デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.12.12

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

3章 静岡藩仕官時代
■綱文

第2巻 p.133-178(DK020007k) ページ画像

明治二年己巳六月六日(1869年)

外国官ノ召ニ応ジ、是日静岡ヲ発シテ東京ニ出デ、
 - 第2巻 p.134 -ページ画像 
或ハ書面ヲ以テ或ハ出頭シテ、徳川昭武仏国滞在中ノ家屋賃貸料・什器売却代等ニ付説明ス。八月十五日静岡ニ帰着ス。其間商法会所ニ於テ紛擾アリ。栄一書翰ヲ以テ之ガ対策ヲ指示ス。


■資料

雨夜譚 (渋沢栄一述) 四之巻・第二六―二七丁〔明治二〇年〕(DK020007k-0001)
第2巻 p.134 ページ画像

雨夜譚  (渋沢栄一述) 四之巻・第二六―二七丁〔明治二〇年〕
○上略 其歳○明治二年の六月頃でありましたが、昨年仏蘭西出立の際に、同地の名誉領事のフロリヘラルトといふ人に委託して置た民部公子の旅館の貸料を取戻し、及家具其外の什器を売却したからといふことで、其代金を添へて新政府の外務省へ書状が来たに付て、其為に自分は外務省から呼び出されて、凡そ一月半ばかり東京に逗留した、其事といふは、仏蘭西に於て売却を委託して置た旅館の貸料又は家具什器類はいづれも皆民部公子一己の私有物で、旧政府には少しも関係はせぬといふことを説明した、処が其話しがなかなか面倒であつて、斯く書面を出せとか、此の証明書を作れとかいふ種々の注文があつたが、詰り自分の申立通り、私有物の認可を得て、代金を受取たが、其金額は一万五千両ばかりであつたと記憶して居ます、
さて其用事が済んだから、自分は再び駿河へ帰つて、専ら常平倉の事務に尽力しましたが、諸事追々整理して来たから、今二三年を経たならば、堅固で有益なる商業会社が成立するであらうと、予め企望をして精々注意して居ました、


徳川家達家記 第一巻 【徳川新三位中将…】(DK020007k-0002)
第2巻 p.134-135 ページ画像

 徳川家達家記 第一巻  (内閣記録課所蔵)
         徳川新三位中将
            公用人江
柴田日向出府候ハヽ、栗本如雲申合、先達而相下ケ置候仏蘭西都府江コンシユルゼ子ラール差置候始末、并博覧会ニ付彼地江残置候諸道具政府江可差出分、又者其藩江引取方可願立分、其他徳川少将旅館取始末等之末ニ至迄、両人篤と相糺其趣其方共より始末書ニいたし、明日中迄ニ可被差出候、右一覧之上猶可相尋廉は其節可申達候間、両人とも可差出候事
    六月二日
                      外国官
                  徳川新三位中将家来
                      関口艮輔
                      妻木務
                      小田又蔵
昨二日御達御坐候柴田日向事恬斎儀、出府仕候ハヽ栗本如雲申合、先達而御下相成居候仏国都府江コンシユルセ子ラール差置候始末、并博覧会ニ付彼地江残置候諸道具政府江可差出分、又者弊藩江引取方可奉願分、其他徳川少将旅館取始末等ニ至迄両人篤と取糺、其趣私共より始末書ニ仕本日迄ニ可奉差上旨、右御一覧之上猶御尋可相成廉者、其節御達可有之間両人共可差出御達之趣奉拝承候、然ニ仏国都府江コンシユルセ子ラール差置候始末者、日向事柴田恬斎より別紙之通り申立候
 - 第2巻 p.135 -ページ画像 
間、右書面ニ而可然御了解被成下度、博覧会ニ付諸道具云云其外徳川少将旅舎等之義ニ至り候而者、於前両人巨細相弁居不申、何分書綴候訳ニも至り兼、右者渋沢篤太夫おゐて万事取扱、既ニ引払之砌迄夫是周旋罷在候ニ付而者、同人出府仕候得者、首尾全く手続書も委細出来可申候間、何卒同人著府仕候迄之処御猶予被成下候様、恬斎外壱人より申出候間、此段御聞届置奉願候 以上
    六月三日
                  徳川新三位中将家来
                      関口艮輔
                      妻木務
                      小田又蔵


家記材料 第四冊(DK020007k-0003)
第2巻 p.135-136 ページ画像

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徳川家達家記 第一巻 【徳川新三位中将家来】(DK020007k-0004)
第2巻 p.136-142 ページ画像

徳川家達家記 第一巻           (内閣記録課所蔵)
    ○
                  徳川新三位中将家来
                      渋沢篤太夫
右者過日御届申上候通国許江申遣置候処、今十二日東京江参著仕候、然ル処兼而御尋之廉々御答書取調候上御当官江召連罷出候様可仕、依之両三日御猶予被下置度此段申上置候 以上
    巳六月十二日
                  徳川新三位中将家来
                      関口艮輔
                      妻木務
                      小田又蔵
 (朱)来ル十四日迄無相違出頭之事
    ○
 仏国滞在中同地引払之節取扱候事共心覚罷在候儀調書外国官江差出
 - 第2巻 p.137 -ページ画像 
候目録書
                      渋沢篤太夫
      目録
一奉申上候書付                    壱冊
一追副奉申上候心覚書取                壱冊
一徳川少将仏都巴里滞在中旅館諸道具等之儀調書     壱冊
一仏人江往復書翰之訳                 壱冊
一博覧会江品物差出候商人二郎卯三郎仏国人 約定書之訳 壱冊(衍カ、合五冊トアルニ照シ)
    附右品代金惣員数書共             壱冊
    合五冊
 右奉差上候 以上
    巳六月十五日
                  徳川新三位中将家来
                      渋沢篤太夫
    ○
      奉申上候書付
                  徳川新三位中将家来
                      渋沢篤太夫
 私義去々卯年より辰年迄徳川少将江附添仏国滞在仕居候ニ付、彼地おいて取扱候義存居候事共無細大可奉申上、且又此程弊藩公用人共江御達御座候仏国都府江コンシユルセ子ラール差置候始末并同国博覧会ニ付差出候物品彼地江残置候諸道具政府江可差出分又者弊藩江願下ケ可仕分其他徳川少将仏国都府滞留中止宿被致候旅館取始末等迄記憶仕居候義者全備不仕候とも不苦候間早々可申上旨御沙汰之趣承知奉畏候、然ル処私儀者当時賤役ニ而漸去辰年十二月中仏国滞留先ニ而外国奉行支配役被申付候程之儀ニ付、其前之儀者勿論其後ニ至候而も唯支配ニ進退被致候迄ニ而、別段重立取扱候義者無御座、乍併去辰年四月中支配之者義者帰国いたし、追々附添人相減候ニ付別段差図を請候義者無之候得共、差向候事共間ニ合兼候ニ付、不得止少将旅館向之事共独任取扱候義も有之候、然ル処同年五月十五日
 御一新ニ付、少将事至急帰朝可致旨御沙汰被為在、右御達書其節仏国より横浜江在留いたし居候公使より相廻候ニ付、急速支度相整帰朝之積を以其筋江も申達方不仕候而は不相成儀等出来候ニ付、無拠私儀乍賤役右辺之儀重立取扱且引払候節旅館取始末并ニ博覧会江差出置候品物之義も、其前向山隼人栗本如雲仏国人と約定いたし候由ニ付其手続を以売払方等仏国人フロリヘラルト江申達置候義も有之候、因而右辺心得居候義者廉書を以左ニ奉申上候得共、申上振首尾貫徹仕兼候義者全以前書申上候通之義ニ候間、不悪御諒察被成下置候様仕度奉存候
一去々卯年徳川少将事仏国博覧会礼典使節并御条約済各国江も順序を以訊問可致、尤右使節巡国等相済候ハヽ仏国江留学之積を以西京府より出立之節、私義は少将自個之入費取扱其他諸俗務全少将一身ニ関り候事共可取扱旨被申付、同様西京府より附添いたし同年正月横浜著夫より仏国郵船江乗組、同三月仏都著同八月九月間瑞西・荷蘭・白耳
 - 第2巻 p.138 -ページ画像 
義三ケ国等巡国之節附添いたし、同十月伊太里国巡行之節も同様附添罷越、同十一月英吉利国江罷越候節も附添仕、同年十二月仏国江帰著、翌辰年九月迄留学中引続附添罷在候
  但少将事各国帝王江面謁之節は、其節附添候外国奉行其他重立附添候者共有之候ニ付、私義は大半相具不申候、尤各国巡行之節其国々帝王およひ諸臣隷江相送候品物、及先方取扱振等之義は掛之者取扱居候ニ付、先頃公用人共より差出候書類之内ニ可有之奉存候得共、私儀も手控迄ニ記憶いたし居候間、自然御用も被為在候ハハ取調差上可申奉存候
一少将事仏都著之節は、差向旅店江止宿被致候得共、追而留学も可致義ニ付、経費相省度見込を以、卯年三月中より巴里府西南角場末之地ペルコレーズ街第五十三番ニ而素立之家作を借入、諸雑具買入取附等いたし、同五月より引移申候、尤其節は外国奉行其他支配向等附添多人数ニ付、不残右旅館中住居いたし兼諸方江分配いたし居候得共、辰年ニ至り追々人数相減候ニ付一同引纏止宿仕居候
  但右旅館中仏帝より少将滞在中為附添差越候コロ子ルウイレツトと申者、其外小遣頭様之もの壱人、およひ外国人之小遣も差置候義ニ御坐候、右旅館借入方并買調候諸色代金は別紙調書差上候間、右ニ而御分り可相成奉存候
一辰年春中より御国表御変更之事共電信機ニ而外国人迄申来候趣伝来候義も有之候ニ付、追々重立候もの共は帰国いたし、尤少将事は引続留学之積ニ付私義は附添可罷居旨被申聞、同四月中よりハ少将外僅四人附添罷在候、右重立候者帰国之節も混雑中ニ付、別段引継申送等も無之、唯々私義其以後之取扱方心得等申談置候迄ニ而、其前之取扱は更ニ承知不仕候、然ル処其五月十五日少将事帰朝可致旨御沙汰相成候ニ付、外国人江相達諸事取始末相附度と時々相迫候義も有之候得共、何分遠隔之土地、殊ニ外国人疑惑多之情より巷説街議不取留儀等伝承いたし候哉、頻ニ帰朝を差控、無拠私儀仏国外国官迄罷越、事務大臣江右之段申達候得共、是以被相支候姿ニ而、終ニ少将事仏帝面謁之儀を頻ニ申込、必至と切迫いたし居候折柄、右帰国之義ニ付更ニ御沙汰之品も被為在候趣ニ而、弊藩より迎之者差越候ニ付、漸帰朝之手続ニ立至り候義ニ御坐候、右様差迫り帰朝之儀先方江相促候程之義ニ付、兎角毎事不都合勝ニ相成、旅館取始末も皆出来不仕候ニ付、最初取極候三ケ年之借料者不残相渡、買入候諸道具之内、少将持帰り之品及附添居候コロ子ルウイレツト其外之者江遣し候分を除キ、全引残候品々は早々売払可申、且又右旅館約定年限中又貸相成候ハヽ其借料も可取立、将博覧会品物之儀、㝡前向山隼人栗本如雲約定いたし置候振合を以売払可申、尤右代金は仏国商社江其節引負金有之候趣ニ付償戻し可致旨等、私より仏人フロリヘラルト江申達置候義ニ御坐候
一前書申上候通、去辰年春以来品々変報も有之異聞申来候ニ付、不容易御義と存込、其節より私儀旅館向諸経費取扱候ニ付別而相改、毎事省略いたし、夫迄之諸入用半減、或は六分通も相減し、少将始附添者共全饑渇を凌候迄ニ取詰ニ諸入費相減、少将彼地引払之時前条
 - 第2巻 p.139 -ページ画像 
旅館諸色代并博覧会品代売払候ハヽ、仏国商社江可償戻旨フロリヘラルト江相達候節、別段仏貨六万フランク帰航入用之余を以フロリヘラルト江預置、受取書取置候義ニ御坐候、然ル処私儀少将ニ附属帰国致候後承込候ニは、右引負候金高は政府江御関係之儀ニ付、於朝廷彼国江御償戻被為成候趣、道路之説ニ而承込、御趣旨柄は不弁候得共、右様御償戻相成候上は、最前私より相渡候仏貨は、素々少将自個之入費中より出候義、殊ニ旅館諸道具も少将ニ属候義ニ付、弥右引負金外方より償相済候ハヽ、前書両廉之分は私江可差戻義と去辰十一月中フロリヘラルト江申遣候処、当巳年四月八日横浜著之趣ニ而同月中フロリヘラルト書翰落手致候、其旨趣は右六万フランク及諸色売払相成候ニ付、其代之内フロリヘラルト方江可請取手数料差引全残高七万八千弐百弐十五フランク九十サンチイム都合拾三万八千弐百弐十五フラン九十サンチイムはフロリヘラルト預置候ニ付、其段政府江申立、政府より御達を請候而差越候様致度、尤博覧会品物代之義は政府江関係義と被存候ニ付、売払出来次第政府江差出可申旨書翰を以申来候ニ付、其段私より少将家来共迄申遺し弊藩重役共江も申立置候義ニ御坐候
  但往復書翰類は帰朝後取調、重役共迄申立置候得共《(はカ)》、先般差上置候書類之中ニ可有之奉存候、若御見当も無御坐候ハヽ草稿も有之候ニ付、更ニ取調可差上と奉存候
 右は私儀仏国滞在中取扱候事共存居候丈不残奉申上候、尚書取上ニ而不分明之廉は御糺ニ随ひ可奉申上候  以上
    巳六月十五日
                  徳川新三位中将家来
                     渋沢篤太夫
    ○
      追副奉申上候心覚書取
                  徳川新三位中将家来
                     渋沢篤太夫
 別紙奉申上候通私義は其節賤役旁廉立候事柄ニ不関候ニ付、フロリヘラルト江コンシユルゼ子ラール申付置候義は不心得候得共、右は柴田恬斎申上候通ニ相違無之様奉存候、尤給分之義ニ付栗本如雲申上も有之趣ニ候得共、私おゐては右様之申談は更ニ承知不仕候、尤少将仏国滞在中は別而品々取扱呉候得共、是以金銀之儀ニ係り候得は同人義両替店ニ付矢張普通之手数料ヲ受取候義ニ付、右取扱は当然之義ニも可有之、且又少将彼地引払之節は夫々謝礼もいたし置候義ニ付、是又功賞相償居可申奉存候、尤是非御国より右様之職相勤候もの彼国江不被差遣候而は不相叶義、恬斎如雲等より申上候通ニ御坐候ハヽ、右フロリヘラルト義は居附夫是取扱便用仕候義も可有之ニ付、聊御手当筋被成遣可然哉ニ奉存候
 本文奉申上候通フロリヘラルト江御国コンシユルセ子ラル申付置候義者、私おゐては元来承知不仕候ニ付、更ニ不相弁候、唯同人義は富商ニ而両替店等所持いたし、御国より為替金抔取扱、手数料も受取候ニ付右辺を以御国より申遣候余事も取扱、全表立候義ニ無之、自
 - 第2巻 p.140 -ページ画像 
己《(然カ)》懇意同様と相心得候ニ付、少将諸入用金ヨリ別段手詰メ有余相成候、仏貨六万フランクも預置、且又旅館諸道具売却方迄申談置候義ニ御坐候、尤コンシユルと呼倣候者、事務取扱候故海外普通之称名を以相当テ候義と存居候
 本文仏国商社江引負金は、元何等之筋より引負相成候義と発揮と承知不仕候得共、先般横須賀横浜表江製鉄所取建候ニ付、反射鎔鉱之諸器械より数多之道具を買求メ、及其節仏国伝習ニ付陸軍取立候ニ付其兵器戎服等買求メ候義と承およひ候、右ニ付引負候金高ニ候ハヽ素々少将自個之経費必至と手詰いたし、僅ニ有余出来候迚可償戻筋ニは無之候得共、当時外国ニ有之相考候得は、仮令如何様成行とも御国より引負候義と相成候ニ付、瑣少たりとも償戻心掛候は御国江対し聊報効相立候筋ニは有之間敷哉、殊ニ少将義は海外万里之地ニ而宗家之変覆も承知仕候義ニ付、隔絶之折柄、自然何様之謬説御聞込被為成候哉も難測、別而戦競仕、乍愚昧私於も夫是愚慮仕、僅ニ奉表少将始私共一同之微忠心得を以、全恭順畏敬老寡君之赤心貫徹候様ニと一途ニ存込取計候義、尤右様之次第ニ付其節附添居候もの共手当向等をも不残繰替右償戻シニ相廻し程ニ御坐候、仰願は以朝廷広大之御愛燐本文両条之廉私江取扱方被仰付候旨フロリヘラルト江
 御沙汰被成下置候ハヽ実ニ昊天無極之
 御仁恤と難有仕合奉存候
一博覧会品物之義は約定書目録書等最前差出候趣ニ付、右ニ両総品数代金高等御承知御坐可被成奉存候、右之分は素々徳川家より差出候とも政府之名義ニ係り候義ニ付、右売払代金ニ候とも又は元品之儘ニ候とも御引上相成可然筋と奉存候、尤此品彼品と分別相立候品柄も有之間敷哉ニ候得共唯以出格之
 思召右代金仏国より差出候ハヽ、何分通ニ而も弊藩江御下ケ相成候ハハ、別而御仁恤難有次第と奉存候
一少将旅館諸色払代并諸入用金之内より相渡置候仏貨六万フランク之義は、素々少将自個之経費ニ属し、殊ニ別紙ニも奉申上候通、全去辰年春以来必至手詰候より相生し候金高ニ付、右はフロリヘラルト江御達被成下、私方迄差越候様被成下置度奉存候
  但最初少将仏国滞在中、諸入用并旅館諸入費附添之仏人共給料等迄ニ而、壱ケ年凡五千弗と取究候義ニ付、別段省略仕、実ニ饑渇ニ不迫迄ニ取詰、聊之有余相立候義ニ御座候、尤帰国後ニ至り附添之者諸給料渡残も有之候ニ付、別而相減し渡方取計、且又各国江差遣置候生徒共江帰国相渡候入費江も可繰替金子等出来いたし候ニ付、無拠凡前書金高之半は弊藩より立替置候義ニ御坐候
一御尋外之義ニは御坐候得共、御国商人二郎卯三郎と申者先般博覧会江品物差出置、帰国之節徳川家之品同様フロリヘラルト并シヘリヨンと申者江約定いたし、其惣価仏貨弐拾壱万弐千七百フランク余之処内七万五千フランクハ前借いたし、残拾三万七千七百フランクは売捌出来次第前書二郎卯三郎江可差送約定ニ相成候趣、然処少将諸入用金之内より右両人江御国金壱万五千両繰替貸置候ニ付、前書之売
 - 第2巻 p.141 -ページ画像 
払代ニ而可償戻旨申立、則其節聞届置候義ニ有之候間、右品売却次第代金は私方迄可差越旨、去辰年十一月中フロリヘラルト迄申遣置候処、当巳年四月中同人心得取計売払次第代金可差越旨申来候、尤事実御取糺も被為成候御儀ニ候ハヽ、二郎卯三郎御呼出之上御尋相成候ハヽ明了ニ御分リ可相成奉存候、右約定書之訳書品代惣員数書等は差出有之候ニ付相添奉差上候
一英国魯国等江差遣置候生徒帰国為致候節も、品々同国政府へ可引合義等有之、私義巴里ニ有之候両国公使館江罷越引合之上帰国為致方取計候、尤右ニ付而は別段書類は無之候得共、自然御尋も被為在候ハヽ存居候義可奉申上候
 右は存居候義無腹蔵奉申上候義ニ御坐候、尤卑賤蒙昧之私、公法等心得居候義ニは無御坐候得共、唯々存付候儘書取奉申上候義ニ候間可然御判覧被成下置御仁恕之御沙汰奉仰候 以上
    巳六月十五日
                     徳川新三位中将家来
                        渋沢篤太夫
    ○
      徳川少将仏国巴里滞在中之旅館借入方并右旅館
      江相用候諸道具買入方代金等調書
                     徳川新三位中将家来
                        渋沢篤太夫
 巴里府ペルコレイズ街五十三番ニ而
一旅館 壱ケ所 但素建築之儘
  此借料壱ケ年ニ付
    仏貨三万フランク宛
一持主は仏人ニ候得共、当時魯国士官ニ被相雇、同国都府江罷越居候趣ニ付、其妻ブランセスラジユヱルと申者名目を以約定いたし候事
一此借入方西暦千八百六十七年七月廿日我慶応三年卯六月ヨリ千八百七十年第七月迄三ケ年之約定ニ候事
  但地税并家作ニ付諸破損は家主ニ而相繕、門戸窓水火諸税及内廻リ器械破損之繕は借主持之約定ニ候事
一少将事右旅館江借在いたし候者西洋千八百六十七年辰《(卯)》七月より千八百六十八年辰九月迄十五ケ月ニ候得共、元約定ニ付借料諸税共三ケ年分不残巴里出立之節払遣、請取書取置候事
  但巴里引払之節借料払方は用達町人フロリヘラルト立合ニ而、右請負人トラハルムと申者江相渡候、尤右はフロリヘラルト取扱候ニ付、右年限中は借切之旅館故望人有之節は又貸をも取計、借料請取候ハヽ可申越と渋沢篤太夫よりフロリヘラルト江書翰を以申達置候事
      右旅館江相用候諸道具類質入方代金調書
一仏貨弐拾四万六千九百七十七フランク八拾サンチイム
  是者右旅館江相用候敷物置時計暖帳臥具食事器械其外諸雑具一式買入代引移前仏人シベリヨンと申者請負いたし買調滞在中置附弁用いたし候事
  但右之内置時計不残及食事器械臥具類等少々宛少将帰朝之節持帰
 - 第2巻 p.142 -ページ画像 
リ、其外滞在中附添居候仏国人コロ子ルウイレツト其外江遣し候分又は相用候中損候分も有之、引残候物品は前書フロリヘラルト江申談置、望人有之次第糴売いたし、代金渋沢篤太夫江宛可差越旨書翰を以申談置候事
一此売払代仏貨七万八千弐百弐拾五フランク九十サンチイムフロリヘラルト方ニ而糴売取計、右代金預置候旨当四月中同人より書翰ニ而篤太夫迄申来候事
一仏貨六万フランク
  是は少将巴里滞在中入用金之内より格別手詰毎事省略いたし、出立之節仏国商社より旧政府ニ而引負有之候逋償《(マヽ)》之内江戻入之積を以フロリヘラルト江預置候分ニ候事
  但此方も商社江戻入相済候義承リ候ニ付、当方江可差越旨渋沢篤太夫よりフロリヘラルト迄申遣度候事
 二口
  合仏貨拾三万八千弐百弐十五フランク九十サンチイム
 右之通仏人フロリヘラルト方江預相成居候ニ付、申遣次第可差送義と奉存候 以上
    巳六月十五日
                     徳川新三位中将家来
                        渋沢篤太夫


