デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.12.19

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

2章 幕府仕官時代
■綱文

第2巻 p.67-69(DK020002k) ページ画像

明治元年戊辰十一月十八日(1868年)

尾高長七郎逝ク。


■資料

尾高弘忠墓碑銘(DK020002k-0001)
第2巻 p.67 ページ画像

尾高弘忠墓碑銘
東寧尾高弘忠之墓 (表面)
    尾高勝五郎第二子明治元戊辰十
     一月十八日歿享年三十又一(側面)
            渋沢栄一建石(側面)
  〇右ハ栄一ノ自筆ナリ。


竜門雑誌 第四七一号・第一一五―一一六頁〔昭和二年一二日〕 【余が忘れがたき人々】(DK020002k-0002)
第2巻 p.67-68 ページ画像

 竜門雑誌  第四七一号・第一一五―一一六頁〔昭和二年一二月〕
○上略 親友として忘れられぬ者に尾高藍香同長七郎の兄弟があつた。藍香も長七郎も自分の従兄で、後には義兄弟となつたのである。 ○中略
長七郎は藍香の弟で、自分より二歳の年長であつた。大兵で腕力あり撃剣に於ては非凡の妙を得た人であつた。早くから江戸に出て海保章之助と云ふ儒者の塾に入り、剣術は伊庭軍兵衛の門に入り文武の道を磨いてゐた。東寧と号し自分等の先導者であつた。
 - 第2巻 p.68 -ページ画像 
 文久二年浪士が安藤対馬守を阪下門外に襲ふた時東寧もその仲間であつたが、嫌疑を受けて難を京都に避けた。三年自分等が愈々挙兵を行はんとするに先ち長七郎の帰府を促したるに、当時の長七郎の考は自分等と全く反対してゐた。長七郎の云ふには暴挙の一案は大間違である。今日我々同志が兵を挙げても、只の百姓一揆と見做されて、決して京都よりの応援などは望めない。直に幕府や近傍諸藩の兵に討滅されるのは明である、十津川浪士すらも近傍の藩兵の為に遮られ、盟主は戦死し部下は散々となつた。況して我々の同志数十人が兵を挙げても忽ち討滅されて了ふ。打揃つて犬死するは残念である。故に暴挙には不意であると云ひ切つた。自分は飽まで挙兵を主張し徹夜して論じ合つた末、長七郎は自分を殺しても挙兵を抑止すると云ひ、自分は長七郎を刺しても挙兵すると云ひ、互に血眼になつて論じたが、長七郎が飽まで承知しないので、自分も退いて熟考すると成程長七郎の云ふ所は尤もである、軽々しく兵を起しても百姓一揆同様に見做され、徒らに刑場の露と消えるのみでは、如何にも残念であると思ひ終に止めることにした。然るに間もなく長七郎は一時の精神病で中山道の戸田原で人を殺し、幕府の捕吏に捕縛された。天の人に与ふる運命ほど測られぬものはない、文武の両道に精通し、天下の大勢を看破する明を具へた斯人にして、自ら作れる罪で終に縲紲の辱を受けたのである。実にこの人が涙を揮つて止めなければ、自分は文久三年に於て既に一片の白骨と化し去つたのである。
併し運命の測られぬのはこれのみでない。自分が仏蘭西から帰つた明治元年に、長七郎は終に全然発狂して自殺を遂げた。才能の士、何ぞその末路の余りに不幸なる。自分は長七郎の死を想ふ毎に、長七郎は自分の為に身代りしたのだと思はれてならぬのである。
  ○右ハ「余が忘れがたき人々」ト題スル栄一ノ談話ノ一節ナリ。


渋沢栄一伝稿本 第六章・第一〇九―一一〇頁〔大正八―一二年〕(DK020002k-0003)
第2巻 p.68 ページ画像

渋沢栄一伝稿本  第六章・第一〇九―一一〇頁〔大正八―一二年〕
尾高長七郎は先生が尚仏国に滞在せる頃、嫌疑釈けて赦され還りしも時々精神錯乱の旧病発作するが故に、藍香監視の下に静養に力めたれども癒えず、為に彰義隊にも振武軍にも加はることを得ず、先生の帰国に先ちて逝けり。長七郎は文武に秀でたるが中にも、剣道は其最も長ずる所にして、初は神道無念流の奥儀を極め、後ち伊庭軍兵衛に就きて学びしより、天禀の妙技益々神に入りて、上武の間並ぶ者なしと称せらる。乃ち道場を村内なる鹿島神社の傍に営みて、子弟に教授す。殊に慨世憂国の志厚くして、名声志士の間に聞えたる者なりしが、事志と違ひ、有為の資を抱きて空しく病に斃る、享年僅に三十二《(マヽ)》。 ○下略


