デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.12.19

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第2巻 p.275-289(DK020014k) ページ画像

明治二年己巳十一月下旬(1869年)

民部省内ニ改正掛ヲ置ク。栄一ノ建議スル所ニシテ、栄一其掛長タリ。


■資料

雨夜譚 (渋沢栄一述)巻之五・第三―一一丁〔明治二〇年〕(DK020014k-0001)
第2巻 p.275-278 ページ画像

雨夜譚 (渋沢栄一述)巻之五・第三―一一丁〔明治二〇年〕
○上略 其後再び大隈を訪問して、過日の御説諭に付て自分も意を決して十分勤める覚悟はしましたが、元ト自分は僅かに一橋家に二三年仕官したまでゝ、其後は海外に遊んで二箇年ばかりの日子を経過し、何にも実験がない所で、今日突然と朝官に列したことであるから、今大蔵省の組織を見ても、其善悪も分りは致しません、併しながら現今目撃した有様では、過日御説を承つた諸般の改正は到底為し得られぬことであらうと考へます、何故と申せば、省中は只雑沓を極むるのみで長官も属吏も其日の用に逐はれて、何の考へをする間もなく、一日を送つて、夕方になれば、サア退庁といふ姿である、此の際大規模を立てて真正に事務の改進を謀るには、第一其組織を設くるのが必要で、是等の調査にも有為の人才を集めて其研究をせねばならぬから、今省中に一部の新局を設けて凡そ旧制を改革せんとする事、又は新たに施設せんとする方法・例規等は、都て此の局の調査を経て、其上時の宜しきに従つてこれを実施するといふ順序にせられたいことでありますと述べた処が、大隈も大に此の説に同意の様子で、実は拙者も毎日彼の通り雑務に騒動するのみでは、充分の改良が出来ないから、改正掛りを置きたいといふ考へを以て居たが、幸に足下の心付もあるから、速にこれを置くことに取計らふと明言しられましたが、直に太政官へ其届をして、其歳の十二月末に此の事の令達が出ました、
偖て其改正掛の役員は、多くは兼任の人々で租税司からは自分が命ぜられ、監督司からも両人、駅逓司から何人といふ姿で、夫々任命になり、自分が其掛長を命ぜられて、改正局の事務に取掛ることになりました、無程其年も暮れて、明治三年の春となつたが、此の改正掛の任務を完くしやうとするには、局中に有為の人才を要するとて、更に大
 - 第2巻 p.276 -ページ画像 
隈に申請して、静岡の藩士中から前島密・赤松則良・杉浦愛蔵・塩田三郎などといふ人々を前後引続いて改正掛へ登庸になりましたが、其他にも文筆を能するもの、技芸に長ずるもの、洋書の読める人なども夫々推撰して一局の人員が都合十二三人になつて、其内には各自に得意の説もあり、執務も自から捗取つて来て頗る愉快を覚へました、先づ第一に全国測量の事を企て、随て度量衡の改正案を作り、又租税の改正と駅伝法の改良とは、尤も緊急の問題であるから、勉めて其法案の調査に注意し、其他貨幣の制度、禄制の改革、又は鉄道布設案、諸官庁の建築等まで、其緩急に応じて討論審議を尽し、次第に方案を作つたことであるが、就中全国測量の事に至ては、着手の順序から経費支弁の方法までも、詳細に調査を了りました、都て此等の要務に就ては、何れも其施設案を具して、其筋へ建議、又は照会になりましたから、大蔵省の事務が俄かに多きを加ふる様になつて来た、其頃鉄道問題は尤も一時を動揺したが、其反対説といふのは