デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.6.13

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

2章 幕府仕官時代
■綱文

第2巻 p.3-67(DK020001k) ページ画像

明治元年戊辰十一月三日(1868年)

是ヨリ先九月四日徳川昭武マルセーユヲ発シテ帰朝ノ途ニ就キ是日横浜ニ着ス。栄一モ亦随ヒテ帰リ尋イデ十二月朔日血洗島ニ帰省ス。文久三年郷関ヲ出デテヨリ此ニ至リテ実ニ六年ナリ。


■資料

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之四・第三―六丁 〔明治二〇年〕(DK020001k-0001)
第2巻 p.3-4 ページ画像

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之四・第三―六丁 〔明治二〇年〕
○上略 少しく話しが跡へ戻りますが、公子の一行が仏蘭西を出立して以来 航海中は別に不都合の事もなく、各碇泊地から乗組む人々に就て、御国の風説を聞くのを、第一の務として居ましたが、香港へ着船した時に、初めて会津落城の事を聞き、又日本の海軍は榎本氏の指揮により悉く其軍艦を引て筥館に行つたといふことを聞いた、又其以前に聞及んで居た会津が盟主となつて、奥羽諸藩が連衡合従して官軍の討手に抵抗するといふ一条は、所詮充分なる約束が行はれず、其兵隊とても規律厳粛といふ程ではなからう、殊に将軍家は謹慎御待命中とのことだから謂はゞ首領のない軍兵であるに依て、いくら多勢でも、迚も薩長の、力の強い勢の盛んな兵隊と、拮抗し得ることは出来ぬであらうと推察して居たが、果して香港へ着いた時に、会津落城の事を聞きました、併し其頃海軍の全権を有した榎本武揚といふ人は、旗本中では第一流の人傑であると、曾て其友人から聞いて居たし、又其時分に和蘭陀で製造した回陽丸といふ軍艦は、当時第一等の堅艦で 其他、回天・朝陽・長鯨・三ケ保などいふ諸艦も、諸藩の軍艦に比較すれば、余程優等に位することでもあり、且つ名望も経験もある榎本が、之れを指揮して居るのであるから 空しく降服するやうなことはなく、必らず何か事を成すであらうと思つて居た、処が今香港へ来て聞いて見ると、海軍は都て箱館へ行つたといふことだから、是は如何なる軍略に拠たものであるか、頗る解し兼ぬる次第であると思ひながら、上海へ来てみると、同処の旅館に、独逸人のス子ールと長野慶次郎とが止宿して居た、此のス子ールといふ人は、戦争の間、会津藩に聘せられて居たが、落城の前に兵器が足らぬといふので、鉄砲を買ひに来たのであつて、長野は其通弁として同行して来て居るといふことが分つた、自分は長野とは前々から知人であつたゆゑ、民部公子が上海に著して、自分も随従して居るといふことを聞込で、直ぐにス子ールと同道して、面会を請ふて来たから、逢つて見ると、長野のいふには、薩長などが官軍と唱へて武威を振つて幕府に当るから、会津が盟主となつて、奥羽諸侯と合従して、これに敵対して居るけれども、武器が不足で、充分の事が出来ぬから、鉄砲買入の為めに当地に来たのである
 - 第2巻 p.4 -ページ画像 
といふから、自分が長野へ問ふには会津は既に落城したといふことを香港で聞いて居るが、実説であるかと質して見た処が、長野のいふには、其確報はまだ得ぬ、併しながら仮令落城したからといつても、残党が多くあるから、是非一度は挽回せんければならぬ、又此ス子ール氏などは外国人ではあるが、真に力を入れて居る、就ては一つ相談があるが、即ち民部公子の進退で、今直に横浜へ御帰りにならずに、此の処から直に箱館へ御連れ申して、箱館に雄拠して居る海軍の首領としたならば、一体の軍気も大に張るであらう、是非とも此の事に同意あるやうにしたいと、熱心に勧告しられたから、其れは以ての外の事で、左様の事は出来ぬ、自分に於ては、公子をして左様な危険の地に趣かせることは、甚だ好まぬといつて、断然拒絶したことがありました、


雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之四・第六―一一丁 〔明治二〇年〕(DK020001k-0002)
第2巻 p.4-6 ページ画像

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之四・第六―一一丁 〔明治二〇年〕
○上略 偖て日本へ着してみると、暫時でも幕府の人となつて、海外旅行の留守中に主家が顛覆した次第であるから、江戸が東京となつたばかりでなく、百事の変革は誠に意外で、幕臣は恰も喪家の狗の如く、横浜に着した時にも、其取締の官吏から種々身分を尋問せられ、見るもの聞くもの、不愉快の媒ならざるはなしといふ有様でありました、やがて上陸して見ると杉浦愛蔵が出迎ひに来て居て、懇切に世話をして呉れ、其他、水戸藩から公子の御迎ひに来た人々もあつて、公子は直に東京へ御越しになり、自分は公私の荷物を船から受取など、種々の用事もあつたに依て其晩は横浜に一泊と定めて、杉浦と共に横浜に居住の友人を訪問して、久々にて日本の居宅に坐して日本の食事をなし、過ぎ越し方の日本の談話をしたのはさすが不遇の身にも、聊愉快を感じたことでありました、 ○中略
偖て前にもいふ通り、日本へ帰て来て、其翌日、横浜の友人に面会して、箱館の様子を聞て見ると、同姓の喜作も同地に往つて居るといふこと そうして榎本を始めとして 大鳥圭介・松平太郎・永井玄蕃頭・小笠原壱岐守抔いふ、幕臣の重立つた人々も、皆箱館に集つて、大に地方の政事を改め、漸く武備を整へ、所謂兵食を充実して後に内地まで押出すといふ軍略だとの風説であつた、其風説といふも、横浜へは外国船が通知するに依て、大凡の事は、皆手に取るやうに知れるとの事であるから、其時自分の思ふには 其れでは到底望みのない話しだ、果して風説のやうな軍略ならば、箱館に集つた人々は、居ながら破潰滅亡を待つと一般の話しで、実に気の毒千万である、昔から亡国の遺臣が集合して恢復を図つたことがしばしばあるが、何時でも遣り遂げたことはない、併しながら、疾雷不遑掩耳といふやうに 短兵急接に敵の要所を襲ふとか、又は空虚を衝くとかして、敵勢を動揺させて形勢に変化を生ずるの機に乗じて、能く進退をしたならば、或は万一を僥倖することもあらうが、今聞く通りの軍略では、所詮覚束ない、殊に集合の人々を見るに、其間に君臣の大義があるでもなく、申さば烏合の衆であるから、仮令これを統御する人は、如何に人傑なるにもせよ、一時は兎も角も、始終の処に於て、能其命令に服するものでは
 - 第2巻 p.5 -ページ画像 
ない、烏合の衆を以て、彼の食を足し兵を足して、然る後にといふが如き持重策を立るのは、恰も力のたらぬ角觝が、土俵際に引受て、保たうとすると一般で、決して勝利を得ることは出来ない、今箱館の人人は、幸に海軍の力があるから、或は不意に京阪を襲ふとか、或は東京・横浜を衝くとかいふやうに、其所此所と出没して、要所々々を要撃して、所謂霹靂其端倪を視る能はずといふが如く、尤も鋭敏に運動したならば、各藩の兵気も、防禦応援に徒労して人心自ら擾乱するに相違ないから、天下の事も或は亦知るべからずともいふべしだが、其健足を持ちながら、空しく坐臥して、持重策を講ずるといふのは、自ら敗を招く道理で、極めて拙策と謂はざるを得んことであると考定したに依て、早速一通の書状を認めて、箱館に在る喜作の手へ送達することを横浜の友人へ託しました、其書中には詳しく前の理由を述べてさて折角久々の面話を楽みに帰国した処が、貴契も箱館行だと聞て、誠に失望して、遺憾千万である、且又箱館へ集合した人々の未来は、前にいふ通の結果であらうと思考するから、其趣を榎本氏へも伝へられたし、又今日の形勢では最早御互に生前の面会は望み難いことであるに依て、此の上は潔く戦死を遂げられよと懇ろに申送りました其から両三日は、荷物の取扱、其外の用事を足して、杉浦と共に神奈川宿に逗留して居て、十二月の六七日頃に、東京へ帰つて来て、段々と様子を見聞してみると、維新の騒動に付て、彼の友達は脱走したとか、此の親戚は死んだとか、種々に変化して居る、又故郷に居た時、共に大事を謀つた尾高長七郎はと聞てみると、其年の夏、幸に出獄はしたけれども、自分が日本へ到着する前に死去したとの事、其弟の平九郎は、自分が昨年仏蘭西に行くに就て、見立養子といふ名義で相続人に貰つて、養子届をしてあつた、是は幕府の制度は外国行の者は万一外国に於て死去の事あらんも測られざれは見立養子を為すを要することなりしが、此の平九郎も此の度の騒動に就て、其実兄の尾高惇忠や同姓の喜作などに随従して、諸々方々の戦争に出合ひ、遂に飯能宿近傍の黒山といふ所で討死をしたといふ話で、実に見るもの聞くもの、皆断腸の種ねならざるはなしといふ有様であつた、其処で我が一身はと反省してみると、海外万里の国々は巡回したといふものゝ、何一つ学び得たこともなく、空く目的を失つて帰国したまでの事であるし、又同姓の喜作は箱館に往つて、死生の程もはかられず、其他の親友も多くは死去、又は離散の姿で、実に有為転変の世の中であると、嘆息の外はなかつた、
元来幕府を討滅するといふことは、我々が其先鞭を着けやうとしたのであるが、一旦機会の齟齬してから、今日は却て幕吏の末に列して、亡国の臣となつたのは実に残懐至極ではあるが、敢て自分の過誤失策ともいひがたひに依て、世の成行きとあきらめて、其身の不幸を慰るより外はありませなんだ 其れは兎も角も過る亥年の冬故郷を出て 六年の星霜を経過し、今年漸く東京まで帰つて来たものだから、久しぶりで両親にも逢ひ、故郷の様子も見たいと思つて、其月の中旬に故郷へ行くといふことを、兼て父の許まで文通して置た処が、父はその前に東京へ尋ねて来られた、父の尋ねて来られたのは、柳原の梅田とい
 - 第2巻 p.6 -ページ画像 
ふ剣術道具を拵へる家で、従来懇意にしたから、此の家にて父と面会しました、父は自分の世に轗軻したとはいふものゝ、先づ無異で帰つたのを深く喜ばれた様子であつたが、併し時勢の変遷に付て、自分の身が零落した有様をみて、喜びの中にも何となく憂を含んで居られたが、流石に厳格の性質であるから、やがて詞を正して諭されるには、其方は既に吾が子でないから 敢て指図するにも及ばぬことであるが、将来其方が処世の方向に付ては、従来の愛情に依て、一応聞いて置たい事もある、是から先きはまづ如何様に身を処する覚悟であるかと、如何にも深情なる尋ねであるから、自分は感涙を呑込んで、これに答ていふには、今から函館へいつて脱走の兵に加はる望みもなければ、又新政府に媚びを呈して、任官の途を求める意念もありません、責めては、是から駿河へ移住して、前将軍家が御隠棲の側らにて、生涯を送らうと考へます、それとても彼の無禄移住といつて、其実は静岡藩の哀憐を乞ひ願ふ、旧旗下連の真似は必らず致しませぬ、別に何か生計の途を得て、其業に安んじて、余所ながら旧君の御前途を見奉らうといふ一心であると告げた処が、父も稍安心の様子であつたが、又言はれるには海外万里の地に居て、御国の変遷に出逢つたのだから、帰国するに付ても様々窮迫もしたであらう、此後とても、一身の定まるまでは、衣食に事を欠くもはかられんと思ふたから、聊かながら金子を持参したからといつて、懇切に示されました、自分は深く其慈愛の厚情を謝しながら申すには、実に御恩恵は謝するに余りありますが、今日の身上は、敢て窮乏といふ程でもありませぬ、故に其御心配を受るには及びませぬ、実は京都に於て一橋家に勤仕の時から、深く節倹を心掛けて、少額ではあるけれども余財を生じ、又仏蘭西滞在中も公子の随従であつたから、別に自分の経費はなし、毎月の給料から自分の衣服を作るばかりで、其外の費用は、勉めて倹約して残して置きましたから、別に目下の窮困はありませぬ、但し先頃仏国から書面を以て、送金の事を願ひましたのは、公子を長く彼地に留学させ申すには其経費が少し不足であろうと掛念したからの事でありました、其事も最早過去となつたに依て、今日は何の必要もありませぬと、詳しく現状を述べた処が、これで父も全く安心せられて、猶四方山の談話をして、且近日の中に自分も故郷に帰着することを約束して、父は帰郷されました、其後二三日を経て故郷に帰り、久々にて父母妻子に面会し閭里近隣の人々にも逢ひて、互に無事を悦びましたが、両三日の逗留で十五日頃に又東京へ帰りました、


