デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.6.13

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

2章 幕府仕官時代
■綱文

第1巻 p.596-612(DK010048k) ページ画像

慶応三年丁卯十一月二十二日(1867年)

徳川昭武、前日英国ヲ発シテ、是日巴里ニ帰着ス。是ニ於テ昭武ノ各国礼問ノ事畢リ、是ヨリ専心修学ニ従事ス。栄一公私ノ事務ヲ負荷シテ寸隙ナシ。


■資料

航西日記 巻之六・第二八丁 〔明治六年〕(DK010048k-0001)
第1巻 p.596 ページ画像

航西日記 巻之六・第二八丁 〔明治六年〕
同 ○慶応三年 廿一日 西洋十二月十六日 晴。夕四時より英国を発し。暮七時ドブルへ着く。エドワル并留学生も。此所まて送り来りドーブルにては。滊車場へ一中隊兵卒を歩し。鎮台其他士官等送迎せり
同廿二日 西洋十二月十七日 細雨。朝十時客舎を発し。滊船にて。午後一時仏国カレイへ着く。同二時滊車にて発し。夜七時半巴里へ帰りぬ。此節留守の面々出迎ひ。同八時過旅館に帰着せらる。是にて各国巡回畢たり


渋沢栄一 英国御巡行日記(DK010048k-0002)
第1巻 p.596 ページ画像

渋沢栄一 英国御巡行日記
○上略
十一月 ○慶応三年 廿一日 曇 月      十二月十六日
朝川路太郎中村敬輔江御滞在中御取扱ありし廉を以被下物有之、此夕本地御発御帰巴之積ニ付朝より御理装、夕四時御発ニ而本地の滊車場ニ而滊車御乗組、夜七時ドブル御着、御附添ヱトワルはドブル迄御送申上る、御国生徒一同滊車場江御見立申上る、ドブル御着之節滊車湯江一中隊の兵卒を出し同所鎮台其他数員之士官御迎申上る、最前御休息ありし客舎御投館
十二月廿二日 細雨夕晴 火          十二月十七日
朝十時半客舎御発し御送るとて差出せし蒸気船御乗組 御附添ヱドワルは御乗船迄御見立ニて引取昨夜御迎申上し鎮台外士官罷出御見立申上る、宿舎より御乗船場迄兵卒一中隊余散列せしめ、御通行之節捧銃をなし楽手奏楽せり、同所の砲台ニて弐十一発の祝砲を打砲せり 此日風強く雨を交ゐ船の揺動はけしかりしが、他日の御航海に比すれは頗る易し、公子にはカレイ御着船迄甲板上ニ御散歩、一行之者も深く海疾を患ひさる人は船室に潜臥せざりし、第一時仏国カレイ御着、直ニ御上陸同所滊車場の側なる客舎ニ而御昼餐、第二時滊車御乗組直ニ発軔、夜七時半巴里御帰着、滊車場江為御迎栗本安芸守、同貞次郎、木村宗三、フロリヘラルトシベリヨンカシヨンコロ子ルジレツト其他外国方支配向之者御留守之者等罷出る、馬車も手筈しあれは直ニ御乗組夜八時過御旅館御着、此夜御供之者御迎之者一同江御帰着御祝として御同案之夜餐被下


