デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

3章 静岡藩仕官時代
■綱文

第2巻 p.70-93(DK020003k) ページ画像

明治元年戊辰十二月二十三日(1868年)

是ヨリ先十二月八日帰京ノ後凡ソ十日公私ノ用務ヲ整理シ、同月十九日徳川昭武ノ親書並ニ渡仏一行ノ費用ノ勘定書ヲ持シテ静岡ニ到ル。是日前将軍徳川慶喜ニ静岡宝台院ニ謁シテ帰朝ノ復命ヲ為シ、昭武ノ親書ヲ上ル。慶喜内命ヲ下シテ栄一ヲ静岡ニ留マラシメ、勘定組頭トナシ、尋デ勘定頭支配同組頭格御勝手懸リ中老手附ヲ命ズ。


■資料

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之四・第一一─二一丁 〔明治二〇年〕(DK020003k-0001)
第2巻 p.70-74 ページ画像

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之四・第一一─二一丁 〔明治二〇年〕
○上略 自分が民部公子に昵近したのは、海外航行から仏蘭西御滞在中は勿論、二箇年近く始終御側に在て万端の御世話いたし、前将軍家又は其地への御書状なども、皆自分が其草案を認めた程であつて、御稽古の事は更なり、御衣服より御食物、又は御遊興の事までも、何一つとして自分の取扱はぬ事といふはなかつた、又常に古来賢君良将の嘉言善行を引例とし、近くは父君烈公の御遺績なども打交ぜて、朝晩に御教導申上たことであるから、頗る親密の御間柄となりました、それゆゑ公子に於ても、自分を御慕ひなされて、何事も自分に御話のない上は、御所存が決着せぬといふ有様になつて、仏蘭西から帰つて来る途中などでも、水戸藩といふものは前々から騒動の多い藩であるから、余が帰つて相続をするにも、此の先きが思ひ遣られる、殊に今日では余が頼みに思ふ程の藩士も少ないから、其方も日本へ帰つてからは、兎に角水戸まで来て遊んで呉れと、誠に懇切な御内意なども承つたことでありました、
帰国の後も、小石川の御屋敷で公子から御話が出たに依て、其処で自分も能々考へてみるのに、向後は全体、如何に此の一身を処置するといふ点に就ては、随分窮した場合で、別に衆人に勝れた才芸があるでもなし、又恩顧を蒙つた君公は、現在駿河で御謹慎の身の上、然らば同志の親友はといへば、箱館で賊徒の名を受けて、討手の官軍を引受て、頻りに戦争をして居る、当時朝廷に立つて威張つて居る人々は、何れも見ず知らずの公家か諸藩士か、又は草莽から成上つた人ばかりで、知己旧識といふは一人もない、熟ら既往の事を回顧してみると、幕府を倒さうとして様々苦慮した身が、反対に倒されて、亡国の人になつて、殆ど為すべき道を失つたのだから、残念でもあるが、又困却もした、さればといつて、目下羽振りのよい、当路の人々に従つて、新政府の役人となることを求むるのも、心に恥づる所であるから、仮令当初の素志ではないにもせよ、一旦は前君公の恩遇を受けた身に相違ないから、寧そ駿河にいつて一生を送ることに仕やう、又駿河へいつて見たら、何ぞ仕事があるもしれぬ、若し何にもする事がないとす
 - 第2巻 p.71 -ページ画像 
れば、農業をするまでの事だと、始めて決心をしました、
斯く決心した以上は、一日も早く出立しやうと思つて、故郷から東京へ帰ると、間もなく駿河へ向けて旅行しましたが、其旅行の前に、仏蘭西滞在中の諸計算を整理して、荷物其他の始末を付け、水戸に属する分は、水戸藩へこれを引渡し、又静岡藩の政庁に申立て、其許可を得て、仏国から持帰つた残金の中を以て、凡そ八千両ばかりの金額で鉄砲を買上げ、これを公子が水戸へ御越の時の土産に充てたが、尚まだ其残金があつたに依て、其等の計算を明瞭に記帳して、物品の取片付をして置いて、駿河へいつた時にこれを静岡藩庁の勘定所へ引渡しました、又其時に民部公子から前君公への直書を持つていつて、前公に拝謁したら、今日までの経歴、其他の事共を、詳しく申上て呉れ、此の手紙の中には、先般京都に於て懇命を蒙つた留学の事も、其目的に達せぬうちに、不測も御国の大変に遭遇して、已むことを得ず帰国はしたけれども、今日の場合では、拝謁の事さへ心に叶はぬから、委細の事は渋沢を以て申上るから云々と、認めて置たに依て、御無事の御様子を拝して、仰せ事があつたなら、再び水戸へ来て、それを伝へて呉れよと、くれぐれ仰せ含められた事でありました、
偖て東京と静岡とは、僅かの行程であるから、其月の二十日過ぎに静岡へ到着しました、其頃静岡藩で全権の役人は、中老職の大久保一翁といふ人で、其上に平岡丹波といふ家老職の人もあつたが、是はたゞ其名ばかりで、実際政事の権は大久保一人の掌中に帰して居ました、又前公の御附には、梅沢孫太郎といふ人が居つた、此の梅沢といふ人は、原市之進と同じく、水戸の出身で、原と共に一橋家の用人となつて居たが、前公が将軍家御相続の時に、幕府の御目附に栄転して、幕府顛覆の後も、今に至るまで始終扈従して居たのである、さて静岡着の後、直に大久保に面会して、仏国滞在中の概略を述べて、民部公子の御書状を、同氏の手から前公へ執達の事を請ひ、公子の御伝言をも申述べた処が、大久保は逐一これを領承して、直に御聞に達しました、其頃前公には宝台院に於て御謹慎中にて、同所にて御逢があるに依て出頭しろといふ通知が来たから、静岡着の翌々日の夕方から宝台院に伺候して、緩々前公に拝謁を遂げ、各国巡回中の実況から、公子仏国に御留学の御様子、及東京に於て御申含めの事共まで、落ちもなく言上して、其儘旅宿に逗留して居たが、何も外に用事がないから、ブラブラ市中の見物などして遊んで居る中に、一日過ぎ二日過ぎ、三日目になつても、何の沙汰もないから、如何したことかと思つて、梅沢へいつてまだ御返事は出ないかと聞合せて見ると、いづれ追て御沙汰があらうといふから、其積りで待て居ると、四日目になつて、突然藩庁から自分に出頭しろといふ達しがあつた、直に出頭した処が、勘定所へゆけといふ、何だか分らぬが、まづ行て見ると、袴羽織では困るから、礼服を着て来いといふ、旅中だから礼服は持たぬと答へた、処が御用召だから礼服でなければならぬといふ、拠ろなく有合せに他人の礼服を借り着して、中老の詰処へ出る と、静岡藩の勘定組頭を申付けるといふ辞命書を渡された、能々自分は勘定組頭に縁が深いと見へる、ソレカラ勘定所にいつて、勘定頭の平岡準蔵・小栗尚三の両人に
 - 第2巻 p.72 -ページ画像 
面会して、自分は存じ掛なく勘定組頭を仰せ付つたが、全体仏蘭西から帰ると、直に民部公子の直書を持参して前公へ上げてあるから、其御返事がある筈で、梅沢へ其様子を尋ねて居ました処が、基御沙汰はなく、突然今日の拝命、難有仕合ではあるが、前公から公子への御返書があるであらうから、其れを拝受して、一旦復命した後であれば兎も角も、其事を果さずに、今日の拝命は甚だ迷惑だから、御請は致し兼ます、何分早く御返事を伺つて、水戸まで往きたいから、其事の御取次を願ひたいといふと、平岡が委細承知した、早速聞て見やうといふので、直に中老部屋へ聞きにいつて、帰つていふには、水戸への御返事は別に手紙を遣すから、足下の復命には及ばぬ、藩庁で必用があつて勘定組頭をいひ付たのだから、速に御請をして勤仕するが宜いといふ大久保の口上だから、左様心得られるやうにといふことであつた此の返答を聞て、自分は勃然として憤怒の余り、辞令書を平岡の前へ投げ出して、ヘエ左様なら、私は此の請けは出来ぬから、御免を蒙りますといふて、其儘旅宿へ帰つて仕舞つた、スルト平岡が、大坪某といふ勘定所勤仕の人で、自分の知人である者を、旅宿へ遣はして、仔細を推問させたから、自分が大坪に対して答ふるには、中老とか勘定頭とか御役名は立派でも、世間の有様が見えぬも困つたものだ、自分は今日僅かに七十万石に封ぜられた、窮乏の藩禄を貪る量見で来た人ではありませぬ、海外へ旅行したといふを慰労する心から、百俵か七十俵の禄を下さるのであらうが、それは自分の甘受せぬ所である、如何に高貴の人は人情が薄いといつても、是れでは前公も難有くは思はれませぬ、昨年民部公子が欧羅巴へ御出掛の時に博覧会の礼典を済した以上は、直に仏国に留つて学問をするやうにとの御直命であつた、其故公子は勿論私共まで、励精刻苦して、天晴れ修学の功を積んだ後に、帰朝する覚悟であつた、然るに図らずも御国の大変動に遭遇して万已むを得ず帰国になつた事であります、此の場合に至るといふは、実に言語に尽されぬ無念な情も存じて居る処から、公子には御自身当地へ御出になつて、親しく拝謁の上に、御幽情を慰め奉らむとの思召であつたが、其事も為し得られぬから、拠ろなく御直書を以て委細申上られ、其上にも洩れた所は篤太夫を以て陳述させるから、一日も早く御返書を御渡しになり、それを拝見して御健康の御様子をも、同人から委細に承るのを待つて居られるとの事で、御親弟の間柄、如何にも御尤千万の御情合と察し上るのも無理ならぬことと存じます、然るを、其返書は此の方から出す、其方には当庁で用が有るから、其儘勤務しろとは、実に御情合を御存じないなされ方であります、仮令前公からその御命令が出たに致せ、御側に附て居る者が、若しも人情と道理を弁へて居たならば、斯んな処置は出来ぬものだ、其れを知らぬといふやうな人達ばかり揃つて居るから、此の通りの有様になつて、君は辱しめられ国は削られて、其臣下はといふと、尚生を偸み哀を請ふて、此の上百万石にもなりたいといふのが、藩中の智慧を奮つた上のことだ、ソンな腐れた様な人達の揃つて居る静岡では、此の上此の地に住居も出来ぬ、又勘定組頭の事は、辞表を出すのも腹が立つから、書付を直ぐに返却したに依て、別に仔細はない筈であると、散々に論
 - 第2巻 p.73 -ページ画像 
弁した処が、大坪も持て余して、ソンナ乱暴な事をいつては困るといふから、自分は決して乱暴を言張る所存でないから、大久保へなり、平岡へなり、自分が今吐露した通り、あからさまに左様いつて呉れ、ソシテ若し静岡に置くことが出来ぬといふなら、何処へでも往くと、存分に言ひ罵つて大坪を帰した、スルト其晩に又大坪が出て来て、先刻の話しに付て、足下が立腹の原因等を承知したから、其趣を大久保に話した処が是れには段々仔細のある事だに依て、何れ大久保から直に話しをする積りだといふことであつた、果して其翌日、大久保から呼びに来たから、行て見ると、大久保のいふには、足下の立腹は一応尤であるが、畢竟は内部の事情を知らぬからである、此の方にも已むを得ない訳があつて、寧そ其の話しはせぬ方が宜からうと思つたからではあるが、弁解の為めに一ト通り話しをするが、全体民部公子より前公へ差上られた御直書の御返事は、如何遊ばす御積りであるかと拙者より前公へ伺つた所が、前公の御意には、別に篤太夫が行くには及ばぬ、追て此の方から返事を出せば宜しい、又篤太夫には、藩庁で何か職務を命ずる工夫をしろといふことであつたから、何の筋に採用したらよからうといつた所が、平岡が京都からの知り合だといつて、終に勘定組頭といふ相談になつた訳で、詰る所は、都て前公の御直裁であるが、其れを足下に立腹されては、甚だ迷惑千万であるといふ話しであるから、尚又直に御返書を遣はされぬ訳と、自分の水戸へゆくといふを御差止めになつた次第を尋ねて見た所が、大久保のいふには、足下の身分に付ては水戸から掛合が来て、是非とも当方へ呉れといふことであつた、然る所、前公の思召は、足下が水戸へ行けば、民部公子が厚く慕はれる余り、重く用ゐたいと思はれるに違ひない、左様すれば水戸の連中の妬心を引起して、結局は足下の身に害を生ずる虞れもあるし、好しそれ程にないとも、足下が水戸藩のために有用の人となる事は出来ぬから、それよりは当藩に必要があるから遣ることは出来ぬといふが宜しい、又足下が民部公子への御返書を持つて行くと、暫くでも留まる、留まれば自然と情合が増す道理であるから、御返書は別に此の方から出すといふことになつたのである、右等の事情が分らぬ所から、余り人情のない処置だと不満に思つたのだらうが、実は今申す通りの次第だに依て、篤と此の処を会得するが宜しいと、委細の事を始めて承知して、大きに自分の性急なることゝ、此の程の失言を慚愧しました、
右の一条も話しが分つたに就て、そこで又大久保にいふには、私は固より水戸に仕へる所存はありませぬから、最早御返書を頂戴することも望みませぬ、去りながら私は勘定組頭の職に就くことは御免を蒙ります、折角の御意は実に有難い仕合ではありますが、少し心に期することがありますから、勘定所の勤めは御請が出来ませぬ、是丈けは是非に御辞退申しますと、再三再四言張つて、終に其職は免るされました、何故に自分が静岡で職に就くことを辞退したといふに、自分が此の際静岡へ移住と覚悟をしたのは、全く世を捨てゝ、前公の傍に安居を謀つた訳である、然るに今当職を奉ずる時は、即ち禄に仕へるものとなるのである、既に世は皇政更始となつたから、此の藩制とても、
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亦永久不易とは期することは出来ぬであらう、それを今日、此の藩庁に奉職して、其務めに拮据すればとて、其効能は極めて薄弱なことであるし、又仮令此の藩に用ゐられて要路の人となつたとて、それで素志に協つたともいひがたいから、寧ろ農商の業に従事して、平穏に残生を送る方が安全であると観念した故でありました、