渋沢栄一 日記 自慶応四年六月十四日 至明治元年十一月二日(DK020001k-0003)
第2巻 p.6-17 ページ画像

渋沢栄一 日記 自慶応四年六月十四日 至明治元年十一月二日 (渋沢子爵家所蔵)
 八月卅日 曇夕晴 木               十月十五日
朝御支度、第九時朝餐、直ニ御出発、ヲレヤンといふ汽車場御越、フロリヘラルトクレイシベリヨンコンマンタン両人、石見貞次郎其外御残之者一同為御送罷出る、コロ子ルはビヤリイト迄御附添、帝御逢取扱ニ付御供篤太夫・平八郎・泉太郎等御供いたす、第十時四十五分同所御発軔、小遣アンリイはアレキサントリヤ迄御召連之積申付る、此日天曇りたれとも雨降らす、巴里よりツールといふ地迄は過日経過せし
 - 第2巻 p.7 -ページ画像 
途なれは目に触るゝ山河村落の景色いと風情あるを覚ゆ、ツールより鉄路左折してボルドウ江の途を取る、此日第二時頃サンヒイルルコール《(St.Pierre des Corpsカ)》といふ地ニ而午飯、夜十時半ボルドウ御着、ホテルデリシルユウと呼ふ客舎御投宿
ボルドウは仏国南陲の一都会にして、市街頗ル繁華なり、多く萄葡酒《(葡萄)》を産し、遍く全欧洲に鬻く、貿易の盛なる馬@港に勝るといふ、市街に添ふて一の大河ありジロンドといふ、河巾いと広く水深しといえとも数々の鉄橋・石橋を架して通路に便す、石橋の長八百メイトル巾十六七メイトルもあるへく、尤宏壮を極メ《(マヽ)》タリシロント河本地より二十里計下流して海に注くといへしか此辺より水底いと深く石橋の下流二里程は港にして大船巨艦輻港《(湊カ)》せり、人口凢拾七八方程といふ
 九月一日 晴 金               十月十六日
朝七時過客舎御発馬車ニ而市街御覧、夫より港口を御通行ニ而ビヤリイトへの汽車場に至る、第八時発軔、市街の南辺は松林多く松根の皮を剥て松汁を取る、第十時半モルサンス御昼食 Morcenx、第十二時半バヨンヌ《(Bayonne カ)》御着、暫時御休息、第一時ビヤリイト《(Biaritz カ)》御着汽車場迄礼式懸之者罷出、国帝御逢之手続申聞る、汽車場より馬車ニ而客舎御越、直様御洋服ニ而帝居御越、篤太夫コロ子ル御供、帝居は海浜ニ而いと狭小なる休息所様の家作なり、玄関を入りたる広間迄帝及后妃共御迎申上る、夫より帝の居間御越、帝后妃とも暫時御閑話、御暇之御詞等御述、御書翰御渡直ニ御引取、篤太夫・コロ子ルは次の間ニ扣御待申上る、御帰之節帝后妃共次の間迄御送、太子は玄関まて御送申上る、御逢も御滞なく相済ぬれは直ニ客舎御発し、馬車ニ而市街御遊覧海浜を御行過、バヨンヌより流て海に入る川口御越、ジンギユといふ川口の海に接せし処築出し波塘を作る場処御一覧、河に沿ふてバヨンヌ御越、第五時御着、ホテルサンテチヤンといふ客舎御投宿、御着後市中御一覧、平八郎・コロ子ル御供いたす Hotel Saint Étienne
 九月二日 曇 土               十月十七日
朝五時半客舎御発し、滊車場ニ而六時発軔之滊車御乗組、直ニ発軔、此日此辺新兵組入の日なりとて撰挙せられし兵隊の多く滊車場に集り諸方の屯所に赴くとて歌抔歌ふて別離を慰むさま殆幽情を催す、第十一時過タルブ《(Tarbes カ)》といふ地ニ而御昼食、此辺ハヒレ子といふイスパニヤ国境の連山に沿ふたる地にて車中諸山崔嵬たる様、最高の嶺には已に積雪堆く眺望甚清絶なり、鉄道も山に添へ壑に架して至而嶮岨なり、夕六時半ツウルウズといふ地御着、ホテルデヨウロツパといふ客舎御投館、夜饌後市御御歩行、本地は市街も広く人口も稠密にして市店も繁殷なり
此夜本地名産のスミレ花御買上、御写真二枚を御添仏国太子江御送相成、尤太子昨日ヒヤリイス出立サンクルー御在之旨ニ付同地へ向御差送相成
此夜大雨暴風、沿道の河々水漲りて田畝に溢れたり
 九月三日 曇朝雨 日               十月十八日
朝六時御発、滊車御乗組、此日は雨なれは眺望も少しく、車中甚鬱陶たり、第十二時ナルボンヌ《(Narbonne カ)》といふ地ニ而午饌、第二時過セツトといふ
 - 第2巻 p.8 -ページ画像 
地に至る、此辺は既に地中海に添ふて土地は至而荒廃せしか海岸ニ而ハ多く塩を製す、其製頗軽便なるよし、処々に堆く積並へしさま、其製作の容易なる推計るへく思わる、セツト《(Cette カ)》といふ地ニ而滊車御乗替のため一時余御休息、第三時二十分御発軔、七時過アルルといふ地ニ而夜饌、又滊車御乗替、此地よりして巴里より馬港の鉄道に出る滊車漸く連なり夜十時半馬港御着ガランド《(Arles カ)》ポラルマルセエイルといふ客舎御投館巴里に相残り候者五人は昨日巴里出立、今朝九時頃当地着、同客舎に止宿し居りたれは御出迎申上る
此日夕方より雨歇みて空稍晴たれとも風強く、雲多く風洋は至嶮なるへく一同心安からざりし
 九月四日 曇 月               十月十九日
 弐十弐フラ八十サ山高分荷物三ツ分巴里より馬港迄
 壱フラ コン子スマン
 百八十九フラ四十五サ 馬港より横浜迄運賃
  〆
 九月四日飛脚船会社払
 一九百九十七フラ三十五サ 荷物運賃残 惣勘定差引残
 一五百フラク コロ子ル渡 教師被下 但同人書状を以願出ニ付
 一四百八拾フラク 同人渡 御旅中御入用 ヒヤリイトより馬港迄之 処同人御立替之分
 一百フラク 同人巴里帰途入用
 一六拾フラク 御傘壱本 敷物壱本
                  馬港ニ而
 一千八百フラク トルラル 英貨に 為替いたす
 一九拾フランク 倚子《(椅)》五ツ 壱ツ
 一七百フラク 船中ニ而 小遣被下
 九月四日 一三拾フラク 馬港客舎 小遣酒代
 九月六日 一弐十フラク メシーナ 珊瑚枝壱本
 一八フラク 御上陸舟賃
 一六フラク 平八郎
朝篤太夫飛脚船会社江罷越、船部屋及荷物積入等之儀引合賃銭残相渡す、夫より御買上物いたし罷帰る
第九時頃市中御遊覧、コロ子ル玄伯等御供、第十一時午餐、午餐写真御写真御越《(後脱カ)》《(ニカ)》、コロ子ル御供、夫よりコロ子ル市尹役所江為御挨拶御名札持参罷越す、篤太夫御買上物御用飛脚船諸引合等いたす 
教師よりコロ子ル江書状を以願出ニ付、五百フラ被下、ジユリイ召使之儀ニ付名代人罷出 篤太夫引合差帰す
第三時、御乗船コロ子ルも御船迄御供いたす 
御船はペリユーズといふ飛船なり、此日朝より雷雨にて殊風烈しく波濤はけしく、一同海疾なるへくと更に快然の想なし、夕五時頃より細雨来る、御附添コロ子ルビレツト御暇申上引取、第七時十分発釘《(マヽ)》せり、
 - 第2巻 p.9 -ページ画像 
夜中船少しく動揺せしが思ひよ《(し)》りも安かりし
 九月五日 曇 火 速一時十一里           十月廿日
風強く波高く船頗る動揺せり、午後サルジンコルシカ島の辺を〓行《(マヽ)》す、夕方より船両嶼中に入りて波濤稍隠《(穏カ)》かなり
 九月六日 曇 水 速一時十二里           十月廿一日
朝より風強く〓行速かなり、夜九時半メシーナ着、暫時投錨休息いたす、馬港より此に至る六百八十八里五十時間ニ而到着せり、船行の順にして速なる可知也 メシーナニ而御陸海岸の市街御遊歩、一同御供いたす、夜十一時半同所発釘《(マヽ)》
 九月七日 晴 木 速十二里一時間           十月廿二日
朝より風烈しく船頗る動揺す、尤風順なれば〓行は速なり
 九月八日 晴 金 速 朝十里半 昼後十一里半      十月廿三日
昨夜より風穏かに船静かなり、朝天気朗晴、軽寒軽暖、〓行も尤随意なり 六百八十八里
午後風替りて東北となる、片帆間切ニ舟行速なり、第二時頃カンシーといふ孤島を北方に見る、雲靄故甚朦朧たり、終日〓行穏かなり、メシーナより本日の第十二時迄四百十一里を〓行す、此より阿歴山大迄四百廿五里あり、夜に入ても風静に船穏かなり
御部屋四ツ 三ツ下部屋入 五ツ部屋入 五ツ部屋入
  〆拾七ツ
此訳
四ツ御用荷物 弐菊 三 井 服 壱涌 弐篤 壱端 三ツ玄 壱ツ山 〆拾七ツ
一五百フランク アンリイ御褒美被下
一弐百フランク《(弐百フラマデ抹消ノ線アリ) 同人帰巴小遣被下
九月九日 晴 土 北緯三十二度弐十三東経弐十四 五十七 メシイナより六百八十五里 阿歴山大より百五十壱里
                            十月廿四日
朝より天気朗晴、軽風ニて波高からす、〓行頗随意なり、午後帆前船の〓行を見る
此夜阿歴散大到着之筈なれは、午後より〓行稍緩かなり、夜に入て蒸気船の〓行を見る
 一弐拾九フランク  船中シヤンハン其外代
 一四十フランク   小遣一同被下
此日重陽なれはとて夜饌にシヤンパンを一同江被下
 九月十日 晴 日               十月廿五日
朝六時過アレキサンドリヤ着船、直ニ旅装を整ひ、川蒸気船ニ而港口の波塘より御上陸、馬車を雇へ市街を行過、ホテルアングレテイルといふ客舎御投宿 此夕六時滊車発軔 明朝六時スユイズ着之旨船将申聞る 第十時半午饌十一時頃馬車ニ而市街御遊覧
アレキサンドルよりスイズ迄四十八里
海岸より諸方御一見、ボンベといふ石柱御一覧、二千年来の物とのよし夫より埃及王の花園御越、第二時御帰館
 一拾七フランク 馬車代市中御見物用
 一百フランク アンリイ四日道中賄料被下
 - 第2巻 p.10 -ページ画像 
 一弐百六拾九フランク半 アレキサンドル旅宿払
      但御昼食御夜食ビエイル其外共払
 一弐拾フラク 小遣之者酒代被下
 一拾フラク 蒸気車中御入用
 一拾フラク 馬車代但市中御見物用
 一弐百弐拾フラク スエイズ旅宿御入用小遣被下共
      御昼食其外部屋小遣手当共
第四時、御夜餐
小遣アンリイは是より御暇被下、巴里江差帰す
第五時客舎御発し、滊車場御越、馬車は御着御発共飛船会所より差出せし乗合馬車なり、市街はつれなる滊車場ニ而御乗車、第七時発軔、此夜車中御徹夜、翌暁第七時過スエイズ御着、ボテルデアングレテイルとい客客舎御投館
昨夜通行之道筋ニ而カイロといふ埃及都府ありしが、夜中なれば物色せしものなし、カエロ都辺は車の両辺の曠原に時々細木萎草抔見及しか、夫より原野空漠にして絶而草木なし、白沙恾々として眺望恰も□《(沙カ)》海のことし、稀にして人家の索落たるも、多く土もて築立て、蜂窩燕巣に異ならす、土人は色黒く白巾ニ而頭上を包み、僅に弊醜の単衣を纏ふのみ、駱駝驢馬多く緬羊の皮の袋もて作たる物に水を盛てこれを駄す
仏国商社ニ而催せる地中海の堀割をスヱイズ御着の滊車中に見る、尤壮大のものなりといふ
 九月十一日 晴 月               十月廿六日
朝第七時スエイズ着、第十時半御昼食、第十一時馬車ニ而市辺御遊覧英国ニ而築造せる病院及市中飲水の源広大なるポンプ等御一覧、市街入口の鉄路の側にある仏人の催せる舟入所製造するとて巨石抔数多運輸し来りあるを御一覧、第一時御帰館、第三時客舎を御発し、小蒸気船ニ而本船アンペラトリイス御乗組
 公子分御部屋代七千五百フフラク《(衍カ)》弐人分
 外七人分弐万千三百五十フランク
此夜天気朗晴、月色清明頗る良夜を覚ゆ、歴山より気候漸暑く、此に至りては殆御邦暑中の候のことし、夜に入ては風故稍凌よし
 九月十二日 晴 火 速十里          十月廿七日
朝御部屋廻荷物改分いたし惣数十七之内十四箇を諸部屋へ分配し、残三ツを荷物置所へ預置
晴夜の晩餐に小遣頭の者不取斗ありしか厳しく《(ば脱カ)》これを糺問し、以来無落度心附可申旨相詑ひたれ《(ば脱)》免し遣す
第十一時蘇士出帆、風少しく波静かニ〓行平穏なり、終日〓行穏かなり、両沿に亜弗利加・亜剌比亜の諸山を見る、夜に入ては月明かに風冷しく、頗る良夜を覚ゆ
 九月十三日 晴 水 速二百四十里 北緯弐十五度 東経三十弐度弐十九 十月廿八日
 千三百十八里 蘇より 亜迄 亜丁迄千○六十八里
朝六時器械を繕ふとて暫時〓行をとゝむ、第十二時頃海中に二箇の小嶼を見る、其貌砲台のことし、水を出ること僅にに《(衍カ)》して四囲岩石にて
 - 第2巻 p.11 -ページ画像 
其頂平坦にして土沙多し、土地極熱なれは草木はなし
夜に入て風涼しく、聊苦熱を忘る
第十時船の左に灯台を見る、亜剌比亜中の小嶼にある港口の標灯なるよし
夜同舟の客中の荷人数多乗組しか、舞躍相催し、舟中頗る雑沓なり
 九月十四日 晴風 木 北緯弐十弐度五十九 東経三十四度四十一 速弐百三十七里 亜丁迄八百三十一里
                          十月廿九日
朝より風逆にして舟行不便なり、されとも風故稍凌よし、午後より風少し強く、船漸動揺す、夕方より風静に〓行穏かなり、夜に入て淡靄ニ而月色朦朧たり
 九月十五日 晴 金 北緯十九度三十三 東経三十六度四十二 十月三十日
朝風なくして海油のことし、船の右に鯨魚の潮を噴を見る、又鮫魚の数魚の数多頭を並へて躍飛するを見る、第十時頃舟中の僕奴雉毛色なる大き鷺を捕へ来る、蓋風に疲れ船中に入て食め《(マヽ)》しなるよし
速二百三十六里亜丁迄五百九十五里
風静にして〓行随意なり、逆風なれとも烈しからされバ夜に入つては涼気其快を覚ゆ
 九月十六日 晴風 土 北緯十九度二十三 東経三十八度五十 速弐百弐十六里 亜迄三百六十九里
                          十月三十一日
朝より逆風強く、天気朗晴なれとも波濤頗る高し、時々両沿に島嶼を見る、午後より風ますます強く、船追々揺動せり、夜に入ては殊ニ甚し
 九月十七日 晴風 日 北緯十三度四十六 東経四十度三十一 速百八十九里 亜丁迄百八十里
                          十一月一日
朝より逆風〓行甚あしし、午後蒸気船の東より来るを見る、時々船の右に小島を見る、風故暑気ハ稍凌よきを覚ゆ、第三時頃亜剌比亜洲の地方を左に見る、一箇の市街白壁の海岸に映するを見る、モツカアといふ市街なり、カツフヘイの名所なりといふ、市街もいと繁華なるへく見ゆ、追々風穏かに〓行随意なり、時々両沿の島嶼を見る
夜に入ては清風涼しく、甲板上の夕涼尤清絶なり
 九月十八日 晴 月 亜丁着               十一月二日
朝七時亜丁着、午飯後一同御供ニ而御上陸、海岸の客舎ニ而一の馬車を雇ひ、市街を御遊行、城門及水溜の場処抔御一覧ニ而御帰船、御慰に駝鳥の卵弐箇を御買上相成
此地四時とも極熱の地にして、土人は衣服も着せすす《(衍カ)》、唯白布を以て腰を纏ひしのミ、毛髪燥爛して夜叉のことく、真に血海九地の赤黒鬼もかくやと思ひはかるなり、先に御越のところ見及しとき、殆奇異を極めしか今更に其異怪を増すを覚ほゆ、此節は時節稍涼き頃なりと覚しか、朝より涼風ニ而苦熱の憂はなし
夜九時亜丁発釘《(マヽ)》、順風ならされとも〓行は随意ニ而、夜気殊ニ清味を覚ゆ
 九月十九日 晴 火 北緯十弐度四十一 東経四十四度四十八 亜より錫迄弐千百三十五里 速百弐十五里 錫蘭迄弐千十里
                          十一月三日
朝より東北の風吹て〓行甚随意ならす、尤風故暑気は稍凌よし、時々
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船の左に亜剌比亜地方を見る、夜に入て風殊に涼し
 九月廿日 晴風 水 北緯十二度五十八 東経四十八度四十一 速二百弐十五里 錫迄千七百八十五里
                          十一月四日
風故船揺動す、されとも暑気は稍凌よし
 九月廿一日 風時々雨 木 北緯十二度五十四 東経五十弐四十四《(マヽ)》 速弐百三十八里 千五百四十七里
                          十一月五日
朝より船頗る動揺し、〓行甚悪し、終日船室に潜居す、時々驟雨来る夜に入ても雨甚し
 九月廿二日 雨 金 北緯十一度五十八 東経五十六度弐十 速弐百十七里 錫迄千三百三十里
                          十一月六日
風少しく静かに船の動揺は稍穏かなり、されとも時々と驟雨来りて殆鬱陶を究む、風雨故暑気は稍減したり
 九月廿三日 風 土 北緯十度五十五 東経六十度弐十七 速弐百五十里 錫迄千八拾里 十一月七日
風猶歇まされとも追々〓行穏かなり、風故絶而苦熱の想なし、順風ならされとも片帆間切ニ〓行稍速なり
 九月廿四日 淡雲 日 北緯九度五十九 東経六十四度弐十五 速弐百三十六里 錫迄八百四十四里
                          十一月八日
風静に波平かなり、〓行随意にして連日の苦を忘る、此日は日曜日なれはとて船将及士官打揃ふて水夫及小遣等迄人別改の儀式あり、朝乗組の僧侶読経の式あり、第十二時頃船将士官共ニ而御案内申上、船中御一覧、器械所食糧貯所、酒置所、冷水製し所、諸布巾類備置所、金銀及重貴之品囲置所、其他船中部屋々々不残御案内申上る、篤太夫御供いたす
 九月廿五日 月 晴 北緯八度四十九 東経六十八度三十八 速弐百六十里 錫迄五百八十四里
                          十一月九日
波濤平穏にして〓行随意なり、微風暑気を消して更に炎熱の苦なし、舟中頗る安然の想をなす
 九月廿六日 晴 火 北緯七度弐十一 東経七十弐度三十 速弐百四十五里 錫迄三百三十九里
                          十一月十日
波濤静にして〓行随意なり、舟中苦熱の厭なし
 九月廿七日 晴 水 北緯六度二十七 東経七十六度十四 速弐百三十八里 錫迄百〇一里
                          十一月十一日
舟中無事記事なし
 九月廿八日 晴 木               十一月十二日
朝六時錫蘭島御着、直ニ御上陸、一同御供、東洋客舎御投宿、午前市中御遊歩、午飯後釈伽《(迦)》埋没之地御一覧、第十二時頃御帰宿、御休息、夜七時夜餐之後海岸御遊歩、壱人の村童を雇へ道案内せしめ、砲台、灯明台其外諸方御遊歩、御帰宿 夜客舎御一泊一同御供ニ而投宿いたす、馬港江《(をカ)》出帆後初而陸地の安眠を得一同快然の想をなす
 九月廿九日 晴 金 北緯五度五十五 東経七十八度六 速十五里 新迄千四百八十九里
                          十二《(一カ)》月十三日
朝七時客舎御発し、海岸より小舟ニ而本船御乗組、第十時発釘《(マヽ)》、此辺は巌高く暗礁多く波濤頗る嶮なり、御出帆の節船の暗礁に触れしとていと大なる響声ありしか、幸に破損所なし、風順に〓行随意なり
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 十月一日 曇時々雨 土 北緯五度五十七 東経八十弐度三 速弐百三十里 新迄千弐百五十九里
                          十二《(一カ)》月十四日
朝より雲多く雨を醸し風強くして舟動揺せり、時々驟雨来る、夜に入て天気稍晴て〓行も追々穏かなり
 十月二日 曇 日 北緯六度十四 東経八十六度壱 速弐百三十四里 新迄千二十五里 十一月十五日
朝より朗晴風順にして〓行随意なり、終日風涼にて炎熱の苦なし夜荷蘭婦人の舞躍会相催し、甲板上頗る繁雑せり
 十月三日 晴 月 北緯六度十五 東経九十度十 速弐百四十三里 新迄七百八十弐里 十一月十六日
朝より風涼しく順風にはあらされとも、片帆間切にして〓行随意なり、第三時頃帆前船の〓行するを見る、夜に入て船シユマトラの海峡に入り〓行別而穏かなり、舟中の旅婦人舞躍会を催ふせり
 十月四日 晴 火 北緯五度四十五 東経九十四度十八 速弐百四十五里 新迄五百三十七里
                          十一月十七日
昨夜よりシユマトラの海峡を〓行すれは〓行殊に穏かなり、されど風少しく、殆炎熱を覚ゆ、午後よりシユマトラ海岸のに《(衍カ)》添ふて〓行す、海辺の樹木及人家抔を認む、夕方より風南に替り、炎熱の苦を忘る、夜に入り電雨《(雷カ)》来る
 十月五日 朝曇夕晴 水 北緯三度三十八 東経九十七度四十八 速弐百五十五里 新迄弐百八十弐里
                          十一月十八日
風少しく、炎蒸殊に甚し、終日シユマトラマアレヱーの海峡を〓行、時々両沿の島嶼及帆前船又は猟船抔の〓行するを見る、〓行随意にして船動揺の憂なし
 十月六日 曇夕晴 木 北緯壱度十三 東経百壱度七 速弐百五十七里 新迄弐十五里
                          十一月十九日
風少しく〓行随意なり、炎熱は昨日と同く、其堪難きを覚ゆ、第二時半新嘉埠着船、此港口ハ島嶼多くして濤路至峡なり、船峡口を入りて島嶼間を運転し、再ひ洋中に出て、舳を転し波塘に投錨す、出入共に運転甚不便なり
第三時半御上陸、港口ニ而馬車を雇ひ、市街御越、御一覧、市街は港口より、凡半里程余にして道邱岳間を経過し、野色田園の景、尤雅致を究む
市戸宏壮美麗ならされとも頗る繁華なし《(りカ)》、支那市店多し、支那人多く住居す、諸館牌照の之《(衍)》類多く支那文字を用ゆ、土人は赤銅色にして頗る強壮なるへく見ゆ、衣服之製稍錫蘭島と同し、第四時四十五分御帰船、御夜餐海辺御遊歩
此辺は四時皆夏なれは草木とも黄落の時なし、尤樹木は総而常盤木なり、夜水辺にて蛍火を見る、水樹に添ふて尤多し、又一奇観なり、時候炎熱中に苦みし身なればさまて奇異の観もなさ《(けカ)》れとも、十月初旬の観蛍火従来未曾有ともいふへく、宇内の宏確《(廓カ)》なる感すへく驚くへし
 十月七日 晴 金 発新嘉埠               十一月廿日
朝電気《(雷)》ニ而暴雨来る、第九時頃より雨稍減しぬれば港口より馬車を雇ひ市街御越、尤一同御供いたす、行程一里許、海辺に臨める客舎オテルヨロツプ御投館、御休息、御昼食、午餐後市街御遊覧、御買上物等調へ、第二時御帰船
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第五時弐十分同港発釘《(マ丶)》、風静に波なく海水如席〓行尤随意なり
 十月八日 晴 土 北緯三度三十九 東経百〇弐度三十九 速百八十四里 柴迄四百五十三里
                          十一月廿一日
微風細波〓行極て随意なり、絶而動揺の憂なし、されとも風少なけれは炎熱つよく午後は尤甚し、夜に入ては稍凌よし、時々小島を見る、帆前船の〓行するを見る
 十月九日 晴 日 北緯七度三十一 東経百〇三度四十四 速弐百四十四里 柴迄弐百〇九里
                          十一月廿二日
微風波穏かにして〓行如席風故炎暑は昨日より稍凌よし、夕方一の孤島の側を〓行す、夜に入ては風稍つよく、殆炎熱の苦なし、されと〓行は極て穏かなり
 十月十日 晴 雷雨 月 柴棍着          十一月廿三日
暁五時頃柬甫塞河の口に至る、夫より河上を遡る、此時水先案内来りて本船に乗移る、河巾はさまて広からされとも水底深しと見ゐて、〓行□《(障カ)》りなり《(しカ)》、河の両縁は緑樹蓊鬱として大きなる林のことし、満潮の時は河水樹根を漬せとも、腐枯せすといふ、尾長き猿多し、第九時半柴棍御着、第十二時小船ニ而御上陸、一同御供、海岸ニ而弐輛の馬車を雇へ商綸と《(マヽ)》いふ古市街御越、この商倫《(マヽ)》といふは紫棍より壱里余程もあるへく一の市街なり、零落せしさまなれとも往昔は繁華をたり《(マヽ)》しと覚ゆ、一の広大なる社あり、聖母殿と漢字にて書しあり、海神を祭りし神社と覚ゆ、社内に支那人の居り《(し脱カ)》かは筆語せしが、能支那文字に通せし人なく、文字往々了解せさりし、御一覧後紫棍御帰、市中御遊覧、写真抔御買上、夫より再ひ小船もて本船御帰着
此日御上陸之頃雷雨はげしかりしか車中なれば一同衣服を湿せしものもなし、甘雨塵沙を潤して炎蒸の苦も忘る、夜に入ては殊に清涼なり
 十月十一日 曇時々雨 火               十一月廿四日
朝七時半御上陸、川に添ふて市街を御歩行、兵卒屯所・製鉄所の辺御一覧、市中に御帰り茶肆に御休息、第九時過御帰船、第十二時柴棍出帆、河に添ふて海口に至る、河口に島嶼多し、先に乗組し水先案内は是より本船を離れ罷帰る、此日終日風強く、海に出し後は波濤頗る高し、時々驟雨来る、夜に入て風弥強く〓行尤悪し
 十月十二日 晴大風 水 緯十一度五 経百〇六度弐十 速百六十里 香迄七百五十五里
                          十一月廿五日
昨夜より勁風怒濤、〓行頗苦難を極む、終日安南地方を左に見る、時時驟雨来る、追々暑気減して御国八月末頃の候を覚ゆ
 十月十三日 大風 木               十一月廿六日
昨日風益強く船の揺動尤甚し、終日〓行ニ而僅に九十里を進みしと覚しか張出しにせさりし
 十月十四日 風雨 金               十一月廿七日
勁風昨日と同しく〓行尤悪し、終日にて僅五十里を〓行せしといふ、昨日より安南地方を離る
 十月十五日 午後晴 土 緯十五度十五 経百〇七度四十 速 香迄四百六十里
                          十一月廿八日
朝より風少し静に 舟行稍速なり、夜に入て風間切りて〓行随意なり、
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暑気次第に減し御国九月頃の候を覚ゆ
 十月十六日 曇 日 緯十九度〇六 経百〇九度〇九 速弐百十五里 香迄弐百四十五里
                          十一月廿九日
昨夜より風間切なれば帆前もて舟行速なり、船の揺動も稍静にして一同聊安然の想をなせり、風涼しくて更に苦熱の覚なし
 十月十七日 曇時々雨 月               十一月卅日
昨夜より再天気あしく風洋《(マ丶)》よろしからす、されと〓行は速なり、午後より香港近海の島嶼を見る、此辺は支那人の海賊多く、総而香港近辺の島嶼中に住し、時々飛脚船又は商賈船の往来を妨け物を盗み去るといふ 夕五時半香港御着、七時頃一同御供ニ而御上陸、ホテルデヨウロツプといふ客舎御投宿、此夜は揺動の憂もなければ一同安眠せり
 十月十八日 曇細雨 火               十二月一日
朝七時半御供之内四人は、飛脚船乗替手筈のため本船に来る、本地より御国迄の飛船はフワーズといふ飛船なり、船の製作異なりて、いと少さく部屋々などいと見苦しく覚ゆ、御部屋及一同部屋等船中掛之者申談し、荷物の積替等相済、第九時半船中ニ而午飯、再上陸して客舎に至る、公子にも最早客舎にて午餐御済なれば、夫より一同御供にて美麗なる支那街を左に杏花楼といふ酒食を饗する料理屋御越、午飯御試酒は雪梨花酒、梅桂酒及種々佳肴を饗す、風味稍御国の味をなせり、唯器皿の清潔ならさるを厭ふ、午飯後菓餅及酸薑抔買調へ、第二時本船御乗組、第五時半頃香港出帆、是迄御乗組ありし飛船より為御暇乞船将士官等罷出る
半時間程島嶼間を〓行せしが、島多く夜中〓行危ふしとて殊に天気あしく風強しとて〓行をとゝめ、此夜は島中に碇泊す
 十月十九日 晴 水 緯弐十弐度三十三 経百十弐度五十〇 速六十一里 上海迄七百八十九里
                          十二月二日
暁六時前より出帆 天気よく風強からされば〓行随意り、濤路島嶼多く、時々漁人の釣し、又は網するを見る、風波少なけれハ漁船多く、頗風景よし、終日広東の地方に添ふて〓行す、夜七時頃より器械破損せしとて〓行をとゝむ、夜に入ては月明微風尤良夜を覚ゆ
夜七時頃より器械破損せしとて、〓行をとゞむ、頻りに修繕に取掛り終夜洋中に碇囗《(泊カ)》せり
 十月廿日 晴 木               十二月三日
昨夜破損せし機関修繕覚束なしとて暁より楫を転し、香港に帰帆、同所ニ而別船に乗替、再航すへしとて第六時頃より帆前ニ而香港に引返す、帰航なれば順風なれとも器械なけれは〓行遅緩なり、夕方より風少し強く舟行稍速なり、夕方此辺の島中に浮める漁船を雇へ《(ひ)》香港飛船会所江此変事を報告す
 十月廿一日 晴美晴 金               十二月四日
暁の頃香港地方の島嶼多き地に至り此よりは島嶼多く器械なくては〓行なしかたしとて碇を下し、〓行をとゝむ、バツテーラニ而香港に此段を報告す、第一時頃迎船として川蒸気来り、同時出帆いたす、香港帰着之上此迄乗組来りしアンペラトリースニ而御国迄〓行すヘきよし申送る、第三時香港着、直ニ同地の飛脚会社《(飛脚船会社カ)》之者罷越、夫是談話、夜
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餐後アンヘラトリース船へ御乗移、此終夜荷物抔積替るとて雑沓絶ゐさりし
 十月廿二日 美晴 土               十二月五日
此日美晴、軽風殆晩春の候のことし、第八時半御上陸、香港街なる前に御止宿あり西洋客舎ニ而御午餐、石見守・篤太夫・平八郎・涌之助御供、午飯後諸方御遊歩、第十二時半御帰船、本船の出帆第一時のよし、船将より申上置しか石炭積入其外支度整兼しニ付、暫時遅刻之由再ひ申上る、第四時本地出帆海峡を出て地方に添ふて〓行す、風少しく天気よく船行平穏なり、夜濤路の左右に漁船数多を見る、本船の過る時は松火を点してこれを避く
 十月廿三日 晴風 日 緯弐十弐度五十九 経百十四度四十九 速百八十弐里 上海迄六百十八里
                          十二月六日
暁より逆風強し、されとも天気朗晴にして〓行さして妨なし、此辺地方を去ること遠からされハ濤路の左右に漁舟多し、終日支那地方を船の左に見る、時々帆前船の〓行を見る
第四時半頃海上の突立せる巨巌の辺を〓行す、終日風はけしく波濤高し、されとも船大なれは揺動は至而穏かなり、夜に入て風追々静かに〓行随意なり、船の左右に数多の漁船を見る
 十月廿四日 晴風 月 緯弐十五度弐十六 経百十七度三十八 速弐百十二里 上海迄四百〇六里
                          十二月七日
朝来美晴軽風〓行随意なり、終日船の左に支那地方を見る、洋中静かなれは多く漁舟の洋中に碇泊して漁するを見る、帆前船の香港に航するを見る、夕方蒸気船の〓行を見る、亜米利加の飛船なるよし終日風穏に船の動揺なし
 十月廿五日 晴 火 緯弐十八度四十三 経百十九度五十一 速弐百弐十八里 上海迄百七十八里
                          十二月八日
美晴昨日と同し、追々寒気増して甲板上の風寒の苦を覚ゆ、地軸の北移せしこと可識なり、終日船の左右に数多の漁舟を見る、夜の洋中に屹立せし巨巌に際して〓行す、波平にして舟行席の如し
 十月廿六日 晴 水               十二月九日
暁より黄河《(マヽ)》の口に入る、海色黄濁なり第八時河上にて暫時〓行を歇む、蓋河底浅くして〓行随意ならさる為なりといふ、本船はいと巨大にして殊に初而の〓行なれは、濤路詳かならさる故船洲上に輾りて〓行なりかたしとて様々に手を尽し荷物其他附添たる小舟抔を下し、碇舶なから船の洲中に糊附せさる用意をなし、船中甚繁冗なり、午後に至りて船を傾け、殆顛覆するはかりになし置ぬ、夕方より潮満れともいまた〓行出来す、此日は空く同所に碇舶して日を過したり
 十月廿七日 曇 木               十二月十日
暁七時頃より漸船の運転を初めしか、水浅くして随意ならす、されとも多少の骨折にて漸〓行せしか、朝来霧深く濤路分ちかたしとて又〓行をとゝむ、第三時半頃より霧少し晴たれハ船を出し、第五時半ウゾンと《(いふ脱カ)》地に至り碇舶す、夕餐後第八時頃川蒸気ニ而呉菘江を御登り、一同御供、十時過上海御着、ホテルデコロニイといふ仏国客舎御投宿
 十月廿八日 曇 金               十二月十一日
 - 第2巻 p.17 -ページ画像 
朝九時朝餐相済客舎に接近せる飛脚船会社江罷越、本地出帆の刻限承合せしに明朝六時川蒸気当地出帆本船江の旅客案内すへき旨相答、夫より一同御供ニ而上海城中御越、尤内六人は今夕本船江罷帰へきニ付、城中ニ而御別れ申上、渋沢篤太夫・服部潤次郎而已御供ニ而文具本籍筆墨の類御買上 御帰路城隍廟中の湖心亭ニ而御休息、御茶菓抔召上、第三時帰宿、此時石見守始六人は本船へ罷出る、御留守中米田□次郎と申元歩兵頭並(コノ間他事ヲ記ス―編者)相勤候者、当地に来り居りし旨ニ而罷出候由申上る
第四時頃再御発ニ而仏国商事市店御越、御買上、夕五時頃御帰宿、御帰後直ニ圭次郎罷出る、御逢有之御国爾後之模様同人見聞之処逐一申上る、夜孛漏生人ス子ルといふ者罷出る、御逢有之、会藩一柳幾馬外壱人罷出る、篤太夫面会京師変動以来之情態承及ふ
 十月廿九日 曇 土               十二月十二日
朝第六時半客舎御発し、旅宿の前なる波塘場より会社より差出せる川蒸気御乗組、第七時出帆、第九時頃本船御着、第十時発釘《(マ丶)》楊子江を下る、夕第四時頃河口に至る、海色初而清めり、終日〓行随意にして船の動揺なし
 十月卅日 晴 日 緯三十一度十六 経百弐十三度弐十七  速弐百弐十里 横迄八百十五里
                          十二月十三日
暁より器械破損して〓行をとゝむ、されとも順風なれは帆前にて一時間五六里を行といふ、夜八時機関修繕せしとて〓行す、夕方より風強く舟行快よし、夜風烈しく雨来る
 十一月一日 晴 月 緯三十度五十八 経百弐十八度 弐百三十六里 横迄五百七十九里
                          十二月十四日
暁より日本南陲の島嶼を認む、第八時頃モンシケンといふ島の辺を〓行す、夫より硫黄島・竹島を際して〓行す、海門岳《(開聞岳)》を船の左辺に認る、追追薩隅南辺の諸山を見る、風強く舟行速なり
  三ツ部屋 弐ツ中檀 弐ツ下檀入 〆七ツ
 十一月二日 曇 月 緯三十弐度四十八 経百三十弐度四十四 速弐百八十里 横迄弐百九十九里
                          十二月十五日
暁より四国辺の諸島を見る、風静なれとも逆風となりて舟行昨日より遅し、夕方に至り風洋よく紀州辺の諸山を見る


