デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.6.13

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

2章 幕府仕官時代
■綱文

第1巻 p.537-542(DK010042k) ページ画像

慶応三年丁卯八月八日(1867年)

徳川昭武、瑞西国ベルンニ於テ同国大統領ニ謁ス。居ルコト数日、栄一モ亦、観兵式・武器庫・時計工場・電信機製造所等ヲ観覧スルニ陪ス。


■資料

航西日記 第五巻・第六―一一丁 〔明治四年〕(DK010042k-0001)
第1巻 p.537-539 ページ画像

航西日記 第五巻・第六―一一丁 〔明治四年〕
同 ○慶応三年八月 八日 西洋九月五日 雨。此地。四方巒《やま》多して。常に雲靄掩毎朝《うんあいおふひ》《モヤ》。日出三竿の後。漸消散《やうやく》すと云。此日ハ。大統領。面謁の事兼て打合ありて。午時十一時。迎の車駕四輌。客舎に来る。一行礼服にて陪従し。本地の。議政堂へ赴て。謁見の式あり。大統領副統領。其他の貴官打揃ふて面謁し。互に両国懇親の祝詞を述ふ。式畢て後大統領の居宅を訊問す。夕五時大統領より。楽師八十人許。客舎へ帰りて楽を奏せり
  此楽調。陸軍行進の節。用ゆるものにして。舞踏歌曲なとに用ゆ
 - 第1巻 p.538 -ページ画像 
るものと異り。最勇壮にして。頗る古雅なるを覚ふ。都下の士民。異邦の人を見。奏楽を聞むとて。客舎前に群集せり
同九日 西洋九月六日 晴。朝五時半。軍事総督の嚮導にて。ツーンといふベルンより十里余隔たる所にて。点火調兵を観るに陪せり。調練の人数。歩兵四レジメント 一レジメント七百人余。大砲二坐 一座八門。騎兵二中隊 中隊三十六騎 撤兵二中隊 中隊六十人許。整頓行軍の駈引より。攻撃襲討《かうげきしうとう》《セメウチオソヒウツ》の挙動あり。其指揮周旋。綿密にして尤自在なり
  此調兵。都て農兵にて。僅一ケ月程の調練にして整へりといふ。国内の調兵の法ハ。農に取りて。農時を妨げず。其約を緩にして其能を尽さしむるを。政体の要とす。故に小国といへとも。挙国二十万の。臨時。護国兵あり。其法。簡易。軽便にて。少しく粛整を欠《かく》と雖ども。其勇敢なる却つて。他の月督日課の兵に優《まさ》るといふ
調兵畢りて。好景楼《ベルビユ》といへる客舎へ嚮導ありて饗応せり 此時調兵に出し役々士官。十三人許出て。侍食す。午後。舟にて遡回《サカノボル》し。此地有名の豪富。バロン某の居宅を見る 此居宅。ツーン湖の涯に瀕して。建築せり 楼上湖水を臨み。湖の周囲。凡十里余。水碧。砂白四囲山巒。蒼々として黛眉《たいび》《アラキマユ》を列し。ヨングフロウといふ。山 ヨングフロウとは。未通女の義にして。此山。峻峯。高く聳へて。人のいまた登り得ざる意をいふとぞ 白雲高く擎け。積雪不断ありて。銀《しろがね》のことく。天際に突立し。其直径一里余《サシワタシ》もあるへく。我邦の富士よりも少し優りて高からむと思はる。諸山。裙辺《くんへん》《スソノアタリ》に連り。恰も緑児《ろくじ》《ミトリコ》の白頭翁を慕ふに似たり。瑞西中の最佳勝なりといふ。宅の主人杖によりて。老病を扶《たす》け迎送《けいそう》《ムカヘオクリ》をなして敬礼を尽せり。頗る非凡《ひぼん》《ソネナラヌ》の体相《ていさう》《ヨウダイ》ありて最殊勝《いと》に見ゆ。帰路又立寄り茶なと喫《き》し。猶繰黌《さうかう》《ケイコバ》に至り。大砲。町打。地雷火の試業等《しきやう》《コヽロミ》を見る。夕五時滊車にて帰る