、大隈・伊藤の両人が大蔵省に居て力を合せ、外国人に借金して強てこれを布設せんとするは、実に国家の大計を誤るものである、と異論百出して、在官の人人さへも之を非議する有様となつたから、改正掛に於ては力を極めてこれを弁駁して、精々布設を促したことであつた、其れから租税の事、これは是非とも改正を要するから、充分の調査をしろと大隈・伊藤も企望せられ、自分も租税正の職掌上頻りに考慮を尽してみたが、中々面倒なものであつて、誰も困る困るといふもの計りであつたが、詰り物品で収税するのを通貨で収むるやうにするといふ目的を立てゝ、其調査に着手しました、
又其頃難問題で、何れも苦心したのは、駅逓の法であつた、今日の若い人は知らぬ事だが、旧幕府の制度には、御伝馬・助郷といふものがあつて、これが為めに村々では甚だ難渋をしました、今其概略を申せば、譬へば一諸侯が国道を通行する時には、其通路の宿駅から相当の人馬を出して駅伝する仕組で中山道の深谷には其近傍の何箇村、又次の本庄にも同じく最寄の何箇村と定助郷の名あるもの、並に加助郷の名あるものから、各々相当の人馬を弁ずるのである、試みに其一例を申せば、玆に加賀宰相が中山道を経て江戸へ参勤するとき、深谷宿に於て人夫千人馬百疋を要するといへば、本助郷が十箇村で七百人と七十疋、加助郷が十箇村で三百人と三十疋を出すといふ割合で、其通行のある時に合羽籠を持つたり、宿駕籠を担つたり、(此の宿駕籠といふものは竹を曲げて板を張り、其上に布団を敷き両人して是を担ふので、極めて軽便で無造作な駕籠であります)又小荷駄馬を牽て荷物を運ぶものもあり、鎗や長柄を持つものもあり、具足櫃を背負ふものもあり、種々の労役に服して、通行の大小名を駅伝するので、勿論相当の賃銭を取つて、農間の働きにする方法だが、其初め江戸に幕府が開けた頃は、沿道の村々ヘ此の助郷を命ずるのは、却て一の救助法だといふ処から、其宿駅に縁故の多い村が本助郷、若しくは加助郷の名を受けて縁故の少ない村落は此の助郷に加入することが出来なかつた、偖て其賃銭は慶長小判で定つて居たけれども、其後元禄宝永の頃には、漸々と貨幣が粗悪になつて来たから、是ではならぬといふので、八代将軍が享保年中に始めてこれを改正したけれども、全く復古したといふでは
 - 第2巻 p.277 -ページ画像 
ない、然るに其後代になつてからも又再三改鋳して、或は真字小判とか、草字小判とか、又は保字判とか、二分判とか、安政文久の頃に至るまで度々改鋳があつて、其都度金質に幾分づつの粗悪を呈したに依て、随て物価も騰上して、詰り享保度に定めた御伝馬の賃銭は安きに過ぎて堪へられぬといふので、村々の苦情になつて居ました、固より其時分には、人力車もなく、馬車もなく、鉄道などは夢にもみたことのない頃であるから、大小名通行の際に其供人の足が痛めば、是非とも宿駕籠を出して駅伝をせねばならぬ定めだから、助郷村の難渋といふものは、実に五畿七道に通じて苦情のない所はなかつた訳で、時に取ての難題であるから、これも改良せねばならぬといふ評議で、即ち改正掛に於て其方案を立てた、其時に前島が駿河から出て居つて、幸に其事を担当して適当の方法が出来たから、前島は直に駅逓権正に転任して、これを実施することになりました、如此政治上の改正は何事も改正掛で取調べて其々意見を立、処分方案を作つて大蔵省から頻りに政府へ出すから、其頃大蔵の威権といふものは各省を傾ける程になつて、甚しきは大隈などは兎角各省を圧倒するなどゝいつて、嫌忌されるやうになりました、