渋沢栄一 日記 自明治元年十一月三日 至同二年正月十八日(DK020001k-0004)
第2巻 p.17-23 ページ画像

渋沢栄一 日記 自明治元年十一月三日 至同二年正月十八日 (渋沢子爵家所蔵)
 十一月三日 晴 火               十二月十六日
風静にして〓行席のことし、暁より富峰を見る、山の半腹迄白雪に掩はれ旭日に映して恰も銀山のことし、尤快然の想をなせり、午時頃伊豆七島を際して〓行す、浦賀港を船の左辺に認む、追々相房の湾口に入る、第二時頃本牧の鼻を〓行す、初而横賓《(浜)》の湾を認む、第四時半横賓《(浜)》御着船、直ニ駿府より罷出し御迎として杉浦愛蔵・浜中儀左衛門罷出る其外塩田三郎・保科俊太郎・川路太郎抔或は仏国士官に雇はれ居り、又は帰国せしとて様々の姿ニ而罷出る、仏国公使の使として冶部助といふ通弁官罷出る 但仏人なり 公使館御訊問の儀申上る、第六時半御越之積答差遣す、水戸表より罷出し御迎之者手筈打合として井坂泉太郎上陸
 - 第2巻 p.18 -ページ画像 
夜八時頃御迎之者一同帰来る、夜に入たれは仏国公使御訊問は御見合ニ而直ニ御上陸、小舟ニ而神奈川御越、杉浦愛蔵諸事取扱として御供いたす
渋沢篤太夫・浜中儀左衛門は横賓《(浜)》上陸、明日荷物請取方御為替取組の手筈のため同所一泊いたす
篤太夫夜川路太郎旅宿を横浜ニ而訊問、田辺太一罷来り終夜旧情を話す
此夜儀左衛門は小舟もて神奈川へ罷越す
 十一月四日 晴 水               十二月十七日
朝神奈川御発し、小舟ニ而品川宿御上陸、御迎の御馬等も罷出居、御乗切ニ而小石川御館御着
仏国より御附添せし御供も御迎之者御乗馬、御供の外は歩行ニ而小石川江罷越す
昨夜元神川《(奈脱カ)》調役組頭其外新政府御用取扱之者御旅宿江罷出、差上品有之ニ付被下物いたす
篤太夫は朝五時半頃より伊東玄伯を尋ね、御供ニ而東京行の申談いたし夫より昨夜申談置し船場ニ而船を雇へ 飛脚船に罷越 荷物請取方取扱、第十二時頃杉浦愛蔵・浜中儀左衛門御立払相済しとて飛脚船へ来る、第四時半頃荷物請取済ニ而水戸表より罷出し、上乗の者に荷宰領為致、篤太夫外両人は横賓《(浜)》上陸いたす、夜愛蔵・篤太夫、田辺太一宿所へ罷越す
 十一月五日 晴 木               十二月十八日
篤太夫は愛蔵同行ニ而仏国公使館に罷越し、治部助面会、公子仏館御越なき挨拶いたし、夫より御買上物及御為替金手筈いたす、儀左門は御残荷物四箇を飛船会社ニ而請取、積出し取計、夕方横浜出立三人同行竹兜子ニ而金川着、鈴木といふ客舎一泊
 十一月六日 曇 金               十二月十九日
朝篤太夫・儀左衛門小舟ニ而横賓《(浜)》罷越、御為替金残御用取扱英国東洋為替所等罷越し、夕五時頃御用済金川着、其夜三人共同所一泊いたす此夜駿君東京府御越ニ而同所御旅館あれハ三人共御旅館罷出、其筋之者面会、公子御着の手続逐一申立る
 十一月七日 晴 土               十二月廿日
朝三人共神奈川発し東京府罷越す、此日は西国の藩士北国の戦争相済しとて引揚る兵隊多し、総而元込の小銃を携ひ、服色は銘々の勝手次第と見へて種々の風俗なり、品川の宿頭ニ而儀左衛門に別れ、愛蔵・篤太夫は夕六時頃礫邸着、御殿内ニ而一泊いたす
着後両人とも拝謁被 仰付品々と申上る
 十一月八日 晴 日               十二月廿一日
朝拝謁、御供にて後楽園といふ邸中の御庭拝見被仰付、午後儀左衛罷出三人同道ニ而田安御殿罷出、森川荘次郎面会、夫より明神下ニ而西吉十郎を訪ひ、面会同行ニ而麦斗といふ楼ニ而一酌いたす、夜る時雨来る
 十一月九日 曇 月               十二月廿二日
朝西吉十郎面会、夫より杉浦愛蔵縁戚の両国広小路を尋吉田次郎面会い《箱舘の新報承る》
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たす
夕方独行ニ而梅田慎之助を尋、留守中ニ付婦人面会、折節郷里の従妹罷越居りしとて呼寄、面会旧話徹夜
 十一月十日 晴 火               十二月廿三日
朝礫邸江帰る、御用荷物不残到着、取調引取内連発銃赤松大三郎頼之分壱品不足いたす
夕細井□吉罷来る
杉浦愛蔵来る、滞留中宿所之儀取計之旨申聞る
 十一月十一日 晴 水               十二月廿四日
朝より荷物御開きいたす、御為替之儀ニ付三ツ井呼出し申談す
野村彝之助面会いたす、井坂泉太郎同行
山髙石見・小出涌之助江書状遣す、夜深川出火
 十一月十二日 晴 木               十二月廿五日
朝横浜行之儀ニ付、泉太郎申談いたす
ヒストル三四挺、銀時計五ツ計御買上之積申談有之
荷物調分いたす、三ツ井手代来る、金子受取、杉浦愛蔵来、黄行之儀申談、明後十四日出立之積申談、諸勘定いたす
吉田次郎来、仏行書状之儀申談
 十一月十三日 曇時雨 金               十二月廿六日
 一散弾 大小取交 三袋計
 一西洋墨     壱壷
 一沓塗油     壱壷
 一銀時計     五ツ斗
 一ヒストル    三挺程
 一シヤスポウ之弾 四挺分
 一牛肉 森川荘次郎分塩田へ引合之事
朝小出涌之助家来木村忠三罷出、諸荷物勘定書及金子等相渡、引続き山髙石見来る、荷物金子勘定書等相渡
杉浦愛蔵来、博覧会残品同人立会取調浅草森田丁瑞穂や卯三郎方差立る、但荷数十箇此車代金四両弐分相払
横浜行之儀ニ付井坂泉太郎より同行之者召連面会いたす、第二時頃愛蔵同行田安御殿に出
御印章之儀森川荘次郎へ申立、御留守居方引合およふ、明朝受取可相渡旨申聞る、夫より駿河台川勝近江尋問面会、帰路柳原梅田を訪ふ、夫より明神下に罷越、杉浦面会、同所一泊いたす
 十一月十四日 風雨 土               十二月廿七日
朝礫邸へ罷帰り、支度を整ひ出立之手続いたす、御用之儀ニ付公子拝謁いたす、第十時礫邸を発し、同行三人ニ而田安御殿へ出印章を受取夫より登途雨降、路あしけれは駕を雇へ、第一時頃品川着
 弗九千百八十九枚四分八厘 但壱弗 四十九匁九分四厘
 此金七千六百四十八両弐分三朱弐百三十弐文
 残金三百五拾壱両壱分一朱也
此日風雨強く寒威甚し、第五時半頃川崎着、藤やといふ駅舎に投宿、夜に入て雨歇て風稍静なりしに寒威は更に烈し
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 十一月十五日 半晴               十二月廿八日
朝七時頃客舎を発し神奈川に至り、宮の河岸より用船を雇へ第十二時頃横浜着、駒形町幸二屋清兵衛といふ者、水戸御用達山中隣之助知合ニ付投宿、午飯後仏商モス子方罷越、銃一覧、夫より亜壱番ニ而英銃シナイドル一覧、此日洋銀買上之積なりしが相場髙直なれば見合せぬ
夜に入、裁判所に至り、到着を届、印章引替を請ひ、夫より仲通丸屋方尋問七時頃幸二や帰宿
 十一月十六日 曇               十二月廿九日
昨日一覧せし銃決議相成兼ニ付、買上方之者より昨夜東京礫邸へ伺相立たれば此日ハ右報答あるまで閑暇なりとて、午時頃塩田三郎を訪ひ、フロリヘラルト行書翰之儀相托す、田辺太一・富永市蔵抔相集りて旧を話す、夕五時頃田辺太一、伊東玄伯を同しく佐野やといふ茶肆ニ而一酌、其夜丸屋方一宿いたす
 十一月十七日 曇               十二月三十日
朝山中隣之肋丸屋迄来る、洋銀買上方取斗、三ツ井ニ而邦金を渡し、夫より亜壱番の商舘へ越し、シナイトル銃直段申談、折節瑞西九十番に同断之品有之、下直之由ニ付同所に罷越、一覧、直段取極三百六十挺買上之積取究、代金相渡、約定を取替せいたす、夜に入て幸二屋帰宿
 十一月十八日 晴               十二月三十一日
朝より空晴て寒威更に甚し、第八時頃塩田三郎を訪ひ、フロリヘラルトへ差出候書翰本書並訳書とも出来、三郎へ托し冶部助へも一応申談仏国差出方申談
御直書洋書翰ウツトレイ相渡候分三郎へ托す、外ニ仏国行二封篤太夫コロ子ルへ私状とも同人へ相托す
飛脚船商社より小連発銃同所に有之旨ニ而三郎へ書翰来り、有之ニ付請取
午後連発銃請取方ニ付海岸十番飛脚船会社へ罷越、品請取、夫よりモスネ方立寄、私用買上物いたし、瑞西九十番商館へ罷越す、いまた弾丸上陸なく、引取方難出来ニ付、夫より瑞西の洋店ニ而時計四ツを買上、夕方九十番ニ而銃弾箱請取方いたす、夜に入裁判所へ相越東京行の印章を請ふ、小連発銃之儀申達す、夜七時頃幸二屋方へ帰宿
 十一月十九日 美晴               千八百六十九年 第一月一日
昨夜運送方へ請取し品物相渡し、朝連発銃も請取之積申談せしに、篤太夫ならてハ渡方不相成旨ニ付、東波塘場に罷越、連発銃の箱請取、海岸に来り積入の手筈取扱、森川より相頼まれし牛肉及買上し反物は上乗の水人に相托し届方申談す
廻船の手筈よろしく荷物改方等波塘場に相済たれは、夫より一同ニ而午飯をいたし、第二時頃横浜出立、乗合船ニ而第三時頃金川着、下田屋といふ客舎投宿
  銀丁二丁目西山幸助
 十一月廿日 晴               一月二日
朝六時金川を発し、駕を命し、川崎を経品川に至り、夫より歩行ニ而二時頃中橋山中隣之助宅に至る、松代藩横田数馬といふ留守居面会、午飯終て四時頃明神田僑居《(下カ)》に至る、時に杉浦は外出にて北堂の留守せし
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かは、帰着を言て一同の無事を祝し、夫より御買上品持参ニて礫邸に至る、民部公子に拝謁数々新聞抔申上る
昨日公子水戸御相続之儀相済し旨被仰聞、夜に入て水邸を罷り明神下帰宿、杉浦面会
 十一月廿一日 曇               一月三日
朝梅田慎之助を訪ひ、郷里より来りし藤十郎といふ者面会いたす、いまた郷里より書状の報告なかりせは同人に托し、品物及消息等申通度とて其日書翰を認め、明後日同人帰省之積申談す、午飯後礫邸に罷越し、御用荷物仕訳いたす、夕梅田に来り 藤十郎面会 帰省之手続申談す、此夜梅田一泊
須永乕之助来会
 十一月廿二日 曇               一月四日
朝梅田ニ而文作に逢ふ、須永も来会す、旧情を話す、杉浦来る、同行ニ而田安御殿に至る、織田和泉及中老列座ニ而仏国之御用向手続申立る、森川面会、夕方礫邸に至り、御買上の鉄砲来着せしニ付、改方いたし帰宿、帰路川勝近江方尋問
 十二《(一カ)》月廿三日 晴           一月五日
朝郷里大人着之由ニ而梅田より使之者来る、直ニ同所に相越、大人に逢へ、旧を話し、終日梅田ニ而休息、須永子来会、此夜梅田一泊
藤十郎明日郷里、出立ニ付荷物相托す
 十一月廿四日 晴               一月六日
朝飯後梅田を発し、礫邸に至り、御買上品来着取調、御用荷物仕訳いたす
第三時頃明神下僑居帰宿、田辺太一来
此夜大人僑居ニ而一宿いたす
 十一月廿五日 晴               一月七日
朝福地源一郎来、午餐後杉浦 福地同行田安殿に至る、森川面会、中老織田和泉に逢ふて公子御内御用之儀申談す、帰省之儀願差出す、第四時頃礫邸へ出る、明日仏行御供之者一同罷出候様被申渡
栗本仏行勘定書之儀ニ付、明後廿七日田安殿可罷出旨相達す、夕方帰宿 此夜伊東玄伯之招に応し 杉浦同行 両国川長といふ割庖楼に至る
夜十一時頃帰宿
 十一月廿六日 晴               一月八日
朝梅田に至り、衣服仕立之儀注文いたし、夫より杉浦同行和泉橋を渡り杉浦と別れ、元鳥越小出涌之助宅訊問、母及弟抔面会、御変遷以来同人共苦心之事共を話す、夫より明神下帰宿、第三時頃伊東玄伯来、大人の持病胗察《(診)》夕方愛蔵、玄伯と伴ひ礫邸に至る、山髙八郎も来会、御前ニ而御酒肴被下、御手酌ニ而種々御饗応有之、退散之節一同へ被下物有之、此夜明神下辺出火なれは酔を勉て帰宿、焼失は中御徒士町ニ而漸安堵の想をなす
 十一月廿七日 晴               一月九日
郷里大人帰郷いたす、午飯後田安御殿に出る、織田和泉面会、民部公子御内用之儀申談す、森川栗本等不罷出ニ付、明日篤太夫、栗本方可罷越儀申談、夫より礫邸に至り昨日之謝詞申述、荷物仕訳残取調いたす
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夜に入明神下帰宿
 十一月廿八日 晴               一月十日
朝浜中義左衛門来、同行ニ而大塚栗本を訪ふ、明日同人出殿諸事可申談旨相約す、午飯等相調へ、浜中と別れ、駕を命し両国吉田屋に至る杉浦面会、同行ニ而番場町田辺を訪ひ、卯三郎邂逅、四人打連て河津伊豆の住居せる元酒井左衛門尉別業を尋問、庭園を一覧、夜に入河津の娘に洋服試験の挙を遂
夜半過より深川に至り一泊
 十一月廿九日 曇               一月十一日
暁舟ニ而深川を発し、筋違ニ而上陸、帰宿、篤太夫ハ直ニ礫邸に至り御内命等被仰付被下物拝領
 御小性頭取
 柴田章彦
 御小納戸
 今井与左衛門
外ニ荷物等調分いたし、包立之上明神下迄差立取計、夫より田安御殿江出《(帰カ)》郷省願済諸事引合相済、夕方より麦斗ニ而小酌、田辺塩田其外両人来
 十一月卅日 晴               一月十二日
朝帰省支度相整、四ツ半頃明神下発、此日大村昇之助といふ者召抱、但須永於莵之助より被相頼ニ付召連る、外ニ幸蔵といふをも相随ひ、夕方浦和宿に至一泊
 十二月朔 晴               一月十三日
暁七ツ時浦和発、鴻巣宿ニ而午餐、夕六時過に至、深谷着、福岡春清為出迎、並木迄罷出る、隣家の少年両三輩、途中迄罷出、夜五ツ過帰着、渾家及近隣諸親一同相集り、別離以来之情緒を話す、鶏鳴に至退散
 十二月二日 晴               一月十四日
朝より諸方知音之者相集り、頗る雑沓を究む、此夜尾髙新五郎来、幸五郎其他同行いたす
 十二月三日 晴               一月十五日
朝召連来りし幸蔵を東京へ差帰す、杉浦へ一書差遣す、諸方土産物之調いたす、福岡春清来る、諸近親之者集来、夜手計藍香を訪ふ、新宅へ尋問、忠三郎・尽五郎其他来集、夜二時頃帰宿
 十二月四日 晴               一月十六日
朝より諸近隣之者つとゐ来り、仏国に在りし事共相話す、昨日より本家之折合行届ければ、夜常太郎同行ニ而罷越す、宗助父子及婦人共不残面会、旧を話す、此夜新地九一郎、福田治助兄弟来る、洋州の事共論話いたす
 十二月五日 晴               一月十六日
午時より近隣を訪ひ、新田吉岡に至る、伊勢崎細野の妻来りしより、帰宿面会、夫より新宅市五郎の宅を訪ひ、前の内ニ而午飯、隠居に至り、老叔父に逢ひ旧を話す
 十二月六日 晴               一月十七日
朝支度を整、土産物諸親へ送り遣す、午後成一郎の宅へ相越す、老叔
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父留守中ニ付、直ニ帰宿、夜新屋敷叔父、藍香及近隣旧交の者数人来る、明日出立之積ニ付別を惜み再会を約す
 十二月七日 曇               一月十八日
朝旅装相整ひ、八時頃発途、渾家一同相送り、諸親之者数多相伴ふて深谷宿に至り、春清方ニ而休息、夫より駕に乗り、送り来りし者共に別る、陌頭ニ而新野村善助面会、熊ケ谷宿ニ而午飯、夕鴻巣宿着、本陣へ投宿、此夜風邪気ニ而頗る煩悶せり
  ○コノ日記ハ前ニ掲ゲタル自慶応四年六月十四日至明治元年十一月二日ノ日記ニ続クモノニシテ、別冊ニ記サレタリ。西洋手帳ニシテ表紙ハ黒色布クロース張、見返ハ赤藍マーブル模様、用紙方眼紙七十七枚、縦五寸一分、横三寸四分、全部鉛筆書ニシテ、日記ノ末尾ニハ勘定書七枚アリ。
   手帳ノ形ヲ示セバ左ノ如シ。
5寸1分 3寸4分 1寸8分 2寸2分 表紙、黒色布クロース張 見返し、赤藍マーブル模様 用紙、方眼紙七十七枚 縦五寸一分 横三寸四分 差込鉛筆 赤色細軸 径二分


竜門雑誌 第三二七号・第一九頁 〔大正四年八月〕 【実験論語処世談」(三)】(DK020001k-0005)
第2巻 p.23 ページ画像

竜門雑誌 第三二七号・第一九頁 〔大正四年八月〕
○上略 私の仏蘭西から帰朝した時には、勿論大政奉還後で、徳川家へは七十万石の藩を天朝から静岡に賜はつたのだが、当時なほ榎本武揚の一隊が函館に籠り、一ト旗挙げて騒いでる頃であつた。神田の錦町に静岡藩の役所があつたので、私は帰朝後其処で勝伯と数々御会ひしたものである。
当時、徳川家が朝敵名義で懲罰にならずに済み、静岡一藩を賜はるやうになつたのも畢竟勝伯の力である、又勝伯を殺さうとす《(る脱)》ものが幕臣中に数多くあるに拘らず何れも伯の気力に圧せられて近づくことが出来ぬなぞと、伯の評判は実に嘖々として喧しいもので、私も亦当時は些か自から気力のあることを恃みにして居つた頃であるから、気力を以て鳴る伯とは好んで会つたものである。然し、当時の私と伯とは全然段違ひで、私は勝伯が《(か)》ら小僧のやうに眼下に見られ、民部公子の仏蘭西引揚には、栗本のやうな解らぬ人間が居つたんで嘸ぞ困つたらう然し、貴殿の力で幸ひ体面を傷けず又何の不都合もなく首尾よく引揚げ得られたは結構なことであつた、なぞと賞められなんかしたものである。
  ○右ハ栄一ノ談話「実験論語処世談」(三)ノ一節ナリ。


竜門雑誌 第四四二号・第一―五頁 〔大正一四年七月〕 【諸々の回顧(二)】(DK020001k-0006)
第2巻 p.23-24 ページ画像

竜門雑誌 第四四二号・第一―五頁 〔大正一四年七月〕
○上略 勝伯とは余り親しくはして居なかつた。ただ、江戸が東京になる当時の勝伯の態度、或は江戸城で西郷さんと会見し、それを引渡す時の取扱方等には予て感心して居た。海軍奉行時代の勝伯の人物も学説
 - 第2巻 p.24 -ページ画像 
も行動も先づ知らなかつたと云つた方がよいが、其後まで疎遠であつたのではなく、私が欧洲から帰国した時、神田小川町の静岡藩の出張所でお目にかゝり、親しくその人格なり風采を見知つた、でその時勝伯は静岡藩の元老であつたから、民部公子のことに就て聞いたり、聞かせたりしたのである。即ち公子が渡仏中、締盟国たる仏・英・伊・和・白・瑞の諸国を訪問せられた有様とか、その当時の事情とか、先方の接待の模様などを、細々と聞かれ、また民部公子が水戸のお世継になられたことや、御一新の事情などに就て、色々のお話があり
 「君の留守中に斯様なことになつたが、これも平生の油断からである、要路にある者はよく考へねばならぬことである」
と当時奉行であつた栗本安芸守などの批評もしたのであつた、私は之等の話を聞いて、勝伯といふ人は、大勢に明かな人である、手腕のある人であると思つた。○下略
  ○右ハ栄一談「諸々の回顧」(二)ノ一節ナリ。


竜門雑誌 第四四〇号・第七―八頁 〔大正一四年五月〕 【諸々の回顧(一)】(DK020001k-0007)
第2巻 p.24 ページ画像

竜門雑誌 第四四〇号・第七―八頁 〔大正一四年五月〕
○上略 私は仏国から帰朝したが、新政府に対して不愉快に思はぬではなかつた。併し私の友人の内には新政府に仕へた人もある、中にも中井弘蔵(桜洲山人)と云ふ人の如き、前から攘夷討幕論者で家塾などを開いて居た、多少法螺を吹くが気持の好い男で、新政府では相当な地位の役人になつて居たのである。私の帰朝した折手紙をよこして会はうと云つて来た、また新政府に仕へた者には松本暢と云ふ人も居た、松本は京都で私を訪ねてくれたことがあり、その時には頼支峯の門人で、書生と同伴で何処へでも行く、文筆も立ち、気持もさつぱりした人物で、維新後二十年頃まで親しくして居た。丁度私が帰朝した時分、水戸屋敷へ行かうと歩いて居ると、一人の武士が二人ばかり伴を連れて歩いて来る。そして「渋沢さんではないか、片目でよく判らないが」と云ふ。私もよく見ると松本であるから「やあ」と答へると、「今役所からの帰りだが、私の処へ泊らぬか」と云ふので、一しよに行くと旗本屋敷だつたと云ふ広やかな立派な家で、かなりな生活をして居るらしく、書生も三四人置いて居た。種々と話しをし将来の方針を聞かれたりした。私は新政府に仕へるのは好ましいことだとは思つて居なかつた、○下略
  ○右ハ栄一談「諸々の回顧」(一)ノ一節ナリ。


竜門雑誌 第三三九号・第四六頁 〔大正五年八月〕 【第一銀行頭取辞任】(DK020001k-0008)
第2巻 p.24-25 ページ画像

竜門雑誌 第三三九号・第四六頁 〔大正五年八月〕
○上略 去る七月三十一日の夜、埼玉県人同郷会の席上で、曾て第三十二銀行の取締役なども致して私とは同業の間柄となり、数々往復も致し且つ私とは同年輩の本年七十七歳に相成らるゝ山中隣之助氏と会したが、同氏の懐旧談によれば、私は仏蘭西より帰朝してから、まだ間も無い時に、同氏が水戸藩の為に鉄砲購入の用務を帯び横浜に趣く途中同行した事があるさうで、その際同氏は「欧羅巴帰りの御身故定めし新政府より重用せられて栄達を遂げるだらう」と私に問ひかけでもしたものか、私は「イヤ‥…断じて新政府には仕へぬ。私は自分でバン
 - 第2巻 p.25 -ページ画像 
クをやる積だ」と同氏に話したとの事である。当時は山中氏は「バンク」とは何の事か解らなかつたが、明治六年に至り私が第一国立銀行を創立したので「なるほどバンクとは之れの事であつたか」と初めて覚るを得たとの事で、私に帰朝当時仕官の意が無かつたのは、之によつても保証し得らるゝと山中氏は談られて居つた。
私は、仏蘭西に留学するや、経済学及び経済組織等を彼の地で充分研究して帰朝したいものと思つてたのであるが、御一新の為め僅に一年有余で帰朝してしまつたので、それ等を学得して帰るまでの余裕が無かつたのである、然し、強国の基は経済にあるといふ事理の精神だけは十二分に感得し、之を懐いて帰朝したものだから、まづ合本組織の事業を起さんものと、帰朝後その第一着手として、官民合同の「商法会所」を静岡に発起し、金融業と商業とを兼ねたやうな事業を開始したのである。○下略
  ○右ハ「第一銀行頭取辞任」ナル談話ノ一節ナリ。


渋沢子爵三野村利左衛門関係談話筆記(DK020001k-0009)
第2巻 p.25-27 ページ画像

渋沢子爵三野村利左衛門関係談話筆記 (三井文庫所蔵)
 利左衛門翁のお話を私の古い記憶に依つて申述べろと云ふお望に対して心に思ふ限りを遠慮なくお話するやうに致したいと思ひます。過去つたことだから或は記憶に間違ひないとも云へませぬ。又其間に後から考へると斯んなこともあつたと云ふやうな事項も少なからんと思ひます。或は前後することもないとも申されませぬ。総て心に思つて居ることを成るたけ率直に極く遠慮なくお話しやうと思ひます。
私が身柄をチヨツトお話せぬとお話の続きが出ませぬから、故利左御門翁と関係のない事ながら、何故利左衛門翁に御目に掛るやうになつたかと云ふことを御話する為めに自分の身の生立を概括述べます。渋沢は極く低い百姓の子供で若い時分から少し漢籍等を修めた、所謂利かぬ気の子僧であつたらうと思はれます。で、京都に行つて一橋の家来になつて新参ながら多少一橋の重立つた人から用ひられて彼是する中に慶喜公が将軍になられて、家茂公が死なれた為めに慶喜公が将軍となつた。で、一橋から幾らか役に立つと云ふ種類の人を召連れられると申すか、兎に角一橋から幕府に引連れられて行つた。其一橋と云ふのは御厄介のやうな十万石で以てホンの家督の用意に立つてある家でありますから、一橋ばかりでなく、田安も清水も御三卿と唱へて、其家に慶喜公があつた。而して此人は木戸烈公の子で其時代の政治界には彼是矢釜しく言はれた人であるから、併し是が十五代将軍になられて、其為めに重立つた人には梅沢孫太郎と云ふやうな人が居りましたが、私共は低い方の位置であつたが、一橋の家来が幕府の方に召出されて、私は陸軍奉行調役と云ふものを勤めて居りました。其中に二、三年経つた位でありませう、仏蘭西に万国博覧会で《(が)》ある、それは西暦で千八百六十七年、即ち日本の年号で云ふと、慶応三年、でもう各国とは通商条約の出来て居る国柄であり、殊に其時分の仏蘭西と徳川幕府とは最も親しかつた、向ふはナポレオン三世、例の初代のナポレオンから嗣を継いで三代目になりましたが、大分な老人で、欧羅巴では中々勇を鳴して居つた人であります、日本に来て居つた公使がロセス
 - 第2巻 p.26 -ページ画像 
仏蘭西の言葉ではロツシユ、其人が此時分の日本の駐在公使であつた是が中々の人物で是等の話は信用しても宜いだらう、若し段々と是が話が進んで行つたらそれこそ日本は飛んだ間違ひを惹起すやうになつたのです、是は余談であるから、そんなことは書かぬ方が宜いかも知れぬが、丁度其時分に薩摩は頻りに英利西に親んだ、それから長州、初めは英利西と喧嘩したが、今や斯うなつてきたらどうしても外国と交通をしなければならぬと云ふので、是も英利西に親んだ、ですから薩長は英利西、幕府は仏蘭西である、丁度英利西と薩長が親しむと同時にレオンロセスは頻りに幕府に仏蘭西と親しくなることを忠告した それで栗本とか平山とか、是等の人々は中々に仏蘭西との縁故が強くあつた、それで若しそれが進捗すれば、幕府と薩長とが相対することになれば、どうしても御承知の南北朝が出来る、南北朝と云つては悪いが、今頻りに新聞にも南京の騒動とか出て居るが、あの有様を演ずることは雑作なかつた、流石に此点に付ては御厚意は有難いがと云ふことで抜目はなかつた、どうしても此日本を其処に何されてはならぬからと云ふことで、ロセスの御親切は有難いが其忠告を退けまして、さうしてよう仏蘭西と結ぶことをせなんだ、為めに徳川は潰れたけれども、併しながら国は両派に分れて相共に極く悪く云へば、泥合戦をやられたと云ふことは誠に気の毒です、是は利左衛翁の御話には余計なことでありますが、今の仏蘭西の博覧会と云ふものはどんな有様であつたなかと云ふことをお話するには自ら日本に対しての縁故がさう云ふ状態であつたと云ふことを一寸御話せぬと能く分らぬものでありますから、而して是非其時の博覧会と云ふものには締盟各国から相当な代表的な人が来て呉れるやうにと云ふことで、一応望むのは勿論で近頃はあんな大きなことはありませぬが、以前のゼノワ会議でも、或は此後亜米利加が軍縮会議をゼノワで開かれる、日本より三国交渉と云ふことで行くのでありませうが、今のお話はそれよりは大きなことでありまして、ナポレオンが各国から多くの代表者を呼ぶと云ふことで日本よりも来て呉れと云ふことを云つて来たものでありますが、殊に慶喜公としても是から先は西洋と相当交りをし、さうして学問をさせなければいかぬと云ふことから例の昭武さん、大分利巧な人でした併ながら後に発展せずに亡りましたが、此方を博覧会に出張させ、其後五、六年留学させて、相当な学問、軍事教育も受けよう、経済教育も受けよう、政治教育も受けやうと云ふやうなことで、これが誰かしつかりした人をつけてやらうと云ふことから、教育の方にはナポレオンに頼むから外国人から監督を頼むが、内輪の世話をするお傍役、私は其時勘定方で、私にそれをお聞申せと云ふことを命ぜられたのでございます、それで私は慶喜公の将軍になられた翌年、今の仏蘭西行を命ぜられて、かれこれして居る中に其年の冬でございます、御承知の通り政変が生じて、遂に慶喜公が、将軍職を辞する、政権返上と云ふことで、慶応三年の多分十月十四日であつたと思ひます、此時は私は海外にあつたのですが、そこで重大な変化をしたものでありますから、其春五年の留学を目的に博覧会の何に参列して、それが済んだらしやうと云ふ考で出掛けたが、厭く迄仏蘭西に留ることが出来ないで帰つて
 - 第2巻 p.27 -ページ画像 
参つたのであります、丁度御維新の年、即ち年号で云ふと慶応四年、変つて明治元年、明治元年の十月の始めでありましたか、九月の末でありましたか、帰つて来ると云ふ立場になりました、日本に丁度十一月の初め 其日はハツキリと覚へて居りませぬが 帰つて参りました、此時に三野村さんに御目に掛つたのが抑々の始めであります、それ故に少し海外旅行のことを序ながら御話したのでありますが、何でもどう云ふ縁故であつたか、其時分に榎本六兵衛と云ふ人の工場が横浜にありまして、其処の番頭の名前は何と云つたか、東京に家を持つて居りました、で私共が横浜に上陸すると持つて来た荷物の世話とか何とか取扱ひを知つた人はないのでありましたので世話して貰はなければならぬと云ふので、誰かの縁故を求めて榎本六兵衛と云ふ人の何と云ひましたか、其名は失念しましたが、親切な人で、榎本が命ずるから其人に世話して貰つたら宜かろうと云ふので、持つてきた荷物の取扱ひだの、色々世話して貰ひまして、其人は深川に家がありまして、其家に暫くと云つても四、五日のことでしたが、世話になつて居りました、其時分にあれ是東京の模様を聞いて居る中に其人は故利左衛門さんをひどく推奨して居りました、色々人物もございますが、貴方方が御交際なすつて必ず利益になる人はあゝ云ふ人でありませうと云ふことを言はれて始めて利左衛門さんに会つたのでございます、どう云ふ縁故であつたか、自分は御目に掛りたいと云ふことを申して其榎本六兵衛、大六の番頭さんの深川の家の二階で御目に掛つたのを覚へて居ります、何勇次郎とか云ふ人で、どう云ふ訳で知つて居るか、幾らか世話になつたのでありませう、あの人は三井の番頭さんですが、中々色々なことを知つて居ります、貴方が交際つても必ず利益があるのでありませうと話された、其時分は東京と云つたが、まだ江戸でありましたが、会ひたい、それでは私が紹介しませうと云ふことで会つた、御前は一体どう云ふ人か、私の身の成行等を御話したことを覚へて居ります、これは唯々其時は一時の会見だけに遇ぎませぬ、併しさう云ふ縁故から私が御目に掛つたと云ふのが先づ第一にあるのであります、それは丁度明治元年の冬のことでありました、仏蘭西から帰り早早であつた、
  ○右ニ云フ大六ハ屋号ノ略称ニシテ、大ハ大黒屋ヲ略シタルナリ。


