デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.6.13

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

2章 幕府仕官時代
■綱文

第1巻 p.612-696(DK010049k) ページ画像

明治元年戊辰一月(1868年)

幕府亘解ノ報相踵イデ到リ、衆皆愕然タリ。尋イデ三月二十一日附朝廷ノ帰朝命令到ル。栄一予メ期スル所アリ。外国奉行栗本安芸守ト謀リ、昭武ノ滞仏留学継続・幕府留学生帰朝ノ件ヲ決シ、其ノ資金ノ調達ニ任ズ。然レドモ七月帰朝ニ決シ、栄一等其準備ヲ為ス。


■資料

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之三・第三一―三七丁 〔明治二〇年〕(DK010049k-0001)
第1巻 p.612-615 ページ画像

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之三・第三一―三七丁 〔明治二〇年〕
○上略 此の歳 ○慶応三年 の十月中に、日本の京都に於て、大君が政権を返上したといふ評判が仏国の新聞に出てから、様々の事柄が続々連載されて来るのを見たが、御旅館内外の日本人は勿論、公子に附添の仏国士官 此の人はコルネルビケツトといつて公子が留学となりし時に仏帝から御附添として遣はされた人で常に御旅館に止宿して学問の御世話をして居ました までが、皆虚説であらうといつて、一向に信じませなんだが、独り自分は、兼て京都の有様は余程困難の位地に至て居るから、早晩大政変があるに相違ないといふことは、是までにも既に屡唱へて居つたことであるから、右の新聞紙を信用して、他の人々にも其事を論弁しましたが、軈て其翌年の一月頃になると、追々に御国から報知があつて、去年の十月十二日に、将軍家には政権を朝廷へ返上になつて、朝廷もこれを御聞届になり、薩摩と長州との間柄も、一致して幕府に当るといふ有様であるとのことだによつて、此上は一層急変を見るであらうと憂慮して居る中に、三四月になると、正月の始に鳥羽口で幕府の兵と薩長の兵と戦をはじめて、幕兵が敗走したによつて、将軍家は大阪城を立退かれて、海路より江戸へ御帰りになり、謹慎恭順の御趣意を幕府の諸士へ御示諭の上、水戸へ御退隠になつたといふ、一部始終の報知に接しました、誠に数千里を隔てた海外に在つて、かゝる大変事を聞たときの心配といふものは、中々言語に絶した次第であつた、其頃巴里府に滞在の外国奉行は、栗本安芸守といふ人であつたが、此人も去年
 - 第1巻 p.613 -ページ画像 
政権返上の新聞が出た時には、頻りに虚説を主張されたが、自分はこれに反対で、実説に相違ないといふので、其時には大きに討論もしましたが、其後追々と凶報が来たに付て、栗本氏は色を失ひ、自分に向つて、何故に足下は最初から此報知を実説と認めて居ながら、聊も驚愕の体のなかつたのであるか、などゝ問はれたこともあつたが、実は自分も一月の下鳥羽戦争は、予想の外に出て、余りといへば幕府が兵略に暗く、且其所置の拙劣なることを悲憤慷慨しました、固より兵略などは論評する身ではないけれども、既に戦ふといふ以上は、兵庫神戸等咽喉の地を扼せずして、只大阪のみを守り、其うへ兵を京都に出して後先見ずに事を起し、終に朝敵の名を受けるといふは、拙策とやいはん、愚味とやいはん、歯牙にもかゝらぬ話しだ、などゝ痛論したこともあつたが、既に事の済んだ跡ではあり、且又川向ふの争論で、何程切歯しても扼腕しても、微しの甲斐もありませなんだ、
偖て前にもいふ如く、幕府衰亡とすれば、向後民部公子の留学は如何したら好いか、此際俄に帰国せられたとて、将軍家は謹慎恭順して朝命に遵ふといふ御趣意であつてみれば、別段公子の尽すべき事柄もあるまいから、寧ろ此儘に長く留学せられて、責ては一科の学芸にても卒業の上にて、帰朝せられた方が御得策であらうと思慮を定めたが、それにしても先ツ第一に注意せねばならぬことは、経費の節減であるから、前の御伝役山高が免職の後も、猶留学して居たによつて、其事を委細に協議した上で、五人の御扈従を更らに三人帰国させて、残りは二人とし、公子の外に自分と御相手の小供と都合五人とすれば、留学の経費も格別の高を要せずに維持することが出来得るから、略これに決意をしました、全体民部公子の仏国行に付ては、最初外国奉行の一行が御付添申した時は、博覧会の礼典に関係したことであるから、其経費も同じく外国係の方で取賂ひをしたが、其後各国の巡回も済んで、巴里に御留学と定まつてからは、毎月五千弗宛を以て、引続いて御国から送金が来たに依つて、勉めて倹約して、その中から大分剰余が出来たから、其上にも一層の節略を加へて、凡そ二万両ばかりを予備金を《(マヽ)》其年の二月頃に、仏蘭西の公債証書と鉄道債券とを買つて置きました、夫れから日本の模様の委しく知れたのは、其年の三月であつたが、新政府の外国掛り伊達宗城東久世通禧二人の名前を以て、民部公子へ向けて、今般王政復古に付、其許にも帰朝せられよといふ公文が届いたから、其時自分が栗本に談するには、所銓此場合に民部公子が帰朝せられたとて仕方はない、尤も先頃公子から前将軍家へ、再三御手書を以て建白なされたことがある、其大意は、殿下が曩に大阪を御立退になつて関東へ御帰城になつたのは、実に頼母しくない思召である、又たとへ御帰東なされたとて、何故速に兵を挙げて京都に向ふ御手配はなされぬのであるか、今日の朝廷といふは詰り薩長二藩であるから、これを討滅するに於て、さまで困難といふこともあるまい若又最初から真に朝意を奉じて恭順を事とするの思召ならば、何故伏見下鳥羽の戦争を開かれしや、既に戦端を開いた以上は、万不得已ことであるから、所謂強き者の申分はいつも好くなるものといふ仏蘭西の諺に従つて、断行したならば、勝遂げぬといふことはあるまいといふ
 - 第1巻 p.614 -ページ画像 
主意であつた、さりながら此建白の用捨は素より予期することは出来ぬから、民部公子を今帰朝させて、此大混乱の間に彷徨させることは、如何にも得策でない、責めて今四五年も留学せられて、一技に長じ一芸に熟した上で、帰朝せられたならば、一廉の御用にも立つであらふ、外国へ来て居らるゝこそ幸ひ、禍乱を避けて其間に学問の修業が出来るといふもので、実に天来の僥倖であるから、是非ともさうしたい、処で第一に心配せねばならぬことは金である、此金の工夫に就ては外に良策もないに依て一番貴君を煩はさねばならぬ、其次第といふは今日ハ幕府も既に瓦解したことであるから、貴君が此地に滞在して居られたとて、外国奉行の職任も其効能はあるまいに依て、速に帰国せられた上で、貴君から直接に会計専任の有力家に御相談下されたならば、仮令混乱した幕府でも、四万や五万の金額を得ることは、左程難事でもあるまいと思はれる、又現に英と仏とに留学して居る二十名余りの生徒に於ても、向後経費の仕送りが覚束ないから、早く帰国を命ずるのが得策であるし、これを帰国させるにも、其旅費の用意が必要であるが、是等は一時民部公子の予備金から支出し置やうにしやう、故に貴君は一日も早く帰国せられて、送金の計画を願ひたいと、丁寧反覆して談示をした処が栗本も大きに此説に同意を表しました、
栗本の帰国した後、仏国の留学生は其頭分の栗本貞次郎に相談して、民部公子の予備金から旅費を支出して、残らず帰国させ、又英京倫敦の留学生は、川路太郎中村正直の両人へ照会して、帰国の事を問合せた処が、其以前より此連中の方へは聊も送金がないから、無拠英国政府へ出願して、帰国旅費を請求した、処が英国政府に於ては、此留学生をば帆前船に乗組せて、喜望峰を経て日本へ送り帰す手筈であるといふことを返答して来たから、自分は早速倫敦へ出張して、川路・中村に面会した上で、前願を取消し、帆前船云々の事を謝絶させて、此連中も同じく公子の予備金から旅費を支給して、仏国郵船に乗組せて帰国させたことである、今の清国公使の林薫氏・文学博士外山正一氏抔は此英国留学生の中でありました、
栗本の帰国したのは、其年の三月頃であつたゆゑ、或は約束の金を送り越すかと、実は心で待つて居たけれども、六七月頃になつても手紙さへも届かなんだ、併し幕府の勘定所から曩に送り出した五千弗ツヽの月費は、四五月頃まで受取ることが出来たから、かの英仏留学生に帰国旅費を支給しても、尚公子の留学費は二年間位は十分に支ることが出来る勘定であつた、万一是限り日本から送金のないときには、速に旅館を売却して、極小さい処に蟄居し、更に一層人数を減じ、公子と自分と其外二人位にすれば、四五年も維持して、何程か修学も出来る考であつたが尚又幾許かの留学費を準備して置ふと思つて、旧里の父に書状を寄せて、送金の事を請求したことであつたが、間もなく日本で、水戸の君公が死去されて、民部公子が其御相続といふ事になつたので、先般帰朝した扈従の井阪と服部の両人が、公子御迎の為めに其年の九月に仏蘭西へ来たから、最早公子留学の企望も全く尽き果てたに依て、已むを得ず帰国の支度に取掛つて、仏帝への告別、外務省への談判から、旅館の始末、諸什器家具等の売却に至るまで、当時巴里に於
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て、幕府から名誉領事を依嘱してあつたフロリヘラルトといふ人に託して、悉皆整理したから兎も角も帰国して、幕府衰亡の有様をも目撃し、且ツは一身の方向をも定めやうと思ふて、九月の末に仏国を出立して、航海無事に横浜に入港したのは、十二月三日《(一)》でありました、先づ今晩は是で止めて置きませう、
   ○雨夜譚ニハ帰国決定ノ月ヲ九月トス。サレド巴里御在館日記七月廿日ノ条ニ「近々為御迎井阪服部両人可罷出旨申来る、因て弥御出立之積御決其段夫々江申達す」トアリテ、七月ニ帰国ノコト決定セルナリ。尤モ西洋暦ニテハ七月廿日ハ九月六日ナリ。


