デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

2章 幕府仕官時代
■綱文

第1巻 p.569-579(DK010046k) ページ画像

慶応三年丁卯十月八日(1867年)

徳川昭武伊太利リボルノ港ヨリ英国軍艦ニ搭ジテ仏国ニ向フ。十一日マルタ島ニ着シ、居ルコト数日砲台・船渠・製鉄所等ヲ見ルニ陪ス。尋イデ十六日マルタ島ヲ発シ、二十二日マルセーユニ上陸シテ翌日巴里ニ帰着ス。此行艦マルタ島ヲ発スルヤ、機関破損シテ進退ノ自由ヲ失フ。艦長因リテ進止ヲ昭武ニ候ス。昭武栄一ノ言ニ由リテ之ヲ艦長ニ一任ス。艦長乃チ進航スルニ決シ、辛ウジテ帆走シ、マルセーユニ到着スルヲ得タリ。


■資料

航西日記 巻之六・第一―九丁 〔明治六年〕(DK010046k-0001)
第1巻 p.569-572 ページ画像

航西日記 巻之六・第一―九丁 〔明治六年〕
慶応三丁卯年十月六日 西洋千八百六十七年十一月一日 晴。朝十時、畋猟主宰来り。昨日獲たる鹿二匹を献せり。乃其一を調理し。其一ハ英国在留のミニストルへ賜ふ
同七日 西洋十一月二日 晴。朝英国ミニストルより迎の軍艦。今夕。リボルヌ港まて至りしかハ。今夜同所へ一宿。明日乗組の事を申立るにより。夕四時。滊車に乗《のり》。此地を発し。暮七時リボルヌに抵り。オテルデワシントンといふに宿り。英国軍艦へ便宜問合せしが。同港規則にて外港突入の軍艦ハ。直に上岸を許さゞるよし。故に船将躬自ら来迎へかたき旨申来る
同八日 西洋十一月三日 晴。朝軍艦より書簡来る。風不順なれハ。午時三時頃まて待るへしとの事なり。午後馬車にて市街を一覧し。同三時港口に入る。此時軍艦よりバツテイラ二艘。各本国の旗を掲け。士官礼服にて迎ふ。同四時軍艦に移る
  此日軍艦には国旗数々建て。中央に在る最高き檣に御国旗掲け。其船将士官まて皆礼服にて。乗組の時ハ。楽手兵卒。例の奏楽捧銃あり。水夫ハ皆檣上に登らせ並立せしめ。祝砲ハ意太里の艦一艘本船間近に在れハ其式なし
本船ハエンデミヱーヲンといふ。壮大堅牢なる。軍艦にて。大砲小銃及諸器械とも。悉く具備せしか。別に船部屋の設なけれハとて。仮に舳の方に数部の船室を補理したり。直に船中一覧あり。風様宜しとて。出帆せる処意太里の艦。誤て錨綱を本艦の綱に打繋縺合漸《かけもつれあひ》く解て夕六時出発せり。終夜風穏なり
同九日 西洋十一月四日 晴。暁風強し。終日意太里の南辺を航す。夜八時船将
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旅懐を慰せんとて。水夫を集へ曲芸雑話をなさしむ
同十日 西洋十一月五日 晴。風静なり。朝十時水軍火入調練を観る
  是は船と船との攻撃なれハ。其運動駿速にして且勁壮なり。大砲連発の時ハ焔烟相掩ふて暫時四方を弁せす。畢りに。一隊の陸軍各剣銃と槍とを以て。敵船を乗超る駆引をなす。其挙動尤敏捷なり。船中法則寛優にして厳粛たり。其兵ハ総て水夫にて。平生航行に従事すれとも。戦斗攻撃に至りてハ。別に水夫兵卒の分ちなし。又別に一隊の陸軍を置くは。陸地接近の戦争の為に備ふと云
午後三時。意太里国の孤島ストロンベツキといふ火噴山《くわふん》を近く見る。洋中に屹突として立り。其形円曲にして巓《いたゝき》の凹《なかくぼ》なる処より。火炎《くわゑん》を噴出す《ふき》。其烟黯々《あん》として。断絶なしといふ。本邦の浅間阿蘇の如し。意太里国のナアプル遥に見え。時に雲収て海水藍《あい》を揉《もみ》。日落て山巓金《てん》を貼《てう》し。眺望亦奇なり。夜八時船中又水夫曲芸をはしむ