昔夢会筆記 中巻・第五五―五六頁 〔大正四年四月〕(DK020003k-0002)
第2巻 p.74 ページ画像

昔夢会筆記  中巻・第五五―五六頁 〔大正四年四月〕
○渋沢○上略 私は出納は余程正確に且つ明細に遺つた積りです、それで静岡で平岡準造《(マゝ)》といふ人が私を目して、此男は大変綿密の人だと見たのです、どうもあゝいふ時の後始末について、計算書を判然と出した人は滅多にない、海外へ出た者は、経費が足らなければ足らないと言つて来るが、余れば持つて来るといふ人はないのに、誡《(誠)》に明瞭に調べて……且巴里の御旅館になかなかの品物があつたものですから、それを種々心配をして、売るものは売り、掛け合つて返すものは返して、何でも金額で三万円余り持つて帰りました、前に一万六千円ばかりの金を持つて帰つて、其中で公子が水戸を御相続なさるについて、何か水戸へ御土産にといふので、スナイドル銃を一小隊分か買つて上げました、六七千円の金を其方へ使ひまして、一万円余りの金を駿河の方へ持つて帰りました、それから後へ頼んで置いた道具が売れて、其金が還つて来た、それが一万五六千円の金でございました、処が其金は自分が持つて帰らぬので、あちらから名誉領事が送つて来たものですから、外務省で、これは新政府のものだ、取らうといふ論です、それからこれを取られては困る、政府のものではない、民部大輔一身に属して居るものだと、多少強弁もあつたかも知れませぬけれども、段々説明して其金はこつちへ貰ひまして、併せて三万円ばかりの金が残つたのです、其残つた中で、今のスナイドル銃を六七千円出して買つて、二万円ばかりは駿河の方の計算に残つたのです、余程明瞭に調べて、細かい道具なども、方方へ進上をされた後の残りが、茶碗が幾つ、茶托が幾つ、盆が幾つと皆明細に調べて御引渡をしました、それらのことから、私は静岡の勘定組頭といふ職を言ひ付かつたのです、○下略


