デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.6.13

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

2章 幕府仕官時代
■綱文

第1巻 p.697-704(DK010051k) ページ画像

明治元年戊辰五月二十三日(1868年)

是ヨリ先官軍東征ス。尾高惇忠・渋沢喜作等徳川氏ノ冤ヲ鳴ラシ、同志ヲ糾合シテ彰義隊ヲ組織シ、江戸東叡山ニ拠リテ之ニ抗セントス。故アリ、幾モナク之ヲ脱シテ別ニ振武軍ヲ組織シ、武州飯能ニ屯ス。栄一ノ義子平九郎亦之ニ加ハル。是日戦敗レ、奔リテ入間郡黒山村ニ到リテ自殺ス。


■資料

徳川慶喜公伝 (渋沢栄一著) 巻之四・第三六四―三六五頁 〔大正七年一月〕(DK010051k-0001)
第1巻 p.697-698 ページ画像

徳川慶喜公伝 (渋沢栄一著) 巻之四・第三六四―三六五頁 〔大正七年一月〕
○上略 此時府内・近郷は更なり、譜代諸藩の中にも、密に彰義隊と通じ内外相応じて形勢を挽回せんと謀る者一二に止まらざりければ、十五日の戦若し遷延せば、局面の変化測るべからざりしに、幸にも其日を終へずして勝敗忽ちに決しければ、予て款を通ぜし輩も事を発するに由なくして、皆其声を潜めたり。唯武蔵飯能に於ける振武軍と、小田原の脱兵とは、遂に其鋒を歛むること能はざりき。初め渋沢成一郎は要害に拠りて恢復を謀らんと、五月の初め尾高新五郎 惇忠 等の同志九十人と、江戸を脱して田無に屯せり。同志来り投ずる者二百余人、機を見て彰義隊に応ぜんとす。然るに彰義隊は脆くも敗れしかば、飯能を退きて能仁寺に屯す。官軍偵して之を知り、五月二十三日、大村・筑
 - 第1巻 p.698 -ページ画像 
前・筑後・佐土原・四藩の兵を以て之を破れり。防長回天史。嘉永明治年間録。太政官日誌 此戦に、著者の養子平九郎年二十二なりしが、振武軍中あり、戦敗れて黒山に屠腹せり。


青淵先生六十年史 (再版) 第二巻・第一〇九二―一〇九三頁 〔明治三三年六月〕(DK010051k-0002)
第1巻 p.698 ページ画像

青淵先生六十年史 (再版) 第二巻・第一〇九二―一〇九三頁 〔明治三三年六月〕
○上略 是ヨリ先キ平九郎ハ幕府ノ末路ニ遭遇シ、養父青淵先生ニ代リテ忠ヲ幕府ニ致サンコトヲ決心シ、兄尾高新五郎及ヒ渋沢喜作等ト事ヲ共ニセシモノナリ、彼レノ軍ニ赴カントスルヤ、一死君恩ニ報セント欲ス、閏四月二十八日本銀町ノ宅ヲ脱走スルニ臨ミ、楽人之楽者憂人之憂食人之食者死人之事ノ十八字ヲ障子ニ大書ス、此ノ書今伝ヘテ先生ノ家ニ蔵ス、飯能ノ戦敗ルヽヤ、平九郎乱軍中喜作新五郎等ト相失シ、独リ山路ヲ奔ル、盖シ奥羽ニ在ル幕府党ノ脱走兵ト合シ、事ヲ共ニセントノ考ニテアリシナラン、途顔振峠ヲ越ユ、峠ノ絶頂ニ茶店アリ休息ス、此ノ地方既ニ官軍ノ警戒厳ナリ、茶店ノ媼其幕府脱走ノ兵タルヲ知リ、容貌秀麗ノ一青年カ将ニ単身死地ニ陥ラントスルヲ愍レミ、間道ヲ教ヘ逃レ去ルコトヲ勧ム、平九郎謝シテ従ハス、其大刀ヲ脱シ媼ニ托シテ去リ、入間郡黒山村ニ至ル、時ニ広島藩神機隊監察藤田高之一隊ヲ率ヒ武州忍城ニ在リ、其斥候兵ノ来ルニ会ス、藩兵平九郎ヲ怪ミ尋問ス、平九郎跪ヒテ近村ノ神職ナリト陳ス、藩兵愈々怪ミ平九郎ヲ囲ム、平九郎免レ難キヲ知リ、突然其愛蔵スル所ノ名刀ヲ揮ツテ吾党六十人山上ニアリト叫ヒ、前ナル一人ノ頭ヲ斬リ、刀ヲ反シテ又一兵ヲ傷ケ、南ニ趨リ、路傍ノ盤石ニ踞シ、自ラ腹ヲ割キ喉ヲ刺シテ斃ル、藩兵銃丸ヲ乱射シ、其首級ヲ携テ去ル、盖シ山上敵兵アリト信シ、進軍ヲ止メタルナリ、以上戦死ノ状ハ村人ノ語ル所ニ依ル、藩兵平九郎ノ首ヲ其営所越生町法恩寺ノ門前ニ梟ス、村人勇士ノ最期ヲ愍ミ、遺骸ヲ黒山村全昌寺ニ葬ル、姓名知レサルヲ以テ墓標ニ大道即了居士ト記セリ、又藩兵去テ後寺僧首ヲ法恩寺ノ林中ニ瘞ム、平九郎ノ討死シタルハ明治元年五月二十三日午後四時頃ニシテ時ニ年二十二 ○下略


渋沢平九郎昌忠伝 (藍香選)(DK010051k-0003)
第1巻 p.698-703 ページ画像

渋沢平九郎昌忠伝 (藍香選) (尾高定四郎氏所蔵)
昌忠本姓尾高氏、通称平九郎、武蔵国榛沢郡下手計村ノ人、名主勝五郎保孝ノ季子、弘化四年丁未冬十一月生ル、幼ニシテ頴敏、父好ンテ浄瑠理ヲ譜フ、昌忠傍聴慣レテ一谷嫩軍記、敦盛直実組討ノ段ヲ暗誦シ、稍其曲調ヲ成ス、人コレヲ賞ス、七八歳ヨリ読書習字ニ従事シ、十歳ノ頃ヨリ神道無念流ノ撃剣ヲ学ビ、其手法進退非凡、十五六歳ニシテ他ノ勇技者ト角シ相抵ス、又国歌ヲ水戸人青山並岑ニ学ヒ、其許ス処トナル、然レモ家世々農商ノ業ナルヲ以テ父兄ノ指遵《(導カ)》ヲ受ケ、両業ニ従事シテ敢テ怠ラズ、資性温厚ニシテ、沈勇果毅、伯兄惇忠、仲兄弘忠、表兄渋沢青淵、外従兄渋沢蘆陰等ノ誘掖薫染ヲ以テ尊王攘夷ノ説ヲ信奉シ、義兵ヲ挙ルノ事ニ至ツテモ其少年ナルヲ以テ辞セズ奮起シ身ヲ以テ国ニ報セント決シ、文武ノ技ヲ益々研究シ、十八九歳ヨリハ撃剣ヲ人ニ教授スルニ至ル、而シテ容儀端美、白哲長身膂力人ニ過キ、好テ撃剣ヲ他方人ト角シ、以テ自ラ修メタリ
(欄外記事)並岑鹿島祠人松岡氏、水戸党乱ヲ避ケ潜匿セシ者
 - 第1巻 p.699 -ページ画像 