  縄抜の術なとあり。是は衣服を着せしまゝ倚子にかゝり。太き縄もて四支を倚子とも縛り。其本の縄尻を持居て。上より身を容るる程の布袋を被らせ。其中にて其縄を解く業なり。本邦の在古《ありふれ》たる其業に異らず
同十一日 西洋十一月六日 晴。雷雨。朝十時マルタ島へ抵着す。両縁の砲台例の祝砲ありて。船将士官等礼服にて艤《ふねよそひ》して。中央の檣に御国旗を掲け捧銃奏楽の式あり。午後一時港口より馬車にて上陸す。騎兵郷導警衛して。鎮台の官衙《かんが》へ請す。門の正面に歩兵一小隊捧銃をなし。階梯上り口まて。鎮台并士官二十人許出迎ひ。両側には赤服の兵士並立せり官衙中の集議場へ請し。正面四五段の高き階梯あり 鎮台は其左り。通弁官シーボルトは一段下りて立り。其余は一同板間に並立せり。夫より順次をもて拝し畢りて午餐を饗せり 此節。鎮台の妻及男女等同案して種々馳走せり 同四時馬車にて市街を巡覧す暮七時半夜餐を供せり 此節。鎮台並水師提督。同附属書記官等出て。同盤にて接伴す
同十二日 西洋十一月七日 晴。午時官衙を発し。馬車にて城内を見るに陪す。戎器等を貯ふ所。櫓重門。廩。厩等を見る。午後一時。鎮台郷導にて港口より。船にて。処々砲台的打場等を見る。打砲凡半時許なり 港内矴泊の。軍艦ハ悉く水夫檣に上り敬礼す。夫よりドツク。及製鉄所等を見る。此節陸軍場には兵士一小隊陳列して式礼あり。又製造中のドツクを見再ひ乗船し。番船の前を過て新港を見る。夕四時帰る
同十三日 西洋十一月八日 晴。朝。鎮台の。郷導にて。戍兵の調練を観るに陪す何れも騎して。従行せり。其場の中央に大隊旗を建たる所へ請し。夫より陣列前を。一通り巡回ありて。又元の処へ駐り調練始めて横隊をなし。乍ち縦隊と変し。行軍の式あり。最頭の隊は黒き戎衣にて。小隊の行進十一隊。次に赤衣の小隊二隊。又次に小隊三十七隊なり
  各小隊四十人より四十七八人なり。外に楽手隊。土坑隊。雑兵。士官にて都合四千人といふ。斯る一小島すらかくのことく。兵士の調へる感ずべし
行軍の法。調兵場の中央に。横一文字に並立し。隊を左の方の首より小隊に作り出し。徐歩環旋して大隊の旗下を過き。元整頓ありし所に至る。行進両度にして。初は毎小隊士官ハ剣を竪にして徐歩し。次ハ剣を収て急歩す。其規則整粛寸分も差わす。畢て初の如く陣列し。其
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中なる小隊七八隊列を超て。進む。二十歩許にして竪銃をなせり。此時此方一行の人々少しく進みて。其隊の前面に至ると。兵隊ハひとしく銃槍の手前を為す。其内此方元の所に就く。時に一列の兵隊。首尾を旋回して退陣せり。此方ハ其退陣の中央に在りて。前後の兵隊にて護衛し官衙の前に至り。各隊分離して其式畢る。夕五時帰る
同十四日 西洋十一月九日 晴。午前十時。鎮台及附属士官郷導にて。砲台より大砲の打前を観るに陪す打前了《おハ》りて。海岸。に連りたる砲台を見る。夕三時海岸の昿野にて。小銃的打を見る。往々海岸の涯路を打曲り。連築せし兵卒の屯所に至り。其前高低屈曲の所に。一中隊余の兵卒左右に列して。捧銃奏楽をなせり。夫より的打を見る。的ハ海岸水際に巾二間余高六尺許の白板の中に。黒の筋を引たるを掛置。三百歩を距《こへ》て打放つ。兵卒ハ二十人一隊にて。二列に組て発せり。銃ハシナイドルと云。軽便の銃なり。我公使にも一発試みられしが。誤たず的中せり。的打場二ケ所。一は遠打 凡七百歩もあるべし。的は方にして六尺許なり 一ハ近打 凡百歩よりして三百歩程なるべし 此日ハ風急にして。遠打ハ的中する少《ま》れなり。夕五時帰る。此夜ハ在留の各国公使等挙て。我公使に謁せむとて。夜会を催し。夜八時より。官邸中の集議場へ請し士官の妻子とも。一同拝謁に侍せり 拝謁の式ハ。抵着の時と同しく。公使を段上に請し。何れも階下に出て拝せり 謁し畢り段を下り。来集の中にて。種々の雑話をなし。茶果を供し。夜十時散す 此夜集会の人数凡二百人余。皆鎮台士官並其妻子等なり
同十五日 西洋十一月十日 晴。午後三時。コロ子ル郷導にて。砲台及新製の大砲等を視る。大砲十六門。玉目千三百キロガラム也といふ 夫より本港に矴泊せるカレトンヤリといふ惣鉄船を見る。凡長九十メイトル メイトルは我三尺三寸なり 幅二十メイトル。外面の鉄二重に張り厚四寸五分程なり。蒸気器械。千馬力大砲二十四門。乗組六百五十人なりといふ其法則。尤厳粛に見ゆ
同十六日 西洋十一月十一日 晴。午前九時半。此港を発す。同十一時乗組。官衙発軔の時鎮台ハ其門前まて其男及士官一人ハ軍艦まて。送り都て抵着の時の如し 同刻出帆。順風にて。船脚速なり。夜十二時忽闔船喝動《たちまちかうせんかつとう》《フネノナカ》の響あり。衆皆駭《おとろき》て是を問ふに。蒸気機関の破れたるなり。船将曰幸に今日マルタ島を出帆せしより百余里を航し。此順風に乗し帆前にて航期を延し。馬塞里に着せんを乞ふ。
同十七日 西洋十一月十二日 晴。順風なれども舟行緩し。夜に入風なし
同十八日 西洋十一月十三日 晴。順風舟行速なり。一時五六里を航せり。朝十時繕ひ調ひしとて。機関もて暫時航せしが。手薄き器械よりハ帆前の方勝《まさ》れりとて止みぬ。此日洋中浮的を流して試砲の慰なとす
同十九日 西洋十一月十四日 晴。朝十時サルジン島を認《みと》む。夕より北風間切なれとも舟行速なり
同廿日 西洋十一月十五日 曇。朝九時。水師調練を見る。午後より風強く。船の半面を吹て巨浪山をなし船の揺動甚し。且機関損所より水入て殆《ほとんと》《ヤガテ》二尺許ならむとす。水夫挙《こぞ》りて是を防塞《ほうそく》す
同廿一日 西洋十一月十六日 昨夜より風雨暴烈。僅に修繕せし機関又破損し。恰も盲亀《もうき》《メクラノカメ》の槎《さ》《ウキキ》に頼《よる》が如し。朝九時風雨弥強《いよいよつよく》黒雲沛然《はいせん》《イチメン》として咫尺を弁ぜず皆方向を失す。午後一時稍風雲収《やゝ》り。一孤島を認めたり。即是馬塞里なりしかバ舟中挙て喜ひあえり。同二時港口に着《つき》。川滊船に曳かせ港内に入て船中に泊す。夜又暴風雨碇泊の船々檣《ほばしら》を折《おり》。或ハ帆桁《ほけた》を吹落され。終夜響声止まず
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同廿二日 西洋十一月十七日 霽。 午前十一時半。本船の小艇にて馬塞里に上陸し馬車に乗ガラントホテルルーブルドラペエーといふ。客舎に宿す。鎮台安着を賀す午後三時。馬車に乗市中を遊覧し。ブラドウといふ花園に過る。時に雨後新晴野景殊に佳なり。尚《なを》行々て海岸に出れは。微風浪を皺《しは》め。残影山を銜《ふく》む。水天遠く掩映して眺望開豁《かいかつ》たり。疇昔《きのふ》舟中漂蕩《ひやうとう》の苦辛を回顧《くわいこ》すれハ隔世《かくせい》の想《おもひ》をなせり。此夜船将ウエツク。并士官十三人へ夜餐を具す
同廿三日 西洋十一月十八日 晴。朝十時。甲必丹ウエツク。其妻の此地に滞留せしとて相伴て来候す。午前十一時馬塞里を発し滊車に乗。暮七時。リヨンへ着《つき》。暫く休憩し又滊車にて。翌暁七時半。巴里に帰館す


