デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.6.13

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

2章 幕府仕官時代
■綱文

第1巻 p.435-436(DK010032k) ページ画像

慶応二年丙寅秋(?)(1866年)

将軍慶喜ノ命ニ依リ市川斎宮ニ就キ電信ノ技ヲ伝習ス。


■資料

西周伝 (森鴎外著) 鴎外全集 第七巻・第一六四頁〔大正一二年四月〕(DK010032k-0001)
第1巻 p.435 ページ画像

 西周伝(森鷗外著) 鴎外全集 第七巻・第一六四頁〔大正一二年四月〕
○上略 九月十九日 ○慶応二年 官周及び真道 ○津田 をして京師に往かしむ。是より先き家茂大阪に在りて軍に薨ず。勅ありて慶喜宗家を紹ぎ、留まりて京師旧の酒井邸に居る。 ○中略 二十五日周真道と京師に至る。東町奉行組屋敷なる栗山荘蔵の家に居る。川上万之丞先づ在るを以て、周等と三人をなす。 ○中略 未だ幾ならずして、斎宮 ○市川斎宮 も亦召されて江戸より至り、組屋敷に入る。周その太だ狭隘なるを嫌ひ、真道斎宮と倶に、上京黒門通中立売下る榎木町柳屋甚七の家に移る。当時幕府の召す所は、多く技芸の士なり。道博 ○浅井道博 、久孝 ○黒田久孝 は測地を以てし、万之丞は製図を以てし、斎宮は電信機を以てす。〔斎宮の至るや、慶喜二たび引見して、その齎す所の器具を試みしめ、又渋沢栄一をして其技を伝習せしむ。斎宮は歳暮を待たずして江戸に還りぬ。〕




〔参考〕徳川慶喜公伝 (渋沢栄一著) 四・第五〇〇―五〇一頁 〔大正六年四月〕(DK010032k-0002)
第1巻 p.435-436 ページ画像

徳川慶喜公伝 (渋沢栄一著) 四・第五〇〇―五〇一頁 〔大正六年四月〕
○上略 公は常に賢才を思ふの念深くましましければ、文久元年の頃、儒者大橋順蔵 正順訥庵 を召抱へんとて、近習山木繁三郎が其門人なるを以て内意を申通じたるに、順蔵辞退しければ巳みぬ。 下野烈士伝所収岡田裕書翰 同二年後見職となり給ひて後、松平春岳の賓師横井平四郎 時存小楠 を引見し、其
 - 第1巻 p.436 -ページ画像 
議論の卓越せるに感じ、幕府に挙用し給はんの志なりしに、平四郎固く辞しければ、其事行はれざりき。 第九章参照。 禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮の頃には、佐久間修理 啓象山 が、幕府の海陸御備向掛手附雇として京都にありしを、引見して時務を問ひ、象山も其知遇に感じ、屡上書して政務を論じたるが、幾ならずして横死せしことは、上に記す所の如し。又見廻組の為に京都に学問所を起して文武館と名づけられ、慶応二年六月儒者岩垣英太郎に学問所雇を命じ、其助教に任じ給へり。一橋家日記。将軍職を継がせ給ひて後は、嚮に和蘭より帰朝せし西周助 周 、津田真一郎 真道 を京都に召し給ひ、周助には、仏蘭西語を学び、又代議政体なぞの事をも問はせ給ひしが、尋で二人を目付に登用し、 慶応三年十二月の事なり。○西周伝。柳営補任 明治元年正月には、加藤弘蔵 弘之 を開成所教授職並より目付に登用し給へり。 柳営補任 此外川上万之亟は製図を以て、浅井道博・黒田久孝は測地の事を以て、市川斎宮は電信機の事を以て、孰れも大阪に召されたることあり、 西周伝。 又薩藩士折田要蔵 年秀 が築城術に通ずる由を聞召し、其技能あらば、召抱へて摂海防禦の事に任ぜしめんと、著者をして試に之に従遊せしめられしことも亦上に記す所なり。凡そ斯く新しき技芸についても道々の人を召致せられしは、公が新文明に留意し給へる御志の厚きを窺ふに足らん。 ○下略
   ○栄一初メテ慶喜公ニ謁セシトキ公ノ書斎に写真掲ゲラレアルヲ見テ、公ノ洋癖を不快ニ感ジタル旨ノ談話ハ、元治元年二月八日ノ条ニアリ。


〔参考〕逓信事業史 第三巻・第七四頁 〔昭和一五年一二月〕(DK010032k-0003)
第1巻 p.436 ページ画像

逓信事業史 第三巻・第七四頁 〔昭和一五年一二月〕
一八六〇年(万延元年)七月普魯西国と修好通商条約及貿易章程を締結したところ、同国から贈物として電信機が献上された。当時蕃書取調所教授たりし市川斎宮氏(後の市川兼恭氏)と加藤弘蔵(後の加藤弘之博士当時二十五才)とは、其の電信機の使用法の伝授を受くることゝなり、普魯西国使臣の宿泊所たる赤羽の旅舘に通つて、此の機械の使用法を習得した。これが機縁となって邦人が独逸語を学ぶ濫觴をなしたと云ふことである。