家記材料 第四冊(DK020007k-0005)
第2巻 p.142-146 ページ画像

家記材料 第四冊 (徳川公爵家所蔵)
    ○
   千八百六十八年第十月五日巴里於而
                     モツシヱール
                        フロリヘラルト江
 以書翰啓上いたし候、然は此度我公子徳川民部大輔当地引払帰朝被成候ニ付、以後旅館向取片付方及諸色売払方、且又博覧会に差出候品物等之儀ニ付、左之廉々拙者より貴君江相托申候
一是迄旅館ニ而相用候諸道具は公子出立後早速売払いたし候積、尤右取扱はコンマンダンバンサン江委任いたし候間、毎事同人より御相談可申出ニ付、可然御心添御都合能売払相成候様致度、但右売払代金バンサン方ニ而請取次第貴君江差出候筈ニ付、右は兼而仏国之商社ヨリ我旧政府江差送候品代金相残居候分江償戻度存候間、前書売払代コンマンタンより差出次第商社江御渡相成候様致度存候
一旅館借料之儀三ケ年之約定ニ候処、此度半途ニ而立払候得共借料は皆済致候ニ付、此末右取扱方貴君江相托申候、就而は都合篤と御取調諸色売払之上は無雑作ニ而又貸致し候共、又は諸色売払前借主有之候ハヽ年限迄其儘貸渡候共可然御取計有之度候、尤貸渡出来候ハハ其請取候借料は是又前書商社江御廻し相成候様致し度存候
一先般向山隼人栗本安芸博覧会掛シベリヨンと対談約定致し置候博覧会品物之義、前約定面之通売払方シベリヨン取扱売払次第前同断商社江相渡候様いたし度存候
右之廉々此度拙者より貴君江改而相托し候間、毎事御配慮之上都合相考
 - 第2巻 p.143 -ページ画像 
御利益相現候様精々御取扱之程頼入存候 謹言
     慶応四辰八月廿日     渋沢篤太夫 花押
      外ニ委任証書壱通
 渋沢篤太夫より御旅館請負人江相渡置候 以上
    ○
   千八百六十八年第十二月廿九日横浜於而
                     モツシユール
                        フロリヘラルト江
 以書翰啓上いたし候、然者去十月中我公子徳川民部大輔巴里出立之節、公子入用金之内より仏貨六万フランク我旧政府ニ而貴国商社江可相払残金之内江償戻之積を以、拙者より貴君江相渡置、且公子滞在被致候旅館諸道具及博覧会江差出候品物共売払相成次第、貴君之取扱を以同様商社江償戻し之積御談申置則書翰差進置候、然処此度公子帰朝ニ付右商社引負金之手続承合候処、右は去月中我新政府於而万端引負相済、残金清算相成候由、因而は公子入用金之内より御渡置候分は無論当方江御差戻し相成候筋と存候、此段宜御取計前書六万フランクは早速為替を以拙者名宛ニ而御廻被成度、且諸道具及博覧会品物之義は、兼而御談申置候手続を以売払同様御差送被成候様いたし度存候、尤右残金新政府より払方出来候儀ニ付、貴国商社名代人モツシユールピーゲにも既ニ帰国被致候間、右辺之旨趣同人よりも御承知被成、前書申進候通最早御取扱被成候儀とは存候得共、為念此段申達候間、宜御配慮御取計之程頼入存候 謹言
    辰十一月十六日        渋沢篤太夫 花押
 再伸 先般貴国博覧会江品物差出候日本商人次郎卯三郎荷物《(マヽ)》、貴君及モツシエールシベリヨン取扱を以売払可相成分も公子入用金之内より両人引負有之候ニ付、売払次第拙者迄差出候積同人共申出候間、右売払相成候ハヽ同様御廻し方被成度候、依之両人より書状壱通封入差進候間御披見之上御領掌被成度存候、向後拙者迄御差越之書状は横浜語学所塩田三郎迄御遣し被成候ハヽ無相違相達可申候、此段申進候 以上
    ○
   於巴里斯千八百六十九年一月十九日

日本ニ在ル公子
 民部大輔閣下ニ呈ス
 ペルゴレース街貴館未都合好貸渡すへき手続も至らす、且追々寒気ニ差掛リ貴館之諸道具類自然破損ニ及ひ、其価を大ニ失わんことを畏れ、閣下の名を以て渋沢氏余に申残置れし趣旨を以て、右館に備ふる処之諸道具売却之事を取計ひたり
右は巴里斯住ニ而口銭取之商人デルベルグコルモンといふ者に命し、取計せしに、則売払総価右之通
  仏貨八万七千二百四十三フランクニ而此内よりデルベルグコルモン江売払之手数料其外之入用として四千七百九十二フランク八十サンチイイムを差引、及ひ余か店ニ而受取るへき五分之手数料四
 - 第2巻 p.144 -ページ画像 
千三百六十二フランク十五サンチイムを引残り高精調
  七万八千〇八十八フランク〇五サンチイム也
右売払代金之儀は輸出入会社之方ニ渡すへき分あるにより、其方江差向る積り、渋沢氏日本江出立之以前余と取極置たれとも、其後日本政府右会社江不残清算被及候由承及ひしニ付、右七万八千〇八十八フランク〇五サンチイム之高は受取へき人之為に余預り置けり
余かコンシユルゼ子ラール之任としては右売払手続会計等委細其内訳書を以後便公然と日本政府江申立へき筈なり、就而は右金高を何れへ差出へきや何とか公然之命を受る様閣下政府江申立られんことを望む、又ハ右売払代価日本政府江属するものとせす、全閣下自固之所有ニ帰するものとせらるゝときハ閣下の随意に致し置ん、いつれとも公然差図申越されん事を願ふ
貴館借入約定之時期満さる分は可成他人江貸渡す趣周旋致す心得なれとも、不幸にして当節欧羅巴ニおゐて戦争起らんとの風聞ありて、之かため平時の如く借家少にて差支る程の事もなく、外国人の巴里斯に来るもの甚少し、閣下無滞平穏に航海せられ親戚故旧と聚首之歓娯少からさること余遠く祝る所也、巴里斯ニ於てハ一同閣下之事を永く忘れす、余等か親情も尚以前之如く厚き事なれは、閣下ニも常ニ遺忘し給ふことなかれ 恭惶敬白
                        ペフロリヘラルト
    ○
   千八百六十九年第四月十八日於横浜
                     モツシユル
                        フロリヘラルト江
千八百六十九年第一月十九日附之貴翰我公子徳川民部大輔殿慥ニ落手被致、右ニ付下件を貴君江申入る様被命たり
民部大輔殿貴地滞在中は百事厚周旋いたされ、感謝ニ堪さる段余より猶謝詞可申進旨被申聞候、然は貴翰中御申越之ヘルコレース旅館ニ附属する諸道具売払代、デルベルグコルモン及貴君之両替店手数料共都而差引残金仏貨七万八千〇八十八フランク〇五サンチイムは全民部大輔殿自己之会計ニ属候ものニ有之候間、乍御手数急速余か名宛を以御差越有之度存候、尤右ニ付而は明治元年十一月十六日西暦千八百六十八年度辰十二月廿九日附を以、拙者より一翰差進置候、右書翰中前書売払代之外仏貨六万フランクは日本政府より既ニ貴国商社江清算及候ニより、最早商社江差向候義ニ不及金高ニ候間、博覧会品物売払代金と共ニ拙者名宛を以民部大輔殿江御差送可被成旨申進置候、就而は右書翰は疾ニ御落手ニ相成、前書申進候通御取扱被成候儀とは存候得共、右大意取摘斯ニ申進候 恐惶謹言
    明治二年巳三月七日      渋沢篤太夫 花押
    ○
  巴里千八百六十九年第三月十七日
  即我明治二年二月五日
   日本ニある渋沢篤太夫君足下江呈ス
 徳川民部大輔閣下仏国出帆之節足下と定約せし如く、余はペルゴロ
 - 第2巻 p.145 -ページ画像 
ーズ街の旅寓を諸道具附ニ而通例之家賃よりも少しく之を減し、貸渡すへき事を専ら周旋せり
 乍去、今に至る迄よき借人見当らす、殊に此美麗なる家具を厳冬之節空館江備置も実ニ無用にして且其破損せん事を恐れ、余か取扱を以、是を世話人デルペルクコルモンに托し、糴売に持出させ売却する事を命せしのミならす、巴里都下江公ニ張札せり、又よき買人を得んか為にセイズジウルノー新聞之名中に書加へ布告せり
 右家具の内民部公子の日本へ持行れし青銅細工物、時計、其他シミニーの飾物等、其余コロ子ルビレツトコンマンダンサン等江贈し道具類を除き、去ル正月五日六日七日八日九日之間に売払たる家具之惣金高左の如し
一仏貨八万弐千四百五十フランク弐拾サンチーム
  其内周旋料として向山子ヨリ決定したる五分之手数料四千百弐十弐フランク五十サンチイム余の方へ請取、及コンマンダンワンサン江正月六日渡遣したる五十四フラン五拾サンチイム、其余六拾九フランク八十サンチイムは道具類売却之店料として世話人に渡したれバ、惣而差引残惣高七万八千弐十弐フランク四拾サンチイム也
扨余ソシエテジエ子ラール商社掛の役人ヒケーより伝承せるに、此会社ニ而旧政府許多の品物を買上ケし金高を日本帝王政府におゐて不残仕払たるよしニ依而、直ニ余ハ日本コンシユルセ子ラールの任として最前貴君より請取し六万フランクを商社より返却いたされん事を申入れしに、去ル二月廿七日に受取事を得たり
 又コンマンダンワンサンより二月廿三日勘定合ニ付、弐百三フランク五十サンチイムを得たり、さすれハ前の七万八千弐十二フランク四十サンチイムト六万フランク及弐百三フランク五十サンチイムを加へて惣金高十三万八千弐百弐十五フランク九十サンチイムを余か許に預置けり
余か許に預置たる金高を我足下に差送りたく存せしか、余か職掌として足下一応貴国帝王政府へ申立、然して公然と渡したきか故、何とか沙汰を附る事を乞ふ
又旧政府君之令弟なる民部公子之道具類なれハ、売払たる後余か任として其惣高を慥に預り置けり、将又旧政府の借金は当政府ニ而返す事当然の理なる故ニ、是又余か任として六万フランクを申立たり、然るに右借金は旧政府の頃なれとも政府たるか故今度貴国帝王政府に於て返却する理なるを、当今貴国外国事務大臣よく了解せられしと見へて其払ふへき金を出せり、夫故貴国帝王陛下之外国事務惣裁より公然と足下の許より余か預置たる金高を差送らしむるの令を得たきもの也、夫故ハ余か考ふる所ニ而は素此金は旧政府君より民部公子ニ差送たる者なれは、別に云々なくんは其代りたる帝王政府江送るへき歟、併若又此金高民部公子自個の入費ニ属したるものならは貴国外国事務総裁より余に是を示し公子の許へ差送るへき旨を演へ給ふ事を乞ふ、然る時ハ此事ニ付向後故障の生せさる為に余より足下ニ是を送るへき差図を民部公子より得たきもの也、日本より被差出
 - 第2巻 p.146 -ページ画像 
候博覧会の諸品も足下此地を出立せられし砌と大低同様之有様なり其後余か差図に従てシエブリサン氏は其物品簿トの価を以糴売ニ出し、一式の物品を試みしに纔に其目録帳通りの価を以て売払ふ事を得たり、此金ハ些の者なれ共此次の飛脚便に托し、且同時に此請取書と夫ニ付混したる勘定書等委細ニ認め日本政府ニ送るへし、及此地に永く諸品を置くなれは、夫々の入費を要する事なれは好機会を見合売却せるなれは高価ニ売払且利益も得へしと思わる、乍去若政府糴売に是を持出さしめ売んと欲せは、品物目録の通りの如きには至るまし
日本ヨリ博覧会に出たる諸品ハ全く旧政府君自個の所有に有らさる物ニ而、日本政府ニ属せる者なるへしと察す、其故ハ博覧会ニ付而ハ政府之名目ニ而取行れしに依而、金のメダイを得たり、さすれは売払たる金高ハ方今の政府ニ差出を当然の理なるへしと思ハる
博覧会ニ付日本ヨリ仏国江持行たる諸品の持主商人二郎并卯三郎の払物ニ付而は、余足下に其金高を渡して不都合なる事あるまじ、是は千八百六十八年第十二月廿五日附之両人之書翰に委細に委任せる趣を申越たれはなり、乍去余に托せし如き高価ニ而は売却するに甚難かるへし、此等の件は次の飛脚船便ニ売払目録と共に申送るへしと欲す
足下余か尊恭の意を受納し玉ハん事を乞ふ
                        プフロリヘラール
本日余は江戸に有ル我国の外国事務総裁江売物品の表を呈したり、
 足下其相違をよく弁別せんと欲せは同人江其段申立、了承被成候様被致度もの也