渋沢栄一 巴里御在館日記(DK010048k-0003)
第1巻 p.596-602 ページ画像

渋沢栄一 巴里御在館日記
 十一月 ○慶応三年 廿二日 曇細雨 火   十二月十七日
夜八時御帰館御祝として御迎之者御供之者一同、御同案之夜餐被下
 十一月廿三日 晴 水            十二月十八日
 - 第1巻 p.597 -ページ画像 
御使節御用被為遂御巡国も一ト先被為済候、以後御留学可被遊候付、御留学中一同心得方申合書面布告相成
御召馬之儀候付コロ子ル見せ馬御覧に入る
 十一月廿四日 曇夕雨 木          十二月十九日
俊太郎篤太夫英貨引替ニ付ヲリヤンタルバンクに罷越す、篤太夫は夫より御用談ニ付ガリレー外国方旅宿に罷越す、御用調訳手続相談いたす御屋形諸規則向食料蝋燭手拭風呂稽古用紙筆墨等諸事取究篤太夫よりコンマンタンに申談る山内文次郎通弁いたす
石見守結髪御用捨願済ニ而苅髪いたす
渋沢篤太夫より川路太郎御用書状差出す
 十一月廿五日 晴 金            十二月廿日
御召馬御買上ニ付馬代コロ子ルに相渡す
卯三月以来巴里御在館、日記写取可相廻分各国帝王謁見手続、英国ローイド一件外国局に相廻す御用意品元調帳弐冊共差送る
御稽古中は洋服御着之積御定相成、今日御著初有之、爾後洋服御歩行ニ而隼人正旅宿御越石見守コロ子ル御供、夕隼人正罷出三田伊右衛門同断、御借家訳書同人持参致請取、夜英国より差送候、馬車馬本夜十時汽車場著之旨ブロンギユより電信ニ而申来る、夜九時過文次郎篤太夫小遣両人召連汽車場ニ罷越す、十時過馬車馬到著いたす、運上之儀ニ付其夜引取方出来不到ニ付、明朝再ひ罷越候旨汽車場之者申談、馬手当等申談夜十二日過引取英国より差添来りたる御者旅館迄罷越し御行違相成
 十一月廿六日 晴 土            十二月廿一日
英国ドブル奉行及書記官 公子御越之節御祝詞申上候儀急速ニ付手続遺漏いたし候ニ付、尚鄭重ニ取調□の五位を以て祝詞申上候書類持参罷出候旨、向山隼人正より申越す、廿八日御逢有之右書類受取御同案夜餐被下候旨申遣す
英国より差越候馬車馬弐疋到著、其外川路太郎より差越候品書之通相改請取差添の御夫は帰英手当五歩相渡同夜差返す、川路太郎へ返書同人に相渡す
午後石見守コロ子ル教師俊太郎御小性壱人御供、御歩行ニ而ボワテブロン御遊歩有之、一時過御帰館
御小性四人病気ニ付御用御免帰朝被仰付度願出候旨菊地平八郎より願書差出す、夜九時石見守より四人心得方取尋有之前段之旨趣申立る渋沢篤太夫立会罷在
隼人正始外国局江御蓄之御茶弐斤被下
 十一月廿七日 日              十二月廿二日
意太里国より被進候デコラアシヨン之儀并石見守以下江被相送候分、白耳義国より製織御注文筋御国表江申上呉候様御越之節石見守より申聞候儀共御国江申立之書類取調いたす
午後御洋服ニて隼人正旅宿御越有之石見守コロ子ルシーボルト御小性壱人御供いたす○カシヨン為御機嫌伺罷出る、御外出ニ付名札差出置罷帰る
英国川路太郎より石見守江書状差越す御金操之儀申越す、来る十二月分被下候乗馬稽古料一同江被下
 - 第1巻 p.598 -ページ画像 
御屋形御入用向取調いたす御有高調訳書類共相調篤太夫より石見守江差出す、内御屋形御入用調弐通共隼人正殿江篤太夫より差出候事
 十一月廿八日 曇朝霧 月            十二月廿三日
朝御乗馬御稽古有之
朝隼人正罷出るミニストルイトランジエーマルーキームースケイ江の書状壱封持参御旅館より御当方江差遣す家主并請負人江御借家之儀ニ付隼人正石見守より書状差出す
御国行御写真取調いたす 小サルヲンチ取調置候事追而額縁出来之分同断
御写真御残高取調いたす左之通相残有之候事
 大君 ニマブラン出来 拾四枚
 公子 マルセール出来 弐枚
 同  御全身     弐枚
 同  フリツセル出来 三枚
 同  一同御附添   壱枚
荷蘭留学生徒江篤太夫より書状差す《(出脱)》
博覧会御使節中被下品各国御巡行中被遣被下品共調訳出来外国局より写相廻ル本書は見留之上差返す
英国ドブル奉行メールチユールチヲール及取捌役シールルカス共罷出る、先頃英国御越之節差出候祝詞同地雑沓中ニ付仮に認差出置候間右本書持参仕候旨ニて美麗に飾立たる祝詞箱入ニ而差出、此夕右両人江御同案之夜餐被下向山隼人正、栗本安芸守、山高石見守、保科俊太郎、三田伊右衛門、渋沢篤太夫御附コロ子ル等御同案被仰付
御借家主に差遣書状同人魯西亜に罷越候ニ付、其儘返る証書と共ニ仕舞置追而帰巴之上相渡候積
御小性之者四人病気ニ付帰国願相済向山隼人正殿帰国便江托し差送候積申渡
御写真類額縁注文いたす
コンマンタン月々勘定書持参いたす不足分相済来月分壱万弐千フ相渡英国送来之馬運上之儀ニ付篤太夫より巴里運上所頭之者江書状差越すコンマンタン相認る
川路太郎より書状到来酒数尊差越す
 十一月廿九日 火              十二月廿四日
午後御洋服御遊歩、石見守コロ子ル俊太郎御小性御供
御稽古後ルユーシヤユツプ留学生徒仮住居御越夕五時半御帰館
 十一月三十日 水              十二月廿五日
此日ノルエルと申キリスト誕生の祭日ニ付御休日
午後御洋服御遊歩、石見守コロ子ル俊太郎御小性壱人御供
御国御用状差出す、外国局江相托ス
御直書封入差出す
 十二月朔 晴 木              十二月廿六日
午餐後隼人正殿旅宿江御越有之、御洋服、石見守御小性壱人御供
 十二月二日 晴 金             十二月廿七日
朝シーボルトフロリヘラルトコロ子ルの子供被下物取調
夕方御洋服ニて御遊歩、一同罷越候馬稽古場御見物、外国局江の達書
 - 第1巻 p.599 -ページ画像 
五通篤太夫持参、隼人正殿江差出す
劇の名アフテアートルアンペリアルデユシヤテレー
 十二月三日 晴 土             十二月廿八日
シーボルト帰国可致ニ付被下物有之
夜七時アウテアートルアンペリアルヂユシヤテレー御越、石見守コロ子ル文次郎御小性壱人御供、留学生徒十人をも御召連相成
夜日比野清作来、御勘定向申談いたす
 十二月四日 曇               十二月廿九日
御雇之内帰国之者御手当道中旅籠銭凡積相渡
夕方洋服御遊歩、石見守御小性壱人御供
 十二月五日 曇 月             十二月三十日
シーボルト今日帰国ニ付、為御暇罷出る
隼人正殿罷出る、夜栗本貞次郎来る
 十二月六日 晴 火            十二月三十一日
国帝より明七日西暦千八百六十八年第一月一日ニ付新年之祝賀御逢申度旨ヂユックドヤンバセレーズ其使者を差出し書翰差上る
夜白耳義国王より差上候二連銃箱入ニて到来いたす、巴里在留の白国ミニストルベイヤンより御附添コロ子ル江宛書状差越す
荷蘭王及王妃の写真四枚、同地留学生より送越す
 十二月七日 晴 水       千八百六十八年第一月一日
第一時国帝江新年御祝賀のためチイロリー宮御越、尤御狩衣石見守俊太郎御附添コロ子ル御供いたす
大君御写真 公子御写真各三枚《額縁有之候分》を御持参御贈相成
新年之ため御旅館小遣一等其外諸出入之者江為年玉銀子被下
 十二月八日 晴 木              第一月二日
第十二時御洋服御写真被為取候ニ付、ニマブラン御越、石見守文次郎御小性壱人御供、御飼犬リヨンを為御牽相成、御帰路石見守は向山隼人正旅宿カリレー立寄
留学生一同栗本貞次郎引纏ひ新年之賀御祝として罷出る
篤太夫御巡国日記出来ニ付、御手許御控之分差上る
 十二月九日 晴夕雪寒甚 金          第一月三日
第三時皇太子御年始御祝詞として罷出る、ゼ子ラール壱人馬教師壱人附添罷越す、御庭御稽古所とも御誘引直ニ罷帰る
フロリヘラルト御年始として罷出る
篤太夫御用談ニ付、外国局旅宿カリレー江罷越す
 十二月十日 曇霏雪 土            第一月四日
朝荷蘭倫敦等江篤太夫より書状差出す
外国局江是迄之物返却いたす、酒数尊封入差遣す
白耳義国カピテインニケーズ国王相送られ候鉄砲相達候旨挨拶として石見守より書状差出す
クーレー罷出縁附御写真を被下
 十二月十一日 雪 日             第一月五日
朝御飼馬之儀ニ付コロ子ル談判有之、以来御馬三疋 一日五日 壱ケ月百五十フニ而飼立候様可致積因而同人所持之飼料も御見込被下度旨申聞候事
 - 第1巻 p.600 -ページ画像 
仕立師ブーシ江御勘定相渡候事
日比野清作より諸書附請取候事 御旅館火災請合御旅館御修覆代追而可仕上分諸請取類見合迄之積
箕作貞一郎罷越御書物仕合いたし、目録書請取候事
夜三田伊右衛門より明後十三日荷物差立之積申越候事御写真類御国御送之分仕訳いたし候事
 十二月十二日 雪 月 朝御乗馬        第一月六日
江戸表江進達物手当類願覚書共、渋沢篤太夫持参いたし隼人正殿江差出候事
英意御入用仕上并御写真代共同人より日比野清作へ相渡候事
箕作貞一郎被下物実測地図壱部被下候事
御国書状到著御用状はなし
仏国御滞在中諸入費類フロリヘラルト為替承知之書面写隼人殿より相廻候事
貧窮人江御施の弐百フランク市中惣代之者より礼状差出す
川路太郎中村敬輔江書状差出す、拝借金為替手形封入ニ而差遣す
 十二月十三日 曇 火
御国行御用物外諸荷物共ガリレー《入記目録相添差遣候事》江相送候事
午餐後洋服御遊歩石見守コロ子ル等御供
夜川路太郎より書状到来
隼人正殿帰朝ニ付外国事務執政ムスチー御旅館の儀は石見守万事取扱候旨書面差出し、右写相廻候事御附添コロ子ル同断
 十二月十四日 水 朝御乗馬          第一月八日
夕軍事ミニストル名札を以年頭御礼申上る
御国より御取寄御品到着切開相改受取
隼人正来ル
夜九時帝宮舞躍相催候御招待ニ付、御越、石見守、俊太郎、凌雲、宗三、文次郎、篤太夫等御附添コロ子ル御供
献上の御時計鎖代コンマンタン江御渡
 十二月十五日 木               第一月九日
英国川路太郎、中村敬輔より拝借金請取差出ス
隼人殿帰朝ニ付為御贈別御同案の夜餐被下隼人正・安芸守・栗本貞次郎・三田伊右衛門・日比野清作・箕作貞一郎・塩島浅吉・中山七郎・北村元四郎等罷出る、石見守・俊太郎・凌雲・宗三・文次郎・篤太夫御小性両人御相伴フロリヘラ罷出御附添コロ子ル教師共同断、クレーカシヨン等御招之処外出付不罷出候事
 十二月十六日 金 朝御乗馬           一月十日
ガランモン江被下品御写真共外国局旅宿へ差遣す
コンマンダントバンサン江為御年玉小箱壱ツ御写真を添被下難有御礼申上る
茶・醤油入用向取寄方外国局江達す
海軍惣督名札を以御年始申上る
御名札ニ候而御年頭御申遣し相成候処書
  但コロ子ル持参いたし候事
ハロンドラシユス     礼式掛    ハロンシブーエ  礼式掛設待役
 - 第1巻 p.601 -ページ画像 
ハロンジユイエドコンシユ 各国使節取扱 ハロンソリギアク 帝側役
ブエルトラ        礼式掛    アンリモリス   礼式掛
ヂユリドカンバセレーズ  同断総裁
飛脚ニて差遣し候分