渋沢栄一 巴里御在館日記(DK010049k-0002)
第1巻 p.615-656 ページ画像

渋沢栄一 巴里御在館日記
○上略
 慶応四年戊辰正月元日 土 曇         第一月廿五日
朝一同罷出御年始御祝詞申上る
篤太夫より川路太郎江御用状を出す、御笠代之儀申遣す、第一時、栗本安芸守・同貞次郎留学生一同罷出る、一同御召連ニ而ジヤルダンデアツクリマタシヨン御越、二時頃御帰館
カシヨン御年始申上る、礼式懸シツフロワ罷出る
夜一同江御年頭御祝としてシヤンパン酒被下
 正月二日 曇 日              第一月廿六日
御国行御用状フロリヘラルト江相達す、室賀予州江壱封、向山隼人正江壱封、石見守より申越す
午後セルセヱジーミ留学生徒宿所御越、石見守・俊太郎コロ子ルウエレツト等御供、第二時頃御帰旅
夕五時半御国御用状著、政態御変革之儀其外品々申来る、夜栗本安芸守来御用状相廻す
栗本安芸守より御用意品融通之儀ニ付掛合書差越す
大紋緞子御反物弐巻相廻す
ドブルよりカレー迄御帰船之節の船将江芦雁香箱壱ツ御送相成シーボルト江相渡す
 正月三日 晴夕曇 月            第一月廿七日
朝御乗馬
石見守・俊太郎教師ボワシール不快ニ付尋問いたす、留学生徒宿所江立寄罷出る
昨日到著之御用状御書付類写取、英国荷蘭留学生徒江相達す
コンマンダント江賄代差引残及当月分共相渡
 正月四日 雨 火               第一月廿八日
瑞西アンベル時計献上ニ付、石見守より挨拶状并被下品共篤太夫、文次郎持参、ドロウと申者江 取次人巴里在住 引渡す
ユマブラレン御写真代払相渡す
安芸守旅宿江御用状類写済之分返却いたす
石見守江川路太郎より書状到来、御金到著ニ付返上方之儀申越す。
 正月五日 晴 水               第一月廿九日
英国女王写真被相送候ニ付、御挨拶状石見守より巴里在留公使江差越す
シーボルトに相渡す
 - 第1巻 p.616 -ページ画像 
一同御手当相渡す、乗馬代被下相渡す
月掛積金之法取立規定書申合いたす
高松凌雲、木村宗三為修行外宿願済、明六日外宿之積申達す
石見守御用談ニ付、安芸守旅宿江罷越、御国より申越候英国為替請取方之儀申談
外国局より差越候商人御貸付金証書ハ手筈行違候付、次便江戸表江差返候積申談
 正月六日 晴 木              第一月三十日
午後御乗馬御遊歩、石見守・俊太郎コロ子ル御供之事
高松凌雲・木村宗三外宿願済リウサンヘルジナンテルン街十番ソバール方江引移候事
山内文次郎・渋沢篤太夫部屋繰替候事
夕方フロリヘラルト罷出る
 正月七日 風 金               第一月卅一日
朝御乗馬御稽古御越
 正月八日 雨 土                第二月一日
今朝より運動御稽古相始、アベニユーモンテーン御越之事、山内文次郎御相手申上る
英国川路より篤太夫江書状到来
 正月九日 晴 日                 二月二日
朝八時御乗馬御遊歩、石見守・文次郎コロ子ル等御供
午後留学生一同罷出、栗本貞次郎罷出る、御旅館御不用之諸色廻方之儀申談クレー罷出る高松凌雲・木村宗三罷出る
 正月十日 雨 月 朝御乗馬            二月三日
渋沢篤太夫不快ニ付出仕無之事
坂戸小八郎来奉書紙不足候ニ付廻方之儀申付る、追而相廻可申旨石州より申聞候事
 正月十一日 晴 火                二月四日
朝運動御稽古御越
高松凌雲来
英国川路太郎より石州江書状到来返納金三百ポント手形封入差越す
 正月十二日 晴 水                二月五日
朝御乗馬御稽古
明日御国御用状等差立候ニ付、芸州旅宿江其段申送候事奉書紙弐帳芸州旅宿江相廻候事
高松凌雲来
 正月十三日 曇 木                二月六日
朝運動御稽古御越
午後御乗馬御遊歩、御附添コロ子ル保科俊太郎・渋沢篤太夫御供之事夕五時御国御用状到著、芸州旅宿江相廻す
銘々宅状類をも差越す
 正月十四日 半晴 金               二月七日
朝御乗馬御稽古
御国より到来之御用状一覧ニ而安芸守江返却之事
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届状類其外英国江差立候事
夕四時運動御稽古場御越、但御見物之ため高松凌雲・木村宗三外宿御賄代正月分相渡事
 正月十五日 曇 土                二月八日
朝運動御稽古御越、荷蘭松本緒方より篤太夫江書状差越す
篤太夫歯痛ニ付出勤無之
 正月十六日 晴 日                二月九日
朝御乗馬ボワテブロン御遊歩、石見守・文次郎・コロ子ル御供
篤太夫歯痛ニ付高松凌雲見舞罷越す
木村宗三罷出る
 正月十七日 晴 月
朝御乗馬御越
荷蘭商社より御為替金之儀ニ付石見守江書状差越す
小栗上野介より石州江書状封入差越す
坂戸小八郎来御国御用状差出ニ付写持参いたす
高松凌雲来但篤太夫不快見舞のため
 正月十八日 晴 火              二月十一日
朝運動御稽古御越
昼後安芸守来御用状類持参いたす
 正月十九日 曇 水              二月十二日
朝御乗馬御越
ミニストルトラゲール之妻より巴里貧窮人救助之ため施行方組合に御加入被下度旨書翰を以申越す、返翰コロ子ルより申遣し百フランク救助として差遣す
 正月廿日 曇 木               二月十三日
朝運動御稽古御越
午後御乗馬御遊歩
 正月廿一日 曇 金              二月十四日
朝御乗馬御稽古御越
 正月廿二日 晴 土              二月十五日
篤太夫・文次郎ヲリエンタルバンク江罷越、英国川路太郎より差越候為替金請取、栗本芸州旅宿江罷越、御用召之方申談、荷蘭商社江為替金之儀返翰差出す、赤松太三郎・林伊平へも申遣す、川路太郎江為替請取書付差越す
 正月廿三日 晴 日              二月十六日
御国行御用状認、室賀予州・川崎近江守・小栗上野介等江石州より御用向申越す
朝御乗馬御遊歩、俊太郎・平八郎・コロ子ル御供
 正月廿四日 晴 月              二月十七日
朝御乗馬御稽古御越
御国行御用状フロリヘラルト方江差越し差出方申遣す
夜俊太郎・文次郎・篤太夫、コロ子ル方江夜餐相越す、栗本芸州・同貞次郎其外罷越す
 正月廿五日 晴 火              二月十八日
 - 第1巻 p.618 -ページ画像 
英国川路太郎より書状差越す、同所御貯ひ品売払方之儀申越す
朝運動御稽古御越し、林研海より篤太夫江書状来川路太郎より同断
 正月廿六日 晴 水              二月十九日
朝御乗馬御稽古御越
夜九時王宮舞躍御越、石見守・俊太郎・篤太夫・コロ子ル御供、夜一時半御帰館
 正月廿七日 曇 木               二月廿日
朝御運動御稽古御越
午後御馬御遊歩、石州・平八郎・コロ子ル等御供
白耳義国鉄砲師よりヒストル献上仕度旨ニ付差越す、早速返却之積コロ子ル江申談
栗芸州来、御国新聞之儀談判いたす
 正月廿八日 曇 金              二月廿一日
朝御乗馬御稽古御越
午後ホテルヒルかねて博覧会竹木監定の褒賞会有之旨ボウトエン申越ニ付、俊太郎・平八郎・丹蔵罷越す
仏国より御国ミニストル交代ニ罷越ドウツトレー罷出る、御逢之上種々御談話有之、安芸守・石見守等面会いたす、ウツトレーは元アレキサンデリヤコンシユールセ子ラール相勤候ニ付、仏国江御越之節同所公使館御立寄御一泊有之
 正月廿九日 雨 土              二月廿二日
荷蘭ハントロマートスカツペンより返書差越す。
為替方ニ付赤松太三郎より委細申越す
商社より為替金五千弗手形差越す
朝御運動御稽古御越
石見守昨日より微邪ニ而出勤無之
 二月一日 午後晴 日              二月廿三日
瑞西ヌーシヤテルアンべルより先達而被下物御礼状差出す、電信伝習のため同所江差遣し置候士官之儀ニ付、隼人正より最前挨拶およひ置候答礼をも申越す
フロリペラルトクーレー為御機嫌罷出《(伺脱カ)》る
シーホルト罷出る、荷蘭レグー巴里江罷越候ニ付御機嫌伺度申立る、明二日第一時御逢之積申達す、且明夜御同案夜餐被下候積、コロ子ル江御達有之
安芸守罷越候様、石州より申達す
午後御乗馬御遊歩コロ子ル、俊太郎御供
此日ブーフグフといふ祭日ニ而市中は殊ニ雑沓せり、第九時半為御見物御越、十二時御帰館
此日の祭式は年々の恒例ニ而いと大きなる牛を撰み、車に戴せ様々の装を為して市中を引廻す、其牛車の前後は亜細亜、亜墨利加、亜弗利加、欧羅巴等の風俗に装ひぬる伎曲の芸人大きなる車に乗り、奏楽して聯行す、頗る神田祭、祀園会等に類せり、右の祭日は市中にある肉屋共の戮力して祭れるなるよし、故ニ数多の肉屋いつれも其市店を装塡して尤美麗なり、此祭日今月より三日を経て休すといふ、其後右ノ牛
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を屠り、其祭に与る人これを食すといふ、牛馬通行の道筋はアンシーストリーよりシヤンセリゼーをアルグデトリヨンフに来り、右に折してブールハールを通り、終にアンシストリーに至りて止む、其通行之節ハ豪富の商人、又は有名の大家ニ而其牛及祭に与る人とを其家に招請し酒食を給す、故ニ其通行も頗遅緩なり
 二月二日 曇 月              二月二十四日
朝御乗馬御稽古御越、石見守不快ニ付篤太夫御供いたす
第二時マストリツクレグー罷出る、シーホルト同道いたす、御逢之上今夕夜餐江可罷出旨被仰聞
夜六時グレーシーボルト罷出御同案之夜餐被下安芸守・俊太郎・文次郎・篤太夫・平八郎・コロ子ルコンマンタン御同案石見守は不快ニ付不罷出
 二月三日 曇 火               二月廿五日
朝運動御稽古御越
此日牛祭結局之日ニ付、午後御休課
第二時半より御乗馬御遊歩、コロ子ル・篤太夫・平八郎御供カランドアリメーの通を御越、初代那破烈翁の銅像之処より左に折し□□□《(原本脱)》といふ砲台御一覧、夫よりザンクルウを行過し、セーヌ川に随ひ博覧会の側迄御乗切ニ而第五時半御帰館
フロリヘラルト書翰差出し、明後木曜日之夜ソロレー御越候儀申立る
 二月四日 曇 水               二月廿六日
朝御乗馬御稽古御越、石見守未タ出勤無之ニ付篤太夫御供いたす
第九時半石見守・篤太夫・俊太郎・フロリヘラルト方罷越、御入費筋荷蘭より為替相成候儀申談す
尤臨時之節は為替相頼候旨申聞候処、同人儀委細御引請聊御差支無之様可仕旨御請申上る
御国ミニストル交代として跡役被申付、ウエツトレー旅宿尋問いたす
面会之上雑話第十一時帰宿
御国行御用状差立る、石見守より伊予守・隼人正・近江守等江御用向申遣す
夕安芸守来
夜安芸守・石見守・篤太夫・文次郎・平八郎・端蔵等御供アルクデトリヨンフ辺御遊歩
田辺太一郎・篤太夫江書状差越す、十二月三日之分到著いたす
 二月五日 曇 木              二月廿七日
朝運動御稽古御越
朝御用意品蒸気車場差之旨滊車場役人より書状差出す
篤太夫荷蘭商社バンクリユーデメナアル五番江罷越為替金五千弗仏貨弐万五千フランクニ而請取
英国江御写真縁代為替シーホルトに相廻す
午後御乗切石見守コロ子ル等御供いたす
夜八時半フロリヘラル宅御越、石見守・俊太郎・文次郎・篤太夫・平八郎等御供夜十二時半御帰館
 二月六日 晴 金              二月廿八日
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朝乗馬御稽古御越
石見守一昨日より不快平癒出勤いたす
御附添コロ子ル儀先頃中より職分之儀ニ付石見守と申談難相整御同案御断申上候処、右和熟いたし、今日より御同案食事いたす
諸向御手当類内借相渡す、外宿之者御賄代其外相渡す
 二月七日 曇 土               二月廿九日
朝運動御稽古御越
夕三時半より御乗切御遊歩俊太郎・篤太夫・コロ子ル等御供。
夕五時御帰館
 二月八日 晴 日                三月一日
朝御乗切御遊歩石見守・コロ子ル・平八郎等御供、文次郎・篤太夫も雇馬ニ而遊歩いたし候ニ付御供いたす
午後御遊歩、石見守・コロ子ル・文次郎・平八郎等御供いたす、夜セ子ラール某より巴里貧窮人救助之儀ニ付コロ子ル迄申立有之、仏貨四拾フランク御遣相成
フロリヘラルト妻、会社相立、病院を巴里に取立候ニ付御合力之儀書状を以申立、尤右御合力は同人及婦人会社ニ而外国局借請、同所ニ而払物店 但火曜日木曜日土曜日 相開合力之志有之候者右開場之日罷越、品物高価ニ而買上候趣のよし、因而品物買上料として五拾フランクを御遣し相成御越之儀は御断申遣す
高松凌雲・木村宗三外宿ニ付教師料被下候ニ付、壱ケ月壱人弐百フランク宛相渡
御国御用状到著いたす、一覧之上安芸守旅宿江相廻す
川路太郎・中村敬輔江立替内借被仰付候分残金返納手形差越す
荷蘭林研海江醤油買上可相廻旨書状ニ而申遣す
 二月九日 曇 月                三月二日
朝御乗馬御稽古御越
午後御国より御取寄品著目録之通相改請取
夜シーボルト罷出る、御国新聞之儀申聞る、同夜石見守江川路太郎より書状到来、同断之新聞訳書申越す
昨日荷蘭赤松大三郎より篤太夫江書状到来、御国諸大名帝鑑間始王臣御免願之儀写差越す
英国江差越候御写真縁代両様共シーホルト江相渡す
 二月十日 曇風 火               三月三日
朝運動御稽古御越
夕四時御乗馬御遊歩、俊太郎・篤太夫・コロ子ル等御供
 二月十一日 晴 水               三月四日
朝御乗馬御越但
午後ホワテブロン御遊歩、コロ子ル教師・石見守・俊太郎・篤太夫・平八郎・端蔵等御供いたす。
 二月十二日 曇 木               三月五日
朝運動御稽古御越
午後第三時御乗馬御乗切、石見守・コロネル御供いたす
今日別当支度出来候ニ付、御乗切之節御供相勤《(初)》む
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 二月十三日 曇夕晴 金             三月六日
朝御乗馬御稽古御越
第十二時御国御用状著、銘々宅状、私用状等数多差越す
御老中方より民部大輔殿江差上候書状封入差越す
御国爾後御形勢京地新政被仰出候事
公方様より御所江被仰立候事、其外御時態逐一申越す
栗本安芸守御用中若年寄格被 仰付、御役金四千両被下候旨をも御書付を以被仰越
民部大輔殿御用向も取扱候旨被 仰渡
山高石見守御附添御免留学生取締被 仰付
夕安芸守御旅舘江罷出る、石見守同様被仰渡之旨申上る、保科俊太郎・高松凌雲・木村宗三・渋沢篤太夫御用向有之候ニ付、明十四日第一時安芸守旅宿江可罷出旨申達有之、高松凌雲・木村宗三罷出候ニ付其段申達す
石見子以下御附添之者御手当被下 員数書但覚書之写 外国局より差越す
此日別封御用状安芸守方到著、十二月廿七日二丸延焼、天璋院様、和宮様被為替候儀無之旨外異事無之旨申越す
 二月十四日 曇 土               三月七日
朝運動御稽古御越
第一時保科俊太郎・高松凌雲・木村宗三・渋沢篤太夫・安芸守殿旅宿江罷出る、俊太郎御附添御免、留学生取締可立戻、凌雲・宗三御附添御免留学被 仰付旨、安芸守殿御書付を以被 仰渡
渋沢篤太夫外国奉行支配調役被仰付勤候内並之通御足高被下御役扶持も被下之、民部大輔殿御用も是迄之通取扱可申儀御同人御書付被 仰付
第四時御乗切御遊歩、コロ子ル・俊太郎御供五時過御帰館
画学御稽古御初ニ付コロ子ル画学教師同道罷出る、明十五日より御初之積、御取究壱ケ月拾弐度 但十二時半より二時位 壱度御稽古代三拾フランク宛之積御取究相成
オートリス公使舘より使者様之者罷出、御国御政態御変革之儀ニ付御様子柄承度旨申立る、其筋之者居合無之旨申聞候処、明日可罷出旨申置罷帰る
保科俊太郎・高松凌雲・木村宗三・渋沢篤太夫等今日被仰渡之儀罷出る、御披露申上る
 二月十五日 雨 日               三月八日
午後安芸守罷出る、オートリス公使館之者罷出候ニ付同人面会いたす、新聞紙之儀ニ付申立有之
第二時御乗切御遊歩、コロネル・平八郎等御供
画学教師罷出る、一時間御稽古有之
栗本貞次郎留学生一同罷出る
小出涌之助御附添之儀被仰付、来廿日石見守・俊太郎引越之積申談す
 二月十六日 曇 月               三月九日
朝御乗馬御稽古御越
午後渋沢篤太夫御用ニ付安芸守旅宿江差越す
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昨日荷蘭商社より為替金之儀書状差越す
 二月十七日 曇 火               三月十日
朝運動御稽古御越
午後三時御乗切、コロネル・平八郎御供
安芸守罷出る、御旅館内見分有之同人御旅館引移之儀御都合も有之暫時見合可申、当分之処渋沢篤太夫相心得御取締向取扱候様申渡
 二月十八日 曇 水              三月十一日
朝御乗馬御稽古御越
夕画学教師罷出る
商人卯三郎より品々献上物有之候ニ付置時計并花台を添被下
 二月十九日 晴 木              三月十二日
午後第十二字半御乗切、石見守コロ子ル御供
篤太夫、荷蘭出張バンク江罷越、ハントロマートスアーペン江返書差遣し月々為替請取方申談、毎月十六日持参可相渡旨引合約定いたす、渋沢篤太夫夜安芸守旅宿江罷越す、荷蘭為替金之事其外御入費筋ニ付廉々安芸守江申立る
安芸守御旅館江罷出御機嫌を伺ふ
 二月廿日 晴 金               三月十三日
朝御乗馬御稽古御越
第一時山高石見守・保科俊太郎・リユーセルセミジー江引移る、小出涌之助・俊太郎部屋跡江罷越す
朝石見守俊太郎江被下物有之
夕方シーボルト罷出る、明日英国書記官御国江罷越候ニ付為御機嫌伺罷出る旨申立る
篤太夫夜餐御同案申上る、但安芸守引移迄同人為取締、夜餐御同案之積
 二月廿一日 曇 土              三月十四日
朝運動御稽古御越、小出涌之助今日より御供被仰付
第一時半英国書記官□□□《(原本脱)》シーボルト同道罷出る、御逢後安芸守より引合およふ、第二時過罷帰る
大井太郎左衛門不快平愈無之ニ付医師相招
第四時御乗切、コロ子ル・篤太夫等御供五時半過御帰館、夜七時御遊歩馬車ニ而市街御通行ハレヱーロワヤル江御越九時御帰館、コロ子ル・文次郎・平八郎・涌之助等御供
 二月廿二日 雨 日              三月十五日
朝画学教師罷出る
高松凌雲・木村宗三御附御免ニ付被下物有之
午後御乗切御遊歩、コロ子ル・山内文次郎御供第三時御帰館
山高石見守罷出る
 二月廿三日 晴 月              三月十六日
朝御稽古
第一時荷蘭出張商社より第三月分為替、壱万弐千五百キユルデン持参、山高石見守罷出、同人調印ニ而請取
午後篤太夫、安芸守旅宿江罷越御国行御用状差立る御直書壱封安芸守
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より梅沢孫太郎江宛申遣す
御入費請取方其外御手当筋之儀江戸表へ申遣す、荷蘭江申遣候醤油七拾弐本到著いたす
夕四時安芸守・山内文次郎・コロ子ル等御供御国ミニストルロス留守宅フロリヘラルト宅等御立寄ボワテブロン御遊歩有之第五時過御帰館
 二月廿四日 晴 火              三月十七日
朝運動御稽古御越
英国川路太郎より篤太夫江書状差越す、封入之御国行書状早速差出す、第四時過御乗切、コロ子ル・平八郎御供リユーヂユセルセミジト留学生徒旅宿御越ニ而御帰館
篤太夫、涌之助、端蔵、パリヱー方ニ而乗馬稽古相初る
 二月廿五日 半晴半雨 水           三月十八日
朝御乗馬御稽古御越
 二月廿六日 晴 木              三月十九日
朝運動御稽古御越、篤太夫・文次郎・コロ子ル・涌之助等御供、午後第一時半御乗切、ベリヱー・端蔵御供いたす、第二時過御帰館
 二月廿七日 曇 金               三月守日
朝御乗馬稽古御越
朝御国御用状著、栗本安芸守旅宿江差遣す
午後篤太夫同所江罷越御用状持参罷帰る、卯十二月廿五日薩州邸の賊徒御討伐之儀申来る、京師探索書壱綴申越す
此日仏蘭西新聞に大君大坂表之一戦に利を失ひ、御東下相成候旨申唱る
 二月廿八日 曇 土              三月廿一日
朝運動御古御越
午後第四時御乗切、コロ子ル・平八郎御供五時半御帰館、栗本安芸守罷出る、夜餐被下御話申上罷帰る
伊太里商人横浜に罷越せし者御機嫌伺罷出度旨安芸守より申聞、明日曜日第十時罷出可申旨申越す
 二月廿九日 曇 日              三月廿二日
朝第十時伊太里商人罷出る御逢有之
朝画師罷出る、画学御稽古有之
午後第一時半御乗馬御遊歩石見守罷出て御供いたす、第三時頃御帰館
保科俊太郎留学生徒引纏罷出る
第四時フロリヘラルトクレー《(マヽ)》罷出る、御国新聞クーレー方江御国正月十三日出之分申来候趣、京坂間ニ而一戦争有之、大君利を失ひ御東下之旨申聞る
シーホルト御機嫌伺として罷出る
栗本安芸守罷出る夜餐御同案いたす
 二月卅日 曇 月               三月廿三日
朝御乗馬御稽古御越
夜八時シーホルト罷出る、荷蘭レグーよりアンクル入献上仕度さし出候旨申聞る
 三月一日 晴 火               三月廿四日
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朝運動御稽古御越
昨夜仏蘭西新聞に大君退職之以後新政府益盛ニ而追々鎮静可相成旨、及二月中日本帝より新に使節を各国に遣し、彼の国書を持参し、和親を改めんとする支度いたす旨有之
午後第一時石見守罷出る、同人も右同様之新報カシヨンより承知之旨申聞る
篤太夫安芸守旅宿江罷越、新聞之趣申聞夫是申談いたす、御旅館御入用金御有高之内六万フランクフロリヘラルト江御預之積ニ付、篤太夫より安芸守江差出す、外ニ御附添之者積金壱万フランクも同様相托す
第四時御乗切、コロ子ル・文次郎御供五時半御帰館、荷蘭レグーより差上物ニ付書翰差出す
御飼犬、リヨンシーボルト江被下ニ付此日同人方江差遣す
此夜仏蘭西新聞に大君大坂ニ而一戦争御勝利無之、正月十五日頃御帰府之旨、及向後大君御再挙有之哉又ハ和議と相成候哉、将又大名之勢強く合従して東伐及候哉相分不申旨認有之
 三月二日 晴 水               三月廿五日
朝御乗馬御稽古御越
 三月三日 曇 木               三月廿六日
朝微雲寒威甚、朝運動御稽古御越
篤太夫御国御用状差出方ニ付芸州旅宿江罷出る、安芸殿より梅沢藤太郎江御用状差遣す、当地新聞之儀申遣す、篤太夫より杉浦愛蔵江御用向申遣す、御直書御差出ニ付封入差遣す
午後第一時御乗切、コロ子ルヘリヱー・平八郎等御供いたす、第二時半頃御帰館
シーホルト帰国いたすニ付御暇乞ニ罷出る、明日出立之旨申聞る
荷蘭レグーより西洋墨入献上書翰差出候ニ付返書、コロ子ルより可差遣旨申談す
馬車之儀ニ付夜コロ子ル申談、小之分返却之積取計且英国より引取候分ハ売却之積申談いたす
 三月四日 半晴 金              三月廿七日
朝御乗馬稽古御越
月々御賄コンマンタン江内渡いたす
御附添之者御手当取調いたす、其外御入用調いたす
山高石見守より同人始木村宗三・高松凌雲御手当御賄料江戸表より相廻候迄立替相借之儀掛合書面差越す
坂戸小八郎来、明日カシヨンヂユリー罷出る旨申聞る
フランセスマチルダより書翰を以貧窮人御施之儀願出る、四拾フランク御遣しコロ子ルより返書差越積申談す
夕画学教師罷出る
 三月五日 曇 土                三月廿八日
朝運動御稽古御越、コロ子ル・篤太夫・文次郎・涌之助御供いたす
夕四時栗本安芸守殿罷出る、第五時半カシヨンヂユリー罷出る、御同案之夜餐被下
夕四時御乗切御遊歩、コロ子ル御供、第五時半御帰館
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御夜餐後コロ子ルより御稽古御学科之儀ニ付同人見込、ミニストルロース及新ミニストルウツトレー江書翰ニ而申遣せし案安芸殿江申述る、カシヨン通弁いたす、ウツトレー御国江出立前夜餐御招之儀コロ子ル江申談る
 三月六日 夕晴 日               三月廿九日
朝画学教師罷出る
第十二時より御乗切、コロ子ル」ペリヱー御供ムウドンといふ帝家の畋猟場御越、フランスナポレヲンの猟するを御見物、第三時半御帰館
安芸守殿罷出る、三時罷帰る、石見守・俊太郎・宗三・凌雲等罷出る石見守・宗三・凌雲御手当内借相渡、安芸守殿よりコロ子ル江送品篤太夫より引渡す
 三月七日 晴 月                 三月卅日
朝御乗馬御稽古御越
午後安芸守殿よりウツトレー御招之儀ニ付篤太夫江書状ニ而申越
篤太夫よりコロ子ル江申談、同人より書状ニ而ウツトレー江可申遣旨申談す
御乗馬御稽古之儀以来一週間二日と相定御乗切之節ペリヱー御供はジモアンス而已と可致旨コロ子ル申談す、御旅館御入用調、并諸御買上物内訳調ニ付篤太夫・山内文次郎と取調いたす
 三月八日 晴 火                三月卅一日
朝運動術御稽古御越
仕立屋ブウシ罷出、御上着壱ツ御注文相成、御召古之衣服類取調御払下相成
 三月九日 晴 水                 四月一日
此日より御馬御稽古相減一週間二日と御定相成、安芸守殿并坂戸小八郎熊谷次郎左衛門等罷出る
御土産品残高取調内訳遣払書仕分いたす
 三月十日 晴 木                 四月二日
朝運動御稽古御越
午後第十二時シヱーブル御越、陶器製造所御一覧、コロ子ル・山内文次郎・菊地平八郎御供
篤太夫御用調物持参、安芸守殿旅宿罷越す
第四時御乗切コロ子ル・俊太郎御供、第五時過御帰館
夜御国より罷越候新公使御招相成居候処、参上相成兼候旨、コロ子ル迄書翰を以申越し、コロ子ルより申上る
 三月十一日 晴 金                四月三日
昨夜コロ子ルより申上候新公使夜餐参上相成兼候旨、篤太夫より安芸守江申越す
朝御乗馬御稽古御越
午後ボワデブロン御遊歩、篤太夫・文次郎・平八郎・端蔵御供、第一時御帰館
 三月十二日 晴 土                四月四日
朝運動術御稽古御越
午後坂戸小八郎来る、仏国法律書翻訳之上御国江差上度ニ付、申上書
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付之見廻し持参いたす、見留小印之上返却
御仕立物師御衣服仕立出来持参いたす
第四時より御乗切コロ子ル御供五時半過御帰館
 三月十三日 晴 日                四月五日
第十二時御乗切ワンセンーヌ御越、コロ子ル・平八郎・ペリヱー御供第四時十五分頃御帰館、
御国公使ウツトレー御国江出立ニ付、為御暇乞罷出る、明後十五日当地出立之旨申立る、御逢有之、安芸守殿罷出、御逢前後御同人面会、御国新聞之事共承合夫是申談す
山高石見守・保科俊太郎・高松凌雲外生徒一同罷出る
瑞西ヌーシヤモルより向山隼人正当書翰差出す、事柄間違居ニ付其儘差置候
 三月十四日 晴 月                四月六日
朝御乗馬御稽古御越
第九時栗本安芸守殿罷出る。御国新聞之儀昨夜横浜新聞紙カシシヨン《(マヽ)》より申聞候旨申上る、旨趣は先日中新聞紙上に有之候御国正月上旬京摂間ニ而一戦争官軍不利、遂に上様蒸気船ニ而俄ニ御帰府、其後京摂兵庫迄総而薩長輩ニ而鎮台有之旨、右戦争之手続等遂一相認有之旨申上る、右ニ付安芸守殿・篤太夫等リユーセルセミジー江罷越、公子御進退之儀及留学生取扱方其外決心之処談判、尚又安芸守殿篤太夫とも御旅館江罷出評決之旨御内意迄申上る
第十二時より馬博覧会御覧御越、第二時御帰館、夜篤太夫より川路太郎・中村敬甫江御用状差出す
 三月十五日 晴 火                四月七日
朝篤太夫、安芸守殿旅宿江罷越す、御用談有之
朝運動術御稽古御越
第四時御乗切、コロ子ル御供第五時御帰館
篤太夫部屋元石見守跡江引移る
 三月十六日 水                  四月八日
朝九時御用状著、早刻安芸殿江申越、十時半同人罷出開封、石見守・貞次郎・俊太郎等罷出る、公子は勿論芸州留学生共迄其儘滞在可有之御達書有之
御国変之儀は総而新聞之通無相違旨、内状等ニ而委細申越す
留学生是迄之通可罷在候儀ニ付、英国・荷蘭・魯西等江御書付写即日申達す
第三時頃篤太夫、安芸守殿旅宿江罷越、向後之処御用談いたす
今朝御直書御認、此御用便御差出之積ニ候処御用状中御直書被為在候ニ付、御請之御書御認相成
 三月十七日 雨 木                四月九日
朝運動御稽古御越
第一時御用状著、京摂戦争之手続其外風聞書等申越す、夜十二時御国行御用状御直書共坂戸小八郎方江差遣す、四時夕安芸殿及フロリヘラルト・クーレー・カシヨン罷出る、芸州帰国之儀ニ付御用談有之、御有合ニ而御同案之夜餐被下
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第九時篤太夫、芸州同行ニ而御旅宿江罷越、夫よりセルセミジーに罷越御用談夜一時帰館
 三月十八日 晴朝雪 金              四月十日
朝御乗馬御稽古御越
昨日到来之御用状中品々写取、英国・荷蘭等へ申遣す
 三月十九日 晴 土               四月十一日
朝運動術御稽古御越
篤太夫御用ニ付石見守旅宿迄罷越す
川路太郎より返書篤太夫迄差越す
安芸殿当地引払之儀、次便迄延引之積坂戸小八郎を以申越す、御用見留物相済小八郎持参ニ付篤太夫江相渡す
夕三時半御乗切コロ子ル御供五時過御帰館
 三月廿日 曇 日                四月十二日
此日よりキリスト祭日ニ付、来廿五日迄御稽古御休日之積、午後第一時御乗切コロ子ル、ペリー御供二時半御帰館
英国・荷蘭江差越候御用状之報差越す
 三月廿一日 曇 月               四月十三日
朝六時御乗切コロ子ル御供七時過御帰館
午後一時サントクールス御供、競馬御一覧、コロ子ル・篤太夫・文次郎・涌之助等御供、四時頃御帰館、安芸殿罷越す、夜餐後夜九時過罷帰る
 三月廿二日 晴 火               四月十四日
朝運動術御稽古御越
昨日より食盤之一同御同案と相成、但小遣之者相減候ため御省略相成候平常の御稽古事ハ御夫壱人御車に添候積取究いたす
運動御稽古御供は稽古いたし候者ニ而相勤候積いたす、荷蘭医師ボードヱン罷出る、篤太夫面会いたす、同人御国江罷越度候付、御国近来之景情伺度申聞候ニ付、是迄之成行大略申聞る
第三時篤太夫、芸州旅宿江罷越、フロリヘラルト・クーレー・カシヨン等面会、御旅館御入費向夫是談判、夜十一時帰宿
第四時御乗切ヨロ子ル御供
 三月廿三日 曇 水              四月十五日
朝御乗馬御稽古御越
フロリヘラルト、コロ子ル江御旅館之儀ニ付申談有之、今朝罷越候ニ付、コロ子ルより篤太夫江右申談之手続申聞る、第一時篤太夫・文次郎コロ子ル同行芸州旅宿江罷越、コロ子ル存寄同人より安芸殿江申聞る、篤太夫・文次郎荷蘭商社出張江罷越、月々請取候為替金調印之儀、石見守より篤太夫引継可申儀申談す
第三時コロ子ル・平八郎・涌之助御供、曲芸御覧御供、五時帰館
 三月廿四日 曇 木              四月十六日
朝運動術御稽古御越
第一時石見守罷出る、荷蘭商社出張より五千弗為替金持参罷出る、此度は石見守調印、来五月より篤太夫調印之積書面差遣す、承知之旨返答いたし罷帰る
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三月廿五日 曇 金               四月十七日
朝御乗馬御稽古御越
篤太夫御国御用状差出方ニ付芸州旅宿江罷越す
御直書類三封其外御用向等表状内状共ニ而申遣す
フロリヘラルト江御預之壱万フランク篤太夫持参、安芸殿江相渡す
夕肥前佐野寿左衛門罷出御逢有之、同人明日帰国之旨申聞る
 三月廿六日 晴 土              四月十八日
朝運動術御稽古御越
夕四時より御乗切コロ子ル御供
 三月廿七日 晴 日              四月十九日
朝英国留学生箕作圭吾罷出る、六三郎 次郎 罷出る、坂戸小八郎・熊谷次郎左衛門罷出る
石見守、俊太郎生徒引連罷出る
第二時より御乗切サントクールフ御越、競馬御覧、第四時過御帰館
 三月廿八日 晴 月              四月二十日
朝御乗馬御稽古御越
 三月廿九日 晴 火              四月廿一日
朝運動術御稽古御越
夕方フロリヘラルト罷出る、同人明卅日荷蘭辺出立ニ付、御暇乞として罷出る、田辺太一より篤太夫江書状到来辰二月四日附
第三時御乗切コロ子ル御供、第四時半頃御帰館
 三月卅日 晴 水               四月廿二日
第十時篤太夫、芸州旅宿江罷越す、夫よりフロリヘラルト出張所江罷越、御預金ニ而蒸滊車札買取候員数相改、同人江相預ケ封印之上鍵請取、夫より芸州方江罷越、第三時半過芸州・篤太夫・次郎左衛門蒸滊車場江罷越、フロリヘラルト見立候積之処、同人儀最早出立ニ付其儘罷帰る、第四時頃御乗切御遊歩コロ子ル御供
 四月朔日 曇 木               四月廿三日
朝運動術御稽古御越
第十一時商人次郎帰国ニ付罷出る、御茶献上いたし候ニ付象牙細工置物壱ツ被下御逢有之
英国留学生箕作奎吾帰英ニ付罷出る、御逢有之、夕七時ボワテブロン御遊歩、篤太夫・文次郎・涌之助・平八郎・端蔵等御供
 四月二日 曇 金               四月廿四日
朝御乗馬御稽古御越
午後安芸守殿罷出る、夕方石見守罷出る
 四月三日 曇 土               四月廿五日
朝運動御稽古御越
午後ランベルト罷出る、篤太夫面会いたす
夜七時ボウルバアル御越、コロ子ル・篤太夫・涌之助・平八郎御供、魚見物所御越、夜十時御帰館
 四月四日 曇 日               四月廿六日
午後高松凌雲・木村宗三罷出る
第二時ボワテブロン御遊歩、凌雲・宗三・文次郎・涌之助・平八郎・
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端蔵等御供
篤太夫御附御手当類并諸勘定調いたす
凌雲・宗三立替手当金相渡
石見守・宗三・凌雲御手当立替四月分相渡
 四月五日 曇 月               四月廿七日
朝御乗馬御稽古御越。
夕石見守・俊太郎罷出る、夜餐後ボワテブロン御遊歩、御国新聞申聞る 大坂表ニ而仏人殺害を受、船を破られ、外国人戦争之積用意有之、新政府より精々申談候旨新聞有之、夜赤松太三郎来同人帰国之積相決候旨申聞る
 四月六日 曇 火              四月廿八日
朝運動御稽古御越
夜御呈書御認相成
 四月七日 曇 水              四月廿九日
朝篤太夫芸州旅宿江罷越御用状差出す
芸州御帰朝之儀来便御決定之積相成
荷蘭商社より為替金之儀ニ付、先達而申越候調印人相替候儀承知いたし候旨、并公子巴里御引払之儀荷蘭ニ而承込巴里江申越候ニ付、弥実事ニ候ハヾ承知いたし度旨、書状を以篤太夫江申越す、依之即日返書差出す、公子不相替御滞在ニ付兼而談判之通為替可有之旨、篤太夫より申遺す
 四月八日 曇 木               四月卅日
朝運動御稽古御越
午後第一時御乗切コロ子ル、平八郎御越《(供カ)》、二時過御帰館、夕五時安芸守殿、赤松太三郎罷出る、御夜餐後一同御供ボワテブロン御遊歩八時御帰館
来日曜日競馬御同行之儀芸州江御約束相成
赤松太三郎明朝帰蘭之旨申聞る、研海江差越候醤油代同人江托し差越す
フリツセル新発明之連発銃、太三郎帰蘭便リヱージユニ而買取、芸州帰国便御送之積御談相成、右代金渡方ハ銃師より郵船江差出請取持参候ハバ御旅館ニ而代金相渡、郵船の請取は御国江差越候積申談る
 四月九日 曇 金               五月朔日
朝乗馬御稽古御越
午後英国より書状到来、昨日巴里ニも有之候新聞、英公使パアクス御門に謁見鄭重之取扱有之、帰途乱妨之者有之候旨新聞申越す
昨日御約束之芸州競馬御同行、ウヱルサイル行御振替之旨篤太夫より申遣す
 四月十日 晴 土               五月二日
朝運動術御稽古御越
午第四時御乗切、コロ子ル御供第五時過御帰館
四月十一日 晴 日               五月三日
朝八時御乗切コロ子ル御供九時過御帰館
第十一時安芸守・コロ子ル・涌之助・平八郎御供ウヱルサイル御越夕
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七時御帰館
朝御国より御用状著、御帰東以後府下御平静、御軍制御皇張之御趣意厚く被仰出、公議所等出来候旨其外上意之写等差越す
 四月十二日 晴 月              五月四日
昨日申来候御用状之旨趣、英、荷蘭等江申遣す、届状をも封入差遣す
朝御乗馬御稽古御越
第三時サントリールスニ而大調兵有之ニ付御越、安芸守殿・コロ子ル 貞次郎等罷出御供いたす、第五時過御帰館、此日の調兵は騎兵と騎砲兵と都合四千人程なりといふ
 四月十三日 晴 火              五月五日
朝運動術御越
第十二時御国御用状著、第一時安芸殿罷出開封、上様御恭順之ため東台御入被為遊、西御丸は田安殿、松平確堂江御預と申事申越す、東台宮様二月廿一日頃御謝罪之ため御上京之由とも申越ニ而御書付数通有之、英荷之届状は直様篤太夫より申越御用状之趣をも認入申遣す
夕フロリヘラルト罷出る新聞之趣抔申聞る
夜餐後御乗切、コロ子ル・平八郎御供七時過御帰館
 四月十四日 晴 水               五月六日
篤太夫より荷蘭江御用状差越す。
 四月十五日 晴 木               五月七日
朝運動術御稽古御越
御用状差出方ニ付篤太夫、安芸守殿旅宿江罷越す、御用調物御見留物等不残取調済持参いたす、第十一時帰宿
午後十二時半コロ子ル、篤太夫・文次郎・平八郎御供大砲器械貯所御越御一覧、夫より巴里有名の古刹御一覧、交易公事吟味所、罪人裁決所等御一覧、第二時半御帰館
石見守罷出る、同人御手当之儀文次郎帰国ニ付御手当之儀等申談遣す
安芸守殿大三郎江御書状差出す
夕六時過御乗切、コロ子ル・平八郎御供七時過御帰館
 四月十六日 晴 金               五月八日
朝御乗馬御稽古御越
午第七時御乗切、コロ子ル・平八郎御供第八時過御帰館、夜坂戸小八郎罷出る、出立之者明日荷物可差送旨申聞る
 四月十七日 晴 土               五月九日
東照宮御忌日ニ付御休日
山内文次郎・大井節左衛門江被下物有之
朝運動術御越
篤太夫儀安芸守殿江罷越、英国女王写真其外御国江御遣之品相托す、調物書類不残仕上済ニ付差出す
第十時ヲリヱンタルバンク江罷越、小栗上野介より石見守江申来候弐万弗為替方申請、第一時再同所江罷越、石見守調印之ためセルセミジー迄罷越候処同人外出ニ付、尚又バンク江立戻り右高の半方五万弗受取、明後十九日可罷越旨申談罷帰る
帰路五万弗を安芸守殿江相渡す、第四時帰宿
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 四月十八日 曇 日               五月十日
山高石見守・栗本貞次郎生徒一同罷出る、第四時一同御供、アベニユーテランペロウルの側なる華園御越、第五時頃同所ニ而一同御暇申上引取、篤太夫・涌之助御供五時半御帰館
 四月十九日 曇 月               五月十一日
朝御乗馬御稽古御越
篤太夫・貞次郎旅宿江罷越、同人同行東洋バンク罷越す、再ひ石見守調印之ためセルセミジーに罷帰る、為替金拾万七千五百九十弐フランク十サンチイム請取、為替方仕方等色々承合いたす、第二時帰宿
 四月廿日 曇 火                五月十二日
朝運動術御稽古御越
第一時篤太夫セルセミジー罷越、夫より芸州御旅宿江罷越、第六時御用済帰宿
来土曜芸州出立に付夜餐有之候様取究、セルセミジトコンマンタントをも相招
 四月廿一日 晴 水               五月十三日
朝英国江御用状を遣す安芸殿分封入差越す
第三時川路太郎罷出る、夕餐被下同人英国引払之儀申談有之
 四月廿二日 晴 木               五月十四日
朝運動術御稽古、夕川路太郎罷出る
第二時半御乗切、篤太夫 ペリー御馬教師 御供いたす
第七時馬車ニ而ボワデブロン御遊歩、篤太夫・文次郎・涌之助・川路太郎御供いたす、八時半御帰館
 四月廿三日 晴 金              五月十五日
朝御馬御稽古御越
夕セルセミジーニ而芸州出立のため夜餐有之ニ付篤太夫、文次郎罷越、夜十二時帰宿
シーボルト罷出る、御稽古御逢有之
 四月廿四日 曇 土              五月十六日
朝運動御稽古御越
篤太夫・セルセミシー罷越、夫より荷蘭商社江相越、為替金請取十時帰宿、赤松太三郎来、木村宗三・高松凌雲罷出る、凌雲御預り之薬籠同人儀帰国ニ付御旅館に返上為致、英国荷蘭為替金之儀ニ付取調書安芸守殿江差出す、御有高書抜をも差出す
夕六時芸州出立ニ付御同案之夜餐被下、安芸守殿・山高石見守・栗本貞次郎・保科俊太郎・渋沢篤太夫・管沼左近将監・山内文次郎・大岡熊谷次郎左衛門・坂戸小八郎・高松凌雲・木村宗三・小出涌之助・菊地平八郎・三輪端蔵・川路太郎・赤松太三郎も罷出候ニ付被下
コロ子ル・フロリヘラルト・クレー・カシヨン・ボワシエール・チソウ・生従《(主カ)》コンマンダン御旅館コンマンタント等、弐拾六人之大夜餐有之
夜餐後フロリヘラルト江御預之蒸滊車札請取之儀、安芸守殿・栗本貞次郎・渋沢篤太夫・カシヨン等ニ而申談、フロリヘラルトより万一之節は直様右預リ品篤太夫江相渡可申、因而請取紙者可差出方申談約定
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いたす
 四月廿五日 晴 日              五月十七日
山内文次郎御茶差上候ニ付御下緒壱掛被下
安芸守殿為御暇乞罷出る、被下物有之、御暇乞相済コロ子ル方へ罷越篤太夫通弁いたす、夕餐後御遊歩、平八郎・端蔵・涌之助御供
夜篤太夫、安芸守殿旅宿江罷越、引継物不残請取、書物御用状御書翰一切相改仕訳いたす
 四月廿六日 晴 月              五月十八日
朝御乗馬御稽古御越
第九時文次郎・六郎左衛門出立、綱吉同断、コロ子ル・篤太夫・端蔵芸州見立としてガールデリヨン迄罷越、十一時蒸滊車発、篤太夫は帰路フロリヘラルト江立寄蒸滊車札箱入立替金相渡罷帰る
夕川路太郎罷出る、今夕帰英之積申聞る、同人立替金等相渡、外ニ立替時借百フランク相渡
 四月廿七日 晴 火              五月十九日
朝運動術御稽古御越
夜餐後ホワテブロン御遊歩、篤太夫・涌之助・平八郎・端蔵・コロ子ル御供
 四月廿八日 晴 水              五月二十日
朝御乗馬御稽古御越、今日より御乗馬朝七時より八時迄と相成運動術も同断
 四月廿九日 晴 木              五月廿一日
荷蘭林研海より篤太夫江書状差越す
朝運動術御稽古御越
小出涌之助精舎算術稽古之儀ニ付栗本貞次郎へ書状差越す、研海之儀も申遣す、御用状出る、其外安芸守殿達書写等差遣す
第一時過御遊歩、御乗馬、ヘリー・平八郎御供いたす
 閏四月一日 晴 金              五月廿二日
朝御乗馬御稽古御越
荷蘭商社より林研海江相渡荷物之儀ニ付書状差越す
 壬四月二日 曇 土              五月廿三日
朝運動術御稽古御越
荷蘭商社江返書差遣す、林研海伊東玄伯も同断、夕第七時御車ニ而市街御越、御冠物御買上いたす、コロ子ル・篤太夫・涌之助・端蔵等御供八時御帰館
 壬四月三日 曇 日              五月廿四日
朝八時御乗切コロ子ル
フロリヘラルト罷出る、山高石見守・保科俊太郎罷出る
 壬四月四日 晴 月              五月廿五日
朝御乗馬御稽古御越
 壬四月五日 曇 雷雨 火           五月廿六日
朝運動御稽古御越
夕七時御乗切コロ子ル、平八郎御供
 壬四月六日 晴 夕雷雨 水          五月廿七日
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朝御乗馬御稽古御越
リヱージ鉄砲師より先達而御買上連銃之儀ニ付書状差越す
コンマンタント江月々賄代第六月分渡
 壬四月七日 晴 木              五月廿八日
午後第二時よりジヤルダンデブラント御越、篤太夫・平八郎・涌之助・コロ子ル御供数々鳥獣類御一覧、夫より花園御覧、大人小児の四支不具之者骸骨之類御一覧、同所より川蒸滊ニ而王城之前迄御越、御上陸馬車御雇ニ而御帰館
 壬四月八日 晴 金              五月廿九日
朝御乗馬御稽古御越
篤太夫フロリヘラルト方ニ新発明鉄砲代渡方之儀ニ付罷越す
 壬四月九日 曇夕雨 土             五月卅日
朝水練御稽古御初、夫より運動術御越、篤太夫・平八郎・涌之助・コロ子ル御供
夕三時半御用状著、京兵江戸江接近横浜港も不日敵手に相渡可申、上様には愈御恭順之御趣意ニ而上野ニ被為在、忠憤之余過激之者無之様御諭等有之旨申越す
各国留学生帰朝御達差趣《(越)》す
公子には尚御留学可被成候旨御達、安芸守江差越す
御用状表之旨趣一通り栗原貞次郎《(栗本貞次郎)》・渋沢篤太夫よりコロ子ルに申聞る
夕七時御乗切、コロ子ル・平八郎御供八時御帰館
 壬四月十日 晴 日              五月卅一日
朝魯・英蘭・留学生徒へ御用状認、夕方差出す
朝御乗切、コロ子ル・平八郎御供
午後石見守生徒一同罷出る
今朝貞次郎より御用状之旨趣クレーカシヨン等へ申聞候旨書状ニ而申越す
 壬四月十一日 晴 月              六月一日
朝御乗馬御越
篤太夫セルセミジー江罷越、夫より荷蘭バンク江罷越す
金弐万両之儀荷蘭承合之上返答可致申聞る
ヲリヱンタルバンクニ而川路立替請取
夕四時半水練術御越、篤太夫・平八郎・涌之助等御供
午四月十二日 晴 火 六月二日
朝運動術御越
篤太夫御用状差出方ニ付調物いたす
 壬四月十三日 曇 水              六月三日
朝御乗馬御稽古御越
午後第三時、貞次郎・石見守・俊太郎罷出る、生徒方江御国状到来、京師より差下候東山先鋒総督江大目付梅沢孫太郎を以歎願として差出候処、兎も角も三道総督江戸表江罷越、軍議之上処置可有之旨被申達候趣御書付写封入有之、生徒引払方之議ニ付、篤太夫より貞次郎江申談、貞次郎よりフロリヘラルトクレー江再応申談候積談判いたす
 壬四月十四日 晴 木              六月四日
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朝運動術御稽古御越
御国行御用状差出す
内状共差出す
御有高御入用高廉書をも封入差出す、貞次郎フロリヘラルト江相越相托候積申談、赤松太郎《(赤松太三郎)》之鉄砲は生徒之内引払之便差越候積、フロリヘラルト江伝語、貞次郎に相托す
安芸守殿小八郎より歴山江御用状差越す、赤松多三郎《(赤松太三郎)》より鉄砲之儀ニ付篤太夫江書状申来る
夕方御国御用状著、貞次郎以上生徒取締三人罷出る、近江守より芸州江細書有之、御書付写類封入差越す
京兵三道江戸に進入之儀申来る
英国行御国状は即日同所江差立る
 壬四月十五日 晴 金              六月五日
朝御乗馬御稽古御越
夕方御乗切、コロ子ル篤太夫御供
 壬四月十六日 晴 土              六月六日
朝運動術御稽古御越
朝篤太夫・涌之助・フロリヘラルト方江罷越、カルトウス代相渡す
生徒引払之儀ニ付、来火曜日相談致度旨同人申聞る
午後篤太夫セルセミシーより罷越す荷蘭商社江金弐万両一件ニ付返書到来之儀貞次郎申談す
 壬四月十七日 晴 日              六月七日
朝御乗切、コロ子ル・平八郎御供
第二時競馬御覧御越、篤太夫・涌之助・コロ子ル御供、第四時過御帰館
夜九時林研海罷出る、御旅館中一泊いたす
 壬四月十八日 晴 月              六月八日
朝御乗馬御稽古
荷蘭商社より金弐万両請取方ニ付、セルセミシト《(セルセミシー)》罷越し貞次郎同行商社江罷越、月々為替五千弗無差支相渡呉候様申談、金弐万両は請取可相成旨申談す
午後川路太郎罷出、同人并生徒一同英政府より船相雇帰国為致候ニ付、御暇乞として罷出る旨申聞る、同夜御旅館一泊
 壬四月十九日 火 晴              六月九日
朝運動術御稽古御越
午後第十二時、篤太夫フロリヘラルト方罷越、生徒帰国之儀申談、貞次郎も罷越す
夫より貞次郎同道セルセミジー罷越、英国生徒之儀申談第五時半帰宿、六時半篤太夫、太郎同行英国江罷越す
但七時五十分蒸気車乗組
 壬四月廿日 晴 水               六月十日
朝御乗馬御越
篤太夫儀朝七時ロントン著旅宿相雇、夫よりロヱド方罷越、生徒引払方申談、直ニ太郎兼より而申談有之船主方江断之旨申談候方可然旨、ロヱ
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ト申談ニ付、篤太夫・太郎同道罷越候処、船主申聞には此度生徒帰国入用は英政府之賄之旨ニ付確証承知いたし度申談候処、船主同行外国局江罷越承及可申旨ニ付同行之処、外国局ニ而はロヱトと可申談旨ニ付引戻候、途中ロヱト面会尚申談候処、ロエトより外国局承合申聞候旨趣は船賃之儀者談判済ニ付、いつれも政府ニ而相払可申、帰国之儀は勝手次第ト申聞候ニ付、其夜尚ロヱトに申聞仏国飛船ニ而引払之積相決、夜十時頃電信を以て巴里江申越す
朝取落し物之儀ニ付篤太夫より平八郎江書状差越す
ロヱド方預置候品物之儀申談候処、酒馬車も明日売払可相成旨、其儀は暫時猶予いたし呉度ロヱト申聞る
 壬四月廿一日 晴 木             六月十一日
朝運動術御稽古御趣《(越)》
篤太夫倫敦より貞次郎江書状差越す、英生徒廿四日頃同所引払巴里江罷越可申旨申越す
午後篤太夫・太郎同道荷物差出方其外諸方奔走、夜ロヱト江馬車酒之儀申談候処、馬車は明日売払酒は売払相成兼候趣申聞る
 壬四月廿二日 晴 金             六月十二日
朝御乗馬御稽古御越
篤太夫ロヱト方江罷越馬車代三十五ポント請取、酒之儀巴里江運送方取計、生徒荷物積出し方手配いたす
午八時半篤太夫倫敦出立
 壬四月廿三日 晴 土             六月十三日
朝運動術稽古御趣《(越)》
篤太夫儀朝八時帰宿
午後第二時、貞次郎・石見守罷出、英国取計向其外万端篤太夫より申聞英生徒明日到著候ハヽ六人は御旅舘八人ハセルセミニーニ而賄可申旨申談る、来水曜日夜食後、為御暇乞帰国生徒一同罷出候様可致旨申達す、フロリヘラルトより篤太夫江連銃代之儀並運送入用ニ付書状差越す
 壬四月廿四日 晴 日             六月十四日
朝御乗切、コロ子ル、平八郎御供いたす、第七時半御帰舘
魯国生徒より返書到来、帰国之儀魯政府江申立候処元江戸表御老中方より御頼相成候ニ付、改而御達無之而ハ帰国難為致旨申聞候趣申来る
第一時篤太夫・涌之助・端蔵・コロ子ル御供コロ子ル在所ビローフレー御越、華園御遊覧夕六時半御帰館
第七時頃英国生徒巴里著手筈通川路太郎始六人御旅館内止宿いたす
荷蘭生徒弐人も巴里著、林研海旅宿罷在候所ニ同宿いたす
 壬四月廿五日 晴 月             六月十五日
朝御乗馬御稽古、今日より篤太夫も御供、都合弐人宛御供と相定む
第十時篤太夫、セルセミジー罷越す、生徒出立船賃其外魯国生徒之儀等申談す
第一時、英国生徒十四人荷蘭三人共罷出、御見付被仰付
第二時、篤太夫・俊太郎同行魯国公使館罷越す
生徒引払之儀ニ付コンシユールゼ子ラルに申談候同人申聞ニ付全権公使江書翰可差出旨談判、篤太夫は夫よりセルセミジー罷越、明廿六日郵
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船会社江罷越可申旨貞次郎と申談、夕六時帰宿夜魯国公使江差遣候書翰認
 壬四月廿六日 晴 火             六月十六日
朝運動御稽古御越
第十二時篤太夫リユーノウトルダムデビクトワル江罷越、郵船賃払方取計、帰路フロリヘラルト方江罷越不在ニ付帰宿
魯公使舘江生徒之儀ニ付書翰并命令書写共差遣す
 壬四月廿七日 晴 水             六月十七日
朝御乗馬御稽古御趣《(越)》
生徒渡御用状類内状其外調物いたす
篤太夫儀荷蘭生徒同行為送別ホワテブロンニ而夜餐いたす
夜九時生徒帰国之者弐十三人為御暇乞罷出る、御茶シヤンパン氷製菓子等被下、フロリヘラルトクレー其外罷出る
貞次郎江申談御用状取調いたす
御国行御用状は川路太郎江相渡届方之儀にも申談す
 壬四月廿八日 晴 木             六月十八日
朝運動術御稽古御越
第九時生徒一同巴里出立、渋沢篤太夫、三輪端蔵カールデリヨン迄為見立罷越す
連発銃并カルツースは今便差立候ニ付、御国著之上受取方之儀、保科俊太郎江申談遣す
篤太夫帰路フロリヘラルト方立寄、連発銃のカルツース運送賃払いたす
英国より川路太郎江書状著、後便差立可申積預置酒差送候、箱屋より書状差越す
夕第七時御乗馬御乗切、コロ子ル平八郎御供
 壬四月廿九日 晴 金             六月十九日
朝川路太郎、林研海之書状英荷等江送遣す
朝御乗馬御稽古御越
夜餐後御遊歩、コロ子ル・画学教師・篤太夫・端蔵・涌之助等御供いたす
 五月朔 晴 土                 六月廿日
朝運動御稽古御越
リヱージ連発銃売主より篤太夫江書状差越す
第四時水練術御稽古御越