竜門雑誌 第四九八号・第一三―一五頁 〔昭和五年三月〕 【徳川慶喜公の知遇】(DK020003k-0003)
第2巻 p.74-75 ページ画像

竜門雑誌  第四九八号・第一三―一五頁 〔昭和五年三月〕
○上略 私は今もはつきりと印象に残つてゐるが、帰朝した当時一度民部公子の御手紙を持参して静岡で慶喜公にお目通をした事がある、何でも夜であつた。公の謹慎してゐられる宝台院と云ふお寺へ行つて一室でお待ちして居ると行灯の傍へひよろりと誰か来た。誰か側近の方かと思つたら、その方が慶喜公であつた、唯一人しよんぼりお坐りになつたのであつた。その時ばかりは感極つて哭いた『こんな情無いお姿を拝し申さうとは……何と申してよろしいか』と申上げると、慶喜公は『今日はそんな愚痴を聞くために会つたのではない。お前が民部の事に就て、仏蘭西滞在中の報告に来たとの事であつたから、それで会はうと云つて置いた筈だ』ととゞめを刺すとでも云はうか、平然として言はれた。誠に慶喜公はあんな場合には、人情があるのか無いのか
 - 第2巻 p.75 -ページ画像 
それもと感じがあるのか、無いのか、と思はれる方である。それで私も『恐れ入りました、それでは何も申上ますまい。唯御残念でございませう』と云つて、それから民部公子の御渡欧に就いて、詳しく御話申して引下つた次第である。それから民部公子への返事のお手紙を頂いて水戸へ持参したいと待つて居たが中々お手紙が出来ない。当時静岡藩の勘定頭をしてゐた平岡準蔵と小栗尚三(此の人は以前小栗下総守と云つた人である)に会つて右の旨を伝へると『あの御返事は直接当方から差出すから、足下が持つて行く必要はない。渋沢には静岡藩で何か申付ける事があるから此処に居るように、役目の方は追つて御沙汰があるから』とのことであつたが、此時は真に腹が立つた。そこでその人々の面前で『世の中がヘマに行くと、こうまで人情が無くなるものか。これでは幕府が外国から蔑られるのも無理はない。此一渋沢でさへ見限りはてた』と殆ど暴言に近い事を並べ立てゝ一先づ旅宿へ帰つた。すると翌日中老の大久保一翁から呼ばれたので行つて見ると『足下は非常に立腹してけしからん事を言つたそうだが、あの事は君公御自身でお取計ひになつた事だ。何もそんな事を云つて、自分等の責任を逃れやうと云ふのではないが、事実慶喜公御自身の御考であるから、基点はよく承知せねばならぬ。唯申して置くが、慶喜公は「渋沢を水戸へやると如何なることが起るか分らぬ。民部は大変渋沢をしたつて居つて、是非渋沢を水戸藩士にしやうとしてゐるが、若し渋沢が水戸藩で仕事をすれば水戸の人々は好くは思はぬに相違ない。だから渋沢が水戸に行く事は渋沢の為めにならぬ」と何所までも足下の為めを思召し其為めに静岡に留めて置かれようと云ふのである』と、理を分けての意見であつた。さてはそんな次第であつたかと、私は頗る恐縮して遂に静岡に留まる事になつたが、その時申附けられた勘定組頭の役は御辞退して、私は別に合本組織の商法会所の設立を計画して、これを申し出ると快く許された。○下略
  ○右ハ栄一ノ「徳川慶喜公の知遇」ト題スル談話ノ一節ナリ。


渋沢栄一 日記 自明治元年十一月三日 至同 二年正月十八日(DK020003k-0004)
第2巻 p.75-79 ページ画像

 渋沢栄一   日記  自明治元年十一月三日 至同 二年正月十八日
○上略
 十二月八日 曇               一月十九日
払暁鴻巣発途蕨宿ニ而昼食、夕方明神下着杉浦在宿なりしかは別後之事共申談 ○中略 夜福地源一郎来
 十一《(二)》月九日 晴               一月廿日
朝杉浦同行飯田丁ニ而平岡四郎を訪ふ、不在ニ付明朝を約し夫より御殿へ出る、大久保一翁に逢而駿府出立之儀申立る、郷里より帰着せし儀駿出立之儀其外届差出す、森川面会、開成所残金会計局へ返納之儀仏行之者御手当請取方等申談来、十二日一同出殿之積相約し、夕方退散、夫より礫邸へ出る、公子明日水国御発途ニ付夜拝謁被仰付、御内用之儀被仰聞菊池平八郎其他之者面会、再《(爾)》後之御用手筈打合夜十時過帰宿
 十一《(二)》月十日 晴               一月廿一日
朝田中清三郎来、栗本へ書状差遣す、書類催促之儀申遣す、三ツ井加太へ調達金之儀相達す、四ツ頃より平岡四郎を訪ふ、不在ニ付不逢、夫
 - 第2巻 p.76 -ページ画像 
より梅田を尋ね昇之助衣服之儀相頼み、夫より両国に至り杉浦同行ニ而河津に至る、河津田辺抔相伴ふて深川扇橋玉忠別荘を訪ひ、松平伊賀守の庭園一覧、当時売品也、夫より大黒屋の別業に至る、其庭は文晁抱一抔文人の戮力して築成せし園なりければ石泉の設樹木の植並抔雅致を究めたり、一覧後基亭ニ而饗応を受、酒間其娘に三曲を調さしむ、酒後商法之事六兵衛父子に申談し、夜十時頃舟ニ而柳橋ニ而杉浦の老人田辺抔と別れ、十一時頃筋違着、直ニ明神下に帰宿
 十一《(二)》月十一日 晴               一月廿二日
朝御用荷物其外荷繕ひいたす、須永於菟之助来、郷里へ取落し物送来る、夕方より水邸に至り柴田章彦面会、荷拵之儀申談す、夫より駒込片町田中清三郎を尋問、夜十時過帰宿、写真之儀ニ付河津へ書翰遣す
朝五来要助来る、其忰駿州之儀申立ニ付承届遣す
 十一《(二)》月十二日 晴               一月廿三日
朝栗本治兵衛を訪ふ、御入用仕上之儀申談す、夫より出殿三ツ井より調達金差出す、森川面会、仏行御用骨折ニ付時服二ツ拝領被仰付、此日勤仕並御請普《(普請)》入被仰付、直ニ大目付附属被仰付尤御書付ニ而申達
今朝加太八兵衛代人来、調達金延期之儀申立ニ付、厳重理解申遣す、午後右代人御殿に出る、明日尚又罷出る旨申立引取る、此日請取りし御手当金持参、夕方より和泉丁大黒屋店罷越し、金子引渡し、預書請取商法之儀品々申談す、帰路梅田へ立寄、郷里へ書翰差出す
 十二月十三日 雨               一月廿四日
朝より旅装を整ふ、田中清三郎来、玉屋忠四郎来
午後加太八兵衛代人来、預金書面認直し金三百八十両□《(余カ)》之御上納いたす、大黒屋へ書翰遣し、預ケ金之儀申遣す、三ツ井へ呉服代之儀申遣す、大黒屋代人来る、預金四百両相渡ス、三ツ井呉服代杉浦方ニ而請取、夕方川勝へ川路太郎英生徒御手当差引残相渡す、夜梅田方へ罷越おひさ来る浄瑠璃を聴聞す
 十二月十四日 雨               一月廿五日
朝梅田より明神下に帰り、旅装整たれは、第九時頃出立、尤荷物は不残船ニ而今晩品川へ差送る、第十二時頃品川着、肥後兵隊其外等ニ而人足多く入用故継立出来せすとて問屋場役人詰合なけれは本陣を頼み人足雇方取計、夕方川崎宿着ニ而一泊
 十二月十五日 晴               一月廿六日
此日も旅人多く人馬差支とて朝八時頃川崎宿十一時頃神奈川着、泉治といふ客舎ニ而田辺面会、卯三郎も時計之儀ニ付来りしが、昨日横浜に行しとて逢わす、田辺に托し伝語申遣す、外ニ書翰抔相托し後会を約し、夫より程ケ谷ニ而昼食、夕方藤沢着一泊
 十二月十六日 晴               一月廿七日
朝七時発路程も平垣《(坦カ)》にて人馬も稍差支されハ、行路捗取りぬ、大磯宿ニ而午飯、夕四時頃小田原宿着一泊
 十二月十七日 曇               一月廿八日
朝六時発、陌頭より山路を取り湯本に至休息、路程稍嶮峻なり、畑といふ処ニ而茶肆に憩ひ、雑煮餅を食す、道路尤嶮なり、時に雨来りぬれは駕に乗りて関門を通、箱根宿ニ而午飯、夕六時頃三島宿着、金川や
 - 第2巻 p.77 -ページ画像 
といふ旗亭投宿
 横打御門外 浅野旅宿
  元御武具奉行屋敷
 十二月十八日 曇風
朝六時半頃三島駅発、沼津に至りとらやといふ旗亭休息、塚本寛輔といふ陸軍士官の寓居訊問、沼津の景況を問ふ、夫より原宿ニ而午飯、夕方蒲原着投宿
 十二月十九日 晴風
朝七時頃発、江尻宿ニ而午飯二時頃府中東陲の松原ニ而浅野次郎八に逢ふ、夕三時頃府中着、問屋場ニ而旅宿を談し油屋吉五郎といふ旗亭投宿、脇阪米次郎来、鵜飼弥一来、同行ニ而七軒町天麩羅やに罷越、夫より上石町汁粉屋に至る、夜帰宿
  梅沢旅宿
 伝馬丁裏鷹匠町
 安在五丁目 黄村旅宿
 今村惣右衛門宅
 明後廿二日朝
神田小柳町梅田慎之助方ニ而川村刀金物請取持参之事
 十二月廿日 曇小雨
朝浜中義左衛門来、第十時頃御城中に罷出、梅沢孫太郎面会、前様拝謁之儀申立る、詰所ニ而淵延徳蔵に逢、清水港ニ而降服之者共名前帳を見る、午後帰宿直ニ宝泰院《(宝台院)》へ罷出る、拝謁之儀明日可被仰付旨ニ付引取、荒井助二郎訊問、川村三介面会夜同行ニ而平岡庄七旅宿を訪ひ帰宿後再ひ林研海を明真館《(新)》に訪ふ、夜十二時頃帰宿
 十二月廿一日 雨
朝浅野次郎八を訪ふ、御用向申上る、小出涌之助面会、書状渡す、帰宿後杉浦と共に大六手代人勇助面会、商社之儀申談す、川村来る、子息同伴いたす、第二時水府より被進候御品持参宝□院《(原本一字欠)》罷出る、御品は御小性頭取へ引渡す、梅沢孫太郎より拝謁之儀明日之積被申聞退出掛新村主計を訪ふ、夕方梅沢を訪ふ、京師以来之事情詳悉承及ふ、夜十時頃帰宿、川村へ金五拾両貸遣す、請取書預置、但荒井より頼之由