エルブエ 医師 フロリヘラル シユブリヨン パリエ

 十二月十七日 土 晴微曇           一月十一日
川路太郎より酒売払方之儀申越外国局江相廻し尚精々いたし候、モシ売払兼候ハヽ在留公使江可相廻旨同十八日書状差出候事
御用状御書付類外国局より相廻ル追而書留栗本之手江返却可致事
 十二月十八日 日 曇             一月十二日
隼人正始来二十一日出立之者一同御暇乞罷出る
日比野清作より御金請取高調書差出、篤太夫より請取相渡
要用之書類不残引渡有之、川路太郎・中村敬輔の拝借金請取願書も請取置
御手許入用にて組入候払方は差引清作へ相渡
立替置之壱万仏は今夜受取可申積申談
御雇之者帰国ニ付御目付へ御用状は御雇之者引渡候事
御直書類四封石見守より隼人殿江相渡候事
上様壱水戸殿壱貞宝院殿壱土屋余七麿殿壱
夜石見守篤太夫外国方旅宿ニ罷出御用談有之
 十二月十九日 曇 月             一月十三日
朝御乗馬、隼人正伊右衛門等罷出候事
第十一時半御洋服ニ而隼人正旅宿ガリレー御越、石見守・保科俊太郎御小姓壱人御供、石見守は隼人正同行ニて諸方罷越候事
 十二月廿日 曇 火              一月十四日
御国行御用状京地行三封江戸行宅状共外国局江相托す、御写真一面横浜行其外絵図共箱入ニ而相托ス、爾後引続御用ニ関り候儀は石川より隼人殿宛御用状可差遣、三田伊右衛門に申談置
夜石見守・俊太郎・文次郎・篤太夫ガリレー罷越、為送別夜餐有之十二字帰宿
 十二月廿一日 曇 水             一月十五日
朝御乗馬
コロ子ル之儀候付隼人正殿御旅舘江罷出
夕七時、隼人正・三田伊右衛門・箕作貞一郎・日比野清作・塩嶋浅吉・中山七郎・北村元四郎、六日出立保科俊太郎・渋沢篤太夫カールデリヨン迄見立罷越、御国行御用状相托し差出す
御雇之者、病気帰国之者四人同様出立いたす
夜外国事務執政ムスチー宅に舞躍之会有之、御招請ニ付罷越、石見守文次郎コロ子ル御供、栗本安芸守も御供いたす
 十二月廿二日 曇 木             一月十六日
 - 第1巻 p.602 -ページ画像 
午後御馬ニてボワテブロン御遊歩、石見守・俊太郎・文次郎・菊地平八郎御附添コロ子ル御供
 十二月廿三日 曇 金             一月十七日
朝御乗馬
石見守・篤太夫・安芸守御用ニ付旅宿江罷越す
 十二月廿四日 曇 土             一月十八日
栗本安芸守来
御旅館諸道具之内不用品取調留学生江可相廻旨コンマンタントに申談調書請取
 十二月廿五日 晴 日             一月十九日
留学生一同罷出る、茶其外被下、御相手いたし、御稽古所ニ而休息夕方罷帰る
坂戸小八郎罷出る
 十二月廿六日 曇 月             一月廿日
朝御乗馬御越
渋沢篤太夫御用ニ付、栗本貞次郎旅宿江罷越ス
明廿七日、貞次郎生徒共第五十五番セルセーミジーと申処転宿之旨申聞る
向山隼人正、馬塞里より差送候書状到著、一同無異廿五日二時同所出帆之積申越、御附コロ子ル江の返書差越す、直ニコロ子ルに相達す
 十二月廿七日 曇 火             一月廿一日
午後石見守・俊太郎御附、コロ子ル御供プランスアムペリヤル御尋問
第一時半御帰旅
 十二月廿八日 曇 水             一月廿二日
朝御乗馬、記事なし
 十二月廿九日 曇 木             一月廿三日
栗本安芸守罷出る、同貞次郎・坂戸小八郎等来、クーレー罷出る
歳暮御褒美として一同江被下物有之
瑞西国元御国江使節ニ而罷越候アンベルと申者、其従弟ドロヲと申者を以時計献上いたす、石見守面会収納ニ相成旨申聞る
 十二月三十日 半晴 金            一月廿四日
シーボルト罷出る
午後御遊歩、朝御乗馬
午後より御学科御休課
夕方英国女王写真到来 大君 公子江差上候分共弐枚来
○下略