はゝその落葉 (穂積歌子著) 巻之一・第一二―一三丁 〔明治三三年〕(DK020002k-0004)
第2巻 p.68-69 ページ画像

はゝその落葉 (穂積歌子著)  巻之一・第一二―一三丁 〔明治三三年〕
この年頃母君の御うからが上にはいかなるまがつミかまつはり参らせけん。ものうき事の打続きて心細くのみおはしましけれバ。大人の御帰朝あるべしとの御たよりを殊更に打よろこばせ給ひけるに尾高の祖母君にハ帰りつかせ給ふ日もまたで。その冬の十一月十七日俄にやミて失せさせ給ひ。長七郎君にもかねての病重りゆきて引続きみまから
 - 第2巻 p.69 -ページ画像 
せ給ひぬ。此時伯父君は世を憚りて前橋なる大川の家にひそミゐましければ。さしもうからやから多かりける尾高渋沢の家も。かゝる時ものゝやうに立つべき男子もおはさず。たゞ中の家の祖父君ぞ野辺送りの事をはじめよろづにいたづきまかなひ給ひける。御心細さの程こそ押しはかり奉るにもあまりありけれ。かく重りに重りたるうき事も終に限りハありて。めでたき月日はやうやうにめぐり来たりぬ。


藍香翁 (塚原黎洲著) 第六七―六九頁〔明治四二年三月〕(DK020002k-0005)
第2巻 p.69 ページ画像

 藍香翁 (塚原蓼洲著)  第六七―六九頁〔明治四二年三月〕
   (九)嗟長七郎氏《あゝちうしちらうし》!
翌《あく》れば文久《ぶんきう》も四年《よねん》となれり。此年元治元年となる 千里同風《せんりどうふう》、人《ひと》は皆《み》な嬉々《きゝ》、春《はる》の遊《あそ》びに余念《よねん》なきも、翁《おう》は猶《な》ほ去年《きよねん》の跡片附《あとかたづけ》なるものに寸暇《いとま》とて無《な》し彼《か》の百人《ひやくにん》に近《ちか》き壮士《さうし》の進退《しんたい》をも扱《あつか》はざる可《べか》らず。兵器《へいき》の始末《しまつ》をも為《な》ざる可《べか》らず。然《しか》も耕作《かうさく》を督《とく》し、商売《しやうばい》を広《ひろ》くして、彼《か》の挙《きよ》の失費《しつぴ》を償《つぐな》うべき旁《かたは》らには、亦《ま》た江戸《えど》の模様《もやう》をも探聞《たんぶん》して、今後《こんご》の機会《きくわい》を造《つく》らざる可《べか》らずと云《い》ふに在《あ》り。此等《これら》の要用《えうよう》を兼《か》ねて、翁《おう》は、家《いへ》に在《あ》る長七郎氏《ちやうらうし》に中村三平《なかむらさんぺい》前に見たる海保氏の塾生福田繁之進《ふくだしげのしん》男爵の縁家にして、嚢に長七氏が江戸行を告げたる人の両人《りゃうにん》を副《そ》へ、江戸表《えどおもて》へ出《い》だし遣《や》られしは、正月《しやうがつ》も末《すゑ》の事《こと》なりき。
此時《このとき》、両渋沢氏《りやうしぶさわし》は既《すで》に京師《けいし》に在《あ》り。窃《ひそ》かに世間《せけん》の形勢《けいせい》を窺《うかが》うに、去年《きよねん》には彼《か》の五条《ごでう》の変《へん》前に見ゆあり。又《ま》た生野《いくの》の事件《じけん》平野国臣の挙兵あり。朝旨幕議《てうしばくぎ》種々《しゆじゆ》の変更《へんかう》を呈《てい》すれども、彼《か》の事情切迫《じじやうせつぱく》当時周施家なる者の套語なる其《そ》の事情《じじやう》は終《つひ》に何等《なにら》かの大破裂《だいはれつ》を見《み》ずむば止《や》まざらむとするものあり。然《しか》も志士《しし》の業《げう》を天下《てんか》に為《な》さむとする者《もの》、此《こ》の破裂《はれつ》の機勢《きせい》に乗《じよう》じて其《そ》の際会《さいくわい》を利用《りよう》するを以《もつ》て極《きは》めて利便《りべん》とす。