デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2025.3.16

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第2巻 p.275-289(DK020014k) ページ画像

明治二年己巳十一月下旬(1869年)

民部省内ニ改正掛ヲ置ク。栄一ノ建議スル所ニシテ、栄一其掛長タリ。


■資料

雨夜譚 (渋沢栄一述)巻之五・第三―一一丁〔明治二〇年〕(DK020014k-0001)
第2巻 p.275-278 ページ画像PDM 1.0 DEED

雨夜譚 (渋沢栄一述)巻之五・第三―一一丁〔明治二〇年〕
○上略 其後再び大隈を訪問して、過日の御説諭に付て自分も意を決して十分勤める覚悟はしましたが、元ト自分は僅かに一橋家に二三年仕官したまでゝ、其後は海外に遊んで二箇年ばかりの日子を経過し、何にも実験がない所で、今日突然と朝官に列したことであるから、今大蔵省の組織を見ても、其善悪も分りは致しません、併しながら現今目撃した有様では、過日御説を承つた諸般の改正は到底為し得られぬことであらうと考へます、何故と申せば、省中は只雑沓を極むるのみで長官も属吏も其日の用に逐はれて、何の考へをする間もなく、一日を送つて、夕方になれば、サア退庁といふ姿である、此の際大規模を立てて真正に事務の改進を謀るには、第一其組織を設くるのが必要で、是等の調査にも有為の人才を集めて其研究をせねばならぬから、今省中に一部の新局を設けて凡そ旧制を改革せんとする事、又は新たに施設せんとする方法・例規等は、都て此の局の調査を経て、其上時の宜しきに従つてこれを実施するといふ順序にせられたいことでありますと述べた処が、大隈も大に此の説に同意の様子で、実は拙者も毎日彼の通り雑務に騒動するのみでは、充分の改良が出来ないから、改正掛りを置きたいといふ考へを以て居たが、幸に足下の心付もあるから、速にこれを置くことに取計らふと明言しられましたが、直に太政官へ其届をして、其歳の十二月末に此の事の令達が出ました、
偖て其改正掛の役員は、多くは兼任の人々で租税司からは自分が命ぜられ、監督司からも両人、駅逓司から何人といふ姿で、夫々任命になり、自分が其掛長を命ぜられて、改正局の事務に取掛ることになりました、無程其年も暮れて、明治三年の春となつたが、此の改正掛の任務を完くしやうとするには、局中に有為の人才を要するとて、更に大
 - 第2巻 p.276 -ページ画像 
隈に申請して、静岡の藩士中から前島密・赤松則良・杉浦愛蔵・塩田三郎などといふ人々を前後引続いて改正掛へ登庸になりましたが、其他にも文筆を能するもの、技芸に長ずるもの、洋書の読める人なども夫々推撰して一局の人員が都合十二三人になつて、其内には各自に得意の説もあり、執務も自から捗取つて来て頗る愉快を覚へました、先づ第一に全国測量の事を企て、随て度量衡の改正案を作り、又租税の改正と駅伝法の改良とは、尤も緊急の問題であるから、勉めて其法案の調査に注意し、其他貨幣の制度、禄制の改革、又は鉄道布設案、諸官庁の建築等まで、其緩急に応じて討論審議を尽し、次第に方案を作つたことであるが、就中全国測量の事に至ては、着手の順序から経費支弁の方法までも、詳細に調査を了りました、都て此等の要務に就ては、何れも其施設案を具して、其筋へ建議、又は照会になりましたから、大蔵省の事務が俄かに多きを加ふる様になつて来た、其頃鉄道問題は尤も一時を動揺したが、其反対説といふのは、大隈・伊藤の両人が大蔵省に居て力を合せ、外国人に借金して強てこれを布設せんとするは、実に国家の大計を誤るものである、と異論百出して、在官の人人さへも之を非議する有様となつたから、改正掛に於ては力を極めてこれを弁駁して、精々布設を促したことであつた、其れから租税の事、これは是非とも改正を要するから、充分の調査をしろと大隈・伊藤も企望せられ、自分も租税正の職掌上頻りに考慮を尽してみたが、中々面倒なものであつて、誰も困る困るといふもの計りであつたが、詰り物品で収税するのを通貨で収むるやうにするといふ目的を立てゝ、其調査に着手しました、
又其頃難問題で、何れも苦心したのは、駅逓の法であつた、今日の若い人は知らぬ事だが、旧幕府の制度には、御伝馬・助郷といふものがあつて、これが為めに村々では甚だ難渋をしました、今其概略を申せば、譬へば一諸侯が国道を通行する時には、其通路の宿駅から相当の人馬を出して駅伝する仕組で中山道の深谷には其近傍の何箇村、又次の本庄にも同じく最寄の何箇村と定助郷の名あるもの、並に加助郷の名あるものから、各々相当の人馬を弁ずるのである、試みに其一例を申せば、玆に加賀宰相が中山道を経て江戸へ参勤するとき、深谷宿に於て人夫千人馬百疋を要するといへば、本助郷が十箇村で七百人と七十疋、加助郷が十箇村で三百人と三十疋を出すといふ割合で、其通行のある時に合羽籠を持つたり、宿駕籠を担つたり、(此の宿駕籠といふものは竹を曲げて板を張り、其上に布団を敷き両人して是を担ふので、極めて軽便で無造作な駕籠であります)又小荷駄馬を牽て荷物を運ぶものもあり、鎗や長柄を持つものもあり、具足櫃を背負ふものもあり、種々の労役に服して、通行の大小名を駅伝するので、勿論相当の賃銭を取つて、農間の働きにする方法だが、其初め江戸に幕府が開けた頃は、沿道の村々ヘ此の助郷を命ずるのは、却て一の救助法だといふ処から、其宿駅に縁故の多い村が本助郷、若しくは加助郷の名を受けて縁故の少ない村落は此の助郷に加入することが出来なかつた、偖て其賃銭は慶長小判で定つて居たけれども、其後元禄宝永の頃には、漸々と貨幣が粗悪になつて来たから、是ではならぬといふので、八代将軍が享保年中に始めてこれを改正したけれども、全く復古したといふでは
 - 第2巻 p.277 -ページ画像 
ない、然るに其後代になつてからも又再三改鋳して、或は真字小判とか、草字小判とか、又は保字判とか、二分判とか、安政文久の頃に至るまで度々改鋳があつて、其都度金質に幾分づつの粗悪を呈したに依て、随て物価も騰上して、詰り享保度に定めた御伝馬の賃銭は安きに過ぎて堪へられぬといふので、村々の苦情になつて居ました、固より其時分には、人力車もなく、馬車もなく、鉄道などは夢にもみたことのない頃であるから、大小名通行の際に其供人の足が痛めば、是非とも宿駕籠を出して駅伝をせねばならぬ定めだから、助郷村の難渋といふものは、実に五畿七道に通じて苦情のない所はなかつた訳で、時に取ての難題であるから、これも改良せねばならぬといふ評議で、即ち改正掛に於て其方案を立てた、其時に前島が駿河から出て居つて、幸に其事を担当して適当の方法が出来たから、前島は直に駅逓権正に転任して、これを実施することになりました、如此政治上の改正は何事も改正掛で取調べて其々意見を立、処分方案を作つて大蔵省から頻りに政府へ出すから、其頃大蔵の威権といふものは各省を傾ける程になつて、甚しきは大隈などは兎角各省を圧倒するなどゝいつて、嫌忌されるやうになりました、