徳川家達家記 第一巻(DK020007k-0006)
第2巻 p.146-147 ページ画像

徳川家達家記  第一巻          (内閣記録課所蔵)
先年徳川民部大輔仏国在留中買入置之家具諸品等払代、并同人帰国之節フロリヘラルト江相渡置候六万フランク、又コンマンダントウヰサンより差出候二十二フランク五十三サンチーム共惣計十三万八千弐百弐十五フランク九十サンチーム、渋沢篤太夫江相渡候様今般書翰を以フロリヘラルト江申達候ニ付、右請取方之義篤太夫江可被申渡、尤右掛合書翰草案取調可相伺候、且右之義ニ付面談いたし義有之候間、明九日各之内壱人当官江出頭可有之事
    巳七月八日
                     外国官
      徳川新三位中将殿
            公用人中
  猶以篤太夫同道出頭可被致候事
貴国第三月十五日附同月十七日附弐通之御書簡落手いたし候、然は先年徳川民部大輔貴国在留之間、買入置候家具諸品貴下江御預ケ申置候処、コムミツセールプリリー氏之立会ニ而売却被致右品目録并直段附等書載せ候壱冊をも落手御書中之趣逐件了解いたし候、右金額并民部大輔帰国之節御渡申置候六万フランク、又コムマンダントウヰサン氏より差出候弐拾弐フランク五十サンチーム共惣計拾三万八千弐百弐十五
 - 第2巻 p.147 -ページ画像 
フランク九十サンチームは、全く民部大輔自個之入費ニ属候間、同人江下ケ遣し可申間、同人巴里滞在中附添罷在候渋沢篤太夫江受取之義御掛合可申旨下命いたし置候ニ付、無差支被相渡候様いたし度候以下毫略此段答書如此御坐候 以上
    巳七月 日
                        寺嶋四位
                        沢右衛門権佐
      フロリヘラルト
             貴下


家記材料 第四冊(DK020007k-0007)
第2巻 p.147-150 ページ画像

家記材料  第四冊              (徳川公爵家所蔵)
    ○
  於巴里斯日本コンシユルセ子ラル館
  千八百六十九年三月十五日
於江戸
御門陛下之外国事務執政閣下江
千八百六十七年大君より留学之為仏国江送られし徳川民部大輔侯日本江帰らんとし巴里斯を立去し節、彼侯住居せし家屋并日本ヨリ持越せし金を以買入し美麗なる家具之内、未タ飾附し儘ニ而予ニ預ケ置れたり其外ニ日本政府ニ而兼而ワシユーチーゼ子ラル社中より借受日本政府之命ニ而買入し品々代金六万フランクの高を右社中江償戻す様、侯予ニ委托せり、右償戻しハ千八百六十八年第十月八日いたせり
右家具は取捨へきものニあらす、且彼侯之住居中にありし諸人の家具并ニ品物等損しもなくあれとも、最早住居せさる家屋にて空敷朽さする事能さるニ付、コムミツセール、○フリハー○立会ニ而糴売りニ出すへき事に予決意せり、其品々去ル第一月五日六日七日八日九日と五日之間糴らせたり、爰に添テ右糴売の書付を閣下ニ送る、右之内ニ彼侯残し置れし品々の目録并売払ひし直段等委細にあり、閣下一覧証とせらるへき右糴売金高の内より諸雑費の引揚あり
 高金八万弐千四百五十壱フランク弐十サンチーム
右之内より四千弐百四十六フランク八サンチームハ予か売払世話料五分、并彼侯のコムマンタント并コムシツセール○フリハー氏等江可償戻小払等を引去り、残七万八千弐百三フランク四十サンチームとなれり右金高は予かコンシユルセ子ラールの職掌として日本政府の為、予預り置り
其後日本おゐて、ソシエテーセ子ラル社中の支配人ミスールセケー仏国ニ立戻りし事を承知せり、依而右社中より借受し金高は御門陛下政府より先達而償戻しになりし旨を予彼ニ話し、千八百六十八年十月八日予返済せし六万フランクハ其内なるか故、再ヒ予に払返すへき旨を掛合し処、右社中ヨリ二月二十七日右之金高を戻せり、依而右六万フランク之高を日本政府之為予預り置り、尚コンマンタントウイサンより精算之上少々の残金弐拾二フランク五十サンチームを予請取置けり、右にて六万弐十二フランク五十サンチームトナレリ、右ニ付二口惣〆十三万八千弐百弐拾五フランク九十サンチームの金高を予日本国のコンシユルセ子ラールとして政府の為預り置けり、方今横浜にある民部大輔
 - 第2巻 p.148 -ページ画像 
公の役人渋沢篤太夫より去ル十二月廿九日右金高を彼に渡様申越せり予日本のコンシユルセ子ラールとして右金を受取し上ハ政府江勘定を差出を得す、且民部侯より閣下江其旨可申立事を当便に渋沢氏江挨拶せり若右金ニ而御門政府ニ属せす民部侯の属となる事ニ候得は、予引渡す事出来候様閣下より差図を給らん事を願ふ、左もなくは右の金子ハ御門政府の為メ差置さるを得す
向山并栗本安芸守氏より予ニ委托せられし外一事を閣下に申立る事要用なり、博覧会備付の為日本政府より差送られし品物ありて其売捌方を予か差図を受て取扱ふ事を巴里斯商人モツシユールアシエウリロン江任せられたり、向山附属之役人等拵へし目録帳の極り直段余り直段の高きを驚き追々減少せり、予糴売に出す様命せし処右品物定価より下ニ売る事能はさるにより、大概右糴売りも用をなさす
右は日本政府の為メ甚不益なるへくと予考ふ、其故ハ向山氏とシユウリロン氏と右品々取扱方ニ付約定書ニ定たる雑費、并雇入候者共之給料、其外品物積置所之借地賃、出火之請合賃等之入費を払ふ事をや依而右を止メ、右品物之元価を不定して政府之可成益に成よふ糴売等ニ而売捌く事を免許有之方可然義と予算考す、此次の便りニ而閣下江約定書の写壱通、売捌相成候品物書付并約定調印の日より諸雑費并諸掛り之勘定書、其外右品々売捌方ニ付手続并仕方之告書を差出すへし渋沢篤太夫より右品売捌たる金子も彼ニ差送る様是又予ニ申越せり、右ハ日本のコンシユルセ子ラールの官職に於て予金子を請取しに付、日本政府之外勘定書を差出ス事能わさるにより閣下よりの命令なくては何事も不出来旨を答置けり、且右品々は元大君自己又ハ其親族に属せす政府ニ属すへしと予思ふ 謹言      フロリヘラル
                   日本コンシユルセ子ラル印
    別紙勘定帳有之、右は長文且不詳之廉々有之候ニ付、追而訳差出可申事
    ○
  於巴里斯日本コンシユルセ子ラル館
  千八百六十九年三月十七日
於江戸
御門陛下之外国事務執政閣下江
慶応二年正月二日附則欧羅巴千八百六十六年三月六日附之大君之印章を据へたる委任状を以、大君より予を仏国於て日本国名代人并コンシユルセ子ラルに任しられたり
我国帝ナポレヲン陛下、予を其職務ニ承諾し、予か請し所の任を施行する為其権を公然ニ取ることを許諾あり
予か取扱し事件、且千八百六十六年、千八百六十七年、千八百六十八年中日本政府并予との間に書往復せし事にて閣下ニ別段述るに及すと予考其書翰之内ニ政務并商法等之事ニ付日本の為益となるへき数件を閣下一覧あるへし、且予当職に任せられし以来仏国より来りし使節に為せし引続るの告書を見給ふへし、右使節等左之通
    柴田日向守    小出大和守
 - 第2巻 p.149 -ページ画像 
    向山隼人正    栗本安芸守
右之外ニ徳川民部大輔侯之旅館用意、且彼侯仏国滞在中請くへき教育方順序取極方等任せられ、殊ニ予か周旋ニ而若き日本人最初仏語初学を教へ、随而政府学校之学術初学を初めさする為日本人の学校を巴里斯に於て設けたり、右学校ハ栗本貞次郎并元仏国陸軍之士官一人を頭取とし、栗本貞次郎連来し学生ハ壱ケ年の後外教授を請るニ付、其跡へ入るへき若き学生を各年送り其処にて尚教育する事とせり、加之日本国も広き場所を取し大博覧会之事ニ予専ら周旋せり、右博覧会江出せし産物之秀一且品物之上品等のため日本政府ニ而大なる金のメダイを請たり
三ケ年来仏国ニ於て日本の名代人且コンシユルゼ子ラルとしてありて委任状を所持し、且往来手形取調其外日本江送りし数通の書付、并其節仏国在留之日本人保護等之事、是迄予勤め来りし事を閣下之注意ある事を予申立さるを得す
仏国に有りし事件并欧羅巴政事向之儀、依估なく毎月取調急度申立候様いたすへし、最前為せし如く日本政府ニ最益となるへき政事向并商法向之書類を閣下江差送るへし、向山并栗本安芸守巴里斯ニ滞留中ハ政府ニ益となるへき数件最正しく彼等より承知被致候事ニ付、予よりハ右告書を送る事是迄中絶せり、併同人等出立になりしニ付、当今ハ右之告書を送ること要用なるへし、依て予怠りなく右を送るへし、旧政府ニ而篤と取調相済、最早取極可相成節ニ至り、江戸ニおゐて事件差起り、是迄決定なき一事を閣下ニ今云ふ
仏国ニ而日本之コンシユルセ子ラール館入費の事なり、右は政事向并商法等之書類買入、又ハコンシユルセ子ラール館江雇し人々の入費等ニ而、其他予右職務を勤るには別段の入費懸れは右入費償れ度事を申立たり
栗本安芸守右等の事を取調、大君政府江申立候様委細委任を請居たり右之種々の入費相掛り候事故、一ケ月五百弗宛請取度、右金高は双方ニ公平之金高とみへたり
此儀ニ付閣下決意あらん事を願ふ、且閣下承諾の上は大君政府より予委任せられし日より算へ、予か預り居る拾三万八千弐百弐十五フランク九十サンチームの内より引去る事を予ニ免許あることを願ふ            フロリヘラル
                 日本コンシユルセ子ラール印
  尚、以当月十五日之書翰并民部大輔侯諸道具売払代書付共当便ニ仏蘭西ミンストル江之封中ニ入れ閣下江送る
    ○
徳川従四位仏国巴里滞留中家具払代其外共同国人フロリヘラルト江預置候仏貨請取方之儀、渋沢篤太夫より書状差遣候節、従四位よりも書翰相添候方可然旨篤太夫申立候趣も有之候間、委細は同人承り糺シ、猶水戸藩公用人共申談候上更ニ其方共より申立候様可致候事
    巳七月廿三日                   外務省
 - 第2巻 p.150 -ページ画像 
 静岡藩
    公用人中
    ○
七月廿六日水戸藩公用人同道ニ而差出
 徳川従四位仏国巴里滞在中家具払代其外共同国人フロリヘラルト江預ケ置候仏貨請取方之儀渋沢篤太夫より書状差遣候節、従四位よりも書翰相添候方可然旨篤太夫申上候ニ付、同人承糺猶水戸藩公用人共可申談旨御達之趣奉得其意、篤太夫承糺候処同人より書状差遣候ニ付而は、従四位よりも書翰相添候方可然旨申上置候間、其通取計度旨申聞候ニ付、則水戸藩公用人申談従四位より之書翰取調奉差上候、依之此段奉申上候 以上
                    静岡藩
                     公用人
    巳七月               関口頼藻
                      小田又蔵
                      杉山秀太郎


徳川家達家記 第一巻 【○西洋千八百六十九年第九月十三日…】(DK020007k-0008)
第2巻 p.150-151 ページ画像

徳川家達家記  第一巻         (内閣記録課所蔵)
    ○
  西洋千八百六十九年第九月十三日
            東京於而
      モツシユール
        フロリヘラルト江
余か巴里在留中之旅館諸道具売払代金并仏国出立之節渋沢篤太夫より其許江相渡置候仏貨六万フランク、其外共惣計拾三万八千弐百弐十五フランク九十サンチーム此度我
皇帝政府江伺済相成候ニ付、急速右金高為替を以篤太夫江宛差送候様可被致、尤委細之義は篤太夫より可申遣候得共、後証之為此段余より申入置候 以上
    明治二年巳二月
                 徳川従四位 花押
    ○
  西洋千八百六十九年第九月十三日
             東京於而
      モツシユール
        フロリヘラルト江
 貴国千八百六十九年第三月十七日附御書翰落手、御申越之件々通次了承いたし候、然は徳川従四位民部大輔事仏国滞在中之旅館諸道具同人貴地出立之後早速売払可申義、其節御托置候手続を以夫々心配被致候処、好機会も無之ニ付、不得止、デルベルクコルモンに為取計巴里府おゐて催売《(マヽ)》ニ持出し、則仏貨八万弐千四百五十フランク弐拾サンチームニ売払相成、右之内貴店方おゐて請取へき定額五分之手数料及右道具類催売《(マヽ)》之見世債《(マヽ)》等引去之残高七万八千弐百〇三フランク四十サンチームは其許方江被預置候義、承知致候
一従四位巴里出立之節、仏貨六万フランク且コンマンタントワンサンより諸勘定残金として弐拾弐フランク五十サンチームを慥に貴下江預り置るゝ旨審ニ承知いたし候
 - 第2巻 p.151 -ページ画像 
一右之金高拙者方江可差戻儀は既ニ千八百六十八年第十二月廿九日并千八百六十九年第四月十八日附を以再度書翰差進置候得共、此度貴下より更ニ被申越之趣も有之ニ付、其段我皇帝政府江申立候処、則余か申立之通允可を請候ニ付我
皇帝政府之外国事務職よりも前書之金高急速拙者方江可差戻旨貴下江改而御達相成候筈ニ候間、兼而申進置候通、早々為替を以拙者江宛差越候様致度存候
一右様条理明白ニ相成其筋より公達有之上は貴下ニ於も無異論右之金高拙者江可差戻義は申迄も無之候得共、右之段拙者より更ニ従四位江も申立候ニ付則他日万一之故障等も無之為貴下之望ニまかせ従四位よりも別封達書差遣され候間、并而領掌被致、無遅滞惣計之金高差送候様致度候
 右之件々貴答旁可得御意如斯御坐候 謹言
    明治二年七月  (日附不知)
                    渋沢篤太夫 花押
  再伸、前書拾三万八千弐百弐拾五フランク九十サンチーム第一月二日より貴店方江預り置るゝニ付而は、其節より之利金定例之通百フランク宛は元金高江相加へ無論被差越可然筈ニ被存候ニ付為念申進置候