同十日 西洋九月七日 晴。午後一時。ベルンの武器蔵に至り。大砲。小銃其外数多の。兵器の新発明精巧なるものを見る。軍務宰相始終嚮導し。荷蘭コンシユルセネラールも亦来り陪せり。夫より飼熊を看る
  此地古来よりの風習にて熊を畏る。戸々其形を作りて。邪気を避る符とす。都府の西北に大なる囲を作り。二つの大熊を養畜す。往来の人餌を与ふるにパン果子の外を禁す。千八百六十一年三月三日夜。英国の甲必丹一人過《カピタン》《あやまち》て。其囲中に陥り此熊と闘《たゝか》ひしが。終に熊の為に裂かれたりといふ。此地ベルンといふも。独逸語にて。熊のことなりとぞ
夕五時帰て。旅舎の向ふなる山の晩景を見んとて人々陪して。行々険《けん》を攀《よづる》。凡十五町許にして。巓《いたゞき》に達す。時に落暉《らくき》《ユウヒ》なを諸峰に駐《とゝま》り。ベルン街衢も。眼下に簇《むらが》り。人馬の行通《ゆきか》ふ様なと風情あり。少焉して月出て烟霏揺曳し眺望最佳なり。同七時半下り帰る
同十一日 西洋九月八日 晴。此日。士官。の嚮導にて。此国有名の時計を製造する。日内瓦《ジユネイ》といえる所に抵り、其技を見《みる》。人々多く陪し。午前十時滊車にて。湖の滸《ほとり》なるベヾイといえる市街に抵り。滊船に乗り午後三時出帆す
  此湖ラアツクデシユネイブと云。長十里余幅二三里水波渺茫として。蒼海に異ならす。周囲ハ群山繞環して。処々村落も見へ。瀑布泉なと数条を懸り。恰も園丁の意匠に出たるか如し。湖上瑞西
 - 第1巻 p.539 -ページ画像 
第一の高山モンブラン 白山という意なり を望む。白雪堆く。夕陽に映し。尤壮観なり
凡八九里にして。夕七時頃ジユネイブへ抵り。メイトロボールといふ客舎に宿る
  此地ハ。湖の西南に傍ひて。頗る繁盛の地なり。湖の末流街衢を中截し広大の鉄橋を架し。往来自由ならしむ。其側に小島ありて樹々蔚然として納涼に宜しく。総て家居富饒人品も卑《いやし》からす。処々に時辰機製造所あり。時計は。欧洲第一にして。瑞西人自称して小巴里と云とぞ。
本日は大統領も所用ありて此地に来り。且伊太里国の故ゼネラールガルバルジー。嘗て羅馬帝を廃し。宗門閥閲の故習を除き。全欧洲をして。共和政治たらしむるの議を主張し。此時同志糾合中。先此国に来り同盟を催促すとて。此日到着せしかバ。闔街最混雑せり。
同十二日 西洋九月九日 晴。午前十時より。時辰機製造所を見るに陪し。夫より金工所等を見る。此地の富豪バロンロウチーユルといふ者来りて。招待せんと乞ふ夕五時陪従す。家宅は本地より二里許隔り郊外にて庭園も広く。奇珍古雅の器物多く蓄へり
同十三日 西洋九月十日 雨。今日はベルンへ帰るとて。朝六時滊車にて発し。午前十一時半ヌーシヤテルといふ市街に抵る。此地ハ。電線工夫の根本にて。近来猶新発明の字面摺出しの工夫出来せしよし。故のミニストル嚮導にて。是を見る。いかにも。精妙奇巧。言語の及ハさる所なり。夫より鳥獣の真形。数多集置所。的打銃砲稽古場。天文台。観月楼なとを見て。夕六時滊車に乗夜九時《のり》。ベルンへ帰る。此夜靄山御国の使者附属等を導き。公使に公用ありて。此地に到着すとてそれそれの公書を出し。くさくさの物。其他各家書なともて届来る。且議すべき公事多けれバ。深夜まて打寄相語《かたら》へり
同十四日 西洋九月十一日 霽。朝。白耳義国より使者来り九月廿五日より同廿八日まで。本国の祭日により。其節来訪ありたきよし。招待書を出せり
同十五日 西洋九月十二日 晴。明日ハ当地を発し。荷蘭国巡回の積なれハ。大統領へも達し。此地に在留の。其公使へも其由を書遣し。夫々従行の人々引分れ。半ハ従行し。半ハ仏都に帰ることを取究《とりきはめ》ぬ。午後一時。靄山外三人ハ。急遽の公事に由《より》。帰朝すとて巴里斯《パリス》へ向き出発す。夕六時大統領より夜餐の招請ありて一同陪従す


