デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.6.13

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

2章 幕府仕官時代
■綱文

第1巻 p.531-537(DK010041k) ページ画像

慶応三年丁卯八月六日(1867年)

徳川昭武、大博覧会ノコト既ニ畢ルヲ以テ締盟各国ヲ歴訪シテ親睦ヲ敦クセンガ為、是日巴里ヲ発シ先ヅ瑞西ニ向フ。栄一モ亦之ニ随フ。発スルニ
 - 第1巻 p.532 -ページ画像 
先ダチ随行員ノ員数ニ付外国掛ト昭武従者トノ間ニ紛争アリシモ、栄一之ヲ調停ス。翌七日ベルンニ抵ル。


■資料

航西日記 巻之五・第四―六丁 〔明治四年〕(DK010041k-0001)
第1巻 p.532 ページ画像

航西日記 巻之五・第四―六丁 〔明治四年〕
同 ○慶応三年八月 五日 西洋九月二日 晴。明日ハ巡国出軔とて。各旅装繁忙なるに。御国の使者此地へ至るよし。蘇士《スエス》より電線の知せあり
八月六日 西洋九月三日 晴。各陪従の人々旅装も整ぬれハ。朝六時滊車にて。仏都を発し。午前十一時半トロワといふ所にて午飯し
 此トロワは。仏国九十有余郡中の一なるシヤンパンギユといふ部郡内の一村落なり。シヤンパンギユ郡ハ葡萄名産の地にて。醇酒醸造の家居も多く就中シヤンパン酒を第一とす。蓋し其郡名を其儘酒名に用ゆるならん。此日午餐に一嚼を試みしに。果して。他の産に。優ること数等にして。其名空しからす
夕八時。瑞西国バールといふ所に抵り。三王《トロワロワ》といへる客舎に宿りぬ
 此旅舎有名のランヌといふ大河に臨みて。河水欄下を侵し。夜景殊に清く暑熱を滌き。聊旅疲を慰せり
暫時ありて、此地の鎮台来訪せり
同七日 西洋九月四日 晴。朝八時鎮台の嚮導にて説法所並織物細工所等を見るに陪す
 此織物細工所ハ格別広大ならされとも都て婦人の首飾又ハ頭上覆面等に用ゆる極て緻密《ちみつ》なる絹紗なと製する所なり又別に麻を紡績《はうせき》して織物を製す恰も本邦五仙平の如くしし《(にカ)》て更に精巧なり
午後一時半。国都ベルンへ抵り。ベル子ルホフと云。旅舎へ宿ぬ。大統領の令に因て仕官来候せり


渋沢栄一 御用日記(DK010041k-0002)
第1巻 p.532-533 ページ画像

渋沢栄一 御用日記
慶応三年丁卯八月我 民部大輔殿兼而
大君殿下之親命被為在仏国博覧会之挙被為済し上は、御条約済同盟の各国御巡歴御訊問被為遊ニ付、既に其期に至りぬるとて法国に在留せる各国公使へも御巡国の手筈御談および御支度も相調ぬれは、八月五日法国御出発、瑞西国より荷蘭・孛漏生・白耳義等御巡歴之積八月六日巴里御旅館御発と治定いたす
 八月六日 晴極暑                九月三日
朝六時御旅館御発、馬車ニ而当地なる滊車会所シメンデヘールレイストといふ会所ニ而蒸気車御乗組、七時発軔、昼十一時シヤンパンユのトロワといふ処にて御昼食 シヤンパンユは法国の一部郡ニ而、シヤンパンの酒の名所なり、本地の産によりシヤンパンの名ありといふ、此日御昼食に右の名酒を饗せしか其味地方の産に超ること数等なりし 夕八時瑞西国パールといふ地御着、トロワロワといふ客舎え御投宿、此日は酷暑にて車中炎熱難堪、殆旅苦を覚ゆ、剰夏日の長きを終日車中に消したれは、公子始一同疲労いたす、御投宿後ハ夕涼にて殊ニ客楼は本地有名なるランヌといふ欧洲第一の大河に臨せしかば、欄頭の夜景いと清涼にて一同快然の想をなす。御着後直ニ本地の鎮台客舎ニ来り、御安着を祝す
 - 第1巻 p.533 -ページ画像 
八月七日 晴 熱昨日と同じ            九月四日
朝八時半昨日の鎮台御案内申上、本地説法所并織物細工所御遊覧、十時頃御帰宿、夫より御出発、蒸気車会所ニ而滊車御乗組、昼一時半過国都ベルン御到着、ベルネルホフといふ客舎御投宿、御着後直ニ大統領の命なりとて壱人の書記官罷出、大統領御逢の手続御問合申上る、因て明日御逢之積申答遣す、夜餐後御口上振其外手筈取調る、此夜当地御安着の旨電信にて巴里え申遣す
      各国御巡歴御供名面
                   向山隼人正
                   山高石見守
                   保科俊太郎
                   高松凌雲
                   田辺太一
                   箕作貞一郎
                   山内文次郎
                   渋沢篤太夫
                   菊地平八郎
                   井坂泉太郎
                   加治権三郎
                   三輪端蔵
外ニ兼而御雇の通御弁用としてシーボルトをも被召連
               都合拾三人
                    道中取扱方
                      キース
                    御旅舘小遣
                      アンリー
                      綱吉
                    隼人正家来
                    石見守家来
                      壱人宛
               都合一行弐拾人となりぬ


雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之三・第二四―二九丁 〔明治二〇年〕(DK010041k-0003)
第1巻 p.533-535 ページ画像

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之三・第二四―二九丁 〔明治二〇年〕
○上略 偖て博覧会の礼典が済んだ後は、公子が欧羅巴各国を巡回するといふことは、兼て手筈になつて居たが、先づ第一に瑞西・和蘭・白耳義を巡り、次で伊太利それから英吉利に往き、事によつたら独乙・露西亜へも巡らうという見込であつたが、是は第二段にして、当年の巡回は、瑞西から和蘭・白耳義を経て、一旦仏国へ帰つて、更に伊太利・英吉利に往くといふことに定つて、八月初旬に愈瑞西に往かふといふ時になつてから、公子随従の事に付て、外国掛の幕吏と公子御付の人人との間に一つの葛藤が生じた、其訳といふは、此の度公子の巡回には外国奉行も御伝役も、其外共に随従するといふ日には、大層同勢が多くなるといふ一事であつた、全体外国では貴人の旅行にても、甚だ少人数にして、万事簡便を貴ぶ風習であるから、斯く趨従《ともまはり》の多いのは、目に立つて宜くない、殊に公子はまだ幼年の小供であるのに、七人も八人も趨従を具して歩行くのは無用である、まして其同勢が悉く大髷に結ひ込んで、さうして姫路革の引き膚の附いた、長い刀を差して出るから、外国人から見ると、誠に異形な出で立ちで、体裁が悪い
 - 第1巻 p.534 -ページ画像 
といふので、御伝役の高山から趨従の人員を減少しやうといつて、其事を御供の小姓頭取の菊地へ示すと、井阪・加地・服部などいふ人々が怒り出して、是れはドウモ恠しからぬ事を仰つしやる、我々が公子の御供をして仏国へ来たのは、外夷の言語を学んで、其真似をする為めではない、恐多くも将軍家の思召で、公子を遣はすから、其供をしていつて、各国の国状を観て来いといふ御沙汰であるから、何処までも御供をして、国々の状態を観るのが、眼目である、然るに仏国に止つて学問をせよ抔とは、甚以て奇怪千万な事、そんな訳なら我々は初から来やせぬのだ、果して左様の事であるならば、民部公子は一歩たりとも動かすことは出来ませぬと、一言の下に跳ね付けられた、処が外国のことではあり、殊には外国奉行だとて、御伝役だとて、扈従の人を罷免することは出来ない、好し罷免したからといつて、其命を奉ずる様子もないによつて、山高も大きに困却して、夫れから向山・田辺・杉浦などゝ相会して、額を蹙めて相談をして見たが、偖て妙案も出ない、終に渋沢といふので、自分へ此の相談が及んで来ました、其頃は公子及外国奉行其外共に、前のグランドホテルを引払はれて、アルクデトリヨンフと称する凱旋門の側らにある露西亜人の所持する一家屋を借り入れて、これに家具其外備付品などを買入れて、室内の装飾を施して、公子始め一同引移りをした後であつたが、自分は前の相談を受て、直に外国奉行の詰所へいつて、会合の人々から其手続きを聞取つて、偖て答ふるには、是は容易に処置する方法があります、既に彼等が随従をさせんければ、帰朝するといつたのは、至極都合のよい話しである、速に山高氏から御伝役の職権を以て、彼等に帰国を御申附なさるが宜しからうと考ます、(山)成程、さうすれば一も二もなく片が付くが、併し左様な事を申出したらどんなことをするかもしれないからウカとは出来ぬ、(渋)若し乱暴を働いたら取押へるまでの事ではありませんか、腕力を以て奉行や御伝役に害を加へるといふ様な事があつたならば、尚更帰朝を命ずる上に於て、其名義が充分に立ちませう、且帰朝を命ぜられた以上は、私が彼等を同行して、日本まで送り帰すことを引受けますが、併し奉行御伝役には公子の趨従を凡そ何人まで許しますか。