時ニ慶応二年ノ冬外従兄ニテ姉ノ夫且平生教導ヲ受ケタル渋沢栄一、曩ニ一橋府ニ仕ヒ徳川幕府ニ転任シ、遂ニ公使徳川民部卿ニ陪シテ法郎西ニ赴クニ方リ、昌忠ヲ以テ義子トシ江戸ニ居ラシムルヲ望マル、之ニ応シテ三年ノ夏ヨリ江戸本銀町四丁目ニ宅ヲ定メ、コレニ住ス、尤モ別ニ勤仕スル事ナク、只義父ノ官禄ヲ受ケテ文武ノ技ヲ講習シ、兼テ時勢ノ日々危殆ニ赴キ、幕府ノ威厳衰替ニ至ルヲ嘆シ、冬十月京師ニ於テ慶喜公政権ヲ朝延ニ奉還シ、大将軍職ヲ辞スルニ方ツテハ群議風聞百出シ、昌忠江戸ニ安ンセズ、同志士ト謀リ郷里ニ来リ、伯兄惇忠ニ諮問シ、倶ニ江戸ニ反リ時務ニ応スルノ策ヲ講究シ尽力スル処アリ、然ルニ昌忠幼年ヨリ尊攘ノ大義ヲ会得シ、攘夷セサレバ国是ニ背クトノ感念深カリシ故ニ、世上慶喜公ノ開国主義ヲ確守スルノ事ニ於テ疑団解セズ、毎ニ伯兄惇忠ニ質問シ、惇忠ノ説明ヲ熟知シ、世間攘夷鎖港ヲ喋々スル者ハ真正ノ勤王ニ非ラズシテ討幕ヲ計ルノ術策歟或ハ宇内ノ大勢ヲ知ラサル者ノ説ニ過キズ、方今ノ国是ハ尊王開国世界万国ト和親交通シテ互市貿易ヲ盛ンニシ、彼ノ長ヲ採リ我ノ短ヲ補シ、殖産興業新奇発明ノ技術ヲ開進シ、外内倶ニ富強ヲ経営スルノ外他策ナク、我慶喜公ハ皇国ノ存亡ヲ以テ自ラ任シ、徳川家ノ盛衰ヲ顧ズ去年ノ春満天下ノ疑惑シ憂国者ノ慷慨セシ兵庫港ヲ開クノ約ヲ履行シ、信ヲ外国ニ失ハズシテ皇国ノ威ヲ伸ハシ、其他征長ノ兵ヲ解キ、今又大政ヲ奉還シ、皇室中興ノ大業ヲ創立スルカ如キ、悉ク皆天下ノ決行シ難キ事ヲ挙行シ、所謂国家有ルヲ知テ身有ルヲ識ラサルノ偉行ヲナサレシハ古往今来世界万国未タ聞カサルノ忠義大略ナリ、斯人幸ヒニ出テ皇国ノ名義ヲ分明ニシ、経国ノ基本建タリ、吾党十余年報国ノ志念モ斯人ニ随ツテ其成功ヲ補翼セバ真正ノ尊王攘夷ナリ且慶喜公ノ人材ヲ登用スル弘ク外国人ニ及ブ、苟クモ明良ノ抜擢ヲ受クレバ外国人ト雖トモ其知遇ニ感奮シテ報効ヲ計ルハ何ソ内国人ニ異ンヤ、公ノ英明ナル既ニ玆ニ至レリ、然レトモ公ノ所為ハ公明正大ニシテ尋常謀略家ノ窺ヒ知ル所ニアラズ、又幕府有司ノ考案ニ勝ヒサル処ナレバ、自是益々公ノ一身ヨリ徳川家ノ保安ハ危殆ナラン、コレ固ヨリ公ノ期スル処ナリ、汝已ニ渋沢栄一ノ義子トシテ徳川氏ノ臣タリ、兼テ昔日志念スル尊攘ノ実ニ叶フノ君主ヲ獲タリ、誠ニ男子ノ本懐ナレバ一意忠義ヲ励行スベシト伯兄ノ説ヲ服膺シ他念ナシ、十二月廿五日、浪士江戸薩州邸ニ僣居シ、市中ヲ乱暴シ酒井左衛門尉屯所ヲ砲撃シ、江戸城二ノ丸ヲ放火焼亡シ、遂ニ酒井氏大挙シテ其巣窟ヲ討敗スルニ方ツテハ、昌忠書ヲ義祖父渋沢晩香ニ寄セテ其概略ヲ述べ、尤徳川家危殆ノ今日ニ方リ、怨ヲ大藩ニ結ヒ、兵ヲ構フニ至レリ、真ニ大切ノ時ナリ云々報告セリ、コレヨリ先下毛ニ浪士乱ヲ起シ、相州ニ山中ノ陣屋ヲ抜キタルコトヨリ、明治元年伏見ノ変ヲ伝聞シ、尋ヒテ内府公東帰東叡山大慈院ニ閉居謹慎恭順待罪、直書ヲ発シテ官軍ニ抗敵スル者ハ吾カ頚ニ刃ヲ加フルガ如シト群下ヲ警戒シ、一意敬上ノ旨趣ヲ体認シ、応分ノ義ヲ尽サントセシ時ニ際シ、二月十八日渋沢成一郎、須永於菟之助、本多敏三郎、伴門五郎、酒井宰輔等、慶喜公ノ寃罪ヲ雪クノ哀訴スルノ義挙ヲ企図スルニ会シ、伯兄惇忠モ来テ之ヲ賛成スルニ至リ、昌忠コレニ加盟シ(此初会ハ赤阪円応寺ニテ会スル者六十三人、昌忠