又貨幣改鋳の事も、其前から一の要務問題となつて、既に大阪に造幣局を作り、又貨幣の本位を銀にて立てるといふ評議は定まつて居たが、此の事は本省の事務中に於て、尤も重要な事だから格別精密の研究をせねばならぬ、又公債といふものは欧米各国では専ら行はれて居るが、我邦では如何あらうか、紙幣は既にこれを発行して流通はして居るが、其引換の方法は如何すればよいか、諸官省各寮司の配置、並に其事務取扱の順序は如何すれば便利であるか、などゝいふ事柄をば、米国に人を派して研究させるやうにせられたいと伊藤少輔の考案が出て、それを改正掛で審議して文案を作り、それから政府へ建議になつた、処が明治三年の十月、其議が容れられて伊藤が亜米利加に行かれることになり、芳川顕正と福地源一郎とが其随行を命ぜられました、
それから此の一行が亜米利加へいつて、段々現行の法規条例等を調査して公債の方法は斯々で、其理由は云々、又紙幣の引換は全国に国立銀行を創立させて、これによつて金融の便利をつけ、併て紙幣兌換の事を取扱はせ、其銀行の条例は斯様に制定せられたい、又貨幣問題に付ては曾て横浜に支店のあつた東洋銀行の主任者英人ロベルトソンの建白によつて、東洋は銀貨国だから、銀を貨幣の本位にするが適当であるといふことに一定して居つたが、偖て亜米利加に来て見ると、亜米利加も金が本位に立つてあり、欧羅巴の国々も多くは金貨を本位としてあるから、本位貨幣は金に定めるのが文明国の通例だに依て、日本も金に改定しられたい、又政府の紙幣引換の方法に付ては米利堅で千八百六十年頃に多く紙幣を増発した為に、其価が下落して大に国家の困難となつたが、終にナシヨナルバンクを立てゝ漸く交換法を附けた時の歴史と手続とを調査して、詳細の事を申越され、又諸官省の職制章程などが充分に整頓して居らぬから、職掌の界限も明了でない、随て責任の帰着する所が定らぬに依て、米利堅の職制章程を調査した所が、此の通りであるといふこと迄、すべて大蔵省へ向けて具申になりまし
 - 第2巻 p.278 -ページ画像 
た、其文書の往復は何れも改正掛で取扱つたから、大隈へ書送つた事柄には自分の連署したものが多くあつたやうに記憶して居ます、
前にいふ各般の事務は改正掛に於て調査するものであるが、都て重要の事柄だに依て、即時に実施の運びに至らずして、明治四年の春夏となつて、伊達正二位が大蔵卿を辞職しられて、大隈も参議に転任になり、大久保利通君が大蔵卿の後を承け、其頃まで、大阪の造幣局に居た井上馨君が大蔵大輔に任ぜられて、東京へ来られたから、其前伊藤から来た書状は勿論、取調書類なども井上の一覧に供して、此まで調査した銀行の創立、諸官省の制度、公債証書の発行など何れも相談に及んだが、先づ速に貨幣の制度を定めて、其条例を発布するが尤も急務であるといふことで、其草案を改正掛で自分が担任して取調に従事して居ました、所が四年の五月頃になつて、伊藤が亜米利加から帰国せられて銀行条例制定の事、公債証書発行の事、及諸官省の官制々定の事は切に其実施を急がれましたから、井上も時機を見てこれを行はねばならぬといふ考へで、尚又其順序方法等の調査を改正掛へ督促される様になつて来ました、
  ○右ノ談話ハ明治四年七月廃藩置県前迄ニ栄一ガ大蔵省ニ在リテ改正掛ヲ中心トシテ関与シタル事業ヲ綜括的ニ述べタルモノナリ。右ノ談話ハ栄一ノ関与セル事業ヲ網羅セルモノニ非ズシテ重要ナル若干ヲ述べタルニ過ギズ。個々ノ事業ハ年月日ヲ逐ヒテ資料ヲ掲ゲタルヲ以テコヽニハ便宜ノタメ栄一ノ綜括的談話ヲソノマヽ掲グ。