はゝその落葉 (穂積歌子著) 巻之一・第一三―一四丁 〔明治三三年〕(DK020001k-0010)
第2巻 p.27-28 ページ画像

はゝその落葉 (穂積歌子著)  巻之一・第一三―一四丁 〔明治三三年〕
○上略 船路いかにとあやぶミつゝ待ちこがれ参らせつる我大人ハ。この年十二月三日といふに恙なく横浜の港に帰り着かせ給ひ。其月の末つかた。六年の永き年月をよそにのミ見給ひたる故郷人をなぐさめんとて。家にぞ帰らせ給ひける。二ばしらの君を始め参らせ、母君叔母君たちは。恙なき御姿を見給ひて。かきくらしふりしきりにし長雨のはじめて晴れて。空うらゝかにさしのぼる日の影にむかひたらんがごとく打ちよろこばせ給ひ。うれしきも又御袖のぬれしなるべし。かくて過来しかたの御物がたりを聞かせ給ひて。大人にハのどけき春にも得あはずして。世を早うし給ひたる長七郎君。平九郎君をふかくいたませ給ひ。殊に尾髙の祖母君の。此年頃おのが御子たちの上にもまして
 - 第2巻 p.28 -ページ画像 
大人が御身をおぼしわづらはせ給ひけるに。御生前に帰り来まして。恙なき面せを見せ参らするを得ざりし事を。いといたううらミ給ひき此時すでに新らしき政府ハ開かれ我が
すめらぎにハ政を御親し給ひて民草を撫でいつくしませ給ひ。徳川の家も勅勘ゆるさせ給ひ。駿遠参七十万石に封ぜさせられ。この夏の頃の戦ひに官軍にはむかひ参らせたる人々も其志をや憐ませ給ひけん。させる御とがめも無かりけれバ尾髙の伯父君にもやうやう世の中ひろくならせ給ひ。先つ日祖母君ミまかり給ひける後。家に帰りゐましけれバ。その夜まう来給ひて。大人に対面し給ひけり。あはれこの御対面よ。いかに今昔の感深くおはしましけん。されどたがひに御身の上の時運と齟齬しつるをばなげかせ給ハで 我大君の御代となりけるめでたき世のさまをよろこばせ給ひ。且つ函館におもむかれたる成一郎ぬしが上を。ひたすらおぼつかながりてかたらはせ給ひけるを。母君も。叔母君たちも。かたへにて聞かせ給ひて。其御心ひろさを感ぜさせ給ひけりとぞ。かくて御名残ハ尽きん期もなけれど。大人にハ静岡なる宝台院に謹しミ籠りおはしますなる 前の将軍家にまミえ参らする事をいそぎ給へバ。とて亡き人々の御墓をまつり給ひなと。只三日四日の程留り居まして。又郷里の家をぞ立出で給ひける。其折祖父君に向ハせ給ひて。児ハ静岡なる君が御許にて身のよすがを定め申すべけれバ。妻子ハやがてそこにむかへとり候ふべし。この家ハ貞によきむこむかへて跡をつかしめ給へかし。と仰せられ。又黄金百ひらを祖父君に奉り給ひて。こハ其昔児が家を出る折。乞ふがまにまにたび給ひけるをかへし奉ると云ふにハ候ハず。未だ故郷に錦をかざるべき身にもあらねバ。させる御土産とてもたらさず。されバこをしもせめてそがかはりとも見そなはし給へかし。と聞え上げさせ給ひけるに。祖父君打ゑませ給ひて。御身ハ吾とことかはりて。こゝろいといと大きやかなれども。かゝるすぢにいとものがたきふしハ。よう吾に似つるものかな。とて御心よく受け納め給ひ。やがてこれを母君にあたへ給ひて宣給ひけるハ。千代が此年頃つもれるうきふしを堪へ忍びて。いとまめやかに身たちに仕へたる心ばへ。常ハ言葉にこそ云ひ出でね。いといとうれしう思ひしぞよ。されバこハそがむくいのたまものとも見よかし。と仰せきこえ給ひければ。母君ハ今さらに面をおこす心地し給ひ。数のこがねよりも此御一言のかたじけなさハ。身にあまりておぼされつゝ。涙にくれてうけ納め給ひけりとなん。


はゝその落葉 (穂積歌子著) 巻之二・第三九―四〇丁 〔明治三三年〕(DK020001k-0011)
第2巻 p.28-30 ページ画像

はゝその落葉 (穂積歌子著)  巻之二・第三九―四〇丁 〔明治三三年〕
○上略 わらはが六歳になりける年の冬。父君にハたえて久しき故郷に立帰らせ給ふべしとて。いつハとの御消息ありしかバ。我家はさらなり村の中までさゞめきわたりぬ。其日親族なるたれかれハ深谷の里まで御迎へにとて出でたち。家の内外はき清め人々衣などぬぎかへて待ち渡り参らするに。夕つかた村人一人はせ来りて。先きぶれにこそ。只今村の境まで来らせ給へりと云ふに。さらば歌もとて。母君わらはをよねとよびけるこものに負はせて出迎へさせ給ひけり。と見れバ向ひの方よりあまたの村人に打かこまれ。ゑましげに打かたらひつゝ大や
 - 第2巻 p.29 -ページ画像 
うにねり来る武士あり。黒くつやつやしき髪短うきりて後ろざまに撫でおろし。羽織袴の色目あざやかに黄金もてかざれる大刀よこたへたるさま。むら雀の中に鶴のおりゐたらん様にていといと尊く見えたりけるに。それやがて我父君なりとも思ひよらで。米よあれやかのさきぶねのとのと。さゝやき問ひたりき。前にさきぶれと云ひつるをさきぶねと聞きひがめて。共に来ましゝ貴人の名なりと思ひたがへたるこそいとをかしかりしか。後に人々この事をしばしば云ひ出て。常の笑ひ草とハしたりき。父君家を出でさせ給ひてより五とせあまりの程。わが家ハ常に秋の心地してものわびしくのミ過しけるに。こたび帰りいましゝかバ。三日四日の程ハ年頃よそに聞きつる春の今一時に来しこゝちしてさゞめきわたり。訪ひ来る人ごとにめでたしめでたしとことほぐなどさながら年の始にことならず。殊に祖父君の御けしきのさバかりうるはしくましましゝは。妾が物の心知りそめてより始めて見まゐらせたりき。この時わらはハ父君の御よそほひのゆゝしさに何となく心おかれ奉りて。もの問ひ給ひてもはかばかしう御いらへだに得せず。只御供にさぶらひける大村昇にはなかなかに親しミて。かにかくと江戸のさまなど問ひてけり。これより前つかた。父君のふらんすより帰りつかせ給ひしよし祖父君きかせ給ひておぼしけるは。舟出せし折とハ世のさままたくかはりて。今こそ日の大御神の御光ハ東の空にかゞやきのぼらせ給ふ御時とハなりたれ。されバ始め志をたてつるすぢをこそハ遂げたるに似たれど。たのミ参らせつる君が家国ハほとほとほろび。御身ハ慎ミにこもりおはしますをいかバかりかはなげくらし。吹きしまきける嵐にもあはで浪路ことなく帰れりとハいへ。淵ハ瀬となる今日の世にあひて。よるべもなミにたゞよひつゝつながぬ舟とさすらふらん。されど千ひろの底の思ひはかり深きさがなれバ。只一時のことわりにせまりて。昔ちぎりし友と共に猶浪風の吹きあるゝ北の海にうかびて。身をうたかたの泡と消ちなんとするが如き。はやりたるわざハよもすまじ。さらばいづこをはかと楫ハとるらん。などさまざまに思ひわびさせ給ひ。とにもかくにも江戸なるやどりを訪ひ。対面して親しく心の程をも聞き。また郷里のありさま重ねがさねの不幸の事ども告げきこえてん。かつ今ハ江戸にもたよるべき方なかるべけれバ黄金などにも事かくことのなからじやハ。とてたくはへ給ひしを用意し給ふ。祖母君も。さらんにハ衣もあまたハ持たざるべしとて。祖父君の召し給はん料にとて織らせたるふと織の縞絹を。俄に叔母君して縫はせ給ひ。これをもとて取り添へてたゝせ給ひぬ。其折父君の御寓りハ神田明神下のほとりなりけり。しばしの御かり住ミなれバ家ハせまかりけれど。家の子も二人ばかり召し遣ひ給ひよろづゆたかなるさまにて。祖父君のかねておぼししには似ず見えさせ給ひけり。絶えて久しかりつる御対面にかたみに恙なきをよろこばせ給ひ。つきせぬ御物語りに。祖父君ハ父君の深き御志の程こまやかに聞かせられて始めて御心おちゐさせ給ひ。又父君ハ祖父君の御いつくしミ厚きに深く感ぜさせられ。御涙とゞめあへ給ハざりしかど。たくハへともしくも侍らねバとてかの黄金をバ受け給はず。されバ持添へ給ひし衣ハあまりに荒々しきがつゝましく云ひも出で給はざりけりとぞ。さてこよひハ
 - 第2巻 p.30 -ページ画像 
こゝに宿らせ給へ。さるハあまりに其代いやしけれバとて梅田の妻がすゝむるまにまに近き頃あがなひつる夜の衾も侍れバ。とてその設けせしめ給ふを見そなはして。我身ハ百姓に生ひたちたれバ。いかでかかるよきもの着て安らかにハねらるべき。我肌にふさはしかるべき荒たへの衾あらずバ。宿かす方へまかりて寐ぬべし。と仰せられて馬喰町なるやとりへなん行かせ給ひけりとぞ。後に母君其衾を見給ふに。其頃国々の大名たち江戸の舘打ち捨て。おのがしゞ領地へ引込りける折売りたる物とおぼしく。から花の綾ある紺地どんすに裏ハ白羽二重なるが。まだ巳の時にもならじと見ゆるなりけり。其程の御身にて斯くきらびやかなるふすまあがなひ置かせられて。父君に着せ参らせんとなし給ひける我夫の御心の大きやかなる。また身の程に応ぜぬものハほとりへ近くるだに嫌はせ給ひて。ことさらによそに宿りを求め給ひける父君の御さがの質朴なる。共に大方人にハ異らせ給ふものかなと感ぜさせ給ひき。




〔参考〕竜門雑誌 第一六八号・第一―八頁 〔明治三五年五月〕 ○本社第廿八回春季総集会に於ける青淵先生の演説(DK020001k-0012)
第2巻 p.30-35 ページ画像

  ○左ノ栄一ノ演説ハ渡欧中ノ思ヒ出ヲ一括シテ語レルモノナルヲ以テ参考ノ為ニ掲ゲタリ

竜門雑誌 第一六八号・第一―八頁 〔明治三五年五月〕
  ○本社第廿八回春季総集会に於ける青淵先生の演説
   本編は去四月廿七日正午より芝紅葉館に於て開会せる本社第廿八回春季総集会を兼ねたる青淵先生、同令夫人、先生の随行員市原盛宏君、萩原源太郎君 八十島親徳君。西川虎之助君令嬢並に先生の一行と同伴せらるゝ梅浦精一君。渋沢元治君。清水泰吉君等の送別会席上に於て青淵先生の述べられたる演説の筆記なり。
今日は竜門社に於て私の今度の海外の旅行を送る為めに、春季の総会を兼ねて特に此所に大会を御開きになりました趣で、唯今竜門社を代表されて、社長より甚だ痛入りましたる祝辞を朗読されましてございます、且つ又客員たる添田博士から私の送別に対するお辞を懇々御申述がございました、此添田君の御演説、又社長の送別の祝辞は或点に於きましては私には甚だ――少し恐縮寧ろ過賞溢美ともいはれはせぬかと虞れるのでございまするが、併し斯かる内輪の――平日共に提携して商工業に若くは社交に相親むお間柄ですから、故らに遠慮立をして左様当るの当らぬのと玆に弁解する必要もなからうと考へまするで、皆様の御考通りに何れなりとも宜しく御頼み申すと申上げるのでございます
それで私の今度の旅行といふのは、段々と演説に演説が重なり送別会に送別会の加はる程、どふやら段々と重荷を負はせられるやうになつて、至つて微力なものが頻りに荷が重くなつて、ドウもハヤ出掛けるのが嫌になつたやうでございますけれども、今更モウ止めたいといつて今日旅行見合の御披露をする訳にも参りますまい、斯かる宴会に別に遠慮立を申すに及びませぬから正直に申しますけれども、真実何も求める所とか目指す所とかあつて旅行する訳ではございませぬ、真の老後の自由漫遊といふ看板に偽りなし、何か他に望みがあるだらう、
 - 第2巻 p.31 -ページ画像 
期する所があるだらう抔といふ御想像があるかも知れませぬが、エラい謙遜的にいふではないが事実ないからないと申すので、然らば左様に何も用のないのに、此経済界が漸く時期恢復といふ時代であるとは申しながら、少しく事業の発達を求めるに何も彼も不景気の余波を受けて居るといふ此時節に向つて、無芸と雖も経済界の一人に数へられて居るものが余り気楽ではないか、欧米漫遊と出掛けて、どこの山が高いとかどこの水が清いとかいつて、花を見月に嘯くを最上の楽みの如く出掛けるは甚だ贅沢千万な訳である、人間の世に勤労するといふことを忘れたかといふお小言が出るかも知れませぬ、其点については今添田博士から、渋沢老ひたりと雖も至て勤勉するものであるといふドウやら御褒賞下すつたやうであるが、私も病患等のございませぬ限りは、よいことは働き得ぬが唯だ等閑に世を送るといふことは極く嫌ひで、申さば人間といふものは死ぬまで働かなければならぬものだ、息ある中は世の中の為めに勉励すべき筈のものだといふ観念は、今日急に覚へた訳ではございませぬ、殆ど物心が付きますと左様あるべき筈のものだといふ一念は、最早還暦を越へた今日も少しも変つて居りませぬからして、決して今申す通り唯だ世の中を遠ざかつて、一閑人となつて世界を漫遊したいといふ趣意ではございませぬのです、抑も私の此度の旅行の動機は何から発したかと申すと、元来亜米利加といふ所をまだ見たことはないのです、亜米利加の非常な速力を以て商工業の発達して居る有様は、私共言語は通せず学問もありませぬけれども、ドウか壮健な中に一度見たいといふ観念は持つて居つた、又一方には欧羅巴も今竜門社員を代表して社長から祝辞に述べられた通り、今や三十六年の昔経過したことでございますからして、殆ど前世紀の夢の如き有様であつて、是も一度は前遊の山水を経過するは、頗る興味あることであらうといふことは、唯だ単に旅行としても左様思ひます、況や我商工業界に於て斯かることを苦心する、斯かることは斯ういふやうに行違つて居るといふことを欧米へ行つて質して見ましたならば、多少補益する所もあらうかといふ考は持つて居りました、然るに丁度此春頃から各地の商業会議所の人々が打寄つて、自然私の旅行の考があるといふことを機会として、商工業者として海外へ出た人も多いけれども、商工業者の代表の意味を以て旅行した人はないから、幸にお前が行くなれば斯様な事を委托したいといふ如き評議も起つて遂に其結果全国商業会議所の聯合会に於て、私の漫遊を機として、日本の商工業者は海外に対して、十分なる意思を疏通致したいといふことを平生思ふて居るといふ紹介者になれといふ決議をされました、蓋し此事も誠に漠然たる事柄であつて、決してそれが如何なる関係を生ずるとか、如何なる利益を起すとかいふことのあらう筈はないが、今までの有様では内外の事情が十分通ぜぬといふことは独り商工業ばかりではない、殊に斯ういふ社会に於て甚だ憾みとする所であつて見ますると、多少左様な事柄が意思疏通の端緒を得ることであるならば、大に喜ぶべき点ではなからうかと思ふので、果して然らば自分の予て希図して居つた老後の旅行であるから、之を一つの時機として右様な任務を帯びて、所謂自由漫遊をするのも亦人生の一快事であらうと玆
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に始めて旅行の意を決した次第でありますが、各商業会議所即ち全国商工業者の希望する如く、我々商工業者が彼等欧米人と手を握り合ふといふ如きことは、私の一旅行に依て決して果し得られるものでないことは万々である、左りながら其一階梯を為すといふことは或はありもしやうかと思ひますれば、亦以て左様に己れを卑下し、事の成向を危んで、左様なことは好まぬといふものでもなからうかと玆に今の委托も受けて、愈よ旅行の意を決した次第でございます
右様な旅行でございますから、もとより何の得る所もなからうと思ひますが、旅行に当つて私は三十六年前の昔しを思返し、此前後の旅行に於て私の一身上に大なる差のあるといふことを玆に御笑草に御話して置かうと考へます、其昔し私が欧羅巴へ参りましたのは慶応三年で慶応三年一月十二《(一)》日横浜を発程して、慶応四年即ち明治元年十一月三日に日本に帰つて来たと覚へて居ります、此時の旅行はドウいふ有様であつたかといふと、まだ日本の人に頭の髪を切つた人は一人もある訳ではなし、西洋の着物を着ることを知つた人も余りなかつたのであります、其旅行の重なるものは今松戸に御居になる徳川従二位――当時民部大輔と申されて時の将軍の弟であつて、此人が仏蘭西へ使節として行かれることになつて、種々なる事情がそこに纏綿して、多少攘夷鎖港主義を帯びて居る人達が扈従して行かなければならぬといふ所からして、私も矢張其分子を含んで居る仲間で、所謂山の芋が半分鰻になり掛つた人間であるから、寧ろ斯様なものを附加へてやつたならば大に都合がよからうといふので私が任命されたさうでございます、それは後に分りました、所謂慷慨悲歌の士で京都大阪の辺りを徘徊致して居りました末一ツ橋家へ仕官致し、引続き慶喜公が将軍になられたとき、幕府の極く下等の吏員になつて居ります際に右様な旅行を命ぜられたのでありますから、着物一枚人に相談して拵へることも出来ませず、手提一つ他人に持つて貰ふといふことも出来ず、一切の衣服諸道具を始末して国へ送るとか、或は売払ふとか又は新たに着物を調達するとかいふことは総てモウ自ら営んだので、お負けに民部公子の荷物の世話とか、或は是に随行する人々の荷物の世話を致し、京都から民部公子の外にお附人が七人、私の外に二人の供があつたから都合十一人横浜へ来て、外国方の人々――当時の外交官です、今其人を失ひましたが向山隼人之正といふ人で、黄村といつて後に長く生きて居りましたが詩を善くする御人であつた、此人が外国奉行をして、それに今尚ほ健全でお在だが田辺太一といふ人が其時分の支配組頭で、其他それぞれの役人が殆ど十七八人行きましたから、都合其一行が三十人許りでありました、印度洋を段々経過して行く当時の種々なる奇談は中々数多うございまするが、最も可笑いのは斯く申す私が紫棍で以て縞のズボンに燕尾服を着て、船の上で大に叱られて縮込んで室へ這入つたといふ抱腹談もある、又巴里へ参つて那破烈翁の礼典に罷出て食事を賜つて、「アイスクリーム」を紙に包んで袂へ入れて、皆な溶けてしまつたといふ抱腹談もある、是は私ではない外の人です、今考へると余程可笑いが其時さういふ人々に始終追使はれる地位に立つて、其人々の世話を焼き種々な仕事をしたことを今考へて見ると其労苦中
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中思遣られる、或場合には書記になつて深更まで信書を認めたり、又日常の事を記載して置かなければならぬから日記も絶へず記けたり、事に依ると夜の十二時頃まで書類を調べるといふことも屡々ありまして、船が出る時国に向つて友人に書面を出したいと思ふけれども、公務を先として其筋々への発状の手配をするとか、又は日常公子の身の上についての雑務は皆な私が一身で取扱つた、尤も博覧会の開会の際には今申す外国の掛の人達があつて多く是に任じて居られたから、私の任務といふものは甚だ軽かつたが、丁度三月から始つて八月頃博覧会の礼典が済んで、それから瑞西、和蘭、白耳義を一巡回して、再び発して伊太利へ行つて伊太利の旅行を了り、それから仏蘭西へ帰つて最後に英吉利を旅行して、英吉利の旅行が済んだのは其年の末であります、其翌年一月から愈よ民部公子が大使と申す如き職務を罷めて、さうして学生となつて仏蘭西に留学することとなつた、スルと二月三月の間に京都の変が段々報知される、殆ど海外に於て寧日なく、トウトウ其年の十月頃彼国を発するやうな場合になつて、最初留学の希望も遂げ得られなかつたのであります、故に半年余りは匆忙の間に諸方を奔走し、後との半年は心配に日を暮したといふ有様であつた、かゝる姿であつたから、其昔日の旅行は中々海外の学問とか視察とか――勿論視察すべき目もなく耳もなく、況や物を学ぶといふ余暇は取り得られなんだ有様でございますが、併し其間に私が何か得たことがあるかといふと、学問的には一つも得たことはありませぬけれども、二三今でも記憶して居つて、成程日本の国とは大に有様が違ふ、是等は心を着けねばならぬと思ふたことがあります、今でもよう覚へて居る、其一二を申して見ると、第一に白耳義へ参つたときに、私は民部公子の供をして国王謁見の礼典に参列したのです、私共の参列といふのは殆ど殊遇であつたのです、人数が少なかつた為めに漸く其席に出られたのでありますが、国王は私より二つばかりお上で在らつしやる、今日まだ御健全なさうでございますが、民部公子に対してドウいふ応答をされたかといふと悉く奇異の思を為した、小児を対手にして何を話すかといふと白耳義へ来て何所を見物した、製鉄所を見何とか申す所で硝子の製造所を拝見しました、それは宜い、製鉄所を見たならば日本へ鉄を買ふて行くやうにせねばならぬ、総て国といふものは鉄を沢山使ふ程其国は盛んになる、私の国では鉄が沢山出る、英吉利よりも廉価に出来る、鉄を沢山買ふ国でなければ迚も其国は繁昌せぬと云て、国王初めての謁見に十四の小児に鉄を買へといふことを勧めるから実に可笑しい、ドウも西洋の君主は妙なことを言はれる、直様御商売に関係する、是だから夷狄禽獣だと思うたが、再び考へて見ると決して夷狄でもなければ禽獣でもない、寧ろ禽獣と思ふ己れが禽獣であるから、さうして見ると中々空に聞いてはよくないといふことを深く感じました、博覧会の礼典の終りに何とかいふ宮殿です、那破烈翁が出て仏蘭西の極盛を極めた演説があつて、私にはよく分らなかつたが後に翻訳を見ると、実に立派な文章で、随分人を眩惑せしめる程の名文章であつたが、其文章よりも此鉄の御商売の話が私の鼓膜をひどく感ぜしめたことを明かに記憶して居る、モウ一つ自分を感ぜしめたのは役
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人と商売人との応対です、民部公子の接待役にコロ子ル、ヒレツトといふ人が那破烈翁から附けられた、「コロ子ル」であるから相当の軍人である、此人は至つて勝手強い男で、己れの国を自慢し己れの身を大変に自慢して、自分程立派な人は欧罷巴に二人とないといふ位に自負して居る、而して那破烈翁といふ人を神か仏の如くに思ふて、那破烈翁風を吹かして民部公子を教導指示するのです、私共は殆ど虐待されたといつてもよい位に種々の小言をいはれましたが、此人の所へ毎度来る商売人があつて、此商売人を平生待遇する有様を見ると、それ程に自負の強い「コロ子ル」先生一言もない、いつでも公子のことについて何か話すと如何にも左様貴君の御説御尤といふの外はない、日本では我々幕府の下僚に居つても、大層立派な商人の前で其方は何とかいつて威張つて、それがよい心持だと思ふて居るのと反対で、大変に自負する役人が商人に対して極く敬意を表する、ドウも己れの国とは商工業者の待遇が大層違ふといふことをひどく感銘致しました、モウ一つよく記憶して居りますのは、公子が愈よ国が騒動になつたについて是から先きは成る丈け経費を節減して、せめて三年も仏蘭西に留学せしめたいといふ考の為に、偖て籠城するにはドウしたらよからうか、少々ある金をドウかして維持するやうにしたい、維持するといふには成る丈け経費を節減して、其節減した金を以て何程か利殖する工風をするより外ないといふので、此利殖することについて今の商人に相談して見た所が、鉄道会社の公債が一番安全だといふから、それはドウいふものかと段々聞いて見ると会社が社債を発行する、其会社といふものはドウいふ趣向で組立てるものかといふと斯様々々に組立てる、其公債の発行はドウいふ都合か、斯ういふ訳のもので、何時でも「ブールス」へ行くと売ることも出来又買ふことも出来る、嘘と思ふならば自分が連れて行つて買つてやらうといふので、民部公子を長く留学させる為めに、其維持金として三万「フランク」であつたか五万「フランク」であつたか公債を買ふた、其時初めて会社といふものゝ仕組と公債といふものは斯様にして成立つものである、又売買されるものである、何程かある資本を蓄積するには最もよい方法であるといふことを会得して、自分の国にはまだ斯ういふものはなかつたといふことを発明致しました、今日申上げると至つて卑近な話で随分可笑いやうであるが、此二つ三つの事柄は、三十六年前の私をして海外に於て大に感ぜしめ心を動かさしめた事柄である、而して其間の拮据経営中々の艱苦であつて、決して気楽な旅行ではございませなんだ、が寧ろ心が甚だ愉快であり安心であつたかも知れませぬ、然るに此度欧羅巴行を企てましたにつき、右からも左からも種々なる御待遇を受ける、又翻つて己れを省みますると、言語が通ぜぬといふ所からして通訳者には市原君の如き人を連れて行つたらよからうといひ、商業会議所では一人では差支へるだらうから、お前が同意するならば萩原氏を随行員に命ずるであらうといふことである、其他平生自分が秘書として使つて居る八十島も随行するがよからう、或は銀行員としては清水泰吉とか皆なそれぞれ学問もあり言語も通じ世の中に有為の人々を同行し得られるし、而して到る所で便利を得るであらうと考へますると、実に
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此昔日のそれこそ脛一本腕一本で駈歩るいた旅行とは、何で斯様に懸隔するかと自ら甚だ危む位でございますが、実は私の一身上に於ては三十六年前の寧ろ困難な時期が或は愉快なときであつて、今日の不自由のない時期が迷惑なときであつて、亦得る所も少ないときではないかと恐懼に堪へぬのでございます、けれども人は左様に何時も窮屈なときならでは世の中に得る所は少ないものだ、得意なときは始終憂ふべきものであるとのみ考へたならば、何事も為し得ることは出来ませぬから、決して今日を私は得意なときとは思はぬ、矢張窮屈なときと考へて、此時期を十分利用して、さうして仮令満足なるお土産は持つて帰れぬでも、此必要なる時期に半歳を空しく費すといふことに成行かぬやうに致したいと考へるのでございます、かゝる此忙しい時代に半歳の日月を所謂閑日月として暮しまするのは、此経済界に手を携へ思を合せて務め合ふた皆様に対して閑を偸むやうでお気の毒千万に存じまするけれども、不在中は皆様が十分御勉強下すつて、ドウぞ此竜門社を繁盛ならしむるのみならず、竜門社に出て居る皆様は皆なそれぞれの事業に従事なすつてお在になる諸君でありますから、ドウぞ私の不在中は其事業をして益々盛んならしめ、面倒とか苦情とかいふことのないやうに御心付を願ひたい、私も所謂閑日月を経過するのであるけれども、若し或は閑中に聊かの忙しい味を見、又静かな間に何程か動く機会を得ることが出来ましたならば、丁度此秋に際する帰国のときに、錦は飾れなくとも紅葉の一枝でも持つて帰ることに致したいと考へます。玆に感謝の意を述べると共に御別れの辞を述べて置きます次第でございます
  ○右演説ノ一部ハ「青淵修養百話」ニ「慶応三年の渡欧と其の所感」ト題シテ収録セラレタリ。