 - 第1巻 p.700 -ページ画像 
モ其中ニアリ)彰義隊ト称シ、其伍長トナリ、浅草本願寺ニ往来シ、市中巡羅等ノコトヲ勤メ、三月上旬同隊士五人ト上毛ニ巡リ、地方ノ騒擾ヲ察シ、遂ニ水戸ニ赴キ、慶喜公ノ安着ヲ伺候シ、四月中旬江戸ニ返リシニ、渋沢成一郎其他同志人彰義隊ノ意見ト合ハサルコト出来リ、分離シテ別ニ計画スル処アリ、昌忠モ伯兄ト倶ニ之ニ合シ、協同シ江戸ヲ脱シ、西北ニ走ントス、閏四月廿八日発スルニ臨ミ昌忠筆ヲ把テ其宅ノ障子ニ大書ス、曰ク、楽人之楽者憂人之憂喰人之食者死人之事昌忠ト署シ、且ツ留守トナル親友根岸文作ニ謂テ曰ク、吾レ死ンテ見セルト欣然トシテ出テ其同志脱走ノ一軍名ヲ振武軍ト称シ、堀内村ニ屯スル三日、去テ田無村ニ屯ス、居ルコト十三日許、昌忠其中隊組頭トナル、兼テ巡撫使タリ、一日近来ヨリ訴ヘアリ、一浪士村長ノ家ニ来リ強談スコレヲ鎮制セラレント、昌忠部下五人ヲ率ヘ出張シ、浪士ヲ捕ヒ審問シ凶行アルヲ以テ斬ニ処セリ(但、是ハ昌忠ノ所理セシニアラズ、軍長其他ノ決行スル処ナリ)五月十五日、振武軍田無村ヲ去リ皷行シテ箱根ケ崎町ニ到ル、日既ニ幕ル、江戸ヨリ飛報アリ今暁官軍三面ヨリ上野ヲ攻撃シ、巳刻ニ至リ勝敗未タ分タズ、戦酣ハナリ云々軍議シテ曰ク、吾軍彰義隊ト分離スト雖トモ今大事ニ当リ、何ンソ是ニ応援セサルヲ得ンヤト、即時令ヲ発シ夜行シテ軍ヲ返シ、小川村ニ来リ、天明ケ田無村ニ至テ休シ、江戸昨日ノ成敗ヲ探聞スルニ上野山内ノ屯兵ハ昨日申刻敗散死者甚ダ多シ、一山ノ寺院楼閣灰燼トナレリト既ニシテ村吏ノ報アリ、一隊ノ軍東ヨリ来ル、敵歟味方歟知ラサレトモ必ス戦フニ至ン、願フ処ハ出迎テ戦フ歟去ツテ戦フ歟何レニモ此村落ヲシテ兵火ノ災ニ罹ラシメサルヲ祈ルト云フ(尾高惇忠逆ヒ走ツテコレヲ途ニ要シテ其来由ヲ問ヘシニ、神奈川隊兵三百人昨夜浅草蔵屯所ヲ脱シテ来レル云々、以テ無事ナリシナリ)一軍玆ニ駐スルコト三日、十八日又西北ニ向テ去リ、所沢ヲ経テ扇町谷ニ宿シ、十九日飯能ニ入リ軍ヲ三所ニ分テ屯営ス(一ハ前田村、一ハ飯能能仁寺、一ハ中山村)能仁寺ヲ本営トス、昌忠ハ其職中隊組頭ナルヲ《(以テ脱カ)》本営ニ在リ
廿二日申刻、官軍正面ノ兵弐千七百人、扇町谷ニ来着、明暁寄来ルノ報アルニ会シ、即夜三道ヘ夜討ノ兵ヲ出タシタルニ、広瀬方面ヘ向フタル一手ハ夜半ニ引上ケ返リシモ、扇町谷高萩二道ヘ向ヘシ二手ハ音信ナク故ニ廿三日払暁軍長渋沢成一郎自カラ百五拾人許ヲ率ヘ、昌忠之ニ属シ、鐘ヲ鳴シテ押出シ飯能ノ東ニ合戦ス、官軍二道ヨリ来リ夾ミ討ツ処トナリ、衆寡敵セズ本営ヘハ飛丸中リ、能仁寺本堂ノ屋ニ火発シ、防禦方尽キ全軍後山ヘ走リ、中途ニシテ昌忠来リ惇忠ニ云フ、深入リシテ敗レタリト遂ニ相失ス、既ニシテ山ヲ越テ北西ニ下ルニ、官軍二三百人既ニ前路ニ在リ、頻リニ砲撃ス、一軍四散山林ニ匿レ、或ハ無人跡ノ山嶺澗谷ヲ跋渉シ、軍復タ整ハザルニ帰セリ