 平岡丹波殿    浅見前神宮刑部《(浅間前新宮兵部)》
 戸川平右衛門殿  茶町裏顕光院
    四郎殿   鷹匠町左側
    余十郎殿  紺屋町清水尻
    尚助殿   草深
    乕次郎殿  鷹匠町右側

奉願候書付 渋沢篤太夫
私義今般不存寄御勘定組頭被 命難有仕合奉存候、然処去月中民部大輔殿御附添仏国より帰朝仕候以来病身に相成、御用多之御場処勤仕出来兼候様奉存候間、御役御免被成下置候様仕度此段奉願候以上
   辰十二月廿五日          元開成所調役
 - 第2巻 p.78 -ページ画像 
                       渋沢篤太夫
 十二月廿二日 晴
朝第十時頃御城に出る、拝謁之儀ニ付公子より被仰含之廉々中老戸川平右衛門殿へ申立る、明日拝謁被仰付旨御同人被申渡商社之儀ニ付見込織田和泉殿へ申立る、淵辺徳蔵面会、観《(咸カ)》臨乗込当地ニ而謹慎被申付居候者へ書状達し方金子少々送り方申托す
昨日杉浦愛蔵横打町へ引越す
夕方愛蔵同行、大黒屋勇助を訪ふ、大坪七兵衛面会、帰路愛蔵と同しく天麩羅店ニ而小酌、夜に入帰宿
 十二月廿三日 曇
第十時頃宝台院へ罷出る、拝謁被仰付、公子より被仰含之儀洋洲事情等逐一申上る、海外ニ而此顛覆に遭遇し独力ニ而骨折之段御褒詞被下午後より杉浦旅宿を訪ふ、不在ニ付鵜飼弥一を訪ふ、夫より下足洗村東広寺罷越す、元局残御用之儀承る、夕方杉浦同行、西吉十郎を訪ふ、不在夜に入山高八郎を訪ふ、帰路大黒屋勇助を訪ひ十時頃帰宿
今日夕七ツ時御用有之出殿可致旨御目付より被申達
 十二月廿四日 曇午後雨
第九時半頃出殿御用向承及候処御用召之旨被申聞礼服着用可致旨ニ付御目付局ニ而借用いたす、御勘定組頭被命旨平右衛門殿申渡、御勘定局へ被引渡頭同役其外一同へ面会いたす
公子へ復命之儀頭衆より相伺候処不及其儀旨被申渡、退出後礼服無之ニ付廻勤難出来旨局及御目付へ申越す、夜山高八郎来、此夜隣家ニ而喧嘩有之
 十二月廿五日 雨
朝杉浦愛蔵来、昨日之手続申聞る、梅沢孫太郎へ書状遣す、今日不快ニ而出勤相成兼候旨愛蔵へ托し御勘定所へ書状差遣す、林研海・鵜飼弥一来、脇坂米次郎来、夕方願書持参ニ而平岡四郎を訪ふ、不快ニ付不逢、帰後書状を以申遣す
 正月朔五時揃 服紗小袖麻上下
  上士之者御礼
 二日 同刻限 同断
  上士以下之御礼
 三日 例刻 同断
  御礼無之
 四日 今日より平服例刻
 七日 十一日 五時揃 服紗小袖麻上下
  不勤之者御礼
 十五日 同刻限 同断
 右之通御礼被為請候間得其意向々へ可被相触候
    十二月
 十二月廿六日 曇
朝勇助へ書状遣し同人早速出張有之度申遣す、勇助来る、商法之儀行れ申間敷旨申聞、昨日よりの手続荒増申聞る、午頃大坪七兵衛来、頭衆より是非出勤之儀申来る、尤一翁殿御逢被成度儀ニ付同人以使罷越旨を
 - 第2巻 p.79 -ページ画像 
も申聞る、午後同行ニ而出殿、一翁殿面会水戸復命之儀御不都合之儀数々仔細等被申渡、明日御請可申上儀相答、平岡四郎へも品々申談引取、夕方山高を訪へ時雨庵ニ而杉浦面会、夜に入大坪を訪へ平岡庄七を訪へ帰宿
 十二月廿七日 晴
朝出殿復命之儀并御役之儀難有御請申上候旨四郎を以一翁殿へ申立る、公子へ呈書外一封御用便達し方之儀相托す、梅沢面会、御請申上候旨申談、午後廻勤いた《(す脱カ)》、夕方呉服町五丁目川村屋方へ転宿いたす