 五月二日 晴 日 夜雷雨           六月廿一日
朝第七時御乗切、篤太夫・コロ子ル御供
午餐後画師チソー宿所御越
仕立師ブウン江御払物為試相渡す、直段等取調渡す
夕第七時御遊歩、篤太夫・端蔵・涌之助御供
 五月三日 雨 月               六月廿二日
朝乗馬御稽古御越
第十時、篤太夫セルセミジー罷越、夫よりリユウエプロン」クーレー宿所江罷越、御旅館御手詰方其外談判いたす、栗本貞次郎同行第六時帰
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宿
第四時過水練御稽古御越 昼雷雨
 五月四日 曇 火               六月廿三日
朝運動術御稽古御越
夕御乗切御遊、平八郎・コロネル御供大雷雨
夜巴里パツシー卿之奉行より公用之蔵書所取建ニ付御合力相願度旨書翰差出す
午後、篤太夫・コンマンタン同行、蒸気車札買上方ニ付ブウルス迄罷越す
 五月五日 晴 水               六月廿四日
朝御乗馬御稽古御越
パツシー奉行申立ニ付御合力被下、コロ子ルより返書差遣す
夜餐後田舎祭礼御越、篤太夫・平八郎・端蔵・涌之助・コロ子ル等御供、種々小戯芸御遊覧、夜十一時御帰館
 五月六日 曇 木               六月廿五日
朝運動御稽古御越
第十時篤太夫フロリヘラルト方罷越、蒸気車札利金受取方取調いたす、リヱージより差越候連発銃代の返書フロリヘラルト申談差出す
一月々御勘定取調いたす
第二時半、新発明之器械御覧御越、蒸気車道を巌山の中に開く具なりといふ、巴里東郊のリウテホウルナヲと云処ニ而巌石中ニ仕掛有之、其製大なる鉄板に刃鉄ニ而鋏を多く附置、其鉄板を蒸気ニ而巌に押附抉り廻し、これを穿つ、其鑿出せし石屑は同しく器械ニ而小溝を拵、器械の下より流出す、御覧中試しは五ミニユート間ニ而十二サンチメートルを穿ちたり
第七時御乗切、篤太夫・コロ子ル御供夜八時半御帰館
 五月七日 晴 金               六月廿六日
朝御乗馬御稽古御越
英国より差立之酒到著いたす、但箱数弐十一右箱屋より箱仕立代請取書差越す
夕方水練御稽古御越
 五月八日 晴 土               六月廿七日
朝運動術御稽古御越
コンマンタント江第七月分御賄代・御借家代共壱万七千フランク相渡す
夕第七時、御乗切、平八郎・コロ子ル御供、ジローフレー御越ニ而十時半頃御帰館
山高石見守罷出る
 五月九日 晴 日               六月廿八日
夕第七時ヌヱーと申処御越、田舎祭礼御遊覧、篤太夫・平八郎・端蔵・涌之助御供、夜十一時御帰館
 五月十日 晴 月               六月廿九日
朝御乗馬御稽古御越
リヱージ連発銃師より篤太夫江書翰差出す
 - 第1巻 p.638 -ページ画像 
第七時半シルクデアンヘラトリース御越、曲馬御一覧夜十時半御帰館
 五月十一日 晴 火               六月卅日
朝運動術御稽古御越
バンク江預ケ置候弐万五千之内八千フランク蒸気車買上方《(札脱カ)》ニ相廻し、壱万七千を御賄方ニコンマンタンに相渡す
第一時篤太夫ヲリヱンタルバンク江罷越、英国行箱代為替いたす
御勘定辰壬四月分取調いたす
リヱーシより差越候書翰之儀ニ付、篤太夫フロリヘラルト方江罷越候処他出ニ付面会不致
フロリヘラルトより請取候蒸気車札士官之分コンマンタン江相渡す
御買上之分と同しくバンク預置可申旨申談す
 五月十二日 晴 水               七月一日
篤太夫不快ニ付出勤無之事
夕方御乗切、コロ子ル、平八郎御供
 五月十三日 雨 木               七月二日
午前御稽古、午後王宮に継ける広大の貯所と申所ニ而油絵其外古器之珍奇物御一覧、夫よりパンテヲンと申古刹御越、最高之塔御登、鉄の桟段四百弐十、百メートル余ありといふ、最上ニ而四方を眺望すれは恰も巴里を一覧す、往来の人馬僅寸分之看を為せり。第一時半御発、第五時半御帰館、篤太夫・平八郎・涌之助・コロ子ル御供
 五月十四日 曇 金               七月三日
朝御乗馬御稽古御越、篤太夫不快ニ付御供不仕事
 五月十五日 曇 土               七月四日
朝運動術御稽古御越
午後貞次郎、石見守罷出る、御国より到著之御用状持参いたす
御用伺品々申越す、上様水戸江御慎、御城尾張殿江引渡、海陸軍士器械等総而京地江差出、其上御家名御立可被下旨、五ケ条之条目を以御沙汰相成旨申越す
英仏生徒帰国見合可申旨申来る
夕方フロリヘラルト罷出る、京地より公子江御達相成候御帰朝達書仏国公使より送来候旨ニ付差出す
夕七時御乗切、コロ子ル・平八郎御供
 五月十六日 曇 日               七月五日
朝、篤太夫、貞次郎方罷越す、石見守・貞次郎同道御旅館江罷出る、御国情委細昨日著之御用状ニ而御分、上様御身上御落著ニ付公子御帰朝御決之旨被仰出、三人之者江御直ニ被仰渡
午後コロ子ル江前段之旨申達し、政府其外申立方之儀申談、尤御支度は可相成丈手詰申度候得共、いつれ西暦九月中仏飛船相成可申旨同人より申上る
夕方クレー罷出る、御帰朝之旨申達す、コロ子ル同断之旨趣申上る、御旅館差戻し方等夫々骨折呉候様申談す
 五月十七日 晴 月               七月六日
朝御乗馬御稽古御越
篤太夫、フロリヘラルト方罷越、蒸気車札利金請取、御用状著有之ニ
 - 第1巻 p.639 -ページ画像 
付持参罷帰る
公子御帰朝御決之儀フロリヘラルト江申聞る、同人儀も九月中御出立位ニ御支度被成度旨申聞る
上様四月十二日御発、水戸江御慎相成候旨申越す、同日御城は尾州江引渡海陸軍引渡之積ニ候処、多く脱走之旨申越す
塚原丹州之儀ニ付書状到来、英国生徒江御用状著いたす
篤太夫午後貞次郎方江罷越、御用状持参申聞る
 五月十八日 晴 火               七月七日
朝運動術御越
昨日コロ子ル外国局江罷越す、公子御門より御帰朝之儀被申達旨申立る、且御帰朝御決之儀申入る、尤日限は未タ不取究、且最初御越之手続も有之候得共、可相成手順宜引払候様相成度心配いたし居候旨申入置、御門より帰朝之御達書訳し、コロ子ル江相渡外国局陸軍江廻す
魯国公使江生徒之儀ニ付催促書差出す
リヱージ銃師江返書差越す、以来丁寧ニ取調候勘定書フロリヘラルト江差出候様可致返答いたす
夕方御乗切、篤太夫・コロ子ル御供、第七時御越、第九時御帰館
 五月十九日 晴 水               七月八日
夜クレー」ワツソウル罷出る、ワツソウルは此間御国より帰著ニ付、御国之事共同人見及候儀等夫夫申上る
 五月廿日 晴 木                七月九日
午後、篤太夫荷蘭出張商社江罷越、月々為替金何月迄引継可申哉承度旨申談候処、荷蘭表承糺之上挨拶可有之旨返答有之
第一時半公法之蔵書所御越、コロ子ル・端蔵・涌之助等御供いたす
 五月廿一日 晴 金               七月十日
朝御乗馬御稽古御越
第四時過栗本貞次郎罷出る、御帰国之儀是非来第九月仏船ニ而御引払被成度旨、コロ子ル江改而御談有之
夜八時半巴里市街御遊歩、コロ子ル・平八郎・涌之助御供十時半御帰館
 五月廿二日 晴 土              七月十一日
朝運動術御稽古御越
 五月廿三日 晴 日              七月十二日
朝御乗切、コロ子ル御供、八時過御帰館
夜山高石見守罷出る、夜雷気無雨
 五月廿四日 晴 月              七月十三日
朝御乗馬御稽古御越
午後、篤太夫フロリヘラルト方罷越、不在ニ付面会不致
 五月廿五日 火 晴              七月十四日
朝運動術御稽古御越
第十二時半、ワンセンヌ御越、砲歩兵之運動御一覧有之、篤太夫・平八郎・コロ子ル等御供、ワンセンヌは巴里城之東辺にして、尤広大之華園、士民遊息之地也、其草野の広濶なる処に数多くタントを張、野陣の稽古をなす、此日の調練、凡砲壱座歩兵四大隊程なり、マレシヤ
 - 第1巻 p.640 -ページ画像 
ールゼ子ラール其外附属之士官数多ニ而指揮いたす、初は襲撃之挙動あり、大砲ニ而中堅を衝、歩兵は二手に分れ横を入るゝの為作あり、夫より種々に運転し纔に兵を各隊に纏、繰引ニ而調兵終る、其兵凡弐千五百程なりといふ、夕四時半御帰館
夜雷雨、魯国公使館より生徒儀ニ付返翰差越す
 五月廿六日 晴 水              七月十五日
記事なし
 六月廿七日 晴 木              七月十六日
午後篤太夫フロリヘラルト方罷越、京師より御達書御請同人江差出方相頼、御旅館家主江引合方之儀フロリヘラルト申談、夫よりセルセミジー罷越、御用状差出方貞次郎申談、夜御用状相認川路太郎江届状をも封入いたす
御直書御認相成、荷蘭商社より七月分為替金持参いたす
夕方水御稽古御越《(練脱カ)》
荷蘭商社より為替金之儀ニ付書翰差出す
第七時御乗切、平八郎・コロ子ル等御供いたす
 五月廿八日 晴 金              七月十七日
朝御乗馬御稽古御越
第十二時、御用状フロリヘラルト方差送ル、戻し状拾弐封封入差立る
午後公子御帰国之儀ニ付コロ子ルより篤太夫江種々申談有之、公子思召次第之旨申答
 五月廿九日 晴 土              七月十八日
朝運動御稽古御越
午後御帰国ニ付公子よりコロ子ル江御談有之、篤太夫も承ル、夜篤太夫より心得方申立る
夕四時水練御稽古御越
 五月卅日 晴 朝雷雨 日           七月十九日
第十二時御乗切、篤太夫コロ子ル御供、第二時過御帰館
夕七時ホワデブロン御遊歩、篤太夫・平八郎御供いたす
 六月朔 晴 月                七月廿日
朝御乗馬御稽古御越
第一時魯国生徒四人、巴里在留魯国公使より送越す、御国出立迄之処御旅館に可罷在旨申達、部屋等取片付いたす、第三時公子より御帰国之儀ニ付コロ子ル江御談有之、是非共来西暦九月郵船御出発之積、御申談相成、因而国帝挨拶之儀御催促之処已ニ其積を以書中ニ而コロ子ルより申立候儀ニ付、国帝より挨拶無之候ハヽ御出立御差支無之旨申上る、若又国帝異論有之候ハヾ可申来旨をも申上る
公子御談後、コロ子ルより篤太夫江委細申聞、右御決心ニ付而ハ無拠御帰国之外無御座ニ付、諸方御見物等有之度旨精々申聞る、因而公子江申上候上挨拶可及旨申聞置
 六月二日 晴 火                七月廿一日
朝運動術御稽古御越
篤太夫魯国生徒引連セルセミジー罷越す、夫よりフロリヘラルト方罷越
公子御帰国之儀ニ付談判いたす
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夕方水練御稽古御越
 六月三日 晴 水                七月廿二日
此日より画学教師旅行いたすニ付不罷越
公子御帰国之儀ニ付コロ子ルより篤太夫江種々申聞る
魯国公使館より書翰差越す、生徒滞留中之勘定書箱館公使館より御国江可差出、残金は当方江可差廻旨外国局より申来候旨写書差越す
夕第七時一同御供、ボワテブロン御遊歩
 六月四日 晴 木                七月廿三日
夕第七時御乗切、コロ子ル御供いたす
 六月五日 晴 金                七月廿四日
朝御乗馬御稽古御越
来西暦八月より御馬運動御稽古相休、御旅行可被遊旨コロ子ル江御申聞相成
 六月六日 晴 土                七月廿五日
朝運動術御稽古御越
魯国公使館より生徒入費残金書翰共送越す
夕四時水練御稽古御越
 六月七日 晴 日                七月廿六日
朝御乗切、コロ子ル御供いたす
第十二時半、篤太夫・平八郎・涌之助魯国より罷越候生徒四人共御供、ジヤルダンアツクリマタシヨン御越、数々御見物第三時御帰館
夜ホワテブロン御越、平八郎・端蔵・涌之助御供いたす
 六月八日 晴 月                七月廿七日
朝御乗馬御稽古御越
篤太夫フロリヘラルト方罷越、御借家之儀申談、飛脚船到著之趣ニ候得共、御国より之御用状はなし、夜日本新聞有之、北国諸侯弥王命に不服遂に戦争可相成哉之趣有之
 六月九日 晴 火                七月廿八日
朝運動術御稽古御越。
篤太夫よりコンマンダント江第八月分御賄代相渡、篤太夫御入用内訳仕上取調いたす
夕水練御稽古御越、第七時御乗切、コロ子ル御供
 六月十日 晴 水                七月廿九日
記事なし。
 六月十一日 晴 木                七月卅日
午後ヒツポドロム御越、風船御試有之、六時半御帰館
来西暦八月二日御出立、シヤルブールブレスト御旅行之積.治定いたす
篤太夫セルセミジー罷越、御用談四時半帰宿、第七時御乗切、篤太夫コロ子ル御供
 六月十二日 晴 金               七月卅一日
朝御乗馬御稽古御越
御乗馬御運動御稽古共来八月は御休息之積、同所教師江相断
御国新聞有之、南北諸侯合併御国和睦之旨有之、西暦七月六日上海より電信 尤徳川氏
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之儀は何とも書載無之、第七時御乗切、平八郎・コロ子ル御供、パルクモンソウ御越
夜クレー罷出る
 六月十三日 晴 土                八月一日
明日御出立之積ニ付御支度取調、御入用金調分いたす、午後篤太夫フロリヘラルト方罷越、御出立之儀申達す、御留守中之儀教師及コンマンタント等江篤太夫より申達す
御旅行御供之儀、篤太夫・平八郎・コロ子ル被仰付候事
 六月十四日 晴 日                八月二日
御支度も整ひぬれは八時御旅館御発、馬車ニ而サンラザルミ滊車場御越、九時五分御発軔、コロ子ルより滊車掛り役人に申談、滊車は別格ニ而乗合之ものなけれは車中鬱陶の憂なし、直にセイヌの橋上を渉る、此橋は長百六十メイトル総て鉄ニ而造立せり、程なくブゾンといふ里を通り、再ひセイヌの橋上を経過す、其橋九ツに連架せり、毎橋三十メイトルありといふ、此辺は土地も饒にて、田舎も屋を潤せり、滊車の右ニハ広き畑ありて、多く野菜を作る、其左は各所に大きなる車輪を建置、石を掘出し巴里に鬻くといふ、稍行過て右手に大なる森を見る、サンセルマンの大森なりといふ、十時十五分マントといふニ而小休、直ニ発軔ニ而一の地道長七百メイトルあるを経過す、第十一時車中ニ而午餐、しかも貯品の多けれは十分に喫了、尤愉快なりし、第十二時十五分セルキンギユ著、小憩此辺はポンム樹多く、ポンム酒を作る、樹木の叢茂せる小山多く、田家其間に聚落し、小河ありて村落を廻り流る、頗る清絶なり、又藁屋多く、其中に女牛馬を飼ふ、昔時は民家多く藁屋なりしか火災を恐るゝ為政府ニ而これを禁し今は牛羊の小屋に用ゆといふ、草野多く牛、馬、緬羊の類を多く飼ふ、第二時前十五分一の大なる地道を過る、長サ弐千三百六十五メイトルありといふ、第二時半カンといふ地著、滊車乗替、直ニ発軔、第五時半シイールブール著、滊車場は《(よりカ)》公子はコロ子ル御供ニ而御先に客舎に被為越しか、其客舎は旅人多く部屋なしとて、市街を巡り漸にして一の客舎を得御投館、ホテルドレニベルセイルといふ客舎 篤太夫・平八郎も荷物を調へて稍後れて達す、此日朝来美晴炎熱之憂なかりしか、午後ハ暑気甚しく、殆旅苦を覚ゆ、御夜餐後市街御遊歩海辺に築出せし小店ニ而カツフヘー被召上御帰館
 六月十五日 晴 月                八月三日
朝八時客舎御発、御歩行ニ而製鉄所御越、尤一同御供いたす
本地の製鉄所ハ市街の南辺ニ而海に接せし処に在之、尤広荘なり。製鉄所の門前ニ而コロ子ル相識之壱人之士官に行逢、夫より同人御案内ニ而御歴覧有之、最初ニ造船所御一覧、四ケ所ニ連築せり、其中二ツは造船中なりしか其一は尤広大の軍艦なり、長百二十メイトル高サ五メイトル巾二十五メイトル程なりと覚へし 夫より鉄器械製造所、反射鎔鉱炉等御一覧、及軍艦に用ゆる材木の細工等御覧、夫より台場御越、砲台は石ニ而築立、広壮なりしか其妙を究メざるを覚ゆ、砲は平常の三四十ポント位ニ而数多く並立たり、夫より潮の乾満海の動静を見る器械等御一覧、軍艦修覆所ニ而ロヲシヤンブロウといふ惣鉄船御越、千三百馬力大砲凡三百ポント之筒、廿五門程載
 - 第1巻 p.643 -ページ画像 
す、一時間十三ヌーより十五ヌー走るといふ、此港は軍艦輻湊之ために設けしなれは、さして美麗なる製作所はなけれとも、海軍の器械は総而行届けり 当時輻湊の軍艦五十艘もあり其中鉄艦五六艘ありといふ 第十二時、御一覧済御帰館、午餐第一時半、再ひ御発し、馬車ニ而プラスダルムといふ市街の海に接せし処御通り、其海岸に初代那破列翁の馬上ニ而英国を指せし銅像あり、英人これかために不快といふ、海岸を御巡覧交易之港御通ニ而ルウルといふ岩石山に御登り、其岩石上にある砲台御一覧、此砲台は敵の上陸して市街近傍の裏手より砲発を防く為なれ、砲台の製海岸に向はす、岩山は尤突兀として其巓に砲台を設けしなれ、自然の天嶮を存せり、尤台場の製は全備といへかたし御一覧後再海岸御越、小舟御乗組第三時半海中築出之石台場御著、此築出し台場は港口より壱里余海中の尤深き処江其形長堤のことく石ニ而築立たり、堤の長サ壱里半余四ケ所の砲台あり、丸く石砲塔のことし、長堤之巾四間もあるへく、二段に築立、高き段に大砲を備置けり、長堤の鼻頭にある石台場の右なる海中に一の巨大なる砲台アンヘリヤルと名く、砲四百五十門を置といふ、其外海岸に添ふて左右に四五ケ所の砲台あり、其長堤の内は軍艦の備所ニ而当時は碇泊も少かりしか、時ありては数百艘を碇泊すといふ、御一覧済、第五時半御帰館
御夜餐後市中御遊歩、此地人口四万六千程ありといふ
 六月十六日 曇 火               八月四日
第七時客舎御発し、一昨日到著之滊車場ニ而滊車御乗組、八時十五分発軔、十時半より小雨来第十一時十五分カン著、ホテルデアングレテイルといふ客舎御投館、午餐後馬車ニ而市街を御遊覧市外にある陣馬飼置所御一覧、厩四棟毎棟ニ百二三十宛、其外ニ病馬養所手入所秣置所行届けり、夫より市街を行過て田舎に出、ホンテンアンリイといふ古城御越、田舎道三里程ありといふ、此城は昔時当地を領せる諸侯の居城といへしか、廓門の構いと警備なりし態を存せり、御一覧済第四時半カン御帰著、古城廊小湊古寺院抔御遠見此人口四万八千人ありといふ、夜餐後第六時カン御発軔、第七時メストンといふ処ニ而巴里よりシイールブールの鉄道を替、巴里よりブレストの鉄道を取る、夜十一時半マン御著、ホテルジユトウハンといふ客舎御投宿
 六月十七日 晴 水               八月五日
午餐後客舎御発第十二時半発軔之滊車御乗組、夜第十二時ブレスト御著、ホテルドプロバンスといふ客舎御投宿、此日午後甚暑之車中其堪兼《(難カ)》きを覚ゆ
 六月十八日 雨 木               八月六日
昨夜より雨降出し暑気は稍凌能し、朝九時頃本地有名の古城鉄橋等御一覧、午餐後港内なる製鉄所、軍艦修覆所、造船所、小銃大砲之貯置所、帆綱組立所、其外種々広大之器械製作所御一覧、第四時御帰館、此日は雨降霧多けれは海岸の方江は御越なし
第六時篤太夫より巴里江御用状差出す
 六月十九日 朝雨夕晴 金            八月七日
雨歇たれは午餐後第二時港口御越、小舟を雇へ海中を乗廻し、港内御巡覧、此港内は周囲九里余も有之、水丈尤深く、天造の大港軍艦四百
 - 第1巻 p.644 -ページ画像 
艘を容るといふ、港口は左右とも岩山に突出し恰も瓢口のことく港口には巨大なる軍艦三艘当時運用に不便なるを碇泊し置、水軍士官教練をなさしむ、其尤大なるはブリダニイといふ船ニ而仏国第一の巨艦なりといふ、仏人曰く、シヤルブールは切要之港、砲台之造築等実に天造を犯すといふほとなれとも、ブレストの自然の嶮岨に如すと、真ニ天嶮の要地なるを覚ゆ、第六時御帰館、御帰路は元の羽塘場御上陸、夫より新港ポウルナポレヲン御巡覧、夫より市街に遶囲せし宏壮なる台場を御一覧ニ而御帰宿
 六月廿日 晴 土                八月八日
朝ブレスト御発、第七時半発軔之滊車御乗組、第十一時キヤンペールといふ所御著、此辺は海に接近して風色宜し、市街の南涯の海に接せし所に大きる《(なカ)》一軸の樹あり其葉繁茂して其影六千《(十)》メートルありといふ 夜第七時ナント御著、ホテルドフランス御投館、此地は巴里より仏国西南地方江の沿道ニ而尤繁華之土地なり、市街の廷蔓せしこと凡五里程あり、人口も拾壱万六千人ありといふ、市中を裁して一の河あり、ロワールといふ貿易の船艦サンナザルといふ港より来り、運輸便なれは交易も盛なりといふ御投宿も市中の央にて諸事の設待も稍行届けれ《(り)》
 六月廿一日 晴 日               八月九日
第十二時より馬車ニ而市中御遊覧、先ナウトルダムといふ寺院御一覧、夫より河涯を添ふて古城に至る、此城は千四百年前余本州を領せし諸侯の築成せしといふ城中御一覧、奇事なし唯建築は総而大なる石ニ而堅牢なり、今は政府ニ而不用なる武器抔貯置といふ御一覧済、奇古の寺院御越夫より市民遊息の華園御越、暫時御散歩又画額貯所御越、奇麗なる額面数多御一覧、第四時御帰館
御夜餐後市中御遊歩、河涯御散歩ニ而御帰宿
 六月廿二日 晴 月               八月十日
朝第七時御旅館御発、サンナザイル御越とて市街中の河口ニ而乗合の川蒸滊御乗組、七時二十分発䑠、此日船中甚暑からす眺望尤佳なり、下流に随而川巾広く其河の海に注く所に至り而は恰も壱里余の川巾あり、第十一時二十分サンナゼリル著、波塘場より御上陸海岸船の所等御一覧、夫より広大なる飛脚船の碇泊しありしを御一覧、此飛脚船メキシコ北亜墨江航す船なりといふ、同地は近来新規造築せし市街ニ而戸々清白なり、往年はロワールの河深く大艦直ニナント江著せしか河瀬広くなるに随ひ、砂を注き遂に港はサンナセイルに造築し小船もて運輸すといふ、第一時同所滊車場ニ而滊車御乗組、第三時十分パアスアンドルといふ処ニ而蒸滊船に用ゆる器械製作所御一覧、此製鉄所は総而蒸滊船に用ゆる鉄器械之製造ニ而甚広大にはあらされとも、其製作之順序全備し毎事能行届けり、第七時ナント客舎御帰館
今夜御国之御用状到著いたす、巴里江相廻す、江城は今以官兵滞軍御家名之儀は何とも被仰付無之旨申越す。北方諸侯王命を拒み追々は戦争可相成由私状等ニ而申越有之
 六月廿三日 雨 火               八月十一日
朝六時半客舎御発し、第七時発軔之滊車御乗組、第十一時ツウルといふ地ニ而午餐、第二時五分ヲレヤンといふ市街を経過す、此市街は昔
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年英人の仏国を襲ひし節、シヤンダルクといふ十八歳之少女当時の仏王に申立謀を以てこれを守り、少女之号令ニ而英人と戦争大勝利、遂に市街を取返せりといえり
第四時半巴里ガアルデヲレヤン著、御迎之馬車も罷出、三輪端蔵小遣召連罷出ければ、直様御乗組第五時半ハツシイ御旅館御帰著
 六月廿四日 晴 水               八月十二日
此間中の御旅疲且時候の不宜に哉昨日より小腫物御悩み、尤御気分には御替無之
昨日到著之内用中水戸中納言殿御逝去之趣有之ニ付、今日より五日之間御心喪被為居候旨コロ子ル申達御稽古事は右日限迄相断、夜石見守貞次郎罷出る
 六月廿五日 晴 木               八月十三日
午後篤太夫セルセミシー罷越す、夫より貞次郎同行リユジユーヲトルダムデビクトワル飛脚船会社江罷越、魯生出立ニ付船賃仏方荷物積出し方等取扱ふ、帰路フロリヘラルト方罷越、御帰巴之旨申聞る、御借家之事御帰朝之事談判いたす、荷蘭伊東玄伯江書状差越す
兼而御誂之シヤスポウ四挺道乱共昨日コロ子ルより差出す
 六月廿六日 晴 金               八月十四日
午後シヤンゼリゼイニ而国帝通行ニ付兵隊これを擁護し盛大之行軍あり、尤恒例なりといふ、御喪中ニ付御越はなし
 六月廿七日 晴 土               八月十五日
此日は初代那破列翁誕生之辰日ニ而仏国中の大祭也、国民共ニ其職を休、知音抔尋問し其歓を尽す
夜は王城之前よりアルクデトリヨンフといふ巨大なる石門の辺迄道路の両側之ガス灯一聯に照映、恰も一帯の大道を錦もて縁せしことし、王宮は更なり、各処の巨屋富商は其家の軒をガス灯ニ而輝かし、平民之家々総而小提灯又は小さき硝器に光燭を盛りて点火す、満城闔市の燭光空に映し、恰も昼夜を弁せぬ程なり、年々の恒例ニ而アルクデトリヨンフ門及城外壱ケ所ニ而巨大之細工火あり、夜第九時より発するを恒期とす、固より土民縦観なれは見物之人尤多し、故に此夜は馬車及乗馬人の通行を禁す、夜九時より凱旋門アクデトリヨンフニ而観火之挙有之、尤盛観なり、此城門は王城の正面拾五程も隔りて突然と屹立し殊ニ総而石ニ而築立たりし門なれは、頗壮厳を尽せり。石階弐百八拾五階高三拾間余もあるへく、其最上の屋上ニて放火す、其盛に発する時は闔門総而火中に入りて、色々の火光と余烟とにて門の全態は見へぬ程なり、凱旋門は四方の街衢割出しの中央に在りて、何方ニ而も観火のなし易しとて、近来此祭りの観火同所に定めたり、見物の人は八方に塡途しこれを見る、尤盛大なる祭日なり
 六月廿八日 曇 日               八月十六日
魯国生徒帰便江差出候御用状認る
夕方石見守貞次郎罷出る
 六月廿九日 曇 月               八月十七日
此日御心喪御解御稽古御初相成
夕方御乗切、平八郎コロ子ル御供いたす
 - 第1巻 p.646 -ページ画像 
 七月朔日 曇 火                八月十八日
朝魯国生徒出立、篤太夫滊車場迄罷越出立方取扱、帰路荷蘭商社江罷越、第十一月分迄一時請取方再応申談す、夕方商社より為替金持参いたす
御帰朝之儀ニ付国帝より御挨拶有之、右は先大君より御頼之儀ニ付新政府江一応問答いたし度、因而去第七月十九日仏飛船ニ而書翰差出候間右左右相分候迄御待有之度旨コロ子ルを以外国事務執政より申越す、因而公子国帝御逢之儀コロ子ル申聞、事務執政江申聞候様仰聞
夕方御乗切、篤太夫コロ子ル等御供いたす
 七月二日 曇 水                八月十九日
国帝御逢之儀ニ付コロ子ル江再応厳敷被仰聞有之、午前コロ子ル外国事務江罷越す。帰後ムスチイ外出ニ付不相分候旨申立る、此夜御国新聞有之、ラフランス之中日本之新聞大に其態を変し、是迄強盛なる御門之兵大に敗走し、大君の旗江戸及横浜に翻り尤強盛之趣なり、御門は京師に退きて宮と唱ゆる大なる僧都の警衛を請居るといふ、右ニ付御帰朝之儀、先国帝より問合申遣し候御模様ニ御任せ可然御決し、国帝御逢之儀御廷行之旨申入る
 七月三日 曇 木                八月廿日
篤太夫フロリヘラルト方罷越不在、セルセミシー罷越、新聞之儀申聞る、第四時御乗切、平八郎コロ子ル御供セルセミシー御越六時御帰館
夜餐後御旅行之儀、御狩之儀、セルセミシー借家之儀ニ付コロ子ルより篤太夫江申談有之、御旅行は来月曜日之積、御狩は御見合之積、セルセミシーより貞次郎江申遣候積ニ相答る
 七月四日 曇 金                八月廿一日
伊太里国御越之節、猟場頭取ニ而御猟御案内申上候者罷出る
来月曜日コロアーブル御越之旨コロ子ル申答る
夜クレー罷出る、御国新聞之儀ニ付御悦申上る、シユレイより新聞御悦之儀書翰を以篤太夫迄申越す
荷蘭伊東玄伯江御買上物代弐千七百フランク差立書状申遣す
 七月五日 曇 土                八月廿二日
フロリヘラルト罷出る、新聞之趣申上る
午後御用状著、御国出来新聞紙数多差越す、此御用状は閏四月十一日出廷著ニ付別段新聞はなし
 七月六日 晴 日                八月廿三日
午後石見守罷出る、夜貞次郎罷出る
昨日ラフランス新聞中に御国新聞御家名田安家ニ而御相続、一橋外国事務と相成候旨有之
 七月七日 晴 月                八月廿四日
兼而ロワアブルなる海軍器械の博覧会御覧之積あれは、此日朝七時御発し、馬車ニ而過日御乗組ありしサンラザルてふ滊車場御越、直ニ滊車御乗組、第八時発軔、御供は篤太夫・涌之助・端蔵・コロ子ル等なり、此日天気朗晴、車中の眺望いと佳麗なり、連日之雨よく塵沙を湿ほし、車中塵埃の患もなく、沿路は多く小山ニ而しかも樹木叢茂し、
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処々の村落いと綿密に住居るさま、時秋成なれは田野には耕鋤の農夫多く種々の器械もて耘鋤し、原野に飼ふ馬牛羊は無為悠然と其生を養ふさま目に触れ耳に応して、いと幽情を催ふせり、第一のスタアシヨンマントと云処ニ而過日シヤルブールの鉄道を去り夫よりルワン江の鉄道を取る、第九時半ウヘールノンといふ地著、此地は壱ケの小市街ニ而、馬車蒸気車の器械を製する製鉄所ありといふ、第十一時ルワン著、オテルアングレイルといふ客舎御投館、客舎はセーヌ河の水涯ニ而聊眺望の慰あり、されとも市中なれは河上には荷船多く碇泊し、街衢は馬車の響ニ而頗る鬱陶を覚ゆ
御投宿直ニ午餐、夫より馬車ニ而セイヌ河橋を渡り、行程半里許ニ而一箇の村落に至る、則木綿糸を製する場処也、程なく一箇の製作所御越案内を雇へ逐一御歴覧、先生木綿の塵埃と、分割する器械より其清潔になりたる綿を繰する器械、終に機もてこれを織成すまて一々御巡覧其精巧驚くへし、感すへし、其織成す器械は矢張蒸気もて梭を運輸し其速なる見留かたき程なり、一時間に二十九メートルを織るといふ、御一覧後其製造所ニ隣する精舎の製造所御一覧、硝石琉黄様々の製薬、ランビキニ而精舎するを逐一御覧、夫より原路を取り、橋を渡り、河に添ふて行程一里許、一箇の染物形附の製造所御越、白布練立晒物形附染上之順序を以一々御覧、御帰路市街ニ而古寺御立寄サントウワンといふ大寺の楼上に御登り、夫より市中を奉行する役所の前を御通り、ジヤンダルクといふ有名の小女の肖像ある地に御越、此小女は仏王シャルヽ第七世の時、年十八ニ而王の為に兵卒を指揮し、当時英人の巴里辺迄攻入りしを追退けし大成功ある小婦なりしか、不幸にしてユンビエンの戦に英人に生捕られ、此地にて生なから焚殺されたりといふ、故に今に至る迄、人々これを尊敬し、肖像を作りて其功績を追思すといふ、市中御一覧済第五時御帰館、午餐後河辺御散歩、直ニ御帰館
ルワンは巴里より西陲の沿道ニ而、セイヌを帯ひ舟船の便あり、地形小山多く土肥人富たり、人口凡拾万以上あるといふ、近郊には種々製作所多けれは、産物も富饒ニ而市街其潤沢せる態を現せり
 七月八日 晴夕驟雨軽寒 火          八月廿五日
朝七時御旅宿を発し数十歩にしてセイヌの河辺ロワアフル江便船の港に至る。夫より乗合の川蒸気御乗組、直ニ発䑠、川巾甚広からされとも水多く、両沿は総而小山ニ而高低処々の人家尤幽情を覚ゆ、第十一時舟中ニ而午餐、第二時頃より川巾漸広し、第二時半ヲンフロウルを《(のカ)》地着、旅客の同地に上陸するものある為なり、ヲンフロウルも壱箇の港ニ而、市街の位置山に添ふて佳麗なり、ロワアブルとセイヌ河を隔て相対峙す、旅客の上陸も済ぬれは、直ニ船港を発し、河流の海に注き出る処を横截してロワアブルに航す、時に風強く波高く、船ロワアブル港に着せんとする頃は頗る動揺せり、無程港口着、入口の波塘場より御上陸、左折して海岸に添ふたるオテルフラスカチイといふ客舎御投宿、御休息後御歩行ニ而市街港口御遊覧船入の周囲之舟船の輻湊せし処、諸荷物船揚積入場其外御巡覧、夫より海岸に出新製の砲台に登り御一覧、此砲台弐拾以来《(年脱カ)》の築造ニ而外面は石ニ而築立、其内面及護胸壁等は総而土ニ而築立たり、長凡半里余もあるへく、曲折して恰も長堤の
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如く、其堤敷凡弐三十間もあると覚ゆ、其高サ七八間、護胸壁の巾三間余もありぬへし、総而向低に築成せり、いまた砲門の位置弾薬庫の設等は全備せされとも、頗る堅牢と覚ゆ、第五時半御帰宿、第七時夜餐、此客舎は尋常の旅店に異なり、海湾に添ふて設待したる一箇の遊楽場なり、食餐の間は海面に向ふて飲食中大洋を眺望す、于時夕暉水に沈し、数箇の漁舟は波間に漾々たるさま或は火輪の烟を発し、雲波の際より航来する風情尤雅興を覚ゆ、ワロアブルは仏国西陲の一大港ニ而貿易尤盛なり、舟船の入港日々の出入を除て外、平生三四百艘を碇泊すといふ、市街前半面は海湾とセイヌの河涯にて後半面は小山数多く擁峙せり、街衢市廛も佳麗ニ而稍巴里都の風情あり、市街の中央と覚ゆる処に市中の会所あり、其前街を巴里街といふ、劇場遊歩所の設、いと懇に設待せり、入口《(人カ)》も拾万余あり、交易の盛なる馬寨里港にも稍及ふへしといふ、船入の堀廻し幾筋にも分割して市街を経緯せし数百艘の連檣其間に林立せり
 七月九日 晴 水               八月廿六日
此日は本地の近郊を御一覧あるとて朝八時半御発、馬車ニ而市街の西辺を過り、小高き山上に至り二箇の点灯台を御一覧、此灯台は電機火ニ而頗る精巧なるものなり、入港の舟船夜に入れは其点火を目標として濤路を認む、臨時奇変の節は火色もて一瞬目の間四方江相通すといふ、御一覧後近郊村落を御巡の御帰路、市街を御通行ニ而御帰館、第十二時半再御発し、海軍器械の展観場御越、此展観会兼而承込しには全海軍器の精巧新奇なるを集観する由なりしか、却而其器械は少しく唯日用席上の具、衣服、家財の類多く、虚飾物而已にて実用の具は甚稀なり、器械の羅列せし中央には各処に植込庭を仕立、遊人の目を慰しむ、其中に一の観魚場あり、こは海魚の品類の尤奇珍なるを多く襍め、海水を以てこれを養ひ、数十箇の硝器筐に盛りて陳羅し、生きなからこれを見せしむ、甚珍奇なり、御一覧後展観場の傍に別に油画の展観あるを御一覧、第三時御帰館、第四時半海中ニ而水練御稽古有之
 七月十日 雨 木               八月廿七日
此日海を航して一箇の地御覧の手筈なりしか、朝より風強く、波高ければ御越はなし、午餐前客舎の前なる海岸御遊歩、第十一時午餐直ニ馬車ニ而市街を行過、本地より二里程余も東と覚ゆる一村落に至り古き小楼廓御一覧、御著之頃より雨いたく降来り、騒敷御一覧、尤別に古奇にもなく只尋常の居宅にて、庭中に僅に草木の植並へる位なりしかは、雨を犯して来りたる甲斐もなく、一同不興に入りし、第三時御帰館、御休息後再御発ニ而禽獣油画其外奇古の品蔵蓄せるミゼイを御一覧、尤コロ子ルハ御供せす、第四時半御帰館、直ニ御夜餐、第五時半同地御越、滊車場ニ而六時発軔の滊車御乗組、沿路は夜中なれは目に触る物もなく、第八時半ルワン御著、夜第十一時巴里御帰著、御出立之節御乗組の滊車場御著、菊地平八郎小遣を召連御出迎申上、一同馬車乗組夜十二時御帰館。
今夜ラフランスの新聞に、第八月廿四日ポワンデガウル出の報、御国新聞帝の兵隊北方の諸侯を征討すといふことを報来す
 七月十一日 晴 金              八月廿八日
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十明二日より歩兵隊の下役士官御雇、小銃手前御稽古初之儀コロ子ル申上る
猟御催之儀申上候処、御廷引之旨被仰聞篤太夫より申断る、」御馬御稽古来水曜日より御初之積、但水金両日と申聞る。」第八月より御賄御入用仕上コンマンタンより差出す、第九月分内渡いたす
篤太夫御入用いたす、蒸気車札御買上勘定取調る
昨日荷蘭伊東玄伯より為替請取候旨返書差越す、第一時御乗切、コロ子ル、平八郎御供第二時半御帰館
 七月十二日 曇 土              八月廿九日
朝七時半下役士官罷出る、小銃手前御稽古御初相成、月火木土四日朝七時半より九時迄之積申聞る
荷蘭商社より為替金一時請取方之儀ニ付篤太夫江書状差越す
夜石見守、貞次郎罷出る、魯国生徒荷物弐箇到著いたす
 七月十三日 晴 日               八月卅日
常陸帯御写本御初、日木両日宛之積、尤外史御復読も同様可被遊、外ニ土曜日は復復読而已之積御治定
 七月十四日 晴 月              八月卅一日
篤太夫荷蘭商社江罷出、為替金三ケ月分請取方談判いたす
弗相場承合ニ付ヲリヱンタルバンク江罷越す、英国江承合之上可申聞旨申聞る
第四時御乗切、篤太夫、コロ子ル御供
 七月十五日 晴 火               九月一日
朝ラフランス御国新聞有之、第七月四日江戸城京兵ニ為陥、市中過半焼失之旨有之、大坂より十八里南方ニ而会津之兵薩摩、勢州之兵と大戦争薩勢敗走之旨有之、其外朝命ニ而薩州より御国ニ而外国之宗旨信仰禁制之旨、北方諸侯英・仏・米江申談有之候抔有之
荷蘭商社より九十十一三ケ月分為替金請取
 七月十六日 晴 水               九月二日
此日御乗馬御稽古御初、朝七時御越、篤太夫・平八郎御供
 七月十七日 晴 木               九月三日
午後第四時御乗切、平八郎・コロ子ル御供
日本外史御復読、御写物有之、第三時より四時歩兵運動之手続書コロ子ルより申上る
 七月十八日 晴 暑 金             九月四日
シーホルートより書翰差出す、御国新聞之儀御祝申上る
荷蘭レグーより婚姻御披露之引札差越す
英国バンクより横浜弗相場差越す
荷蘭伊東玄伯より書状差越す
栗本貞次郎罷出る、安芸守書状到著ニ付持参いたす、同人外一同五月十七日横浜著、十五日より十七日方迄江戸表《(に脱)》おゐて彰義隊官軍と戦争有之、彰義隊敗走、江戸を被追払、右兵燹ニ而江戸市街過半焼失之よし御家名は田安亀之助様と相定、御領分高等ハ未タ御定不仰出候由、即今之景況僅会津荘内王臣《(庄)》を拒み、六十余州大概王命を奉し候との趣、其余細聞候事申越す
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夜石見守罷出る
 七月十九日 晴 暑 土             九月五日
朝篤太夫より伊藤玄伯《(伊東玄伯カ)》江返書差越す
篤太夫フロリヘラルト方罷越、連発銃大小共勘定仕払いたす
連発銃小之分は巴里江運送難出来ニ付直様馬寨里江廻し置御帰朝之節御持帰之積申談
御帰朝之儀御旅館御引払之儀申談、魯荷著之上可申上旨フロリ申聞る夫より貞次郎方罷越、其段申聞置、安芸守より差送候新聞紙類到着ニ付持参いたす
 七月廿日 晴 日                九月六日
朝御用状類到著、但五月十一日御国差立之分、江戸表戦争之事、御家名御相続、田安殿江被仰出候由、其余数々事情送来之新聞中ニ有之
公子御帰朝之儀再京師より水戸表江御達相成、長谷川作十郎より御用状を以申上る御書付写をも差越す、尤近々為御迎井坂、服部両人可罷出旨申来る、因て弥御出立之積御決、其段夫々江申達す、篤太夫より前書之旨コロ子ル江申達す、コンマンタント江御旅館御取片付之儀申談す
 七月廿一日 晴 月               九月七日
午後語学画学御稽古之儀は御断之積コロ子ル江申談す
右ニ付同人より篤太夫迄種々申聞有之
篤太夫御達書之訳持参フロリヘラルト江罷越、夫より貞次郎方罷越、いつれも不在面会なし
英国ロヱード江書翰差出す、御払物之儀申遣す
荷蘭、魯西亜等江御帰朝之儀申遣す
 七月廿二日 晴 火               九月八日
語学御稽古昼前限、午後は御国学問可有之旨コロ子ル申達す
篤太夫フロリヘラルト方罷越す、水戸表より相廻候達書之訳相渡、御帰朝之儀申達す、明廿三日(九日)魯荷到著ニ付同道罷出可申上旨相答る、七月貞次郎《栗本》罷出る、御用状之儀ニ付内談有之
 七月廿三日 晴 水               九月九日
朝御乗馬御稽古御越
第二時頃魯節フロリヘラルト罷出る、御逢有之、魯節より御国之事態申上る
御帰朝之儀魯節フロリヘラルト江別段厳敷御申達有之明廿四日一同相集り候上、魯節より御国之事共申聞度旨ニ而五時頃集会之積申談、此段石見守、貞次郎へも申遣す
 七月廿四日 晴 木               九月十日
第五時魯節フロリヘラルトコロ子ル等罷出、石見守・貞次郎・篤太夫・平八郎・端蔵とも出席、魯節より御滞留之方御為筋之儀申上る、再度朝命被為受今日に至り、御滞在は御情義且御条理ニおゐて難被成、因而来月仏郵船ニ而是非御帰朝之旨御申聞有之、左候ハヽ私共より申上候御懇親之御忠告は更ニ御聴請無之儀ニ付、別段申上方無之旨再応魯節より申上候ニ付、懇篤之忠告は御聴請可被成候得共、既に先大君朝命を以水戸表江御退隠、尚又朝命を以水戸表より御帰朝申越候上は、則先大君思召も御同様之儀、右等順序不弁只管御国之変動を窺ひ、帰朝延引候
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は日本人には決して難成得、情義大道とも取失候筋ニ付、懇篤之忠告にせも《(よカ)》難聴請旨御断其夕夜餐可被下之処其儘退散、フロリヘラルト・コロ子ル共同道ニ而引取、夜クレー罷出る、御帰朝之儀ニ付今日之手続等申聞る、クレー申立候は魯節始一同心得違思召被為立候処、如何にも不得止御正論、早々御帰朝之方御手続可被遊旨申上る、因而数々申談退散
 七月廿五日 晴 金               九月十一日
朝御乗馬御稽古御越
午後篤太夫フロリヘラルト方罷越す不在、夫より魯節旅宿罷越す不在、クレー方罷越す不在ニ而罷帰る
コロ子ルより篤太夫江申談有之、公子御帰朝御決之儀御直書ニ而御本書訳書共相願度、且貞次郎・篤太夫とも連印証書いたし候様申談有之
夜右之儀ニ付篤太夫・貞次郎旅宿罷越す
 七月廿六日 晴 土               九月十二日
午後篤太夫、コロ子ル同道時計屋江罷越被下物御買上いたす
第三時貞次郎罷出る、夜餐後貞次郎より調印之儀ニ付コロ子ル江違存申談候処承引無之其夜御直書 日本文西洋文 共御認、両人証書等も相認る、夕五時御乗切、六時御帰館、平八郎・コロ子ル御供
 七月廿七日 晴 日               九月十三日
昨夜御認之御直書コロ子ル江相渡す
朝八時御乗切、篤太夫・コロ子ル御供
コロ子ル拝借部屋内之道具被下之積、コンマンタン江被下之積、篤太夫より書翰を以コロ子ル江申遣す
 七月廿八日 月 晴               九月十四日
御出発之御断書コロ子ルより外国局江持参いたす
夕方御乗切、コロ子ル平・八郎御供
篤太夫・フロリヘラルト・クレー方罷越す、石見守・貞次郎旅宿方江も立寄罷帰る
 七月廿九日 火 晴               九月十五日
午後シユレイ罷出る、同人儀来十月仏船ニ而御国出立之旨申上る御逢有之
シーホルトより書状来る御帰朝之日限承度申越候間、不相分旨、且御帰国之節は御同道は難相成旨、篤太夫より申遣す、伊東玄伯より返書来る夕方貞次郎罷出る
 八月朔 水 晴                 九月十六日
朝御乗馬御稽古
午後クレイ罷出る、篤太夫・フロリヘラルト方罷越、御旅館之儀其外御用筋談判いたす
夜石見守・貞次郎罷出る、御国行御状認る
 八月二日 木 曇夕雷雨             九月十七日
朝篤太夫・平八郎・コンマンダント同道御用御買上罷越す、鉄砲屋、写真店、地図屋、遠望鏡店等罷越御買上物相調ひ罷帰る
午後篤太夫・平八郎・涌之助同断ニ付罷出、仕立屋、時計屋等罷越す 夕方御乗切、端蔵・コロ子ル御供
 - 第1巻 p.652 -ページ画像 
第十時御国行御用状フロリヘラルト方江差立る
 八月三日 曇 金               九月十八日
朝御乗馬御稽古御越
八月四日 晴 土                九月十九日
記事なし
 八月五日 半晴 日               九月廿日
朝八時御乗切、平八郎・コロ子ル御供、十時御帰館、午後画師罷出御写真有之
篤太夫、平八郎巴里墓所見分、夫よりヒツトシヨウモン罷越
朝御用状到来、生徒御手当金之儀ニ付貞次郎へ廻す
 八月六日 雲 月               九月廿一日
朝八時、井坂泉太郎・服部潤次郎著、御国書并参政方より外国事務江書翰持参、御帰朝御迎として罷越す
貞次郎・篤太夫等江御用状有之、御書付類封入、若年寄より御帰朝之儀ニ付申上る
前上様御意書浅野美作より申上壱封
午後石見守・貞次郎罷出る、石見守儀御帰朝御供之旨江戸表より被申付前書御国書并外国事務相達候書類翻訳貞次郎持参罷帰る。
シーホルトより篤太夫江書状越す
 八月七日 雨 火              九月廿二日
朝御用荷物詰込いたす被下物調分いたす
荷蘭伊藤玄伯《(伊東玄伯)》シーホルト等江篤太夫より返書差越す
夜篤太夫セルセミシー罷越す、翻訳物貞次郎風邪ニ而出来兼候儀申聞候ニ付持参罷帰、涌之助相伴ひ右翻訳いたす
 八月八日 晴 水              九月廿三日
朝御乗馬御稽古御越
翻訳物添削教師江申談、右之趣篤太夫より外国事務達し方コロ子ル申談候処取扱差支之旨申立候ニ付、フロリヘラル方持参訳書之写相達手続申談、同人明日外国局相越否可申越旨引合罷帰る、御用荷物詰込いたす
 八月九日 曇 木              九月廿四日
朝御用荷物詰込いたす
午後一時御乗切、篤太夫・コロ子ル御供、ホワデフロンよりガラントアルメイ街江出、初代那破烈翁の肖像ある場処より左セーヌ河の橋梁を三度経過、サンセルマンといふ大なる森の辺迄御越、ウイルサイユ江激上する水車の器械を御通掛御覧、四時半御帰館、往返拾壱里程
夜篤太夫・涌之助御買物ニ付巴里江罷越す
 八月十日 曇 金              九月廿五日
朝御乗馬御稽古御越
御用荷物詰込いたす
夜フロリヘラルトより篤太夫江書状差越す、外国事務ムスチイ外出ニ付御書翰類相渡方之儀ジユフロウと申談之上可申越旨申来る、尤もフロリヘラルト明日外国局罷越可申旨申来る
 八月十一日 曇朝晴 土           九月廿五日《(六)》
 - 第1巻 p.653 -ページ画像 
昨日飛脚屋より英郵船来、十月四日馬港出帆之積申聞ニ付為承糺
篤太夫、クレー方江罷越す、十月十一日出帆無相違旨申聞る
今朝御乗馬写真被遊
御国御用状差出す、開成所組頭迄壱封差出す、御出発之日限粗相定候旨申遣す。
夜フロリヘラルトより書翰差越す、ムスチイ帰著ニ付篤太夫より書翰を以公子同人御面会之儀申遣し、御書翰類御渡相成候方可然申来る
山高石見守罷出る
御仕立師ブウシ御衣服類持参いたす
 八月十二日 曇 日              九月廿七日
朝外国局江公子御越之儀ニ付篤太夫より書翰差越す
御用荷物詰込いたす
栗本貞次郎より篤太夫江書状来、ルシーホルトより同断
伊東玄伯江篤太夫より書状申遣す、御出発之日限申送る
 八月十三日 曇 月              九月廿八日
御書翰類御渡方ニ付公子外国局御越之儀、コロ子ルより彼是申立ニ付《(候カ)》、午後篤太夫・コロ子ル同行フロリヘラルト方罷越不在ニ付、シベリヨン面会、夫よりコロ子ル外国局江罷越、第四時帰宿御書翰請取方は国帝近日帰巴ニ付、其節請取相成候様申立る、因而尚又コロ子ル江申聞是非其前相渡申度掛合、篤太夫コロ子ル同行外国局江罷越、執政之下役所頭江面会申談、役所頭よりもコロ子ル申立候通申答有之ニ付無拠罷帰る
 八月十四日 曇 火              九月廿九日
朝英船御帰国之儀コロ子ル江御達相成、但十月十一日午後フロリヘラルト罷出る、英船仏船之儀ニ付同人見込申立る御考之上被仰聞旨答相成
御書翰類写改而外国局江差出候方可然旨、フロリヘラルト申聞る
 八月十五日 曇 水               九月卅日
朝コロ子ルを以十月十日英船ニ而御発之儀外国局江届遣す
語学教師ボワシヱール、画学教師チソウ、小銃手前教師スピルモン等御暇被下有之
篤太夫・フロリヘラルト方罷越、御差急ニ付英船御出発之儀申達、御旅館向、御勘定向之儀談判いたす
御書翰類写訳書共コロ子ルを以外国局江差出す
篤太夫、午後セルセミジー罷越す御出立之儀其外貞次郎へ申談す
 八月十六日 雨 木               十月一日
朝コロ子ルコンマンタン江御暇被下物有之
篤太夫、フロリヘラルト方罷越す、御引払之儀ニ付諸手事談判いたす御備金之内ニ而六万フランク、仏国ソシヱテイより借用之内相渡、其外博覧会品物売払代及御旅館御道具売払代、其外追而売払次第フロリヘラルト江相渡、同人よりソシヱテイ江相渡候積、尤御旅館御道具売払方ハコンマンダン取扱之積談判いたす、英国ロヱド江売払物之儀候付再書翰遣す
蒸滊車売払ニ付フロリヘラルトに相托す
 - 第1巻 p.654 -ページ画像 
篤太夫、クレイ方罷越し談判、夫より英国飛脚船会社江罷越す
午後画師チソウ宅御越、端蔵・コロ子ル御供
 八月十七日 曇 金               十月二日
朝御乗馬御稽古御越。
篤太夫英国飛脚船会社罷越、上下九人外小遣壱人之船部屋申談、代金半方相渡、残金来水曜日相渡候積申談、荷物は来月曜日車相送可申旨引合いたす
御借家篤太夫持参、フロリヘラルト相渡此度相渡置候御借家代請取四度、壱ケ年分をも相添渡す
山高石見守来る
 八月十八日 雨 土               十月三日
朝御用荷物詰込いたす
午後英国飛脚船会社之者罷出る、船部屋無之旨申聞る、但来月曜日午後二時迄ニ有無返答可及旨引合罷帰る。
教師ホタツヱール画学校教師、運動術教師御馬教師等御招、御同案之夜餐被下一同御相件、運動術、馬術教師等被不物有之
夜貞次郎罷出る、英国生徒、仏国生徒御手当御国より相廻候分勘定書仏貨とも請取
フロリヘラルト被差遣書翰之儀談判いたす。
貞次郎江被下物有之
 八月十九日 曇 日               十月四日
朝九時コロ子ル妻之姉之宅ビロウフケー御越、篤太夫・平八郎・涌之助・コロ子ル御供、同所ニ而午饌、午後近の野ニ而畋猟、夕第六時半御帰館
夜九時半伊東玄伯到着いたす
 八月廿日 晴 月                十月五日
朝篤太夫、フロリヘラルト方罷越す、同人不在ニ付東洋バンク罷越、夫より飛脚船会社罷越、荷蘭バンク罷越す
飛脚船十月十一日英船は部屋無之旨ニ付、会社頭取同道ニ而夕五時頃帰館、其段申立仏国飛船十九日分ニ可致申談差返す
午後フロリヘラルト罷出る、篤太夫不在ニ付書翰差置罷帰る
栗本貞次郎来、フロリヘラルト江差越候書翰持参勘定書持参いたす
 八月廿一日 晴 火               十月六日
朝八時御発ホンテンブロー御越、平八郎・端蔵・潤次郎・涌之助、コロ子ル御供、夜第十一時半御帰館、コンマンダンより八月九月分勘勘書請取《(定カ)》
篤太夫、フロリヘラルト方罷越、御旅館及博覧会品物之儀ニ付向後取扱方之儀書翰相渡す、但日本書翰仏文訳書共貞次郎・篤太夫調印、夫よりフロリヘラルト同行請負人方罷越、フロリヘラルトより向後諸事委任之旨申達し篤太夫より証書相渡す
英国飛脚船会社罷越、英船部屋無之ニ付仏船ニいたし候旨相達第一時帰宿
第一時御用荷物差出す、但仏船ニ而相廻候積、夕六時再御用荷物都合六拾壱箇内弐箇残し置、差引〆五十九箇渡、此嵩弐拾弐キユーブ、但
 - 第1巻 p.655 -ページ画像 
六千キロ程馬塞里迄御急ニ而差出候事
 八月廿二日 雨夕晴 水             十月七日
朝英国飛脚船会社会社支配人パアビイ罷出る、仏国飛脚船部屋其外代金等之儀申聞る
第十二時半、篤太夫、フロリヘラルト方罷越、同人同行ニ而仏国飛船会社罷越、船屋荷物等之儀談判いたす、夫より御借家請負人トラパルム方罷越、御借家代期限迄相払諸事取究いたす、篤太夫は夫より英国飛脚船会社罷越、最前相渡す手附金請取戻し談判いたし夕六時帰宿
フロリヘラルト立替諸勘定向同人江相渡す、
英船差支ニ付仏船と相成候旨、コロ子ルを以外国局江相達す
御書翰達し方も催促いたす、仏帝近々帰巴ニ付著次第御逢可申越、若又遅滞候ハヽ帝罷在候ビヤリストと申地江御越之儀御案内可申上旨、外国局挨拶之趣コロ子ル申聞る
 八月廿三日 晴 水               十月八日
午後牛羊を殺し肉を鬻ふ場処御見物
篤太夫・フロリヘラルト宅罷越、諸勘定向相渡、御旅館借料不足之分増相渡、仏国商社江返金仏貨六万フランク相渡す
蒸気車札御払代同人より請取差引調いたす
英国飛脚船世話人江書翰差遣す、フロリヘラルトより同断書翰差遣す
篤太夫東洋バンク罷越横浜為替金六万フランク相渡す
同人クレー方罷越、同人より御国新聞前上様御事公子御模様柄南北諸侯之事共有之
篤太夫、クレー同行仏国飛脚船会社罷越、船室承合荷物之儀申談
石見守江荷物之儀ニ付篤太夫より書状遣す
夕四時御乗切コロ子ル御供
 八月廿四日 晴 金               十月九日
朝御乗馬御稽古御越
荷蘭御買上物代金調、伊東玄伯相渡勘定差引いたす
御入用出入調いたす
御入費出入調分コンマンタント差出候勘定書調分訳書いたす
夜クレイ罷出る、昨日御国新聞有之旨申上る
石見守罷出る、篤太夫より諸勘定差引相渡
 八月廿五日 晴 土               十月十日
篤太夫御旅館御入費仕訳取調いたす
午後同人英国バンク罷越、横浜為替仏貨六万フランク之証書請取
第一時半敷物製作所ゴブラン御越、篤太夫・平八郎・コロ子ル御供、本地ニ而製造之敷物は多く人物奇草佳木之花模様抔製する場所ニ而、政府ニ而立置たる地なれは、別ニ利益に係はらす唯其品物之美なるを尽し、其価を論せすといふ、製作所は小なれとも其製し出す品類は頗る佳麗のものなりし、同所支配人御案内申上、右敷物に用ゆる毛・綿絹糸之類、数多色分之部類を分ち、御覧に入る、総而精舎術ニ而其色類を分ち、其種三万以上之部類ありといふ、御一覧後、ブウルバアル御通行、獣鳥魚之肉及野菜抔売買する広大なる市廛之前通行御一覧、第四時半御帰館
 - 第1巻 p.656 -ページ画像 
夜クレイより篤太夫江書翰差越し、御国より借用相成居候商社より引負金高申越す
朝九時御乗廻しコロ子ル御供
 八月廿六日 晴 日        十一月十一日《(衍カ)》
朝九時御乗廻しコロ子ル御供