〔参考〕昔夢会筆記 下巻・第九九―一〇六頁 〔大正四年四月〕(DK020001k-0013)
第2巻 p.35-38 ページ画像

昔夢会筆記 下巻・第九九―一〇六頁 〔大正四年四月〕
  ○左ノ栄一ノ談話ハ遣使ノ意義ニ関スルモノナルヲ以テ参考トシテ掲グ。
○井野辺 今一箇条、民部様の御旅行のことでございますが、あのことにつきましては、既に伺つたこともございますが、民部様を仏蘭西へ御遣はしになりました御趣意につきましては、世の中で色々申して居ります、或は仏蘭西の歓心を求める為であるとか、或は民部様が仏蘭西で種々学術・制度を御研究なされて、其御覚えになつたことを日本に実行しやうといふ御考であるとか、或はあの頃英国公使などは、幕府は日本の政府でないなどゝ申して居りましたので、それでは誠に困るから、幕府が実際の主権者であるといふことを、外国に示すが為に御遣はしになつたとも申して居ります、其辺の事情は如何のものでございませう、表向は博覧会へ御遣はしと申すことになつては居りますが、
○公 あれは渋沢も能く心得て居るが、別に深いどうといふ意味のある訳ではない、
○渋沢 関東の方では、貴所の今伺ひ上げることを、御老中までの間に、銘々の意中にそれらのことを確に意味したことはあつたかと思ふのです、けれどもそれをちやんと君公まで申上げて、御評議一決とい
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ふまでになつたことではないと私どもは確に思つて居ります、御発しになります前に、今丁度御覧に入れました書類の原氏ですが、突然其原氏から呼ばれて旅宿へ参りました、其時原から、民部公子が仏蘭西へ行くといふ御用は斯う斯うだ、それについて一通りの表向の御用は斯う斯うであるけれども、更にまだ御幼年であつて、将来に望を属してござる方であり、殊に御親弟である、甚だ末頼母しい青年の方であるから、これを立派に仕立てたいといふことを上様か思召される、諸有司が皆属望して居る、それで使節の用向が済めば、其後は仏蘭西に学ぶ、唯普通の留学でなしに、三世ナポレオンに特に書面を遣はして御依頼になる、学問上の監督は三世ナポレオンが選んで附けられることになるのだ、これらは唯普通の留学でなしに、自ら国交に関係して居るといふことも記憶して宜い、斯ういふやうな意味は、確に申付けられたことを覚えて居ります、併しながら外国へ行くのに、さう大勢附添うて行く訳にはいかない、それで御伝役《オモリヤク》として、山高石見守が一人仰付けられた、併し此人は計算のことに熟達して居るとはいへないお前は其方に専ら用立つ人と思ふ、且勉めて学んだならば、年も若し相当な修学も出来るだらうと思ふ、かたがた抜擢を以て仰付けられることである、幕府の方にもそれぞれ人があらうけれども、成るべくあれならばと思ふ人を申付けたい思召で、篤太夫が宜からうといふことに御考を定めて、自分を以て其内命を伝へられるのであるからさう思へ、喜んで行くならば、誠に自分もお前に其命を伝へた面目があると斯う言はれたので、それで私は誠に喜ばしい、元来私は攘夷説を唱へた人間であるから、こゝで外国行の命を喜んで奉ずるといふのは、少し変節といふやうな嫌があるか知れませぬが、数年前のやうに、もうどこまでも攘夷が出来るだらうとは思ひませぬ、海外のことを学ばせて戴くといふことは、此上もなく嬉しうございます、政治向のことなどは何も存じませぬが、江戸から外国奉行が行くなら、これは自ら其人がございませう、又御身辺の御輔佐を申すのは山高石見守があり、御身の廻りの細かなことを取扱ふ者は、水戸から七人行くといふから私は唯所謂俗事と会計を取扱つて、傍ら学問をするといふことなら、五年でも七年でも少しも厭ひませぬ、私一人では出来ませぬが、必ず御幼君を立派な方に仕上げて帰国することに、十分覚悟を致して罷出ますといふことを御挨拶したのです、それで誠に咄嗟に御挨拶をしたものですから、さうか、君は又かれこれ躊躇しやしないかと思つて、少し心配したけれども、それは定めし御満足であらうから、早速復命しやうといふことであつたのです、それで送別の為に此殷員外を送るの序を書いてくれた、それから御供をして行つたのが向山隼人正、組頭田辺太一、通訳方で保科信太郎《(保科俊太郎)》、山内文次郎、英の方の通訳方が山内六三郎、翻訳方が箕作禛一郎、俗事役は日々野清作《(日比野清作)》・生島孫太郎、其他御小人目付だの諸役だの数名ありましたが、其連中が総体で殆ど三十人だつたと思ひます、水戸から行つた人が七人、京都で仰付けられたのが山高石見守・木村宗蔵・高松凌雲、今一人誰であつたか、都合四人でございます、
○井野辺 あの時民部様が英国へ御出でになりましたが、あの時にや
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はり貴所様も……、
○渋沢 御供を致しました、
○井野辺 あの時に向山が英国の外務大臣に向つて、パークスが将軍家のことをハイネスと申上げることについて、抗議を申込んだといふことを聞きましたが、何か御聞及びはございませぬか、
○渋沢 向ふはマゼステーと言はぬといふのです、それは将軍であつて、もう一つ上があるのだから、どうしても殿下といふ外ないといふことを頻に主張したのです、けれどもこちらは国君だから、外国へ対しては他と対等の権利を持つのだから、マゼステーと言はれて宜いと言うて、頻に外国方の人々は主張したです、それで大君といふ名を附けて、大君即ち陛下と斯うしたのですが、向ふはさうしなかつたのです、
○井野辺 英国で其談判のあつたのは事実でございますか、
○渋沢 其為に特に談判を聞いたといふことは覚えませぬ、私どもは地位が大変低かつたので、其事について公然たる参与は出来ませぬが併し外国のことで、僅の人数で話合ふのですから、役目のことは知りませぬけれども、さう秘密にして一切外の人から聞かれぬといふ程ではなかつたのですから、今のことも確に聞いたことを覚えて居ります それより前に田辺太一が、薩摩を政府と認める認めないの議論が大変にあつて、とうとう其事は向山隼人正が名代になつて、薩摩から岩下佐次右衛門に五代才助だつたか出て、薩摩の方の為に心配するのはモンブランといふ人で、それが仏蘭西の外務省で談判したことがある、
○公 ハイネスといふと、どういふことになるのかね、
○阪谷 皇族殿下になります、マゼステーといふと陛下になります、
○公 あの時分ロセスはマゼステー、それからパークスはハイネスと言つた、それで板倉が、斯ういふ議がある、どちらに極めると私に尋ねたことがある、上に天子がある、天子のある以上はハイネスの方が相当と思ふと言つた処が、板倉が大分不承知だつた、其中に各国の公使が逢ふといふことがあつた、それで仏が先へ出るとか英が先へ出るとか、大分先を争つた、其時分にロセスの方では、色々日本の為になることを密に申上げたいから、どうぞ内謁をしたいと斯ういふことであつた、宜しいと言つて、内謁でロセスに逢つた、色々話をして居ると、パークスがずつと遣つて来たんだね、どうもどういふものか、私も外国のことには慣れぬから、喧嘩でも出来なければ宜いと思つて居ると、頻にロセスとパークスと議論を始めたのだね、けれども私は議論は分らないから黙つて居たが、それが済んでから、塩田三郎……ロセスの通辞に、あれは何だと尋ねた処が、一向沙汰もなくて、お前が先へ出て挨拶をするといふ理由はないとパークスが言ふ、それからロセスは斯う斯うと頻に論じ詰めた、処がなかなか激しくなつて、一番しまひに、さすがにロセスは才物で、パークスに、お前ここを何の場処と思ふ、大君へ拝謁する場処ではないか、拝謁の場処でさういふ議論は甚だ失敬だと言つたんだ、それでパークスがついと止《ヤ》めてしまつた、斯ういふことを塩田から聴いた、それでロセスは、やはりパークスを置いてマゼステーと言ふのだ、片方はハイネス、さういふことが
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あつたよ、
○渋沢 外国に対すると大変に苦しむ、若しハイネスとすると、向ふに向つては一級下の御交際をするやうになるから、国交上何だか工合の悪いやうになる、さればと言つて、又国君がもう一つあるといふ訳ですから……、
○公 それにハイネスといふことになつてしまふと、ロセスの顔が立たぬといふやうな訳になつて来る、