竜門雑誌 第二五一号・第八―九頁〔明治四二年四月〕 【明治五年の財界】(DK020014k-0002)
第2巻 p.278-279 ページ画像

竜門雑誌 第二五一号・第八―九頁〔明治四二年四月〕
○中略 私が大蔵省に職を奉じたのは明治二年の冬であつた、当時大蔵省の中に租税司と云ふものがあつて、司の主脳が正と云ふものであつた、其の租税正を私が拝命した、詰り今の主税局長のやうなものであるけれども、当時大蔵省はまだ草創の際で、僅に幕府の土地だけが政府の支配すべき土地であつて、諸藩は別になつて居つたから、全国の租税を統一すると云ふ程ではなく、従つて百般の事が極く小さい、而して総ての土台が何も立たなかつた故に、大蔵省としても何と云ふ良い思案もなしに幕府の仕来りを其儘襲踏するやうな有様であつたから、明治三年の初めから大蔵省中に一の改正係と云ふものを置かれた、当時大蔵省の主脳者は大隈さんと伊藤さんで、大隈さんが大輔、伊藤さんが少輔、此の人達が大蔵省の事に種々注意せられて、進歩拡張に努られた、そこで唯旧幕府のやり来りを襲踏して居るばかりでは甚だ困るから、何とかもう少し新機軸を出さんならぬ、そこで何も斯も皆な事が新らしいから、一の新局を立てるが宜からうと云ふので、改正係を置いた、是れは何を改正すると云ふのではない、大蔵省の省務に付て調査をして、新趣向を組立てるとか、従来の此制度は面白くないから改革を必要とするとか云ふやうな、何れの局に属する事務でも其処で調査をして意見を立て、直接に局に当る人と協議して此案でおやりなさいと云ふ、先づ立案所見たいなものであつた、其の係りの総裁と云ふやうな位地に伊藤さんが立て、私は其時改正掛長と云ものを勤めた、或は租税の方法も改革しなくちやならぬ、土地の丈量と云ふことも定めなくちやならぬ、従つて尺度量衡を改正しなければならぬ、又貨幣
 - 第2巻 p.279 -ページ画像 
制度も改正しなければならぬ、さう云やうな事柄に付て新しく生ずることは、総て其係に於て吟味した、勿論単り私共ばかりではない、測量家も学者も事務者も外国の事情をよく知つて居る人も入つた、塩田三郎と云ふ人は外国の事情をよく知て居る、それから前島密・赤松則良・杉浦譲、赤松と前島は生きて居るが塩田と杉浦は亡くなつた、測量で有名な佐藤与之助と云ふ人も居つた、又古沢滋氏なども其の係りになつた、勿論それは一時ではない、前後して入つたので其人を悉くは記憶して居らぬが其中で最も長く関係したのは私であつた、○下略
  ○右ハ東京日々新聞ガソノ創立三十七年記念号ニ掲載シタル「明治五年の財界」ト題スル栄一ノ談話ノ一節ナリ。


世外侯事歴 維新財政談(沢田章編) 中・第一九五頁 〔大正一〇年九月〕(DK020014k-0003)
第2巻 p.279 ページ画像

世外侯事歴維新財政談(沢田章編)中 第一九五頁〔大正一〇年九月〕
渋沢男 何でも、私が二年に出た時に、伊藤さんは少輔でした。それで改正掛といふものを置けと云ふので、それは伊藤さんの希望のやうでした。それから伊藤さんが其主任で、私が書記官長の様な役でした。それは皆大蔵少輔とか、租税頭とか、少丞とかいふ本職を持つて居つて、さうして、総べての諸制度を改正して行かうと云ふので、改正掛を置いた。其改正掛員が皆兼勤で、さうして総裁の事を伊藤さんがお遣りで、掛長を私が勤めました。それが二年から三年に掛けての事でございます。○下略
   ○右ノ二ツノ談ハ前掲雨夜譚ト幾分相違スル所アレドモ、改正掛長ノ点ニ於テハ相同ジ。


伊藤博文秘録(伊藤博邦監修平塚篤編)第八頁〔昭和四年三月〕 二 政友会組織の下相談(DK020014k-0004)
第2巻 p.279 ページ画像

伊藤博文秘録(伊藤博邦監修平塚篤編)第八頁〔昭和四年三月〕
  二 政友会組織の下相談
○上略 古い事だから判然記憶して居らぬが、私が公○伊藤公の知遇を得たのは、随分年久しかつたもので、最初は明治二年の事であつた。当時静岡県から大蔵省に呼出されて、租税司と云ふ役に就いた。その時は伊達さんが大蔵卿、大隈さんが大蔵大輔で、伊藤公が少輔であつた。此の人達が幹部だつたが、伊達さんは元来がその身分柄から職に就かれた看板みたいなもので、実際の職務は、総て大隈伊藤の二人が、切つて廻して居られた。
    ×
何しろ血気旺んな人々が、色々研究したり、見聞したりした結果を、寄会つて互に論判するのだから、時には喧嘩と間違へられる程の討論もやつた。みんな気心を知り合つた人達ばかりだから、遠慮会釈のない書生交際で、思ひ切つた討論をしては初めて方針が定るのだから、実に愉快であつた。○下略
   ○本文ノ末尾ニ子爵渋沢栄一氏談トアリ。本書ノ編者ノ需ニ応ジテ述べタルモノナラン。而シテ主トシテ改正掛ニツキ述ベタルモノナルベシ。