(奉)三人は連れてゆかふと思つて居るのだ、(渋)ソンナラ左程面倒にせずとも、屹度相談が纒まらうと考ます、若し如何しても不承知を言ふなら、其時は容赦なく直に帰朝を命ずるが好いでせう、(奉)成程足下に何か妙案があるなら、一ツ心配をして、成丈ケ無事に承諾するやうに相談を頼む、(渋)如何にも承知しましたと其事を請合つて其晩直ぐに菊地・井阪等の部屋にいつて、偖て今度公子が御巡回に付て、外国奉行や御伝役から、各方一同御供になるのは第一体裁も宜しくなし、又経費も無駄にかゝるから、手代りに少々ヅヽの人数が出て、跡は此の処で留学するが好いと、談示をした処が各方は不承知であつたさうなが、到底一同の御供でなければならぬと思はれるのであるかと尋てみると、加地と云ふ人が返答していふには全体怪しからんことで、実に奉行始めの処置が其意を得ぬ、足下も知らるゝ通り、民部公子には我々水戸を出掛けて以来、始終扈従して守り立つて居る、それでこそ擢んでられて外国までも随従して来たので
 - 第1巻 p.535 -ページ画像 
あるのに、夫れを此の地に来てから、留学の為めに仏国に留つて居て必要の御巡回には、却て御供は二人で沢山だなどとは、余りといへば心無い訳だ、又経費の事をどうかうといふが、成程我々が附て往けば経費は幾分か掛るかも知れぬが、ソンナに経費を惜むなら、万端何事も其通りにすれば好い、然る処自分等のする事には、詰らぬ事にも人を遣つたり、せんでも好い贅沢をして居りながら、其事は棚に上げて置て、却て我々に丈ケ倹約を主張するといふのは、実に我々を軽蔑するのであるから、ソンナ命令には何処までも服従することは出来ません、(渋)成程、聞てみれば御尤なことであるが、併し凡そ事を取扱ふには、何事によらず主権者といふがあることで、其主権者が物の程合加減を考案して、斯くなくてはならぬとか、斯くせよとかいふ命令に従はぬときには、所詮其事の要領は得られぬ道理でありませう、今此の処で各方がいくら不承知を唱へて見た処が、到底仕方のない訳ではないか、又何処までも御附き申さうといはれるのも、御情合から見ればさることではあるけれども、全体外国の風習では、大勢の供連れは甚だ不体裁で、何国の帝王でも大勢の供廻りを連れ歩行くことは決してない、然らば此の度公子の扈従を二人に減ずるといふ奉行の考案も所謂郷に入つては郷に従ふの趣意で強ち無理とも思はれない、然るを各方に於て、強て一同の御随行を主張して、其職に居る人の命令に従はぬと決心しられた以上は、帰朝するより外に仕方が無からう、(加)ソレダから已むを得ず帰国をさして呉れといひ立つたのだ、(渋)イヤ既に其事は聞いた、愈よ帰朝と御一決の上は、自分が御同行申して帰らうと思ふ、(加)ソンナラ外国奉行に足下から話しをして下さい、(渋)宜しい、奉行が其通りに命ずるなら、御同行で帰国しませう、各方も自分の心に快しとせぬことに、強て服従することは出来まいなどと談判の中に、菊地が傍から遮つていふには、今日となつて徒らに帰国するのは残念千万である、(渋)帰国が残念なれば、命令に従ふより外に仕方は有まい、(菊)けれども奉行のいふことが無理だから、(渋)ソレハ各方が分らぬといふものだ、奉行のいふことが果して無理ならば、従はずに帰国するとか、或は帰国は残念だから命令に従ふとか、結局二者の中、一に此に居れで、敢て彼是拘泥するには及ばない事でありませう、(菊)ソレじや仕方が無いから、申合せて三人残つて跡は帰らうか、(渋)それは至極妙案であるから、速に其相談を遂げて、帰る人と残る人とを御定めなさいと、勧告して見たが、なかなか相談が纒らぬから、又語を継で、然らは三人ヅヽ御供をするとして、是から瑞西・和蘭・白耳義で一回、次に伊太利、其次に英吉利と、順次に随行の交代をするといふことにしたならば大抵各方の望みも足る訳、又奉行の方も三人ヅヽなら許諾するであらうと思ふ、さすれば各方も帰朝するには及ばないから、斯う極められたら如何じやといつたれば、一同も漸く同意して、始めて相談が行届いたから、其趣を遂一奉行御伝役へも申通じて、其承諾を得、無事に此の葛藤が解けました、