其日昌忠一人トナリ、山村ノ一民家ニ入リ、携ヘシ銃砲及ビ雄刀ヲ棄テ、前髪ヲ剃リ、月白鬢髪ノ庶人体トナリ、脇差一刀 (身長壱尺七寸勝村徳勝作) ヲ帯シ、笠ヲ冠リ、蓙ヲ被、北ヲ望ンテ走リ、頬振嶺《カアブリ》ニ上リ茶屋ニ憩フ(飯能ヨリ三里許リ)二時許リニシテ嶺ヲ下ル順路ヲ問ヘシニ、屋ノ主人昌忠ノ装貌必ス飯能戦士ノ変服シテ来リシナラント察シ、間道ヲ指シ勧メシモ聴ズシテ北ニ向ツテ下リ、一里余ニシテ入間郡黒山村
 - 第1巻 p.701 -ページ画像 
ニ至ル、時ニ又一手ノ官軍(芸藩神機隊兵斥候)六百人頬振嶺ヲ越テ秩父郡ニ入ント押シ来ル、其兵モ此地脱走兵ナキノ見込ニテ隊ヲナサズ、竹兜子ニ乗リ前後二人昌忠ト行違ヘ、次ニ斥候兵三人ニ逢フ、斥候兵昌忠ヲ誰何シ、昌忠ヲ中央シテ鼎立セリ、昌忠跪ヒテ近村ノ神職所用アツテ通行スト弁解セシモ、其状貌装儀山村田舎ノ者ニアラサルヲ以テ、厳ニ詰問セントス、昌忠突然ト一刀ヲ抜キ、面前ニ向ヒシ一兵ノ右腕ヲ斬ツテ落シ、大声ヲ発シ叫ンテ曰ク、吾党六十人山上ニアリト又踏込テ一兵ノ背ヲ斬ルコト二刀、一兵後ヨリ昌忠ヲ抱ク、昌忠手ヲ振リ戻シテ後兵ノ額ニ傷ツク、別ニ一兵来リテ抱カレタル昌忠ノ肩ヲ切ル、コレハ抱キタル味方後ニアルヲ以テ十分ニ討タザリシト云フ既ニシテ抱キタル兵モ傷ヲ負フタル為メ昌忠ヲ放ツ、同時ニ一兵短銃ヲ発シテ昌忠ヲ射ル、丸昌忠ノ股ニ中ル、昌忠南ニ向テ趨ル、斥候兵モ三人ハ傷キ斃レ、後兵続カサレバ昌忠ヲ追ズ、昌忠趨ル数十歩ニシテ、二創ヲ受ケ脱スベカラザルヲ悟リ、路傍ノ盤石ニ踞シ、自カラ腹ヲ屠リ、咽喉ヲ刺シテ死ス年二十二 生弘化四年丁未十一月ヲ距ル二十年七ケ月
(欄外記事)此嶺嶮阻ニシテ昔時弁慶嫌ツテ頭ヲ振リシト云フ
此時ニ官軍六七十人進ミ来リ、盤石ニ踞シ前ニ臥シタル昌忠ノ屍ニ銃丸ヲ乱発シ、後其首ヲ鹹シ、去ツテ一里以南ナル越生町陣所法恩寺ノ門前ニ梟シ、負傷者三名ハ即時近村ノ医師ヲ迎ヒ施治シテ該所ヲ引還シタリ、然ルニ此手ノ官軍是日秩父郡ニ進ミ入ルノ先触レヲナシ、是地迄来リ引返セシハ昌忠一人不意ニ起リ三名ヲ傷ツケタルノ故ニ時刻遅延セシノ為ニ非ズ昌忠大声ニ山上ニ吾党六十人アリト云フニ因リ不知案内ノ山路嶮阻ノ地ニ敢死ノ士六十人アラバ夜行最モ懼ルベシトノ事ナラント、然ルニ飯能ノ戦報モ其間ニ達シ、是手ノ官軍ハ是処ヨリ東京ヘ返リシナラン、是日渋沢成一郎、尾高惇忠外四人ハ飯能ノ後山ヨリ左ニ折レ、山中荊棘草茅ノ間ニ匿レ居リ、夜ニ入テ其山麓ノ村家ニ投シ、装ヲ変シ、夜半ニ秩父郡我野村ト云フ山駅ニ着セシニ、両側ノ民家灯ヲ点シテ白日ノ如ク、戸々数個洗足泴ヲ置テ客ヲ待ツ者ノ如シ、惇忠此状何ノ故ナルヤト問ヒシニ、今日官軍六百人越生ヨリ当所ヘ御繰込ミノ先触アリ、故ニ斯ノ如シト、然ルニ遂ニ来ラズ、此準備不用トナレリ、因テ憶フ昌忠ノ大叫シテ山上ニ六十人居ルト呼ハヽリシハ、味方ノ者官軍合囲ノ中ニ陥ヒルヲ防ントノ頓計ニ出シナラン、然ルニ昌忠ノ誠義咄嗟致命ノ際ニモ味方忠愛ノ精神感動シテ敵ハ軍ヲ引返シ、味方ハ軍長ト伯兄ト不思議ニ陥阱ヲ脱シ免レタル豈ニ奇ナラズヤ