渋沢栄一 御用日記(DK010042k-0002)
第1巻 p.539-542 ページ画像

渋沢栄一 御用日記 (渋沢子爵家所蔵)
 八月八日 ○慶応三年八月 雨夕晴        九月五日
朝来雨甚しく、殊に本地は山壑多けれは、雲靄ニ而四望分ちかたし、客楼は水浜にて眺望に佳なれは、雨中の風煙も、更に興を添を覚ゆ、此日は第十一時頃、御迎馬車四輌当日諸事取扱として、第一等書記官罷出、御都合相伺直様御出向ニ而、議事堂江御越 議政堂は御旅館に隣りて乍雨中御路次は便なりし 此日御逢ありしは、大統領副統領其外重任之役々四人都合六人なり、御着席後御口上振御演述、山内文次郎仏文に訳し申述る、大統領よりも御答詞申上、暫時御閑談ニ而御帰館 此日御逢の手続は別に手続書に委しく記したれは此に略す 夕五時、公子隼人正石見守御供大統領の宅御尋問のところ不在ニ而御
 - 第1巻 p.540 -ページ画像 
面会なし隼人正、田辺太一此日御逢ありし役々の居宅江為挨拶罷越す、此夕大統領より楽師八十人御着、御祝として御旅館江差出し、奏楽を呈す、楽後一同江シヤンパンを被下
闔衢の人民御旅館の前庭に群集せり
 八月九日 晴 朝大霧               九月六日
此日はツンヌといふベルンより十里余隔たる地ニ而点火の調兵あるニ付御覧の儀昨日大統領より申上ぬれは朝五時半より御支度、軍事総督御案内、御附添一同御供にて六時蒸気車発軔、七時半頃ツーン御着、直ニ調兵場江御越、公子は御馬ニ被召、石見守及為通弁シーボルト御供、其余は馬車ニ而御供、此日調兵せし人数は歩兵四レジメンド 壱レジメンド七百人程 大砲弐座 一座八門 騎兵二中隊 中隊三十六疋 撒兵弐中隊 中隊六十人 なり、整頓行軍の駈引より攻撃襲討の挙動迄、其指揮綿密にして然も着実なり、此兵士は総而農兵ニ而僅一月半の調練ニ而如此熟達せしといふ、国内調兵之法総而農に取りて農事を害せさる様其約束を緩にし、人々能其能を尽さしむるを政態の要領とす、故に即今挙国二百万の兵士あり、其法簡易軽便ニて整粛ならさる様なれとも、他邦月督日課の兵に恥すといふ調兵終て後本客舎江御案内、午餐御饗応申上る、 此日調兵に預りし役々七八人罷出て御相伴いたす 午飯後本地有名の豪富者居宅御覧 右居宅はツンヌ湖の涯に瀕して建築せり 楼上の眺望尤絶佳なり、湖水は周囲十里程もあるへく、水清く波浪静かに四囲蒼山鬱々として黛を臨し翠を流ふ、尤絶奇なるはヨングフロウといふ山 いまた開墾せざる処野女といふ意 積雪如銀雲際に突兀し、連山の翠に相映し其猊却て白髪羽化の老仙多少の群児を擁坐せしことし、瑞西は欧洲中山河の光景に富みし地にして本地は瑞西中の風色の尤なりといへは此風景をもて欧洲第一といはんも亦不可なるへからす、佳景御一覧後、湖水流末の一小亭ニ而御休息、再ひ調兵場御越、大砲の丁打御覧、夕五時より滊車御乗組六時半御帰館
 八月十日 晴                   九月七日