青淵先生伝初稿 第七章一・第一〇―一七貢〔大正八―一二年〕(DK020014k-0005)
第2巻 p.279-281 ページ画像

青淵先生伝初稿 第七章一・第一〇―一七貢〔大正八―一二年〕
先生既に大隈の説諭に服して、就任の決心を定めたれば、爾来精励恪勤怠ることなし、職は僅に一局の長官たるに過ぎざれども、満腔の経綸を行ふの機会を得たるを喜び、著々として其実を挙げんとす、特に
 - 第2巻 p.280 -ページ画像 
維新草創の際、百般の制度文物いまだ完備せず、省中の事務も革新を要すべきもの挙げて数ふべからず、よりて先生は改革の目的を達せんが為に、特別なる調査機関を設置するの必要なるを思ひ、大隈に説きて、先づ有為の人才を局中に集め、旧制度の改革、新制度の施設等、凡て其調査研究を経て、方法例規をも立案し、更に省議に附し、時の宜しきに従ひて実行せんとす。大隈も亦かねて其必要を感じたるよしを語り、直ちに議を定めて民部省内に改正掛を設置せり。実に先生が任官の後僅に十数日なる明治二年十一月下旬の事なりき。
改正掛は諸般の施設に関する調査機関にして、一面は長官たる卿輔の諮問機関たり、其規程に曰く、
   民部省改正掛条規
  民政一切ノ事務、博論広議シテ其利病得失ヲ詳ニシ、民情時宜ヲ斟リ、其法制ヲ設ケ、其章程ヲ立テ、或ハ府県ノ条令ヲ定メ、或ハ各司ノ規則ヲ建ル如キ、実際ノ可否ヲ審ニシ、法案ヲ造リ省議ニ附シ、決ヲ卿輔ニ取ルヘキ事、
  省中各司ノ事務、及府藩県ヨリノ申牒、其事ノ新規ナルト其務ノ重大ナルハ、此掛ニ附シテ駁議セシムル事トス、而シテ其処分ノ法案ヲ造リ、或ハ其処事ノ規律ヲ設ル等ハ、其現場ノ利害実際ノ可否ヲ其司及府藩県ノ官員ニ審問シ、其事情ヲ悉ス事アルヘキ事、既往ノ幣害ヲ改メ、将来ノ規模ヲ定メ、或ハ新ニ開成ノ法ヲ立テ、濯新ノ功ヲ起ス事、皆此掛ノ専任タリ、故ニ省中各司此ノ件ニ《(マヽ)》アル事ヲ立テントスル、必ス此掛ニ諮問合議スヘキ事、
  凡ソ法則ヲ定メ、章程ヲ立ル、古今ヲ通鑑シ、万国ヲ通察セサレバ、其亨通無碍、能ク永遠ヲ保シテ群生ノ厚益トナル能ハス、故ニ種芸牧蓄及ヒ百科工芸ニ至テハ、其可トスル法ヲ外邦ニ取ル事アルヘシ、政体簡易ニシテ法令正粛ナルハ、固ヨリ我
  皇政ノ古体ニ基キ、人情世代ノ推移沿革ニヨリ、取捨切衷ノ権断アルベキ事、
   但シ法ヲ外邦ニ取ル事、中古式礼唐典ヲ用ヒ輓近刑法明律ニ拠ル如キ、未タ弊ナシト云ヘカラス、故ニ其取捨ノ権ヲ明ニシ、洋ニ漢ニ偏レル事ナク、古ニ泥ミ今ヲ非トスル陋見ナク、単ニ御誓文ノ深衷ヲ奉体スヘシ、
  凡ソ法案ヲ造ル、此ヲ省議ニ附シ、検印ノ上
  上裁ヲ待ツト雖モ、其間他官他省ヘ関係セルハ、其可否ヲ照会シ、其妥当切実ヲ要シテ、然後決定スベキ事、
  掛中ノ人員各其事ニ分担シ、其文案ヲ草シ、同掛ノ公議校正ヲ尽シ、然シテ後号数ヲ記シ、簿冊ニ録シ、回議ニ送達スヘキ事、掛中取調方ト写字方ト分チ、其事務ニ担当セシム、文案上達ニ至レハ、其草ヲ編綴シ、次序ヲ混乱セシムヘカラサル事、
  諸官員所見ヲ建白セル時ハ、卿輔丞一閲シテ此ヲ此掛ニ附シ、可否ヲ議セシメ、採用スヘキハ回議ニ附スヘキ事、
即ち民政一切の事務を審議して、其利弊得失を詳にし、法制を設け条例を定むる所なれども、当時大蔵省併置の際なれば、同省所轄の事務をもまた、此掛にて調査考究せるものゝ如し。而して其組織は合議体
 - 第2巻 p.281 -ページ画像 
にして別に長官を置かず、掛員は概ね各寮司より兼務せしめたりしが、先生は租税正として首席なるが故に、推されて其事務を綜理せり。先生はまた広く人才を局中に網羅するの必要より、大隈に申請して、旧静岡藩士前島密、赤松則良、杉浦譲、塩田三郎等を推挙し、前後皆改正掛に登庸し、総員十余名に及べりといふ。かくて其会合には伊達大隈伊藤等の卿輔も出席し尊卑の別を置かず、互に襟懐を開きて時事を討論したるが故に、局中常に和合し、人皆喜びて事に当れり。○下略