其《そ》の利便《りべん》の機《き》は間髪《かんぱつ》を容《い》れず。故《ゆゑ》に予《あらかじ》め此《こ》の機会《きくわい》に応《おう》ずるの準備《じゆんび》を為《な》すは志士《しゝ》の急務《きうむ》とする処《ところ》にして、其《そ》の急務《きうむ》の一《いつ》は、確《たし》かに京師《けいし》に其《そ》の居所《きよしよ》を定《さだ》むるに在《あ》り。如是《かゝ》る情勢《じやうせい》を見《み》るに敏《びん》なる両渋沢《りやうしぶさわ》氏は、更《さら》に長七氏《ちやうしちし》をも京《けい》に入《い》らしめて、将《まさ》に来《きた》らむとする機会《きくわい》に投《たう》ぜむとの見込《みこみ》を以《もつ》て、特使《とくし》を翁《おう》が許《もと》へ馳《は》せられたりき。翁亦《おうま》た此事《このこと》を可《か》なりとして、更《さら》に福田氏《ふくだし》福田氏此時江戸より帰りて其の郷里に在りをして其《そ》の趣意《しゆい》を在江戸《ざいえど》の長七氏《ちうしちし》に通《つう》ぜしめ。福田氏《ふくだし》は長七氏《ちやうしちし》を拉《ひ》きて一時《いちじ》手計《てばか》に帰《かへ》らむとする其《そ》の途中《とちう》、戸田《とだ》の原《はら》にて長七氏《ちやうしちし》、錯誤《あやま》りて往来《おうらい》の者《もの》を殺傷《あや》めたり。此れ別に其の趣旨ありしに非らず。唯だ神気の亢奮したる一時の過失なりしと云ふこれを見《み》たる村人等《むらびとら》は、矢庭《やにわ》に氏等《しら》一行《かう》を押取《おツと》り巻《ま》きぬ。其《そ》の急報《きふはう》を得《え》たる板橋《いたばし》の衛兵等《えいへいら》も亦《ま》た逸早《いちはや》く出張《しゆつちやう》して、有無《うむ》を論《ろん》ぜずして其《そ》の営署《いえしよ》に拘《ひ》けり。噫其日《あゝそのひ》は三月《ぐわつ》の二日《ふつか》 荒川《あらかわ》の流《ながれ》は恨《うら》みに咽《むせ》むで、寒蘆《かんろ》の風《かぜ》は今猶《いまな》ほ当時《たうじ》の歎声《たんせい》を聞《き》くごとし。
友愛《いうあい》なる翁《おう》が此《こ》の変報《へんぱう》を得《え》られたる驚愕《おどろき》や実《じつ》に察《さつ》すべし。星夜馳《せいやは》せて板橋《いたばし》に到《いた》りて長七氏等《ちやうしちしら》に面会《めんくわい》を求《もと》め、更《さら》に衛兵《ゑいへい》の隊長等《たいちょうら》に就《つ》きて救護《きうご》の手段《しゆだん》を尽《つく》されたれども、事捗々《ことはかばか》しく行《ゆ》くべくもあらず。已《や》むを得《え》ず江戸《えど》に趨《おもむ》きて其《そ》の救助《きうぢよ》の奔走《ほんさう》に幾年《いくねん》をか費《つひ》やされたる。其等《それら》の故《ゆえ》をもて氏《し》の生命《せいめい》をば辛《から》くも留《とど》め得《え》て、後《のち》、赦免《ゆる》されて家《いへ》には帰《かへ》られしかど彼《か》の心疾《しんしつ》は遂《つひ》に癒《え》えず。惜《をし》むべし大《おほ》いに為《な》す有《あ》るの材《ざい》を抱《いだ》いて空《むな》しく病床《びやうしやう》に呻吟《しんぎん》し、行年纔《ぎやうねんわづ》かに三十二にして世《よ》を辞《じ》せられたり。天《てん》か、抑《そもそ》も亦《ま》た人《ひと》か。嵯乎《あゝ》これを何《なに》とか謂《い》はむ。其墓は郷里下手計の墓地に在り。渋沢男爵これを建てらる。碑面に題して、東寧尾高弘忠之墓と云ふ