民部公子剰余費用始末(DK020007k-0009)
第2巻 p.151-154 ページ画像

民部公子剰余費用始末             (渋沢子爵家所蔵)
    ○
  仏国巴里おゐてフロリヘラルト江相渡候仏貨六万フランク并民部公子旅館諸道具代共受取戻手続書
慶応四辰年八月廿日、民部公子巴里出立之儀決定ニ付、仏貨六万フランク并旅館諸道具売払次第右代金共、仏国ソシヱテーより旧政府へ貸金有之ニ付、右償戻之積、渋沢篤太夫よりフロリヘラルト江前書之仏貨并委任状相渡す
同年十一月、篤太郎御国帰着之節、ソシヱテー勘定朝廷にて償却相成候趣承及候ニ付、同月十六日フロリヘラルト江書翰を以、右弐口之金子差戻し可申旨申遣す
巳年春二月、フロリヘラルトより旅館諸道具共売払相成、右代金其外別に相渡候六万フランク共差送方の儀、民部公子へ書翰を以申来ル
同年三月七日、篤太郎より右売払代其外共、都而民部公子自費ニ属するニ付、篤太郎宛を以為替にて可差送旨フロリヘラルト江申遣す
同年五月、フロリヘラルトより右高渡方之儀
朝廷江申立、日本政府之外国事務局より公然たる命令有之、且民部公子直書等差越候ハヽ、金子可相送旨、篤太郎へ宛申来ル
同年六月、篤太郎儀外務省より御用之趣御達ニ付東京へ罷出る、右勘定之手続御尋に付、書取を以申立、且右勘定ハ全民部公子自個に属し候ニ付、フロリヘラルトより受取相成候様仕度趣、仔細に申立ル
同年七月、外務省より篤太郎申立之通御下知相成
同年八月、フロリヘラルト江御下知相済候、早速為替を以可相送旨、篤太郎より申遣す
 - 第2巻 p.152 -ページ画像 
  但し、外務省よりも同様御下知相成、民部公子直書も差遣す
庚午五月七日、フロリヘラルトより篤太郎江書状を以、右金子シベリオン会社へ為替にて差送候ニ付、同人より可受取申来ル
  但、其外四月廿六日、シベリオンより同様申来り候ニ付、同廿入日シベリオンへ引合候処、同人別段之勘定残日本政府より可受取分有之ニ付、差引可相渡旨申聞候ニ付、不条理之段相答ル
同年五月十日、右為替受取方催促状篤太郎よりシベリオン江申遣す
同月十六日、シベリオンより返書来る、最前申聞候勘定之儀外務省引合相成、近々落着可相成候ニ付、夫迄為替渡方猶予いたし度旨答来ル同年七月九日、シベリオン外務省引合之儀相済ニ付、右為替早速シベリオンより受取候様可取計旨、ジブスケより申来る
同月十四日、篤太郎横浜江罷越し、為替可受取手筈いたし置候処、十三日夜ジブスケより篤太郎へ書状差送り、シベリオン富士登山いたし候ニ付、来廿日迄不在之旨申来る
同月廿一日、篤太郎出張の積りに候処、洪水に付延引、
同月廿二日、ジブスケより書状を以、シベリオン近々出帆帰国可致ニ付、迅速出港為替可請取旨申来る
同月廿四日、篤太郎出港、シベリオン面会、為替受取方申談候処、フロリヘラルトより為替取組、逆為替ニ付難相渡旨申聞ル、因而是迄約束之廉を以詰問候処、シベリオン答には、同人有余之金子有之候得ハ元フロリヘラルトよりの為替ニ付、無滞可相渡候へとも、不如意ニ付横浜をも閉店いたし候始末、旁立替可相渡金子無之、左り迚他之為替会社にては渋沢之手形にてハ金子相渡候者ハ無之筈に付、更ニフロリヘラルトへ申遣、本為替に組替候方可然旨申聞候、然ハ是迄承諾いたし置、今日違変之廉ハ如何哉と詰問候処、是迄手許融通難相分、是非有余出来次第此為替取組候積ニ付承諾いたし候へども、今日差詰り候ニ付、無拠右様申立候旨申聞ル
然者其段只今書面にて可差出段取詰候処、明後日出帆ニ付取込居候間余暇無之旨申聞ル
然は如何して此為替請取得へき哉と申談候処、百フランクニ付壱フランク宛五ケ月分利足差出候ハヽ、いつれにも工夫いたし、為替可取組旨相答ル
早速可相渡哉承合候処、シヘリオンの跡引請いたし候百五十七番バビヱーと申者、毎事シヘリオンに替り、横浜にての諸勘定向進退候ニ付同人へ申送候様可致旨相答ル、是迄之談話事理了解難致ニ付、明日更ニ通弁を雇へ可罷越、品に寄公使館へ罷越、裁判を受可申旨申談置引取、翌廿五日日曜日ながら篤太郎通弁人を雇へ、仏国公使館へ罷越、押而ウツトレー面会を乞、是迄之手続シヘリオン申聞之廉々不都合之始末逐一陳述およひ、早速同人を呼寄、事柄相決し候様取計呉候様頼談いたす、尤表向之引合には無之、懇親之上にて罷出候旨を以丁寧ニ頼入ル、ウツトレー早速承諾いたし、直ニシヘリオンを呼出し可相糺ニ村、第三時迄ニ罷越候様申聞候ニ付引取ル
第三時如約篤太郎公使館へ罷越候処、シヘリオン参り合せ、彼是談判夫よりシヘリオン同行にてコントワルチスコントといふ仏国為替会社
 - 第2巻 p.153 -ページ画像 
へ罷越、為替申談頼入ル、同会社おゐては逆為替旁当今仏国騒然たる事情も有之、為替難出来旨申答ル、右為替ハミニストル引受可相立儀ニ付、公使館へ罷越し呉候様致度旨、シヘリオンより会社へ懇談致、両人同行にて公使館へ罷越し、漸為替取組出来、明日可相渡旨申聞ル翌廿六日、篤太郎為替手形三枚宛弐組、都合六枚を仕立、仏国岡士館へ罷越し、証印を受、但ミニストル命令有之ニ付為表証岡士館にて押印いたし候也為替会社へ持参いたす、右彼是手間取、時刻過候ニ付、明日金子相渡旨、仮手形を被相渡翌廿七日、篤太郎仮手形持参、コントワルヂスコント会社へ罷越し、惣高受取相済
仏国公使申聞候に、此為替シヘリオン申立之通仕掛為替ニ付、此節柄受取方相成候ハ、全公使之証を表し候故に取組出来儀に候、就而ハ万万一此為替フロリヘラルトより支消可相成前、同人破産いたし、償却難出来節ハ、右金高ハ渋沢より受取戻し、為替会社へ損毛為致間敷旨申談、漸取組相成候儀ニ付、右往復凡四五月間ハ前書之金高遣払等見合呉候様致度、尤右ハ全懇《(懸)》念まて之儀にて、必無之筈ニ候へとも、当今ハ戦争之風聞も有之、彼是万一之節御同様困却を不生様取計度旨、篤太郎へ懇篤に申談有之候間、屹度懸念に不及旨答置候事
右之通有増手続申立候也
                     庚午八月 渋沢篤太郎
    ○
  民部公子巴里御滞在中旅館諸道具売払代并同所出立之節フロリヘラルト江相渡置候仏貨六万フランク共勘定調書
一仏貨八万弐千四百七十二フランク七拾サンチーム
  是ハ民部公子巴里旅館諸道具、フロリヘラルト取扱を以、千八百六十九年第一月十五日より十八日迄、コルモル氏糶売取計候代金并旅館之諸費用残コンマンダンバンサンより差出候分共
一同六万フランク
  是ハソシイテー江償却之積にて、民部公子巴里出立之節、渋沢篤太夫よりフロリヘラルトへ相渡置候分
二口〆仏貨拾四万二千四百七拾二フランク七十サンチーム
 内
  五千百三拾壱フランク六十サンチーム
  旅館売払代金之内フロリヘラルト方手数料其外諸仕払高
  但此分ハ千八百七拾年第四月八日附、フロリヘラルト書翰中封入之勘定差引書にて委敷申来候ニ付其節翻訳書相添御届ケ申置候事
 引残
  仏貨拾三万七千三百四十一フランク十サンチーム、此分フロリヘラルトより横浜出店之シベリオン会社へ為替を以渡方申来候分
 此代元弐万弐千八百九拾トルテル拾八セント
                  但庚午七月廿七日横浜相場壱弗ニ付六フランク替
  内弐百弐拾八弗九拾セント
                   コントワルヂスコント会社手数料
 引残
 - 第2巻 p.154 -ページ画像 
  元弐万弐千六百六拾壱ドルラル弐拾八セント
 此代金弐万三千七百三拾七両弐分
               永百九拾文七分
                  但庚午七月廿七日横浜相場壱弗ニ付
                   銀六拾弐匁八分五厘替
右之通為替フロリヘラルトより横浜出店之シヘリオン江取組来候ニ付、庚午七月廿七日同所仏国為替会社コントワルヂスコントより受取候処、相違無御座候也
    庚午七月           渋沢篤太郎
    ○
    差引勘定調
為替受取高
一金弐万三千七百三拾七両弐分永百九拾文七分
 内
  金百弐拾壱両弐朱ト永五拾文   諸入費
  金弐百両也           諸方挨拶入用
  〆金三百弐拾壱両弐朱ト永五十文
 差引
  〆金弐万三千四百拾六両壱分弐朱ト
               永百四拾文七分
    此分割
一金壱万両也           徳川従四位様江御送可相成分
一金壱万三千四百拾六両壱分弐朱
            永百四拾文七分
                静岡藩知事様
                御手許江御引取可相成分
右之通御分割相成可然奉存候事
 庚午八月              渋沢篤太郎


渋沢栄一伝稿本 第六章・第四一―四三頁〔大正八―一二年〕(DK020007k-0010)
第2巻 p.154-155 ページ画像

渋沢栄一伝稿本  第六章・第四一―四三頁〔大正八―一二年〕
当時の政府紙幣即ち金札と正金との取引は、時の相場によるの定めなれども、士民多く金札を喜ばず、通用渋滞して価格下落す。これ国民が未だ紙幣の通用に慣れざると、政府の信用尚薄きとに由るものなるが、先生密に思へらく、斯かる有様にては、紙幣流通の為に将来諸物価の騰貴を促すに至るべければ、今の中に紙幣を正金と交換し、又物品を買入れ置かば、必ず利益を得るに相違なしとて、常に用達商人等に訓示し、東京にては肥し物、大阪にては米穀を購ふなど、専ら意を玆に用ゐたり、此年二年四月二十九日政府は紙幣と正金との間に差を立つるを厳禁し、若し違ふ者あるときは、本人は勿論、本人所属の府藩県長官、領主共に曲事たるべきを令せり。而して此事ははしなくも会所内に紛擾を醸すの一因となれり。
政府が金紙の相場を立つることを厳禁するや、会所と関係ある商人の中、会所へ上納すべき金円は、仮令正金にて貸附を受けたりとも、金札にて可なる筈なりとて、藩庁に周旋運動せる結果、中老大久保一翁は会所掛の面々を召致し、金札にて受領すべき旨を達したり。時に先
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生公用を帯びて東京にありしかば、服部平八郎等いたく其不可を争ひ正金にて貸附けたる者を金札にて返納するを許さんには、会所は立ち行かざるべしと主張したれども、一翁肯ぜず、遂に六月十五日に至り貸附金其他総べて紙幣にて上納苦しからざる旨の懸札を、会所の門前に掲示するに至れり。是れ会所の大なる痛手なるのみならず、御用達商人等の中には、村々への貸附に対して不正を図る者あり、彼等相互の間にも、意志の疏通を欠きて反目する者を生じ、事業の経営には比較的好成績を挙ぐることを得たれども、下文参照 禍は意外の所より起りて、よくせずば会所の運命にも関せんとするに至る。先生報を得て大に驚き、かゝる事柄によりて会所を危くするに忍びず、之に関して善後策を講ぜることは下文にいふべし。
○下略


渋沢栄一伝稿本 第六章・第五八―六〇頁〔大正八―一二年〕(DK020007k-0011)
第2巻 p.155 ページ画像

渋沢栄一伝稿本  第六章・第五八―六〇頁〔大正八―一二年〕
○上略 先生は此滞在中、兼ねて商法会所の用務を処弁し、東京会所深川伊勢崎町にありに勤務せる会所掛行方文五郎・山口祐之進を督励して、米穀・水油・半紙・肥し物の買入をなし、また榎本六兵衛・板見屋善助などいへる商人に託し、多額の金札を買入れて静岡の会所に護送せしむるなど、頗る多用なりし際、服部平八郎・坂本柳左衛門等の通信に接し会所内部に情弊の甚しきものあるを聞きて憂慮の念に堪へず、八月十五日帰国するや直に会所に赴きて事情を訊ひ、更に藩庁に出でゝ大久保一翁と協議を重ねたり。会所内部の情弊は今之を詳にするを得ざれども、蓋し用達商人中に不良の者ありて、私利の為に奸策を弄し、延いて会所をも危くするの虞ありしものに似たり。当時坂本柳左衛門より先生への書翰の一節に、「早く申さば、此処は渋沢屋篤太夫様と相成、北村屋、勝間田屋、組合商法相立、東京、京師、兵庫、大坂、其外江も出店同様之ものを拵ひ、大きく商用相弁候様被行候はヾ、随分面白き事も可有之歟。又大金を商賈名義に相成候小生輩軽きものへ御任せは、迚も被行申間敷候間、何も君上之ために候間、中老衆なり御用人衆なり、君側之衆御壱人御引受、たとへば大久保屋一翁に御変じ、商法を以融金を貯、此末非常の備不相立候而は、実に以不安心之世上と奉存候」といへるにて、官営の弊ありしをも察すべし。此に於て組織の変更と用達の改選とは自然に必要を感じたれば、先生は一翁の命を受けて、之を調査立案することゝなれり。 ○中略
組織変更の必要は、一部用達の不正行為に原因せりといへども、版籍奉還の挙が此変更を決行せしむるに好機会を与へたるに似たり。坂本柳左衛門の書翰に、「版籍奉還の一条片付きし上ならでは、会所の処置もむつかしかるべし」といへるを思ひ合すれば、政治上の大変革に伴ひて藩内の一商社を改革するは、誠に機会を得たるものならん。○下略