渋沢栄一 御用日記(DK010046k-0002)
第1巻 p.572-577 ページ画像

渋沢栄一 御用日記
○上略
 十月○慶応三年六日 晴 金          十一月一日
朝十時昨日御猟ニて獲せし鹿二ツ畋猟主宰のものより差上る、其一を調理し御陪従一同え被下、其一を英国より在留之ミニストルえ御遣相成、当国王より大君御諱伺度旨申立ければ
大日本大君源慶喜と記し、洋字訳相添送り遣す、夜過日国王より差上しデコラアシヨン証書御附添、コロネルを以差上る、石見守以下へも同様差越す、此日は御余暇あれは一同を御襍書画合作之御慰有之
 十月七日 晴 土               十一月二日
朝英国ミニストルより御迎之軍艦今夕リボルヌ港到着候ニ付、今夜同所御一泊、明日軍艦御乗組之儀申上る、因て本夕当地御出立之積、御治定いたす、夕四時御旅館御出発、滊車場にて滊車御乗組、夜七時リボルヌ御着、ヲテルデワシントンといふ客舎御投館、意太里国より御附添之コロネル同所迄御供申上る
御着後、英国軍艦便宜承及候処、同港規則に付外港突入之軍艦は直に着岸上陸を不許、因て港口碇舶有之候旨船将より書翰を以申立る、朝十時半御乗組有之度旨をも申上る
 十月八日 晴 日               十一月三日
朝軍艦より書状差出し、風洋不宜ニ付御乗組午後三時迄御見合相願度旨申越す、朝十時巴里え御用状差出す、午後三時御旅館を御発し、馬車ニて港口御越のところ、港口迄英国軍艦よりバツテイラ弐艘各本国之国旗を建其一艘ニハ第一等士官礼服ニて御迎申上る 伊太里国より御附添之コロネルは御乗組迄御見送申上て引取る 第四時、軍艦御乗組 此日軍艦には色々の国旗を建、中央に位せる最高の檣には御国旗を建たり、其船将士官迄総て礼服ニて御乗船之節は楽手隊奏楽し、兵卒は捧銃の礼を為せり、満船の水夫は不残帆桁に登せ並直せしめ、御乗組直に祝砲の礼を為すへき手筈之ところ、暫時前意太里国軍艦壱艘本船間近に投錨せしかハ、発砲の式なしかたしとて祝砲の式は見合せたり 本船はエデミユーヲンといふ壮大なる軍艦ニて、大砲小銃及諸器械共具足し、然も堅牢を尽せり、軍艦故に船部屋の設けなけれはとて仮に船将の有せる舳の方ニて御部屋を設け御供之者も彼所是所に休息所を出来せり、御乗船後船中御巡覧、風洋よろしきとて直に御出帆之積之処、先に投錨せし意太里船の誤て錨縄を本船の縄に繋掛しかは、互に経連して相解す、意太里船へ使者を遣し、相互に船を運転し漸にしてこれを解き、夕六時出帆終夜風順にして〓行穏かなり
 - 第1巻 p.573 -ページ画像 
 十月九日 晴 月               十一月四日
暁より風強く、船少しく動揺す、終日意太里国の南辺を〓行す、夜御慰として水夫を集め、曲芸雑話等をなさしむ、夜に入りて風静に船穏かなり
 十月十日 晴 火               十一月五日
昨夜より風洋よく舟行如席絶て揺動の憂なし、朝十時〓行なから水軍調練を御覧に入る、尤火入の調練なりしかハ満船の巨砲連発せし時は頗る壮烈を窮めたり、此日の調兵は船と船との攻撃なりと覚しが其運動坐作駿速にして勁壮なり、おわりに一隊の陸軍各剣銃と鎗とを持て敵船を乗越ゆる駈引をなさしむ、其挙動尤敏捷なりし 船中法度寛優ニて厳粛せり、其兵は総て水夫ニて平生〓行に従事し、戦闘に攻撃を為す、別に兵士水夫の分なし、又別に一隊の陸軍を備ふ、陸地接近之節戦争の具なりといふ 第三時意太里国の島なるストロンベツキといふ火山を際して〓行す、山は洋中に屹立して其貌円曲にして椀を盛たることく巓の凹なる処より火を発して其烟終歳絶間なしといふ、御国富岳浅峯の類なるへし、折ふし夕陽なれは海水藍のことく金波処々に漾映し波間に其火山の突兀せしさま尤絶景なり、第四時意太里国ナアブルを遥岸に見て〓行す、夜八時舟中の御慰とて水夫の曲芸をなさしむ、中に壱人の水夫縄抜の術を得しものありしか、試に御陪従の者をして綿密に結束せしめしに、頃剋にしてこれを解たり 其法壱人の男衣服を着せし儘にて一の椅子に腰を掛、太き麻縄のいと長きを出し、其身体四支を椅子と共に纏縛せしめ、尤厳重に結束し畢る、上より身を容る程の大きなる布の袋ニて其身を覆ひ其中ニてこれを解く、其結束尤厳にして其解くこと尤速なり、其曲芸も又巧なりし
 十月十一日 晴夕雷雨 水           十一月六日