渋沢栄一伝稿本 第六章・第一〇―二二頁〔大正八―一二年〕(DK020003k-0005)
第2巻 p.79-82 ページ画像

 渋沢栄一伝稿本  第六章・第一〇―二二頁〔大正八―一二年〕
○上略 先生は再び東京に入りて後は、仏蘭西より持ち帰れる荷物を整理して、徳川昭武に属する物をば水戸藩に交付し、海外滞在中の収支の決算をなすなど、多忙の間に日を送りしが、昭武が予定の如く水戸家を相続して小石川の藩邸に住みし後は、屡々之を訪ひて何くれとなく心添へしたることも多く、昭武も深く先生を慕ひて之を喜び且告げて曰く、「余が水戸藩の祀を承くることゝなれるは、誠に思ひもよらぬ幸にあれど、任いと重きが上に依頼すべき藩士の少きを歎ず、将来卿の輔導を仰ぐは、余の最も望む所なり」と、交情愈密なり。此時先生は静岡藩庁に乞ひ、仏国滞在費の残額中より約八千両を割きて、スナイドル銃三百六十挺弾七万二千発付 ピストル四挺弾百発附 銀時計五個を横浜なる瑞西九十番商館より買入れて、昭武が帰藩の際の土産に供したり。かくて東京にての用務ほゞ完了せしかば、宿志の如く静岡に赴かんとし、暇乞として水戸藩邸に赴けるに、昭武はいたく名残を惜しみ、先生に依嘱して曰く、「余も一度は兄君慶喜公を指す に見えて種々の物語せんとは思へども、謹慎しておはす上は対面も協はさるべし、彼地の有様を始め、拝顔の機を得ざる苦衷に至るまで、詳に卿より聞え上げよ」とて、一封の直書を交付し、又余も遠からず帰藩すべければ、兄君の御言伝は卿自ら水戸に来りて復命ありたしなど、懇なる依頼ありしかば、先生其書を携へて江戸を発し、静岡に著したるは十二月十九日なりき。乃ち藩庁に到り、藩の中老大久保一翁に見えて、仏国滞在中の諸報告、収支の決算など総べての処分を畢へ、且つ昭武の直書の呈出を依頼せり。越えて二十三日、宝台院に於て慶喜公に謁す、昭武の伝言はいふも更なり、欧洲の形勢留学の始末など、洩るゝ所なく言上せしに、公にもいたく喜び給ひ、「万里の異域にありて幕府の瓦解に逢ひたれば、さぞかし苦労せるなるべし、さるにても一人にて諸般の事務に鞅掌せるが上に、此度障りなく昭武の帰朝するに至れるは、偏に卿の力なり」とて褒詞せられ、いたく面目を施しけるが、配所の月を詠め給へる公の御身の上を目のあたりに見ては、暗涙の滂沱たるを禁ぜざりき、かくて先生は公より昭武への御返翰を奉じて、一旦水戸に赴き前約を果さんものをと期待したるに、何等の沙汰もなく数日を過ぎたる後突然藩庁より出頭の命あり、直に登庁せるに、「袴羽織にては不可なり、礼服を着用せよ」との事ながら、旅中其用意もなければ已むを得す知人の服を借りて中老の詰所に行けるに、勘定組頭に任命するよしの辞令を交付せられたり。此に於て先生は勘定所に出て、勘定頭平岡四
 - 第2巻 p.80 -ページ画像 
郎 準蔵 小栗尚介 旧幕府の勘定奉行たりし小栗下総守政寧なり後又尚三と改む を訪ひて曰く「余は民部公子の直書を前公に上りたれば、其御返事をこそ待ち居たれ、然るに其沙汰はなく却て今日の辞令を拝せり、有難き次第にはあれど、公子との約もあれば、御返翰を拝受して復命せる後にあらざれば、御請申上げ難し、一日も早く御返翰を賜はるやう御執次を乞ふ」といへるに、平岡は「尤なる事なり、伺ひ見るべし」とて、中老部屋に赴きけるが帰り来りて曰く、「水戸への御返翰は別に使者を遣はさるべし、足下の復命に及ばず。藩庁にては公命により、勘定組頭を申附けしことなれば、速に御請して勤仕せよとの大久保一翁の口上なり」と。先生之を聞きていたく憤り、辞令書を平岡の前に抛ち、「余は決して御請する能はず、御免を願ふべし」とて、其まゝ旅宿に帰れり。暫くして平岡はかねて先生と相知れる大坪某とて勘定所に勤仕せる者を先生の許に来らしめ、子細を推問せしむ、先生対へて曰く、「中老とか勘定頭とか、役名こそ事々しけれ、世事に通ぜざるも亦甚しからずや、余は決して僅に七十万石に封ぜられし窮乏の藩禄を貧らんが為に来れるにはあらず、海外に使せるにつきて、慰労の心にて食禄を下さるべき思召ならんも、そは余の甘受せざる所なり。如何に高貴の人は人情に薄しといへ、かゝる次第にては前公を御怨み申上ぐべし。昨年民部公子の欧洲に赴ける時に、博覧会其他の礼典畢らば、直に仏国に留りて学問せよとの御直命ありしにあらずや、されば公子は申す迄もなく、余等に至るまで、励精刻苦して、天晴れ修業の功を積みて帰国せん考なりしに図らずも本国の大変動に已むを得ず業を抛ちて帰来せり、かゝる場合に於ては、言葉にも尽きぬ無念の情あれば、公子は自ら当地に来り親しく前公に拝謁して、御幽情を慰め奉らんとの思召なれど、其事の協はざるにより、拠ろなく御直書を以て委細を言上し、なほ洩れたるは篤太夫に陳述せしめ、一日も早く御返翰を賜はり、之を拝して御健康の御様など承るを楽に待ち奉るとの事なり、御親弟の間柄、如何にも御尤なる御情合と察し奉れり。然るに御返翰は別に遣はさるべし、其方は藩庁に勤務せよとの御沙汰は、此御情合を御存じなきなされ方と申すより外なし。仮令前公の御沙汰なりとも、御側に奉仕せる者人情を解せば、之を諫め奉らざるべからず、此の如く道理を弁へざる者多ければこそ、君は辱められ国は削られしなれ、余はかゝる土地に住するを好まざるなり、辞令を抛ちたるも余りに腹立ちしが故なり」と、散々に罵りたれば、大坪某ももてあまして、とにかく其意を伝ふべしとて帰りたり。翌日大久保一翁特に先生を招きて曰く、「足下の立腹は誠にさることなるが、そは内情を知らざるが故なり、蓋し已むを得ざるの内情に出でたれど、其事は語らぬ方宜しからんと思ひて、わざと秘したれども、今は包まず語るべし。初め公子の直言を上れる時、御返事は如何遊ばさるべきやと伺ひしに、前公の仰に、篤太夫は行くに及ばず、別に其人を択びて遣はすべし、なほ篤太夫へは藩庁にて相当の職務を申付くる様にとの事なり、乃ち平岡準蔵と謀りて勘定組頭に任命せるにて、皆前公の親裁に出づ」といへり。先生乃ち推し回して其事由を追窮せるに一翁の曰く、「過日水戸藩より足下を同藩に召抱へたしとの交渉ありたるが、前公には足下にして水戸に赴かば、公子の厚
 - 第2巻 p.81 -ページ画像 
く慕はるゝ余り、重用せらるゝに相違なし、かくては水戸藩士等の嫉妬を招き、終には足下の身に危害を生ぜんの虞あり 又それほどの事はなくとも、足下が水戸藩の為に有用の人たることは出来まじと思へば寧ろ当藩にて任用するに若かず、且つ足下にして御返翰を持ち行かば暫くは滞在すべし 滞在すれば自ら情合も増すの道理なれば、別に人を遣はすべしとの御内慮なり、人情を解せぬ処置なりと足下の怨みたるも故なきにはあらざれども、かゝる前公の思召に出でたる次第故、篤と会得ありたし」となり。此に於て先生始めて事の委細を知り、釈然として意の解くると共に、前後の弁へもなく怨み申したるを悔ひ、却て慶喜公の深慮厚恩に感泣せり。
此時先生より昭武に呈せる書翰あり、曰く、
  謹捧一書候、東京府御発以後益御健康被為渉、無御滞御着府、其後軍国之御時務御鞅掌被為在候御儀と奉遥頌候、私義奉命以後無異本月十九日駿府着、廿三日拝謁も相済、兼而被仰含候御情実共逐一申上候、前様にも御満悦之儀被仰聞、海外万里玆御顛覆之際嘸御苦念之儀、毎度思召被進、将私義不手馴之土地独力を以相勤罷在、無御滞御帰朝相成候は、取計宜旨御褒詞頂戴、重々難有仕合に奉存候、就而は早速復命右之段申上度奉存候処、前様思召之品被為在、且又私義当地に而御用有之に付、復命は其御筋へ以書状可申上旨被命候、右に而は兼而被仰含御趣意も難相立、且は私信義も相失候儀に付、再三申立候得共、何分復命之儀御許容無之只管苦念仕居候、所詮右様之御場合に立至候上は、何分箱港御発前罷出、復命難相成奉存候、因而は平生申上置候微衷も難相貫、不得已御場合より私義不信義者と成果候は、実に遺憾千万に奉存候得共、御趣意柄に対し、強而申募候次第も出来兼、無拠前条之旨趣以書取申上候次第、何共奉恐入候得共、可然御海涵御仁恕之程奉懇願候 恐々敬白
    辰十二月廿七日
                      渋沢篤太夫
    再白、右復命出来兼候に付、御左右之者へも一書差越、聊事情申述置候、乍恐御序之節御聴取、私之微意御諒察被成下度奉祈候
程なく先生は仏国滞在中の功により、時服二并に御手許金五百両を賜ひ、いたく面目を施しけるが、勘定組頭の任は思ふ所ありて切に辞退せしかば、遂に其職を免じ、新に勘定頭支配同組頭格御勝手掛り中老手附を命ぜられる。
  按ずるに、明治元年に於ける先生補任の次第詳ならず、渋沢家所蔵辞令書に、「御勘定組頭渋沢篤太夫、御役御免、御勘定頭支配同組頭格御勝手懸り中老手附被命」とあれば、勘定組頭より、同組頭格勝手懸り中老手附に転補せることは明なり。此外に肩書なくして、「渋沢篤太夫、右御奉公御免、勤仕並小普請入被命候」云云といへるもの、又「元開成所調役渋沢篤太夫、右只今御殿江可被差出候」といへるものゝ二通あり、小普請入の辞令は十二月附、末の辞令は十二月二十三日附なれども、初の一通は年月を欠く、
 - 第2巻 p.82 -ページ画像 
今之を明むるに由なし。○下略


渋沢栄一 日記 自慶応四年六月十四日 至明治元年十一月二日(DK020003k-0006)
第2巻 p.82-85 ページ画像

渋沢栄一   日記  自慶応四年六月十四日 至明治元年十一月二日
   時貸
一四百八十九フラク弐十サ     石州
一六フランク           平八郎
一八フランク 相済        御附三人 小遣酒代立替
一百四十三フ九十五サ       玄伯渡分
 此ポント五ポント半四シルリング 渡済
○中略 (コノ間ニハ Prince,S.M.K.P ノ各項下ニ各数十目ノ西洋数字ヲ書ク、公子以下ノ費用ナラン)
一仏貨三千〇三拾七フラク五サ   御航海中 御入費手当
一同 六十三フラク三サ      諸勘定差引残
〆三千百フラク八サ
 内四百八十九フラク弐十サ     山高石見守 荷物運賃立替

〆弐千六百拾フランク八十八サ
此英貨一百五拾弗
   此仏貨七百七拾五フラク    但壱弗 五フラク半
   一七十弐ホント拾四シルリンク 但壱ポント 弐十五フ弐十五サ
   此仏貨千八百三十五フラク八十八サ
英貨七拾弐ポント拾四シルリング  阿歴散大より御航海