(日比野清作) 各国江公使御巡行御留守中日記(DK010048k-0004)
第1巻 p.602-603 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之三・第二九―三一丁 〔明治二〇年〕(DK010048k-0005)
第1巻 p.603-604 ページ画像

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之三・第二九―三一丁 〔明治二〇年〕
当春仏国へ到着の頃には、外国奉行の一行も打交つて博覧会は勿論、諸方の見物、又は、礼典に列するなど、殆ど余暇もない有様に経過し、又八月頃からといふものは、かの各国の巡回で国々の名所旧蹟を遊覧したり、或は国王への聘問応答などにて、面白く世話しく其日を送つたが、外国方の人々は各国巡回の前後に皆帰朝して仕舞つて、漸く閑暇になつたから、其処で十一月の末に至つて、留学の緒《いとぐち》に就くことが出来たサア是からは最初の目的の通り、修学一途といふことで、語学の教師を雇入れて、稽古を初めることになつた、其人々は公子と山高と自分と、かの七人の扈従の者で、都合十人であつたが、助教師には随員中の山内文二郎といふ人があつて、日本語で仏語の翻訳をして居たが、是山内も程なく帰朝したに依て、其後は其頃仏国留学生の中で小出涌之助といふ少年が、最も仏語を能く解するので、之を公子の御相手に命じたことであつた、偖て公子の修学課程といふは、毎朝七時から乗馬の稽古に往かれて、九時に帰館になつて朝飯を仕舞はれると、九時半に教師が来る それから午後三時まで語学や文法などの稽古をして、三時に課程が済むと、又翌日の下タ読、作文、諳誦などいふ、都合で、なかなか余暇はありませなんだ、自分は其間に日本へ出状するとか日
 - 第1巻 p.604 -ページ画像 
記を録すとか、其他御旅館内の俗事は皆一身に引受て弁ずることであるから、実に聊の余地もない程に繁忙を極めたことでありました、各国の巡回が済んで、留学の順序が極つてから、一二ケ月経て、御国よりの命があつて、山高は御伝役を免ぜられて、公子に属する事務官は自分の独任となり、又扈従の中にも病気で勤仕に堪へぬ人が出来て二人帰国させたから、御旅館内も次第に人少になりゆきました、○下略


昔夢会筆記 中巻・第四六―四七頁 〔大正四年四月〕(DK010048k-0006)
第1巻 p.604 ページ画像

昔夢会筆記 中巻・第四六―四七頁 〔大正四年四月〕
○渋沢 ○中略 仏蘭西の公子に対する待遇は、博覧会のことが済み、他の国々の旅行及英吉利の訪問が済みましたら、丁度十二月の末になりました。それでこれから留学といふことになる、其前からしてウイレツトといふ騎兵大佐が全く御附き申して、学業其他平素の御挙動について御世話をする、これはナポレオン三世の指図で、其時の有力なる陸軍大臣の大層贔屓の軍人であるとかいふことでありました、これからはもう全く完全なる留学生に御成りなさいました。○下略


竜門雑誌 第四八五号・第八七―八九頁 〔昭和四年二月〕 【新年所感(昭和四年正月三日)】(DK010048k-0007)
第1巻 p.604-605 ページ画像

竜門雑誌 第四八五号・第八七―八九頁 〔昭和四年二月〕
○上略
    仏蘭西に於ての印象
 民部公子が仏蘭西留学と云ふことに成つたときに、時の仏蘭西皇帝ナポレオン三世から教育家として特に附けて呉れたのが騎兵の「コロネル」でモツシユ・ヴヰレツトと云ふ人、是は始終教育上のこと、修身上のことに就てお世話をして呉れた。私も亦内々の事柄に就ては其人以上にお世話を申すことも出来たけれども、大体は其人がお世話しました。
 別にこちらから聘したのでは無く、我将軍から向うの皇帝に頼み、皇帝から其監督の為めに附けて呉れた人で、而も相当の身柄の人であつたから民部さんの修学に就ては中々に権力の有つたものです。それから日常の家のことゝか、道具のことゝか、総て生活向に就ての世話方、即ち会計に属することは、―私も会計掛で始終お世話をしましたが、「コンシユル・ゼネラール」のフロリヘラルドと云ふ人が担当しました。此人は私立銀行を持つて居る人でありましたが、日本から頼んで担当して貰つたのであります。其ヴヰレツトとフロリヘラルドとでは、一方は「コロネル」でお役人様、一方は銀行者で町人、斯かる二人が一緒になると日本の例で云ふと町人は必ずお役人様の命令に唯々諾々だが、此二人の相接する実際の模様を見ると―私も幾らか仏蘭西語が分るやうになつたので、側で聞いて居ると、―殆ど区別が無い。一方は斯う成さる方が利益で有りませうと云へば、さうですか、それぢやさうしませうと云ふやうな塩梅に、其二人の間に毫も尊卑上下の区別が無い其有様を見て私は深く感じたのです。成程斯うなくてはならない。日本の例で云へば町人はいくら賢くてもお役人様の思召次第。事に依ると曲つた事が良くなつてしまう。甚しきは鷺を烏と無理押付をされることが幾らもある。然るに仏蘭西にはそんな弊害は無い。国民全体が平等で、役人なるが故に威張ると云ふことが無
 - 第1巻 p.605 -ページ画像 
い。これが本当であるべきであるのに、日本の従来の有様はさうで無い。日本の此有様は改良せねばならぬ。此風習だけは日本に移したいものであると深く感じたのです。
    官尊民卑の打破
 他の事も稽古して帰りたいと思つたけれども、取分け官尊民卑を打破すると云ふことに就ては自分が一つ努力して見たいと心に期して居る中に、前に申すやうに維新の大変が起つて、其為に遂に民部さんが予定の修業をなさらずに帰らねばならぬことになり、随て御随身申した私共も遂に何等為すこと無く帰つて来ましたが今申す官尊民卑を打破せねばならぬと云ふことだけは深く心に刻んで居つたのであります。それで帰る早々に考へましたのは、自分は智慧も無ければ学問も無い色々の変化に遭遇して最早政治界に立つべき念慮も無い、さればと云うて家へ帰つて百姓をするのも残念である、それ以外に何か国の為めに尽すことが出来さうなものではないかと云ふ所から、今の欧羅巴の有様、官たり民たるに依つて尊卑優劣などは置かぬ、各人其の能力知識に依つて其職分を尽す、此風習を日本に移すことに努力して見たいと私は其時に深く覚悟したのです。そこで駿河へ行つて一種の半西洋式の組合事業―藩の資金を主として、民間の資金を加へて、官民合同の商会を造つたのです。銀行もやれば商売もやると云ふやうな申さば腰だめの仕事で、立派な順序を履んだものでは無かつたが、併し其れは其仕事に依つて利益を得ると云ふよりは、今申すやうな治者被治者の能力の働きから知識の使ひ方を従来の趣向と変つた新式を試みようと云ふ覚悟を以て取掛つたのです。其時分静岡藩では石高拝借金が五十万両以上ありました。石高拝借金と云ふのは各藩の石高によつて明治政府の紙幣を借りたのですが、それが静岡藩の分は五十万両あつた。
 此拝借は長く其儘で済むものでは無い、何れ返さなければならぬ、若し此金を迂濶に使つてしまう様なことがあつては返済の場合に甚だ困る訳になるから、是非相当の方法を講じて使ひ込をせぬやうにせねばならぬと云ふのが私の思案でした。此等の点も考へ前申した商社の創設を企て頻に重立つた人を勧めて参りました。駿河藩の政治を執つて居た大久保一翁、勘定頭の平岡準蔵、小栗尚三などと云ふ人々が私の説に賛成して呉れまして、愈々之を造ることになり、お前が其れを取扱つて呉れろと云ふので、私が之を引受けることになり、商法会所と云ふものを静岡に起しました。
   ○右ハ昭和四年正月三日談リタル栄一ノ新年所感ノ一節ナリ。