黒山村ニテハ俄然闘戦起リ、脱走士一人死シ、斥候兵三人重傷ヲ負ヘ数十ノ砲声響キ、軍ヲ越生ニ返シ、恰カモ雷鳴電激ノ後ノ如ク此戦況ヲ傍観セシ者数人アリ、官軍去リテ跡ニ鳥銃一挺遺リ在リ、村民コレヲ持参シテ納メシニ其銃ニ芸州ト云フ鑑札アリシト云フ、村人ハ昌忠ノ屍ヲ憫ミ隣近ノ禅寺ニ埋葬シ、石ヲ建テ大道即了居士ト号シ、読経供養シ昌忠ノ勇武壮烈ヲ賞誉セリ
法恩寺門前ニ梟セシ昌忠ノ首ハ、三日ノ后土人コレヲ寺後ノ林中ニ埋葬シ、木標ヲ建テタリ、後数年渋沢栄一ヲ遣シテ両所ノ遺骨ヲ収メ上野寛永寺ノ瑩域ニ葬リ、石ヲ建ツテ伏義履行居士ト号シ、又昌忠ノ
 - 第1巻 p.702 -ページ画像 
雄刀モ土人発見シテ寄戻セリ、家ニ蔵ス(刀長二尺三寸八分大切先年水戸勝村徳勝ノ作ナリ)
武州比企郡安戸村医師某、当日官軍ヨリ急召ヲ受ケ、行テ三負傷者ヲ治療セシメラル、某其敵一人ノ所為ナルヲ聞キ感歎シテ当坐ニ其戦状ヲ図写シテ人ニ示セリ、其図転伝シテ惇忠ニ至レリ、図画倉卒ニナリタル者ナレトモ昌忠一刀ヲ片手ニ揮ツテ一人ニ当リ、顧眄シテ一人ヲ睨シ、一人ハ〓《(頤カ)》ヲ切ラレテ血飛ヒ上リ殪レントスルノ状、真ニ迫レリ、併セテ懐中ニ在リシト云フ短冊二枚ノ歌弐首及行書文字七字ヲ写シタリ、以テ当日人ヲ感セシメタルノ状ヲ見ルニ足ル
廿六年ノ秋静岡県士族須永信夫ナル者、前十余年ヨリ栃木県ニ奉職シ去年非職トナリシカ、惇忠家ニ来リ云フニ信夫在官ノ日、長官タリシ広島県士族前ノ栃木県書記官川合鱗三ナル者ト偶談ノ次、創傷治否ノ事ヨリ維新戦乱ノ時ニ、同人所率ノ隊兵ニ片腕ヲ斬リ落サレテ死セサル者アリシ云々アリ、而シテ川合氏ハ其対敵ナル徳川麾下士ノ揮ヒシ刀ヲ受蔵シ今ニ存在シ、尤其士ノ勇烈ニシテ人品鄙シカラズ其刀ノ装飾モ典雅ナリ且懐中所持金アリ、又短冊弐枚ト書物壱葉入リ又革巾着ニ大小刀ノ目釘各五個アル等嗜ミアル傑士ト察セルニ、名ハ昌忠ト短冊ニアレトモ姓氏通称ハ知ルニ由ナク、年来其人ノ族籍姓名ヲ知ラント欲シコレヲ索ルナリ、且其親戚父兄アラバ此刀ヲ返贈シテ其霊ヲ慰シ又吾カ人才ヲ惜ミ其名ヲ世ニ揚ケシメント欲スルノ意志ヲ達セントス右ハ子ノ亡弟所行ニ相似ル哉ニ附キ質問スルト云フ、惇忠具サニ昌忠ノ帯剣ノ作者装飾ノ模様等ヲ陳シ、信夫コレヲ川合氏ニ報シ、其刀ヲ携来テ示ス、コレヲ睹ルニ昌忠ノ刀ナリ、因テ往復再三遂ニ其年十二月十六日、惇忠、川合氏ノ家ニ至リ、渋沢栄一ニ代リ其刀ヲ受ケ、コレヲ渋沢家ニ蔵シ、以テ昌忠ノ木主ニ代フ、廿七年ニ及ンテ川合氏ヨリ昌忠遺刀記ノ文ヲ寄セテ其意ヲ致シ、渋沢栄一ヨリハ遺刀受納謝義ノ答書ヲナシ、副フニ菊池容斎画児島高徳朝臣桜樹ニ題スノ図掛物一軸ヲ贈リ親交ヲ表シ、尾高惇忠ヨリモ一篇ノ謝状ヲ 