渋沢栄一 日記 自慶応四年六月十四日至明治元年十一月二日(DK010049k-0003)
第1巻 p.656-657 ページ画像

渋沢栄一 日記 自慶応四年六月十四日至明治元年十一月二日
○上略
 八月廿六日 ○慶応四年 日 晴        十月十一日
朝御乗切、コロ子ル御供
 八月廿七日 晴                十月十二日
午後ホワンブロン御遊歩、平八郎・涌之助御供、夕五時御帰館、仏帝帰巴延引ニ付、為問合コロ子ル外国局江御遣し、外国局より早々ビヤリイト帝滞留所江問合、挨拶可有之旨申答候由ニ而罷帰る、栗本貞次郎罷出る
 八月廿八日 火 晴             十月十三日
篤太夫、フロリヘラルト方罷越す、飛脚船勘定之儀申談す、仏国飛船商社江罷越、頭取ウードラア面会、明日十時フロリヘラルト方ニ而打寄相談之積申談罷帰る
礼式懸モリス罷出、国帝より返書有之ニ付、来十七日迄ニビヤリイト御越有之度、同所ニ而御逢有之旨申来ル
第九時御乗廻し、コロ子ル御供
第十二時半金銀銅製御越《(所脱カ)》、平八郎・涌之助・コロ子ル御供、夜七時劇場御越、篤太夫・平八郎・端蔵・涌之助・玄伯・コロ子ル御供、第十二時御帰館
 八月廿九日 曇 水             十月十四日
朝コンマンダント江諸勘定相渡、向後同人給金其外手当四千仏相渡被下物之儀ニ付、篤太夫より印紙相渡す、御用荷物請込いたす
第十時篤太夫フロリヘラルト方罷越す、飛脚船会社頭取も罷出、郵船代凡積相渡す、諸勘定は今日右ウードラア英国飛脚船会社に篤太夫相渡し手附返却方申談候上、フロリ迄可差越旨申談罷帰る、篤太夫東洋ハンク罷越す、為替手形請取方ニ付涌之助同道いたす
第四時御乗廻し、コロ子ル御供第五時過御帰館、ジユリイ罷出、同人公子御附添仏国に罷越、其後日本罷越候入費之儀ニ付云々難渋之廉申立る、夜六時フロリヘラルト・クレイ・コロ子ル及妻コンマンタン両人其国士官不残御発程ニ付夜餐被下、フロリヘラルトより為御餞別唐銅置物献上いたす、飛脚船部屋札並勘定書ハ馬寨里へ相廻し可申旨、フロリヘラルトより篤太夫江申聞す
フロリヘラルト・クレイ・コンマンタン・パタサン江被下物有之
御残之者ハ十七日当地出立馬港罷越可申旨、篤太夫より申達し、入用《(金カ)》○千フランク・コンマンタント江相渡し毎事申談置
ジユリイ歎願之儀ニ付、七百フランク被下之積、貞次郎へ申談、金子相渡す、諸書物類写貞次郎へ相渡ス《(マヽ)》、フロリヘラルトより御借家ニ付篤太夫調印ニ而請負人へ相渡候書翰之写差出す、右代弐十ランク八十サ相渡
 - 第1巻 p.657 -ページ画像 
すフロリヘラルト献上之品其外とも荷拵之儀バンサン申残し、六十二番、六十三番と番号申談す
御用御箱之残コロ子ル被下小遣へ被下
ホワシミヱール為御暇乞罷出る
   ○コノ日記ハ栄一ノ日記ニシテ未ダ発表セラレザルモノナリ。縦五寸二分、横三寸一分、方眼紙ノ手帳ニシテ表紙ハ黒革、見返ハマーブル、紙数六十枚、全部鉛筆ニテ認メ、一方ヨリハ日誌、他方ヨリハ経費支出ノ覚書記サル。其他仏蘭西語ノ単語モ記サレ、P・M・K・S等ノ頭文字ヲ書キ其下ニ洋数字ノ羅列サレタル箇所モアリ。其数字ハ恐ラク民部公子一行ノ経費額ニシテ、Pハプリンス(民部公子)Mハ三輪端蔵、Kハ菊池平八郎、Sハ栄一ナラン。
    此日記ノ形ヲ示セハ左図ノ如シ。
表紙、黒色革張 見返し、波状模様 用紙、方眼紙六十枚 縦五寸二分、横三寸一分 3寸1分 5寸2分 2寸8分
    日記ハ慶応四年六月十四日ニ始マリ、同年十一月二日ヲ以テ終リ、其間七月十日ヨリ八月廿五日迄ノ分ハ記事ヲ欠ク。巴里御在館日記六月十四日以後ノ記事ヲ此手帳ノソレト比較スルニ、御在館日記ノ方整頓セルヲ認ム。
    即チ此日記ハ御在館日記ノ下書ト見ルベキモノナラン。然レドモ御在館日記ハ八月廿五日ヲ以テ終ルヲ以テ八月廿六日以後ノ此日記ノ記事ハ唯一無二ノモノナリ。