弗 百五拾弗           中御入費手当
 内遣払
 九月十二日 三拾弗   アンベラトリイス 船中小遣一同被下
 四弗          御部屋小遣別段被下
 九月十八日
 四弗          亜丁ニ而馬車代
 壱弗          駝鳥卵 弐ツ
 壱弗          同羽 五本
 三弗          一同上陸往返船賃
 九月廿八日
○壱ポント壱弗      石州時貸
 一壱弗半        ホワントデガール 馬車代
 一壱ポント五シルリング 大象牙細工 壱組
 一拾弐シルリンク    同小壱組
 一壱弗         象歯板壱枚
○一弐弗         涌之助 冠物代
 一三弗三シルリンク   御冠物代
 一四シルリンク     リモナアデ 四本
 一六シルリンク     御昼食パン 色々三人分
 一八ポント五シルリンク ホワントテガール 旅宿御一泊代 昼食夜食代共
 一拾シルリンク     小遣之者被下
 一拾弐シルリンク    一同御供上陸帰船共 船賃
 〆拾弐ポント拾七シルリング
  五拾壱弗半
 - 第2巻 p.83 -ページ画像 
 差引
 〆五拾ポント拾七シルリンク
  九十八弗半
 十月一日
 改〆五拾五ポント
   拾弗
 九月廿八日
 一弐シルリンク     御煙草 弐束
 一五シルリンク     ヒユイル リモナード代
 一七シルリンク     錫蘭ニ而 案内者弐人 小遣荷物運送代
 十月五日
 一半ポント       新嘉埠 御上陸之節馬車代
 一弐シルリンク     アナヽ四ツ
 十月六日
 一拾三弗半       新嘉埠客舎 御昼食代部屋代共
 一半弗         茶代
 一五弗半        御上陸馬車代
 一六弗         写真 拾枚 新嘉埠景色
 一弐シルリンク     貝類
○一壱シルリンク     湧之助分
○一弐ポント       石見守渡
 一弐シルリンク     乞丐被下
○一四弗半        石見守 煙草代渡
 十月六日
 一壱弗半        平八郎煙草代
 一壱弗半        煙草代
 十月九日
 一四シルリンク     柴掍写真四枚
○一弐シルリング     同断 涌之助分
 一壱ポント       シヨーロン馬車代
 一五シルリング     往返船賃
 十月十日
 一四シルリング     御上陸往返船賃
 一三シルリング     リモナアデ代
 十月十七日
 一三ホント壱シルリング アンペラトリス船中シヤンパン其外小物代 小遣頭払
 一壱弗         船中 小遣頭被下
 一弐弗         御洗濯物代
 一弐弗         船中 小遣之者被下
 一三拾六トルラル    香港客舎旅籠代
 一壱弗         小遣被下
 十七日
 一三弗半        杏花楼御昼食代
 十七日
 一弐シルリング     写真 弐枚
 十七日
 一三弗半        御薬種御買上代
 一弐シルリング     酸漬生姜代
 十七日
 一拾六シルリング    御上陸往返 船賃八〓分
 一三シルリング     荷物運送之者被下
 廿日
 一弐ポント       ハアズ船 小遣一同被下
 廿一日
 一九弗半        香港再御上陸之節 午飯料五人分
 一三シルリンク     密柑代
 - 第2巻 p.84 -ページ画像 
 一四シルリンク     往返船賃
 一六フラク       涌之助洗濯料
 九月廿八日より
 〆拾弐ポント六シルリンク
  九拾弗
 差引
〆三拾八ポント拾壱シルリンク
  八弗半
一千フランク       コンマンタント渡 残五人馬港着迄之入用
一千フランク       アンリイ渡
一五百フランク      コロ子ル渡
八月卅日
一百七十フラク      ゴフラン 織物壱枚代
一七十五フラク      御繻絆六枚代
九月一日
一弐拾フラク       ホルトウ客舎茶代
一拾フラク        蒸気車世話人弐人被下
○中略
一七百三十九フラ半    コンマンタント渡 巴里御残之者馬寨里迄蒸気車代荷物運送代共
一四百三拾八フランク   コロ子ル渡九月一日巴里御出立より馬寨里御着迄御旅宿代其外共
一七拾七フランク     ツールーズニ而スミレ花御買上太子御送被成候花代運賃共
一千九百弐拾フラ アンリイ渡 巴里御出立よりアレキサンドル御着 迄道中御入費蒸気車其外
一五百フランク      アンリイ被下 永々骨折候ニ付別段被下
一四百五拾フランク    阿歴散大より巴里迄 アンリイ帰着入用被下
一弐百フランク      コロ子ル帰巴入用被下
一五百フランク      教師馬寨里迄書状を以難渋申立候ニ付格別被下
一七百フランク      ジユリイ御国罷帰候ニ付難渋申立ニ付御合力被下但同人小遣御国人江学問修業料として被下
一百七十フランク     コブラン織物壱枚代 巴里にて御買上
一七拾五フランク     御繻絆六枚代 巴里にて御買上
一弐拾フランク八十サ   フロリヘラルト江相渡候証書写替手数代
一三拾フラク       ホルトヴ旅宿にて 茶代被下
一弐拾フラク       ヒヤリイト客舎にて 同断
一拾フランク       蒸気車世話役被下 ボルトウにて
一拾フラク        同断 ヒヤリイトニ而
一四拾フラク       ヒヤリイト客舎 部屋代
一拾フラク        小遣茶代被下
一弐拾フラク       同所よりハヨンヌ迄 馬車代
一四百弐拾弐フラ     コロ子ル御立替 ホンテンブロウ御越劇場御越御入用渡
一六拾フラク       御傘 壱本 道中御敷物壱枚
一九拾フラク       椅子 六ツ 馬港ニ而
一七フラク        同所ニ而 船中小遣被下
一三拾フラク       馬港客舎茶代
一四百七拾八フラ三十サ  同所客舎入用 但二昼夜代
一弐拾フラク       メシーナニ而珊瑚珠代
 - 第2巻 p.85 -ページ画像 
一八フラク        同所御上陸船賃
一弐拾九フラク      船中シヤンパン代但重陽ニ付被下
一四拾フランク      船中小遣一同被下
一拾七フラク       アレキサントルニ而馬車代
一弐百六拾九フラク    同所昼食代御夜食共
一弐十フラク       小遣之者 骨折ニ付被下
一拾フラク        蒸気車中御入用
一弐百弐拾フラク     スヱイズ 御昼食代部屋代共
一拾五フラク       スイズ馬車代
一千六百フラク      英貨 ドルラル 為替代
〆九千弐百六十五フ六十サ
一六拾フラク       医師礼 御腫物之節見舞料
仏貨 千八百フランク 千四百八十フランク五サ 〆三千弐百八十七フ五サ
英貨百八ポント八シルリンク 但壱ポントニ付 弐十五フ弐十五サ
トルラル百弗
  此仏貨五百五拾フラク
一三拾弗         アンヘラトリイス 船中小遣一同被下
一四弗          御部屋小遣別段被下
一四弗          アデンニ而 馬車代
一壱弗          駝鳥卵 弐ツ
一壱弗          子供 僕被下其外
一弐弗          御上陸船賃
 〆四拾弐弗
 九月十九日改
 一七拾五ポント
  弐拾五弗
一壱弗          鴕鳥羽《(駝)》 四本
一壱弗半         象歯細工
一三弗三シルリング    御冠物壱ツ
一弐弗          涌之助分
一半弗          蝟
 壱弗          石州
 壱ポント        同人渡
 壱弗半         馬車代
 半弗          小遣被下
 壱弗半         象歯細工
一四シルリンク      リモナアデ 四本代


渋沢栄一 日記 自明治元年十一月三日 至同二年正月十八日(DK020003k-0007)
第2巻 p.85-88 ページ画像

 渋沢栄一  日記  自明治元年十一月三日 至同二年正月十八日
   杉浦差引
一金弐拾壱両壱分     夜具代
一金弐拾五両       金ニ而請取
一金           玉忠勘定
 - 第2巻 p.86 -ページ画像 
一金           道具代 呉服代
一金           大和屋勘定
一金三拾両也       旅中入費 金ニ而請取
一金弐拾両        〃三島ニ而請取
 〆
  一拾四両弐分三朱   魯生徒 荷物運賃
    黄賓行公費《(横浜)》
一金八千両        御買上物ニ付 持出し
 此弗      十一月十七日引替 但三ツ井為替ニ而持越す
   内
 一九千三百六十弗   シナイトル三百六十挺   瑞西九十番商館より買上
    但壱挺ニ付 弐十六トルラル宛 弾弐百宛附外ニ錡形三ツ俣共附属背負皮とも
 一六拾トルラル 銀根附時計四ツ
    但壱ツ十五トルラル宛
 一金五拾弐両弐分    ピストル四挺
 一金三分弐分朱     洋墨 弐壷 沓塗油 三壷 ブロス 壱ツ
 一金弐朱        金川より黄賓迄 渡船壱艘
 一壱〆八百文      品川より金川迄 人足賃
      但人足弐人 壱人ニ付九百文
 一金三朱也       川崎宿旅籠代
 一八拾五匁       黄賓滞留中 旅籠昼食代
  此金壱両壱分弐朱四百文 但 壱日 十六匁宛
 一三百拾六文      黄賓より金川迄 乗合船賃まし共
 一金五朱        用船壱艘代 先達而払残候分
 一弐百文        黄賓ニ而 人足賃 波塘場より旅宿迄
 一弐百文        同断 旅宿より波塘場迄
 一三〆六百文      壱人九百文宛 金川より品川迄 人足四人代
 一金壱分弐朱      神奈川一泊旅籠代 壱人三朱宛
 〆
差引
  〆
 東京府滞在中公費
一金四両弐分         水戸御館より森田丁迄荷物 持出し賃
一金三朱           田安御殿より和泉丁迄 同持運人足代
一金壱分           三ツ井より田安迄 同断
是より道中入用
一金弐両四百十六文      荷桐油五枚代
一金壱分弐朱         蝋燭代
一金三両壱分         東京より品川迄 荷物船賃
 - 第2巻 p.87 -ページ画像 
一金五両           昇之助渡
一金四両三分         同人渡銭ニ而渡
一金弐両壱分         持出し人足賃
一弐分一朱弐百九文      提灯代四ツ
十五日
一金五両也          藤沢ニ而渡
十四日
一壱〆七百文         川崎ニ而渡
一壱両七百文         川崎ニ而渡
一三朱ト九百文        同断 別入用之分
一金壱両弐分         水邸より明神下迄 御用荷物運送賃
十七日
一金拾弐両          小田原ニ而渡
十七日
一金七両也          三島ニ而渡
十八日
一金五両           原ニ而渡
十九日
一金五両           蒲原二而渡