類纂大蔵省沿革略志 第五頁〔明治二二年六月〕(DK020014k-0006)
第2巻 p.281 ページ画像

類纂大蔵省沿革略志 第五頁〔明治二二年六月〕
十一月改正掛ヲ置ク
  ○大蔵省沿革志ニハ改正掛ノ事見エズ。


鴻爪痕 (前島弥発行) 第八七―八八頁〔大正九年四月〕(DK020014k-0007)
第2巻 p.281 ページ画像

鴻爪痕 (前島弥発行) 第八七―八八頁〔大正九年四月〕
 民部省出仕
明治二年十二月二十八日、召されて民部省に出頭すれば、同省九等出仕改正局勤務を命ぜらる。九等出仕は当時の官制にては奏任を下る二等の卑官たり。駿河藩上等官吏を召すに此下級の位置を以てす、何ぞ不満無きを得んや。然れども退いて考ふるに、官に就くは豈 に現職位地の高低のみを論ぜん、宜しく前途の方針如何を明察すべきなり。是れ余が宿昔の按なるが、その後地理頭杉浦譲氏を訪ひ、質すに此事を以てしたるに、氏は曰く、改正局は民部大蔵両省の間に設置せる一種特別の局にして、長官を置かず、大蔵大輔及民部少輔、大隈、伊藤の顧問局と見るべき所にして、行政上諸規則改正の按に就き其各員の意見を問ひ、或は立案せしむる官衙なり。故に局員に一定の常務無く、随時其能力を以て事に当るなりと。試に氏の官等を問へば、十等出仕と答へ、且つ其意を談じて曰く、大隈、伊藤は当世の俊傑なり。彼等に親炙し経世の新知識を得るは又是れ人生の大快事なり、仍て現下の地位如何を論ぜず、某氏に依て請願し、辛うじて玆に出仕するを得たりと。余は其説話を聞き、能く我意を得たるものかなと深く心に歎じたり。明治三年正月五日出局すれば、図らざりき、余は局員の上席にして、独り渋沢栄一氏のみ奏任官たる租税正にして、本局に兼任したり、而して大隈、伊藤両氏も出席し、民部大蔵卿伊達侯も亦臨席し、放胆壮語一も尊卑の差等を置かず、襟懐を開いて時事を討論せり。余は是に於て再び心に喜び、頗る愉快を感ぜり。
  ○コヽニ改正局トイフハ改正掛ヲ指スモノナルベシ。



〔参考〕竜門雑誌 第五九七号・第一四―一九頁〔昭和一三年六月〕 租税正及改正掛長としての青淵先生の事業の概観(土屋喬雄)(DK020014k-0008)
第2巻 p.281-285 ページ画像

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〔参考〕竜門雑誌 第五九四号・第一―五頁〔昭和一三年三月〕 青淵先生に対する最初の人物評(土屋喬雄)(DK020014k-0009)
第2巻 p.285-289 ページ画像

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