竜門雑誌 第五一〇号・第六―七頁 〔昭和六年三月〕 【偶然の転換と目的の達成】(DK010048k-0008)
第1巻 p.605-606 ページ画像

竜門雑誌 第五一〇号・第六―七頁 〔昭和六年三月〕
○上略 仏蘭西での留学は、遺憾ながら水泡となつて帰朝したが、約二ケ年仏蘭西に滞在した間、またその間英吉利、伊太利、白耳義、和蘭、瑞西等を巡遊した時に、最も感じたのは、事業が合本組織で非常に発展して居ることと、官民の接触する有様が頗る親密であることであつて、一面からは合本組織で商工業が発達すれば自然商工業者の地位が上つて官民の間が接近して来るであらうと思つた。特に、民部公子の
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お側に居て事務上の世話をするためナポレオン三世から附けられたコロネル・ヴイレツトと云ふ人と、幕府から頼んだ総領事のフロリヘラルドと云う人との接触のさまなどを見ると、全く役人と民間の人と云ふ相異は少しもなく、何等の懸隔がなく全然対等で、日本の有様とは雲泥の相異であつた。私はかねて日本の官尊民卑の弊を甚だしく慨嘆して居たから「斯うなくてはならぬ」と切実に思つた。それから愈々帰朝してから、慶喜公の蟄居して居られた静岡へ参り、種々いきさつのあつた末、一種の合本組織である商法会所を起し、暫くやつて居る内明治二年新政府へ出仕を命ぜられ、進まぬながら役人になつてからは立会略則とか会社弁と云ふやうな書物を大蔵省から出版したり、其の他の方法で商工業の向上に資した。更に明治六年官を辞して、第一国立銀行を会社組織によつて創立し、爾来約五十年間之を主宰し、七十七才を機として之を辞し、又実業界の関係を絶ち、全く社会事業に身を委ねるまでは、一意此の会社組織による商工業の経営、延いては日本実業界の発展興隆、並に実業家の地位の向上、換言すれば官尊民卑の弊風打破と云ふ目的の為に努めて来たのである。然るに時勢の進展と共に、漸次改善せられ、今日では実業界の実情を見ても、官民接触の事情を見ても、殆んど私の希望した点は達成せられたと申すべき程になつた。
 先年私の米寿を祝ふと云ふので、日本の主なる有力者が寄つて祝賀会を催して呉れた時にも「甚だ失礼な申分で御座いますが、今日御集リの皆様が此の私の八十八を祝つて下さると云うに付て―嘗ては実業界で働いた身で御座いますが、今日は名もない老ぼれたので御座いますが、其私をお招き下さつて祝意を表するに付て―総理大臣が親しく臨席せられ、かゝる御祝詞を御陳べ下さると云ふことを見ても、いかに官民が密着したかは明瞭で御座います」と述べたのであるが、今日となつては、私の当時の思入が間違ではなかつたと考へ、聊か満足と感じてよいかと思ふのである。
                          (三月十六日談話)
   ○右ハ「偶然の転換と目的の達成」ト題スル談話ノ一節ナリ。


竜門雑誌 第一三四号・第三頁 〔明治三二年八月〕 【上略 此事 ○慈善事業…】(DK010048k-0009)
第1巻 p.606-607 ページ画像

竜門雑誌 第一三四号・第三頁 〔明治三二年八月〕
○上略 此事 ○慈善事業 に就ては外国人は驚くべきほど多くの力を用ゐて居り、中には死後の財産を残らず慈善事業に寄附するなどと遺言をする者も多い位で、貴婦人達は、慈善会の為に力を尽すことが唯一の仕事の様になつて居る、丁度私が維新の前に徳川民部公子に随行して仏国に居りました時の冬で御座りました、一日巴里居住の陸軍中将位の貴顕の夫人の名で書面が参りまして、其中に言ふには、今年の冬は余程寒い様であるから、巴里の市街の貧民を煖かにして遣はしたい、因りて来る何日に何所へ来て何か買て呉れと云ふ依頼である、私などは其時分にはまだ慈善会といふものを知りませんから、不思議に思ふて他の人に聞きますと、其れは篤志の紳士方に頼んで、義捐金を出して貰ふて、其れを何町かにある貧民院に寄附するので、物を買ひに来て呉れといふのは、其所に何か品物が備へつけてあるのを慈善の為に高く
 - 第1巻 p.607 -ページ画像 
買て呉れと云ふのである、必ずしも行かなくても何程か金さへ出して遣れば宜いのだと云ことであるから、然らば民部公子などの態面として、何程出せば宜からうかと聞くに、多きは四五百「フラン」から、少きは五十「フラン」も百「フラン」もあるといふので確か百「フラン」ばかり出して遣りましたが、其時何か品物を送つて寄越して、之を買つて下すつたことにしたと云ふて来た、其れで始めて慈善会といふことの性質が分かり、成程此れは博愛済衆の趣意に適ふて良い事であると感心しました、其後も彼地ではそう云ふ風に度々寄附を云ふて来て、其度ごとに民部公子は之に応じられました、其れで私は日本にも他日斯う云ふ習慣を作りたいものだと思ふて居りました、
○下略
   ○右ハ慈善ニ関シ栄一ノ語リタル談話ノ一節ナリ。
   ○六二〇頁「巴里御在館日記」二月八日ノ項参照。