此日ベルンなる武器蓄蔵所御覧に入るとて、昼頃より書記官御案内、隼人正石見守・高松凌雲・山内文次郎・渋沢篤太夫外御雇之者両人シーボルト御供にて一時頃より御発、大砲小銃其外数多の兵器尤新発明ニ而精巧なるを逐一御覧。夫より本地ニ而由緒ある飼熊を御一覧 本地は従前の風習にて古来より熊を貴ひ。戸々熊の形を作りてこれを祭る、本地の西北にいと大きなる囲を作り置て、二ツの大熊を養ふ、従来の人食物を与るにパン菓子の外は与ふるを許さすといふ、千八百六十一年三月三日の夜、英国壱人の甲必丹誤りて其囲に落、囲中の尤巨大なる熊と大に角觝し、遂に其熊に裂れ死せしといふ、本地のベルンと称するも独逸語ニ而熊といふの意なりといふ 夫より御帰舘、五時頃御旅舘向なる小山ニ而落日之晩眺御覧あるとて書記官御案内、隼人正石見守・田辺太一・渋沢篤太夫御雇両人シーボルト御供ニ而御越、行程過半より道路いと嶮なれば公子始一同車を下り歩行にて攀躋、凡十五丁程ニ而嶺なる一の茶肆に至る、折しも落日の山に沈せんとする処なれは夕陽万木を映射し、光尤清絶なり、俯して見ればベルン街衢の簇々として渓間に蟻集し・いと広壮なる高廊巨閣も蜂窩蟻穴の看をなし、渓に添ふ行人は蒼蠅の器缶に啣むことく街衢を走る馬車は群蟻の残肉を搬するにひとし、須叟にして日没して月明に群山蒼々として夕煙を揺曳し、真に天造の光景を究む茶肆の高楼ニ而御眺望中、シヤンハン及冷水抔御取寄 茶肆の主人罷出て其楼の風色写真せしを差上る 夕七時より御帰路、山麓迄御歩行道路稍平坦るとて御乗車、七時半御帰館
 - 第1巻 p.541 -ページ画像 
 八月十一日 晴                 九月八日
此日は本国有名の時計を製するゼネイブといふ地御遊覧の積、兼而大統領より申上けれは、朝来御旅装を整頓し昼十時頃御発、十時半滊車発軔、第二時頃ベベイといふ湖水畔岸の一市街に至り蒸気船御乗組、三時頃出帆第七時ゼネイブ御着、ホテルデメイトロボールといふ客舎御投館、此日航せし湖はラアツクデゼネイブといふ瑞西にて巨大なる湖水なり、長凡十里程、横のわたりも二三里程もありぬへし、水光渺茫として蒼海に異ならす、湖上ニ而瑞西最高なるモンブランを望む、白雲堆く夕陽に映して光彩銀の如し、夏日の熱するもこれを望む膚に粟を生るを覚ゆ
ゼネーブは湖水の西南に瀕して頗る繁華の土地なり、湖水の末流街衢を中截して流決する処にいと広大なる鉄橋を架し、両衢ともに往来を自在ならしむ、其側に小島あり樹木蒼茂して頗る遊歩に佳なり、尤夏夕の納涼に宜しといふ、闔衢殷富ニ而人品も卑しからす、所々に広大なる時計の製造所あり其、精巧緻密驚くへし、瑞西人本地を称して小巴里といふも其実なしと謂へからす、昨日伊太利国のゼネラールガルバルジー本地へ罷越あり、本国の大統領も所用ニ而相越せしとて市中は尤雑沓を究めぬ
 八月十二日 晴                  九月九日