昨夜より風烈しけれとも〓行穏かに、朝十時マルタ御着船、此日は御着なれはとて船将及士官の者迄礼服ニて御着の節は船装を為し、中央の檣に御紋を付たる御国旗を建、兵卒は捧銃の礼を為し楽手は奏楽を為せり、軍艦の港口に入りし頃両縁の砲墩ニて弐十一発宛の祝砲を打砲す、第十一時頃マルタ鎮台より御迎旁御機嫌伺として其子及其士官を差遣して御安着の祝詞を呈す、水師提督及附属士官七員を具して本船に罷出て御機嫌を伺ふ、夫より午餐御支度にて第十二時半本船のバツテイラニて御上陸のところ本船ニて弐十一発の祝砲を発せり、其港口ニは一中隊の歩兵其士官これを指揮して御上陸の節士官は手に持し剣を竪、卒は捧銃の礼を為せり、港口より馬車御乗組騎馬の御案内四騎其前後を御警衛直様本地鎮台の在留せる英国の官衙に御案内 当地御滞在中公子には官邸内御止宿石見守御雇両人シーホルト其外御供は傍近に旅宿相設候旨申上る 官邸御着之節其正門に一小隊余の兵士捧銃の礼を為し、正門に入り階子を御登りの節階子の登り口迄鎮台始附属の士官二十人計御出迎申上、階子の両縁には赤く装ゐし壮麗の兵士毎階に並立して御警衛となせり、夫より鎮台及附属士官御案内申上、官邸中の集議場様なる処御越、集議場は広き板敷の広間にて其正面に四五段の階子あり、階子の上なる最高の貴席に御着坐、鎮台は其左に立たり、為通弁シーボルト一段下りたる階子の片脇に立り、其余一斉に板間に並立せり、夫より御迎之士官順序を以て公子え御目見申上る、鎮台及使番之者側より其名其役名を申上シーボルト通弁申上る、其貴戚之向は階を登りて握手の礼を為し其余は黙礼にて退出せり、其式壮麗なりし 御目見申上候士官三十人余なりし 式終て後鎮台御案内ニて兼て相設置きし官邸の御止宿あるへき御部屋御越、暫時御休息第二時午餐御饗応 午餐
 - 第1巻 p.574 -ページ画像 
之節は鎮台の妻及娘伜等罷出て御接伴申上る 第四時馬車ニて市街御遊覧、夕七時半夜餐御饗応 鎮台始水師提督鎮台附属之書記官、其外役々罷出る、御接伴いたす、御饗応も美を尽せり
 十月十二日 晴 木              十一月七日
昼十二時官邸御発し馬車ニて本地の城中御一覧、武器貯置所及城櫓等逐一御歴覧、夫より陣馬置所御一覧、第一時御帰館、午餐後再び馬車にて御発し鎮台御案内港口より御乗船、港口処々御遊覧、港口の右手なる砲台ニて大砲の的打御一覧 打砲凡半時間程なりし 港内に碇泊せる軍艦は悉く水夫を檣桁に登らせ敬礼を為せり、夫よりドツク及製鉄所等御巡覧、尤ゼネラールケヱール御案内申上る、其節御上陸場には陸軍兵士一小隊計陳列して捧銃の礼を為せり、夫より当時成造中のドツク御一覧、再御乗船にて港内なる番船の前を御通行 御往復とも二十一発の祝砲を発せり 新港御一覧其節意太里国より御乗船の軍艦船将ウエツク罷出て御挨拶申上る、第四時半御帰館、此日石見守御雇両人シーボルド御供申上る
夜七時半夜餐 夜餐は昨日と同しく盛会なり、御陪従之者御接伴之者都合男女三十人程なりし
 十月十三日 晴 金             十一月八日
朝当地御安着之儀及来月曜日当地御出帆之儀等電信を以巴里へ申遣す、当地鎮台及妻子え被下物之取調いたす
此日、本国より在勤せる本地の戍兵を集め、調兵御覧に入るとて石見守以下一同御供鎮台及附属之士官御案内申上、公子は御馬にて俊太郎シーボルト御供石見守以下馬車ニて罷越す、鎮台始御案内之者拾人計騎馬ニて御附添、馬車乗組之者は其後に随ひ、宮邸の前を左え市街を御行過ニて城門を御通抜四五丁ニて調兵場に至る、調兵場には此日調練の兵隊各其頭ニて指令し、戦隊に整頓して御着の節は楽手賀楽を奏せり、調兵場の中央にて片寄て大隊旗を建たる処へ御越、夫より鎮台始不残御供にて前に整頓したる陣列の前を御一周 御一周之節兵隊は捧銃を為し、楽手は奏楽せり ニて元の大隊旗の本に御戻り、馬を駐めて運動御一覧、其時一斉の横隊忽ち縦隊に転して行軍の式をなせり、最頭の隊は黒き戎衣ニて小隊の行進十一隊、次に赤き戎衣ニて小隊二隊、其次に同装ニて小隊三拾七隊なり 各小隊四十人より四十五六人迄外に楽手隊・土坑兵・雑兵士官迄ニて都合四千人程といふ 行軍之法調兵場の中央に横一文に並立せし兵隊を左之方の首より小隊に作り、徐歩環旋して大隊旗の本ニて御覧ある公子の前を行過て元整頓しありし処に至る、其行進両度にして初度の行進には毎隊公子の前に至る、士官は其手に持し剣を堅行過てこれを収め、隊に添ふて行進せり、其歩蹀徐々として寸分の齟齬なく恰も器械もて環旋する如し、再度の行進は急歩なりしか其規矩は更に静粛なり、各隊ともに再度行進し、終て初整頓しありし如く横一文字に並立せしめ、其中央にある小隊七八隊列を超て進むこと弐拾歩計にして竪銃の挙動をなせり、其時公子及御附添のもの少しく進んて其隊の前面に至る其兵隊は公子の其前面に至るとひとしく銃槍の手前を為せり、手前済て公子は又元の地位に御戻り其時一列の兵隊首尾を旋回して退陣せり、公子及御陪従之騎馬御供は其退陣の中央に在りて前後の兵隊ニて護衛し、緩歩ニて官邸の前に至り、各隊分離して式終る 此日公子は陣羽織御直衣ニて馬上尤美麗なりし、御案内せし鎮台其外も総て赤き装束にて陣中御一行の節は尤雄壮なりし 第五時過御帰館、第七時半夜餐 昨夜と同しく貴官の妻娘罷出る御陪宴の者殆三十人余なりし