  英国生徒御手当差引
一弐万九千五百九拾五フランク 御旅館御賄之口より英国生徒帰朝之節川路中村へ立替内借被仰付候分
 内
一六千九百弐拾五弗      英国生徒御手当残 辰八月廿日巴里到着之分
 此仏貨
   三万九千三百弐拾七フ七サ 但壱弗 五フ六十七サ九
 内四千弐百六拾弐フランク半  栗本貞次郎より立替生徒両人航海入費同人方ニ而引候分
 引
  〆三万五千〇六拾四フランク五十七サ
元内借高と差引
  〆五千四百六拾九フランク五十七サ
  此金八百〇壱両壱分 銀弐匁五分     但壱フランクニ付 銀八匁七分九厘
仏貨四千五百八十壱フランク半      魯国生徒帰朝入費 御旅館より立替渡
同 九十六フラク弐十五サ        同断 馬塞迄荷物運賃
同 四拾フラク六十五サ         同断荷物 魯国より着之分
〆四千七百拾八フランク四十サ
此金六百九拾壱両〇弐朱 銀七匁弐分三厘   但壱フランクニ付 銀八匁七分九厘

民部大輔御附添之者御手当金辰二月迄之分
合金四千八百九拾四両弐分

 金三千八百〇九両弐分
        永弐百四十文八分弐厘七毛
差引
 〆千〇八拾四両三分        残高
        永九文壱分七厘五毛

三ツ井為替書附壱枚
一金弐千両             十二月十日夜
 - 第2巻 p.88 -ページ画像 
同断
一同五百両       大黒屋六兵衛へ相渡
同断
一同百両        追而一紙ニ而請取差出し
〆金弐千六百両     利金取究候積之事
同断
外ニ三百八 両       呉服代
金八百〇壱両壱分銀弐匁五分
        此銭五百文
内五百八拾九両三分
         永弐百十九文壱分
         此金弐朱ト九百三文
差引
 〆弐百拾壱両壱分        十三日川勝江 持参渡
       銭七百九十三文
高金千九拾両弐分永百四十九文弐分之内
一金三百八拾七両壱分永百壱文弐分        加太八兵衛
 残七百三両壱分永四十八文来巳正月廿日迄
 調達之積書面差出ニ付勘弁日延いたし遣候事
   ○右ノ計算書ハ各日記ノ末尾ニ記サレタルモノニシテ、栄一ガ静岡藩ノ勘定所ヘ呈出セル勧定書ノ下書ノ一部ヲ成スモノナラン。今栄一ノ呈出セル勘定書ソノモノハ見当ラザル故、断簡ナレドモ之ヲ掲グ。



〔参考〕渋沢栄一 書翰 千代夫人宛(明治元年冬)(DK020003k-0008)
第2巻 p.88 ページ画像

渋沢栄一  書翰 千代夫人宛(明治元年冬)  (穂積男爵家所蔵)
  母上様へ別ニ不申上候間御まへより宜可申上、阿ていへも新田姉様へも御伝へ可被下候、いつも無事ニ有之候間御案し被下間敷候
一筆しめしまいらせ候、先日は久々ニ而御目もしいたし山々御話も難尽、しかし同しく無事ニ而の再晤は皇天の御恵と御同様難有仕合嘸々御喜之程察入候、是は兼而も申聞候通人倫之尤なる事ニ而世間に辱しき抔申ものには無之候、さてそなた及うた事当地へ引取候儀ニ付、父上様にも委しく申上、来春はいつれ駿府へ呼寄申候つもりニ候間、其御心掛ニ被成度候、尤先日も申聞置候通、人として勤勉之道有之儀ニ□《(而カ付カ)》当方へ来り候ハヽ、家に居候より別而骨折候場合と存し候得共、其辺は御いとひなく有之度候、いつれ来春迎のため東京迄罷越候間、其節手つゝき可申越、随分夫迄ニ支度取纒候様いたし度、しかし衣服帯其外は麁末ニ而不苦候間、別ニ御拵無之方、唯先頃こなたよりの土産之中ニ而うたによろしく品は御持参可被成、又紅紫呉郎其他少々ツヽ遣残りも相成候ハヽ御持越し可被成候、荷物も成丈少しに被成候様可致候、手計へ相廻し候印籠は御まへに送候品故、其中兄様に御もらゐ被成候様いたし度、御うつりは従是さし上可申候間左様御取計可被成候、右之段御心得迄申進置度折角寒さ御厭ひ、御両親ニ御孝養は申迄も無之事、うたも随分大切ニ被成度、此段もたのみ入まいらせ候、先はあらあら尚来春東京より申あけへく候めてたくかしく
(明治元、冬)                   とく太夫
     (日付及宛名ヲ欠ク)

 - 第2巻 p.89 -ページ画像 


〔参考〕竜門雑誌 第六四四号 第一―七頁 〔昭和一七年五月〕 明治初期に於ける青淵先生の御住所に就て(藤木喜久麿)(DK020003k-0009)
第2巻 p.89-93 ページ画像