〔参考〕幕末外交談 (田辺太一著) 第四六六―四九五頁 〔明治三一年六月〕(DK020001k-0014)
第2巻 p.38-49 ページ画像

幕末外交談 (田辺太一著) 第四六六―四九五頁 〔明治三一年六月〕
  ○左ノ記述ハ遣使ノ意義ニ関スルモノナルヲ以テ長文ナレドモ掲グルコトトセリ。
  ○巴里博覧会
慶応二年、幕府は征長の再挙志のごとくならず、諸藩の非難と数度の敗衂とに、益々其威権を堕したりし上に、其年の七月、将軍大坂城にありて篤疾に罹られ、竟に二十日を以て薨御あり、うたゝ其力を失ふの状ありといへども、一橋卿遺命を以て、宗家の相続ありて、将軍の職に任ぜられ、天下の大政を掌管あらせられたり、この君固より外交の重を知せられたるより、大に面目を改むる所あり、また世上の風潮も頓に昔日と相反し、さきに鎖国攘夷といヘるをもて、幕府を窘めたるの徒も、今は逆に、開国媾和の実あがらざるを以て、隠然幕府を困しましむるに及べり、幕府開港の初とて、固より中外人の親しく交を結ばんことを、阻隔せしにはあらざれども、当時鎖攘の説盛んに行はれて、外人とさへ視れば、暗殺誘殺の卑怯をも憚らず、一太刀試みんとするもの皆是なり、加之時の士人、各腰に双刀をたばさみ居たり、濫に公使等に接見せしめば、いかなる変事を生ぜんもはかりがたし、されば門戸の警衛よりして、諸事厳重に過ぎ、自然交通を阻隔せし状を呈せしは、己を得ざるものなりし、然るにこゝにいたりては、学術上其他の事にて、諸藩の士のみならず、其藩主までも、外人に接し親しく交はらんことを欲するものあるも、余弊いまだ革るに及ばず、何かと煩雑の手数を要するがごときことありしも少からざりき、されば外人は、これを以て幕府を責むるに至しかば、その為に促されて、また益益外交上の事には其意を注ぐに及び、今は万国の交際場裏に押出して共に与に周旋すべしとの決意を有せしがごとし、而して恰も仏国巴里に於て、万国大博覧会来る千八百六十七年を以て開設あるべしとの事に会せり、即ち来る我慶応の三年なり、而してかの政府より、我国の参同を照会し来れり、こゝに於て幕府は、日本国の名を以てこれに参せんことを望み駐在公使レオンロセスに謀り、これが経画をなせり、蓋しロセスが勧誘するに原因せしものゝごとし、この議決するや、時またかの製鉄所建設の為に理事官として出使せし柴田日向守、猶巴里にありしを以て、これに命じて、其事を仏蘭西政府に申込しめ、其準備をなさしめたり、これよりさき、薩藩には、生麦の一案結局の際、時の英国代理公使と相約する所あり、爾来頻に款を通じ、既に其家老某を派して、英国に至らしめ、又留学の少年を送り、序を以て仏蘭西に至りしは、恰も我理事官柴田日向守がその都に滞在せる時なりき、福
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地源一郎の懐往談に記する所あり曰く、
 此時仏国にては、(千八百六十七年)を期して、大博覧会を開く挙あり、幕府は其照会に応じて、是に参同出品するの予定なりしかば、柴田は兼て此事をも預り聞たり、玆に巴里にモンブラン伯爵といへる貴族あり、此人功名心の深き性にて、頻に日本に関係して栄誉を博さんとおもひ、(モンブラン伯爵は、曾て日本に来りし事あり、其時傭仕せし斎藤謙次郎といへる少年書生を拉て本国にかへりたり、予が池田筑後守に随て、さきに巴里にありし時も、その招待を受け、使節の許を得て其晩餐に赴きたりしに、其給仕としては、かの謙次郎の頭髪既に摘剪せしをも、態と仮髷を作らしめ、羽織袴を着せしめ、外に南洋の蛮人には、赭色の裸体に、紋布の腰巻をなさしめて、二人を以て其座に周旋せしめたり、勿論外に洋人の客はなく、たゞ通弁のブレツキマンのみなりしが、それにて平日の態もおもひやるべし、かれ実に一の立異矜奇の特癖あるものなりしなり)柴田に交を通じて、稍々其意を洩したるに、其評判の余り上等社会によろしからざる所より、かゝる人には関係する事を止られよといへる忠告を受たりければ、柴田も悟る所ありしが、敬して遠くる様の交際をなしたり、モンブラン伯は、是に不満を懐き、然らんには我もまたなすべき所ありとて、他方に眼を注ぎ初めたり、時に薩州より某々といへる藩士数名仏国に来れり、(自注 これよりさき、薩州または長州より藩士等数名、いづれも幕府の許可を経ずして、英仏両国に来り、現に某処々々に滞留せりとの報道を得たり、依て其人々を召喚して、事情をも尋ね、又その取締をもなすべし、然らざれば幕府が日本政府たるの実を欠べし、と柴田に論じたれど、柴田は憖に此人々を召喚しては薮を突て蛇を出すの恐あるべしとて、これを不問に置き、知らぬ顔して打過たれば随行員は敢て此人々を訪問する事も出来ざりき)
 モンブラン伯は此藩士に交通して自ら其特別委員と名乗り、薩州侯は日本政府の下に立る大諸侯にして、兼て、琉球王たり、薩州侯としては、幕府命令の下に立とも、琉球王としては、独立の君主なり依て薩州侯は、琉球王として今度の大博覧会に参同せんが為に、其重臣を仏帝の下に差出し、其事の承諾を乞ふなり、此事更に日本政府に干係なし、といふ書面を大博覧会総裁へ出し、薩州侯兼琉球王の徽章を造り、大に其事を巴里の諸新聞に揚言したり、斯かる状況に至る上は、最早捨て置くべきにあらず、速に新聞紙上に於て其事の非なるを弁明し、また琉球王国は、日本の版図内にして、薩州侯また決して琉球王にもあらず、琉球また決して独立国にあらざれば私の具禀は、采聴あるべからずといふことを、仏国外務卿に予告し置かれよ、と談たれども、柴田は聴入れずして、彼方より問合あれば、其時こそ左様には答ふべけれとて、同じく不問に附し去りたり
  ○下略
かくのごとく此柴田が干渉を避けて、傍観黙過せしが為に、終に一大難事を惹起すに至るべしとは、柴田も予想し得ざる所なりしなるべし、扨幕府には、前にもいへるごとく、其外交の方針を一変し、万国交際場裏に馳駆せんとの意向あるを以て、先英仏両国に駐剳すべき公使を選任されたりしは、二年九月の廿七日にして、英国へは外国奉行合原左衛門尉、仏国へは同浅野美作守(元伊賀守)と定められたりしが(英国公使は、後に塚原但馬守に命ぜられたるも、未だ任に赴くに及ばずしてやみぬ)後また改て仏国駐剳公使には外国奉行向山隼人正(今黄村)を命ぜられたり、向山は、名を栄五郎といふ昌平学校にありて英才を以て目せられ、後に歴任して外国奉行支配組頭となり、特に擢られて目付に任じ、閣老小笠原図書頭の文久三年の上京に随従して、其帷幄に参せしを以て、同じく譴責を蒙りしが、後また再び起用せられて原任に復し、かの条約勅許の際同じく小笠原閣老に
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随ひて尽力し、今また此重任に膺るに至れり、而して向山は予を荐て組頭とし、公使館書記官として其の任に従はしめたり、然るに予の慮浅く才疎に、一時緊急促逼の事情に迫られて、断然不動の勇なく、一大錯を鋳成するものと見做さるゝに至り、此知己なる長官をも累して更迭の沙汰あるまでにいたらしめしは、今に至るまで追恨措くこと能はざるものなり、そは自らいふも慚愧に堪へざれば、下文に向山が弁解書を抄載して其事情を示すべし、
かくて公使の任命も定れり、博覧会に参して出品すべしとの議も決せり、この機を以て、幕府は此国の実際主権の存する所なるを公示して其祖宗以来の基業を固くせんとの方略をめぐらし、将軍の令弟、徳川民部大輔昭武を以つて、清水家の相続とし、これを日本大君の名代として、先博覧会儀に参せしめ、現に各国帝王と親しく交を結び、猶締約各国をも巡聘せしめらるべしとのことを以て、十二月廿日を以て、其沙汰を行れたり、これ蓋し仏国公使ロセスが内々にすゝめまをせしものとしらる、而してその猶幼年におはせしを以て、目付、山高石見守(今信離)を以て、これが伝に任ぜられ、且本官を以て公使の職務を監すべきを命ぜられたり、
翌慶応三年正月十二日、民部公子は、公使向山隼人正と共に仏国郵船に駕して出帆あり、随行の外、仏蘭西在長崎の岡士ジュレー、職事を帯び帰国の次を以て、往路船中並上陸等の用弁を達すべきを命ぜられ又英国公使館の通弁、アレキサンドルフオンシーボルトも、帰省の便を以て、同じく公子に陪随して、通弁其他の事をも弁ずべしとの命を受けたり、公子の斯行は、実に大君の地位を西洋諸国に顕揚すべきの挙なれば往路着船上陸の場所々々、其の接待振等は殊に注意を要し、体面を傷けざるやうはからふべしとは、別段に訓令を奉ずる所なれば差向香港着の折、祝砲の手続等は、最懸念する所なり、(これ英国にては、既に幕府を以て日本統治の権あるものと認めず、たゞ諸侯中較大なる者とするの説あればなり、)されば郵船の着するや否、先シーボルトに上陸せしめて、彼方待遇の如何を探らしめしに、いかにも相当の礼を尽すまじき状あるを以て、公子の事は別段公の披露をなさず、上陸総督の面会等、皆向山公使其一行の者にとゞめたりしが、紫棍は仏国の藩属なれば、廿一発の祝砲をはじめ、其他の礼遇、此方の意を満たすに足りにき、しかして三月の初、仏国マルセイル港に到着あり、こゝには柴田日向守が理事官として仏国に派遣せられし際に、日本コンシユルゼネラールとして、我用達を命じたりし、フロリヘラルドをはじめ、博覧会の事につき先発せし外国局の属僚数人来迎あり、其第一に訴ふる処をきくに、薩州藩の者琉球国王の使節と称して巴里にあり、博覧会にも琉球国産物陳列場の一区を借受け、これには琉球王国の名を標し、丸に十字の国旗を掲げ、既に去る開場の日にも、其者共は琉球国王の使節として式場に列れり、此事頗る国体に関する所ありかの幕府にして日本の政府たらんには、不問に附すべきものならじとの事なりき、はじめ今度の博覧会に、我国にも参向すべしとの議決するや、国内に布令して、これが出品をなさんと欲するものは、届出べしと告げたりしは、二年の四月中なり、而して薩州藩は、其在江戸邸
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吏を以つて、幕府にこれが出品をなすべきを報上せり、幕府は仏国人バロンレセツプを以つて、日本出品取扱の委員長に命じ、彼地にありて物品の取扱を托し、又此地より輸送其外を取計はしむべしとて、前にいへるフロリヘラルドの手代シベリオンを我国に来らしめて其事に斡せしめ、並に汽船イーストルンクインをやとふて、これが輸送をなさんとす、されば其物品の目録、及び重量面積等を預知せざるを得ざるを以て、数々薩藩の邸吏を召てこれを促したりしも、遠路未だその目録を得ざる旨を報じ、将物品は近に就きて長崎港より輪出すべしといひ出、其箇数は概ね五百箱にも及ぶべしと告げたり、然るにかの傭汽船が長崎に寄港せし際、同所にある仏蘭西コンシユルジユレーは薩藩士の嘱に応じて、その荷物五百〇六箱の内、二百五十箇をこの船に分載し、余は英人ガラウアの手にて輸出したりとは薩藩よりは報ずる所なかりしもかのジユレーより長崎奉行に報じたり、其船の江戸湾に回漕せし際、シベリオンは其荷物に琉球の符号あるを見出し、これを報知せしこともありしときく、されど琉球は原より薩藩の附属たりとは、幕府にても兼て認る所なれば、これを怪しむ所もあらざりし、なれども其荷物の事につき、委員長に予告すべき目録を得ること能はざりしには、頗る迷惑せりといへども、これ全く日本政府の手を離れ、琉球国王として、独立して出品すべき下心なりしとは計り及ばざりしなり、向山公使はこれに驚き、捨置べきにあらず、巴里到着の上は直に其事の談判に及ぶべしとの事なりしが、其七日に巴里に着し、公使到着の報と共に外務執政への面接等、通常の儀礼未だ了らざるに、その十五日、琉球王国の博覧会委員長との頭銜を記せる仏国人、コムトモンブラン、公使の旅館に来り、両謁を請へり、折柄公使不在なりしを以て、翌日を期し迎接せり、其時には彼のフロリヘラルドにも立合しめたり、公使はモンブラン役名の事より詰問ありて、語気頗る厲なりしが、モンブランも猶抗論して服せず、竟にこの儘にて立別れぬ、フロリヘラルドは其傍に在りて、一言をも発せず、彼れ帰去の後僅に口を開きて、今日に及びては、彼に一着の先を輸したり、仏国政府に向て談判すともいかゞあらんなどいひて帰去せしが、直に書を送りて明十七日博覧会場の事につきて、レセツプ方に会議あるべし、自分は日曜日なれば出席せざるにつき、公使附属書記官にても遣はさるべしといひ越したれば、公使は予に其の会に参すべきを命ぜられたり、これ前にいひし予が失事の一にして、委曲は次の弁解書にて明かなるべし、
 琉球諸島王と偽称いたし、博覧会に品物差出、政府に抵抗せんと仕組候ものゝ名代取扱人(即ちモンブラン)と、使節一行のものゝ内一人(即予)と申談、私に其号を定候との風説有之、右は全く風説迄に候はば、屹度の御沙汰は無之間、其心得を以て、委細の弁解可仕旨被仰渡、奉得其意候、右国王の名義、私に議定仕候との儀は、全く風説のみに候得共、薩摩より差出候産物の儀に付、掲額認方等談判仕候次第、自然右様に御聞込相成候と被奉存候に付、其節此方の模様、委曲の事情有体に左に陳述仕候間、右にて御諒知被下置候様仕度奉存候、一体、私共巴里到着最初、未だ外国事務執政にも面会相済不
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申内、当三月十六日、御国御用取扱候フロリヘラルドより文通有之明十七日、御国博覧会の儀御委任相成候バロンレセツプ方にて右会の儀に付会議有之候得共日曜日に付、自分は不相越、使節一行の内にて書記官にても御差出可然旨申越候間、支配組頭田辺太一に、通弁山内文次郎(今勝明)差添差遣候処、主人レセツプの外、外国局の役人、博覧会の儀取扱居候ドナと申者、並に兼て琉球諸島王の委任(原註、コムミセールゼ子ラール、即日本にてレセツプに被命候と同任に候)と、名乗居候、コムトモンブラン、松平修理大夫家来両人集会致居、(原註、本文家来は、岩下佐次右衛門と申者にて、太一入席の節は、殊の外鄭重に挨拶いたし、民部大輔殿当地御着の儀も、風聞にて承り候得共、不案内の土地、御旅館も不相分、御機嫌をも伺不申、御詫申上候抔申出候、就て太一より博覧会の儀に付ては、御触の趣も有之、其国産出品の事、江戸表留守居より申出も有之、其辺は如何心得候哉相糾候処、遠隔の事にて聢とは承知不致、兎に角右一条は主人よりモンブランに委任候事に付同人より聞取候様有之度、自分共は此席に列座候とも言語も了解不致迷惑候様申、会議中、佐次衛門丈けは竟に中座にて退去いたし候)モンブランよりは、昨日全権使節と談懸の一条、此席にて談決可仕旨申聞候に付、(原註、此儀、当十五日モンブラン事旅宿へ相越、面会申入候処、私不在中に付、此より挨拶に及旨申答翌十六日フロリヘラルド為立会、同人へ面会候処、琉球諸島王より委任を受、博覧会事務取扱候間、日本大君政府全権と、委任の証照合の上、談判致度様、不取留義申立候間、程能説破いたし、差かへし候事に候、)琉球諸島王と申立候とも、先日本琉球との干係相糾候上に無之而は、談判は致兼候事につき、其儀もレセツプには如何心得候哉、と太一よりモンブランは差置、先レセツプに申談候処、両国干係等のことは、政事上の儀にて、博覧会に係り候事に無之、此会の趣意にては、何れの国土にても、何れの人民にても、品物差出候事望に候者へは、為差出候迄のことにて、其辺の頓着は無之筋に有之、モンブラン申候通、御聞届にて可然とて、取合不申、いづれもモンブランを庇護候様子相見え候為、前文ドナと申ものは、外国局役人と承り候上は、全く政治上に関係不仕とは難申と存、右のものを別席に延き、太一より御国琉球との事跡、即島津家先代幕命を以て征服いたし、爾後同家の附庸として参覲いたし居候次第、荒増話し聞け、且既に琉球国王と相唱候に至り候はば、取も不直、日本部内に新に独立の一邦相立、日本と比肩並立候て、万国に交際候筋に相当り可申、此程都児格国内にて、新に一独立国出来候事も有之、仏国政府にては、琉球を以て、右同様に認居候事有之候哉承り度旨、申談候処、新規独立の事は、為に条約も御座候事にて、琉球島の儀は左様に心得不申旨、相答候間、さ候えば琉球は即薩摩の分内にて、日本の一部に有之、別に琉球と唱可申筋有之間敷、事実の如く薩摩と相唱、日本の部内に、産物陳列候事相当可有之、申聞候処、了解いたし候様子にて、元席へ立戻り、レセツプに向ひ、多時相談仕候処、モンブランには余程憤怒の気色相見え候得共、論争仕兼候哉、レセツプにも庇護いたし兼候事と相見え、申談候通り可致旨申聞候、さ候得ば此迄博覧会場中掲額に、琉球と相記有之候分は悉く相削り、博覧会目録中、琉球諸島王と相記し、サマゼステイの尊号御座候分も相改め、爾後右出品には、薩摩と相記し、尤別区に陳列の事は差支無之候得共、(原註、此儀、先年薩摩藩士当国に相越居候節、博覧会場にて、既に一区の地を借有致し居、此度御国より出品の儀被仰入、右委任レセツプへ被命候以前に有之、右故夫迄御国にて借入候地に取纏めさせ候様には相成兼候事に候)其上に日本と特書いたし、只今迄建有之候丸の中十字の旗章に引かへ、日の丸御旗為引揚候様申談、レセツプ、ドナ両人とも引受取計可申旨申聞候、(原註、此儀、私共当地到着早々博覧会の模様為承合候処、場所掲額、東洋関係の区内には
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阨日多、堵尼素、暹羅、支那、交趾、琉球、と大書致し有之、却て日本と申字は更に無之、且品物目録中にも琉球諸島王、松平修理大夫源茂久と認有之サマゼステイの尊号をも冠らせ有之候て、此方より御差出可相成品物に付而は、何の記載も無之、且四月一日、開場の式席にも、前文岩下佐次右衛門事、琉球諸島王大使(原註アムパスサドール、国王の名代たるべき頭等の使節に有之候)の名義を以て参列いたし候由、畢竟御手後れより生候不都合にも可有之候得共、さ候而はレセツプに折角御委任御座候詮も無之、却てモンブランと朋友の私情より、其事を左右致候哉にも被疑申候)乍然、席上の談話のみにては爾後の証に不相成候間、慥成書面為取替置度旨、レセツプ申出、且申聞候には、自分事、日本政府より博覧会の御委任御座候上は、御国にて御出品の儀は、一々自分手を経可申筋に有之候然に薩摩産物に限り、最初より其手を経不申、勿論其事に付政府より御沙汰も候得共、聢といたし候目録も未落手不致候間、跡より輸送可相成哉抔存居候位の儀に有之、却てモンブラン方にては、琉球諸島王の名義を以て万事取計、場内地所受取方、其外の談判共、日本政府より被差遣候使節当地在留の眼前にて、無憚為相済、何の故障も不被申出、其姿にて相済候事、(原註、此儀、先年柴田日向守製鉄所機械御買上御用にて、仏国へ相越候折柄、修理太夫家来、新納刑部と申者、当地へ相越居、其節博覧会の談判等いたし候事に有之候哉に承り及申候)其節、自分には御国政府より博覧会出品の取扱被命候得共、右に付柴田より談じも不承候間、右にて宜敷事と心得罷在候処、只今御談の趣にて、委細了解仕候間、引受取計可申心得には候得共、最初より別手に取扱候事故、自分の権無之間、今日席上御談の趣に基き、証書為取替、慥に根拠相座《(マヽ)》えば、モンブラン儀、自尽の振舞は為致間敷との趣に候間然ば右証書案認め可申旨、太一より申談、ドナ執筆相認太一へ相示し候処、政府御出品の上には、日本と特書いたし、御国旗相掲げ、其下に征夷大将軍云々御職名相記し、クワントウタイシユのグウエルマン(原註、政府と訳し来り申候、)と相記し、薩摩品物の上には、同様日本と記し、サツマタイシユのグウエルマンと相認、将右文案中、御国旗の事、ミカドの旗下云々と有之、関東太守の御唱号は、素より有之間敷筋、且ミカドの旗下と申候上は、薩摩と同等比肩の者と相見え日本の主権御掌握被為在候事とは相見え不申不都合の段は極口説破いたし、条約面に基き、日本大君政府と記し可申旨申談、右にて押据候得共、薩摩太守のグーウヱルマンと記候一段に到り、其名義不都合に付、只太守とのみ認可申旨申聞候得共、モンブラン事何分承服不致、(原註、此儀、モンブランよりレセツプに論談候趣、通弁の者傍聴候処にては、薩摩大守は、農にも工商にも無之間、自分出品可致様無之、即其国産を取集め差出候者に候上は、其政庁よりの出品と記候方、当然と主張いたし候様に承り候由に御座候、)
 談判も此迄にいたし、今日席上の相談は取消可申と申出候間、此方にも左様相心得委細帰館の上全権へ申立可申旨申答、引分れ立帰り可申積にて、太一も其座を離れ候処、レセツプ、ドナ両人にて達て引留、今日の御談にて、琉球島王の称呼も相刪り、一同に日本の国旗を掲げ、且日本との文字も掲候事迄談判漸く相詰り、たゞ此一語の刪不刪にて不相纏候得ば、博覧会場面は、此迄の姿に差置候より外、両人も処分無之、一体明日は、国帝会場巡視も可有之に付、御都合相計、日曜日をも不論、今日の会議相催候位の処、右様の次第にては、有形の儘、琉球の文字も、琉球の旗章さし置、夫にて国帝の一覧被経候御心得に候哉、尤も右は日本政府の御都合次第、仏国人より彼是申上候儀には無之候得共、枉てモンブラン申条丈け承諾は叶申間敷哉と申聞、何分此方申条通り相纏り可申様子に無之為、
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太一事も無拠決心仕、且事実グーウエルマンと申文字も、差して御不都合にも有之間敷と心得候間、然らば右改正候証書を以て、承諾の記名可致旨相答候(原註、此儀、仏語にてグーウエルマンと申候は、一体土地の支配の役所と申候義にて、縦令ばフランスのグーウエルマン、英吉利のグーウエルマンと唱候へば、勿論其国君の政府に有之候得共、香港のグーウエルマン、加那太のグーウエルマンと唱候へは其土地々々の政庁と申儀に相成、其所用に依り軽重御座候趣に心得候に付、薩摩産物の上、日本と特書いたし、御国旗も為引揚、其下に云々と相記候上は、独立の姿には相当り申間敷、其上政府出品の分には、日本大君と特書いたし、右大君の御称号は、各国御条約面にも著しく、誰人も承知可罷在候儀に付き、衆人嘱目の処にて、同列比肩のものとも見受け申間敷旁、不得巳場合に迫り承諾候旨、太一申聞候、)乍然、右グーウエルマンの文字畢竟両意に相渡り候間、モンブラン方にては、右文字刪去の事、強て不服を申立、夫より右に附会いたし、剰へ大君太守と申も同義抔との説、新聞紙に記載、伝播為致候事に相成候(当時予の見る所は、ルタムとフイガロの両新紙なりし、殊にフイガロにては、其日レセツプ方にて晩餐の饗宴ありしにより、遠東の傖夫、仏国醸造シヤパンの醇に酔味ひ、おのれの掌る所をも忘れはて此迄の化の皮を露し、かゝる調印をなせしならんと筆を放て嘲罵せり、当時その正誤弁解の為ラフランス新聞社へ投書せしも、これを掲載せず、是れ又恐くはモンブランがその故障をなせし為なるべし、)御聞込の趣は、全く右等よりの儀と存候、且修理太夫而已にも無之、追々松平肥前守よりも産物差出可申、且現に商人共の出品も有之。(吉田六左衛門、清水卯三郎、)右等も尽く出品陳列の上に標識の振合は、薩摩産物同様に可為致旨をも談置候、(原註、比儀、薩摩産物而已、右様の標識相掲候而他の出品は別段目立候程に無之節は、自然大政府と対峙候姿に相見え可申に付、商人共迄右様に看版為相打、家々紋印等為記候はゞ、御体裁相繕候儀と心得、申談候趣に候、)右にて記名仕、猶此一事に付而は、博覧会のみとも難申、自然政事上に干係仕候事に付、何れ公使より外国事務執政へ県合候義も可有之旨、申残し置、漸く当日夜五ツ時過帰館仕候而、前文の次第逐一私へ申聞、且グウヱルマンの文字は、明日見分の間に合せ候心得より、不得已次第と存、承諾の記名仕候事には候得共、何分心障に被守候間、猶此上評議を被尽、右談判不宜との事に候はば詰り附属一士官の越度として、再応の御懸合出来不申義にも有之間敷と存候旨、太一より申立候、云々、○下略
 当時の事実、実にかくのごとくなりしなり、然るに上にもいへるごとく、此度の挙は、幕府の主権を固めんこと、其大主義たりしに、いかでかゝる事を見逃すべき、予は忽ち帰朝の命を蒙り、将に罪を正されんとし、又特に栗本安芸守を以て、留学生を率ひて巴里に来らしめ、又向山公使と議する所あらしめんとせり、其初命は、かくのごとくなりといへども、其実はこれに代らしめんとせしものなり、されば幾もなく向山も亦帰朝して、栗本代りて公使たるに至れり、栗本は、爾時の情を記し、向山の其僚属の言を偏聴して、仏国人との折合よろしからざりし、といひしは、蓋し其微罪を挙たるものにして、其実は彼にありて此に在らざるがごとし、而して其仏国人との折合よろしからざりし事は、また其由なきにあらざりし、
 初め仏国ジヱスウツト派の宣教師、メルメツトカシヨンは、久しく我国に在り、我言語にも通じ、我事情をも諳ぜるを以て、公使ロセスの我国に来るや、直に挙て通訳の任に膺らしめ、又兼て書記官の職務をも勤めしめ、国事上談判の事、其中間にありて、大に尽力する所あり、且仏語学校を開、幕府人士の子弟其他を教育するも、最其力を致せり、されば此度の事も、公子に随陪して、万其周旋をなすべきあらましなりしが、所用ありて公子出発の際、これに随行するの期に後くれたるによりて、かのジユレーをして途上の世話をな
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さしむるにいたれり、されど公子が国帝謁見の時までには、カシヨンも巴里に来り、其儀式に参し、通弁の職をつとめて、此はれの場所に、己が名誉を施さんとは、其下心なりし、然るに其数日をおくれしのみにて、恰も謁見の二日前に巴里に来着せしにも拘らず、向山公使は謁見の節、随行の員を定め、これをかの外務大臣に通牒するに、随行の一員、保科俊太郎を以て通弁の役を執らしめんことを以てせり、さればカシヨンは、自から外務局にいたり、己の其任にあたらんことを請ふにいたり、外務局よりも、其内意を公使に通ずるに及べり、而してカシヨンは予に面して、其所以を詰問せり、予はこれに答へて、保科は既に子が教育を受たる人物なり、然るに今仏国の語に熟して、此盛儀に参し、通弁をもなすべきに到りしは、子が教ふる所の如何を示すにたるべきものにして、子の栄誉に於ては、自から其場に参せんにまさる事幾倍なるべし、公使の此儀にあつて子を用ひざるは其故を以てのみ、さる不平のあるべしとは意外なりとて、これを斥けたり、然るにこゝに一の不都合を生ぜり、そはかのシーボルトが此儀に参して、謁を賜るべしとの事なりき、これ我方より請求せしにはあらざれとも、かの父は、東洋学者を以て欧洲に名を得て、随て仏国帝にも親しく(鎖港談判使節の条参観)又其知己も多かりしなるべし、されば我等が知らざる間に、其筋に周旋して、此栄誉ある席に出づるの楷梯を得しにや、又は現に我国にある英国公使館の随員の一たれば、邦交上かれこれを省くに遠慮せし所ありしかは知ざれども、外務大臣より通牒上、明に其名を載せて引見あるべし、と告げられたり、前にいへる如く、公子一行の国を発する時は、シーボルトは、かのジユレイと共に、途上周旋のことを嘱せられたるに、シーボルトは、我が言語にも諳熟し且年尚少なるを以て、公子をはじめ其以下のものも、自から交も新しく、用ひらるゝ所も多く、ジユレイは殆どあるもなきがごとくなるさまなりしかば、娼妬の余、深く我等がシーボルトを偏信するものとおもひ、カシヨンにその事を訴へ、カシヨンも安からずおもひ居たる折から、又かゝることさへ生じたれば、カシヨンの激する事益々甚しく其夜は十二時頃まで、予が室を去らず、かにかくと論じて已まざりき、されば公使は終に議を更めて、謁見の当日公子の口上をば保科これを通じ、仏帝の答勅はカシヨンこれを通ずることゝして此儀式を了りたり、これよりして予との間も何となく平なる能はず、公使をはじめ一行のものとも親しく往来することもなく打過ぎたりしが、此不平は必ず我国駐在公使に訴ふる所なきにあらざるべし、将又公子には、博覧会事終るの後は、こゝに留学あるべしとの事にて、教育の事は、将軍より親しく仏帝へ頼み入られたることゝて、陸軍中佐ウイレツトを撰みて、其の任にあたらしめたれば、ウイレツトは、己の知る所の士ボアシユアをすゝめて公子仏語の師とせしが、引違ひて、閣老より、カシヨンを以て、公子の師、並に国事談判の通弁に用ゆべきを令せられ、且シーボルトの傭を解くべきの訓ありたれども、事既に後れたれば、たゞ通弁の用にのみ充つべきを上申し、且シーボルトは固より途上の用を弁ぜしめたるのみにして、今は既
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にその傭を解き、本国独逸に帰りしよしなも報ぜり、されど此下令あるに及びしにて、当時如何にかのカシヨンが我等の所為に憤を含み、又ロセスが如何に我等に不平ありしやは知るべし、
 扨民部公子謁見の式了るや、仏帝には、皇室の宴会夜会等には、いつも招待あり、自からその太子と公子とを左右の手に提て、来会の各国帝王皇族等にも紹介せらるゝほどなりしかば、かの博覧会場の云々より、誹謗を肆にせし新聞の噂も、いつしか烟散して、日本公子の名世に嘖々称道せられ、尊崇せらるゝに及び、かの此挙を以て幕府の基業を固めんとの政略は、その欲する所を達せしもののごとく而して、かの琉球王国の大使は、博覧会の未だ果てざるに、其蹤跡を知ものさへなくなりたり、(時に風説せる所にては、負債漸く嵩み、加るに注文の武器等追々成るに及び、その代価の仕払方にも差支ふるに至りしかば、其蹤をくらましたるものなりと、既にその王国の勲章を帯、これがゼー子ラルと称せし仏人、オゴツトは親から我公使館に来りて、日本に用られんことを請ひしことさへありき、後に聞ところにては、其事の為なりしや、否は知らざれども、モンブランは再び自から日本に来り、鹿児島に至りしに、通弁として携へたる斎藤健次郎は其地に暗殺せられ、其志を得ざりしが、維新の初に当りて、朝命に依りてコンシユルゼネラールに任ぜられ、かのフロリヘラルドと代り、所謂琉球王国云々はこゝに全く消滅せしと、)されど、事既にかくの如くなるに至りては、交際上自から夫相応の準備なかる可らず、故に巴里の公園ボアデブログの傍に一邸を構てよりは、猶更成丈は費を省くといへども、公式の礼事をはじめ、門者侍者皆それぞれの服を着せしむなんど、其他の事に到るまで、彼中佐ウイレツトの沙汰として、万般華美を尽して、其威厳を保つだけの用意をとゝのふに到りて、経費上匱を告げざるを得ざるに及べり、公子は博覧会閉場の後は、将軍の名代として各国を歴聘せらるべきは、出発の時既に其命あり、また各国政府にも、公に通牒ありしことなれば、今更中沮し能はず且其事を果てたらんには、巴里に留学あるべきあらましなれば、早く其公事を終へて、専心学業に従事あらんこと、一日も猶予すべきならず、さりとて本国よりの資送を待つには、いつを斯すべきとて公使をはじめ首を疾しめたりき、一体公子の出発の際には、小栗上野介より内談あり、上海なる仏国マサジヱリー会社長クレーと議する所ありて、六百万弗の外債を巴里に起さんとす、されば公子の雑費は、給をこれにとるべしとのことなりし、クレーが巴里に来るに及びて、これを問へば、勿論其相談を受けて、其筋々々に照会して、必成を期したれど俄にして其約を解かるゝに及びたれば、今は奈何とも為しがたしとの事なりし、(勝安房伯が、其所著の開国起原に自叙して曰く、余一昨年十一月譴を得て閉居せしが比五月、(慶応二年)突然閣老奉書を以て登城すべきの命あり、閣老達して云、大坂より上命あり、速に上坂すべきなりと、予唯々謹で其旨を奉ず、(中略)、小栗上野介其他二名、予を引て別室に到り、窃に議し云、君今坂地より降命あり、必枢要の議に預らむ、知るがごとく方今危急の際なり、政府仏蘭西に托して、金幣若干、軍艦幾隻を求む、到着次第、一時に長を通討すべく、薩も亦時宜に応じこれを討たん、然して後邦内にまた口を容るゝの大諸候なし、更に其勢に乗じて悉く諸侯を削小し、郡県の制に馴致せしめんとす、是最秘密の議、既に大凡決せり、君定て同意を表するならん、若然らば猶上坂して説く所あるべきなり、と予論争徒に時日を消するの益なきを察し、口を不開、唯これをきくのみ、後大坂に至り、閣老板倉伊賀守に謁す、且関東の商議如何を問はる、予謹で答云、郡県の儀は、万国交際起るに当て当然の儀なるべし、今我徳川氏邦家万世の為に、諸侯を削小し、自から政権を持して天下に号令せんとするは、大に不可なるべし、真に邦家の御為を以て、此大事業をなさんと欲せば、先づ自から倒れ、自ら削小して顧みず、賢を選み能を挙げ、誠心誠意天下に愧ぢざるの位地に立ち、然後成すべきなり、此心神明に恥ぢず、此心泉下の祖霊に愧ぢず、信じて疑はざる時は、焉ぞ区々薩長を悪まんや、かくのごとくならば、臣不肖といへども事にこゝに従はん、有司輩の説くところ甚だ不可然、また決して成すべからざるの空議、将天下の怨を受け、其災害の至る所不可知也、希くは此議上聴に達せよ、臣従此譴責を蒙り死を賜ふも、敢て辞せざる所なり、と叩席論破数刻、云云、とあり、これ、蓋し此外債の議の中沮せし所以なるべし、)
 こゝに於て、公子歴聘の費其出づる所を失ひ、いかにすべしとの事
 - 第2巻 p.47 -ページ画像 
なりしかば、予は議を献じて曰く、公子は日本大君の令弟たり、その費用として逆為替を取組まんに、いづれの銀行なりとも、引受けざるの理あらじ、仏蘭西にては、比まで種々の事情ありて、いひ出すに妙ならざる所なきにあらずといへども、英の東洋銀行、荷蘭の貿易商会に計らば、決してこれが供給をいなむべからずとて、自から奮て二国に赴き、その事を弁ぜんことを請へり、公使はこれを容れて、兎に角其様子を探らしめんとて、当時英国にある留学生の頭取、川路太郎、中村敬輔、及び荷蘭の内田恒次郎(英国に留学の少年を送りしは、慶応二年の初にあり、荷蘭は前に述るごとし)に予より書を発してその事を問合さしめしに、東洋銀行にては、五千ポント貿易商会にては、五万弗を供すべきの旨を得たり、こゝに於て予は故らに其他に赴くにも及ばずして、巴里にて金子受取の手続をなし、こゝにこの費に当つべきの金額を得たり、然れば公子巡聘のことは頓に決し、先白耳義・荷蘭を初として瑞西より伊太利に及び、各々その君主頭領の引接を受けて、尊崇礼遇浅からざりき、しかるに英国にいたりては、香港にての振合もあれば、みだりにこれに赴きて、意外の辱を受けんも計りがたし、されば先各国を廻歴し、至る所に尊崇を受けたる上は、英国とても流石にこれと異る待遇をなし得まじとて、最後に同国に赴かるべき予定なりし、然るに伊太利にあるにあたりて、其都府に駐在せる英国公使よりして、此途次英領マルタ島の堡砦一見ありたし、然らんには該島の都督に照会して、軍艦を派して迎送せしむべし、と申入れたり、香港新嘉埠等、東洋にある英国の藩属地にての待遇は、公子の親ら歴しところにはあらざるも、其充分なるまじきはたしかに見る所あり、されど欧洲中にての状はいかゞあるべきやは、未だ試みざる所なり、これこそ英本国にての待遇如何をトすべき好機なりと見てければ、時に随従せし山高石見守は英国公使に対して、先其待遇の如何を問試たるに、かれはまた無頓着に、無論各国君主の令弟を迎接すべき礼を用ひんことを約したれば、即その請を容れて、英国軍艦の迎を受てマルタに赴かれ、其地にて特異の待遇を受け、一夜を都督の邸に過して、再び英国の軍艦に送られて、伊太利に帰着あり、されば此機を失はずして、英国を訪はるべしとの議定りて、伊太利より巴里に帰着ありて、直に英国に赴かれぬ、
 英国にては、女皇たまたまウインドソル城に、暑を避け給へる折柄なりければ、正殿に於て迎接せらるゝ所あらざりしも、極て尊崇の礼遇ありて、巴里にありしとき、太子の交際ありし事ともいひ出でられ、特に公子の年少におはせしを以て、いたく親愛の情を呈せられき、されど向山公使が竜動にありて、時の外務大臣スタンレイに接して、我国駐剳の公使パークスが我大君に対せし尊称のことにつきて問ふところありしも、要領を得る能はざりき、次に抄せる当時対話筆記に見て知るべし
  (此方)此程、我大君襲職の初、各国在留の公使に謁を賜られ候節、各国公使は、皆マゼステイの尊称を用ひ候処、其公使パークス氏には、独りハイ子スの称号を被用候、右はマゼステイよりは一階下の称号と此方にては被心得候、右は全くパークス氏一己の了見に
 - 第2巻 p.48 -ページ画像 
て、右様被称候事にや、又は本国よりの差図有之候事にや、既に最前条約取結候節も、其約文の初に於て、双方共マゼスティの尊称相用ひ有之、対等の礼を用有之候処、右様の次第は如何にも訝敷被存候に付、御面会の序を以、御尋可申旨、本国政府より被命候
  (彼方)右は、固より此方より差図におよび候事には無之、乍然パークス於て、ハイ子スの称号用候とも、決して御国大君を辱候抔との存寄より仕候事には有之間敷被存候、就而は御国内にては大君を奉称候而、如何の尊号を被用候哉、ミカドとは、如何の差御座候哉伺度候、
  (此方)我国にては、礼文簡易に有之候而 概ねサマと申語を相用、即御門には、キンリサマ、大君には、公方サマ、と相唱申候、
  (彼方)何れに致候も、此方にては可否の御答は申上兼候間、パークス方へ申遣し、其答を得候上、猶御談可申候、
 これ我等が国を発せし後、各国公使大坂城にありて謁を賜はるの際英国公使而已、ハイ子スの称号を用ひたりしを以て、幕府も大に驚き、外国奉行して其故を詰らしめしに、彼かつて支那にありて、漢字に通ぜるを以て、殿下と称するは、即ハイ子スに相当するを以て、しか称せしとて服せざりしが、此を説破するに言なく、其まゝに過されたりしも、英国に至りし時は、その質問をなすべしとの命ありしを以て、向山公使は此問答ありしなり、公子の未だ英国に在るに方て、栗本安芸守の巴里に着せるあり、よツて更に議する所ありて猶余国へ巡歴あるべきことは、暫時見合さるべき事となりにき、
 此章を終るに当りて、こゝに一事の記すべきは我国にても勲章の制度を設けられたし、との向山公使よりの建議なり、
 蓋し既に万国交際場中に入りし上は、なかるべからざるの具なりとは、薩州藩の所為、幾かこれが刺激をなせしといへども、流石に向山公使の慧眼、早くこゝに見る所ありしなれども、幕府に於て未だ議決にいたらざるに、早くも大政返上の大改革に及びたれば、其事は行はるゝにおよばざりしなり、今こゝにその建議の文を抄して、以て論史者に告げん、
  西洋諸州において、軍陣戦勝者は勿論、凡百の功労有之者を賞し候ため、相与候功牌、メダイル杯相唱、金銀宝石等にて製造いたし、衣領間に懸候者有之、右者聊の品には候得共、当人に取候而者、無上の栄と相成、却而千金の賞より重候趣に有之、右者全く其国限りの者にも無之、他国帝王をはじめ、其臣民までも、功労の酬として差贈候風習にて栄名を以て、人心を籠絡いたし候一術として交際上第一の品と相聞候、御国において未だ右様の品御取設無之より、各国在留ミニストル任満帰国の節は、例の如く時服等被下置候得共、服飾の制相違いたし候間、晴の場所に着用仕候儀も不相成、折角の恩栄も、筐底に収置候より外無之候間、御恩恵も貫不申、何程骨折候ても其詮無之姿に付、自然尽力いたし候はり合も薄く相成可申候、然処、私共仏国到着已来、風聞承り候得ば薩藩の者共、四五ケ月以前より罷越居、琉球国王の使節と申唱仏
 - 第2巻 p.49 -ページ画像 
国人コムトモンブランに手寄り、其筋権家に取入、種々取工みの儀も有之哉、既に新規右功牌取拵、国帝並に事務大臣等へも差贈り外国掛り諸役人、其他骨折候ものへは与へ可申約束も御座候のみならず、海陸軍人の職を離れ、窮途に罷在候ものなども、手なづけ候て、琉球国のアドミラール、或はゼ子ラールなどとの職名を授け、此功牌を付与いたし候哉に相聞候、仏国人の内には右恩栄を悦び競てこれに左袒し、力を尽候ものも有之勢も相見え候、尤も国帝又は大臣等は、妄に受納も仕間敷候得共、国民にいたり候而は、東洋懸隔の国柄、深く御国の政体を弁へ不申、たゞ眼前の寵栄を以て、向背の勢相分れ、随而薩藩のため、奔波尽力仕候様相成候はば、夫より国人の輿論も相傾き、如何様の姿に可相成も難計、将薩の功牌、仏国人多数服佩致候はゞ、詰り薩摩琉球の名声各国に伝播いたし、末々は認而独立の邦といたし別に条約取結候国々も出来候運に相成候はゞ、即御国分裂の端を開候儀にて御国事此上如何可相成哉と杞憂不少候、就而勘弁仕候処、今般民部大輔殿博覧会へ為御名代参同被為在候儀は、御国御統轄の御実証、海外に被為顕、奸藩浸潤の詭策を、暗々裏に圧服可被遊御見込にも被為在候処、薩藩於て政府をも不憚、右様の儀取行候を、其儘打捨置候はゞ、弥以御威権諸藩に者不被行実証を示し候も同様に有之、去迚薩人共は自身は仏国政府へ引合不申、其国人身柄の者コムトモンブランに手寄り、穏然《(マヽ)》取工み、其筋のものも十分籠絡仕候様子に見受候間、公然仏国政府に懸合および候とも、彼方にては表立候儀に無之上は、右様不筋の事に候はゞ、直様薩藩に御糾問有之、其罪を被正可然義此方にて干渉可致訳に無之、と申遁れ可申は必定にて、迚も行届申間敷、さ候得ば、右奸謀を打破候為には、所謂伐謀の計に出候而、真偽判然いたし、薩摩琉球など申唱、頒与候功牌をば服佩仕候事、銘々耻辱と心得させ候様の仕向に仕候より外有之間敷存候、就而は、此迄外国人有功のものへ時服等被下置候処、服用にも相成不申、更に栄誉を公表候廉相立兼候間、右代りとして数種の功牌御取設、当地フロリヘラルドの如き、御国の為尽力仕候もの、夫々功労の等差に応じ、各種の功牌被下候様仕度候、既に前書申上候通り差迫り候形勢にて、一日御手後れに相成候はゞ、夫丈御国の害相長じ、追々深入仕候得ば、終に御挽回も相成間敷哉奉存候間、早々御下知御座候様仕度右様式等、見込の通別紙図面入御候覧間《(マヽ)》、右可然被思召候はゞ製造方等は、於当地手馴居候職方申付候様可仕奉存候、右者、山高石見守申談、此段奉伺候 卯三月