昔夢会筆記 中巻・第四七―五四頁〔大正四年四月〕(DK010049k-0004)
第1巻 p.657-660 ページ画像

昔夢会筆記 中巻・第四七―五四頁〔大正四年四月〕
○渋沢○中略 其中に段々内国の種々なる騒動が聞えて参るといふやうなことになりまして、翌年の何月頃であつたか確に覚えませぬが、伏見・鳥羽の騒動の仏国へ知れて来たのが、多分一月の中頃かと思ひます、それから続いて三月の何日頃でありましたか、東久世・伊達両公の名前で、民部公子に帰国しろといふことの通知が参りました、併し私ども其時の考は、周章てゝ帰つた処が仕方がないと思ひましたから、其命令にはどこへ返事を出して宜しいか分らぬくらゐですから、其時の外国方に、今帰つた処が仕方がないやうに思ふ、斯かる御沙汰であるけれども、其通りには出来かねるといふことを言うて寄越したやうに覚えて居ります、其時に多分御直書と思ひました、御前から民部様への御手紙がございました、それはいつぞ伺つて見たいと思つて居りましたが、其御直書の趣旨は、政権を返上したのみならず斯ういふことになつたといふ、大坂の顛末を概略御書き遊ばして、さうして此日本の将来を思ふに、内輪の騒動をして居つてはいけないから、それで拠なく斯ういふことにしたのだから、誤解をしてはいかぬぞ、折角其地へ出掛けたことであるから、是非お前は留学の目的を十分達するやうにしたい、私も次第に依れば丁
 - 第1巻 p.658 -ページ画像 
度ペートルの故事に倣うて、海外へ出掛けるといふくらゐまでの希望を持つて居る、故に内国の騒動に依つて、周章てゝ帰るといふやうな考をしてくれては困るといふやうな、尊書のあらしつたことを覚えて居ります、もう其頃には江戸の方からの指図に依つて、外国方の人々は皆帰つてしまひます、それから前に申上げた七人の人々も段々帰つて、漸く菊池平八郎・三輪端蔵の二人だけになりました、それに私と小出涌之助といふ少年と、唯四人だけ御附き申すことになりましてのことです、さういふ御手紙が、多分江戸から御発しになつたので、三月頃でもございませうか、著きましたのが五月か六月と覚えて居ります、其少し後に、かの駐日公使ロセスも巴里に帰つて参りました、即ち御一新の翌年で、辰の年に帰つて参りました、上野の騒動の後でございませう、ロセスが帰つて参つた時分には、まだボワデブロンの近傍なるリユードヘルゴレーズといふ処の、五十三番地の御旅館に御住居になつて居る頃です、そこへロセスが参りました、其時分には御附き申す人も沢山居りませぬから、私どもがロセスに接遇致しました、ロセスの申すには、どうも御一新といふことにはなつたけれども、つまり申すと薩摩と長州が力を合せたからとうとうあゝいふことになつたのだ……、其時の詞を能く判然と覚えませぬけれども、どういふ思召か知らぬが、大君の隠退したのは少し御弱いやうだ、あんなことをなさらぬでも、もう少し主張を強くなされば、決してあんな場合にならぬで行けるのであつた、それは如何にも残念であるが、決してあのまゝで日本が無事に治まるものではない、更に種々なる騒動が起るであらう、此場合に、貴所《アナタ》が学問もせずに、此まゝ御帰りなさつても、何たる利益はない、どうか相当の学問をなさつて、さうして此仏蘭西の軍制なり或は政治なり、さういふやうなことを十分に会得して、仏蘭西に相当な信用を持つて御帰りになれば、必ず貴所の御身に自然御身柄だけの利益は附くに相違ない、或は機会に依つては、貴所は宜い順序で迎へられるといふことが無いでもなからうと思ふからして、周章てゝ帰るといふことは宜しくございませぬ、決してあのまゝ都合宜く行くものではないと私は思ふといふことを頻に申しましたやうに記憶して居ります、何でも昨夜帰つたと言うて、翌日御旅館に参りまして、頻に前に申した趣意を述べたやうに思ひます、名誉領事のフロリヘラルトといふ人と一緒に参つて色々話をしました、併し其後に度々参つてさういふ話をするといふことはなかつた、察する処どうもナポレオン三世が、ロセスの意見を十分採用して、日本に対して尚引続いて力を入れる考が、余り無かつたやうに思はれた、前にはあつたか知らぬが、其頃には少かつた、当初ロセスは民部公子を一つの奇貨として、何か日本に向つての政治関係をつけるといふ意念は、日本を去る時には計画してあつたか知らぬが、仏蘭西へ帰つてからは少し其目論見が齟齬して、それで初め帰国して御目に掛つた時は、今のやうなことを申したけれども、後は引続いて其情を以て御世話を申上げなかつた、斯ういふ次第のやうに承つて居ります、或はそれが事実かと思ふのであります、併しさうい場合で、私
 - 第1巻 p.659 -ページ画像 
も今公子を御帰し申してはいけないから、是非とも御止め申す方が宜いと考へましたので、甚だ恐入つたことでありますが、帰りまして後、駿河へ出て拝謁をしました時にも、一体御前の遊ばされ方が間違つて居るといふことを、申上げたことを記憶して居ります、私ども仏蘭西に居る中は、民部公子と共に、一体大君のなされ方がつまらぬ……、甚だ恐入つた申分だが、さういふことを頻に申して居りました、なに今にどうか変化するだらうといふやうな念慮は、始終持つて居りましたのです、旁ロセスなどに於てもさういふ意見で御前が負けぬ気象を御持ちなら、それを頼りに十分働かうといふ意念は、必ずあつたらうと思ひます、其時のことを極丁寧には覚えて居りませぬが、行掛り上さういふ念を持つて居つたやうに思はれました、其くらゐですから、公子も其時の御直書に対しては、如何にも情ない思召である、露西亜のペートルと今の徳川は時代が違ふではありませぬか、さやうな解釈を以て海外へでも足を踏出さうと仰しやるが、日本をどうなさる思召か、それならなぜ御世継を遊ばしたなどゝ、公子の御手紙で御諌言を申上げた、其下書は私が致したのですが、それらは皆既往の空想でありました、それで多分其時の想像は誠に邪推でございますけれども、ナポレオン三世の考がなかなか東洋に手を著けるといふことはむつかしいといふ意念で、前の勢とは違つて来た為に、ロセスは帰つて来てから、公子を擁護するといふやうな思案が変つたのではないかと思ひます、そこへ持つて行つて、多分七月頃でもございましたか、井阪泉太郎と服部潤次郎が、是非御帰りなさらにやいかぬといふので、再び御迎ひに参つた、それは丁度前中納言様が御逝去になつたについて、是非水戸の御家の相続を民部公子にといふことで、前中納言様に対しては、其時の水戸の激党が、怪しからぬ御方だといふやうな観念を持つて居ましたから、其世子がすぐさま御相続といふことは皆不承知であつた。そこで公子といふことに極まつて、それで前に御供をして先へ帰つた連中が、公子はあちらで永く学問をするといふ深い御考を持つて居る、殊に渋沢は頻にそれを主張して居るといふことを知つて居るものですから、唯の手紙ではいかぬといふので、わざわざ御迎ひに来た、其時に井阪などが、若し貴所が妨をしたら、貴所を殺す積りであつたといふことを申して居りました、或は仏蘭西人と申合せて妨げるかも知れぬ、レオンロセスも帰つて居るから、或はさういふ計画をせぬとも限らぬ、故に唯優長の人を遣つたのでは、迚も御連れ申すことは出来ぬから、まかり間違つたら腕力で連れて帰れといふことで、二人の者を特に派出されたのだといふことは、井阪などは打明けて申して居りました、私もさういふことを承知しましたから、初は御止め申したく思ひましたけれども、もうさうなつた以上は、迚も私の微力では御止め申す訳にいかぬと思ひましたから、仏蘭西の外務省では頻に止めましたし、それからコロネルウイレツトといふ人も、切歯して極言抑留しましたが、斯ういふ訳だから是非とも帰るといふので、後の始末をして帰つたといふやうな訳でございました、斯う申上げますと誠に短いやうですが、なかなか入組ん
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だ事情があつたやうに覚えて居ります、何でも其頃旧政府の方の別の用向で参つた栗本鋤雲、それから先達て死にました三田葆光、これらの人は他の談判で暫く巴里に滞留して居りました、伏見のことが聞えて参つて、大に心配したことがございました、さういふやうなことでございまして、ロセスが最初公子の御供をするといふことは多分どうも無かつたでございませう、併しロセスの斡旋で公子が仏国行になつたといふことは事実に相違ない、それからウイルニーといふ横須賀に関係を持つた人と、グレーといふ商人が申合せて行つたといふのは、横須賀造船所の為に、更に資金を仏国より入れるといふやうな下談判があつたやうに思はれるのです、併し其事も色色の騒動の為に運びませんで、唯レオンロセスの帰つた時分には、まだ若し機会があつたらといふ考がまんざら無いではなかつたやうに思はれますが、ナポレオン三世は、今頃そんな考を持つて東洋に手を著けることは宜しくあるまい、余り立入つてはいかぬといつたのではないかと思ひます、これは全く私の推測でございます、果して事実如何であつたか分りませぬ、それ故にロセスといふ人は、自分が帰国した後でございますけれども、公子の御帰りの時には至つて冷淡で、それでは拠ございませぬから、御帰りなさいといふくらゐのことであつたやうに覚えて居ります、今の尊書を御出しになりましたことについて、御記憶はあらつしやいませぬか、多分五月頃にあちらへ著きました。
○公 さういへば遣つたやうにも思ふが、どうも能く覚はない。
○渋沢 あれは公子は持つてござるに相違ございませぬ、余程綺麗な御書で、余り小さくない、大きな文字でございました、奉書の巻紙に書いてあつたのです、或は御直筆であつたかも知れませぬ。
○萩野 民部様に伺ひましたら其御手紙が……、
○渋沢 ありませうと思ひます。


徳川慶喜公伝 (渋沢栄一著) 三 第三八九―三九〇頁 「大正七年一月」(DK010049k-0005)
第1巻 p.660 ページ画像

徳川慶喜公伝 (渋沢栄一著) 三 第三八九―三九〇頁 「大正七年一月」
○上略 程経て余は清水民部大輔 昭武 に供奉して仏蘭西に赴きし時、同国に滞在せる栗本安芸守と本国の政事を談じて、「一橋殿将軍となり給ひて、幕府の運命既に極まりぬ」と歎息せしに、安芸守は如何思ひたりけん黙して答へざりしが、やがて政権奉還・王政維新の報知巴里に達するや、安芸守は余にいへらしく、「嚮に足下が幕府の運命極まれりといへる時は、よもさる事はあらじと思ひしに、今にして足下の卓識に敬服せり、さすがは長く京坂に在りて、天下の形勢に通暁せられたり」と称賛せり。されど今より思へば、余が其時の意見は勿論、安芸守の称賛せる卓識も、亦謬見たるを免れざりしなり、若し公が御相続の御事なかりせば、誰か克く幕府令終の大任を完くすべき、余が当時の進言の行はれざりしこそ、却て国家の幸なりけれ。今御相続の事を叙するに際し、昔夢を追尋して、聊此に附記す。○下略


竜門雑誌 第二六五号 第一一―一二頁 〔明治四三年六月〕 ◎本邦公債制度の起原(青淵先生)(DK010049k-0006)
第1巻 p.660-661 ページ画像

 竜門雑誌 第二六五号 第一一―一二頁 〔明治四三年六月〕
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  ◎本邦公債制度の起原(青淵先生)
    (附)銀行及取引所創設事情
   本篇は四月二十二日大阪株式仲買有志者の招待会に於ける青淵先生の談話大要なりとて、大阪銀行通信録に掲載せるものなり。
○中略 私の公債と云ふ事に考を持つた始めは、私が旧幕府の人として民部公子のお供をして仏蘭西へ行きました、一行は二十八人でしたが慶喜公が政権を返上せられた為めに募府は大変革があつて、一行の多数は明治元年十月に日本へ帰る事になつたが、私の考へでは幕府は無くなつても日本が潰れる訳ではない、民部公子も折角出て来られたものであるから、四五年は仏蘭西で学問をさして日本の為めに役に立たしたいと思ふた、其時に金が丁度弐万円程あつたから、是を如何したらよいかと云ふ事を、当時仏蘭西政府から民部公子に附けて居たコンマンダー・バンソンと云ふ人に相談をした所が、夫れは公債証書を買ふに限る、年々四分や五分の利息は呉れる、又売りたい時はブールスに行けば何時でも売れると云ふ事であつたから、同人とブールスに行つて公債を買入れた、其種類は半分が政府公債で、半分が鉄道公債であつたと思います。
夫れから暫く立つと、民部公子が水戸家を相続されることになつて、日本から迎ひに来たから最初の計画を止めて、日本に帰られるに付自分も帰らなければならん、前に買入れた公債も売らねばならん、ブールスに行つて、丁度買入れてから半年後に売た所が、政府公債の方は買入れた時と余り値段が変らなかつたが、鉄道公債の方は相場が上つて居て五六百円儲つた勘定になりました、此時に成る程公債と云ふものは、経済上便利なものであるとの感想を強くしました、私は前後洋行を三度しました、最初が此時と次が明治三十五年、其次が昨年の渡米実業団で、最初の四十四年前の旅行は非常に不便極まるものであつて其次はいいかげん、第三回目の渡米実業団は到る処で非常なる歓迎を受けて、光栄ある旅行をしましたが、自分の一身上一番効能のあつた旅は、四十四年前の洋行と思ひます、此の時が銀行を起す事とか、公債を発行するとか、外国では役人と商人の懸隔が日本の如くでない、是は何とかしなければならぬと云ふ事に気が付た、是は余程効能のあつた事と思ひます。


明治憲政経済史論 第四―一〇頁 〔大正八年四月〕 維新以後ニ於ケル経済界ノ発達 第一節 緒言(DK010049k-0007)
第1巻 p.661-663 ページ画像

明治憲政経済史論 第四―一〇頁 〔大正八年四月〕
  維新以後ニ於ケル経済界ノ発達
     第一節 緒言
○上略 仏蘭西ニ参ツタノガ慶応ノ三年ノ春デアツテ、博覧会ノ儀式ガ済ムト直キニ、八月頃カラ瑞西・白耳義・和蘭ノ三国ヲ巡回旅行シテ帰ツテ参リマシタ。ソレカラ又伊太利ニ行キ、伊太利ノ訪問ヲ仕舞ツテ更ニ英吉利ニ旅行シ、各国ノ礼問ノ全ク畢ツタノガ其年ノ冬デ、其翌年ハ幕府ガ倒レテ明治ト改元シタ。而シテ其年ノ冬、空シク帰朝シタノダカラ、行クト帰ルマデ計算シテ一年ト十箇月バカリヲ費シタ。併シ此旅行ハ私トシテハ漠然トシテ学ブ所ハナカツタガ、其学ブ所ノ無イ間ニ、各階級ノ人ニ接シ種々ナル事物ニモ触レタカラ、其見聞中概
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括的ニ多少学ビ得タ様ナ感ジガシマシタ。
 前ニ申ス通リ、農民カラ尊王攘夷ヲ唱ヘテ出掛ケタ身体ダカラ、維新後ニ流行シタ民権家ト云フヤウナ塩梅ニ、直様大政ヲ支配シテ所謂治国平天下ノ実ヲ挙ルノ意念デ、其気位ハ王侯将相豈種アランヤト云フ青年ノ活気ニ駆ラレテ家ヲ出タノデアルケレドモ、一橋ニ奉公スル時ニハ少シク世間ガ見ヘタカラ、一橋デ相当ナル政治ヲ為シテ、一橋公ヲシテ天下ニ雄飛セシメタイト云フヤウナ気ガシテ居ツタ。然ルニ其君公ガ将軍ニ為ラレタカラ実ニ茫然トシテ仕舞ツタ。為メニ忠義ヲ尽スト云フコトノ方針ニ困マツタケレドモ、矢張リ君臣ノ観念ハ強ク思ツテ居ツタ。
 海外ニ居ツテ内地ノ政変ヲ聞知シ、伏見鳥羽ノ戦争カラ幕府ハ朝敵ノ汚名ヲ蒙リ慶喜公ハ俄然関東ニ帰リ、有栖川宮ガ総督トナツテ東征ヲスルト云フコトガ追々ニ仏国ヘモ報知シテ参リマシテ、向後如何ニナルカト海外ニ於テ頓ト見当ガ付キマセヌ。幕府ノ倒レルデアラウト云フコトハ、既ニ国ヲ出ル時カラ想像シテ居ツタケレドモ、此ノ如ク急速ニ倒レルトハ思ハナカツタ。ソレデ自己ノ大切ニ思フ所謂三世ヲ契ツタ君主ガ朝敵ニナツタト云フノデアルカラ、其時ノ自分ハ廻リ廻ツテ意外ナ境遇ニナツタノデアル。尊王攘夷甚シキハ討幕トマデ思フタノガ失敗シテ幕臣トナリ、其幕府ハ朝敵トナツテ、慶喜公ハ世ニ立ツコトノ出来ヌヤウナ御身ニナツタノデアル。ソレガ私ノ仏蘭西ニ居ル時ノ事デアツテ、実ニ困難ノ身トナツタ。此場合ニハドウモ拠ロナイ、随行シテ居ル民部公子ニ相当ナル学問ヲサセタイ、ソレモ軍事ノ教育ヲ受ケサセルガ宜カラウ、而シテ自分ハモウ政事ハ断念シ、幾分カ経済学ヲ修メテ金融トカ運輸トカ商工業トカ云フヤウナコトヲ学ビ得ルコトハ出来マイカト云フ希望ヲ持チマシタ。是ハ幕府ノ倒レタニ付テ、将来自己ノ一身ヲ如何ニ処スルカト云フ処カラ出タ考案デアツタケレドモ、マダ語学ガ出来ヌ。併シ既ニ三十才ニ近イ年齢デアツタカラ、多少異ツタル方式ニヨリテ勉強シタ。経済界ノ観察中ニ、二三ノ要件ガ大ニ日本ト違フト云フコトヲ認識シタ。
 其一ツハ紙幣ノ流通デアル。其紙幣ハ希望スレバイツデモ正金ニ引換ヘルノデアル。而シテ其正金ハ一ノ制度ガアツテ、ドレ程ノ純分ヲ含ムベキモノト規定シテアル。斯ク儼然タル有様デアルカラ、日本ノ幕府ノ幣制ノ如ク、元禄、元文、天保ト次第ニ貨幣ヲ改鋳シテ其純分ヲ減少シナガラ同ジ称呼ヲ以テ世間ヲ瞞着スルヤウナコトハナイ、イツモ同ジ量目、同ジ純分デ引換フルノデアル。此ノ如クシタナラバ融通ト云フモノハ良イダラウトイフコトハ。仮令完全ナル学理ヲ修メヌデモ事実ニ於テ了解シタ。且其実務ハ「バンク」トイフモノガアツテソレヲ取扱フ。此「バンク」トイフモノハ他人ヨリ金ヲ預リモスル、貸モスル、為替ノ取扱モスル。別ニ又公債証書ト云フモノガアル。是ハ国家ガ借用証文ヲ出シテ之ヲ融通スルノデアル。其外ニ合本法ニヨリ組織スル鉄道会社ガアツテ、同ジク流通シ得ル処ノ借用証文ヲ出スノデアル。元来借用証文ト云フノハ、日本ノ習慣トシテ其時分ニハ極メテ秘密ニスベキモノトシテアツタ。兎ニ角仏国ノ滞在ガ一年余リデアツタカラ色々ノ事物ニ接触シマシタ。前ニモ述べタル経済界ノ事務
 - 第1巻 p.663 -ページ画像 
中ニテ金融ノ仕組トカ、公債証書ノ取扱トカ、「バンク」ノ経営トカ、商工業ノ組織トカ云フモノノ細密ナル様子ハ分リマセヌケレドモ、既ニ概況ヲ眼ニモ見、耳ニモ聞イテ、成程国家ノ富強ト云フモノハ斯クノ如ク物質上ノ事物ガ進歩発展シナケレバイケナイモノダト云フ丈ケハ分ツタ。去リナガラ精神上ノ事ハマダ矢張リ東洋ガ宜イト私ハ信ジテ居ツタ。是レハ今日デモ全ク抜ケナイケレドモ、物質上ノコトニハドウシテモ敵ハヌト屈服シタ。而シテ是レハ是非調査シナケレバナラヌト云フコト丈ケハ深ク感ジタ。
 更ニ一ツ私ノ心ヲ刺戟シタノハ、商工業者ノ地位ト官吏若クハ軍人トノ関係ガ日本トハ全然相違シテ居ルコトデアツタ。当時ノ日本ハ所謂階級制度デアツテ、苟モ其職ニ居レバ如何ナル無識ナ人デモ威張ツテ居テ、当人モ自己ノ無識愚昧ヲ知ラヌ。例ヘバ諸藩ノ代官ナドト云フ人ニ其領地ノ農民ガ会見スルト、実ニ軽蔑サレル。彼レハ知識モナク何等ノ長所モ持タヌケレドモ、只役柄上尊大デアツテ農民ハ奴隷視サレル。是レハ田舎ノミデナク、私ガ一橋ニ奉公シタ時ニ、大阪ノ御用達即チ同地ノ富豪ニ接触シテ種々交際ヲシテ見タ時モ矢張リ同様デ官吏ヤ軍人ハ威張ルバカリデ、商工業者ハ面前只恐縮ノ姿ヲ粧フノミデアツタ。サウ云フ一般ノ日本ノ風習トハ、仏蘭西ト英吉利ナドハ全然相違デアツタ。英吉利デハ商業家ニ交際シマセヌケレドモ、マルデ其様子ガ違ツタ。而シテ此事ハヒドク私ノ心ヲ刺激シタ。此レハ大ニ学バナケレバナラヌ、是デナケレバ真ニ事業ノ進歩ヲ為スコトハ出来ナイト思フタ。併シ夫レトテモ多数ノ人々ヲ通覧シタト云フ訳デハアリマセヌ。其頃日本政府カラ委任シテアル総領事ノ仏蘭西人ガ銀行業ヲヤツテ居ル、又仏蘭西ノ郵船会社ノ重役ノ一人デアツタ。是等ノ人人ガ民部公子ノ御世話ヲスル為メ時々公子ノ住居ニ伺候スル、其住居ニハ仏帝三世那波翁カラ附ケラレタ一人ノ騎兵頭「ビレツト」ト云フ人ガ居リマシタ。此「ビレツト」ハ相当ナル軍人デアツタガ、前ニ云フ銀行家若クハ郵船会社ノ重役トノ応対ガ、寧ロ軍人ノ方ガ遠慮シテ実業家ヲ敬重スルヤウニ見エマシタ。例ヘバ民部公子ノ住居ノコトニ付テモ或ハ修学ノコトニ付テモ、是非得失ヲ決スル談話ガ少シモ彼ヲ重ンジ之ヲ卑ムト云フ風ガナクテ、対等ニ和合シテ談シ合フノヲ見テ私ハ日本ノ有様ト異ナルヲ深ク感ジタノデアリマス。総ジテ、政治家軍人其他ノ官吏ニ付テモ、日本ノソレトハ官民ノ区別ガマルデ違フテ凡テノ人ガ所謂平等主義デアル。斯クアツテコソ然ルベキモノデアルト云フ感ジヲ起シタ。私ハ今モ其時ノ事ヲ明瞭ニ記憶シテ居ルノデアリマス。
 御国ノ政変カラ、前ニ述ベタ如ク自分ハ実業的ノ学問ヲスルノ考ヘデ、暫ク仏蘭西ニ籠城ト心得テ、其費用ノ支度ナドヲシテ居ツタ所ガ民部公子ガ水戸藩ノ相続ヲナサルニ付テ帰国セネバナラヌト云フコトニナツテ、其為メニ特ニ迎ヒノ人ヲ送ラレ、至急ニ帰国スルト云フノデ、実業的学問ヲ修メテ帰ラウト思ツタ希望モ猶且ツ行フコトガ出来ナクテ帰国シタノガ、慶応四年即チ明治元年ノ十一月デアリマシタ。


市河晴子筆記(DK010049k-0008)
第1巻 p.663-664 ページ画像

 市河晴子筆記 (市河晴子氏所蔵)
 - 第1巻 p.664 -ページ画像 
  ナポレオン三世アンペラトリスの印象
 民部様の御わかれ、御帰国の御いとま乞ひの時には、イスパニヤ境のビヤニストつて……温泉ではなからう、気候がいゝので御用邸があつてね、そこへ行つたのだが、アンペラトリスは民部様の手をにぎつて、「折角はるばると御修業に見えたのに、御国の大変でとうとう途中で帰国されるのは、いかにも残念だが是非も無い、行末頼もしい御成人を遠くから祈ります」つて、まことに親切な行とゞいた挨拶をしてね、それがつてのが、民部様と皇太子とがいくらも年が違はないので自然情がうつつたのだろうが、まことに親しみのある様子でしたよ、そしていよいよ退出つて時に、皇后がそばに居た皇太子、サー十五位だつたろうかね、それに一寸目で合図したので、その小僧さんが長い廊下をずつと玄関まで送つて来ましたがね、ま軽々しすぎもせず、情もこもつた程よいあしらひでしたよ。
 左様その皇太子はインドの戦で死にましたよ。
 サー、ナポレオンはその時居たかしら、何しろその時は皇后一人でとりもつて、たしかナポレオンも居たけれど、これつて事も云はなかつた、一体が一世は絵で見た切りだがまるで熊鷹みたやうなあれとはまるで違つて、三世は寡言で陰気なおとなしい様な見かけだつたがあれで人を籠絡したり、抜目のない梟雄つて肌だつたらうね、まつすぐに力押しで行く人では無いつてのは、一見してわかる様でしたがね。
 しかし博覧会の時の演説は堂々とした立派なものでしたよ、その大夜会の時など、皇后は裙を長く引いてね、体がこゝだと、まだ裙はあの辺まである、二間上もあつたろう、裾持が又金ピカな服着て、何でも一人や二人ではきゝませんでしたよ。
 私かい、私はビロードのモーニング、毛の長めなビロードの様な山高で、上に切れがついて居るのさ……、なーに曲馬師の様じやないよ、」でも祖父様はクツクツと思ひ出し笑ひをされて、「洒落た服なのだがね、日本へ帰つて得意で大阪へ着て行つたら、役者と間違へられたよ。」


市河晴子筆記(DK010049k-0009)
第1巻 p.664-665 ページ画像

 市河晴子筆記 (市河晴子氏所蔵)
  幕府からその頃出してあつた留学生は
 ロシヤ四人、フランス八人、イギリス九人等であつたけれど、何しろあの大騒で幕府から支給の御金が来なくなる、イギリスではロイドつて人が世話を焼いて、貸銭先払で喜望岬廻りの荷船に乗せて帰そうつて事になつたがね、それじや横浜へついても、金をやらねば渡さないつて云ふのだから、あまり人間を荷物扱ひにした話で、捨てゝ置いては御国の恥だと思つてね、民部様の方の御金を三四千円も割いて……、皆では一万円近くもほとんど独断で使ひましたよ、そうして皆仏国へまとめて、マルセーユから出発させようと云ふその船の出帆を待つ間、民部様の御旅宿の広間を片附けて宿らせたんですがね、その連中が人をフロアに寝かして、豚あつかいだつてブツブツ云つて居るつて聞いたからムーウツとしてね、刀を下げてどなり込んで行つたのですよ。
 そう林董さんが年かさで、菊池大麓さんが十四五であつたか、年少
 - 第1巻 p.665 -ページ画像 
で外山正一、蒲原、伊東なんて人たちがゐましたよ、それを捕えて、一体あんた方は今の御国元の事を何と思つて居られるか、御国の大変で留学の送金が絶え、喜望岬廻りで帰され様とすると《(の)》を、ともかくそうしたみじめな目にあはないやうにと計つてあげたこれを、只にあなた方の苦しさをすくはうと云う猫つかはいがりから出た事だとうぬぼれて居なさるなら、大きな間違ひで、日本から留学生を派遣しておきながら、国内の騒動に夢中になつて帰国の始末もつかず、荷物扱ひで送り帰されたとあつては、日本の名誉にかゝはると思へばこそ、当方でも今後御国元からどの程度に送金のあるものやら、無いものやら知れず、現在にぎつて居る御金がどれ程大切なのか知れない中を融通してあげるので、私たちが僭越のそしりをも顧みないで計らつてあげて居る、そこらの意味も苦衷も御察し出来ないか、失礼ながら学問と云うものはそんなもので無い筈だ、只知識を多く集得しなさつただけで得々として居られるか、そんな思慮の足りぬ性根の腐つた人を作らうと、日本は苦しい中から留学生を派遣しなかつた筈だ、私は日本の為になげきます。」つてね、「こゝで厭ならすぐさま出て行つてもらひましよう。」つてね、「御国の大乱のこのさい、よしんばどんなやはらかい床へ寝られたにもせい、心には臥薪嘗胆の〆めくゝりがあつてしかるべきだに、まして何のベツトの上で産れやしまいし、わづかの歳月ヨーロツパの風にふかれたと思うと、フロアの上もないものだ。」つてね、心底腹が立つたから、たゝみかけてガミガミ叱り飛ばしたもので道理は道理だから、皆が一言もなくあやまつたがね、林董さんが後々もその話をしては、激しい小言だつたつて笑ひましたよ、何ぐづぐづ云つたら、はりたをしてやらうと思つて飛び込んで行つたのだけれどまああやまつたので事が大きくならなかつたんですよ。
  この僭越に当ると誤解されやすい支出があつたので、御洋行中の民部様御費用決算書を、ことさら入念に横浜の宿でしたゝめてさし出された。
  慶喜公の重臣平岡某 (円四郎にあらず) がこれを見て、その以前大沢捕縛の時、武に勇む渋沢と云う侍のあるのを聞いたが、えて勇ある者は算筆のことを軽じ、経済方面に長じた人は胆力にとぼしいが常だがこの渋沢はあれと同一人か、又は違う渋沢かと、目をつけられたことが信任の源になつたと話された。