竜門雑誌  第六四四号 第一―七頁 〔昭和一七年五月〕
  明治初期に於ける青淵先生の御住所に就て (藤木喜久麿)
    一 静岡に於ける御住所
 そこで先づ最初は、静岡から書き起さねばならないのであるが、この静岡の御住所に就ての資料は非常に僅少である上に、実地踏査の機会を得ないうちに、先年の静岡大火災によつて、その附近は全部焼失したとのことで、返す返すも残念に思つてゐる。
 この青淵先生の静岡行に就て、「青淵先生六十年史」には明治元年十二月二十四日先生は静岡に着せりとあるが、青淵先生の日記に依ると
  十二月十四日 雨 一月廿五日
  朝梅田(慎之助)より明神下に帰り、旅装整たれは第九時頃出立、尤荷物は不残船ニ而今晩品川へ差送る○中略夕方川崎宿着ニ而一泊
  十二月十五日 晴 一月廿六日
  此日も旅人多く人馬差支とて朝八時頃川崎宿、十一時頃神奈川着○中略夫より程ケ谷ニ而昼食、夕方藤沢着一泊
  十二月十六日 晴 一月廿七日
  朝七時発、路程も平坦にて人馬も稍差支されハ行路捗取りぬ、大磯宿ニ而午飯、タ四時頃小田原宿着一泊
  十二月十七日 曇 一月廿八日
  朝六時発、陌頭より山路を取り湯本に至休息、路程稍嶮峻なり、畑といふ処ニ而茶肆に憩ひ雑煮餅を食す
  道路尤嶮なり、時に雨来りぬれは駕に乗りて関門を通、箱根宿ニ而午飯、夕六時頃三島宿着、金川やといふ旗亭投宿
  十二月十八日 曇風
  朝六時半頃三島駅発、沼津に至りとらやといふ旗亭休息○中略夫より原宿ニ而午飯、夕方蒲原着投宿
  十二月十九日 晴風
  朝七時頃発、江尻宿ニ而午飯、○中略夕三時頃府中着、問屋場ニ而旅宿を談し、油屋吉五郎といふ旗亭投宿。○下略
とあつて、東京での御用(渡仏中の残務)一切を済ませた先生は、昨夜一泊した神田柳原の梅田慎之助の宅から明神下の仮寓(杉浦愛蔵の家か)へ一先づ帰り、旅装を整へられて十二月十四日に東京を出立、十九日夕刻には府中即ち今の静岡に着かれ、一と先づ油屋といふ旅宿に落付かれたのであつた。そして廿三日に宝台院に罷出て慶喜公に謁見せられ、其後種種の経緯はあつたが、先生には慶喜公の御膝元に余生を送られることに決意せられて、静岡藩に商法会所を創設することに奔走せられたのであつた。この間に旅宿を引払らわれて、廿七日に呉服町五丁目二番地の川村屋方に居を移されたことは、同じく先生の日記に
  十二月廿七日 晴
  朝出発、復命之儀并御役之儀難有御請申上候旨、四郎(平岡)を以一翁殿(大久保)へ申立る、公子へ呈書外一封御用便達し方之儀相托す、梅沢(孫太郎)面会御請申上候旨申談、午後廻勤いた(す)、夕方呉服町五丁目川村屋方へ転宿いたす
 - 第2巻 p.90 -ページ画像 
とあり。又、旧雨夜譚会所蔵の「川村文書」の内に、静岡市呉服町五丁目の川村とよ女の談話筆記があつて、静岡時代の青淵先生に就て語られてゐるが、昭和四年に八十歳に近い老女の六十余年前の回顧談であるため、年月とか御動静に関して多少記憶の誤りがあり、正確さに於ては欠けた点もあるが、参考までに筆者の註を加へて次に抄録する
  渋沢様の此方へ見えられたのはたしか明治元年かと記憶致して居りますが○中略其当時渋沢様には御名を篤太夫様とおつしやられました。徳川様(筆者註民部公子)と亜米利加(註、仏蘭西の誤)へ御研究に行かれて帰つて来られた時江川町の西部(註、初めは紺屋町後に江川町に移る)へ市内の大きな人達を寄せて商事会社を設けられて其れを常平倉(註、初めは商法会所後に常平倉と改称)と称ばれて居りました。○中略そして渋沢様には拙宅の二階に居られて徳川様(註、慶喜公)へいらつしやいました。洋行なされた御研究を冬中に出されよとの趣で三日間に高さ、二、三尺位もある調べ物を整へて出されました。其の時私の夫は徳太郎と云つて二十二歳でしたが渋沢様に頼まれまして算盤の御手伝をしましたが町内では相当自信を持つて居たのが渋沢様は御速くて兎ても追付く事が出来ないと其御手際に感心して居りました。
 この川村屋と云ふ家は、静岡市呉服町五丁目二番地にあつて傘や履物を商つて居た下駄屋さんで、青淵先生の御在宿なされた当時のまゝ最近まで残つて居たといふ事であつたが、先年の大火災に類焼したのは残念である。
 この川村屋の位置は、日本実業史博物館所蔵の明治二十三年出版「静岡市精細地図」(九十一頁参照)を見ると、静岡駅前を真直北に入る通りの口元が紺屋町で、其次が呉服町であつて、駅の方からは逆に六丁目、五丁目、四丁目となつて居て、五丁目はこの通りの駅から三つ目の四辻から先であつて、その左角に傘商川村と出てゐる。最近まで昔のまゝであつたといふ事であるから、この位置には変りはあるまいと思ふ。
 先生はこの家の二階を借りられて御用書類の取調べやら、商法会所の目論見書の執筆などせられたが、この頃に御住ひの建築を計画せられたらしく思はれるのは、右の川村とよ女の談話に
  それから元年(註、二年の誤)旧正月頃かと思ひますが町の大工で要蔵と云ふのに(之は九十幾歳かで先年逝くなりましたが)十年経てば呉れてやるから念入りに建築する様にと云はれて家を建てさせましたがそれには移られないで今の浮月(紺屋町、市内一流の料亭)の後の代官屋敷へ御移になつて間もなく二月の初午を大変賑やかにお催しになり商人連中が幟など沢山上げたり致しました。
とあるので知ることが出来るが、青淵先生の日記にはこの事に関する記事は全然見当らず、且つ其位置に就ても知ることは出来ない。
 さて青淵先生の熱心な御奔走が効を奏して、明治二年正月十四日にその頃空屋敷となつてゐた。紺屋町の旧代官屋敷跡を事務所として、商法会所が開設されることゝなつた。そしてこの正月末か二月初めに先生には川村屋方からこの商法会所内へ移られることになつたことは、前記川村とよ女の談話の中にもあり、又青淵先生の日記にも
 - 第2巻 p.91 -ページ画像 
[img地図]明治初年に於ける静岡呉服町附近
  十五日晴
  朝紺屋御役所罷出、御破損等見分御役所間取調分いたす、明日御用達一同呼出之積申達す、間取其外御普請等取調之儀出殿之上四郎へ申立る、宮の崎一翁殿旅宿へ罷越し今日之手続申立る、御役所へ引移り御役屋敷之積を以住居可致旨被申渡○下略
とあつて、大久保一翁氏から御役屋敷の積りで、役所内へ引移り居住する様にと、申渡されて居られるので知ることが出来たが、青淵先生の日記は十九日以後は執筆されて居らないので、その移られた日時は不明である。
 この代官屋敷跡の商法会所は「静岡市精細地図」では、前記紺屋町の通りのも一つ西の通りの最初の四辻の左角にあつた。そして此処へ御国許から奥方並に歌子様を呼び迎へられることゝなつたことは、川村とよ女の談話に
  それから御国から尾高惇忠様が御家族を御先導申上げて代官屋敷へ移られて阪谷男爵様の御夫人や飛鳥山に御本宅のある篤二様が御生れになりました。
とあるので知られるが、その静岡着の日時は二月初めのことであらうと想像される以外、正確な資料に未だ接しない。併してこの談話にある琴子様、篤二様の誕生の件に就ては琴子様は明治三年生れであり、篤二様は明治五年の御生れであるから、静岡で御生れになつたといふのは何か記憶違ひであらう。
 この静岡商法会所の役宅に於ける先生の御家庭生活は僅に九ケ月程
 - 第2巻 p.92 -ページ画像 
で余りに短かゝつた。それはこの年十月に東京政府からの御用召によつて廿六日東上されることゝなり、そして民部省の租税正の御役を拝命され、そのまゝ東京へ定住なさることゝなつた為めである。
 そこで青淵先生は、本郷湯島天神下に家を求められ、こゝへ静岡の御家族を呼び迎へられて、こゝで初めて東京生活の第一歩が踏み出されることになつたのであつた。この御家族の静岡引払ひ及東京着の年月に就ては、幸にして芝崎猪根吉氏所蔵の先考確次郎氏の筆になる『御留守御用控』(明治二年十月―十二月)なる日記があつて、それは青淵先生が御用召によつて上京御留守中の御用を書き留めたものであるが、この日記の十一月十七日の条に御上京中の青淵先生から静岡の留守宅に宛てられた書状の写しがある。それによると
    東京府主公(青淵先生のこと)より書文左ニ
  爾来其地無事と遥祝、当方も清寧是又休意可被成候、過日民部省御用被仰付候義は既ニ承知可被致、因而近々家族引纒候筈ニ候得共、いまた役宅不見当候、尤昨日尾高(惇忠)東京迄罷出、夫々申談、同人義一ト先田舎へ立戻り、廿日頃再ひ罷出、夫より迎として罷登り候積りニ候間、凡廿五六日より卅日頃迄に其地出立之積りニ御手配可被成候、夫迄にハ御役宅も相定可申候、右無事報告まで如此候也
  十一月十二日
とあつて、この月の初め御用召によつて入京はされたが、まだ月半ばには御住所が定まつて居らないことが判かる。この日記は引続いて
  十九日 晴
  今日吉森屋より東京行荷物拵として人足壱人遣ス、但し縄俵持参、
  ○半日○下略
  廿日 快晴
  ○上略 米搗荷作大半片附、吉森屋荷札八枚補理持参ス、同人より荷作人足壱人遣し呉候、但し、こもむしろ一切持切
  廿一日 晴
  〇上略 吉森屋より荷作人足壱人来ル、舟廻し荷物、今早朝清水港へ出ス、牛方徳蔵
等とあつて、青淵先生からの来状の命に従つて、静岡の留守宅では毎日々々東京行の引越仕度にかゝつて居る。そしてその月の廿七日には
  廿七日 朝曇り追々晴
  ○上略 東京府主君より来状、高木武沢より添書来ル○下略
とあつて、この書状の内容は写して居らないが、いよいよ東京に於ける御住居が見付かつた御通知ではないかと想像される点がある。尚、高木武沢とあるのは、高木信太郎、武沢亀太郎の両人で、いづれも青淵先生の家来であつて、この度の御上京に御供をした人達であつた。越へて翌十二月にはいると
  六日 晴
  ○上略 夕七ツ時東京主君より来状、但し勝間田(清次郎)息持参ス○下略
  九日 晴
  ○上略 清蔵大村(昇)両人尾高君迎ニ出ル、○中略 尾高君御出無之、両
 - 第2巻 p.93 -ページ画像 
人帰宅ス
とあつて、前掲十一月十二日附の書状に約された通り、尾高惇忠氏が青淵先生の奥方並に歌子様を御迎ひに来られることゝなり、六日着の先生の書状は、この御迎役の東京出発を報ぜられたものと推察されるそしてこの御迎へは九日に静岡へ到着の予定であつたと見へて、清蔵と大村昇の両人が尾高氏を出迎へる為めに出向いたが、道中の都合かこの日尾高氏は到着されなかつた。
  十日 晴
  ○上略 清蔵松岡村迄御迎兼罷越ス、夜四ツ時頃尾高君御着、供壱人並迎清蔵来泊ス
 翌十日の夜十時頃に漸く尾高氏は来着せられた。そしていよいよ一家を纒めて静岡を引払ひ、東京へ移住されることゝなつたのである。
  十二日 晴風吹
  今日常平倉下役並用達外夫々餞別配、御使大村拙相勤 ○下略
  十三日 晴
  今夕御用達中より餞別持参ス
  十四日 晴
  今朝、清蔵籠屋弐人、長持三棹、本馬弐疋、宰領として拙出立、蒲原迄菊屋忠二郎方止宿
  十五日 晴風吹
  今暁七ツ半時出立、三島宿相模屋止宿ス
  十六日 晴大風
  右同断出立、小田原止宿
  十七日 晴
  今暁七ツ半時出立、戸塚止宿
  十八日 晴
  今暁七ツ時出立
  暮六ツ御屋敷へ着
 そこで、これまで青淵先生の創設された商法会所の、後身である常平倉の下役や用達たちにも、夫々使をもつて挨拶され、十四日に芝崎確次郎氏が宰領となつて、奥方はじめ一同静岡を引払ひ、途中蒲原、三島、小田原、戸塚の宿々に泊りを重ねて道中無事に、十八日の夕刻東京本郷湯島天神中坂下の新邸に着かれた。この日即ち明治二年十二月十八日こそ、青淵先生の東京に於ける御家庭生活の最初の日であることが知られる。