昔夢会筆記 中巻・第四一―四三頁〔大正四年四月〕(DK010041k-0004)
第1巻 p.535-537 ページ画像

昔夢会筆記 中巻・第四一―四三頁〔大正四年四月〕
 - 第1巻 p.536 -ページ画像 
○上略
○渋沢 ○中略 それから参つて、まだ博覧会の手続中は御祭礼中のやうでございましたから、内輪にも別に物儀もなくて済みましたけれども、博覧会が済みまして、八月頃から各国を公子が廻らなければならぬといふことになりますと、そこで外国方の人々と、御附と称へる水戸から参つた七人の人々との間に、強い確執が起りました、其前から時時小衝突はあつて、公子の供連の相談がございますと、御附の人の希望は、外国方ではそんな馬鹿なことは出来ぬ、一方は又そんな指図に服従して堪るものかといふやうな訳で、水戸連中は頻に国粋主義を主張して、さういふことを遣られては困ると言うて小言を言ふ……これは今度の米国旅行などには其やうなことはありませなんだが、いつでもあることで、一体外国人が勝手次第に日本の風習に背いたことをさせるのは不都合だ、日本人として来てからに、さう国の習慣に背いたことに服従して堪るものかと言うて力む、時に或は公子は此御席に御附の人はこゝへといふ場合に、ボーイなどが珈琲を持つて来た時に、必ず御取次でなければ珈琲を上げるといふことは出来ない、すぐさまボーイが上げれば、ボーイを呼んで、なぜ珈琲を上げたと言うて小言を言ふといふやうな有様で、ちよつとしたことにも苦情は常にある、まさかに喧嘩はしませなんだが……、とうとう各国御巡廻中は御供連を減ずるといふ議論になつて大衝突を起した、尤も井阪泉太郎・梶権三郎などゝいふ人は、なかなかの鯁骨男子で、我々こゝへ来たのは本国寺を代表して来たのだ、さういふことを言はれては、我々の面目に関はるから、刀に掛けても承知しない……、大騒動で大に弱りました、私は中間に居るので、井阪だの梶などからは、到底命令に服従が出来ぬと言うて小言を言はれる、外国方からはあの頑固連には困るといふ苦情が出る、拠なしに、とうとう二人だけ置いて皆帰さうといふ評議になりました、水戸の連中の言ふには、そんなことなら我々は一同に帰る……、これは少し意地悪く言ふ詞で、よも帰しはしまい……、といふのは、公子は極御幼少から此人々が御附き申して、百事御世話をして居たから、若しも一同に帰るといふと、第一公子が御機嫌が悪い甚しきは涙ぐむといふやうな御様子であるから、愈帰るといふことになつたら、第一に御本尊様が共に帰ると仰しやるに相違ない、さうすると目的が無くなつてしまふのだからといふことを考へて、帰る帰ると言うて威張る、それでどうしたら宜からうかといふ評議になり、私も中間に立つて弱りましたが、拠ないから帰さう、公子の御供に連れないから承知しない、一人でいかぬ二人でいかぬといふのは、御附き申す人の方が間違つて居る、外国奉行の方が尤もだから、其詞に服従せぬならば、もはや切つて離す外なからう、唯帰すといふ訳にはいかぬから私が帰る、一同を連れて帰るといふことに極めまして、それから私が双方の間の使者を再三勤めまして……、最初には何でも五人連れろといふのを、二人は連れやうといふやうなことで、そればかりではない、此事も気に入らぬ、あの事も気に入らぬといふやうなことで種々押問答の末とうとう帰すといふことになつて、私が連れて帰ると決定しました、すると御附の方の連中も、一方がさう覚悟をすると…
 - 第1巻 p.537 -ページ画像 
…、其前に山高とも相談をして、公子も一諸に帰ると仰しやり出すと困るから、帰しても宜しいと仰しやらなくては困る、それさへあれば私が連れて帰るといふことに極めました処が、こつちでさう確定しますと、つまり向ふが折れまして、いやそれなら已むを得ぬから二人でも宜しい、其代り交代して、丁度三度の御旅行で一同に廻るからといふので、漸く折合がつきましたが、此瑞西へ御立の前の騒動といふものは、なかなかの混雑でございました、今でも其困難のことを記憶して居ります、それでつまり外国奉行の説に服従することになりました


徳川昭武滞欧記録 第一・第二九三頁〔昭和七年二月〕(DK010041k-0005)
第1巻 p.537 ページ画像

徳川昭武滞欧記録 第一・第二九三頁〔昭和七年二月〕
     三 民部大輔一行瑞西へ出立の件、向山隼人正より仏国外務大臣へ報告書
  丁卯八月五日
               仏国外国事務大臣
               ヱキセランス
                     マルキームスチエ
以書簡致啓上候、然は我公子徳川民部大輔殿、明六日当地出立、瑞西江御越、夫より条約済各国尋問被致候に付而は、拙者并山高石見守其他士官附従いたし候、右御報告旁暫時離別之懐を申述度如斯候
                          拝具謹言
  慶応三年丁卯八月五日        向山隼人正 花押


(日比野清作) 各国江公使御巡行御留守中日記(DK010041k-0006)
第1巻 p.537 ページ画像

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