以上三書別記ノ如 寄セテ六月九日渋沢栄一兜町宅ニ一宴ヲ開キ、川合鱗三、藤田高之、渋沢喜作 元誠一郎ト云フ 尾高惇忠ヲ会シ、主人栄一丁寧ニ此会ニ至ルノ理由ヲ述ヘ、外四人互ニ当日ノ情状ヲ陳シ、廿七年ノ昔語ヲ尽シタリ、扨藤田高之ハ旧芸藩士神機隊々長川合鱗三ト倶ニ同隊ヲ郷勇ヨリ編成シ、コレヲ率ヘテ明治元年東京ニ入リ幾クナク《(モ脱カ)》上野ヲ攻撃スルノ役ニ従ヒ、間モナク総督宮ヨリ神機隊監督ノ命ヲ蒙リ、若干兵ヲ率ヘテ武州忍城ニ入リ、監督タリ、其兵ヲ分派シテ秩父郡ニ向カシメタルニ、監督ノ兵ナル故ニ斥候トナリ、先進シ不図昌忠ニ行逢ヘ、戦ヒニ及ヒシナリ、而シテ負傷者三人、片腕ヲ失ヘシハ高島芳助、脊ニ二創ヲ負ヒシハ長沼鷺蔵、二人今生存シ一人名ヲ失ス、蓋シ最軽傷ニシテ死セスト云フ
七月十四日、昌忠ノ廿七年祭ヲ営ム、渋沢喜作、須永伝造、尾高惇忠、川上鎮石其他縁故者皆会ス、上野寛永寺墓所ニ至リ、昌忠碑前ニ於テ渋沢喜作慨然トシテ曰ク、吾党草奔ヨリ奮起シ、国事ニ関係シ、固ヨリ一生ヲ期セサリシカ、斃レタル者ハ平九郎昌忠一人ナリ、其致命ノ状況土人口碑ニ拠リ、探索シテ信ヲ取ルニ足リ、既ニ記載公告スル所アリシモ、皆同党人ノ聞ク所ニシテ、所謂贔屓ノ言アルノ嫌アリシモ川合藤田両氏ノ言ハ乃チ仇讎ノ批評賞賛ニシテ昌忠ノ言行勇壮義烈磊
 - 第1巻 p.703 -ページ画像 
々落々凛然トシテ人ヲ動スヤ知ルベシ、因テ昌忠ノ為メニ一碑ヲ建テ後生ニ遺ント、衆皆賛同ス、則チ惇忠甞テ記憶スルヲ叙シテ平九郎ノ伝ヲ作ル以テ撰文ノ材料ニ充ツ、尚ホ渋沢、尾高、須永等縁戚ノ系統ヲ図記シテ参斟ニ供スト云フ
  武州榛沢郡血洗島村人
渋沢政徳 分家 二男 渋沢英芳 長兵衛 二男 喜作 成一郎 渋沢政徳 三男 美雅 元輔市郎右エ門 号 晩香 二男 栄一 妻尾高保孝 五女 養子 昌忠 平九郎
武州榛沢郡下手計村人
尾高保孝 勝五郎 妻渋沢氏 政徳二女 三男 惇忠 新五郎初惇孝 五女 千代 渋沢栄一妻 五男 昌忠 平九郎 渋沢栄一義子
上州新田郡成塚村人
須永通尚 宗次郎 妻渋沢氏政徳季女 長男伝蔵 於莬之助又虎之助仕一橋府后仕幕府后静岡藩貫族家ヲ信夫ニ譲リ帰家
(欄外記事)
  渋沢氏宗家
  敬林市郎右衛門
  武州榛沢郡下手村人《(計脱)》
  川上鎮石 現官主馬助 尾高惇忠門人ヨリ出身


はゝその落葉 (穂積歌子著) 巻之一・第一〇―一一丁 〔明治三三年〕(DK010051k-0004)
第1巻 p.703-704 ページ画像

はゝその落葉 (穂積歌子著) 巻之一・第一〇―一一丁 〔明治三三年〕