竜門雑誌 第一七六号・第三四―三七頁 〔明治三六年一月〕 ○三十余年前青淵先生仏国在留中の事実(DK010049k-0010)
第1巻 p.665-667 ページ画像

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渋沢栄一 書翰 千代子夫人宛 (慶応四年)二月一七日(DK010049k-0011)
第1巻 p.667-668 ページ画像

渋沢栄一 書翰 千代子夫人宛 (慶応四年)二月一七日 (穂積男爵家所蔵)
この手紙持参の人は熊ケ谷在の町人に《(而脱カ)》仏蘭西に来り居候者ニ候間此方一同無事御奉公いたし候有様丁寧御聴取可被成候事
 - 第1巻 p.668 -ページ画像 
十二月中の御手紙二月十四日仏蘭西国《フランス》に相届き忙かしく披見いたし候、其許儀一別後御無事御両親に奉事し孝養無怠、且拙者帰国迄は両親之御元ニ而御世話申上度との御心掛、誠ニ感し入候、こなた事も不存寄事より一旦御両親を離れ、遂に一万里の海外迄罷越多年御様子も不伺儀は身に取り不孝無此上、幸に其許より聊奉養仕候ハヽ聊御報恩にも可相成、此上は帰国候迄偏ニ此処御心掛こなたに替り相勤候様、返返も頼入まいらせ候、こなた事も此度不存寄結構に被仰付難有仕合、公子御附も是迄之通不相替相勤居候間是又御安意被下度候、又こなた留学中之有様写真ニ而御承知之処なさけなき姿に相成候間、相改可申との御申越尤之事ニ御座候、いつれ帰国之節は申迄も無之相改可申、併当節ハ公子を始御同様之儀西洋に住居候得は聊其真似をするも無拠道理ニ候間、此段御承知被成度候、尤先頃公子の御写真は未タ御国の御姿ニ候得共其後御様子相替候間、右の御写真一枚さし上候、右ニ而御許容可被下候、一日も早く御目もしいたし度儀ハ御申越まてニも無之、於此方も日夜思ひくらしまいらせ候、乍去御承知之通一旦官途に附候得は、私の意に任せ候事にも不相成、忠義を心掛候得は、此節の世の中は私の情は全ふしかたく乍存御両親の恩義さへ稍絶磨いたし可申苦念候程之事、併それも私之所為には無之、此節柄非常の世の中此度の公子当地に御滞留中御学問も出来、後日大に御国を御立直しも候ハヽ、御国江の御奉公無此上存込候外、他念無之情も思も押こらへ忠勤いたし居儀候得は此処能々御考被下度候、昔し楠正成の女房は正成湊川ニ而討死の後、其子正行に遺言ありしを守り遂に正行を守立、再楠の名を起し候乱世の有様ハいつも同し事ニ而五年十年の別離ハさまて驚く事にはなく候間、呉々辛抱いたし候様頼入候、申入度事山々候得共取急きあらあらめてたくかしく
(慶応四)二月十七日
   御千代との御返し            篤太夫より


渋沢栄一 書翰 千代子夫人宛 (慶応四年)三月三〇日(DK010049k-0012)
第1巻 p.668-669 ページ画像

渋沢栄一 書翰 千代子夫人宛 (慶応四年)三月三〇日 (穂積男爵家所蔵)
此手状持参之人は四方寺と申所の人ニ而可然ものニ而候、こなた当地のありさまは逐一承知いたし居候間、能々御尋可被成候已上
一筆申上示しまいらせ候、時分暖気相成候ところ、御替のふ御暮し御両親様始皆々様御息災と奉存候、此方公子ますます御機嫌克、こなた事も無事御奉公いたし居候御安心可被下候、扨其後ハ御国表も以の外の事のミ出来、嘸々御案事之事共とそんしまいらせ候、此方おゐても遠方とは申御様子も定かならす、只々あんじくらし居まいらせ候、右ニ付而ハこなた心得方先達而より父上様へ申上置候間、定而御承知之事とハ存候へとも、素より御国に忠を尽し候覚悟より家出いたし、一旦君と仰き候御方の為に命をいたし候は武士のならゐ、かゝる御時節も覚悟之上ニ而御奉公いたし候儀ニ候得は此末如何相成候とも唯忠義に命を失ひ候は其身の栄と存詰罷在候、夫ニ付そなた事実ニ御骨折之次第、いまた年若き身の永年の辛労且此行末の楽甲斐もなき程に相成候ハヽ定而御心のほと察し入候得共、武士の妻は古より楠正成の妻又は忠臣蔵なとにも其ためし多く候へは、随分心強くなされ候よふ頼入候、尤こなた事もいつれ御国江
 - 第1巻 p.669 -ページ画像 
立帰り壱度は御目もしいたし可申候間、其節迄は能々貞操御守りなされ度頼入候、尚こまこましき事共は手計兄様に申上置候間、御聴取可被成此品は仏蘭西ニ而買求置候間さし上申候、且小判壱枚これは古き品ニ而其前一橋様ニ而拝領之品ニ候間、さし遣し置候間、大切ニ被成度候、実に女の身程はかなきものは無之とは元よりこなたにも承知之事ニ而壱度御目もしいたし、是迄之御骨折山々御礼申度候へとも、何分只今の処左様にも相成兼候間以後両三年の間御辛抱之程頼上まいらせ候、うたも成人いたし可申折角御いたわり可被成候、申迄も無之候へとも御両親御孝養専一ニ念し上まいらせ候、申上度事は山々難尽候へとも、あらあら書残し候間、手計兄様に御問合せ御安心留守御まもり被成度候あらあらめてたくかしく
(慶応四)三月卅日
                       篤太夫より
   お千代との江
  本文小判と申進し候へとも、小判も無益之物ゆへ印籠と取替、小判ハ父上様にさし上申候よろしく御承知可被下候已上


渋沢栄一 書翰 渋沢喜作宛 (慶応四年)四月二七日(DK010049k-0013)
第1巻 p.669-670 ページ画像

渋沢栄一 書翰 渋沢喜作宛 (慶応四年)四月二七日 (渋沢子爵家所蔵)
爾来御替も無御坐御勤仕被成候哉、生も先無異滞在罷在候、是無労高慮三月下旬迄之便宜相達、京兵江戸着会議之上御沙汰可有之と迄は承知いたし候、固より必然之儀今更驚愕も不仕何共浩歎之極不忍復言也、唯兼而も申上候通御同様注目末路狼狽無之様、此際之懸念他事無之候先頃之御細書ニ而御決意も逐一拝承、攬涕幾回御心事奉想像候、当地事ハ何を申も一万里外、眼前右様被為在候は乍存時々迂遠之御差図歯がゆくとも片腹いたきとも申様無之、併生之身処毎度申上候通、今日公子を辞し候訳にも相成兼、唯呑恨之外有之間敷と自問自答、日送一日候目に触候事は左程切迫不仕候得共、如此場合も又一苦界、況哉生之切迫癖且狭小之胸ニ而は取捌相成兼、中々学問抔扨置、唯日夜空敷苦心罷在候、御同様一時之心得違より今日に立至り、遺憾不少次第には候得共、所謂騎虎之勢、今更中止も相成申間敷、侠者死名之謗を受候も素より所期ニ候得は、唯潔然臣節を奉し度志願他事無之候、只向来之御成行奉遥察候処、所詮目適も難相立候得共、結局は事両端に帰し可申、一は此度京兵着府之上無遺類御家殄滅と相成可申哉、併夫は臣節の成し易き事ニ而其一は聊御家相存し、我 君公には何へか御退隠抔被仰出間敷哉、左候ハヽ御同様如何相決し可申哉、御普代累世之臣隷とも相違いたし、唯御家と而已存込候理とも相成間敷、苟も知己之君と褐を脱し、死処も無之候得は無拠余命を存し候とも、其君を失ひ御家に恋々候は侠者にしても不成得処と奉存候、因而生之心事は弥右等之処御確定、御成行に随ひ、篤と義理明弁之上、去就相決候覚悟、此儀は唯兄而已内々申上候、万里外はさて置、億万里隔地候とも、人情相通は自然之道理、吾兄にも右辺御苦念と奉遥察候、もし御投書も出来候ハヽ御教示被下度候
須永は如何、藍香は御逢も候哉、平九郎事宜奉希候
 - 第1巻 p.670 -ページ画像 
臨紙言不尽意、此書状持参之者ハ英仏蘭生徒帰国ニ付相托し候間、其中御逢も候ハヽ御聴取可被下候
  後四月廿七日 ○明治元年閏四月
                         篤拝
    成一郎盟兄


渋沢栄一 書翰 赤松大三郎宛 (慶応四年)正月廿三日(DK010049k-0014)
第1巻 p.670-671 ページ画像

渋沢栄一 書翰 赤松大三郎宛 (慶応四年)正月廿三日 (男爵赤松範一氏所蔵)
   近頃は一同稽古はけしく、日々勉強いたし候、併小生儀ハ御案内之通俗事多端、随意ニ稽古も相成兼、日々区々罷在候、御垂憐可被下候
  尚々、一同よろしく申上候、爾後御地奇聞も無之候哉、奉伺候、当春ハ当方御遊見は無之候哉、御閑暇も有之候ハヽ、些御遊歩可被下候
一書拝啓、辰下春寒峭料之候愈御清穆奉南山候、当地公子御始御附属一同無異勤学罷在候、是御降心可被下候
然は本月十一日附御三名之御書状、同十四日到着拝誦仕候、御国地御政態御遷変之儀ニ付、御用状写さし上候処、委細御領掌之趣承知仕候
石州江の御返翰は早速同人江相達申候間、御承引可被下、同人よりも宜申上候様申聞候、扨此度御国許 但先頃御骨折ニ而為替いたし候五万弗ハ横浜ニ而引合相済候よし御安心可被下候 御勘定奉行《小栗上野介》より石州江御用状を以、公子巴里御滞在中御入用金、月々五千弗但 壱万弐千五百ギユルデン 宛 第一月分より 荷蘭商社則先頃為替いたし候ハントロマートスカーペンの名代人横浜に有之候者引請相成、委細横浜表ニ而談判相済候旨ニ而、右請取方可然取扱可申儀被申越候、右ニ付其御地商社よりも同様之旨趣、石州迄被申越 則別紙訳文之通ニ御座候、尤本書ハ仏文故差上不申候 当方より申越次第、為替取組相渡可申趣、然処右為替方請取之儀隔絶之土地、旁往々不便利ニ候間、可成ハ巴里の出張商社有之候ハヽ、其方ニ而請取候様いたし度、尤右ニ而ハ先方不都合にも候ハヽ、無拠候得共先右問合申度、別紙仏文訳を相添前文之旨趣書翰を以申越候、乍去前書之旨趣書面上自然了解いたし兼候儀も有之候而ハ、不都合之儀ニ付、乍御手数貴君右書翰御持参被下、委細御申談被下候様仕度、此段奉頼候、且先方名宛之儀、来書之花押文字相分兼候ニ付、名宛書不致候間、是又御書加被下度御勉学中右様御面倒之儀相願候は、甚以御気の毒之次第ニ候得共何分書面上而已ニ而は事実明諒いたし兼可申、石州も只管心配いたし種々相談之上、此前相願候手続も有之ニ付、申上候次第可然御許容被下度候、且又右御申談之上向後請取方都合弁請取書之振合等委細御申越被下候様仕度、是又奉願候、右は石州より可申上之処、繁用旁委細従小生申上候間宜御配意御取扱被下度、詰り先方来書之訳書并当方より申越候書翰御見合被下候ハヽ、御領掌可相成奉存候、此段御配念偏ニ奉希候
右商社江差越候書翰、上ハ書も右相分兼候ニ付、白紙袋入さし上候間御認入被下度、いつれにも御談判之上、御都合御勘考御申越被下度奉存候、右之段申上度如斯御坐候以上
  正月廿三日
 - 第1巻 p.671 -ページ画像 
                   渋沢篤太夫花押
   赤松太三郎様《(赤松大三郎)》
追白、去十四日出貴君林伊東君とも御連名ニ而一翰捧呈いたし置候、定而御落手と奉存候、右書状中江戸表再度之新聞少々さし上候、御披見可被下候、其後別ニ表便も無之候、先ハ御平穏之事と奉遠察候、過日御来書之通畢竟 大君之御遠慮より被為出候儀ニ而、詰り御挽回之御大策と奉恐察、一同安心罷在候、尚新聞も有之候ハヽ早々可申上候
林伊東君江一封御達し被下度、御頼越之品有之ニ付大封ニ相成候間可然御差立可被下候
栗本芸州江御伝言、慥ニ相達申候、貞次郎へも明日面会可仕候間委細可申聞候、芸州より相願申候にハ其御地ホウフマンといふ医者著述いたし、和名漢名入之本草書、小冊ニ而壱冊物御地ニ而出板いたし候ニ付御買入御廻し被下度被申聞候、乍御面倒御買入御送越被下度候


渋沢栄一 書翰 別紙 荷蘭商社ヨリ山高石見守宛書簡訳書「千八百六十八年二月八日」(DK010049k-0015)
第1巻 p.671 ページ画像

渋沢栄一 書翰 別紙 荷蘭商社ヨリ山高石見守宛書簡訳書「千八百六十八年二月八日」 (男爵赤松範一氏蔵)
商社より差越候書翰之訳
  千八百六十八年第二月八日荷蘭アムストダムより
    巴里在留
    日本大君殿下御小性頭取兼公子伝役
      山高石見守閣下江
以書翰啓上いたし候、然者貴国横浜表にある我等会社の名代人より差送れる書翰によりて、我等嘗而其公子徳川民部大輔殿御入用として、為替置たる蘭貨拾弐万五千ギユルデン但 五万弗 を西暦第十一月十八日横浜表におゐて日本勘定奉行と我等会社の名代人と相議し、右為替償戻し方手続相済しことを領知せしにより、これを閣下に報知す、且其節右御勘定奉行より其公子民部大輔殿巴里御滞在中、御入用として毎月蘭貨壱万弐千五百ギユルテン但五千弗を我等相備置、御入用次第為替可致御申談有之ニ付、是又御請合申候、就而ハ右為替之儀、我等方ニ而前書之金高相備置、御入用之節ハ閣下の調印せる請取書三通宛と引替為替相組候様可致候、依之此段申上候拝具謹言
          荷蘭商社
               ハントロマリースカーペン花押
右之通ニ有之候間、右之御心得ニ而御相談被下度候事


渋沢栄一 書翰 赤松大三郎宛 (明治元年)二月七日(DK010049k-0016)
第1巻 p.671-672 ページ画像

渋沢栄一 書翰 赤松大三郎宛 (明治元年)二月七日 (男爵赤松範一氏蔵)
時下追々春暖相催候処、愈御清穆御勤学可被成奉遥賀候当地公子益御健康随而御傍従一同無異努力罷在候、是御放慮可被下候
然者先般は其御地商社より《(江カ)》公子御入用金之儀ニ付御厄介筋申上候処、早速御取扱則第一月分五千弗荷蘭貨壱万弐千五百ギユルデン、為替手形御差越被成、種々御細書之趣共逐一拝誦仕候、右為替請取方昨五日出張商社方江罷越引合候処、無差支即日相渡申候、此段御休意可被下候尤請取紙は兼而荷蘭より申越候通、三通に調印いたし《(但石見守調印候事)》、右引替相渡候間、此段ハンドロ方江御通達置可被下候仏貨相場之儀此間中種々御調
 - 第1巻 p.672 -ページ画像 
ニ而御申越之処、昨日請取候分ハ五千弗ニ而仏貨弐万五千仏ニ相成申候、右は先頃為替いたし候より余程減し方相成候間、以後請取方之儀は今一応御勘考御相談被下度候、尤去八月中ハ其御地ニ而荷蘭ニ而請取、仏貨の為替手形いたし候間、以後之処ハ右之手続ニ而蘭貨ニ而請取済之上仏貨に為替取組候様相成間敷哉、尤右之手続ニ相成候にハ其前調印候請取書無之候而は不都合にも有之候哉、此段先方御掛合、乍御面倒尚御申越被下度候、将又前条之通ニ而不都合ニ候得は期限延之請取方ニ而も宜敷候間、可相成丈為替之節仏貨不相減様取計度、此段篤と御勘考被下御配慮奉頼上候
第二月分之儀も㝡早期限ニ候得共、当方も少有余有之候間、来三月下旬に至り二月三月を合壱万弗請取候様いたし度心組居候間、其段も御申通置被下度、尤右請取度候節ハ、尚商社江宛書面可差越存候、此段御報旁得御配意申度 匆々再拝
  二月七日
                        渋沢篤太夫
    赤松大三郎様
御国新聞之儀当地ニ而も喋々申唱へ候、近々英郵船に御国御用便可有之奉存候、承次第可申上候
五月頃は英国御越旁巴里へも御廻有之哉之趣、御待奉申上候


渋沢栄一 書翰 赤松大三郎宛 (明治元年)二月一〇(DK010049k-0017)
第1巻 p.672-673 ページ画像

渋沢栄一 書翰 赤松大三郎宛 (明治元年)二月一〇 (男爵赤松範一氏蔵)
一翰拝呈、再来益御清適御勉学可被成奉賀候、当方公子御健康御附添一同無事勤学仕居候、是御休意可被下候、過日は公子月々御入用金之儀ニ付、当地出張会社より請取候員数申上候処、其後同所より罷越、右は相場発揮といたし兼候ニ付、内渡いたし置候旨ニ而残七百五十仏被相渡候、左候得は矢張格別之相違は有之間敷、何分言話不了解ニ而一時存違いたし麁忽申上候、御海容可被下候、然処今日尚又其御地ハントロマートスカーペンより石州江書状差越し、右御入用金渡方之儀直ニ巴里ニ而取払候方便利に可有之ニ付、右ニ取計可申旨申来候、尤請取紙差遣し方等は是迄の通とのよし、依之差支無之旨書面を以返答およひ候間、此段宜御申通可被下候、就而は向後は月々直様当方の出張会社に罷越、其日相場を以蘭貨仏貨に為替請取候様相成可申、格別手数相省け別ニ御不益之儀も有之間敷と被存候、如何御坐候哉、尚御勘考之処も伺度候、且又右請取之節書面上引合之通巴里ニ而無差支相渡候様前以其地商社より当地会社江相達候様丁寧御申通有之様被成下度奉希候
石州も去十三日御用状ニ而公子御附御免被仰付、留学生徒取締被仰付候、尤公子御用向は芸州此度若年寄格被仰付暫時在留ニ付、兼帯候積、小生も外国奉行支配調役被仰付候、尤小生の勤向は是迄之通公子の御用相勤候旨被仰付候、誠に不存寄変遷、小生一身ハ難有仕合ニ候得共、何分石州儀ハ気の毒千万、是迄不都合之儀も無之候様被存候、将如何之御聴込相成候哉、苦念之至ニ御坐候、就而右金子請取方之儀も、実ハ石州の調印ニ而請取候は不都合ニ候得共、今更請取人相替旨申達候て、其段江戸表より掛合ハヽ金子請取方差支可申存候ニ付、先石州儀も当地に在之候間、同人調印ニ而別ニ申達無之請取候積、此段御承
 - 第1巻 p.673 -ページ画像 
知可被下候、尤其中江戸江相運可申候得共、何分芸州事も居住之長短も難計候間、先右之段ニいたし度、御同人より被申聞候間、宜御含置御取計可被下候
御国新聞ニ付御親友より御申越之書付類御恵投拝見いたし候、右は左も可有之儀ニ候得共、大に御頼母敷次第御同慶ニ御坐候
先日到着之御用状中京師之変動少々申越候大趣旨ハ、先頃 大君被仰立之事々総而尽衆議候上御沙汰との処俄に朝廷独断ニ而 大将軍御辞職も被為聞食、其上此迄在来の摂関伝議等総而廃絶、総裁議定参与と申三職を立、尾老矦侯越春岳薩大隅土容堂芸州等五藩各其職に任し、是迄忠良無二公武間従事せし二条関白始不残幽閉いたし、弥去亥年討幕暴挙の体を顕し候ニ付、在京の御家門御普代等怒激いたし、各人数差出し、十一月中京師の動揺は如何にも危頽《(殆)》に及ひ候よし、因而大君一時之過激故暴挙有之候而は折角御誠意の御貫無之を御過慮被為遊、右之趣御門江建白大坂江御引上と申由兼而新聞紙上ニ而承及候、天子京地に被捕候と申ハ右より伝誤り候儀と被存候
江戸表二丸去十二月十七日御延焼之よし、是も新聞紙と符合、併其節ハ別ニ江戸表ニ而の暴動ハ無之よし、新聞上の薩 大君の宮殿を焼き後二日薩邸を 将軍の兵焼却せしと申は其後の事にも有之候哉、未詳何分恐入候御時節御同様万里外唯憂慮いたし候而已、扼腕切歯之至ニ御坐候
右は公私共得御意度、匆々執筆如斯御坐候頓首
  二月十 《(欠)》
                        渋沢篤太夫
   赤松太三郎様《(赤松大三郎)》
前条御国御動揺之儀ニ付御書付も少々到来候得共、先大略本文申述し通ニ御坐候間、別ニ写不差上候、且前段之趣、乍御面倒林伊東両兄へも御通被下度、従是一封可申上筈ニ候得共、何分此節生儀も繁忙殊ニ石州御免芸州御心得と申儀ニ相成、是迄仕来之調物も一時に取調済引渡等無之而は不相成、旁以寸隙も無之稽古抔は扨置唯々俗務に被逐候事而已、御察可被下候
緒方松本其外にも御序之節よろしく御致声可被下候、其中巴里辺御遊歩も候ハヽ、緩々拝眉心事御相談も仕度奉待候 匆々
田辺杉浦其外先般帰朝之者より両三度書状到来いつれも無事勤仕之よし、御降心可被下候


渋沢栄一 書翰 赤松大三郎宛 (明治元年)四月一三日(DK010049k-0018)
第1巻 p.673-674 ページ画像

渋沢栄一 書翰 赤松大三郎宛 (明治元年)四月一三日 (男爵赤松範一氏蔵)
御出立後連日美晴、御旅行も御平寧、昨今日は頻りに御理装中と奉遥頌候、永々の御滞留、御引払ニ付而は夫是嘸御繁務奉察候、御帰途リヱージ御立寄、新発明の連発銃御買上方如何御上都合ニ行届候哉、願くハ今便御持越相成候様致度毎々公子も被仰聞候随分御配意御処置可被下候
一昨十一日御国御用状着之処更ニ新聞も無之、京坂も何か中間割れ出来いたし、薩長の外其国々江引取候様子、加之坂地仏人殺戮之儀ニ付、新政府たる者も狼狽不都合を極メ候由、御国に取候ハヽ大患ニ候
 - 第1巻 p.674 -ページ画像 
得共、差向僥倖にも相成可申被存候
江戸も平静御退隠を被仰出候由、御跡は紀州と総而田太書中之通ニ御坐候、御麾下一統に上意有之京地辺に采地有之向は江戸を見捨、其采地に罷越不苦候、尤已に采地被相離生活にも差支候ハヽ助救は被成遣候様抔品々被仰出有之候よし、併未タ士気振興とも難被存様子ニ御坐候御帰国之上ハ大御尽力人々敵愾の気相生し候様御骨折有之度奉希候林伊東其外緒方松本兄にも御贈別御面会可被成宜御伝声可被下候
別ニ御願申上度儀ハ当地御越之節荷蘭煙草シガール極細き方弐三箱壱箱五六フランク位之品ニ而よろしく候、御買取被下、乍御面倒御荷物之内ニ御組込御持参被下度是は小生外方より被相頼、頻リニ荷蘭煙草懇望候間不顧御多用少事御煩し申上候、可然御許容可被下候、右御願旁匆々得貴意度、尚御出立之節巴里御着之砌万縷爾後之御相談も可仕相楽居候 敬白
  十三日
  西洋五月五日
                       渋沢篤太夫拝
   赤松大三郎様
  林伊東への立替金先達而相願候分ニ而引足候哉もし不足之儀候ニハ、御立替置被下度貴兄巴里御着之節さし上可申候


徳川昭武滞欧記録 第一・第五〇六―五一六頁〔昭和七年二月〕(DK010049k-0019)
第1巻 p.674-676 ページ画像

徳川昭武滞欧記録 第一・第五〇六―五一六頁〔昭和七年二月〕
  二〇 東久世通禧等より民部大輔へ帰朝の件達書 明治元年三月廿一日
   (封表)             伊達少将
    徳川民部大輔殿         東久世前少将
  此度
  王政御一新に付可致帰 朝旨被 仰出候条、申達候、以上
    三月廿一日           伊達少将
                    東久世前少将
    徳川民部大輔殿
  二一 同上民部大輔よりの請書 明治元年五月廿七日
   (封表)
    伊達少将殿
    東久世前少将殿         徳川民部大輔
  此度
  王政御一新に付可致帰 朝旨被 仰出候条、御達之趣致承知候、
                          以上
    辰五月廿七日          徳川民部大輔
    伊達少将殿
    東久世前少将殿
  一二 大総督宮より民部大輔帰朝の件達書 明治元年五月七日
   戊辰五月七日
     (巻表)
      開成所惣奉行
      開成奉行   江
     覚」
  別紙之通
  大総督宮より被仰出候間、民部大輔殿御帰国達し方等之儀致勘
 - 第1巻 p.675 -ページ画像 
  弁可被申聞候事
      ○
                      徳川民部大輔
  御用有之候間、急速帰国可有之、被仰出候事
  一三 民部大輔帰朝の件開成所惣奉行等上申書
        附同指令書  明治元年五月二十日

   (巻表)
   民部大輔殿御帰之儀に付申上候書付
    書面伺之通り可取計
    旨被仰渡奉承知候
    辰五月二十日            開成所惣奉行
                      開成所奉行
御別紙之通
大総督宮より被 仰出候間、民部大輔殿帰国御達し方等之儀致勘弁可申上旨被仰渡、奉得其意勘弁仕候処、民部大輔殿巴里於て御留学之儀は、最初前上様より御国書を以仏帝江御頼相成、且御老中方よりも同国大臣江以御書簡被仰遣候趣も有之、此度御帰国相成候にも、前同様当上様より御国書を以被仰遣可然儀と奉存候得共、左候而は御手重にも相成、目今之御場合御不都合之儀共奉存候間、今般御呼戻し相成候委細之事情は、御手前様方より民部大輔殿而被仰進、貞次郎江近江守より別紙之通り申遣、且外国事務執政并御国在留同国公使江前条之趣御書簡を以被仰遣候はゝ可然哉奉存候、依之御書簡案弐通取調尤仏帝并同国役々之者へも御謝物不被遣候而は不相成儀には有之候得共、御差急きの事故、右は追而申上候様可仕候、此段申上候 以上
    辰五月
      ○
  (巻表)
  「可達趣
    覚」
  伺之通可被取計候事
    一六 民部大輔帰朝の件徳川家達より仏帝への書翰 明治元年五月晦日
    戊辰五月晦日
恭しく
ハウヲートルマゼスチー仏蘭西国皇帝の許に白す、徳川民部大輔儀先般其都府え相越、引続留学致し候に付而は、格別御親睦御厚意之御待遇を蒙し趣、感謝之至りに候、然処此度我国内変革之折柄早々帰国可致旨勅命ありしにより、其段民部大輔江申送り候、一体数年留学之積に付、同人おいても半途にして帰国致し候は定めし遺憾可存候得共
勅命に付、前条之趣申送候間、其段御亮察あられん事を希ふ、将余の先公退隠致し候に付、余今般徳川家継統相続いたし候間、併せて拝述およひ候 謹言
   慶応四年辰五月晦日       徳川家達 花印
  五月晦日御下け、六月朔日水戸殿家来日置熊次郎江近江守より渡す
  一七 平岡丹波等より仏国外務大臣への書翰 明治元年五月晦日
   戊辰五月晦日
 - 第1巻 p.676 -ページ画像 
以書状致啓上候、徳川民部大輔殿儀其都府江、留学いたし候に付而は、諸般御周旋被下、御懇篤之御待遇に預り候処、此度我国内変革、御門陛下より早々帰国可致旨 勅命有之候間其段民部大輔殿へ申送候一体数年留学之積に付、同人於而も半途にして帰国いたし候者、定めし遺憾可存候得共 勅命に付、前条之趣申送り候儀に有之、将栗本安芸守航海無恙我五月十七日 貴国第七月六日 帰着いたし候、貴国政府於て一方ならす御親睦御厚意被下候段逐一申立、拙者ともおひても感佩いたし候、猶此方帰国之手続等可然御心添有之様求望いたし候、将右之儀に付我当君より貴国皇帝陛下江書翰拝送被致候間、右書簡御差出方可然御取計、且余等前条陳述之趣并謝詞等皇帝陛下江御奏聞被下候様願ふ所に候、右可得御意如此御座候以上
   五月晦日            河津伊豆 花押
                   服部綾雄 花押
                   大久保一翁 花押
                   平岡丹波 花押
    仏蘭西国外国事務執政閣下
   ○右ハ原本ノ配列ト異ナリ、事項ニヨリ纒メタリ。〔昭和七年二月〕


徳川昭武滞欧記録 第一・第四九六―四九八頁(DK010049k-0020)
第1巻 p.676 ページ画像

徳川昭武滞欧記録 第一・第四九六―四九八頁
五 仏国滞留費受取方の件山高石見守より在巴里和蘭商会代表者への書翰 明治元年三月廿四日
   辰三月廿四日 西暦千八百六十八年第四月十六日 巴里において
            荷蘭商社出張
            モツシユールマルキユアルタンドレー江
以書翰啓上いたし候、然は貴様会社より我公子巴里滞在中之入費として毎月荷蘭貨壱万弐千五百ギユルデン 但五千弗 を是迄拙者調印之請取紙ニ而為替取組来候処、此度拙者儀公子御附御免相成候に付、来る西暦第五月分より右請取方調印之儀は本文中書込差進候渋沢篤太夫調印を以請取可申候間、此段御承知被成度、尤右為替方之儀は都而是迄通ニ而差支無之候、右之段可得貴意如此御座候 以上
  辰三月廿四日                山高石見守 花押
              渋沢篤太夫 花押
右之通巴里出張之荷蘭商社江相達し来 西暦 五月分より書面篤太夫調印ニ而請取可申候事


徳川昭武滞欧記録 第一・第四九五―五〇九頁 〔昭和七年二月〕(DK010049k-0021)
第1巻 p.676-677 ページ画像

徳川昭武滞欧記録 第一・第四九五―五〇九頁 〔昭和七年二月〕
   三 留学生帰朝の件栗本安芸守への達 明治元年正月
     (巻表)
    栗本安芸守へ
      覚」
英仏魯蘭本国へ被差遣有之候留学生共一同引上け帰朝候様其方より可被致通達候事
但英魯蘭生徒共其本国々々より直に帰朝候とも、仏国へ呼寄一と纒に帰朝為致候共、何れにも不都合無之様取計候事
   六 在英・仏・蘭・露留学生の件栗本安芸守への達 明治元年四月八日
 戊辰四月八日
 - 第1巻 p.677 -ページ画像 
    (巻表)
    栗本安芸守江
     覚」
先般各国留学生帰朝之儀申渡候様相達候得共、英公使より申立書翰差遣し候趣も有之候間、来二月迄は滞英有之候様川路太郎中村敬輔江相達可被申候、仏留学生之儀も英留学生同様可被相心得候事
但蘭魯留学生は帰朝候様可被取計候、尤四ケ国留学生共銘々見込を以是非とも帰朝致し度旨申立候ハヽ、時宜次第聞届候様可被致候
  一四 栗本安芸守横浜著の件開成所奉行よりの届書 明治元年五月十八日
 戊辰五月十八日
  (巻表)
  栗本安芸守其外横浜着港之儀に付申上候書付
                     開成所奉行
栗本安芸守并支配調役並坂戸小八郎、通弁御用出役熊谷次郎左衛門、伝習生徒木村宗三、高松凌雲、山内文次郎、大岡松吉、菅沼左近将監同上伝習人赤松大三郎、民部大輔殿御附大井六郎左衛門外家来小使にて三人、都合拾三人当四月十七日仏国出帆昨十七日横浜港着仕都合次第出府仕候趣安芸守より申越候、此段御届申上候以上
     辰五月十八日