 十月十四日 晴 土             十一月九日
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朝十一時半鎮台及附属士官御案内、石見守・凌雲御扈従四人シーホルト御供、馬車ニて本地の砲台御越大砲の打御一覧、夫より海岸に連築せし砲台御巡覧、第一時御帰館
第三時再馬車ニて官邸より一里余隔りたる海岸の昿野ニて小銃の的打御覧、鎮台及附属士官御案内、御附添之者一同御供市街を行過海岸の崕路を曲折し連築せし兵卒の屯所に至る、其屯所の前道途高低屈曲せし処に一中隊余の兵卒を路の左右に列ねしめ、御通行の節捧銃の礼をなせり、屯所の前には楽手隊奏楽せり、夫より的打場に御越、御一覧 的は海岸の水に際せし処に、巾二間余高六尺計の白き板に中黒の筋を引たるを掛置三百歩の距離にてこれを発す、兵卒は二十人一隊ニて二列に組て発銃せり、銃はシナイドルといふ尤軽便の銃なり、此日公子にも御試銃ありしが的射誤たさりしかば一同相感しぬ 打的場両所ニて其一は距離稍遠く七百歩もあるへし、的は方にして六尺余と見ゆ、此日風強ければ遠的の分は其的を射ること少なかりし、第五時御帰館、此夜は本地在留の士官及各国在留公使総て公子に謁せしめんとて夜会を催し、第八時より官邸中の集議場え御越、在留士官の夫妻及各国公使等一同罷出て御目見申上る 謁見の式は御着の節と同しく公子は段の上に御着坐、階下に出て拝謁す 謁終て公子は段を下り雑沓の稠衆中ニて種々御雑話、兼て相設ありし別席ニて御茶或は氷製の菓子及種々之果物肉類抔被召上、夜十時頃散宴 此夜相集りし人数凡二百人余、御陪従は石見守・俊太郎・凌雲・篤太夫シーホルト等なりし
 十月十五日 晴 日              十一月十日
昼後第三時鎮台御案内ニて本港に碇泊せるカレトニヤリといふ惣鉄船御一覧石見守・凌雲御雇の者両人シーホルト御供第四字御帰館、俊太郎・篤太夫は本地のコロネル誘引ニて砲台及新製の大砲等一覧新製の大砲拾六門 玉目千参百キロカラムといふ 夫より小舟ニて公子の御越ありし惣鉄船ニ相越して一覧、惣鉄船の長九十メイトル・巾二十メイトル・蒸気器械千馬力・大砲弐拾四門・乗組六百五十人尤牢壮なり。其法度静粛と見へて船中諸器械の布置兵卒の挙動等頗る行届けり、外面の鉄二重に張重て其厚サ四分五分余《(マヽ)》ありといふ、夜七半夜餐 毎度諸士官夫妻共御接伴申上る、御同案凡三十人余なりし
 十月十六日 晴 月             十一月十一日
此日当港御発程ニ付、朝より御理装、九時半御餐相済、鎮台其外被下物等相済、第十一時御着之節御上陸ありし処よりバツテイラ御乗組、過日御迎申上し軍艦エンテジイヨン御乗組 官邸御発の節、鎮台は其門前迄御送申上、其男及士官一人御乗組の軍艦迄御送申上る、官邸御発しバツテイラ御乗組之場所共兵隊を出し御護衛をなし、騎馬の兵四騎御車の前を払へり、軍艦御乗組の頃砲台より二十一発の祝砲を発せり 昼十一時五十分御出帆、順風ニて舟行疾し、御乗組の軍艦に並ひ碇泊せる惣鉄船昨日御覧のため御越之ところ日曜日ニて祝砲の式なしかたく、此日其式をなすとて満船に種々の国旗を建、水夫を檣桁に登せ御乗組の軍艦其鉄船に際して港口に出んとする頃二十一発の祝砲を発せり、順風なれとも港口は波濤つよく、船頗る動揺せり、午後洋中に〓行して追々波浪穏かに舟中安然たり、夜十二時頃忽然として闔船を喝動せる響声あり、時に船穏かにて公子もいまた寝に附給わす、一同も御側に待れば何事やらんと船将に問へしに、こは本船の機関破摧せしにて、いまた其破損明了ならされとも所詮爾後その機関を用ゆること無覚束、されば再ひマルタ島御帰船機関修覆の上御航海あるへき歟又は他船もて御送可申上哉、然るに本夜は順風なれは御帰船あらんには風逆すれは器械なき船にて何時マルタ御帰着も難測、可相成は順風
 - 第1巻 p.576 -ページ画像 
に帆を揚、帆前もて航行期を延して馬寨里に御着あらんことを希ふ旨船将より申上けれハ、さらは本船にて御越あるへき旨御答相成しに、船将も大に悦ひたり、此夜は機関損したれとも風順なれは帆前にて一時八九里程を〓行すといふ
 十月十七日 晴 火             十一月十二日
順風なれとも風軽けれは舟行緩に。夜に入ては風全く死し。船洋中に漾游せり、されと波濤静なれは舟中殊に穏かなり
 十月十八日 晴 水             十一月十三日