○上略 かゝりける程に慶応三年の秋もすぎ、時雨催す冬とはなりぬ、かねてより朝廷を尊ミ給ふ御志あつくおはしましける将軍家にハ。深く世の有様を見そなはせられ政権をかへし納めさせ給ひければ。世は浪風のさわぎもなく。静かに治まりぬべしと思ひのほか。翌くる慶応四年の始つかた速り雄の人々がゆくりかなりしあやまちより。忽ちおこるはやち風。空くれ竹の伏見の役に。君にハやがて朝敵のいといまハしき名をさへおはせ給ひ。東に還り給ひしかバ。続きて官軍下向あり世ハかりこものふたゝび乱れていとあさましきさまとはなりぬ。さればこれまで幕府の禄を食ミ給ひたる成一郎ぬし平九郎君ハいふもさらなり。出でゝ仕へぬ伯父君さへ義侠に強き御心にハ。幕府の人々此時に臨ミ主家の為に力を尽し志を致すものゝいと少きをうれたミなげき。且ハ君が負ハせ給へる思ひの外なる寃の名を払ひ清め参らせでやハ。とてやがて彰義隊に加はり。更に振武軍といふを組織し給へり。まことやこれらの事ハ始に立てさせ給ひし御志とハ全くうらうへなる事ながら。時の勢またいかにともなし得がたく。終に官軍に抗し参らせ。賊とよばるゝをもいとひ給はぬ事となりにしなりとぞ。かくて飯能なる能仁寺に立てこもり給ひしも。程なく戦破れて皆ちりちりに落ち失せ給ひ。天に跼り地に蹐するはかなき落人とハならせ給ひけり。時に長七郎君ハ前つ年ゆるされてひとやより出で給ひけるが、年頃いたきもの思ひの積りにや御身すぐよかならず。病の床におはしまして宣ひけるハ。成一郎と平九郎とハ身のなり行きなれバ止むを得ぬ事なれども。兄君ハさばかりのゆかりあるにもあらぬを。その始にハ倒さんとまで思ひはかりつる幕府の滅亡にあたり。其難に殉ひて身を顧ミ
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ぬハ侠気と云ふも程こそあれ。と打つぶやき給ひけりとぞ。其世の事にしあれバ。有りつる事どもとみに知るべきよしもなく。郷里人ハ只いたづらに心をなやましつゝ。一たびハ三人とも皆亡き人にやなり給ひにけんと思ひわづらひけるに。飯能の敗より一月ばかりして成一郎ぬしハ恙なく或る所にひそミ居給ふよし伝へ聞きつ。又伯父者ハ忍びて家に立かへらせ給ひしかど。平九郎君の消息ハたえて知るよしもなかりき。母君ハ常に平九郎君をとりわけていつくしませ給ひけるが。かつて江戸に出で立んとし給ひける折。御身我夫の子となりて君の禄を食ミぬるからハ。もし事あらん日にあたり我夫にかはり忠義の道を尽さずしもあらば。いかで男児と云はるべき。ゆめおくれたるふるまひなせそ。と深く励し訓へ給ひてけり。されバ此時人々ハ何所にかひそミかくれて居るならんなどさだめ云ひけれど。ひとり母君ハ御心のうちに。見苦しうにげまどふ事を耻ぢ。あるハ虜とならん事をいとひて討死をやなしつらん。とひそかに案じわづらハせ給ひけるが。果して去る五月二十三日黒山と云ふ所にて討死し給ひける由聞えけれバ。我言の葉のゆゑをもてひたすら死をやいそぎけん。と人にもましていたみなげき給ひけり。 ○下略