徳川昭武滞欧記録 第一・第五〇一―五〇六頁(DK010049k-0022)
第1巻 p.677-679 ページ画像

徳川昭武滞欧記録 第一・第五〇一―五〇六頁
  八 在露国留学生の件渋沢篤太夫より在仏露国特派全権公使への書翰 明治元年四月廿六日
 戊辰閏四月廿六日
  千八百六十八年第六月十六日巴里おいて
           仏国在留魯西亜国帝陛下之全権特派公使
                  スタツクエーベルク閣下江
以書翰啓上いたし候、然は我 大君殿下国務筋御門江相返し候に付、為留学各国都府江差遣置候士官共儀、総而帰国為致候積、則別紙之通命令有之候、就而は貴国都府江差遣置候生徒儀も、早速引払帰国為致度、此段我国表より御達可申之処、各国生徒引払方之儀も巴里おいて我 大君殿下之親弟徳川民部大輔殿 大君之命令を以取扱候儀に付、此段従拙者閣下江申進候、閣下幸に前書之旨趣御諒察被成、貴国政府江御通達之上我生徒共帰国之儀貴政府おいて被差許候様いたし度、依之別紙命令書写相添、此段得御意候以上
    辰閏四月            渋沢篤太夫 花押
英仏魯蘭江差遣有之候留学生徒共一同引上け、帰朝候様其方より可被致通達候事
   尤右帰朝手続は巴里おいて取扱不都合無之様取計可申候
  右御達書之御旨趣少々振替候得共、何分被仰越之通に而は安芸守殿御出立後故、御不都合に付右様取計申候以上
  九 仏国滞留費現在高調書 明治元年四月廿七日
 御旅館御賄金御有高調書抜
一仏貨八万三千四百三拾フランク弐サ 辰閏四月改
                   御有高
一同弐万五千七百五拾フランク    辰閏四月廿七日荷蘭商社より
 - 第1巻 p.678 -ページ画像 
                  請取五千弗為替第六月分
〆拾万〇九千百八拾フランク弐サ
      内
 一弐万七千五百九拾五フランク   英国留学生帰朝入用
                  立替渡別紙調書之通
 一壱万三千五百フランク程     コンマンタント渡
御旅館御賄御入用内渡其外連発銃代残渡共追而仕上可相成候分
 小以四万千〇九拾五フランク
差引
 〆六万八千〇八拾五フランク弐サ
 外に七百フランク         フロリヘラルト御預け
                  蒸気車札御買上之分
右之通御座候以上
   辰閏四月廿七日            渋沢篤太夫
  一〇 英国留学生帰朝旅費立替分調書  明治元年四月廿七日
  英国留学生徒帰朝入費御旅館御賄之口より立替候調書
高仏貨弐万七千五百九拾五フランク 英国留学生徒拾弐人分帰国飛脚船賃其外倫敦引払に付荷物運送賃海中諸入費として
又弐千フランク
〆弐万九千五百九拾五フランク
 此訳
 一弐千フランク           巴里より馬塞里迄蒸気車代荷物運賃共取締川路太郎中村敬輔へ渡
 一弐万五千五百七拾五フランク    生徒拾弐人分
                   仏郵船二等船員
                    但壱人に付
                     弐千百三拾壱フランク弐拾五サ
 一弐千〇弐拾フランク        同断英国出立之節諸仕払航海諸入費渡
 小以弐万九千五百九拾五フランク
 外四千弐百六拾弐フランク五拾サ   同断弐人分船賃仏国生徒御入用之内より立替渡
右之通相渡諸払向無差支当地出立為致候以上
  辰閏四月廿七日             渋沢篤太夫
  一一 各国留学生帰朝旅費及借用金の調書  明治元年四月廿七日
  各国留学生徒帰国飛脚船代一等差引高并残金右会社より借用相成候調書之覚
 一仏貨六万六千百弐拾五フランク   各国生徒合弐拾三人
                   上等飛脚船
                    但壱人に付
                     弐千八百七十五フランク
 辰閏四月廿六日会社江相渡候分
 一仏貨四万九千〇拾八フランク七十五サ 同断二等船賃
                    但壱人に付
                     弐千百三十一フランク弐拾五サ
 - 第1巻 p.679 -ページ画像 
差引
 〆壱万七千百〇六フランク弐拾五サ
 此弗三千弐百五拾八ドルラル三拾三セント 此度会社より借用御国着之上可相渡分
                     但 壱人に付五フランク弐拾五サン宛
右は生徒帰着之上償戻し之積を以両人認印ニ而借用いたし候事
   辰閏四月廿七日            栗本貞次郎
                      渋沢篤太夫


川勝家文書 第一一三―一一九頁 〔昭和五年五月〕 三八 在仏栗本貞次郎・渋沢篤太夫連名書翰〔栗本安芸守等宛〕 明治元年閏四月廿七日(DK010049k-0023)
第1巻 p.679-681 ページ画像

川勝家文書 第一一三―一一九頁 〔昭和五年五月〕
 三八 在仏栗本貞次郎・渋沢篤太夫連名書翰〔栗本安芸守等宛〕 明治元年閏四月廿七日
 江戸 栗本安芸守様 川勝近江守様 巴里 栗本貞次郎 渋沢篤太夫 〆
 辰閏四月廿八日生徒帰朝便渡
以内状啓上仕候、御国表之景情追々御切迫、既に三道之京兵着府いたし、此上如何様之御沙汰被仰出候哉も難測、御危頽旦夕《(殆)》に御迫之趣、三月廿一日附御用状ニ而拝承、誠以奉恐入候御儀血涙之外無御坐候、右御旨趣有増民部大輔殿江も申上候処、深く御痛心被成何卒上様思召之程被為貫御寛典之御処置有之候様御懇祈被成候旨、被仰聞
一英仏魯蘭江御差遣置之生徒一同引上、帰国為致候様、先便御達書到来に付、早々手続取調、則今仏郵船ニ而英仏蘭生徒丈帰朝為致候、尤荷蘭生徒之内伊東玄伯儀此程中より病気に付旅行相成兼候趣申立候間、全快次第出立可致旨申達候、尤病気療養手当並帰国入用丈けは同人手許に貯有之候趣に付、病気快方に相成候ハヽ無差支出立可致候
一英国生徒之儀御達之趣取締之者江申達候処、其後川路太郎巴里表江罷出、同人共帰朝之儀旅費無之、無拠英政府江申立、則喜望峰廻英船ニ而帰国之儀政府より被申達候趣申聞候、尤帰国入費は凡三万フランク以上に相成可申候、右は英政府ニ而立替置、生徒御国帰着之上故政府より請取方出来不相成候ハヽ、新政府江掛合可申との趣依之種々勘考いたし候処、各国留学生儀は固より御当家之士官此度御変遷に付帰国為致候処、英国之留学生而已英政府より被差返、其上右帰国入費新政府江談判可及儀ニ而は、如何にも御不体裁、不忍儀と奉存且は右生徒共儀も帰着後、身分成行之程も難計、余り御趣意柄取失ひ候儀に付、其段太郎へ申聞因而渋沢篤太夫倫敦迄罷越、世話人ロヱド江申談候処、数々疑敷取計振も有之候に付、同人に申断、仏国飛船ニ而今便帰国候様取計申候、尤英政府おゐて別に不実意之取計有之候儀には無之、全ロヱド之取扱と存候間、其辺之処英政府江相通候様書翰を以ロヱド迄相達し、事済引払相成申候、委細之儀は太郎敬輔よりも可申上候得共、右一条に付而は私共儀も不一方心配いたし、漸前書之通取計候次第に御坐候
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一魯国留学生之儀、御達之旨申遣候処、生徒より魯国政府江申立、帰国支度仕候処、右生徒儀は元御老中方より魯政府に御頼相成候に付、御老中方より御達無之候而は引払不為致旨政府より被申聞、差支難渋之旨書状を以申来候、依之一昨廿五日渋沢篤太夫巴里在留魯国公使館江罷越コンシユールゼ子ラール江引合候処、本国政府ニ而右様存込候儀に候得は別に致方無之旨申聞候間、御国之時情丁寧申聞、因而在留之公使江其段書面上ニ而公然引合候様、談判およひ則別紙之通御達書写並書翰共昨日差出申候、右に付多分生徒帰国可相成と存候、右は差掛り取計過候儀とは奉存候得共、御国往復等いたし候ハヽ、無益に歳月を費し生徒共入費も差支、弥増難渋に陥り可申存候に付、前条取扱候間宜御許容被成下度候
一英国生徒帰国為致候付而は、航海入費其外共別紙之通り御旅館御賄金之口より立替相渡候間御承知可被下候、尤も近江守様三月廿一日附御内状に付、英生徒御手当類半年分御請取相成候趣、其中時勢御平穏にも相成候ハヽ、私共江向御廻し被下度、尤既に御差出相成候ハヽ請取置候様取計可申奉存候
一仏蘭生徒船賃払方は銘々之入用金ニ而無差支払方相成申候
一荷蘭商船江御振込之弐万両、商社方江申談一時に請取候様致度掛合候得共、難相整候、尤取究之月に五千弗は無相違相渡可申に付、先当分御差支は有之間敷可存候
一三月中再度之御用状に付御旅館御手詰方之儀種々心配督教之者御断之儀フロリヘラルト江も申談候得共、何分政府おゐて御国より御達無之間は御衰運を以御見捨申候様相成難忍次第に相考居候哉之趣、左候得は私共よりも別段申立方も無之、先其儘罷在候、乍去所詮往々御入費も難被為続儀は必然に付、いつれとも工夫いたし、御手詰相成候様仕度、可然学校江御入塾相成候様取計可申、左候ハヽ縦令以後御入費相絶し候とも両三年は御支相成可申奉存候、此段篤と御勘考之上御取計有之度奉存候
一山高石見守、栗本貞次郎儀生徒引払以後は自分賄を以留学之心得にて、委細は同人共より申上候に付相略申候
一安芸守様御持越相成候連発銃御買上之儀、赤松大三郎取扱方不行届にも候哉、商人方より品々申来、存外御入用相嵩候、尤いまた渡済不相成候間、迫而取調差上可申候
一各国生徒帰国飛脚船之儀、御時節柄に付、一同二等之賄向ニ而帰国候様申達、船室買入方等取計候処、一昨廿五日クレーより申聞候には是迄帰国之者一同上等に付、此度限二等に引下け候も何分御不都合には無之哉、尤御入用筋之儀に付、無拠儀に候得共、当地にて二等之払方いたし候ハヽ、上等之代増之分は御国ニ而請候様取計、上等ニ而帰国候様いたし度旨申聞候
右は同人之厚意ニ而申談候儀に付、任其意取扱申候、就而は別紙調書二等上等之差、両人之調印を以借用いたし候間、御国着之上償戻し候方可然御取計可被下候、右之段申上度如斯御座候以上
   辰閏四月廿七日          渋沢篤太夫 花押
                    栗本貞次郎 花押
 - 第1巻 p.681 -ページ画像 
     栗本安芸守様
     川勝近江守様
 尚々、近江守様より安芸守様江御内状両人限披封内々拝見いたし候已上
 英国ロヱド江御預け之品売払方之儀此間中篤太夫同所江罷越候節取計候積之処、何分英国ロヱドに任せ候而は不安心之儀に付廉立候品々は御旅館江引取候積其余は売払方ロヱドに申談候詰り右品々は引取候にも格別御入費に而御益無之に付、右様取計申候、右品々之儀に付而は精々心配、疾に太郎へも催促申遣し置候へとも、何分不捗取、莫大之御損失、詰り根本御手違に付別に致方無御坐候


川勝家文書 第一二一―一二三頁 〔昭和五年五月〕 四一 在仏栗本貞次郎書翰〔川勝近江守宛〕明治元年五月廿六日(DK010049k-0024)
第1巻 p.681 ページ画像

川勝家文書 第一二一―一二三頁 〔昭和五年五月〕
  四一 在仏栗本貞次郎書翰〔川勝近江守宛〕明治元年五月廿六日
  別封乍御面倒様御届方奉願候、生徒一同之写真一葉託幸便拝呈仕候、俊太郎より御査収可被下候
以仏飛脚船便一書拝呈仕候、爾来愈御清穆奉賀候、陳者今般之御書取并御書中之趣等も有之候に付、先便申上置候通、当所留学生帰朝可致候、当地委細之模様は同僚俊太郎より御伝承可被下候、生徒出立に付航海費之義幸先般御廻相成候御手当金等有之、当所之分而已ニ而は差支も無之候処、英国生徒同様引払に付、御承知之通多人数相成種々篤太夫とも相談仕候処、何分引足不申、無拠一同第二等ニ而帰朝之積相決候処クーレー厚意ニ而差当第二等丈之諸費相払、不足之分は一同其表著之上皆済可申候様相成、一同第一等ニ而帰朝為致候、已に前便御細書之義も有之候間、右意に任せ本日篤太夫同道条約書為取替候、右様 此件は篤太夫両名之御用状ニ而御覧可被下候 相計申候委細は俊太郎・太郎・敬助《(敬輔)》江も申談置候得共、右残金之義は早々御返却相成候様前年奉願候、已に隼人正殿御帰朝之節之残も有之候処故、全く之厚意に出候義可然御諒察奉願候拙義は先便申上置候通、且同苗より御伝承も有之へく候得共、先当分引残 公子御模様も拝見致、且は己之学業をも致度被存候、幸当所日本語学校教師を尋候折柄、先活計之為一時右に被雇候積、尤右は未不定に御坐候得共、内々申上置候
外生徒之内何々永滞在之義可有之と種々工風致候得共、何分宜口無之偶有之候得は、例之シベリヲン位に而、無拠一同為引取申候、俊太郎儀は仏語も出来、甚遺憾に御坐候、御国之模様其後新聞無之、如何相成候哉、日夜心痛仕候、併已に万事画餅各位御尽力之甲斐も不為顕候様奉存、実以歎息之至、併其後好新聞も御坐候はゝ御投書被願度、横浜表御書御不都合に御坐候はゝ、テロール迄御差出可被下候、同人江は委細頼置候間、何とか致置可申奉存候
諸御入費仕上之義は未借家之分落著不仕候間、右決次第仕訳書御手元江可被差上心得に御坐候
当所別段新説無之候、余万縷期後鴻之時候匆々
     五念六夜              貞次郎 花押
      江州公几下
 尚以森川初水屋其外江も宜敷御鶴声奉願候

 - 第1巻 p.682 -ページ画像 

川勝家文書 第一二三―一二六頁〔昭和五年五月〕 四二 在仏栗本貞次郎・渋沢篤太夫連名書翰〔栗本安芸守等宛〕 明治元年五月廿七日(DK010049k-0025)
第1巻 p.682 ページ画像

川勝家文書 第一二三―一二六頁〔昭和五年五月〕
  四二 在仏栗本貞次郎・渋沢篤太夫連名書翰〔栗本安芸守等宛〕 明治元年五月廿七日
 以内状啓上仕候、然は爾後御国表之景況、御用状并御書付類将御内状等に而逐一拝承、実に悲泣血涙之外無御坐候、唯々奉恐入候
一本月十五日着郵船便に而 民部大輔殿御帰朝之儀、別紙写之通京師外国事務督より之御達書壱封、黄賓在留之仏国公使江被相渡候趣に而相達候、右に付其段仏国政府へも相達し、御奉命御帰朝之旨申立置候、就而は仏政府おゐても夫々見込可有之、何れ其中左右可申聞儀と存候得共、先御帰国之積を以、夫是取調仕居候、尤右御達書到着之前より 民部大輔殿にも御決心之品も被為在、是非共御帰朝被成度旨被仰聞候処、尚又右之次第に付而は、可成丈取急き御帰朝被成度候間、諸事精々取片附出立支度可仕旨、切に被仰聞候に付、其段御附属コロ子ル并岡士ゼ子ラール、フロリヘラルト江も申談、夫是取扱罷在候、尤前条政府之見込も可有之儀に付、当地御出立は西暦九月頃ならては諸事取調済相成申間敷旨、御附添コロ子ル岡士等申聞候段、此段御承知被下度候、将又右御達書之御請別紙写之通仏国公使より相達候様取計、今便差立候間、是又御承知被下度候
一民部大輔殿御儀、弥前条申上候時限に而御引払可相成候はゝ、当地御引払手続別而相伺候日合も無御坐候間、時宜次第取計可申奉存候尤仏帝并当政府江御頼相成居候廉は、御取失無之様仕度旨 民部大輔殿へも精々申上置候
一荷蘭商社為替金之儀は、弥御出立相成候節は已に御渡相成居候分は不残請取候様可仕奉存候
一英国留学生之儀、別紙御用状にも申上候通、電信到着不仕に付、仏荷生徒共相纏、閏四月廿八日仏国飛脚船に御出立為致候、就而は英公使江御渡之生徒入費は差詰御取戻可相成儀と存候へとも、生徒出立之節申上候通種々入込候場合も有之、当地ニ而英政府江掛合候とも所詮難行届被存候間、右御取戻之儀は其御地ニ而英公使に御引合被成候様仕度奉存候、尤自然英政府より申来候儀も有之候はゝ、被仰越之通相心得取計可申と奉存候、右は全電信不着より相生し多少不都合とは奉存候得共、今更致方無御坐候間宜御許容可被下候
一昨今当地新聞ニ而は 上様水戸表御退隠之後、北国諸侯合従いたし王命を拒、其上海陸軍脱走之者共四方江散乱いたし居、いつれ近々戦争可相成歟に申唱候、自然右等之場合に立至候はゝ、御国之動乱弥増甚敷、終には如何様之変激出来申間敷哉も難測、実苦心此事に御坐候
一民部大輔殿、御直書壱封差進候間 上様江差上方宜御取計可被下候
一近江守様御内状には時々私共限拝見いたし候
 右之段申上度如斯御坐候以上
    辰五月廿七日           渋沢篤太夫 花押
                     栗本貞次郎 花押
     栗本安芸守様
     川勝近江守様


はゝその落葉 (穂積歌子著) 巻之一・第一一―一二丁(DK010049k-0026)
第1巻 p.682-683 ページ画像

はゝその落葉(穂積歌子著)巻之一・第一一―一二丁
 - 第1巻 p.683 -ページ画像 
此騒動のなかに六月頃の事にやありけん。仏蘭西なる大人の御許より祖父君にあて給ひたる御消息あり。御書の要ハ幕府の滅亡ハかねて期したる事なれバ今さらに驚くべきにも侍らず。それにつきて児がかしづき参らする若君今しもいそぎ御国へ帰らせ給ひたりとも。何の益あるべきわざにも候ハねバ。猶三四年此国にとゞめ参らせ学問せさせ参らせまほしう思ひ候なり。今御貯へのあまれるも候へバ御学資しばしが程はさゝへつべけれど。後に御国の騒動静まり。徳川の御家の成り行きいかにとも定まりて御学資送らるべき日は今よりたしかにハ定めがたし。我家富めりと云ふにもあらず。まして家のなりはひを捨てゝ出でぬる身の。今さら黄金の事によりてとかう聞え奉るハいといと申がたき事なれども。私の事にも候はず、若君外つ国の学の道に通ぜさせ給はんハ。ひとり此君の御為のミならずいかで御国の為ならざらんと思ひ侍れバ。此後もし用度事かくる事もあらは。いかにもして若干の黄金送りおこせたび給へ。とのよしねもごろに乞ひ給ふなりけり。祖父君これをミそなハして仰せられけるハ。篤太夫ハ今家にあらねども此家の主なり。家の主にして家の身代をのべしゞめんこと心のまにまになるべし。殊に世のさまの変ればこそ。賤しき百姓のたくはへもて。さる貴人の要とあるすぢにも充てらるゝなれバ。何か惜むべきことならん。家をも田畑をも売代なして。成るべき限りあまたの黄金送るべし。とてたゞちに其旨返り事し給ひけり。此前の年の十二月家の塗籠焼けおちて。こめ置きつる人々のよき衣ども皆失ひてけれバこれより少し前つかた祖父君の宜ひけるハ。此春ハ取り分けて物思ひの多かるなかに。千代も貞もようつとめて蚕飼のわざ怠らざりけれバ。常の年にも増して繭多く取り得たり。そかむくいと云ふにハあらねど。よき衣一つも持たずバ事かけぬべし、二人に帯一すぢづゝあがなひ得させん。とて絹商人の許より程よきを購ひとらせたび給ひけるが。そが代はまだやらでありけり。さるにこたび大人よりの御書の様を叔母君聞かせ給ひけれバ。母君にかたらひ給ひけるやう。さる事あらんにハ。今我身等よき衣などほりする時とも覚え侍らず。いかでこの帯購ふ事をやめて。そが代をも兄君の御許に送らばやと仰せられけれバ。母君。御身まだうら若きによくぞしか心附き給ひつる。我もとくよりさこそ思ひつれ。とて共に其よし祖父君に乞はせ給ひけれバ。其代の黄金ハいとはづかなれども。御もと等が志もだすべくもあらねば。とて乞ひ給ふまにまに帯ハ商人の許にかへすべき事となし給ひけり。その後程なく又大人の御許より御書来りて。民部大輔の君にハこたび水戸家を続がせ給ふべきに定まりつれバ。此冬の頃にハ児もしたがひ参らせて御国に帰るべし。されバねぎ申つる黄金の事も。今は御心を煩はし奉るに及ばず。と告げおこせ給ひけり。かく思ひの外にいとはやく御国に帰らせ給ふべき事となりつるを大人にハ本意なうおぼし給ふよし仰せおこさせ給ひけれど。郷里なる人々はゆくりなき幸にあひぬる心地していさみよろこび。帰りつかせ給ふ日を指折りて待ちわびさせ給ひけり。されバかの帯も祖父君やがて買戻し給ひ。母君と叔母君とにたび給ひけりとぞ。


 - 第1巻 p.684 -ページ画像 

渋沢市郎右衛門 書翰 渋沢栄一宛 (慶応三年)一二月二日(DK010049k-0027)
第1巻 p.684 ページ画像

   ○以下ニ掲グル書翰ハ何レモ滞仏中ノ栄一ヘ宛テ送ラレタルモノニシテ、家郷及ビ故国ノ事情ヲ報告ス。当時ノ栄一ニトリテハ極メテ感銘深ク、且ツ故国ノ事情ヲ知ルニ役立チタルモノナル可シ。栄一此等ノ書翰ヲ一括シテ紙袋ニ容レ、逝去ニ至ルマデ秘蔵セリ。以テ参考トシテコヽニ掲グ。

渋沢市郎右衛門 書翰 渋沢栄一宛 (慶応三年)一二月二日 (渋沢子爵家所蔵)
八月廿六日荷蘭より御発し之御状、其後九月廿日御帰仏ニ而御差出之芳翰、両次共杉浦氏御取次ニ而十一月廿五日到着拝見仕候処、益御清寧ニ而海外之御勤仕被遊候条欣適之至奉遥賀候、随而当地家族共一同異儀無之罷過候間、乍憚被労遠念被下間敷候、陳は杉浦氏へ御尋問之儀先便申上候通、小生出府相成兼候ニ付尾高を以御尋申上種々御談話被仰聞、御地之真情委細承知仕候、其節ハ藍香平九郎亀三郎共書状差上候よし、御披見可被下候と奉存候扨
民部公子様、八月初旬各国御巡歴御発、九月十一日御帰仏、暫時御休息、尚又意多里国江御発、夫より英国其外へ御巡国被為遊候趣、当年中ハ御旅行いつも御供被 仰付候よし、御賢労之段奉恐察候 御国形勢之義
公方様御政権 朝廷江御返上被遊 朝廷より諸大名 御召被 仰出、衆議之上御政事向御取極相成候由、支配市中取締之義ハ先是迄之通との御沙汰ニ御座候、京地之義も当節ハ鎮静仕候由ニ御座候 成一郎義十一月二日 奥御右筆別 御用取扱被仰付候条、御同慶恐悦仕候、平九郎義十月十三日出立江都江罷出、本銀丁三丁目住居、文武修行勉励罷在候、亀太郎も同居勤仕御帰国奉待上候、当節は尾高母堂も出府いたし居候間、御休慮可被下候
毎度御懸念被 仰聞候養子之義、前々も申上候通、前ノ家ニ男子御座候間成長之上相談仕候積ニ御座候、取極次第御報可申上候、於千代義は尊君御帰国之上、出身仕度旨当人願ニ御座候間任其意申候、宜敷御許容奉祈候、うた女義追々成人いたし、才智も衆に勝れ、日々面白く相楽罷在候、御頷可被下候、小生商用信州旅行之義も一向ニ相休候次第ニも相成兼、少々ツヽ取続罷在候、却而養生之一助ニも相成可申哉奉存候、是又御安意可被下候
御国之義も当年ハ豊歳ニ而当節は米石諸色共大下落、一同案心仕候、先は右申上度余は後音之節万縷可申上候恐惶々々頓首謹言
    十二月二日認
                    渋沢市郎右衛門
  渋沢篤太夫様
      乕皮下
二白、近隣始新屋敷尾高国領共一同無事罷過候間御放念可被下候、東寧義も不相変幽居罷在候是又御休慮是祈


渋沢市郎右衛門 書翰 渋沢栄一宛 (慶応四年)二月一六日(DK010049k-0028)
第1巻 p.684-685 ページ画像

渋沢市郎右衛門 書翰 渋沢栄一宛 (慶応四年)二月一六日 (渋沢子爵家所蔵)
  (栄一筆)
  「明治元年仏国ニて落手せし来翰」
十一月朔日出芳翰、其後十二月一日出玉章、両次共辰二月十日到着拝見仕候処
 - 第1巻 p.685 -ページ画像 
公子様御儀意多里国英国御順行相済、十一月廿三日御帰巴被遊其後益御清穆ニ而御勤仕被遊候条、欣適之至奉遥賀候、随而当地家族共生子初家内一同うた女ニ至迄息才ニ而家事勉強罷過候間乍憚御放念可被下候
此度御状拝見仕候処、去ル七月より九月迄三度京地江差出し候書状一切相達不申由、遺憾千万奉存候、京地之義は去春中より繁雑故差支候事ニ奉愚察候、其後十月中杉浦氏御帰国ニ付御托し之御状到着、右御返書十一月中より度々御人方へ相頼差送申候、定而相達し御披見可被下奉存候、且又御国形勢之義もはや御聞およひニも相成可申、当正月三日より六日迄京坂之間大戦争、意外之成行ニ相成、誠以恐縮之至奉存候成一郎市五郎無事、二月四日帰府仕候、是御安意可被下候
公子様御義御帰朝ニ相成可申噂仕候間、尊君御義も当春中ニは御帰国と奉待候、此度は無事御報申上候迄余は後便万縷可申上候、恐惶々々頓首敬白
    二月十六日認
                    渋沢市郎右衛門
  渋沢篤太夫様
      乕皮下
  二白、親類共一同無事、東寧儀も当春中ニハ御免ニも相成可申奉存候、是御放念可被下候
(別紙)
 徳川内府征夷御委任之処、大政返上、将軍職辞退之両条断然被聞
 食候、抑癸丑以来未曾有之国難、先
帝頻年被悩 宸襟候次第、衆議之所望ニ依而
叡慮被決 王政復古国職挽回 御基可被為在候間、自今
 摂関幕府等廃絶、即今先仮ニ総裁議定参与之三職を置万機可為行諸事
神武創業之始ニ原れ縉紳武弁堂上地下別チなく至当之
 公儀を尽し天下ト休戚を同被遊候
叡慮ニ付、洛勉励旧時之汚習を洗、尽忠報国之誠を以可被
 奉公事
一内覧勅問人数国事御用掛議奏武家伝奏守護職所司代総而被廃候事
    三職人体
 総裁 有栖川宮
 議定 仁和寺宮    尾張大納言
    山科宮     越前宰相
    中山大納言   安芸少将
    中御門中宰言  土佐少将
  参与
    大原宰相    万里小路弁
    岩倉少将    橋本少将
    大谷三位
    尾州藩三人 越土芸藩三人宛
 太政官始追々可被為立候間、其旨可被為心得候事

 - 第1巻 p.686 -ページ画像 

渋沢市郎右衛門 書翰 渋沢栄一宛 (慶応四年)四月一一日(DK010049k-0029)
第1巻 p.686 ページ画像

渋沢市郎右衛門 書翰 渋沢栄一宛 (慶応四年)四月一一日 (渋沢子爵家所蔵)
  (栄一筆)
  「明治元年仏国ニて落手せし来翰」
正月廿三日御差出之玉章、三月廿六日到着奉拝読候処
公子様御始御揃益御清穆ニ被為入候条欣適之至奉遥賀候、随而当地家族共小姓始阿嬢ニ至迄一同息才ニ而家事勉励仕候間、乍憚被労遠念被下間敷候、陳は去卯七八月頃より度々書状差出し候得共、何れへ差滞候哉、一切着無之、一歳余音信隔絶之処、十一月朔日杉浦氏へ相托し差上候書状、正月十三日御地到着殊ニ藍香より之書状も相添御渡海後初而郷里之無事御承知格別御歓之趣被仰聞此地ニ於ゐても情実御察し申上大悦不過之奉存候、且又 御国形勢先便申上候通、去ル十二月九日非常御変革、王政復古之旨被仰出、十二日 上様御下坂、辰正月三日伏見戦争
大君 朝敵之罪状被仰出、東海道東山道北陸道三道より追討使御差向当時品川板橋御滞留 上様御義、御恭順ニ御謹慎下候へは不敬無之様度々御達有之候、もはや御用状ニ而御承知可有之、大略申上候、然処関東筋所々打潰し蜂起いたし、西上州松井田辺より宿々下仁田辺より宿々、北上州伊勢崎境町木崎宿々在々国領福田堀口新島両家共打潰され、其外行田辺小針村甚六本川俣堀越是等は焼打之由、誠以大瓦解相成申候、本庄深谷近在所々混雑御座候得共、打こわしニは相成不申罷在候、小生義も三月中ニは出府杉浦氏へ御伺申上度心掛罷在候処、右之次第ニ而他行相成兼、乍思延引仕候、此段宜敷御許容可被下候
尊君御義も右之世態ニ而ハ御帰朝ニも相成可申哉、奉待上候、当節ハ藍香も出府ニ御座候間、同人よりも御報可申上と奉存候、先は尊書無事到着之御報申上度、余は後音之節万縷可申上候、恐惶々々頓首謹言
    辰四月十一日夜認
                    渋沢市郎右衛門
  渋沢篤太夫様
      乕皮下
  二白、去十一月出十二月出両次共到着拝読、其外写真数枚御送り被下慥ニ拝受仕候御放念可被下候、此度被仰聞候杉浦答礼之義、七八円位之もの差上可申旨委細承知仕候、右之時勢ニ而ハ急速ニハ相成兼可申候得共、差含取計可申候間、御休神可被下候
  東寧義も四月九日出牢仕候間、御歓迄申上候