青淵先生伝初稿 第六章・第一一四―一二六頁〔大正八―一二年〕(DK020007k-0012)
第2巻 p.155-158 ページ画像

青淵先生伝初稿 第六章・第一一四―一二六頁〔大正八―一二年〕
按ずるに、会所内訌の事情詳ならず、七月十八日坂本柳左衛門より先生への書翰に曰く
 萩四○萩原四郎兵衛宮五○宮崎五郎左衛門之奸邪には殆当惑、勿論翁印○大久保一翁も昨
 - 第2巻 p.156 -ページ画像 
今少しく心付候様子にも相聞候得共、金谷宿の奸物○未詳も出向中ニ而、品々悪計に旦暮之苦心罷在候様子、此程も翁印へ内密申立候上ニ而、会所之香気を嗅出し候ため歟、伝馬町問屋役人より、銭払底ニ而御継立差支候まゝ、会所には多分之銅銭御有合之よしに付、是非共御払下ケ相願度、尤伝馬所には都而金札而已に付、改而申上候迄も無之候へ共、札に而相納度旨をも申立、按ニ必す相断候ハヽ、何れより歟疵を生し可申哉と、兼而被命候小札なれは、御払可相成段相答候処、七拾五両丈ケ、壱分・壱朱之札持参ニ付、御払取計候処、無間阿部川越賃釣銭差支候廉を以、伝馬所同様之振合ニ而銭御払之儀、宮五申立、無拠百三拾両丈ケ、是亦御払取計申候、前条之次第、内ニ奸物有之、此上例之巡察使御出岡有之候ハヽ、種々之悪説申触し、会所は扨置、駿遠三州《(マヽ)》之国民困苦を極可申候、頃日伺得候へは、従三位様ニは御城内之御住居難被遊、浅間神主方へ当分御仮居之よしニ而、昨今御取繕中、御伝来之御宝物等、内々市中身元之もの、或ハ村里、久能御文庫、夫々御手配之御様子、是も追々例之奸物嗅出し、己か功を逞し、彼ノ巡察使へ内訴ハ顕然之儀と、深大息罷在候、就而は会所御開之根元、只々御家之御為にと、尊公様ニは別而御尽力、全く御配慮故、東西京師ニ而も、駿ノ商会、誰も存居候様子、斯迄と相成候会所、一朝瓦解、水泡と相成候儀、如何にも歎ケ敷、其辺尚介えも申談候へ共、是迚も別段良策も無之、乍去此儘ニ而巡察使出岡候はゞ、何と歟法立無之候而は相成間敷、左候はゝ、いつそ只今之内妙策を以、行末御家之御為筋と相成候儀施し置度と只々痛心而已、御良策も御座候はゝ、御洩被下度奉願候、昨日公状にも申上候通、清港入津米御払見合、何之見当ニ可有之哉、万一之節、正米ニ而ハ実ニ不都合、正金ニいたし置候はゝ、何れとも工風も可有之、夫是ニ付而も、貴所様御帰岡而已祈念罷在候。茶摘手を初、村方之ものへ御貸附ハ、例之奸物之策と相聞、品々苦情而已ニ而、返納捗々敷無之村方之御貸附ハ、向後御止メ之方可然哉と奉存候。併今般之版籍一条片付候上ならでは、其所置にも至り兼候得共、万端ニ付、内ハ奸物、外ハ巡察使出岡と申風聞ニ付、駿地之人心甚疑惑より、御家之ため尽力之体更ニ無之、其辺之所置ハ中老衆ニ可有之筈、其中老衆も、表通り之御扱振故、真ニ御家之御為は朝廷え之御嫌忌、詰り御不為之姿、夫ニ甘ミ之ある事にも可有之哉、底意は承知不仕候へ共、追日御窮迫ニ御陥り之御様子、此節御家来之俸金はツ印、物価は凡壱割五分より弐割形も引揚ケ候ニ随ひ俸金弐割形ハ御減之姿ニ而、弥増一同難渋之よしニ御座候、○中略清港詰御用達ハ、何れも気込宜、当地ハ不相変無情、是ニは当惑、併先ツ勝間田は出精致し呉、野呂・馬場も日々相詰候へ共、御案内之人物、捗々敷用弁不相成、勝間田・北村とても、当時之姿ニ而は、踏込相勤候儀ハ迚も六ケ敷、既ニ当人共、内実相唱居候様子にも相聞、一切御任なれハ抔と申心底と相聞、初ケ条申上候巡察使出岡相成候上ハ、どの道是迄之通会所名義ニ而、御家来之内相詰候訳にも相成兼可申候間、断然御任セ、勿論嚢中之緘りハ、御実来之内え被命置候はゝ、差支も有之間敷、早く申サハ、此処は渋沢屋篤太夫様
 - 第2巻 p.157 -ページ画像 
と相成、北村屋、勝間田屋、組合商法相立、東京・京師・兵庫・大坂・其外えも出店同様之ものを拵ひ、大きく商用相弁候様被行候はは、随分面白き事も可有之歟。又大金を商賈名義ニ相成候小生輩軽きものへ御任セハ迚も被行申間敷候間、何も君上之ために候間、中老衆なり御用人衆なり、君側之衆御壱人御引受、たとへは大久保屋一翁ニ御変し、商法を以融金を貯、此末非常の備不相立候而は、実に以不安心之世上と奉存候、好亦会所も、一時ハ朝廷之ものと相成引続懸りハ御家来之内より御撰挙、御家之用弁をも可致抔、差向御家之御不都合ニは不相成様御仕向可有之、併一朝其役を被廃候もの有之候時ハ、御家之御為無覚束旁以今之内、是非遁れ道を作り置候方可然歟と奉存候
又八月十七日先生より平岡四郎への書翰にも
 一昨十五日着岡仕候、是御降心可被下候。偖卸担直ニ当地商会之景況をも承及候処、兼々在府中心配之通、毎事困却之事共而已にて、尚三殿にも品々御苦心之よし、其他例之小黠輩、多少悪策も有之、旁以所詮此儘差置兼可申哉にも被存候ニ付、尚三殿及掛り一同とも内話、翌十六日帰着御届旁出殿、在府中之御用向申上候儀にて、爾来会所之取扱如何相心得可申哉、夫是在府中も苦慮いたし居候ニ付既に次郎八殿及貴所様へも申上、帰岡之上御同慮相伺《(マヽ)》、御指揮に随ひ取捨進退可仕と奉存居候段、一翁殿へ申上候、御同人にも不一方御配念、生帰岡之上御談可有之と御存被居候趣御申聞、因而急速仕法替可致旨被申聞候、尤商会之法ハ実ニ必要事、折角起立候を中廃も遺憾之次第、さり迚防害之術無之而ハ不相成ニ付、此度仕法相改知藩事附常平倉と歟社倉とか申名義に仕直し、全商人任せ切といたし候方可然との御注文、尤右取扱振ニ付、其法ニ死活之別も有之候得共、先御穏当とも被存、殊更懸念いたし居候儀故、早速右御趣意に因り、手続取調相改可申と奉存候、右御内命も、何か司農局を御懸念被成候哉、全生一手に取調急速可申立との御事、実ニ帰着間もなく、余り御察入も無之抔、苦情も生し候得共、是以一身之私、先勉励取調可申上と奉存候、兼而御内諭も有之候儀之儀《(マヽ)》、今又帰後模様に小異も有之候ニ付、其段御含迄申上度、就而ハ御手繰次第御帰岡被下、右仕法相改候処、夫々御伺仕度と御待申上候。都而世事ハ如斯もの、所謂当事《アテコト》と褌ハ向よりはづれると申ことく、決而来年之事不可言ものと、今又発明仕候、乍去会所之国民に益を為し候儀ハ、生之喋々を不待候儀にて、うしと見し夜ぞ《(マヽ)》今はこひしきの他日御悔も可有之哉と、乍自負愚存罷在候、御垂憐是祈、○中略前書之一条、全生一身へ之御申談ニ付、いまた発露不致儀ニ候間、御聴捨ニ被成置候趣頼上候《(マヽ)》。尤御廃止と申には無之、全御仕法替にて、商会ハいつれも相存し申度との事ニ御座候。将又、縦商人任せ切にもいたせ壱人管轄之者無之而ハ不相成との御談ニ付、其儀ハ真平御免被下度と御断申上置候、是又御諒察之程奉希候
これによりて考ふるに、用達商人の中に不良の者ありて、私利の為に種々の奸策を弄し、延いて会所を危くせんとせしかば、遂に組織変更の議をも生ずるに至れるものゝ如し。又同年八月先生が藩庁に呈出せ
 - 第2巻 p.158 -ページ画像 
る改革案の冒頭に、
 当春来商法会所御取建、国内之融通よろしく、物価之高低適宜を得随而生産品相殖候様御世話被為在漸人心に投じ、追日御法広盛可相成筋には候得共、右取扱方掛り役々等、多人数被命置候付而ハ、其間御趣意柄体認いたし兼候様之取計振も有之候哉、何分土地在来之商賈共、協同之全力を以従事いたし候様相成兼、自然人意に徹底不致事共有之、且ハ爾来御時勢御変更之次第も有之候付而は、至正適当、持久不抜之御仕法に御釐正被為在度、御内意之趣承知奉畏候。
といへる亦其証と為すべし。蓋し用達商人等は合本組織の経営に熟せずして、共同一致の念を欠き、且は其間に不良の分子を交へたるより、かゝる始末に至れるならん。


(商法会所) 日記 明治二巳年三月七日より(DK020007k-0013)
第2巻 p.158-161 ページ画像

(商法会所) 日記 明治二巳年三月七日より(萩原太郎次郎氏所蔵)
    六月六日
一渋沢篤太夫東京江出立
    六月八日
一松本平八日歩返納相済
一阿多野又右衛門拝借書替
    六月九日
一遠州屋米蔵日歩返納相済
    六月十日
一橋本屋権七日歩返納相済
    六月十一日
一尚介殿始メ掛リ一同出勤之事
一身成村茶摘手御貸附之分上納相済
一松本平八手代上方江出立為致候事
  但御金三千両為持遣し候事
    六月十二日子ノ日休局《(商)》
    六月十三日
一尚介殿始メ一同出勤之事
一金札一条ニ而御用達掛り一同衆議を尽し云々、頭衆迄申達候事
一金札千両正金弐千両御勘定所江引渡ス
 魚仁之御貸附清水納屋材木代相済
一川々御普請御入用金銭引渡処御用達於テ置《(て買)》上直ニ御買上いたし候事
一金札一条ニ付云々有之、東京表江御用状差出ス
    六月十四日 当所祭礼ニ付早引ケ
    六月十五日 休日
    六月十六日
一尚介殿内取人ニ付出勤無之
一東京表より御用状到来
    六月十七日
一巳六月十五日会所休日之処御殿より差し立相出候様達ニ付、柳左衛門罷出候処
中老曰
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 兼而朝廷向より御布令相成居候金札一条、兎角商法会所於て正金同様通行之儀彼是申達候趣、就而は右金札等之儀ニ付、米屋共出訴可及哉も難計、以之外事ニ付、向後会所江金札引替差支無之旨懸ケ札ヲ以市中江相廻し候様可取計旨被申達候趣ニ付
柳左衛門曰
 委細奉畏候、いつれも掛り之者一同□必仕御請可申上旨申答候処
老曰
 別段評議ニは及ひ申間敷哉、用達之者受取申渡可然旨願ヒ申達候ニ付
掛リ一同評議シテ曰
 篤太夫儀も東京在勤中、殊ニ右ニ付而ハ尚介殿儀も種々議論も有之旁府中奉行衆と得と謙蔵ヲ以談判及ひ候処、兎ニ角も一躰事情可申立様同奉行被申聞候趣ニ而、既ニ昨十六日町奉行役所江謙蔵被参候処、御用之差支も有之哉ニ而、同十七日尚介始メ町奉行等壱躰之事情申立候様ニ有之、就而は右金札一条ニ付、幸清水湊入津之内湿気受ケ米等も有之候間、札ニ而御払之積御儀ニ寄々取計候積リ
    六月十七日
一尚介殿始メ掛リ一同出勤之事
一東京表江御用状差立ル
    六月十八日
一仏蘭西行書願佐山八十郎ヲ以差立ル
    六月十九日
一尚介殿始掛リ一同出勤之事
 生育方 府中伺役
一愛知三録柴田勇橘積金いたし候事
  金百両 金五拾両
    六月廿日 昨夜大風
一尚介始メ一同出勤之事
一花倉村茶摘手返納方之儀ニ付不都合之儀申立候付得と利解申聞請書取置候
    六月廿一日
一尚介殿始メ一同出勤之事
一花倉村納日延相願候事、但来廿二日迄
一永見色村《(水)》茶摘手拝借返納延引相成ニ付、飛達地方役江相達候事
一沢手米入札之処昨廿二日開札之積相決候事
    六月廿二日 晴
一尚介殿掛一同出勤
一清水受米入札、壱番落札人米屋熊蔵外壱人
 壱斗壱升七合七夕御払相成候事
一橋本屋権七江麦安六拾七俵引宛金百両、日歩御貸附相成候事
一富士郡外神村外壱村莨引当拝借之儀添翰を以願出ニ付相糺し候処、
 申立方不都合ニ付返翰を以断遣ス
    六月廿三日 晴
一尚介殿始懸一同出勤いたす
一東京渋沢并行方外壱人、米屋熊蔵米五拾俵切手引当肥前弐拾五俵中
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国弐拾五俵合五拾俵清水商会江請取切手相渡ス
    六月廿四日 甲子休商
    六月廿五日 雨
一東京より書状到来
一小四郎直一郎柳左衛門徳左衛門平八郎謙蔵鍵太郎徳三郎御用達勝間田清左衛門出勤
一伊藤三四郎渡辺源次郎為交代清水湊江出張
一花倉村役人共拝借金返納方不都合之延期申立ニ付、柳左衛門相糺し候処、申立旁不実意ニ付、是迄之手続書面を以申立候様申付下ル
一布袋屋平兵衛江金百両吉沢屋平七江金弐百両日歩拝借金元利返納相済
一下泉村茶摘手拝借金三百両元利返納相済
一尚介殿御出勤有之
一酒井銀四郎月掛積金六月分入
    六月廿六日 雨
一掛リ一同出勤
一富士郡栗倉村之内石原組同大淵村之内井ノ組村茶摘手拝借金百七拾両利金六両弐《(分)》百永五拾文返納相済
一安部郡《(倍)》寺尾志太嶋両村茶摘手五月廿五日限之処、閑等置候ニ付吉田佐小左衛門江催促申遣ス
一弥左衛門新田長十御貸附金千両、利金四拾壱両上納証文書替来ル、八月廿日限証書改而取之
弐拾樽切手差出ス
一和田屋小平治水油四拾樽引宛金三百三拾五両御貸附、内弐拾樽請戻し入金百七拾両、残金百六拾五両引宛水油弐拾樽改而証書取之、利 金五両弐分永○《(○弐)》拾七文五分納ル
一尚介殿御出勤
一御用達一同静岡役所より被呼出候ニ付出勤無之
    六月廿七日 暁晴
一尚介殿御出勤掛リ一同出勤之事
一御用達寄合ニ両出勤無之
一東京より御金到来、但壱歩銀八百五拾両壱朱、弐千九百両即日御用達馬場北村江引渡ス
一東京表江御用状差立ル、第弐拾壱号行方宛
一御勘定所五分通積金差越候ニ付証文相渡ス
一富士郡栗倉村莨并三ツ又引宛拝借之儀相願候ニ付、事実之段取調候様地方役并御用達高瀬源右衛門池谷七右衛門江壱封村役人江相渡ス
一魚屋仁右衛門江三百両御貸附相成
一米屋和助弐百五拾両、日歩返納相成、引宛筑前米百六拾五俵分、五十俵百拾五俵と弐枚之切手相渡し、平八預リ証書は押切之上入置
一第三拾弐号御用状下小便《(マヽ)》を以清水江出ス、調合印弐ツ差立ル
    六月廿八日 雨冷気甚
一懸一同出動御用達中出勤無之
一大六江銅小銭百両三分ト永八拾七文五分両替拾〆七百文ニ而売ル
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一尚介殿御廻リ有之
一米屋熊吉受米御払代金之内、金札百五拾両上納有之候事
一島田宿平吉製茶十六櫃引宛日歩御貸附金弐百両、証書書替利金五両三分、永百五拾文上納相成、尤奥印塚本孫兵衛調印無之候付、元証書奥印切継、追而孫兵衛出岡之節調印為致候積
    六月廿九日 雨冷気
一尚介殿不快ニ付出勤無之掛リ一同出勤候事
一松本平八江東京廻リ壱朱銀千両引替遣ス、代リ金之儀は早々相納可申積
一島田宿文吉日歩御貸附金五百両上納、引続弐百両御貸相成、取引三百両全ク上納之事
    六月晦日 半冷半雨炎気
一尚介殿不快ニ付出勤無之処出勤ニ相成候事、掛リ一同出勤之事
一大麦三百俵大谷村伝八江相渡、搗方為致候積
一大谷村伝八水車稼差允し相成候ニ付、大麦三百俵相渡し
一当会所金高取調差出候様一印談之趣尚介ニ申聞候ニ付取調、小四郎持参御殿江出ル
一松本平八江壱分銀壱千両壱朱銀千両合三千両引替相渡候ニ付、請取仮証書取置仮証書袋江入置
  ○此日記ニ記ス所モ直接栄一ニ関スル事項以外ノ事モ多シ。サレド会所ノ一切ノ事業ハ栄一ノ統轄スル所ナルヲ以テコヽニ全文ヲ掲グ。後出七月ヨリノ日記ヲ掲グル理由亦同ジ。