市河晴子筆記(DK010048k-0010)
第1巻 p.607-608 ページ画像

市河晴子筆記 (市河晴子氏所蔵)
    コロネル シユレツトと決闘せんとせられし話
 それから一度フランスであつちの土になつてもかまはないと思つたことも有りましたよ、民部様の御指導役つてのでナポレヲン三世からつけられたコロネル シユレツトと云う陸軍の軍人がありましたが、名誉あるしかも短気な人で、我が言は天下の至言と云う様な顔してナポレヲンをかさに着て、さすが民部様へ失礼はなかつたものゝ、御附き人の私たちは頥で使ひ廻して、わるく云へば奴隷あつかいだから、常々小面憎くつてならなかつたけれど、まーこちらは言葉も十分でなし、胸をさすつてゐたところ、ある時ひどく剣附鉄砲の自慢をしてね まさかあの頃鉄砲の先へ剣をつけ初めたのでもあるまいね、何か当時改良された点でもあつたのか、その効力を喋々とといてね、そりや鉄砲が大した発明だと云うのなら一言もないが、あの剣附き鉄砲の剣が日本刀より武器としての価が多いつて云ひ出して、その威圧的な云ひぶりの小面憎い上に、何しろ武士の魂をあんな剣に比べられたんだからぐつと腹が立つてね、聞き捨てにならんと思つて、「これはけしからん、日本の刀がどれほどの働きをいたすかを御存知もなくて何で比較が出来ましよう、おとなしく承つてゐればよいことにして、勝手な御批判片腹痛うござる」ときめつけたら、さあそれが論判になつてね、エヽことによつたら切つてしまへと思つてね、今もあすこにあるだらうあの朱鞘の大刀を引つけてね、「論より証拠あなたとこゝで日本刀と剣附鉄砲で雌雄を決して、どちらが効力が多いものか黒白をつけましよう」つて立ち上つたものさ、シユレツトも驚いたろうよ、いよいよリユエ……あつちでは決闘をリユエつて云ひましたよ、で「リユエをするとなれば手続が入ります、それは厭はないが卑怯を云うのでないが、私もわが皇帝から民部様を御指導しろとつけられた者、あんたも選ばれてはるばる御供して来た人、御互にどちらに怪我が有つても賞めた話でない、こりやどつちつかずに止めやうでないか」と云つてね それでものわかれになつたけれどこりや向うの方がもつともさ。
 口をつぐまれた祖父様はすこしはにかんだ様な御笑ひ方をなさつ
 - 第1巻 p.608 -ページ画像 
た、同じ無鉄砲に切つちまへと思はれた御話でも、これが一番若気であつたと御思ひになるとみえて、あの三島氏の時の話の様に、今でもその年齢、その場合に又なれば、も一度あの通り飛び出すぞつて様な御息組みではなかつた、しかしその是非をも超越したやむにやまれぬ若き意気を愛し、許すが如く二度「何代口惜《なにしろ》しくつてね」とくり返された「西洋の吉良上野」と申し上げて笑つた。
 それから商売気を出して、つまり言葉が通じないと十分に論争し合へないので、理解を欠いて言葉戦ひめんどうだつて、手を出し合う様な事になるのだから、平和の基は語学にある様な英語先生の張灯持ちをする、祖父様は真面目にうけて下さるので有難いが、正面から「御もつともです」なんておつしやられると、ちとテレることがある。
  ○此談話ノ事アリシ時期ハ明確ニ知ラレザレトモ恐ラクハ此頃ノ事ナランカ。


渋沢栄一 書翰 千代子夫人宛 (慶応三年)十二月一七日(DK010048k-0011)
第1巻 p.608-609 ページ画像

渋沢栄一 書翰 千代子夫人宛 (慶応三年)十二月一七日 (穂積男爵家所蔵)
一筆しめしまいらせ候、自分儀ふらんす国に罷越候以来、いつも替りなふ相勤罷在候、其御許ますます御平安御両親へ御孝養可被成事と遠察いたし候、不存寄事ニ而此度は一万里の海外ニ御用被仰付、其上四五年もとふりういたし候儀、永々の留守独身ニ而父母への奉仕為致候儀は心ならぬ次第、朝夕心に懸り候得共、一旦武士と相成候身のいたし方なく、昔し唐土にも十九年又は五三年の他所に出て其家に帰らさるもの多く有之候得は、いつれにも御辛抱二三年の間被骨折候様呉々も頼入候、且又先達而より度々其御許儀ニ付心配いたし候次第、厳君《ちゝうゐ》にも申上置候間、いつにか《(マヽ)》御心配可被成、もし江戸表ニテ帰国相待候様相成候ハヽ、平九郎と同居いたし、外国方の杉浦と申人を頼み留守致候様可被成候
手計の母様は御替りなく候哉、よろしく御申伝可被下候、母様へは別而孝養行届候様可心掛、おていも成人とそんし候、随分睦敷いたし候様破成度、うたは大切ニ成人為致、自分帰国を可相待かりそめにも短気等を出し候而は不宜候間、唯心長くいたし候よふねんし候、月日は早き物にて夫是と申内には三四年を過し候間、くれくれも心永く帰国を待候様頼上候
其後はたへて書状も不申越、京地にある節は度々書状を可遣よし申送置候、此書状相達候上は是非壱封相こし可申候、夫婦は人倫の大道にして婦は夫に順ふは日本唐の古人の教、固より婦道を尽し呉候心底は申迄もなく承知いたし候得共、唯こなた事一旦の発念より永々人倫に背き候よふ成行しは、何処迄も自分心得違、今更致方無之候、唯心永く他日目出度面会いたし候を楽居候より外無之候、返返も短慮なきよふ、手計の兄様に事々御相談可被成候、永き年月には憂《う》き事もからきことを《(もカ)》あるへく、辛抱より貴きものハ無之候間、能々御心附可被成候、申進し度こと山々に候得共、尚此次と書おさめ、あらあらめてたくかしく
  (慶応三)十二月十七日
                        篤太夫
    お千代とのえ
 - 第1巻 p.609 -ページ画像 
  尚々寒さの時節、折角御大事ニ可被成、うたハ今年五ツに相成可申存候、最早大きく相成候事とそんし候