渋沢えい 書翰 渋沢栄一宛 (慶応三年)月日不詳(DK010049k-0030)
第1巻 p.686-687 ページ画像

渋沢えい 書翰 渋沢栄一宛 (慶応三年)月日不詳 (渋沢子爵家所蔵)
  (栄一筆)
  「慶応三年仏国へ送り越せし母上の書翰」
  返す返すも御身御大切ニ呉呉御弁候へ遊し候よふ御ねんじ申上参らセ候、又新田一同前一同かわりなく御あんし下されましく候
  あらあらめて度かしく
一筆申上参らセ候、まつまつ時分から寒きつよく候へとも増増御前様御機嫌よく御勤遊し誠々海山のごとくニかきりのふ御めて度ぞんじ上まいらせ候扨とや
 - 第1巻 p.687 -ページ画像 
民部様御つきそいの御身分御こふむり遊し、当正月十一日横浜御出立遊し、ふらんすい御出□遊いかニもいんほふ《(遠方)》ニ相成誠ニ心ほそき事も之有候へとも、又かくへつの御身の上ニ御入らせられいかニも御大けいの御勤むきと呉呉御悦申上まいらせ候、扨又四五年のあいた江国《(異)》ニ御出遊し候御手紙、誠ニ誠ニ御持《(待)》ひさしくそんじ候へとも、又立日は沖□《(浪カ)》ごとく、又ゆめのまニ御もとりニ相なりそれのミ楽おりまいらせ候、扨又大君いかニも大丈ふニてけいさい相勤又うた女事猶々大丈ふニて、誠はつめいニておもしろきさかりニて誠ニたのしミニて御座候、又おちよ事いかニもていせつニ相勤誠たのむしき事御座候へば御あんし下されましく候、又々私事も大丈ふニて相勤おり参らセ候、猶又御身の上いかニも御大切御勤御弁ヲ以四五年のあいた御わすらいのてぬよふニおりふしハ酒もたべてきおそらしきうつせぬよふニ御ほふこふ大切ニ御身ハ猶々大切ニ御勤遊され候よふ呉呉御ねんし申上まいらせ候、又々御もどりのほどいかニもいかニも御持《(待)》申上、呉呉御ねんじ申上まいらせ候、又々申上度事海山のことく御座候へともまわらぬ筆とめ、あらあらめて度かしく

渋沢篤太夫様 御もとへ 母より


尾高惇忠 書翰 渋沢栄一宛(慶応三年)一一月二日(DK010049k-0031)
第1巻 p.687-689 ページ画像

尾高惇忠 書翰 渋沢栄一宛(慶応三年)一一月二日 (渋沢子爵家所蔵)
時下寒気相進候処愈御剛壮御勤仕被為入奉遥祝候、郷里尊大人尊慈母御家眷諸君小大御一族、拙家老少惣容平安起居罷在候、御放念被下度候、然は当春は意外遠役被 仰蒙火急横港へ御廻船、不日御発之次第委悉御家来江被仰越且御書中万縷御配念之件々謹承拝諾仕候、誠ニ御繁冗之御中無御遺謀後事御神妙御托之段感伏仕候、折柄小生信路中帰宅領掌只感歎而已ニ御座候、御口占五絶は傑作、実境諸人評判宜敷候其後引続諸国御泊所より幸便雲信鴻便無違失到着、尊大人より御達異境奇事遠見之想仕候、乍去有時乎御書来着之頃小生も他行、尊大人も御他出、文字了解相成兼御家人御不満意之事も有之、隔大河望見語言不通之想度々ニ而誠ニ世事遷移不測之歎慨も有之候得共
尊大人尊慈母其外一同ニおゐても六十八州無数之人士其中より不時ニ御抜擢
公使ニ御陪従被仰付且
大将公御諭過重之玉音被蒙候由、段々承知仕候而ハ私情迫切之事は至軽ニ相成候様、毎々被仰、御留守仕候間是段は必々御配念御煩慮被下間敷候、扨御掟ニ付御留守御心当名跡として愚小弟之義御申立候由、御丁寧難有承知仕、尊大人其外とも篤と御評論夏中決定相成、十月十三日郷里除籍、尊君御舎弟と相定、地頭へも相届出府在住為致候間、御安意被下度候尤
令閨義は、御両親、阿歌等御隔離不被為忍場合、且令妹御配婿無之内は万端御差支ニ付、後段として平九而已差出申候、尤文武習成第一之儀ニ付愚家母を鑑察として附添させ可申積ニ候、是又家事懸念ニ而早速永住とは相成不申候、乍去幸ニは須永子七月中東下在住ニ御座候得
 - 第1巻 p.688 -ページ画像 
は、責善之助ニも相成候間、呉々御安心是祈
鄰交之道条約御履行之義、通和貿商之事従前種々論説御座候処
大将公断然御所置ニ付、尊説御異論無之ニ付、鄙見御尋問委悉承引仕候、全躰去冬成一子東下之節、三日夜討論且其以前より愚論も有之候処弥以 公議至当と存、中々以別意無御座候、開和ニ害と申は国論無識ニ而、諸政廃絶決而無統紀挙国婦女子小人ニ而并呑せらるゝニ及候時売国之口実と相成、古今往々殷鑑御座候ニ付、忼慨相唱候得共、国是相立賢君英将相並所謂守死民不去則可為と見込相附候得は、信義を傍鄰ニ不失義専要と存候 国君既ニ国事を憂慮致候程之人御座候ハヽ、鎖戦ニは及間敷候、むしろ亡滅ニは戦には如じ国保チ候ハヽ和するニ如じ、御案内之通漢ノ高宣武三帝之如英雄すら終ニは和好を主と致候本朝戦国之時、信を鄰近ニ失忘破忽ニ及候事不可数、殊ニ西洋諸国新開奇巧可取義尤多し、而シテ御国すら内政修備候ハヽ少も心配は有之間敷候、世事勿論右之通ニ御座候、必々御精勤他之善美御見究御帰国奉待入候、兵庫開港
  勅許之事三月五日奏聞、諸候へ御諭、まつは行届候処内論公卿衆騒動御座候ニ付、又々御諭鎮静いたし候得共、不得止八月十四日ニは原氏激徒幕士之為ニ被為害慨歎之事ニ御座候、続而西大藩合従し廷臣其外游士激徒ニ調合幕政夷術ニ陥候様申唱、輦下動揺之萌御座候ニ付大将公大勢御見切去月十三日大政
天子へ御返奉之奏聞申上候処、十六日ニ
御許之御達有之、親藩譜代衆は大ニ奮発諸藩之奸計と憤慍震動東都も訛言流行臣子不忍坐視場ニ相成候由ニ而平九兼行ニ而小生相談受候ニ付、早速出府一建白権家へ差出、須永子は上京願書差出抔致候処、成一子より書状到来内実之騒擾のミ表向は鎮静との事ニ御座候ニ付、小生帰路之途中八月二日御出之書状国元へ杉浦之使則善八持参ニ付早速使者ニ而小生へ申越し候ニ行合、引返し尊大人代兼ニ而杉浦氏へ謝礼閑談仕候
誠ニ払蘭西開化支那古代之記載之活物可畏可鑑《(マヽ)》と感心仕候
小生疾ニ書状進献可申処、兎角失敬恐入申候、今度は同席一同速ニ裁上一簡万里外表寸誠度如斯ニ御座候
                         恐々謹言
      十一月二日夜書于江戸神田お玉ケ池大和町代地陸軍調役
      須永子宅寒灯之下      藍香処士尾高惇忠
                          再拝
会計格陪 公使
  青淵渋沢英才君
        玉案下
    偶述旧製呈御笑覧
同志官遊已幾年。村居何独可閑然。告訟隣里寒飢状。却作嫌疑自陥篇。何奈定省僅有備。世人認以為貪銭。回頭抱宝処無処。西望此心在聖賢。右之意味ニ而何分世俗間ニ卓見を抱てハ居られぬ気味往々御座候、故ニ
尊大人頻ニ仕進を御催し被下候間、決心不遠二口之俸を志し仕途ニ出
 - 第1巻 p.689 -ページ画像 
可申候、此段御許容可被下候、先頃関防之印章語ニ有子路之辞ニ取新刻仕候
別紙贈呈之作へ押候間御覧可被下候、且鄙名一字孝を更メ申候、旁御推察被下度候
                         惇忠再白
(別紙) (朱印)
 寄    
 青淵会計君陪 公子使払蘭西留在其国都于時慶応三年丁卯冬十一月初三日也
征颿発 日域。万里到西溟。将此心腸赤。渡彼海天青。魂消一葦危。遥喜如許寧。稚竜角日嶄。果見邦家霊。諸君擁護力。炳乎耀日星。諮於他資善。神聖玆所営。敢処世道変。却叶人事経。真容忽然至。声音聴家庭。坐覚情義徹。臨書双涙零。
                 日本  尾高惇忠拝
                  (白文)      (朱印)
                     


(尾高惇忠) 書翰 渋沢栄一宛 (慶応四年)四月九日(DK010049k-0032)
第1巻 p.689-691 ページ画像

(尾高惇忠) 書翰 渋沢栄一宛 (慶応四年)四月九日 (渋沢子爵家所蔵)
万里之海洋隔絶無音ニ候得共、唯恃一片不磨之赤誠、亦加航海自在書信追々告投、既ニ正月廿四日御発之御書過日到来、作相見之想、爾来弥御剛壮御本務之外万緒御任被為入候由賀慶不過之奉存候、御家門尊翁尊姑御令女御令閨御令妹愈御清寧其他御親縁一同無事消光罷在候御遠念御省可破下候、然は去十一月申上候以後、御国論紛乱一言ニ申候得は、従前御同憂仕候御政体紛乱之極、何様之賢明之君被為出候而も其破敗は不得免之道理ニ候半歟、政権返上続而軍職御辞退 王政御復古之御忠図被為立、万機御決定は諸侯上京集評之上と御待被為成候処、例之薩人並ニ長土芸人等同謀、十二月九日我 公江は片言之御談合も無之、突然兵杖《(仗)》を携、宮門相固非常御変革と唱 神武創業之始に原れ候由ニ而、摂関幕府廃絶諸公家門閥格列尽ク掃除之御達ニ相成勿論会津桑名其外惣而徳川氏より差置候諸官職御免ニ相成、追々集会之諸藩並ニ御家門譜第之士は奮発激怒及ニ付 台命ニ而ひと先御下坂と相成 公始メ一同十二月十二日七ツ頃より大坂江御引取、御動静御伺之処、如何ニも御変革不穏ニ付徳川氏之力ニ而君側御掃除奉勧候内一応御書取奏聞被成候処、下旬尾張越前両卿下坂、正月早速 上様御上洛可被成様御内勅之由被申聞、然る処十二月上旬より薩人之唱導ニ而関東筋処々強盗糾合隠然討幕之挙有之、下野出流山ニ而凡弐百人御討取、相州荻野山中之陣屋一旦被焼討候処、不日ニ取返し候内廿五日ニは江戸薩州邸ニ賊徒屯集ニ付、以甲士攻討邸宅焼払斬首百余級、右之趣大坂江申上候ニ付もはや無御捨置御決着ニ而、正月三日上洛之次手松平修理太夫奸臣共御引渡被下度万一御採用無之時は不得止誅戮可相加之御奏聞書を為持、会津桑名松山等先鋒ニ而御出勢之処、京地ニは兼而徳川氏を除き新政相施候処、且薩人己が罪悪露顕両条ヲ以テ在京之諸侯
 - 第1巻 p.690 -ページ画像 
を誑惑為致置長人を雇伏見淀等江出軍罷在、遂ニ四日朝砲戦相始り、五日迄互ニ勝敗有之、六日ニは藤堂家山崎より発砲、味方之先鋒之本陣保チ兼大敗、七日 上様大坂御立退き全軍紀州路へ御引上御帰府之処御親征之風聞総督有栖川帥宮、其外諸公家衆海陸三四道薩長其他諸官軍押来之処 上様二月十二日上野子院大慈院へ御入らせ恭順謹慎被仰出、無二心之旨趣御表し、官軍緩々入府、諸所へ屯在、弥去る四月六日五ケ条御裁許被仰出
一上様水戸へ御謹慎被仰付家名は御思召ニ而御立可被下由、一城明渡し尾州へ引渡、一軍艦銃砲引渡、一城中住居之家臣城外へ引退之事、一叛謀ニ与力之者死一等赦免相当之所置可申出事
右之通十一日迄所置可致旨ニ而先は徳川氏三百年之業萎□相成候御事奉恐嘆候、万里外嘸々御失措奉察候
右之事件小生去年中より愚案仕、既ニ政権返上之節より度々建白も仕候得共全は 上様御大観復古王政万国へ御対立之御基本御開きニ付、諸雄藩徳川氏之自滅を見送候者算謀外れ候ニ付、途中より諸人之疑惑を附込 皇家並ニ諸官家を眩惑せしめ 上様を困惑之計ニ出候処、君側之奸悪御掃除之大挙ニ及至自己之罪を掩候為ニ却而 御方へ反賊朝敵之名為負候義ニ而、決極先年会津殿長州を所置致候策を倒用被致候ニ無相違、味方諸人如何ニも柔弱戦力乏敷御敗走ニ相成候義、恐入候得共百年之弊風顕露無拠次第ニ御座候
一会津は決而不屈決死防禦之由、桑名松山其外追々脱走、入込是又前年長州之如き由
一上様愈明十日御発途、御供凡壱千余人之由上様之御胸中は全雲霧ニ被覆御忠心水泡ニ帰し候得共、無御後悔閑地ニ御潜居相成、天下之動静御伺被成候事ニ自然成行申候
一民部公御事如何御所置被為成候哉、多分 朝命ニ而帰朝被仰出候半と奉存候、可然御配念、まつは朝意ニ御背無之様専要ニ存候
一小生義決然脱家、二月中旬出府、成一郎君へ助力罷在候、出立之節尊翁へ留別有作
  一 群小満天下。忠良被擢誅。豈図遭此極。揮涙出茅慮。
  一 漢家走皇叔。赤県兆徴福《(微カ)》。可嘆奸奴口。傲然唱覆育。
一天朝御新政敢而無御別条、大躰我公御画策之轍ニ出て、外交通親無別事万機御親断と申迄ニ而、三職八局抔新官名公家武弁陪臣新徴士布列実ニ神武之御時へ復古之勢、元来我公之御所存他人之手ニ成申候
一渋沢成一郎君、須永氏並ニ平九武沢兄弟小生等は追々水戸へ陪従、時節相待可申候、此段御省念可被下候
一儀助子も今度御呼出し、七郎へ引合、今日両人御免ニ相成候、先は六年之災厄相脱御慶可被下候
一成子も上方之戦ニ膝口砲丸ニ中り傷候得共速ニ平癒、其外同志夫々苦辛候処、此際ニ到七郎迄無事会面、尊君万里外ニ而も御堅剛被為入候御事、同盟いまだ不欠、神助之外無之事ニ御座候間、猶更御自愛是祈
右ニ付其時々御達等種々御座候得共、一々不能条陳御宥恕可被下候、
 - 第1巻 p.691 -ページ画像 
先は得御意度如斯ニ御座候 謹言
  二月四日御出し 尊翁へ之御書過日到来、一昨日郷里へ幸便ニ遣し候
    四月九日         尾高新五郎事
                  楱沢新六郎惇忠
    渋沢篤太夫様


(渋沢成一郎) 書翰 渋沢栄一宛 (慶応三年)六月一日(DK010049k-0033)
第1巻 p.691-692 ページ画像

(渋沢成一郎) 書翰 渋沢栄一宛 (慶応三年)六月一日 (渋沢子爵家所蔵)
  (栄一筆)
  「慶応三年八月三日瑞西到手芸州持参」
歳月如流御分襟後殆と半年相過申候処、時下向暑之節数千里之海上も弥無異季春初七仏都巴里斯表御安着被為成候条、欣喜不過之奉賀寿候且
公子御始御陪従之諸君も是又同様御清逸ニ御着被為成候条奉恐賀候、次ニ当方
君上ニも倍御壮勝ニ被為渡、其他諸有司も無事、小子ニ至迄平安ニ罷過奉職仕候間、是乍障《(憚)》勿労尊慮、且家郷よりも御発途後度々書通音親《(信)》も有之候得共、是又平安ニ罷過候間御安慮被為度候、扨又正月廿九日新嘉峯、二月十五日アラビヤ海地方アーデン、三月廿一日巴里斯都合三度共御差出之玉章夫々相達、拝見委悉敬承仕候、巴里斯表より御差出之分は昨三月念九到着拝見、一同実ニ大安慮不過之候、且又郷里江之御認分も早速相達申候間、是又左ニ御承容被下度奉祈候
扨又御国表御発途後は先は京摂間も平穏、東武西国共別ニ異事も無之候、且又兵庫表開港之儀ニ付三月上旬
君上より御書取ニ而御奏聞ニ相成候処、右御書取之写東西諸大藩江御所《(示カ)》し禁中より御垂問ニ相成候処、夫々四月下浣迄ニ各藩共意見言上候処、先は別ニ異論も無之、尤も右之内因備二藩は先帝御遺詔も有之、決而兵庫開港は御差止之儀可然様申上候、越前老人土州老人薩州大隅守宇和島老人は登京、薩宇合掌数々建言も仕候得共、先は 君上之御明察御断決ニ而或は御参内、又は摂政殿江被為成、摂家宮方御始平堂上ニ至迄悉く御説諭、去月廿三日弥兵庫開港と御沙汰ニ相成、廿四日国中諸藩江も御布告ニ相成申候、続而防長之儀も右等之件ニより数々之建言いたし候藩ニも有之、寛大之御所置と是又御沙汰ニ相成申候、尤も防長御所置振曲説は未タ決而御治定ニも相成不申、右ニ付大膳父子復旧如古抔之二藩より昨日建白書も御所江差出申候、又々右所置振ニ付而は彼之藩余程之陰謀も有之由、右等物議兎角堂上方騒拠《(擾カ)》ニは困惑仕居候乍去 君上之是又御断決も深被為 在候御儀ニ候得は、自然公平之御所置ニ落着仕候事と奉存候、且又東武旗下始
御改革筋云々と貴兄も大略御承容も有之候処、数百年来之弊風兎角物議不少、尤も陸軍局杯ニは殆と差支も出来、出格之 御盛威も未タ感通之程も不相見、実ニ苦念此事ニ候得共、如何ニも内外国事多端、寸楮も御施行被為 遊候御間も無之故、先は其日送と申姿ニ成行、既ニ溝口勢州も数々云々も有之物議奸説之為終ニは転勤之次第、百事右ニ順し候次第、是御推考被下度候、乍去右等情実は悉く
御洞察も被為在候事とは奉恐察候得共、中々以一様平端之儀ニ而は却
 - 第1巻 p.692 -ページ画像 
而過害相増候丈之事ニ而、御改正と申儀ニも相成兼候故、先は御捨置之事とも奉存候、乍去自然機会と申事も有之、不日御振興之場合ニも相成可申候
小子江任属之御荷物は夫々去月中ニ郷里江差送申候間此段左ニ御承引被下度候、尤も右之内崇高ニ相成差送兼候品々は、先小子在京中は御預申置候積、生も其内東下とも相成候へは都合次第持越候と歟又は売払候とか仕候積ニ御座候、浪花山田屋江御命し之分は不残出来銀刀は榎本江預申候、其余は郷里江悉く相届申候、坊さや康光短刀は須永乕無心申候間同人江譲申候、尤も代料は御帰国之上と相願度申居候、多分四円弐分之積ニ申置候、尤も崇高と申候は夜着風とん已ニ候其夜《(余カ)》は一物も残品は無之不残相届申候
未タ御□□は一同相済候様子は無之候得共、最早近々内と奉存候、田中清三郎も去月出立東下仕候、佐久間も当月中ニは御召連陸軍局中丈は引纏東下之手続御座候
小子も去々月十四日監察支配書記役と申御役儀被仰付候、尤も右名儀は此度始而之事、水島も同容書記役被仰付候、穂積岡本両人も是又同容被仰付、当時四人と相成申候、只名儀相違而已橋府中御用談所調方と同様勤仕振と相心得可然談大小監察より口達ニ而日々摂家宮方始諸藩ニ引合等いたし奔走罷在申候、数々云々も有之十分ニも尽力も仕兼候得共、乍去兎ニ角機密筋ニ関係候故追々感通之場合ニも可相成、且は先暫時務見送候は日々勢態之変遷も承知候故可也と存居申候、当時は又々盛ニ鴨東抔江も出向候、右丈は一楽事ニも候哉御一笑々々
爾後は一書進呈不仕甚ダ御疎絶之至ニ候得共、巴里斯御安着之御音親無之内《(信)》は不案内と申宛所も無之故不思も等閑打過申候、郷里より書面小子迄差遣し候様申送候得共、未タ来着も無之候間、尚後便之節可差進候
小子も転勤故多分は京住と相成可申哉之模容ニ御座候、尤も未タ公然たる御沙汰ニは相成不申候、当方より御取寄等も被成度御品も有之候ハハ、何れニか工夫差送候様可申候間御申送可被成候
航海中御略記拝見仕度候間、是非共御差送之程奉祈上候、定而百事意外之事已ニ可有之儀と奉存候
折角時矦御深護破成度願候、如何ニも遠堺隔地海絶ニ候得共、水等之代《(替)》り感し無之様御願専一ニ奉存候
先は大略如此ニ御座候尚後音之剋と申縮候 匆々頓首々々
    仲夏六月朔
                        成一郎
    篤太夫君
     玉机下
追伸、小判之儀は殊之外心痛仕、既ニ見当不申故郷里江も申送候処此度之御書通ニ而分明いたし大安堵仕候 以上


(渋沢成一郎) 書翰 渋沢栄一宛 (慶応四年)三月八日(DK010049k-0034)
第1巻 p.692-694 ページ画像

(渋沢成一郎) 書翰 渋沢栄一宛 (慶応四年)三月八日 (渋沢子爵家所蔵)
  (栄一筆)
  「渋沢喜作より仏国へ送り越れし書翰」
一書啓呈仕候、爾来御絶信打過候処愈御平静ニ御奉仕被為成候条奉恐
 - 第1巻 p.693 -ページ画像 
賀候
公子ニも愈御健勝ニ被為渉奉拝賀候、季秋後両三度御恵投尊書悉く到着、委細承知仕候、扨御国態変遷も少々は御聞及ニも相成候哉、去ル十月事勢大切迫、既ニ輦下ニ於而大変激発表と存候処、断然宇内之形勢御洞察
御政権返上、万機御基本御確定は諸藩衆儀之上公論《(議)》にて御定被為成度御奏聞右云々天下大小藩々江も御布告ニ相成候処
朝儀《(議)》は諸藩意存御尋之上被為 聞食度之御沙汰ニ候処、数々奸策暴威云々之儀有之元より微弱之堂上故終ニは断然被 聞食候処、追々諸侯上京候処未タ碇《(確カ)》と論儀《(議)》も無之内ニ十二月九日ニ至り、薩土長之三藩突然戎服兵器携九門内江操込《(繰)》、数多兵を以九門内外因《(固)》メ、摂関宮堂上等
 先帝御依頼之面々迄不残参朝差留ニ付、闕下大騒拠既《(擾)》ニ変動争戦ニ至らんといたし候故不得止
君上ニは諸兵引卒御下坂、同月十二日夕京師御発途之事ニ候、然ル処宮中ニは右三藩論儀《(議)》ニ而百事 勅矯三職ト申職相立、則
総裁  有栖川宮
議定  三藩始尾越外ニ堂上三四人
参与  三藩臣共平堂上十人計
右之儀ニ而下浣ニ至御内勅之云々有之、尾越下坂御上洛之儀申上、速ニ奉勅、正月三日前駆とし而会桑両藩臣旗下兵隊伏水鳥羽両道《(見)》ニ至り候処、唐突薩長両藩より路上要所ニ伏兵いたし置、武門之習不得止右両所始淀橋本八幡ニ於而、三日之夕より七日朝迄昼夜之分別も無之争戦、勝敗未決候処、山崎天王山に兼而守居候藤堂勢弐千計反覆本陣橋本被□終ニは惣軍大敗走、牧方守口江引上
君上ニも御軍艦ニ而御東帰、諸兵も追々東帰候処、両三藩暴威盛強、仁和寺宮東征将軍と相成
君上ニは朝敵之汚名被為請、国中江布告、諸国之兵募り三道より追討使下向と相成、且又烈《(列)》藩は不及申御譜代諸侯も不残一時暴威弱勢不得止偽勅と乍存出兵既ニ海道筋は関内戸塚迄中道筋は同坂本松枝甲州は郡内と申迄押来申候
君上ニは御伏罪と御沙汰ニ而、一途片言彼ノ奸悪御弁解被為在何様御沙汰成とも勅命ニみて甘受被為遊との御沙汰ニ而、上野山内寺院御閉居、実ニ旦夕ニ死生切迫申候、小子も淀橋本之戦ニ而度々争戦、数ケ所銃丸疵を請候処、幸ニ少々無事東帰仕候、依而都下之情態も満城諸有司只々論儀而已空権も同然小子も憤激ニ堪兼より旗下御家人死生同盟四百人相集当今東願寺屯集罷在候、外ニも四五ケ所小子等同様之屯集発起いたし候小子則局中衆論ニ而頭ニ相成申候、徳川氏も両三日ニ存亡相決申候、実ニ遺憾とも血涙とも臣子之分可申事もなく次第御洞察祈上候、乍去益々暴勢ニ募り候故藩々ニも余程物儀《(議)》も発表之様子奥羽丈は未タ徳氏ニ依頼、断然勅命ニ叛し申候
貴兄御国御足発以来実ニ些少も
君上ニは尊王之御大義ニ相背き候儀は無之候間、天道清明不日天運順回之期も可有之と奉存候、乍去今日〓《(ママ)》入候儀全気雲之所為如何相成行候哉難計候間《(運)》、貴兄ニは幸ニ海外御留足
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公子御陪従変遷之後成敗次第ニ寄り候而は
君上御始忠臣之遺恨御雪き被成下度、小子今日貴兄ニ遺願候処他事無之候、如何ニも難沓乱毫早卒御推読祈上候 匆々頓首
    季春初八夜認
                      成一郎拝
    篤太夫君
       台下
  御同行之諸有司江も宜御鳳声之程奉祈候 以上
二伸 翻訳書何歟壱二部御所持も可有之候間御借用仕度、尤も一読後直ニ御返却仕候間此段御願申候、書籍も一同共少々は支略いたし有之候得共、終歳更ニ外事ニ一点被犯候儀も無之、不得止読書故五部哉七部之書ニ瞬間ニ閲尽申候、数重ニも御垂憐仰矣 不一
   ○地球説略 ○博物新編 ○坤輿図識
   ○瀛環志略抔は当方ニ有之候間、其他之分願候
  且詩集何歟御所持之分是又相願度同断一見直ニ御返納仕候
   青淵賢兄               芦陰狂生拝


(渋沢平九郎) 書翰 渋沢栄一宛 (慶応三年)一一月二日(DK010049k-0035)
第1巻 p.694 ページ画像

(渋沢平九郎) 書翰 渋沢栄一宛 (慶応三年)一一月二日 (渋沢子爵家所蔵)
万里外一翰送呈仕候、陳は三四歳之間絶而御機嫌も御窺不申恐縮之至ニ罷過候処、不計も去歳冬極ニ至
公子仏国へ御渡海被為成候ニ付貴兄御事御供ニ御抜擢被仰蒙御宿意を得候御事と奉恐察候、且横浜御発颿之節藍香《(マヽ)》へ御落書被下拝読仕候処
愚弟義貴名相続被仰付恐辞可仕之処反而不奉貴命候様相成候而は奉恐入候間、不省之愚身事去ル十月中出府仕小宅相備へ住居罷在候、此段御休神奉祷候、愚生義も徒ニ蓬裡ニ長し候事誠ニ歎敷存罷在候折柄蒙貴命難有奉存候
貴兄御帰国迄ニは文武精達仕候様相成申度勉励罷在候、小弟身分ニ取幸時々々此事ニ御座候、先は実ニ筆頭は難振委細之義、須永藍香より贈呈可仕候得共郷里一同無事消光罷過候間決而御念送為在間敷候
尊兄義之万里外能々も度々御送書被遊一も不着無之弥以御壮健被為入候趣拝読仕候、就中八月二日御認之貴書杉浦殿無滞帰国被成拝読仕、則其灯下ニ而相認申候、次ニ武沢亀太郎事小弟世話ニ相成居貴兄御帰国相待申度存意ニ候付、其旨至而感心ニ候間乍不及同居相成居候間是又御休神可被下候 頓首九拝
    丁卯十一月二日夜
                      渋沢平九郎
    尊大兄君
       貴下
   別紙之拙謌御笑被下度候
(別紙)
  ふらにす《(マヽ)》の国のとめると聞てよめる
 西の鄙ふらすのくに母日本のてると
 いふなるあまるミか解に
                         昌忠

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(渋沢平九郎) 書翰 渋沢栄一宛 (慶応四年)一月一〇日(DK010049k-0036)
第1巻 p.695 ページ画像

(渋沢平九郎) 書翰 渋沢栄一宛 (慶応四年)一月一〇日 (渋沢子爵家所蔵)
 (栄一筆)
 「慶応四年春仏国へ送り越せし平九郎手翰」
   追書ニ而は恐入候得共、大兄御義猶又此度結構被仰付誠ニ恐祝奉存候、猶御身上御養育折角御大切ニ被遊度奉祷候 頓首
新暦之御慶兆万里御同風目出度御超歳被為成候と奉恐寿候、先以巴里表 上様御始尊兄皆々様御健壮被為在奉恐祝候随而御国血洗島家族下□《(輩カ)》ニ至迄一同不事加年仕候間此段御休神被下度候奉存候《(衍)》、右年甫之御祝義申上度万里外以拙札呈送仕候、猶期永日之時候 恐々謹言
    正月初十日
                       渋沢平九郎
    青淵尊大兄                  九拝
       虎皮下
副書申上候 御国之形勢昨孟冬中より追々大変ニ相成宣而委細《(定カ)》は御用状御尊見可被為在候御事と奉察候、猶正月三日京坂之間ニ而薩長土其外と大戦争有之 御味方御勝利ニも無之趣実ニ恐入候事而已有之、万里外御心配之程奉察候、乍去御同様斯之御国勢ニ有之こそ御国事ニ乍恐周旋も被致候事ニ候得は驚嘆仕候ニは無之、畢竟太平ニ候ハヽ草間ニ相果候身分兼而期候御国勢ニ相成候奉恐入候 上様御事御帰朝ニは不被為成候哉、乍恐 徳川氏之大危急と奉存候は外国御遊学は御国大平而後可然様奉存候、当時姦物 皇地ニ縦横仕候得は向後如何御国勢相変候哉、実ニ臣子之身痛心之至ニ候、余は家大人御書後便御発ニ相成候間其節申上可候《(マヽ)》、猶家族一同不事ニ候得は別而申上候事も無之候
                      恐々頓首百拝


(渋沢平九郎) 書翰 渋沢栄一宛 (慶応四年)三月八日(DK010049k-0037)
第1巻 p.695-696 ページ画像

(渋沢平九郎) 書翰 渋沢栄一宛 (慶応四年)三月八日 (渋沢子爵家所蔵)
 (栄一筆)
 「明治元月三月東京発仏国へ送越せし平九郎手翰」
   尚々左之手ニは大刀之鯉口を握相認申候
   何も々々不申上候
去十二月廿一日御発之御細書当二月廿八日着逐一奉拝読候 公子御始貴兄御側衆中様御壮健被為在候条奉恐寿候、随而御国一同不事野生ニ至不事罷在候間此段御休神奉祈候《(迄脱)》、陳は御国表之大変定而御承知ニも可被在候得共、日増ニ大変危急相成、誠ニ此十日計之内ニ
徳川氏滅亡可仕候、最早此書面御覧之頃は於御国は如何様之事ニ相成候哉、明日之事難計、唯々血涙而已ニ候、中々大略ニも難申尽、実闇世とは関八州之今日事哉と奉存候、旗下有士之面々《(志カ)》は弥官軍迫来候時は以死御謝罪申上御聞入無之時は於東叡山 大君と御供ニ滅亡と決心仕候、実ニ朝夕ニ相迫候事故恐歎之至ニ候、乍併遠慮有之は唯々土薩長其他諸藩共大暴ニ而下向仕候とし左候得は必々八州人心大ニ相背可申候間、小弟杯之見込巴里御在之公子而已ニ候間、御帰朝被為在候迄は草間ニ潜伏忍命可致候、乍去早々御帰朝は大不束ニ候、一度は八州薩長之物と相成候共、必大ニ乱れ可申候、其機を御伺察被成断然御帰朝被為在度候、最早今日ニ至候而は尽力仕候処は、再復而已候、実此寸書御名残ニも相成候哉ニ候間、此後は公子御大切ニ御守護奉祈候、万々一御身上ニ恐入候事共有之時、野生共忍命候共甲斐無候間呉々も
 - 第1巻 p.696 -ページ画像 
祈候は此事ニ御座候 早々頓首
    三月初八日
                      渋沢平九郎
    青淵大兄君
        尊下


(須永於兎之輔) 書翰 渋沢栄一宛 (慶応三年)一一月二日(DK010049k-0038)
第1巻 p.696 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。