(商法会所) 日記 明治二己巳年従七月(DK020007k-0014)
第2巻 p.161-169 ページ画像

(商法会所) 日記 明治二己巳年従七月 (萩原太郎次郎氏所蔵)
    七月朔日 朝小雨炎蒸甚 昼より半晴八ツ時より雨
一栗倉村莨三ツ又拝借之儀ニ付亀山左兵衛外壱人より添翰并高瀬源右衛門外壱人奥書之上御用達中江添書を以願出候付、金弐百両拝借相成候事
一静岡方より江尻払釣差上候趣を以御金札引替之儀掛合越候処、当方有金少ニ付断挨拶およひ候
一赤坂方より右同断
一福地左太郎外壱人より御払米村買請切手其外内訳書到来、右書類は都而服部平八郎江渡ス
壱樽山田虎次郎江渡ス
一神武丸平四郎船豊前米三百八拾四俵内百九拾弐俵落札ノ上代金十日延残百九拾弐俵同断十五日延同船麦安五百八拾七俵内弐百九拾三俵同断十日延弐百九拾四俵同断十五日延右貫大麦三百拾俵内百六拾五俵十日延百六拾五俵十五日延明後三日商法会所おゐて御払之積口達書を以御用達江達候
一越後新潟小川皆五郎御立入被命候ニ付、諸規則請書差出候事
  但尚介殿御逢有之
一黒沢謙蔵儀昨晦日草津組屋敷内拝借地江引移候御届書出ル
一尚介殿御出勤有之
一米屋和助江金九百両、金三百両弐口日歩元利上納相済、尤証書書替
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元金弐口共御貸附相成候事
    七月二日 晴天暑気
一懸一同御用達共出勤
一八木屋惣兵衛日歩御貸附金返納相済
一万や定右衛門金弐百両内六拾両入、引宛小麦百五拾弐俵之内四拾八俵切手遣ス
一米屋熊吉沢手御払米金札弐百八十両弐分弐朱永弐拾八文八歩九リ之内壱両不足ニ付、油屋桑屋両人返納之セツ請取可申積、服柳左衛門談判相済候事
一金札八拾七両弐分油屋喜兵衛江日歩御貸附
一同六拾両桑屋忠次郎江日歩御貸附
 此分返納之節買受皆納之内金壱両不足金可受取積
 (朱書)
  此分引替七月五日上納相済
    七月三日 晴天甚暑朝冷風
一懸一同出勤有之候事
一田尻屋三次郎江水油五樽代金五拾弐両三分弐朱ニ而御払相成、松平平八江之請取切手渡ス
一庵原郡山切村油屋源左衛門江紙弐百五拾箇引宛金五百両、当十月晦日迄日歩御貸付
一布袋屋平兵衛御領分米引宛金弐百弐拾両、元利返納相済
一改而淡州米廿俵引宛金弐参拾両、拝借相成候事
一坂本屋庄七竹林麦引当金百三拾両、当五月廿九日より七月三日迄元利返納相済、改而前書之通御貸附相成ル
一組合商法四日市行出金之内四千五百両、山内村源左衛門御貸附金五百両とも清水湊御用達柴田屋直三郎江相渡請取書取之、仮証書袋江入置
一山西屋半次郎、徳田屋長左衛門合金四百五拾両南京米四百俵引宛、元利共返納相済
一徳田屋長左衛門金百六拾五両柳川米百俵引宛之分、元利返納相済
一徳田屋長左衛門江金八百七拾両、山西屋半次郎合金七百五拾五両、遠州屋米蔵金百拾五両共利金上納相済証書書替ル
一金六千両松本平八江ツ印引当日歩御貸附、三千両は七月十五日限、三千両は七月廿九日限
一北山村茶摘手拝借金残金拾両持参之処、不残悪金ニ付差戻ス
一北山村莨元入金拝借之儀ニ付、杉浦隆八郎添翰并高瀬池谷より御用達江之添書持参之事
    七月四日 霽清暑
一尚介殿懸一同御用達共出勤有之
一金札千両正弐歩判弐千両并銭七千五百貫文御勘定所より本証書弐通尚介殿御持越ニ付、仮証書四枚、服部平八郎御勘定所江戻ス
一大六願請銭千八拾貫文、替金百八両請取相済
一請所村治兵衛より塩引宛金千両日歩御貸附相成
一富士郡北山村茶摘手金九拾五両弐分、利金三両三分永七拾文六月廿三日上納之処、不足金有之ニ付、今日之部ニ入
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    七月五日 炎蒸半陰
一尚介殿懸一同御用達共出勤
一橋本長七郎江当十月廿日限年壱割五歩を以金弐百両御貸附相成ル
一桑屋忠次郎江札六拾両日歩御貸附、利永百弐拾文済上納相済
一掛川宿油屋彦十、日歩御貸附金六百両之内、刎金之分代リ金上納相済候ニ付、最前大六江仮預ケ之証書并残正金利金共大六江相渡、預リ帳江為相記候事
    七月六日 晴酷暑休日
    七月七日 晴酷暑休日
    七月八日 晴酷暑甚
一尚介殿御中暑当り御出勤無之
一懸一同出勤御用達出勤無之
一万や定右衛門小麦引宛金百四拾両、元利返納相済候ニ付七拾弐俵三拾弐俵と切手弐枚ニ替候
一阿多野文左衛門金百弐拾両上納罷越候を、悪金有之百五両請取候事
一橋本や権七柳川米弐百俵引当金三百両之内百五拾両入金、百俵請出し、残百五拾両貸付、百俵切手添証書改取之候事
    七月九日 晴酷暑風
一懸一同出勤御用達中出勤無之
一阿多野文左衛門金百弐拾両元利返納之内四両弐分
一悪金有之候付預り置、追而引替之積仮証書取置
一御勘定所より御操合セとして商法会所御有高之内御問屋操合相成候哉問合セ有之候ニ付、金三千両余有之候得共、尚介殿御差図次第御操合セ可申旨挨拶遣ス
    七月十日 曇炎蒸夜半雨
一尚介殿懸一同出勤いたす
一東京御用状到来
    七月十一日 晴暑甚
一尚介殿懸一同御用達勝間田出勤
一寺尾志田両村茶摘手金弐拾両、利金壱両返納相済
一千頭村茶摘手金百五拾両、利金七両弐分返納相済
一大谷村水車持伝八外壱人水車場入口并浜辺物揚場江商法会所附水車場と申杭建度旨申出、願書差出ニ付諸願綴込江入置、追而評議之上沙汰可及積
一春日丸喜八船田代米六拾弐俵、伊豊丸卯兵衛船備中米百八俵、落札之上代金十日延納ニ而来ル十四日清水港会所おゐて入札之旨、口達を以勝間田清左衛門江達ス
一青物問屋小左衛門代権左衛門外八人上横田町青物問屋生活之名目を以相開候ニ付、其段示談いたし候得共、調兼無拠静岡奉行所江も申立候付、此段奉札候趣ニ而差出ス、願書は諸願綴込江入置、追而評議之事
    七月十二日 快晴 秋暑甚八ツ時過より
          大雨蒸気強遠雷
一尚介殿懸一同御用達野呂整太郎出勤
 - 第2巻 p.164 -ページ画像 
一安部郡赤沢村椎茸拾五本引宛金百両札を以拝借之儀、斎藤錠三郎外壱人より申越候ニ付、相糺候処、壱本弐石入之趣ニ付、願之通御貸附相成ル
一橋本屋権七麦安六拾七俵引宛金百両拝借金元利返納相済候ニ付、証書差戻し、麦安六拾七俵引替切手相渡ス
一商法会所掛役々御手当金被下之旨、尚介殿御申渡有之
一実抜蕎麦拾俵并拾四俵合弐拾四俵、坂本屋庄七渡引替切手相渡候事但受取書買請袋ニ入ル
一大工棟梁正平儀、一代苗字御免被命候旨御礼として罷出ル、塩沢正平ト名乗ル
    七月十三日 大風雨
一小四郎、徳左衛門、柳左衛門出勤下役一同出勤
一当七月分差加金利足今日御殿江持出し
一御勘定所四郎殿始一同之積金戻しニ付、御殿江持出ス
    七月十四日 曇蒸気甚
    七月十五日 晴秋暑強
    七月十六日 半雨半陰蒸気強
    七月十七日 雨風
一尚介殿始懸一同出勤
一杉尾村椎茸六本引宛金七拾両拝借之儀、斎藤錠三郎外壱人添翰を以願出候ニ付、村役人共相糺候処、壱本壱石六斗入之趣ニ付、札ニ而金五拾両御貸渡相成候事
一東京御用状差立ル、正六便
    七月十八日 休雨
    七月十九日 雨
一尚介殿始懸一同出勤
一魚屋仁右衛門当二月より六月迄御貸附高六千六百両、分年壱割五分月割を以利金三百四拾弐両弐分請取、尤元金三千両入金之分、七月一ケ月分金三拾七両弐分請取、残御貸附高三千六百両、此分より以下御貸附高籠七月分之利金請取可申事
一小沢戸屋伊兵衛、遠州屋清三郎引請麦安虫付ニ付、手返しアヲリ致度旨申立候ニ付、清水詰江右之段為念可申遣事
一東京十七日出御用状到来
一山西屋半次郎岩瀬米三百俵麦安百俵引宛金七百五拾五両日歩御貸附金、七月三日より同十九日迄、日数十七日分元利返納相済
坂本屋庄七
一実抜蕎麦五拾五俵代金百八拾九両弐分、永百拾弐文五歩之内金五拾四両弐分永百拾弐文五歩入金、残金百三拾五両今日より日歩御貸附相成候事
一竹林麦百俵引宛坂本や庄七日歩御貸附、証文書替相成ル
    七月廿日 雨冷気
一渡《(従)》三位様御帰岡、神宮兵部方江御著之積
一東京七月七日附来書到来、小札四千八百両分壱朱限《(銀カ)》五百両御勘定所御用長持江詰込、差廻し相成候事
 - 第2巻 p.165 -ページ画像 
一御勘定所除金差加、利金弐分弐朱猶差加へ相成候事
    七月廿一日 晴冷気
一尚介《(尚三)》殿懸一同出勤いたす
一御勘定所御払品代差加金利分九両、永百六拾六文七分猶差加へ相成候事
一車京廻り小札并壱朱銀共都合札四千八百両五百両黒柳徳三郎御勘定所より請取、勝間田清次郎江渡ス
一御国紙大坂売掛代金札七百拾五両正金三朱松本平八納但十両札七十枚五両三枚
一米屋和助江金九百廿五両、日歩御貸附元利皆納相成
一右同人江金五百四拾両右同断
一莨屋半蔵江金百四拾八両、豊前米引宛御貸附相成
一布袋屋半兵衛江金三捨両、豊前米引宛御貸附相成
    七月廿二日 晴
一尚三殿掛一同出勤之事
一遠州屋米蔵日歩金百拾五両、利金壱両永百五拾文請取相済
一松本平八ツ印三千両、利金三拾両返納相済
一小杉屋長吉金千五百両、日歩利金四拾弐両返納相済
一松本平八五千両、利金百七両弐分元利返納相済、書替猶金五千両御貸附相成候事
一阿部川役人江壱両札五拾両分銭五百貫文御払相成ル
    七月廿三日 陰
一尚三殿掛一同出勤御用達野呂整太郎
一学問所差加金六拾両、弐ケ月分利金壱両添差戻し候事
一油屋喜兵衛札八拾七両弐分、利札三分三朱、永弐拾五文取元利返納相済
    七月廿四日 暁より雨
一尚三殿懸一同出勤勝間田清次郎
一東京廿二日出御用状到来
    七月廿五日 半陰冷少々蒸気
一尚三殿懸一同御用達出勤
一安倍郡内匠村椎茸製元入金札三拾両貸附相成ル
一石原や嘉右衛門江金百五拾両書替相成ル
一布袋屋平兵衛金三拾両ツヽ弐口、元利返納相済
一小川太兵衛金五百両、日歩利金拾弐両返納相済
一月掛積金七拾両御用達江渡ス
一小沢戸屋遠州屋江麦安引宛金三千弐百両、七月朔日附ニ而日歩御貸附相成ル
    七月廿六日 半晴半陰蒸気
一油屋喜右衛門外壱人日歩金三千両、利金百三拾両弐分相済証書替相成ル
一城之腰甚五郎外弐人、年壱割五歩合弐千五百両、利金百五拾六両壱分相納、証書書替日歩証文ニ替ル
一今日より中井勤五郎銭雛形認方として出勤いたす
一米屋和助金千両元利上納相済
 - 第2巻 p.166 -ページ画像 
一和田屋小平治水油五樽代金四拾五両入金、切手相添残金弐拾両日歩書替相成ル
一小沢戸屋小川其外之者、坂地為替日歩并戻り日歩とも勘定相済
    七月廿七日 陰小雨夕刻より晴
一尚三殿懸一同御用達出勤
一三原屋金五郎江米引宛金七百五拾両日歩御貸附
一御勘定所御用便ニ而銭札雛形御差立相成ル
    七月廿八日 晴
一遠州豊田郡横山村青山善右衛門江楮幣千五百両、八月十五日限日歩御貸附相成ル
一島田宿文吉日歩御貸附金弐百両、利金三両元利返納相済
一溝口八十郎拾両札壱枚、六月七月分月掛尚三殿御持越
一東京紀伊国屋長三郎より遠州大石権次郎江之為替札八百両、東京会所江入札相成候ニ付、於当会所前同人江渡方之手形到来ニ付出方相成候事
一小杉屋長吉為替金五千両、日歩皆済相済相方証書差戻し事済相成、証書は消印之上□《(不明)》江入ル
一魚屋仁右衛門江金三百壱両札弐百両御貸附相成候事
一尚三殿懸一同御用達出勤
    七月廿九日 曇
一懸一同出勤
一望月治作外弐人金三千両、利金百八拾七両弐分清水会所江返納相成書替日歩御貸付相成候
一小川太七外弐人金三千両、利金七拾八両書替相成
    八月朔日 快晴冷気休
    八月二日 雨
一尚三殿懸一同出勤
一望月治作外弐人金三千両、利金百八拾七両弐分之内金八両弐分悪金有之候ニ付、幸ひ伊東三四郎立会相改候事ニ付同人江渡し、引替方方申、入金致候事
  (朱書)
  八月十五日前田重五持参ニ付勝間田江渡ス
一米屋和吉金九百両、同三百両利納之上書替相成候事
一島田宿平吉弐百両利納之上書替相成ル
一富士郡内野村当三月中茶摘手御貸附金百五拾両、正金を以当六月廿五日限之処、期限後レ地方役江も催促書通いたし御用達中よりも度々促し候得共埒明不申、然ル処七月下旬ニ至り札を以返納之儀村役人申出候趣清次郎より内話付情実を以同人より説諭およひ置候処、尚八月二日罷出強而札ニ而返納之儀申出候間、請取相成、尤柳左証書差戻し之節等利解およひ候処、尚々も恐入候勝手ニ有之趣ニ候事
    八月三日 雨
一尚三殿懸一同出勤有之
一勝間田清次郎江札金百七拾両、御貸附相成ル
一矢村平島取扱松本円次郎御手当百三拾七両弐分、御勘定所より戻し入之分入ニ相成ル
 - 第2巻 p.167 -ページ画像 
一莨屋半蔵日歩百四拾八両、内金四拾弐両利金三分百三拾八文入、拾五俵切手相渡、残百六両引宛米五十弐俵近江や善兵衛江書替相成候事
一松本平八ツ印五千両江金三千両日歩書替利金四拾五両請取相成候事
一銭割賦御払請相成候事、但壱両拾メ文ツヽ内拾メ文ニ付廿四文ツヽ不足銭相立候事
    八月四日 晴
一尚三殿懸一同出勤有之
一小松屋長吉江金札千両御貸附相成ル
    八月五日 晴
一尚三殿懸一同御用達出勤
一榛原郡藤川村茶摘手金百五拾両返納、利分五ケ月分金七両弐分請取
一花倉村再三支配江掛合候処、正金ニ而元利返納相成ル
一安倍郡日向村池ケ谷村椎茸製元入金拝借之義斎藤錠三郎外壱人より添翰之上申立候得共、返納期限ニ到り茶摘手其外不納ニ付地方役ニ而返納引請候ハヽ御貸渡之積り、猶掛合遣し候事
一懸一同大屋村水車場見分罷越候事
    八月六日 晴夜入雨
一懸一同出勤有之
一小沢戸屋遠州屋日歩金三千弐百両返納、利金五拾六両相納候事、但麦安請取切手壱枚相渡
一橋本屋権七日歩金百五拾両、利金弐両永百文皆納相成ル
一松本平八手代江ツ印百三拾五より四拾位迄ニは売払候而も不苦候旨申遣し候事
一野呂整太郎金三百両、利金拾三両弐分永百文書替相成候
一東京渋沢来状来ル、七郎東京発足直浜港江相廻り、両三日逗留之上帰岡之由申来ル
    八月七日 雨
一尚三殿懸一同御用達出勤
一酒屋国治西尾屋壮兵衛御貸附元利返納相済
一魚屋二恵茂内上納三百五拾両、七八弐ケ月分利金八両三分納壱両札弐両札弐百両御貸附相成ル
一御書院組四拾壱両三分札ニ而差加へ相成ル
一桑山三四郎月懸連外戻し金拾両尚三殿江渡ス
    八月八日 快霽
一尚三殿掛一同出勤御用達出勤いたす
一下十分一地方役より馬場惣次郎多々羅藤右衛門儀有渡郡川辺村名主組頭役申付、当会所御用支不相成様申渡置候趣達書到来
一日向村池ケ谷村椎茸製元入金之儀ニ付、斎藤錠三郎外三人より返納期限遅滞無之候旨ニ而再応掛合越ニ付、壱ケ村金札九拾両ツヽ御貸附相成ル
一金札五千両御勘定所江引渡し、金四千両請取相成ル
    八月九日 霽
一懸一同御用達出勤
 - 第2巻 p.168 -ページ画像 
一清水商会より御用状到来
一尚三殿急御用御取調物ニ付御出勤無之
    八月十日 晴
一尚三殿懸一同出勤
一前様御小性頭取新村猛雄金札百五拾両差加江相成ル
一請所金次郎船引宛金千五百両、利金六拾両書書《(替)》相成ル、内金壱両悪
金有之引宛差支候趣ニ而一両日中相納候積、憲次郎申上ル
  (朱書)
  十一日上納相済
    八月十一日 陰蒸気
一尚三殿懸一同出勤
一請所村治兵衛江紀州産物引宛金弐百両、札弐百両合四百両日歩御貸附相成ル
一和田屋小平治水油引宛金百廿両、内六拾両上納、水油七樽請出し、残八樽引宛金六拾両日歩書替御貸附相成候
一魚屋二恵茂弐分金三百両、御貸附相成ル
    八月十二日 晴蒸気甚
一尚三殿懸一同出勤
一和田屋小平治鰹節引宛百七拾五両、御貸附相成
一(記事ナシ)
    八月十三日 半陰蒸気子之日休
    八月十四日 曇
一尚三殿懸一同出勤
一渡辺源四郎前田重吾、為交代清港出張いたす
一大黒屋より坂本江宛為替手形請取書此内江張置、但千弐百両弐分割御貸附相成候事
    八月十五日 陰
一尚三殿懸一同御用達出勤
一焼津油屋甚右衛門江米弐千俵引宛金三千両、七月中御貸渡之内八百両ツヽ両度清港江入金いたし、内米千俵請戻候方申立候付、坂本柳左より千六百両分米千俵引渡可申旨、清港掛江文通致し候事
  八百両ツヽ両度清港請取書は弐百六拾三番本証文中ニ差置候、尤坂本より仮請取差出し置候分と追而引替相渡し可申事
一昨日大六より之為替手形今日差戻し、大黒屋手代良助拝借人ニ而金千弐百両、日歩御貸附相成候事
一渋沢篤太郎申出今日帰岡追触并駄荷着いたす
一右同人加□四字着、前田重吾交代帰岡
    八月十六日 雨
一大六引受伊勢屋定蔵江金五百五拾両、日歩御貸附相成ル
一富士郡長貫村紙灑御入金拝借之義、石井杉浦添翰を以村役人願出候処、向後村方御貸附方取調中ニ付、差向御貸附相成候趣返書差出ス
一石原屋嘉右衛門日歩金百五拾両、利金壱両弐分永七拾五文元利皆納相済
    八月十七日 朝雨曇
一尚三殿懸一同出勤御用達中詰合
 - 第2巻 p.169 -ページ画像 
一篤太郎殿東京御勘定所より預り成《(来)》候壱朱札百五拾両之内、五拾両は壱分札を以引渡候ニ付、別ニ壱分札三枚相渡候積を以右札平八郎持参石川壮次郎江申談、御金方江引渡、篤太郎殿預り書受取候事
一坂本や庄七竹林麦金百三拾両、日歩利金共元利上納相済
一金札四百両、中泉養蚕世話方掛江御貸附、橋本長七郎渡り仮証書有之
一和田屋小平治水油八樽并近江屋善兵衛五拾弐俵共元利上納相成候ニ付いつれも清水江之請取切手差出候事
    八月十八日 晴
一尚三殿掛リ一同出勤候事
一学問所より差加金札百六拾両有之候事、尤請取書弐通を認遣し候事
一金千両東京表より為替金小川太七より上納之事
一金弐千両前同断
一金弐千両小川太七江日歩御貸附相成候事
    八月十九日 昼より雨
一尚三殿懸一同御用達出勤
一魚屋二恵茂江金百五拾両、壱両札五拾両御貸附相成候事
一平島直一郎田中彦八為交代清港出張相成候事
    八月廿日 晴
一尚三殿懸一同御用達出勤
一静岡奉行頼御払米弐百俵、今日横内御蔵所ニ而米性見届、即日入札橋本や外弐人突札壱弐五ニ付払見合候事
    八月廿一日 霽
一尚三殿掛一同出勤
一稲荷社掃除今日より初ル
一綿や伊平紙幣三千五百両預リ切手差出し候事
一田中彦八今夕帰着
    八月廿二日 雨
一掛リ一同出勤
一長十御貸附金千両返納相成候処、御用達不詰合ニ付、小村彦次郎宅江相廻し見改被致候処悪金多ニ付、一両日猶予申出候間、承届御用達預リ書付相渡スを利金は両三日之内ニ候て今日迄ニ而よろしく其余延引いたし候節は、猶日歩可差出旨申談遣ス


