬ海外渡航の台命に接して、先生の前途は忽ち一展開するに至れり。