〔参考〕竜門雑誌 第五一一号・第三七―六三頁〔昭和六年四月〕 徳川民部公子の渡欧と英仏関係の一節(維新史料編集官 大塚武松)(DK020001k-0015)
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竜門雑誌  第五一一号・第三七―六三頁〔昭和六年四月〕
  徳川民部公子の渡欧と英仏関係の一節
           (維新史料編集官 大塚武松)
 私は只今御紹介を得ました大塚でございます。今日此席へ出ましてお話を申しますことは非常に光栄に存ずる次第でございます。極く話が下手な方でございますので、定めしお聴苦しいことがございませう
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と考へますが、暫く御清聴を願ひます。
 幕末に於ける我国の外国関係に於きまして、殊に終りの慶応年間に仏蘭西の公使のレオン・ロツシユ(Le'on Roches)と、英吉利の公使のハーリー・パークス(Harry Parkes)と、此二人が互に立場と政策とを異にしまして互に拮抗して居りました時代に我国と英仏との関係には幾多興味あり且疑問の事柄が残されてゐるのであります。皆様も既に御承知の通りに仏蘭西公使のレオン・ロツシユは、幕府を唯一の交渉目的に致しまして、特別親善な関係を幕府と結びまして、幕府が瓦解する其土壇場まで徳川将軍家を支持して援助すると云ふ態度を取つて居りました。之に対して英吉利公使パークスはどちらかと申せば薩長其他王政復古派の諸侯に関係を密接に致しまして、さうして互に各自が代表して居る国家の利益の為に、又其臣民の利益の為に図つたのであります。此事は疑のない事実であるのであります。併し其事柄に付きまして従来色々説話に或は著述に伝へられてゐます機密の事柄例へば我国の内政が頗る紛糾し困難であつた際に兵力若くは物質的援助の提供を申込んだことがある、或はそれに関する折衝が如何なる程度まで進捗してゐたか、或は其交渉が如何なる経路で行はれたのであるか、又果して密約と称し得るものが其間に存在して居つたか、又斯かる申出をした公使の真意が那辺に在つたか、先輩の御話に承ります処では、淡路島を割譲若くは貸与しないかと言つたこともあると云ふやうな、さう云ふ色々の事柄が伝へられてゐます。又英仏公使の我国に於ける行動が、総てセント・ゼームス政府の指令指揮若くは「ナポレオン」三世の内命に依つて行はれたかの如く申されて居るのでありますが、これが果して其真相を得たものでありませうか、或はこれ等の政策行動は出先公使の自己の考から行はれたのではないかと思はれますので、かゝる種類の幾多の事柄が疑問として残つて居るのであります。でこれ等の疑問を解決すべき確実なる資料は極めて乏しく、従来の論説は概ね一二実歴者の遺著説話、当時の風説等から述べられたものゝ如く尚ほ研究を要すべきことであらうと考へるのであります。私は今日此席でこれ等の疑問に付て明確に申上げやうと云ふ程の材料も持ちませぬし、又研究も未だ不充分でありますので、唯其片鱗を窺ふ一節と致しまして、是迄維新史料編纂局で手に入れました旧幕府外国副総裁でありました川勝近江守広道の秘筐に蔵せられた史料と、私が先年外遊中欧洲で獲ました一二資料等に依りまして二三の事実を申上げて、幕末に於ける我国と仏英両国との関係の一端を髣髴させて見たいと思ふのであります。
 本題に入るに先だちまして、皆様既に御承知の事でありませうが、一応徳川民部公子渡欧前に於ける英仏公使の関係に就て概要を掻摘んで申上げて見たいと思ひます。
 幕末外交史上で大立物でありました仏蘭西公使のレオン・ロツシユはチユニスの総領事から駐日公使に転任して参りましたのは元治元年の春、即ち千八百六十四年四月であります。此レオン・ロツシユが如何なる使命を持つて来たかと申しますれば、安政六年――千八百五十九年の横浜開港以来、横浜に移住して来て居ります仏蘭西人は極く少
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いのでありまして十人にも足らないのであります。又其貿易額から申しますと約十三分の十一は英国人の手に帰して、其余が蘭、米で仏蘭西は更に遥か下位に居ると云ふ状態であつたのみならず、日本政府即ち幕府及諸侯が、兵器軍艦等を買ひました其相手先の国は主に蘭、米でありまして、尚若干の英吉利の商人がありましたが、仏蘭西政府も仏蘭西人も殆どそれに関与してゐない。其他留学生の如き技師招聘の如き、レオン・ロツシユの前任公使ヂユセンデ・ベレクール時代には殆ど絶無と言つても宜い程の不振の状態であつたのであります。此状態を改善して貿易の拡張を図り、日本に於ける仏蘭西の優越ある地位を得させやうと云ふのがレオン・ロツシユの受けて来た使命であつたのであります。で彼は先づ日本へ着きますと直ぐ、安政六年以来我国に来て居りまして、我が言語にも堪能であり又我が国情に通じて居りました宣教師でありますメルメツト・デ・カシヨン(L'Abbe Mermet Cachon)日本で和春と云ふ当字を書きました。それを公使館の通弁官に任じて懐刀に致しまして、著任後約半年の間に於て将来活躍せんが為めに充分の基礎を築いたのであります。丁度ロツシユ公使の為に都合の好いことには、今まで我国駐剳外交官の牛耳を取り、且常に十数隻に近い軍艦を横浜の埠頭に浮べ千余の陸兵とを備へて威勢を張つて居りました英吉利公使のオールコツク(Rutherford Alcock)が、元治元年八月の英仏米蘭四国艦隊の下ノ関砲撃事件に関し本国政府の外相ロード・ラツセルの意思と齟齬した為に帰国を命ぜられ元治元年十一月に帰国して居ります。さうして彼の競争者であるハーリー・パークスが後任公使として来任するまで、即ち翌慶応元年閏五月、それまで約半年の間、彼は幕府に取入り幕府有司との間に親善関係を結ぶのに非常に成功したのであります。彼が著任後前述の方針の下に著々成功しましたことは、次の事柄を申上げれば略々御想像が出来るのであります。
 先づ第一にロツシユは幕府の所謂親仏派の人々と図りまして元治元年十二月に横須賀製鉄所即ち今日の横須賀海軍工廠の前身であります――小栗上野介の言つた所に依りますと、幕府は明治政府にえらいお土産を遺したと云ふ其土産の一つでありますが、其横須賀製鉄所の設計から技師の傭聘、器械の輸入、総てを仏蘭西公使が委任されることになりました。それが為にベルニー(Verny)と云ふ技師が態々我国に来まして技師長と為り建設経営せられたのであります。
 第二に幕府の歩、騎、砲、即ち三兵を更に改善する為に仏蘭西の士官を傭聘する為めの準備と、もう一つは横須賀の製鉄所に関係すべき我が吏員に仏語を学習せしむる必要上から、慶応元年の二月に横浜に仏蘭西語学校が出来ました。是はメルメツト・デ・カシヨンが函館に於て仏語の塾を開いて居つた、それを更に大規模にしたものでありまして、此カシヨンが一時それを主宰して居つたのであります。翌慶応二年の十月には、ロツシユは其得業式に臨んで賞品を学生に配り、ナポレオン三世の権威徳望に付ての長い演説抔を致して居るのであります。此処には塩田三郎、保科俊太郎、其他沢山の旗下の子弟が学ばれたのであります。第三に同じく慶応元年の二月には幕府の方で申しま
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すナポレオン・キヤノン、と申します十六門の大砲を輸入せられました。是は従来亜米利加抔から買取つた大砲よりも価も廉であり質も好いと云ふので、幕府では非常に珍重したのであります。これは其前年巴里に赴きました横浜鎖港談判使節の池田筑後守抔が、後に廃約になりましたので巴里廃約と申しますが、之を仏蘭西の外相と締結致しまして、例へば下ノ関の海峡――当時毛利氏が外船の通航を遮断し外船を砲撃して居りました、その下ノ関海峡の外船通航を使節帰国後三箇月以内に開くことが出来なければ、仏蘭西政府より派遣の提督に協議して其兵力を借りても、開くと云ふやうな条項がありました、あの条約に調印致しました際池田筑後守等が、別に軍艦兵器購入を仏外相と内約した結果仏国の兵器が我国に送られたのであります。第四に同じき慶応元年の五月には横須賀製鉄所建設に関する用務と、陸軍伝習士官傭聘の為めに、外国奉行柴田日向守が理事官として仏蘭西及英吉利に派遣せられました、其結果と致しまして横須賀製鉄所に多数の技師職工等が仏蘭西から来ることになりました。のみならず巴里の銀行家でフロリ・ヘラル(Fleury Herald)と云ふ者が、巴里に於て日本政府の代表者、即ち巴里に於ける名誉総領事と云ふものに任命ぜられて欧羅巴に於ける最初の日本代表者が巴里に設けられたのであります。尚陸軍伝習にはシヤノアン(Chanoin)及明治元年から二年に掛けて函館の榎本軍に投じました士官ブリユーネー(Brunet)其他二十名の仏蘭西士官下士等がこちらに来ることになつたのであります。
 以上申しました事柄はオールコツクが帰国してパークス新公使の来る迄の間に於て、ロツシユ公使が著任早々幕府との間に契約をしたのでありまして、従来仏蘭西の我国に於ける状態から見ますれば非常な躍進であります。ロツシユ公使は斯う云ふ手腕を持つた人であるのであります。それのみならず公使は更に貿易上に於きましても大きな計画を立てました。それは当時我国から外国に輸出致します貿易品中の重要なるものは生糸でありますが、其生糸は仏蘭西の里昂等に於て非常に重要な品物である。然るに我国からの輸出生糸の五分の四は英船に依つて倫敦に先づ送られ、さうして倫敦から更に里昂に輸入せられると云ふ当時の状態であつたのであります。これは仏人に取つては非常なる不利益であります。それでロツシユ公使は横須賀製鉄所の建設其他兵器の購入或は技師等傭聘の為に、幕府が仏蘭西に支払はなければならぬ代金の引換に、玆に貿易上の商権壟断権を自分の手に収めんとする計画を立てたのであります。即ち日仏聯合の組合商社を立てるといふことで後に、ソシエテイー・ゼネラル(Societé génerale)或はフレンチ・コンパニー(French Company)とも書いてありますが、さう云ふ計画を立てたのであります。此計画が何時頃から小栗上野介或は栗本安芸守などの間に起されたか能く分りませぬが、慶応元年の八月(千八百六十五年九月)勘定奉行小栗上野介等の伺書に
  ロツシユ公使の提案に依つて日仏組合商法を起し、之を仏蘭西の外相に通告すると共に、巴里に居る名誉総領事のフロリ・ヘラルに周旋方を命じ、横浜及巴里の両所に双方の代理者を置き、時の相場を勘へて両国から物資の売買を行ふやうにしたい、
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と云ふことに付ての指令を求めてゐるのであります、其指令即ち可否の裁許如何に関する文書はまだ見当りませぬが、此計画は段々熟したものと見えまして、翌慶応二年には和蘭総領事と亜米利加公使の二人から『日本政府は生糸の買占権を収めて、これを一定の外国商人に輸出せしむる計画があると云ふ風説があるが、斯かる計画は非常に不条理のものであつて、結局は日本政府の不利益となるであらう』と云ふ抗議を申込んで居る文書が見えてゐます。此商社に就ては後に申しますが、段々ロツシユ公使と幕府の親仏派との間に於で熟しつゝあつたのであります。
 斯くロツシユ公使が幕府に接近することに成功しました後に、英吉利公使のハーリー・パークスが慶応元年閏五月に赴任して来ました。御承知の通りパークスは早く孤児になつて、十幾歳の時から支那に渡つて、阿片戦争からアーロア号事件、それから英仏聯合の支那進撃に或は通弁官として、或は領事として、時には捕虜になつたこともあつたと云ふやうに、多年東洋に於ける経験を積んで、其才幹と声望とは既に高かつたのであります。のみならず当時横浜には十隻に余る軍艦が常に仮泊し、千人余の陸兵を擁して居つたので新来の公使であるにも拘はらず外交団中の威望は頗る高かつたのであります。此パークス公使は来任しますと直に如何なる事を計画したかと申しますと、先任公使オールコツクの遺策に依つて、条約勅許を幕府に要請しやうと云ふので、各国公使の間に勧説主唱しまして、慶応元年九月には仏米蘭三国公使と共に各軍艦を引連れて、将軍上洛中に兵庫沖に進出し条約勅許及兵庫の先期開港を要求する強硬談判を始めたのであります。之には其時将軍後見職でありました慶喜公が非常に苦心せられまして遂に十月五日安政五年の五国条約に勅許がなかつたのが此時初て勅許になつたのであります。パークス公使は著任後直ぐ斯う云ふことを計画して成功したのであります。此兵庫沖に各国公使が進出するといふ問題に付て、英公使は下関償金の三分の二を放棄することを条件としても兵庫の先期開港を主唱したに対しロツシユは兵庫開港の強請に反対し下関償金の受領を主張し、其他パークスの計画を阻止し又これを延引させることに努めたのでありますが、米蘭公使が英公使の提案に賛成しましたので、遂に英公使に引摺られて兵庫沖に参つたのであります。されば兵庫沖に滞在中のロツシユ公使の態度は幕府有司に対して或る種の要求に就き談判する側の執るべき態度ではなく寧ろ幕府と英吉利公使との間の調停者と云ふ如き態度を取つて居たのであります。是は文書の上にも又幕府側の実歴者の談話等にも伝へられてゐる処であります。
 斯くロツシユ公使は前に申上げた様に種々幕府と利益ある新契約を結んだのみならず、幕府との関係も非常に親密になつて居るのであります。一方英公使は既にオールコツク時代から我が国情に付て、一つの見解を持つて居りました、その見解といふのは、
  攘夷即ち外人排斥の運動――而もそれを王政復古派或は幕府に反抗する諸藩が利用して幕府を苦しめて居ると云ふことは、既に文久三年頃からは外国人にも分つて居りますが、此外人排斥を以て幕府
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を苦しめつゝある諸侯の真意は、幕府が外国貿易を壟断して、内心には自領内にも開港場を開いて外国貿易の利益を得たいと希望して居る諸侯に其権利を与へない、其不平から起るものである。即ち諸外国と日本帝国との外交関係に於て屡々難問題を惹起する根源は皆此処に在る。
と云ふやうに解釈して居ります。現に文久三年英外相ロード・ラツセルから『諸侯の中で開港の意思がある者があれば大に考慮せよ』と云ふことを公使に命令して居るのであります。英公使の此見解は文久三年七月、英艦隊の鹿児島砲撃後、薩人の態度が一変を致しまして英人へ親善を示すに至つたのみならず、慶応元年には薩摩の五代才助、新納刑部等が欧洲に渡航しまして、白耳義に於てコント・モンブラン(Comte Monblanc)――此人は文久二年、我国に三箇月ばかり滞在した人でありますが、此モンブランと薩人との間に一つの組合商社組成の契約を為し、モンブランからは日新の器械其他を送り、薩摩からは国産を送ることを実行せんと計画して居るのであります。斯の如き薩摩の変つた態度、並に元治元年八月下ノ関砲撃の際、及其後に於ける長州人の行動及言論中にも、長州は外国貿易開始の希望を有つてゐることが示されて居ります。これ等の事実に依り英公使は一層信念を堅くしたのであります。のみならず此パークス公使には文久三年以来我国に来て居りますアーネスト・サトー(Ernest Satow)或はアストン(Aston)とか、或はミツトフオード(Mitford)と云ふやうな人々が公使館員として我が国情にも通じ、特にサトーの如きは薩長其他諸藩の人々と私の交際もあると云ふやうなことで、日本の国情に付て比較的正確な材料をパークス公使に提供して居りまして、パークス公使はそれに依つて時々の政策を定めて行つたのであります。或は鹿児島を訪問し、或は宇和島を訪問し、或は福岡を訪問し、其他長州をも訪問すると云ふやうな自由の態度で、ロツシユ公使が幕府に接近すると云ふ一点張りであつたに反して、自由放胆的な態度で我が国情時局に適応して、政策態度を定め、自国の貿易擁護増進を図つたのであります。でありますから幕府の親仏派の人々等からはパークス公使は憎悪せられ、又ロツシユ公使に対しても両々相対して異る方針態度を取るやうなことになりました。そこでロツシユ公使は、パークス公使が幕府へ反抗しつゝある諸侯と個々に交渉を行ひ余りに接近し過ぎると云ふので、英国政府に抗議する様にと本国政府に要求するに至りました、その趣旨は『英公使は諸大名と直接交渉を為しつゝあるが、是は条約の趣意に悖り外交団全体の利益を害するものである、此の如き行為は条約の擁護者且つ実施者であるべき大君即ち将軍政府の権威を殺ぎ、遂に日本全国を兵乱に導くものである』と云ふのでありまして、此趣旨を以て英国政府に抗議せんことを本国政府に求めて居るのであります此仏国政府の抗議に依りまして、英国政府は千八百六十六年即ち慶応二年の正月、パークス公使に対して改めて『貿易開港を希望しつゝ諸侯と個々に談判することは女王政府の賛成せざる所である、寧ろ中産階級である貿易業者の興隆を図つて、それに依つて大君政府即ち日本政府の位置を鞏固ならしめるやう機会を捉へんことを望む』旨を訓令
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しますと同時に、仏国政府に対しましては『パークス公使はミカド即ち朝廷、大君即ち将軍及諸侯の間を調停するに最も周密慎重なる考慮と態度とを取つて居るものである。英政府は彼の行動に対して信頼しつゝある』と云ふ返事を送つて居るのであります。斯くの如くロツシユ公使とパークス公使とは相対立して、各自国の利益を増進するに競争して居つた頃遥か海を越えて巴里に開かれました世界博覧会に参列せられ、同時に仏国に留学せられると云ふので彼地に赴かれました慶喜将軍の御舎弟の徳川民部公子、即ち昭武公子一行中の英仏両国人が互に自己に都合の好いやうに計画を運らし、恰も極東の天地に於て英仏公使が揉合つて居ると同じやうに、公子の一行を繞つて、巴里に於ても英仏人が盛に暗闘拮抗したのであります。それと又同時に民部公子より半年程後れ、特別の使命を以て渡仏しました栗本安芸守と、民部公子に随従してゐました人々の中との間にも是亦意見の衝突があつて幾多の波瀾が起つて居るのであります。其間の事情を今日お話し致しまして、若干幕末に於ける仏英と我国特に仏蘭西と幕府との間の関係を明らかにして見たいと思ふのであります。
 前置が大分長くなりましたが、巴里に於て世界博覧会が開かれましたのは千八百六十七年、慶応三年であります。此年に巴里を訪問しました我国の使節は、民部公子一行の外に前年樺太境界談判でペテルスブルグに派遣を命ぜられました外国奉行小出大和守が往復とも巴里に立寄つて居ります、又御承知の通りに薩摩の岩下佐次右衛門(方平)の一行が、琉球国王兼薩摩の太守島津氏の使節として博覧会用務で同じく巴里に行つて居るのであります。此岩下方平の一行と幕府の向山隼人正、田辺太一等の間に、博覧会会場の徽号問題に付て大なる論争が起りましたのみならず、此一行は将軍は日本に於ける真の主権者ではないと云ふことを大胆に彼の地に宣伝を為し、幕権打破を海外に於て盛に行つたことは皆様既に御承知の事でありませう。
 仏蘭西政府が博覧会参列を幕府に求めて参りましたのは慶応元年でありましたが、其参列者の人選に付ては暫く決定をしなかつたのであります。所が、前に申しました通り元治慶応に亘つて薩人の五代才助等及長州人などが欧洲に密航しまして盛に活躍することは、幕府に於ては国憲を紊すものであると考へましたので、帝国日本の主権は徳川氏に於て取扱つて居ると云ふことの実際を欧洲各国に示さうと云ふ考から、慶応二年の十一月になつて、初て将軍の舎弟を将軍御名代として送ることになつて、徳川昭武公子が清水家を相続せられまして正使になられ、之には御傅役として山高石見守外七八人の御附の人が随従いたし其事務の方には渋沢篤太夫、即ち今の子爵閣下、御附の医者には高松凌雲抔が任命せられました、又別に外国奉行の向山隼人正が駐仏日本全権と云ふので、所謂全権公使として同行し、其下役として組頭に田辺太一氏以下数人が附属し、又保科俊太郎、山内文二郎等の留学生が加はつて、慶応三年正月に横浜を解䌫して三月七日(千八百六十七年四月十一日)に巴里に著かれグランド・ホテルに投ぜられたのであります。
 さて民部公子の御一行中に二人の外人が同船し、旅中の用務を弁ず
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ると云ふことになつて居ります。一人は長崎駐剳仏蘭西領事のジユーリー(Dury)と云ふ人、一人は英吉利公使館通弁官アレキサンダー・フオン・シーボルト(Alexander von Siebold)、之が賜暇帰国の序でに船中の用務をすると云ふので同船したのであります。尚一船後れましてロツシユ公使の懐ろ刀であるメルメツト・デ・カシヨンが矢張お世話をする為に仏蘭西に帰つたのであります。航海中ジユーリーは殆ど有るか無いかの状態であつたに拘はらず、シーボルトは非常に使節一行の信用を博したのでありますが、此アレキサンダー・フオン・シーボルトは御承知の文政事件を起して一度我国を退去し、安政六年(千八百五十九年)に再渡しましたフイリツプ・フオン・シーボルトの子供で、其時に連れて来られまして、それ以来父が欧洲へ帰つたに拘らず、日本に留まつて邦語を学び、各国語にも通じてゐまして、其当時英吉利の公使館の通弁官であつたのであります。それから又後れて民部公子の一行に加りましたメルメツト・デ・カシヨンは夙に南清の布教に従事して居りましたジエシユイツト教の宣教師であります。安政五年、千八百五十八年に仏蘭西の使節のバロン・グロー(Baron Gros)が条約締結に来ました際に通弁として江戸へ参つて居ります。続いて翌安政六年仏蘭西の総領事ジヨセンデ・ベレクール(Duchesnde Bellecourt)が赴任して来ました際に通弁官たるべく渡航したのでありますが、何故か彼は江戸に留らず函館に行きまして函館で日本語を学び、同時に小塾を開いて仏蘭西語の教師をして居つた、其当時栗本瀬兵衛後に安芸守、或は後の大阪町奉行である井上主水正、其他函館奉行所の人々と親交を結んだのであります。此関係がロツシユ公使の通弁官として公使を幕府に結付け、幕府有司の一部に親仏派を形成するに非常に役立つたのであります。其人物は栗本安芸守の書翰にも見えて居ますやうに、外柔内残と云ふ四字で栗本は友人でありながら斯く評して居るのであります。即ち外観は順柔であるけれども内心は残忍である、中々の癖者であると評して居るのであります。それで彼は民部公子一行に同行し、巴里に於て大に活躍を試みやうとして居つたのであります。
 此カシヨンとシーボルト二人の民部公子及び向山全権一行に対する雇傭の関係、即ち両者に対する委嘱の用向、並に雇傭の期限等に就ては向山隼人正、山高石見守等が未だ横浜を解纜しない以前に、幕府老中から次の如き明瞭なる命令を受けて居るのであります。それは仏蘭西公使からの提言もあることであるから、民部公子が仏蘭西へ著かれた後は、博覧会の用件は勿論公式の談判一切にカシヨンを通弁として使用し、又公子御附の教師にも彼を採用するやうに、又シーボルトは元々航海中用弁の為に雇はれたのであるから、公子一行が巴里へ著いたならば直に之を解雇せよと云ふ命令を受けて居るのであります。所が著仏後の関係は全く此指令の趣旨と一変してしまつたのであります。カシヨンが公子一行の船に一船後れて巴里に来て見ますと、彼の予ての希望は全く裏切られたやうなことになつたのであります。それは民部公子が巴里に著かれましてから一週間を経ました西暦四月十八日附シーボルトから英国外務次官のハモンド(Hammond)に送りま
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した報告書の中に斯う云ふ事が書いてあります。
  予に対する向山全権、山高守保傅《(マヽ)》、其他日本人の信頼は幸に頗る厚きを加へ、向山は親しく予に向つて若き公子を宣教師の手に委ねない為に、予に長く一行に随伴し、英国其他欧洲諸邦歴訪の際にも依然同行せんことの希望を申出でた。予も此若き公子を全然仏人の手に委ねることは頗る遺憾の事であると思ふ。何となれば仏人教師に依つて此公子に植付けらるゝ思想感化は将来の日英両国の関係に相当重大なる影響を及すであらうと考へるからである。幸に此申出があつたから予は本来の職務即ち日本に在る英吉利公使館の通弁官と云ふ本来の職務を曠廃する嫌ひはあるけれども、公子と同行しつつ英国の為に利益を図らんことを希望するから何分御承諾を得たい
と云ふ趣旨であります。即ちシーボルトは民部公子一行に同行しつゝ英国の利益を図らう。即ちロツシユ公使やカシヨンが民部公子の巴里訪問に就て仏国将来の利益の為に計画しつゝある其策謀に茶々を入れて、公子一行を出来得べくんば英国に引付けやうと云ふ意思を持つて居つたことが明かであります。即ち此カシヨンとシーボルトの両人は全然両立の出来ない関係に在つたのであります。英国政府は此シーボルトの願意を承認し長く民部公子に随従する許可を与へたのであります、シーボルトは更に四月二十九日附の報告書で、
  予は向山全権が仏外相マーキー・デ・ムースチエー(Marquis de Moustier)と第一次会見を為した際に、向山から一行の随員として予を留めると云ふことを告げた結果が如何であつたかを心配して居つた。所が、仏外相は此申出に対して何等不満の気色もなく承諾したと云ふことを聞知して頗る安心をした。併し予は成べく公式の席上で公子と同席することを避けるやうに注意して居る。
と云ふことを報告して居るのでシーボルトが中々警戒を払つて居つたことが窺はれます。斯く仏外相が公子一行中に英公使館通弁官であるシーボルトの長く留ることを介意しなかつたことに付き少しく考察して見ますと、彼の父フイリツプ・フオン・シーボルトはナポレオン三世の宮殿に出入したことがあり、現に池田筑後守が前年巴里に参りました際仏国の武力を借りると云ふやうな条約を結ぶやうになつた経過には、其時池田に同行しました仏蘭西公使館通弁官ブレツクマン(Blekman)此フイリツプ・フオン・シーボルト両人が非常に仏国の為に働いたからであります。斯る関係縁故がありましたから其子のシーボルトが仏蘭西政府に信用があつたかも分りませぬが、併し若し駐日公使ロツシユが日本に於て英公使と拮抗しつゝ仏国の為に鋭意劃策せる方策行動に対して仏国政府が力瘤を入れて居るものであるとするならば、民部公子の一行中に英公使パークスの部下である一通弁官の長く留ることを快く思ふ筈はないと思ふのでありますが、シーボルトの報告に依りますれば、仏外相は快く之を承知したと云ふことであります。勿論外相ムースチエーに付きましては、栗本の手紙に依りますれば、余りハキハキしない人で、仏蘭西人の間でも余り人望がなかつたと云ふことであります。其前任者であるドルーイン・デ・ルイス(Drouyn de Lhuys)と云ふ人は初めロツシユ公使を日本に送りました人
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で、ナポレオン三世の寵臣でありましたが、墨哥西問題で失敗してやめた人でありますが、此人であつたならば決して許さなかつたかも知れませぬ。表面許さないと云ふ訳には行きませぬでせうが、邪魔をしたに違ひありませぬが、此ムースチエー外相はさう云ふ邪魔もしなかつた様であります。是等の点から考へますれば、ナポレオン三世は、極東帝国から遥々来られた可憐な若いプリンスを夜会の席などで手を引いて各国貴賓の間に紹介せられたことはあるでありませうが、仏蘭西政府並に仏蘭西国民は、ロツシユ抔が考へた程又従来伝へられてゐる程に日本に対し考慮を払ひ関心を持つてゐたかが疑はれるのであります。
 斯くシーボルトが公子一行に対して好都合であつたに反して、メルメツト・デ・カシヨンは全く反対の立場に陥いつたのであります。カシヨンと公子一行の人々との間が具合悪くなつた発端は、公子がナポレオン三世に謁見せられる其謁見式からであります。即ち公子謁見の際の通弁にはカシヨン自ら当らんとして頗る運動したのでありますが向山其他の間に於て、横浜仏語学校出身の保科俊太郎に通弁をさせると云ふことに一応決つたのであります。所がカシヨンは頗る不平で色色運動をしました結果、民部公子の演舌は保科俊太郎之を訳し、ナポレオン三世の答辞は之をカシヨン訳すると云ふことで折合が著いたのでありますが、既に船中に於て仏領事のジユーリーが有つて無きが如き状態で、シーボルトが独り羽振りが好いと云ふのに対して、非常に不平を持つて居りましたカシヨンは、益不快を起したのであります。所が一方シーボルトは前に申したやうに成べく公式の席には公子と同席しないと言つて居る手前、此謁見式には参列をしない筈であつたのでありますが、それにも拘らず仏外相の招待に依りまして、急に後から遅れて謁見の式場に馳け付けたのであります。更にカシヨンを失望させましたのは民部公子の留学に伴ふ教師の問題であります。シーボルトの英外務次官に送りました報告書の中に斯う云ふ事が現れて居ります。