渋沢栄一 書翰 小栗尚介宛(明治二年)六月二六日(DK020007k-0015)
第2巻 p.169-171 ページ画像

渋沢栄一 書翰 小栗尚介宛(明治二年)六月二六日 (渋沢秀雄氏所蔵)
(附箋朱書)
二年六月廿六日
  紙幣流通之儀ハ坂地極不融通之よし東京ハ弐割位二而先通用いたし候併
  朝廷ニ而も公儀所外国官其他諸局ニ而不平も御座候、近々再ひ御模様可変抔官吏之内申聞候者も有之候
本月廿三日之御裁書今廿六日達手拝誦仕候時令不序冷炎異候之処益御健康奉遥頌候、生幸ニ無異滞在仕候御降心可被下候、偖扨《(衍カ)》先頃正札無
 - 第2巻 p.170 -ページ画像 
差別融通方可致との御儀、厳然御布令以後頻ニ御督責も有之、如何にも御困苦之景況掛り一同より再三之内書逐一拝承、御大任奉恐察候、御談之端にも難相成候得共、生も在駿候ハヽ聊御賢慮之万一を補益も可仕之処、隔絶間書も不尽意、毎事隔靴掻痒之事共而已唯区々苦念罷在候、併最早近々外国官御用も相片附可申、一時も早く帰駿拝眉万御伺申上、僅ニ積りし御苦辛を御慰申度奉存居候
楮幣通用之儀、既に再三御布令も有之、殊ニ東京も大概通用相成居候間、最早不得已時節、乍去内相場ハ何分難止当時八十位ニ御座候由、真ニ困弊之事ニ御座候、尤右ニ付東京諸物価ハ概して三割余引上ケ申候、此上は御国おいても品之価を引上ケ、紙幣通用為致候より外有之間敷被存候、もし相場引下り居、唯不得已処より幣通用致居候ハヽ、其内奸商入込、一時ニ物品被引抜可申、既ニ横浜辺ニ而商人相議し駿州へ仕入ニ罷越度申談候趣相聞候、其方略ハ先最初申談にハ正金之手金弐割位を渡し、相場を定、跡金を紙幣渡之策之由、先頃東京ニ而屡其策有之候趣ニ御座候可悪事には候得共、公理公法に就て黠詐相用候儀ニ而、未萌を防候外有之間敷奉存候
分銀一件之譴責も恐縮仕候、併保字小判ニ御定外之相場有之候も、大判之価ニ品々差之有之候も、可疑事と奉存候、漸ニ金銀之位引下候程固有之品価相増し候は、既ニ貨幣多して物価貴道理と同しく、不怪事と奉存候、かく申上候ハヽ飽迄抗命之姿ニ相成候得共、右様細事迄御世話被成候儀ニ候ハヽ、何も重立候者共被命置候迄も有之間敷と申上度程之事、所詮生等之愚昧奉事之致方も有之間敷と戦競罷在候、併御弁解被下候儀ハ真ニ難有奉存候
小札御廻し可申上候との儀ハ掛一同之生書状を誤解いたし候歟、又ハ書状認方不都合ニ候哉、札之借入ハ見合候方可燃と申進候積ニ御座候凡壱朱銀ハ三千程御廻し申上置候、乍去右札之儀も此間引換被仰付候口御下相成直ニ駿地御廻しニ而、廿一日当地を発候間最早着いたし既ニ御用弁ニ相成候儀と奉存候間、御細書ニハ候へとも別ニ相調申間敷奉存候、此儀ハ四郎殿ニも能々御相談申上取計候儀ニ而、最早御了解之御儀と奉存候
正金引換之儀、先会所へ御談にハ相成間敷、可賀御儀と御同慶奉存候既ニ不得已候ハヽ四郎殿へも御談申上、東京ニ有之候分なりとも差上候様可相成と存居候処、先御有余有之候儀と相見へ、幸甚々々
外国官御用向之儀も去十四日十五日御呼出ニ而御尋相成、其後十八九日廿日頃迄其筋へも罷越精々事実申述置候処御沙汰有之迄差扣可申趣其後今以何共御下知無之候、尤商用も別段無之候得共、外国官之御沙汰相待候迄、夫是と行方山口抔申談、手続規則相定度、其外是迄当地へ積廻し候品捌方等駈引いたし居候、乍去前日も申上候通拙生も一日も早く帰駿仕度儀ニ付、明日ハ外国官御催促申上、急々事済ニ相成候様切迫可致と奉存候、此間中申上候書類も幸ニ今日着候付、右も明日持参而官吏を責候ハヽ急速事済可申奉存候、御放念可被下候、右御報旁申上置度如此御座候 匆々頓首
    六月廿六日
                       篤太夫拝
 - 第2巻 p.171 -ページ画像 
  尚介大司農君
       玉床下
  再伸、御端書御懇篤之御致意敬承、尚宜御鳳声奉希候、御独任御苦辛之儀ハ四郎殿へも丁寧可申上奉存候、紙幣流通之ため米東京廻し申進置候処、貴地之相場も位宜ニ付先可見合趣併当地ハ更ニ引上可申と被存候、尚模様見聞之処不洩様可申上候存候
  増田省弥御免相成候ニ付、裕之進掛リ被命候、既ニ御承知ニ可有之候得共為念申上候
小栗尚介様 渋沢篤太夫 拝復御親展 謹封 季夏念六


渋沢栄一 書翰 小栗尚介宛(明治二年)七月一日(DK020007k-0016)
第2巻 p.171-172 ページ画像

渋沢栄一 書翰 小栗尚介宛(明治二年)七月一日(渋沢秀雄氏所蔵)
廿七日御認之雲章昨晦日達手拝誦仕候、如貴諭如何にも不序之候本年之秋成痛心之至ニ候
会所納物等いまた札持来候者も無之、先降心可致御示之趣敬承、併御説之通村方貸下之分ハ多分札納可相成、不得已事と奉存候、且村々之方ハ向後成丈見合候様致度候、今般万石弐千五百両引換之儀ハ、先会所ニ而ハ関係無之由、依而右札之儀ハ会計局之御取扱ニ難相成ニ付而ハ、壱朱札早々御廻し申候様可取扱旨、御書中、将掛りよりも再々被申越承知仕候、右小札之儀ニ付先便之拙書何か御覧違も有之候哉、当方ニ而別ニ調置候儀にハ無之候、右は廿七日附を以委曲申上置候間、最早御了承可被下と奉存候、併再三之御申越ニ付一工夫可仕候間御休意可被下候、乍去小札ハ当地も至而乏しく人々差支居、既ニ此程築地商社おいて壱朱札摺出し、東京丈融通と申趣、右出廻り候ハヽ少しハ融通可相成哉、右等之成行ニ付中々工夫も出来兼可申、其上交換之差も有之、当地ハ真ニ厳なる御様子にも有之、夫是以甚差支候、いつれにも少々ハ工夫可仕と奉存候、此段御含置可被下候
七月盆前会所掛御用達等御手当之儀、何分於当方見込も難相立候間掛り之者江内状を以相談等可申遣候間宜御勘考之上御取究被下度、生事も今以外国官御用済之御沙汰無之、日々御催促も致兼、官吏之内、故友も有之候間時々督責候得共、先暫時辛抱致候方抔被申越、如何にも困弊罷在候、右ニ付昨今ハ稍閑散ニ付、商法筋取扱時々深川いせ崎町へ罷越、手続伝習、既ニ昨日諸帳面類も出来ニ付静岡之法則に随ひ取扱振相立候、将又此度掛りより被申越候儀も有之候間夫是駈働罷在候
前書申上候小札之儀、当地ニ而ハ正金と変換ハ難出来、大札ニ引替候にも多分之打銀有之候処、此程右打銀ハ請取申間敷との厳令之趣ニ付是以引替不相成、詰り人々差支不融通ニ相成候、併銭之儀追々直段引
 - 第2巻 p.172 -ページ画像 
上ケ当時凡九メ三四百文ニ候間少し出廻候様子ニ御座候、併貴地おいても追々札融通ニ付而ハ是非小札御入用と被存候間、幸当地おいて買附置候銭、大六へ申談小札ニ而相払、并水油少々御払相成候分是又同様取計成丈小札取集急速差進可申候間、呉々御降心可被下候、乍去最前調置候様御聴込之儀ハ、全書中行違ニ而漸昨日より手配相初候儀ニ御座候、宜御諒察可被下候
右等御報旁得高意度如此御座候 匆々拝白
  七月朔日
                       篤太夫
    尚介様
尚々、御私用之趣御別紙内披もの一件了承仕候、為替まてにも及申間敷生帰駿之節持参呈上可仕と存居候
津田真一郎儀当地おいて差加金いたし候間、是又帰駿之節持参可致と存候、併摸様ニ寄候ハヽ、何か相応之品買入相廻候様可相成哉にも被存候、右等は掛一同と申合可取計と奉存候
御内々御頷被下置度候儀ハ、生此度之御用追々永引、殊ニ外国官吏抔時々面会俗なる突合も少々ハ有之候様成行、其上東京ハ札通用ニ付諸色実ニ高直、旁何分定額之御手当ニ而ハ難渋仕候、いつれ此度限例之除金之内なりとも少々御配意被下度奉希候、右ハ帰駿之上申上候儀ニ候得共、御含迄内々申上候、尤此度とても得失ハ十分相償候様配意仕既ニ積廻し之水油分銀等之儀ハ一廉御益も相現れ候間、商法筋とて等閑ニ致候儀には無之候
外国官御用向之手続、別紙ニ相認差上候間、次郎八殿一翁殿江宜御申立被下度、右ハ御恵和様より御申付も有之、将又申上置候儀も有之候ニ付、一応手続申上置候儀ニ御座候、宜御駈引被下候
函府降徒も昨日頭立候者着府、軍務官ニ而御呼出し有之由いつれも腰縄と申事ニ御座候


渋沢栄一 書翰 千代夫人宛 ○(明治二年)六月一二日(DK020007k-0017)
第2巻 p.172-173 ページ画像

渋沢栄一 書翰 千代夫人宛 (穂積男爵家所蔵)
   ○(明治二年)六月一二日
  尚々須永へ御申付之御あつらへ物ハ無相違買とゝのゐ持参可致候外ニ入用も候ハヽ尚御申越可被成候
道中無滞十日着府いたし候、御安意可被成、其許御替りも有之間敷目出度候、血洗島手計とも無事之儀此間兄様より書状駿府より相廻候、尤着ニ付其段申遣し置候間、其中尚可申来そんし居候、いつれ当月中位御用可有之候間、留守随分御大切ニ何もかも御心配被成度候、取寄せもの之儀須永へ申遣候間、可然御取扱可被成候、藍しま之袴ハ仕立直しいたし度候、此間一翁殿より被送候袴地ハ夏袴ニ御仕立有之度候、外ニ奇れいの仙台平有之候、是ハうた之夏物ニいたし度半ねりニいたし候と至極よきものニ候、大六ニ御談可被成候、笠屋へ預置候笠は取返し置候様いたし度候
月々之入用も成丈手詰ニいたし候様亀へ御申付可被成候
右等取急き要用めてたくかしく
  六月十二日                篤太夫
 - 第2巻 p.173 -ページ画像 
    お千代とのへ
  うた手習せへ出し候様御心附被成度候、庭廻り荒蕪不致様、手入方須永亀へも御申談可被成候

渋沢栄一 書翰 千代夫人宛 ○(明治二年)六月二〇日(DK020007k-0018)
第2巻 p.173 ページ画像

    ○(明治二年)六月二〇日
兎角雨勝之気候ニてうつとふしき事ニ御坐候、いよいよ御替りのふ留守被成候よし目出度候、此許平安御心もし被成間敷候、当月中には御用も相済可申早々帰駿いたし度、日々骨折罷在候、御申こしの品々買調置申候、外にも少々土産物買置候、いつれ帰駿之節持越候よふ可致候、永々留守さためて品々御心配も可被成御察申入候、折角御心つけられ候様いたし度候
おひさおやま抔も度々まいられ候、おやま之親大内とやらんいふ人はいと茶人にて彼嫁を連れ家出いたしやまも困り入候よしニ御坐候、同人とて所詮永く節操を守ると申訳にもなりかたきハ不得已事と被存候間、可然医者婿養子ニいたし母小児之養《(をカ)》より有之間敷と被存候、さてさて気之毒千万ニ御坐候、田舎よりいまた文通無之候、尤一同御無事之よしハ既ニ承知いたし居候、従是ハ両度程書状さし出置候、其中返書も可有之と存候、こなた不相替世話しくくらし居候、中々楽もうわきも出来兼候、其中是非新島原を見物とそんし候得共二本差ハとふさぬと申事六ツケ敷事共也、いつそ元地《(マヽ)》ニいたし置可申哉勘考中也、先はあらあら申入度、めてたくかしく
    廿日
                 篤太夫
 お千代との江
        まへる
うたの帷衣も古ニ而弐ツ新ニ而壱ツ取置候、御まへ殿にもよき越後上布有之候間、夏物壱ツ取置候、其外縮緬半ゑりも巾着も調へ置候まゝ帰駿之節持帰候様いたすへく候、世間はさまさまにて郡県と相成候あいた、最早一同旦那様にハはなれ候姿ニ候
函たて之人も降参いたし候、成さんハ相わかり不申候、榎本ハ水戸の手ニて降参のよし、水戸より承知いたし候、このあいた民部さまにも御目もしいたし候、色々御話も申上又伺候儀も有之候、御帷子白かすりのいきなもの羽二重抔拝領いたし候
些御文通被成候様いたし度、筆ものぐさく相成候而ハ遠方之意味通し兼、帰り候ハヽ、唖も同様と相成可申御精々可被下候
おちよとの之事 孟光閨下 伯蘭より 御許へ
       六月廿日