渋沢栄一伝稿本 第五章・第一九〇―二〇〇頁 〔大正八―一二年〕(DK010048k-0012)
第1巻 p.609-612 ページ画像

渋沢栄一伝稿本 第五章・第一九〇―二〇〇頁 〔大正八―一二年〕
○上略
昭武の各国を巡回するや、孰れも皆款待を受け、かねて懸念せる英国さへも、日本大君の親弟として皇族の礼を執りたるほどなれば、慶喜公が昭武を特派せる目的は十分に達せられしが如し。殊に各国政府が軍港・兵営・砲台・兵器製造所等を解放して参観せしめ、又各種の商工業を視察するの便宜を与へたることは、上下一行の知見を広めて、間接に我国文運の進歩を促したる力尠からざりき。中にも先生の卓絶せる観察力と、鋭利なる批評眼とが、将来の事業に著しき影響を及ぼせるは、絮説するに及ばざるべし。
昭武はかねて露西亜・普魯亜《(マヽ)》・葡萄牙へも使すべき命を受けたれども、故障ありて孰れも延期することゝなり、英国より巴里に帰れる後は、予定の如く公務を離れて講学に従事せんとす、此に於て附添の人人相謀りて規約を定む。其文に曰く、「今度博覧会御使節遂げさせられ各国御訊問も一先づ済みたれば、兼て御親命の通り、以後御留学なさるべし。就ては当節柄諸事省略ありて、一途に御勤学遊ばさるべきが故に、御雇の者いづれも已来留学と心得、真実に修行すべし。最も深き御趣意ありて、一同御附添留学を仰付けられしことなれば、他日一廉の御用に立ち、御盛意に報じ奉るやうに心掛くべし。民部大輔殿にも一同の上達を望まれ、既に当国其外へも追々留学の生徒差遣はされたる折柄、是より先、英・露・蘭の三国に留学生を派遣せり 御附属の者にも、右生徒に劣らざるやうありたしとの思召にて、御自身率先して御修業成さるれば、一同にも互に切磋して、他日の上達を期すべし。又御留学は御附属御雇の者ども、仮に御相手を申上ぐるまでの義と心得ては宜しからず、学科進歩の効果の現はるゝやう勤学すべし、俊太郎・文次郎には民部大輔殿を始め、一同語学相応に出来るまでは、これまでの如く緩断《(マヽ)》なく助教すべし。仮御屋形向の御入費相嵩まざるやう致すべきについては、一同申合を定め置き、堅く守るべきものなり。尚心附きたる義は、互に伏臓なく申合ふべし」以上 とありて、慶応三年十一月と日附し、先生及び山高信離・保科俊太郎・高松凌雲・木村宗三・山内文次郎・菊池平八郎・井阪泉太郎・加治権三郎・大井六郎左衛門・皆川源吾・三輪端蔵、服部潤次郎の十三人記名調印し、又別紙の「巴里仮御屋形申合」には「毎朝第九時までに、一同御稽古場に出でゝ御機嫌を窺ひ、夫より銘々学科に附くべき事。御稽古は期限通り、御次一同も同断。尤も御用私用又は不快にて欠席せる時は、其筋へ申立つべき事。御門限は朝六時より夜第十一時までの事、但拠なき御用私用にて、期限後れし時は、其段其筋へ申立つべき事。御用私用に拘はらず、外出の節は名札を差出し置き、帰宿の節請取るべき事。御留学中一同学問専務に仰付けられたれば御外出の節石見守御供仰付けらるゝか、又はコロネール仏人ウヰレツトをいふ、下に詳なり 召連れらるゝ節には、其外御供の者は召連れられざる事。御部屋の外、御賄の飯食類部屋内へ取寄せ、一切飲食致すまじき事。
 - 第1巻 p.610 -ページ画像 
御部屋の外、有明灯点じ申すまじき事。但部屋々々に応じ、蝋燭渡し方御定の外、私に一切取寄せ申すまじき事。私用にて小遣の者一切遠方へ差遣し申すまじき事。入湯は一箇月御定の通り、其都度都度切手相渡し用意致すべき事。但両三人づゝ申合せ入湯致すべき事。稽古用の紙墨筆は、分限に応じ毎一週御渡しに成るべく、其余猥に遣ひ申すまじき事。乗馬の義は、御相手を仰付けられし外は、切手を下さるべければ、都合次第罷越し稽古致すべき事。御用に付馬車入用の節は、其都度申立つべき事。右の通申合相定め候事」以上とありて、日附・署名前に同じ。これ実に先生の起草立案に係るものなりき。航西日記。御用日記。御用留。渋沢家文書
昭武の留学につきては、かねて慶喜公より仏国皇帝に依頼せし旨あり、向山一履も亦公命を帯びて交渉を重ねたれば、皇帝も力を添へ、其最も信任せる陸軍中佐ウヰレツトを挙げて師範役となしたり。ウヰレツトは既に去る七月以来、昭武に侍して輔導の任に当れる者なり。此他語学、画学、射撃術、馬術、運動術など、それぞれの師を選びて学び、附添の面々も各其志す所を修業せり。先生は此時俗務多くして、他の人々と同じく学事の研究に専らなること能はず、僅に山内文次郎及び幕府の留学生にして海軍奉行並支配なる小出涌之助に就きて仏語を修学せるに過ぎざれども、其実地の見聞と経験とは、蓋し先生をして今日あらしめたる所以にして、兀々講学するよりも、寧ろ却て効果ありしとや言ふべからん。巴里御在館日記。航西日記。渋沢家文書
先生の専ら取扱へるは庶務会計なれば、俗事役又は俗事取扱と称したり。初め先生が本国出発の時 慶応二年十二月 有司に呈書し取扱事項につき指令を仰ぎて曰く、「一、御用中の着服は、これまでの勤服を用ゐ、廉立ちたる礼典には羽織袴を着用すべきや。二、御用意金の出納は、明細に取調べ置き、追て内訳帳を差出し、収支の仕上けを為すやう心得べきや。三、御持越御用金不足の際には、彼国御用達に命じて調達せしむべしとの事なれば、其手続など予め御治定ありたし。四、御用中御用筋を申告するは、いづれの局へ差向けて然るべきや。五、御用中かねて御持越になりし調度器具など不足せば、なるべく彼国の品を用ゐるべしといへども、御国の品ならでは御用を弁じ難きものは、書取を以て申立つべく、其折には早々御送附ありたし」といふなり。幕府は之に対し「第三箇条御用意金不足の節の取扱方は、山高石見守・向山隼人正へ申談じ、御不体裁なきやう取扱ふべし。第四箇条の趣は石見守へ申談ずべし。其外は伺の通たるべし」と指令せらる。よりて先生は御用意金として二千両の下附を請ひ、同年京都郡代小堀数馬より之を受領せり。御用留