昼十時、一同御供申上、時計製造所御一覧、夫より市中御遊覧、十二時御帰館、午餐後隼人正石見守・田辺太一シーホルト御供ニ而昨日来会せし大統領の宿所御訊問、本地の統領居宅へも御越及金細工等御一覧ニ而御帰宿
此日本地の豪富バロンロウチーユルといふ者罷出て、御機嫌を伺ひ、御招請申上けれは、夕五時より御越、御土産として蒔絵の香合に扇子五本を添て被下
昨夜ベルンより栗本安芸守・馬寨里来著之旨電信ニ而申来る、明十三日ベルン御帰館可相成旨同様申遣す
 八月十三日 朝雨夕晴              九月十日
御見物も相済ぬれは、今日ベルン御帰館の手筈ニ而、朝六時蒸気車発軔、十一時半ヌーシヤテルといふ小市街御着、本地ハ電信機の根本に而其器精妙なるよし、且近来の新発明ニ而字面摺出し之電信機兼而御国より御注文にも相成ぬれハ御覧旁其製作所御越、尤当所ミニストル其外役々御案内申上、種々の電信機御一覧、夫より鳥獣の真形数多集置し場処御案内。的砲稽古場御越二三発御試砲ニ而湖水涯なる客舎御越尤高松凌雲・箕作貞一郎・山内文次郎・渋沢篤太夫は天文台観月楼等一覧ニ而右之客舎江罷越す、ホテルニ而御夕餐相済、第六時滊車御乗組、夜九時ベルン御着、先剋に外国奉行栗本安芸守組頭三田伊右衛門外ニ馬寨里ニ而待受たる杉浦愛蔵・山内六三郎共到着しありとて御出迎申上る
 八月十四日 晴                 九月十一日
昨日栗本安芸守到着、御老中方若年寄衆より御機嫌伺として書状御品共差越せし旨申上る、尤品は巴里表江相廻せしとて書類而巳差上る、石見守より右御返翰相認、杉浦愛蔵帰国江托し送遣す、室賀伊予守・原市之
 - 第1巻 p.542 -ページ画像 
進よりも御用状差越候ニ付、同様返書差遣す
此日向山隼人正若年寄並七千石高被仰付、栗本安芸守御書付類持参ニ而相達す、外ニ品々被仰越之御沙汰も有之とて、本日ハ種々之評論ニ而御巡国は隼人正御附添無之、石見守・保科俊太郎・高松凌雲・渋沢篤太夫御雇四人シーボルト而巳ニ而外国局は総而引分れ、巴里表江罷帰る旨評決、夫是手筈相定め諸書物類調分いたす、此日明後十六日当地出立、荷蘭国御越可被成旨瑞西在留荷蘭コンシユール江書翰差遣す、白耳義国御巡国之儀ニ付、同国より書状を以申立来、八月廿五日より廿八日 西洋九月廿二日より廿五日迄 本国祭日ニ付御来訪被下度旨申来る、因而可成丈操合せ罷越候様可致旨返翰差遣す
 八月十五日 晴                九月十二日
明日当地御出立之儀相定、御道筋取調いたす、向山隼人正始外国向役々引分れ、巴里江罷帰ニ付御用向調分いたす、第一時杉浦愛蔵・山内六三郎・巴里に出立いたす、夕六時、大統領より御招請申上、ホテルデヨウロツパと申遊宿ニ而夜餐御饗応申上る、御逢之上御供之者一同罷越す



〔参考〕財人随想 (山崎一芳編) 第一五七―一五八頁 〔昭和一三年五月〕(DK010042k-0003)
第1巻 p.542 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。