  民部公子並に日本留学生の教導者は、確実なる筋から出た説として、一ジエシイツト派の宣教師で日本仏国公使館通弁官として、日本に於ける仏国の利益を増進拡張するに熱心であると云ふことで有名な、メルメツト・デ・カシヨン氏が選定せらるべしと聞及んで居る。又此地の新聞にもさう云ふ記事が載つて居る。併し此人選は仏官憲と日本全権との間に公式に決定せられたものでないと云ふのは、予は之を向山全権に実否を質した所が、向山全権は言下に――躊躇する所なく、カシヨンを選定することは不同意であると言明し、カシヨンの性格及二百年前日本がジエシイツト教徒の陰謀に依つて蒙つた害毒と同一の事件を惹起するやうな原因を今更造ることは自分は欲しない、と云ふことを告げた。向山等は若き公子をジエシイツト教の宣教師の掌裡に託するよりも寧ろ公子を連れて帰国するの勝れるを信じて居るやうであるから、仏蘭西政府が積極的に相当の圧迫を向山等に加へ、カシヨンの為に取計ふのでなければ、カシヨンの教師になる希望は達せられないであらう。併し油断のならぬことは
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カシヨンは既に民部公子に随従して雄藩からの留学生三名――(是は会津藩の横山主税、同海老名郡治、唐津藩の尾崎俊蔵、此三人だらうと思ひます)――は彼の指導を受ける為に、公子の居館を出て別の宿を取つて勉強することになつた。恐らくは是は同山全権も其処までは権力が届かなかつたであらう
と報告して居るのであります。此シーボルト報告書に見える如くカシヨンには民部公子の教師問題が非常に不利益になつたのであります。即ち向山隼人正は六月八日附で仏蘭西外相に次の公文を出して教師の選定を依頼致しましたのであります。
  我大君の舎弟教養に関し閣下の助力を求むる我外国執政の書状を呈するに方り、予は公子が閣下並に文部大臣に於て適当なる教導者を選定せられんことを希望しつゝあることを告ぐ、予は此人選に関しては全然之を閣下に委任すべしと雖、唯次件に付て閣下の考慮を促さんと欲す、即ち貴国と予の国との宗教上の相遠は閣下が選定せらるべき人物が僧籍又は宗教的特性(b'un Caractere religieus)を持つてゐないと云ふことを要求するを余儀なくせしむることである、公子の留学に依つて両国政府間の友愛及幸福なる協和が永遠に持続向上せられんことを望む
斯う云ふ公文を出して居るのであります。明に僧籍に在るカシヨンを忌避するの意を表示して居ります。此交渉を受けました仏外相がカシヨンの為に積極的に働いた跡は見えませぬ。恐らくカシヨンに依つてロツシユ公使の意嚮は外相に伝へられて居つたであらうと思はれますけれども、仏外相はそれに拘泥せず、色々詮衡の結果民部公子の補導者としては陸軍中佐であるヴイレツト(Villette)と云ふ者が仏政府から選定せられました。さうして語学の教師にはヴイレツト中佐の知人が挙用せられたのであります。斯くしてカシヨンの民部公子教養に関する希望も達せられなかつたのであります。斯くカシヨンは全く其希望を破られて不平不満の極、遂に従来の態度を一変して向山等に反抗することになりました、当時向山全権等と争つて居つた薩藩岩下方平等の顧問であつた前申した仏人コント・モンブランと握手して、幕府に関し不利益ある記事をリベルテイー(Liberte)誌上に投書するやうになつたのであります。斯くしてカシヨンと民部公子一行との関係は断絶せられることになりました。従つてロツシユ公使及幕府親仏派の息の懸つた他の仏人、例へば日本総領事のフロリ・ヘラル或はソサイテイー・ゼネラルの一員であるクーレー(Couley)等は皆公子一行から一時姿を隠してしまふことになりました。之に付きましてシーボルトの書状に「予が日本使節に同行するが為にカシヨンの計画を失敗に終らしめた一原因を為した以外には、予は他の仏人とは衝突をしたことはないと云ふことを報告し得る」と云ふ皮肉の報告を外務省に送つて居るのであります。彼が此間如何なる策動を致したかは不明であるが、何等か暗中飛躍を試みたことは凡そ想像が出来るのであります。それのみならず彼の報告に依れば、公子及御附の人々も仏蘭西並に其教育法に付ても大分倦かれ嫌はれ、仏国に対して大した好感を持たれなかつたやうなことが見えて居るのであります。即ちシーボルトの五
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月及六月の書簡に、
  日本使節一行は仏国を訪問したことに付て満足してゐない、駐日仏公使が彼等に大なる期待を持つべく強調したに反して、巴里著後仏蘭西人の冷淡なるに対し彼等は失望しつゝある。又彼等は仏国が若き公子の将来を造る教育地として選定せられたことを後悔して居るやうである。民部公子も巴里の空気に飽かれ、仏蘭西流の干渉多き教育法を喜ばれず、英国に赴くか若くは帰朝せんことを密に予に告げられた。駐日仏国公使、仏国将来の利益の為に漸く実現させた此好機会も、之を確かに掌握して活用すべく余りに仏蘭西人が不熱心であることに依つて之を失はんとしつゝある。斯くしてロツシユ公使の謀略も結局失敗に帰すべく観測せられる
と云ふことを書いてあります。又巴里に遅れて来ました栗本安芸守の書中にも、
  石州即ち山高石見守極々英吉利の制度文物を慕ひ、一行の人尽く排仏コンパニーを結び居候間、仏人を憎む仇讐の如く、ナポレオンを目して譎詐の魁と称し、成べく公子の御親炙無之様致し、山高石見守と補導官コロネル・ヴイレツトと日々議論絶えず、所謂終始いぢり合ひ又は愚弄致候間自然公子も中佐を御疎略被為在候様成行可申は流石茗荷草鞋連中も殊の外御心配の様子にて内々訴出候儀も御座候
とあるが如く、段々一行は排仏コンパニーを造ることになり、其巨魁は山高石見守であると云ふことであります、斯くして親仏を目的とする特使一行の大部分が却て排仏同盟を造ると云ふ奇観を呈したのであります。
 然らば向山、山高等が最初から反仏的思想を持つた人間であつたかと云ふと元々さう云ふ人であるならば此使節一行に加はるべき筈がないのであります。然るに此一行の主脳者が渡仏後反仏意見を持つに至つた原因を少しく考へて見まするに、第一はカシヨンの性格と其宗教的色彩及其反逆的態度が此一行の感触を害しただらうと思はれます。第二にシーボルトの書状に見えます如く、ロツシユ公使或はカシヨンが使節一行が巴里に赴けばナポレオン三世及仏蘭西人の歓迎が如何に盛大であるべきかを揚言したにも拘はらず、実際には仏蘭西人は案外に冷淡であつたと云ふことが彼等の期待に背いたことであらうと思はれます。其実例の一二を挙げて見ますと、彼等著仏早々問題になつたのは、薩人との間に博覧会場に於ける徽号問題であります、琉球国王薩州大守の名目の下に、薩摩の旗を樹てゝ薩州国産を陳列した不敵の行動を中止せしめんが為に向山等の一行が抗争をしたのであります。此問題では遂に組頭田辺太一は談判不行届であつたと云ふので、途中から帰国することになつたのであります。然るに此問題に関して仏蘭西政府は敢て幕府側に援助しなかつたのであります。其理由として元来博覧会の参列は政治的の意味のあるものではないから、日本国内に於ける政体、主権の論争には干与しないといふ立前から之に干与することを避けました。のみならず、田辺太一氏の岩下方平、モンブラン等が、博覧会日本部総理事レセツプ男爵(Baron Lesspes)の邸で談判を
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開いた際に、日本名誉総領事のへラルが日曜であると云ふのを口実に欠席しました。さうしてレセツプ及日本係のドーナー(Dona)二人もモンブランに遠慮をして田辺等を多く支持しなかつたのであります。痛く此事は一行の気色を害したのであります。第三に博覧会の陳列場もロツシユ公使が幕府に示した絵図では相当大きな場所が示されてあつたに拘らず、実際行つて見ますと支那と暹羅との間に飛々の場所に僅かばかりの区域が配当せられてある有様で持参した国産の半数も列べられなかつたと云ふやうな結果でありました、第四に博覧会開会当時露西亜皇帝が狙撃せられたと云ふやうな事件がありましたやうに、各国の貴賓が参集せられて連日連夜に亘る華麗なる舞踏会、夜宴、観劇等が催され紛々擾々たる巴里の儀礼や歓待には真面目に彼地の文物、制度、軍政、其他を見学せんとした日本の人々には此空気は固より慣れて居りませぬし、直に倦怠を覚へたことであらうと思はれます。第五に民部公子が締盟各国を巡歴せられる費用は仏国に於て借欵せらるべき六百万両の中から支払はるべきことを予め小栗上野介等から指示せられてゐたにも拘はらず、彼等一行が、巴里に来て其金を得やうとしました所が、仏蘭西に於ては到底都合が付かなかつたのであります。それで已むを得ず色々旅費の調達に苦心奔走した結果、英吉利のオリエンタル・バンクと和蘭のハンデル・マートシユカツペーから一時融通して貰つて民部公子の列国歴訪費用が出来たと云ふことであります。此巴里に於ける資金調達の予定は普通の勘定奉行は最初から承知して居らず、小栗等二三が心得てゐたことは、在巴里の勘定方から幕府勘定奉行に問合せたに対し「何等承り居らず」との回答を発してゐるので分明であります、即ち巴里に於ける借欵問題は機密で二三の者が取計つてゐたのであります、以上列挙致しました事柄はすべて使節一行の意外であつた所で、為に仏蘭西及び仏人に反感を醸させる原因と為つたのであらうと思はれます。
 斯かる使節の一行の感情の機微を巧みに利用して、益々一行を親英に傾かしめるに成功したのがシーボルトであります。かゝる事情の内報を受取りました英吉利政府に於ては、シーボルトの報告に依つてヒントを得ましたが、九月六日附で外務次官のハモンドからシーボルトに宛てゝ、民部公子が伊太利を訪問せられた序に、英領マルタ島にお立寄になるやうに勧説せよとの命令を出して居ります。同時にマルタ島のロージヤーと云ふ者に宛てゝ、
  徳川民部大輔のマルタ島訪問は政治上より見て最も望ましいことである。仏人は公子を自己の掌中に収め、其政府の感化力と小権謀家の術策とに依り、公子に英国を軽視して仏国を重要視せしめて、同国の東洋に於ける利益の増進を図らんとしつゝある。公子の英国を訪問することは確実になつたので、予は此機会に於て強力なる感化を公子に与へんと考慮しつゝある。公子の資格正当なる称号の如何に関せず――是は後に尚申上げますが――之を国賓として待遇するに決定した。マルタ島に於ても国賓として総ての礼遇を与へられんことを望む
と云ふ外務次官の命令が発せられて居ります。此命令を受けましたシ
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ーボルトが如何に一行を説きましたか、元々マルタ島は公子の行かれる予定地ではなかつたのでありましたが遂に実現することになりました。加之元来公子の渡欧に就て幕府では日本に於けるバークス公使が幕府に対して倣慢不遜の態度を取るので、英吉利政府も公使と同一の考を持つて居りはしないかと疑惧しましたので公子が航海中香港其他英領に寄港せらるゝには、公手自ら上陸なすつて万一不礼なお取扱でもあつてはいけないと云ふので、殊更上陸を忌避せられたのであります、所がそれにも拘らずシーボルトがどう説きましたか、マルタ島に行かれたのであります。其マルタ島訪問の結果に付てシーボルトは、
  民部公子のマルタ島訪問は、公子及随員一同を全然満足せしめた官憲の周到なる注意と設備とは、彼等に多大なる興味と深甚なる感化を与へたことは疑ひない。予の観察に依れば、此島に於ける歓待栄誉は、仏人の与へた英国政府及英人に対する不快の念慮を日本人の頭から全く取去つた。仏蘭西政府指名の陸軍士官ヴイレツト中佐其他の人々から強制せられつゝある煩瑣な取扱に既に嫌悪せられた公子は、特にマルタ島に於て与へられた好意に感動せられた
と云ふ報告をして居ります。尚続いて西暦十二月二日に英京を訪問せられました民部公子は、ウインゾル宮殿でヴイクトリア女王に謁見を了へられて、国賓としての待遇を受られました。此丁度慶応三年春大阪に於て各国公使が慶喜将軍に謁見した際、パークス公使が従来条約其他の慣例に依る将軍に対する尊称即ちヒズ・マゼスチイー・ザ・大君と云ふべきを、ヒズ・ハイネス・ザ・大君、即ち陛下と言はず殿下と称しましたので幕府の人々に非常な驚愕を起さすと共に、其後ロツシユ公使との間に激論を闘はしましたあの尊号問題、是は栗本が既に巴里に来まして此談判を倫敦で行ふことの命令を伝へましたので、向山隼人正は英外相スタンレーと此談判を行なつたのであります。向山隼人正の自筆の報告書と談判筆記が其処に陳列してあります。このハイネス、マゼチテイーの問題に付きましては、スタンレー外相は頗る曖昧の答弁を為し向山全権の抗議を受容れもしませんでしたが、英国に於ける海陸軍の設備と其盛大なるのには、民部公子の一行は満足をせられたのであります。
 斯の如き次第で折角仏国への親善を厚くすべき使節として行かれました民部公子一行の人々が、親英使節ではなかつたかと思はれるやうな結果になつたのであります、上述の事実は主にシーボルトの本国外務省に差出しました報告に拠つたものでありますから、或はシーボルトが誇大に報告して居ると云ふ嫌ひもありませうが、栗本安芸守の書翰にも排仏コンパニーが出来上つて困つて居る、其他種々同様の記事が見えて居るのでありまして、予想外の結果になつたのであります。
 次に栗本安芸守渡仏の事に付て申上げます。是より先向山一行から薩州の岩下方平等が巴里に於て、日本主権の所在を論じ、薩摩たる島津氏も関東の太守である徳川将軍家と相異する所はないと云ふやうな議論をして居る。又博覧会旗号に関する紛争の報告が幕府へ達しましたので幕府はロツシユ公使の勧説もあり傍第二の使節として親仏派の巨頭栗本安芸守を追つかけて巴里に遣はすことになつたのでありま
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す。そこで栗本安芸守は薩人の議論に対抗する為に、国体記(The Constitution)琉球略記(Hitsorical Noties of Lieukiu)此二つの書面を用意して巴里に参つた、前者は東照権現の昔から徳川氏が実際上の主権をお預りして居るのであると云ふ来歴を書いたもので琉球略記は島津氏に同島を徳川家から与へたものであると云ふ琉球の歴史を概説したものであります。此二つを携へて巴里に――日本暦の八月に著いたのであります。此新使節栗本の巴里に来ると云ふ予報を知つたシーボルトが英国政府に送つた報告書中に、
  新使節栗本安芸守を巴里に於て迎へることは予の頗る疑惧する所である。何となれば栗本安芸守はメルメツト・デ・カシヨンの親友で前任公使オールコツク氏の駐剳当時より此両人の協心共力は、屡々英国の利益を脅威し不利を来すことがあつたのであるから、予は不安の中に彼の到著を待ちつゝあるが、無論公子が再びカシヨンの掌中に帰するものとは信じない
と云ふことを報告して居ります。それ程栗本と云ふ人は親仏の色彩が濃厚であつたのであります。
 さて此栗本が如何なる使命を以て巴里に派遣をされたかと申しますと、第一の使命は今申しました薩州人の国体及主権論に対する対抗の為であります、即ち国体記と琉球略記とを持つて行つて各国に之を宣布すること、第二の使命は仏蘭西との親善関係を増進する為と、其他秘密な要件があつたのであります。それを更に細説致ますれば民部公子の英国訪問を中止し、其他欧洲締盟各国の旅行を成べく縮めて公子の巴里留学をもつと充実させると云ふことであります。それからシーボルトを解傭してカシヨンを通弁者に挙用すること、次に日本から仏蘭西への留学生増遣と、仏蘭西青年学生を日本に迎へる、即ち仏人の日本留学を慫慂すること、次に前に申しましたソシエテー・ゼネラルの確立並に其事業の促進、それから仏蘭西に於ける借款、レオン・ロツシユ公使の留任要求即ち日本に長く駐紮させて貰ひたいと云ふ要求、それから樺太鉱山発掘権に付ての協議、是等が主であるやうであります。これ等の使命を果す上に於て栗本、向山、山高等の間には屡屡意見の衝突が起りまして、親仏、親英の連中の間に対立状態が巴里に於て起つたのであります。
 先づ第一に民部公子の英吉利訪問を中止し、其他の旅行を縮小しやうと云ふことに対して、向山隼人正は既に各締盟国に対して公子の歴訪を照会済であるから、今更止めることは出来ないと云ふので拒絶しましたが、更に山高石見守の如きは、栗本が書状に記す所に依りますと斯う云ふ言論を為してゐるのであります。即ち「自分等が日本出発の際に命ぜられた列国訪問のことは将軍慶喜の真意から出た真の命令であるが、今度の命令即ち仏蘭西に可成長く滞在せよとの命令はロツシユ等の入説で変更せられた所謂乱命同様であるから奉ずるに足らぬ」と云ふて居るのであります。斯くまで山高石見守などは仏蘭西嫌ひに当時為つて居るのであります。此レオン・ロツシユが慶応二年三年頃に亘つて、或は日本の政体、軍制、其他に付て色々建白を為し種種世話をやくと云ふ態度があつたのでありますから、或は斯る事柄に
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付て山高抔は既に日本出発前からロツシユ公使に対しては面白からぬ感情を持つて居られたのではないかと思はれます、斯くして公子の締盟国歴訪は行はれましたが、唯ロシアとプロシヤだけは先方から断つて参りましたので到頭参られませぬでした。
 次に栗本のシーボルト撃退カシヨン採用に付きましては、栗本は著仏後極力之を向山等に迫りましたので、漸くカシヨンを国事通弁に用ゆることになりました。そこでカシヨンは前非を悔ひー栗本の書状に依りますと非常に真面目に勤めてゐると云ふことが書いてあります。前にはモンブランと手を握つて新聞に幕府の悪口を投書するなどと云ふことがありましたが、再び日本人に接近することになつたのであります。十月に栗本の息貞次郎其他八名の新しい留学生が巴里に著きましたので、この世話をカシヨン或はクーレー其他今迄屏息してゐた日本関係の仏人に委せたのでありますから、一時民部公子一行の間に影を潜めた仏人が、栗本が来ると共に再び用ひられることになつたのであります。又仏蘭西から日本に留学生を送ると云ふことも栗本の書状に依りますと、十二月になつて二十人ばかり仏蘭西政府から日本に留学生を送ると云ふことになりさうだと云ふことが書いてありますが、是は到頭実行にならなかつたことであらうと思ひます。
 次にレオン・ロツシユ公使の留任を仏国政府に請求すると云ふことであります。是はロツシユ公使が日本に於て余りに幕府ばかりを目当にして、他の外国公使から言はせれば所謂自己的政策に過ぎてゐるといふ非難が大分外国人間に高かつたのみならず、在留仏人の間にさへも不評でありました。それでロツシユ公使を日本駐紮公使に推薦しました外相ドリユイン・デ・ルイスが六十六年の初めか六十五年の終に退職致しました後に於て、即ち千八百六十六年の六月、慶応二年五月に本国政府からロツシユ公使に帰国命令が発せられたのであります。其理由はロツシユ公使は僂麻質斯が持病でありまして屡々熱海の温泉へ行つて、其処で山口駿河守や其他種々の人と会つて居るのでありますから其病気保養と云ふことに為つてゐます。之に対してロツシユ公使は、尚ほ留任をしたいと云ふ請願書を送つて居るのみならず、電報を以て留任を要求し、或は秘書のグスターフ・ロバン(Gustave Robin)と云ふ者を本国に帰して、自己の留任を求めてゐたのであります。それで栗本渡仏の際に日本政府から尚ほ留任を将軍親書を以て希望することに為つたのであります。栗本安芸守の書状にも翁を留める――ロツシユ公使をこれ等の人々間には翁と称して居りました、翁を留める御国書云々と見えてゐます。栗本の此使命は仏蘭西政府が結局承認しなかつたものゝ様で、ロツシユは本国政府から貴下の公使たる身分には何等関係しないのであるからと云ふ慰撫的辞令の下に帰国を促されましたのと、明治元年正月鳥羽伏見の幕府敗戦とに依り四月には、後任公使マキシム・ウツトレー(Maxim Outrey)と交代して帰国することになつたのであります。
 次に借款とサガレンの鉱山開掘の二件であります。是は栗本の九月二十三日の書状――其処に出してありますが、此書状には「借銀、蝦夷地等、小生一個に御委せ相成候御用向未だ混沌相分らず、従にクー
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レーの挙動相待居り、拠所なく両三箇月淹留に相成可申候」と書いてあります如く、向山全権などと離れて、特殊秘密の命令を受けて来たのであります、此借款はソシエテー・ゼネラルと関係があるのでありまして、前に申しましたやうに、民部公子の各国歴訪の資金も巴里に於て借款すべき金から支出せらるゝことであつたのであります、此借款とソシエテー・ゼネラルとサガレン鉱山発掘のことに付てはシーボルトが十二月秘密親展として英国の外務次官に送りました報告書に依りますと稍々事情が分るのであります。
 先年来仏国政府が多大なる注意を日本に注ぐに至つたことは顕著なる事柄である、主に日仏間の貿易を発展せしめんとして居るものであつて、ロツシユ公使が日本に於て貿易上或る種の独占権を得んが為に日本政府に献策し、事実として現れ来つたのが、ソシエテー・ゼネラルの名の下に巴里に於て設立せられた一会社である。此会社は欧洲大陸に於て日本の大君の代理者とならんとして居る。既に七百万法の契約が両者の間に結ばれて、鉄砲軍需品が日本に輸入せられ、又百万磅の外債が日本政府の名義で欧羅巴に於て募集せられ、此会社の活動資金に向けられると云ふことである。会社の日本政府への売却品に対する代償物は、生糸茶等の主要物産で此会社の手で之を欧洲に移入せんとし、殊に生糸に付ては日本政府が専買権を収めて此会社に一手輸出権を与へんとして居るものである。最近巴里に来た栗本安芸守は、此ソシエテー・ゼネラルに対する新しき使命を帯びて、会社の確立支持に努力し、又借款にも著手せんとするものである。又栗本はサガレン島に於ける鉱山発掘権を仏人に委ねることに関し、或る提案を齎したと云ふことである。若し此会社が予定通り確立せば、英国始め欧州各国の日本に対する貿易には由々しき大事であるが、株式応募の支障で、其計画が充分なる成功を見る模様のないのは大幸である。現在では唯僅少なる資金が調達せられ軍器類が輸出せられたのである。此会社の取引先は勿論大君政府のみに限られ、諸大名等とは決して取引を行はないものであることを断言し得る
 と云ふことを書いてゐます。要するにソシエテー・ゼネラルは予定通りには行かなかつたが、栗本安芸守の使命の中に之を更に確実にしやうと云ふ使命は確にあつたのでありませう。
 又樺太の鉱山発掘権に付きましては其内容如何を考察するに足る資料はまだございませぬが、当時英仏両国政府が露西亜の樺太南下に対しては非常に警戒をして居りまして常に軍艦を其方面に派遣し、頗る重要視して居るのであります。でありますから何事にも当時幕府の為に注告建策を致してゐます。ロツシユ辺から或は何事か樺太鉱山発掘に付ての提案があつたのではないかとも想像されるのであります。併し小栗なり栗本等の人々が、露西亜の南下を防がんが為に、仏蘭西に樺太の鉱山採掘権を与へると云ふやうな目先の見えない計画を立てると云ふやうなことは全然なからうと思ひますので、或は借款の担保でもあるか或は単に利源開発の意味であるのか、両者の中一つではないかと思はれます。ウツトレー公使の後日の報告に依りますと、横須賀
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製鉄所は既に仏国から日本に送られました軍需品其他の代金の担保に這入つて居つたと云ふことが見えて居りますから、此樺太鉱山の採掘権もどんな事であつたか頗る疑問で面白い問題であらうと思ふのであります。
 此の如き使命を帯びて来ました栗本安芸守と、所謂排仏コンパニーを結んで居る向山山高等の一行とは中々協調が困難であつたのでありまして、栗本の書簡にも此事は屡々見えるのであります。其結果博覧会に関する用務を終りました向山は栗本と交代することになりまして向山は其年の十二月に帰朝の途に就き栗本は駐仏全権となり、同時に清水家家老を兼ぬることになつて民部公子の教養一切を主宰することになりました。さうして山高石見守は民部公子のお傅役を罷めて、留学生取締と為り其他にも交迭が行はれました、斯くして栗本安芸守が凡ての全権を掌握して、之からクーレー、カシヨン、ヘラル等を使つて彼の使命を果さうとしたのであります。然るに時既に後れ将軍慶喜公の十月に於ける大政奉還の報道が欧羅巴の新聞に載せられ、今にも日本に大なる政治上の変動が起るであらうと喧伝せられましたので栗本等の活躍も為に阻まれましたことでありませう、尋て幾もなく明治元年五月新政府は露、仏、英、蘭等に派遣してゐた留学生を全部一時呼戻しましたので、民部公子も帰朝を命ぜられまして栗本等も巴里を引き上げることになつたのであります。一方ロツシユ公使は将軍の大政奉還後も、尚本国に送つた報告書には「尚ほ大君政府が依然として権力を掌握しミカドの信用も厚いものがある」抔幕府支持を主張してゐたのでありますが、慶応四年即ち明治元年正月十六日(千八百六十八年二月九日)四国公使が兵庫に集合して居りました際突然列国公使に対して「日本の事情が斯くなつた以上は、自分は直接本国政府へ報告する必要が生じたから、不日帰国の途に就く、バロン・ブラン(Baron Brin)と云ふ者を代理公使として事務を執らせる」との旨を発表しまして各国公使を驚かし、急遽江戸に帰りまして種々計画する所がありましたけれども、遂に四月帰国を致すことになりました、後任ウツトレー公使の報告に依りますと、ロツシユ公使が自分に残した仕事が三つある、それはシアノアン(Chanoin)ブリユーネー(Brunet)以下二十余名の仏蘭西陸軍伝習武官の跡始末、もう一つは横須賀の製鉄所 もう一つは、ソシエテー・ゼネラルの輸入した武器の代価未払のものが、尚四百万法の値打のものが横浜の税関に這入つて居る、と報道されてゐます、以上は史料に表はれた尤も顕著なロツシユ公使の遺した仕事でありますが、若し王政復古の時期が後れ、財政窮乏せる幕府が尚ほ此上とも特殊関係に深入りする様なことになれば或は意外に面倒な問題が惹起せられぬとも限ぬかと考へるものであります。
 是で私のお話は大体終りますのでありますが、結論と申す程の事を申上げることは御遠慮致しますが、唯斯う云ふ事だけは申上げられるかと思ひます。以上民部公子一行の巴里に於ける英仏関係から考へますと、英仏両国が日本に対して関心を持つたと云ふことは素より申上げる迄もありませぬが、仏蘭西政府の態度から見ますると、政府の方針が必ずしも日本に在るレオン・ロツシユ公使が全力を傾倒して幕府支
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持に熱中して居た如き意嚮は無かつたやうであります。元来日本に来て居ります列国公使の政策行動が、必ずしも本国政府の意思命令を受けて行はれたものでなく、寧ろ出先きの公使の考慮から出たことの多いと云ふことは、外交文書を見ますと殊に思ひ当るのであります。殊に当時欧羅巴から日本への郵便は二箇月以上掛かりますし、華盛頓からは三箇月も掛かります。電報報告はアレキサンドリアまで行かなければならぬ有様で、現に千八百六十四年(元治元年)四国艦隊の下ノ関の砲撃の如きも、英吉利政府も仏蘭西政府も、非常に此計画に対して疑惧の念を懐き中止を命じましたのですが、命令の達せぬ前に実行せられたのであります。さればロツシユ公使が日本に於て取つた方策行動を詳細に闡明するには尚ほ幾多の史料を尋究し研究の必要が充分ございますけれども、少くともそれが伝へらるゝ如く「ナポレオン」三世又は仏蘭西政府の一々命令の下に行はれたものではなからうと云ふことだけは断言して宜からうかと思ふのであります。斯くしてロツシユ公使は日本に於ける政局の推移を見ることに於て、敵手である英公使パークスの慧眼に及ばなかつたと申しませうか、遂に鳥羽伏見の一戦で幕府が瓦解してしまうと共にロツシユ公使の立場も苦しくなり遂にパークス公使に一籌を輸した形になつたのは已むを得ぬことであります。慣れませぬのに段々話が長くなりまして定めし御迷惑の事と存じます。私の話は是で終ります。(二月廿二日竜門社講演会に於て)
  ○尾佐竹猛博士著「夷狄の国へ」同博士著「国際法より観たる幕末外交物語」ヲモ参照スベシ。