朝来美晴、軽風なれとも順なれは舟行稍速なり、一時五六里程を行すといふ、十時頃破損せし器械の僅に修繕せしとて、試のため機関もて暫時航せしか、風順なれは手薄き器械は他日の具にとて帆前に〓行す夜に入り風止たれは再未成の器械にて〓行せしか、大破せし機関の修繕全からすと見へて再損したり
此日御慰にとて、海中に浮的を流して御試砲有之
 十月十九日 晴晩曇 木           十一月十四日
朝十時サルジン島を認む、夕方より北風強く、間切なれとも舟行速かなり、夜御慰に水夫の曲芸をなさしむ
 十月廿日 曇 金              十一月十五日
朝第九時水師調練を御覧に入る、午後より風強く、船追々動揺せり、夜に入て風いよいよ強く、船の半面に吹当り、怒濤如屋船の動揺尤甚し、殊に機関なけれは片帆間切に帆を揚しか、〓行〓危かりし、夜半頃機関の損せし処より潮突入して船底に満しこと一尺八寸程なりしか水夫集りて漸汲尽し、僅に其破口を繕ひ得るといふ、終夜勁風暴雨にて昏黒咫尺を弁ぜす、其上機関なき船なれは地方に添て〓行すれは暗礁危巌の恐ありとて夜半より楫を転して南洋に〓行し、夜明て後再其濤路を得たりといふ
 十月廿一日 曇 土             十一月十六日
昨夜より風烈しく雨を交ゐ船の動揺甚たしく、朝来風尚歇されは一同海疾にて朝餐に附きし人も稀なり、されとも公子には御疲もなく御歩行ありし、昨夜半より再ヒ破損せし器械の又修繕せしと見へて、僅に〓行を助けしが、半成の機械なれバ舟行随意ならさりし、午後より鬱蒸の気殷雷となり、黒雲深く四顧晦冥にて濤路を認むること能わす、再び洋中に楫を回らせしに、幸に洋中に一の孤島を認め得たりとて航せしが、其孤島則馬寨里の海岸にて、第一時頃辛ふして港口に達す、其時雨歇雲霧讒に散して四望漸分明なり 昨夜よりの勁風怒濤ニ而〓行困せしより船将及其士官とも苦心殊に甚だしく、剰乗組中馬寨里港の津口詳知之者なく、船地方に添ふこと能わす風烈しければ船を洋中に出して漾わせ、危巌暗礁を避れとも何れの日達津の定めもなく、怒浪に展転せば終には成行如何やらんと一同心を痛めしに、此に至り初而濤路を得、船将は更なり乗組之者一同安逸之想をなし怡悦の色を顕わせり
第二時半港内御着船、本船の機関随意ならされは川蒸気を雇へこれを曳かせて港内に入る、第四時本地鎮台え御着港之旨書翰を以申遣し、明廿二日第十一時半御上陸之旨申達に御着後船将ウエツクえ御航海中種々骨折し御挨拶として脇差一本に御国全図を添て被下、第五時本地鎮台より甲必丹を以御安着を祝し、明日御上着之節馬車を以御迎之旨申上る、夜暴風驟雨碇泊之群船相輾りて或は檣を折り又は帆桁を吹落し終夜響声止ます、本船の碇泊せし側に意太里船の投錨しありしか暴
 - 第1巻 p.577 -ページ画像 
風に漾わされ、本船に輾りてバツテイラ弐艘を摧破す、又錨縄の相互に纏転して暁に至り漸くこれを解たりといふ
夕四時、篤太夫シーホルト上陸、御旅宿を調ふ、明日御上陸の手筈今日御着港之儀電信ニ而巴里江申遣す
 十月廿二日 晴 日             十一月十七日
第十一時半、本船のバツテイラニ而御上陸、御上陸の節は船装を為し最高の檣に御紋附の御旗を建、水夫を帆桁に登らせ別に一隊の兵卒は捧銃の礼を為して御上陸を祝す、祝砲も打砲の手筈なりしか港内狭くして舟船相接したれは其式はなし、馬寨里港運上所の前ニ而御上陸、兼而鎮台より差出したる美麗の馬車御乗組、ガランドオテルルウブルドブパエーといふ客舎御投館、御着後鎮台の書記官罷出て御機嫌を伺ふ、第三時半馬車ニ而市街御遊覧、プラドウといふいと佳麗なる花園を御行過、海岸に出て夕陽の晩景御眺望、時に宿雨新晴ニて秋花艶を増し、処々噴水相映し、霜を帯る葉は夕陽と紅を争ひ、遠く望めは海天渺邈として風斬烈ならされとも連日怒激せし波濤は奔馬の如く夕陽を掀ゐ、遠近の波塘には怒浪岸を捲きしと見えて様々の海草抔打揚ある風情、昨日心を苦しめしは今日目を恰はしむるなるへしと坐ろに雅興を添ふと覚ふ、マルタ島御出発以後舟中に枕籍し、鯨濤鰐霧多少の苦を免れ玆に此美景を得るは、血海九地を脱し白蓮普陀の場に入りし心地して公子を始奉り一同も快を尽せり、此夜御安着御祝として船将ウエツク始士官拾三人え御同案之夜餐被下、石見守以下一同御相伴いたす
 十月廿三日 晴 月             十一月十八日
朝十時、甲必丹ウエツク其妻本地に滞在せしとて罷出る、被下物有之第十一時馬車ニ而本地滊車場御越、十一時半発軔之滊車御乗組、夜七時半リヨン御着ニ而小夜食、滊車中御徹夜、翌暁七時巴里御帰着、同所会所迄向山隼人正始在留之者御出迎、朝七時半御帰館