渋沢栄一 書翰 千代夫人宛 ○(明治二年)六月二六日(DK020007k-0019)
第2巻 p.173-174 ページ画像

    ○(明治二年)六月二六日
あまり徒然のあまり一筆示し申あけまいらせ候、さて爾来其御もとはしめ留守宅一同かわりのふ御くらしのよし目出度そんし候、此許無事相勤罷在候、是又御心もし易ふ御思ひ入可被成候、先頃より須永へ御申聞御注
 - 第2巻 p.174 -ページ画像 
文之品々此度庄七へたのみ御廻し申候、品書ハ須永へ申遣し候御改可被下候、尤右之外其御もとの帷子壱ツ越後上布極いきなかすり壱枚、極上玉川縮緬ひとゐ物枚地壱浴衣地薩摩白地かすり都合三枚買求置候是はこなた帰りの節持参可致候、緋縮緬切も白かすりうたの帷子も帰之節持越可申候、廿一日にも一筆申進置候、定而御披見被成候事とそんし候、此度ハこなた事も御用も多からす候まゝ諸所へ罷越申候、是ハ突合之義理ニ而奔走いたし候儀別ニみつから求メ候儀にはなく候まま御あんし被成間敷候、手計兄様も廿三日御越し、田舎御両親手計にも無事同様かゐこよろしき由ニ御坐候、兄様には盆後駿地へ御越之よしニ御坐候
近里之親族共も横浜行之由ニ而木屋小左衛門方ニ而面会いたし候、おひさおやまも時々参り申候、廿一日しはゐにつれ参り申候、おやま之事親父不心得ニ而家出いたし誠ニ困り申候よし、無拠近所之人ニ而医者壱人を頼み病家をまわらせ居候由、こなた之勘考にてハ所詮右様之成行ニ而ハ、母小供のしのきも難出来ニ付、やまの本意ニ無之とも養子医者をもらゐ、家を立候方可然とそんし、此程兄様も御こしニ付御相談いたし置候、おやまも兼て御もと様御心もしも承知いたし居、今更両夫を持候を恥入候よふすニ候へとも、別ニ工夫有之間敷哉と存られ候尤いまた何共申聞もいたし不申、其中一言申残し置、駿地へ帰り可申とそんし候、永々留守中殊ニ存外日数を経候間、定而御待ひさしく候半とさつし入まいらせ候、是非取急き来月初ニ帰国いたすへくとそんし候、留守宅之事何によらす御心くばり無益之入用等無之様いたしたく候、申あけ度事山々候へとも、いつれ近々帰駿御目もしの上とあらあらめてたくかしく
  六月廿にあまる六之日しるす
                     篤太夫より
    お千代とのへ
  母上之御文さし上申候、こなた迄御遣しの分も其儘御まわし申あけ候、春以来少し御持病此間御全快之よし兄様より承知いたし候、御あんし被下間敷候、かしく
  よふしやら御をとづれやら
  申入候かしく

渋沢栄一 書翰 千代夫人宛 ○(明治二年)七月一日(DK020007k-0020)
第2巻 p.174-175 ページ画像

    ○(明治二年)七月一日
  尚々こなた事盆前ニ帰国可相成候間、御案事被成間敷候事
久々之留守嘸御つれつれにも候半と御なくさめかたかた一筆申あけまいらせ候、先頃も度々文してもよふ申しんじ候通、こなた御用向も何分相済可《(不カ)》申こまり入まいらせ候、御もと様にも廿日頃より時から御さわりニて御気分あしきよし、折角御大切ニ被成候よふぞんし候、又こなた帰国を御待わび御心配被成候よし、これハ誠ニぐちと申ものにて、武士のつまにハ似げなき事ニ候、こなたとて空しく月日お過し候儀にも無之、無拠御用向にて手間取候事御用さへかたつき候ハヽ早速かへり可申、決して御案事被成間敷候、又さほと御心もし御掛りニ候ハヽ、御つたなき筆とて御いとへなく、御消息も有之可然事とぞんし候、是非是非
 - 第2巻 p.175 -ページ画像 
此たより一筆御心もしのところ御申越被成度候、兼而御あんなへのこなた心中御うたがい被成候筈ハ無之事とそんしまいらせ候、返返も御心つよく御坐なされ候よふねんし上まいらせ候、先もし庄七をたのみ品々さし上置候、其節も一筆申上置候、さだめて御目もし掛させられ候事とそんし候、おひさ江の御文ハとゝけ可申、此間もひさやまとも両三度まいり浄瑠璃なと相催し候、やま身の上の事もこまり入、先達而もしなしな申あけ置候、是又御承知之御事とそんし候、手計兄様も廿三日に江戸へまゐり、廿五日御帰り被成候、盆後駿府へ御こしとの事ニ候、手計も血洗島もかわりのふ被為入候よしニ候、御心もし被成間敷候
熊のゑハ買調へ可申候、絵草紙も品々買置申候、重箱之儀ハするが之方よろしく候、是ハ須永へ申遣し候、其外緋縮緬等も不残買とゝのへ支度ハ出来候得共、何を申も外国官より御暇無之、日々こまり入まいらせ候先ハあらあら此許模様申入度、めてたくかしく
七月一日                 篤太夫より
    お千代とのへ
  呉々も御心太く御坐被成候よふねんし上候、武士の妻ハぐちとりんき別而無之様いたし度、素よりりんき被成候事ハ夢無之、あんしんいたし候得共、兎角御あんしすごしとぐちとにて御心もし被成候御気しつ故、唯御安心被成候よふ御心掛之程たのみあけまいらせ候、須永より何かこなた帰国お御待わびのよふす申こし候、甚以はぢ入候事ニ御坐候、きつと御たしなみ被成候様そんしまいらせ候、うたニ手習せへ出させ候様御頼申あけまいらせ候


渋沢栄一 書翰 千代夫人宛 ○(明治二年)七月九日(DK020007k-0021)
第2巻 p.175 ページ画像

    ○(明治二年)七月九日
土用あけより残暑つよく候へともますます御かわりのふ御くらし可被成目出度そんじまいらせ候、此許不相替無事ニ候まゝ御あんしばし被成間敷候、されは外国官御用向もよふやく御事済可相成、因而来ル十三日頃東京を出立、横賓《(浜)》にて少々用向有之、遅くとも十九日頃にハ帰宅可相成候間、此段申入置候、永々留守中嘸かし御心もし御坐可被成御察申候、近々御目もし山々御相話可申たのしみおりまいらせ候、此程田舎より敬三郎まゐり候、横浜へ種商なへのよしニ御坐候、血洗島手計其外ともかはりなきよしニ候間、御心もし易くいたし度候、新田兄様にも田舎へのかへり掛立寄呉候、手紙もたのみ差越し置候
母上様阿ていより御もとへの御文さしこし有之候、是ハ持参之上御目にかけ可申候、おやま事度々申あけ候とふり、無拠養子をいらみおり候よしニ御坐候
おひさも当秋は一ト先田舎へかゐり可申よしニ御坐候、まつは近々帰国之儀御しらせかたかた申入度、あらあらめてたくかしく
  文月はしめの九日あつまのみやこなる本石街のたひのやど南軒の下に筆を操る
                     篤太夫より
    お千代とのへ
    孟光閨秀              伯鸞生
        まへる
       七月九日手裁
 - 第2巻 p.176 -ページ画像 

渋沢栄一 書翰 千代夫人宛 ○(明治二年)七月二二日(DK020007k-0022)
第2巻 p.176 ページ画像

    ○(明治二年)七月二二日
久々御無音ニ打過候、いよいよ御さわりのふ御くらし可被成愛度そんし候、此許無事御心もし被成間敷候、帰国之儀追々延引、嘸嘸御待久しき事とさつし候、いつれ廿五日出立と相成可申、当月中にハ無相違帰着可相成候間、御安意可被成候、家事取締よき様頼入候、出入之勘定も御心留被成度候、坂本へ預ケ置候金子も御受取のよし、俸金も同人より受取候事と存候、茶を買入候に入用ニ候ハヽ須永へ御申付帳合為致置度候
先頃より度々申しんし候得共、御もとにハ遂に御文も無之候、些手習被成候様いたし度候、家事諸般御入念有之度うた稽古事出精為致度頼入候、国許より度々文通、宅も手計もかわりのふ御くらし之よしニ候、御あんし被成間敷候、成一郎事東京に参り居候由、いまたいつれに居候哉不相分候
手計兄様にも近々同行と相成可申候、須永家内ハ此度ハ不参よしニ候右用事のミ申上度あらあらかしく
    文月廿二日しるす          篤太夫
    おちよとの
  くれくれも家内御心附被成候よふ頼入候、無用之入費無之よふいたし度候、いつれ当月中には御目もし可相成楽居候
お千代との まへる 篤太夫
七月廿二日


青淵詩存 【余之客滞于東京事関外務之末…】(DK020007k-0023)
第2巻 p.176 ページ画像

青淵詩存
   余之客滞于東京事関外務之末時雲物変移雖漸属
   隆盛之運然宿弊猶未全除吏胥或弄法事多抑滞瑣
   瑣鶏肋之事延至于六旬之久雖勢宜然而其煩悶鬱
   結亦可想耳矣会杉浦翁有詩所贈句中頗齎警誡孤
   憤之意致意慇懃厚情可掬也因次韵却寄
 夙把浮華付幻塵。既灰心緒豈求伸。齎香休嫌牀頭画。山麝難薫物外身。客舎之壁常掲麝香之画原詩及之故云爾


〔参考〕竜門雑誌 第四四〇号 第九―一二頁〔大正一〇年五月〕 諸々の回顧(一)(青淵先生)(DK020007k-0024)
第2巻 p.176-178 ページ画像

竜門雑誌  第四四〇号 第九―一二頁〔大正一〇年五月〕
  諸々の回顧(一) (青淵先生)
○上略 前にも述べた通り仏蘭西で借りた家の始末はフロリヘラルドと云ふ総領事に託して来たから、その公の計算が出来ると、余つた金は政府に引渡さねばならぬ、足らねば受取らねばならない筈になつて居た。殊に家賃の如き五年の契約が二年だけ居り後の三年は居ないのであるから、その談判をも総領事に頼んで置いた。それ等の交渉した顛末を外務省へ云つて来た。其処で外務省から静岡藩へその旨通知があり、係であつた私が出かけたのであつた。それで公から云へば余つた金は政府へ取上げられるのであるが、留学が主であつたからと云ふ理由を
 - 第2巻 p.177 -ページ画像 
主張した為め、書類がどうのかうのと云つて、三月ばかり東京に居たが、その間他に用事がなかつたから、山陽遺稿を買つて来て読んだ、中に節女阿正の伝(前号特別欄参照)があつたのを見て感奮し、私は一文を草したのである。
 即ちその文章を作つた意味は、初め私は天下国家を治めようとし、後慶喜公に仕へた。従つてその間に君臣の関係が出来た。君臣の観念を重んずるのは日本の最もよい処である。私は、優れた才能を持つて居れば特別であるが、漢学を学んでも支那一国のことも全く知り得ず仏国へ行つたが留学も出来ず帰つたので、西洋の事もよく判らずにしまつた。で今までの処では方針が悪かつたから、将来身を立つべからずと覚悟した。またこれから日本をどうするかに就ては、幕府に縁故のある身柄なので、余り口や手を出すのも考へものである。実に僅か二年の間に「桑田変じて滄海となる」と云ふ変り方であるから、人を見ても物を見ても満目蕭然として儚ない感じが起つて来る。斯様な時も時、阿正の伝を読み、実に人情に厚い行為であるから、私は丁度宝台院様(慶喜公)にお目にかゝつた時のことを思ひ、あの方に義理をせねばならぬと考へて左の文章を書いたのである。そしてこの文章を子供の時からの師である尾高藍香に見せた処、感心して文章がよいと批評してくれた。又杉浦愛蔵と云ふ親友で、一しよに明神下に住つたことのある人の親で、前に甲府の徽典館の儒官であつた杉浦蘐水と云ふ人が文章の出来る方なので、之を見せて批評してもらつた。その二人の批評で拙い乍ら私の文章も、その意味を強めたやうな訳である。この二人の評は次の様なものであつた。
    読節女阿正伝
 明治己巳之季夏。余以公事来東京。寓本石第四街。時多雨連旬。頑雲聚散。殆無晴日。雖炎威未甚爀。其滞陰鬱蒸之気。又可厭也。会公務稍閑。就一書肆。購山陽遺稿読之。閲到節女阿正伝。翫読再四。悲愴憐惜不自禁。欽慕其持操全節。殺身成仁之行。不能輒措間。謄写一篇。以寄同志。将以使世之未知阿正之名者。相伝称而益明其名節矣。夫勁節高義。模範於後世者。果有窮厄多故。困於当時。故能以其不忍之情。大忍于死生之際。一死既能忍之。況何有於僅僅一朝之浮栄哉。饒使阿正嫁村長之男。錦繍肥甘。全其富貴。終偕老之楽。固義父母命之也。親戚勧之也。村長媒之也。而利害得失判然者也。未必為不義之女。而邑人之称以為其智識忍小節保栄耀。両施及於義父母也必矣。阿正豈不弁之乎。弁而不改其節。脱然自尽。能遂其志。是所以其名馥於遠邇。伝於今日也歟。嗚呼阿正僻邑之一少女耳。今也因其伝詳其事。如是其明矣。使読者想像当日苦節之景況。而膚毛悚焉。心肝慄焉。頼氏之筆亦偉也哉。抑澆季之世。滄桑之際。未可必無類于阿正之節之士。雖然非頼氏記之。何以伝其幽光於後世乎。嗟頼氏已逝矣。今之類于阿正之節之士。可尤悲矣哉。
  妻妾於良人。士臣於君主。流離覆敗之日。可見為其夫妻君臣也。平生言語礼譲。狎客倡妓。尚知不可欠焉。然則烈士節婦之所以烈士節婦。其唯困厄生死之際乎在歟。
    己巳六月廿四日雨窓下        藍香逸人題
 - 第2巻 p.178 -ページ画像 
  文章之不可已也逾久。而頼氏為此伝顕于世。今亦渋子感之。繇文以示諸友焉。人一閲之。則凛乎砭其肝胆。凡今之人。閲之而不愧者蓋鮮矣。人生豈無羞悪之心。而有感慨之情哉。然而今天下朝虎暮鼠之士。厚顔閲之。何能得与人藉口称之。乃是黜富貴利達者。陟忠孝節義人。而勧懲挙措。於此一女子之言行也。断然自明。足以徴栄辱於今日。垂名教於千載矣。此文章所以不可已也。烏虖今世之人。閲之而不異此一女子者。亦多乎。余亦感焉。以蕪辞誌。
   節義所存依那伸。惟知固執致其身。
   当年柔婉寄郎語。感動堂々天下人。
    己巳孟秋朔東京寓            蘐水老漁
要するに此文章は、私の一時の感情を吐露したに過ぎぬもので、世の中を諷刺しようとしたのではないが、人の情は斯うなくてはならぬ、阿正が身を殺して仁を為した、この心掛けが最も大切であると考へたのであつた。丁度此時は静岡藩の商法会所をやつて居たが、後大隈さん達にすゝめられて、兎に角大蔵省の役人になつた。勿論信頼せられて居たから、此方も忠実には働いたけれど、間もなく再び野に下ることになつた。それが元来私の素志なのであつて、私は謙遜でもなく怨みでもなく、官途を去つたことを少しも残念だとは思はない、そして明治初年頃の書き物を見て、今の変らぬ心を喜んで居る。
 然るに今日の世の中は今日政友会であつたものが、明日本党に走ると云ふやうな有様である。或は智識の進む関係から、時に已むを得ぬ場合もあるのか知らぬが、山陽も論じて居るやうに、一方に味方となり次で敵方となるやうな世の習であるから、質実剛健の重んずべき感をいよいよ深くして、阿正の伝に就ては世に知らせ度いものであると切に思ふのである。(四月二十八日談話)



〔参考〕明治新聞 第十七号・東京出版〔明治二己巳七月二十五日〕(DK020007k-0025)
第2巻 p.178 ページ画像

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冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。