昭武の巴里に著したる初は、一行皆カプシンヌ街なるグランドホテルに投宿したりしが、五月十一日に至りペルゴレイズ街五十三番地なる建物を賃借して此処に移る。八月十七日に至り、向山一履・栗本鯤を始め外交官の面々は、他所に転居して全く分離することゝなれるが、先生は昭武の公館に留り、旧の如く一行 外交官を除く の金銭出納、公務日記の記載、並に日常の庶務に鞅掌して頗る繁忙なりき。中にも昭武が日本の公子たる資格を以て滞在せる、慶応三年三月より七月までの間、
 - 第1巻 p.611 -ページ画像 
并に各国を歴訪せる八月より十一月までの間は、内外公私の用務持に多く、殆ど席温まるに遑あらざりしが、十一月下旬昭武が留学生の資格となるに及び、僅に多少の閑暇を得たり。されど公館の事務は表面山高信離の総理ながら、実際手を下す者は先生一人なれば、他の人々の如く学事に専なること能はざりき。御用日記。書記局日記。航西日記 此時に当りペルゴレイズの旅館にありて昭武に侍する者、内外人を併せて上下三十余人の多きに及びたるのみならず、かの中佐ウヰレツトは、日本公子の威厳を保つの必要と称して、万事華美を尽さしめ、尚経費を要すること尠からざれば、先生は山高信離并に外国方の人々と議して、其節減を図るに苦心せり。巴里御在館日記。渋沢家文書。
巴里の万国大博覧会には、幕府外交官の苦心せし一事あり。初め薩藩は仏人モンブランと謀り 岩下方平を同国に派遣し、琉球島王と称し、幕府の制令を受けざる独立国として出品陳列せり。向山一履巴里に来り之を見て大に驚き、田辺太一と共にモンブランを詰り、又大博覧会の事務局とも交渉して、琉球国王の名称を撤回せしめたれども、尚薩摩大守の政府と称したるを黙認せるが為に、幕府は其失態を咎め、一履・太一を召還し、外国奉行栗本鯤を特派して一履に代らしむ。鯤が巴里に来れること既に上文に述へたり 向山一履の帰朝せし時、箕作貞一郎・日比野清作・及び扈従の水藩士井阪泉太郎・皆川源吾・加治権三郎・服部潤次郎等も亦共に帰朝せり。水藩士四人が幼稚の昭武を捨てゝ巴里を去るに至れるは、自ら其故あり。抑かの水藩士は、昭武が幼少の頃より左右に侍し、其清水家を相続するに及びても、依然同家の御雇として侍臣の列にありしが、極めて保守的の面々なれば、外国の習慣など一々心に染まず、見るもの聞くもの皆其感情を害したり。一例を挙ぐれば、旅館のボーイが珈琲などを持参せんにも、昭武へは必ず取次によりて捧げざるべからずといひ、直接に呈せんとすれば、大声ボーイを叱咤するなどの有様なれば、動物園を観、夜会演劇等に臨みても、ナポレオンを以て徒に珍禽・奇獣を集め、驕奢に耽るの暴君となすなど、外国の気風に同化せざることのみ多く、常に外国方の面々と相協はず。先生は原市之進が出発前に告げたることも、かゝる事情あればなるべしとて、調停せることも屡次なりき。然るに昭武が各国を巡回せんとするに当り、又もや両者の衝突は起れり、其時向山一履・山高信離等は、外国の習慣に従ひ、且雑費を省くの趣旨にて、巡回の供連を減少することゝなし、水藩士中にても菊池平八郎・加治権三郎の両人のみを選びたるに、他の人々はいたく憤り、我等は公子の左右に御附き申すべき為に万里の波濤を越えて異域に来れるに、留守せよとは何事ぞや、かくては此処にあらんもせんなし、一国帰国すべしなど申立て、中々聴き入るべきにあらず、此に於て先生は已むを得ず、彼等を伴ひて帰途に就かんとまで評定ありたれども、それも面白からねば、遂に先生の説諭と調停とにより、右の二人の外に、井阪泉太郎・三輪端蔵を加ふることゝなし、漸く鎮撫することを得たれども、其不平は抑へ難く、井阪泉太郎・加治権三郎・皆川源吾・服部潤次郎の四人は、各病気に託して帰国を請ふに至れるなり。先生の手に成れる「御用留」と題せる記録に、井阪泉太郎・大井六郎左衛門・皆川源吾・三輪端蔵・服部潤次郎の五人に「御巡国御供可相勤候事」といへる達書を載せたり。之によれば、かの紛擾の結果、水藩士一同に御供を命するよしの沙汰ありし
 - 第1巻 p.612 -ページ画像 
ことは明なれど、八月瑞西其他への巡回、十一月英国への旅行には、菊池平八郎・井阪泉太郎・加治権三郎・三輪端蔵の四人のみ随行せり。九月伊太利への旅行の時には、旧記皆其名を註せざれども、思ふに他の二回と同じ面々なるへし。○御用日記。航西日記。書記局日記。御用留。幕末外交談。後は昔の記
かくて井阪泉太郎等の帰国せる後も、明治元年二月十三日には山高信離十四日には保科俊太郎・高松凌雲・木村宗三も亦附添を免ぜられ 山高信離・保科俊太郎は留学生取締となり、他の二人は専心留学を命せらる。 翌日小出涌之助附添の命を受けたれば、今は昭武の左右に侍する者は、先生と菊池平八郎・三輪端蔵・大井六郎左衛門の四人と、小出涌之助とあるのみ。先生は此月十四日外国奉行支配調役に転任したれども、昭武に関する用務は従前の通り取扱ふべしとの命を拝したるなり。爾来栗本鯤公使の職を帯ぶるの傍ら、昭武一行の事務を総理し、菊池平八郎専ら伝役の任に当る、然れども鯤は公務の都合上、外国方の公館に住み、先生に命じて取締の事を代理せしめたれば、爾来大小の事務、概ね先生の手によりて処理せられ、頗る多忙を極む。かゝる折しも維新政変の報道、突如として巴里に到り、いたく一行の心胆を驚動せしめたり。御用日記。書記局日記。巴里御在館日記。