昔夢会筆記 中巻・第四三―四六丁 〔大正四年四月〕(DK010046k-0003)
第1巻 p.577-578 ページ画像

昔夢会筆記 中巻・第四三―四六丁 〔大正四年四月〕
○上略 其十月頃、再び立つて伊太利へ参りまして、伊太利からマルタ島へ参つて、マルタで四日か五日逗留して、あすこから英吉利の軍艦のインデミオンといふ船に乗せられて、マルセーユに参ります途中、妙なことでインデミオンのクランクシャフトが折れてしまつて、運転の動力を失つた為に、二日ばかりで行かれる処を、一週間ばかり掛つて行きました、其時暴風に遭つて、公子始め非常に難儀したことを覚えて居ります、併し其時は向山は居りませぬ、山高も私も居りました、船中で外国人に大和魂を見せましたので、ひどく賞められたことがある、今でも愉快に思うて居ります、それはマルタを出掛けたのは昼の十二時で、夜の十二時頃に至つて、今のさういふ出来事が起つたのである……、それで船長が参つて、甚だ残念のことであるけれども、斯ういふ訳でありますから、どうしても引返す外ない、外に船の都合がつかない、まだ漸く十二時間ばかりしか来ないから、引返して他の船を以て航海する外ないから、さういふことにしたいと思ふ、但今の処では、風の順がマルセイユへ行く方が宜いのだから、帆を用ゐて行か
 - 第1巻 p.578 -ページ画像 
れぬことはない、併し風帆で行くとすれば、三日も四日も掛かるだらうと思ふからして、余り時日が遅れるといふならば、マルタに帰つた方か宜い、但帰るからと言つても、蒸気の力には依れぬ、だから幾日でマルタへ帰れるかといふことは確には分らぬ、何れにした方が宜からうか、一つの出来事を御報告すると同時に、向後の進退をどう致したら宜いか御指図を請ひたい、斯ういふ話です、それから何でも公子に、斯ういふ場合には、成るべく勇気を出して御答にならなければなりませぬと言うて、畢竟此船に乗る時に、我々は船に生命を託してあるのだ、もうどうしやうとも、艦長が宜しいと思ふ通りになさい、こつちから指図は致しませぬ、苟も我々を乗せる以上は、それだけの御考があつて乗せたことであらうから、機関が動かぬでも何でも構はぬ半年でも一年でも一向厭ふ所ではござらぬ、それとも帰らなければならぬいふことならば帰るが宜し、私どもの方から御註文は致しませぬ我々の生命は艦長に全然御託しゝてあるのだと公子の御考だから、さやう御答をすると申した処が、艦長及士官一同は大変喜びまして、それならば私ども意見を申しますが、どうぞ此船で遣つて戴きたい、如何に出来事があつたにした処で、別に船体に故障がある訳でないから日が掛かるだけで四五日の中には必ずマルセーユへ著くに相違ない、さうして戴けば我々は本望である、此船でいかぬといふことになると実に此上もない、不名誉であるけれども、強ひてさう申上げるのも恐入るから伺つたのだが、任せると仰しやればさう願ひたい、勿論宜しいと答へまして、それから其後、夜分は水夫などにいろいろ印度の踊などをさせて、毎晩御饗応になつたのですが、其中に海が荒れて、私などは船に弱いものですから、止せば宜かつたと思つたやうなこともあつたと覚えて居ります、○下略


市河晴子筆記(DK010046k-0004)
第1巻 p.578 ページ画像

市河晴子筆記 (市河晴子氏所蔵)
  航西日記につきて
マルタからの船は御自慢だつたつけが、十二時頃トカンと大きな音がしてね、クランクシヤフトが折れたのだから、船長がこのまゝ航海をつゞけましようか、帰りましようかつて伺ひに来たから、船に乗つた以上船の航海上の進退は船の長に誰でも服すべきもの、どちらでも専門学の目でたしかだと思う方にして頂けば、私たちはそれが最善の道だと信じて御さしずがましい事は申しますまいと云つたら、船長が両手を上げて日本の武士の心を目の前に見たつて喜んでね、面目をほどこしましたよ
  ……そうさ命がけでしたよ……


高松凌雲翁経歴談 第四〇―四一頁〔明治四五年四月〕(DK010046k-0005)
第1巻 p.578-579 ページ画像

高松凌雲翁経歴談 第四〇―四一頁〔明治四五年四月〕
○上略
十一日 ○慶応三年十月 午前十一時馬太港に入る。碇舶軍艦及び砲台より各二十一発の祝砲を放ち、やがて接待員は小滊船を以て一行を迎へ、十二時三十分に上陸す。此時、又更に二十一発の祝砲を放つ。馬車あり、之に乗りて入城す。士官等列を正して謁見す。其敬礼、英国太子を迎
 - 第1巻 p.579 -ページ画像 
ふるに同じと。此夜、公子は山高、「シーボルト」と城中に宿し、俊太郎・篤太夫・凌雲は城外の「チユンスホオルヅホテル」に宿す。