又貨幣改鋳の事も、其前から一の要務問題となつて、既に大阪に造幣局を作り、又貨幣の本位を銀にて立てるといふ評議は定まつて居たが、此の事は本省の事務中に於て、尤も重要な事だから格別精密の研究をせねばならぬ、又公債といふものは欧米各国では専ら行はれて居るが、我邦では如何あらうか、紙幣は既にこれを発行して流通はして居るが、其引換の方法は如何すればよいか、諸官省各寮司の配置、並に其事務取扱の順序は如何すれば便利であるか、などゝいふ事柄をば、米国に人を派して研究させるやうにせられたいと伊藤少輔の考案が出て、それを改正掛で審議して文案を作り、それから政府へ建議になつた、処が明治三年の十月、其議が容れられて伊藤が亜米利加に行かれることになり、芳川顕正と福地源一郎とが其随行を命ぜられました、
それから此の一行が亜米利加へいつて、段々現行の法規条例等を調査して公債の方法は斯々で、其理由は云々、又紙幣の引換は全国に国立銀行を創立させて、これによつて金融の便利をつけ、併て紙幣兌換の事を取扱はせ、其銀行の条例は斯様に制定せられたい、又貨幣問題に付ては曾て横浜に支店のあつた東洋銀行の主任者英人ロベルトソンの建白によつて、東洋は銀貨国だから、銀を貨幣の本位にするが適当であるといふことに一定して居つたが、偖て亜米利加に来て見ると、亜米利加も金が本位に立つてあり、欧羅巴の国々も多くは金貨を本位としてあるから、本位貨幣は金に定めるのが文明国の通例だに依て、日本も金に改定しられたい、又政府の紙幣引換の方法に付ては米利堅で千八百六十年頃に多く紙幣を増発した為に、其価が下落して大に国家の困難となつたが、終にナシヨナルバンクを立てゝ漸く交換法を附けた時の歴史と手続とを調査して、詳細の事を申越され、又諸官省の職制章程などが充分に整頓して居らぬから、職掌の界限も明了でない、随て責任の帰着する所が定らぬに依て、米利堅の職制章程を調査した所が、此の通りであるといふこと迄、すべて大蔵省へ向けて具申になりまし
 - 第2巻 p.278 -ページ画像 
た、其文書の往復は何れも改正掛で取扱つたから、大隈へ書送つた事柄には自分の連署したものが多くあつたやうに記憶して居ます、
前にいふ各般の事務は改正掛に於て調査するものであるが、都て重要の事柄だに依て、即時に実施の運びに至らずして、明治四年の春夏となつて、伊達正二位が大蔵卿を辞職しられて、大隈も参議に転任になり、大久保利通君が大蔵卿の後を承け、其頃まで、大阪の造幣局に居た井上馨君が大蔵大輔に任ぜられて、東京へ来られたから、其前伊藤から来た書状は勿論、取調書類なども井上の一覧に供して、此まで調査した銀行の創立、諸官省の制度、公債証書の発行など何れも相談に及んだが、先づ速に貨幣の制度を定めて、其条例を発布するが尤も急務であるといふことで、其草案を改正掛で自分が担任して取調に従事して居ました、所が四年の五月頃になつて、伊藤が亜米利加から帰国せられて銀行条例制定の事、公債証書発行の事、及諸官省の官制々定の事は切に其実施を急がれましたから、井上も時機を見てこれを行はねばならぬといふ考へで、尚又其順序方法等の調査を改正掛へ督促される様になつて来ました、
  ○右ノ談話ハ明治四年七月廃藩置県前迄ニ栄一ガ大蔵省ニ在リテ改正掛ヲ中心トシテ関与シタル事業ヲ綜括的ニ述べタルモノナリ。右ノ談話ハ栄一ノ関与セル事業ヲ網羅セルモノニ非ズシテ重要ナル若干ヲ述べタルニ過ギズ。個々ノ事業ハ年月日ヲ逐ヒテ資料ヲ掲ゲタルヲ以テコヽニハ便宜ノタメ栄一ノ綜括的談話ヲソノマヽ掲グ。


竜門雑誌 第二五一号・第八―九頁〔明治四二年四月〕 【明治五年の財界】(DK020014k-0002)
第2巻 p.278-279 ページ画像PDM 1.0 DEED

竜門雑誌 第二五一号・第八―九頁〔明治四二年四月〕
○中略 私が大蔵省に職を奉じたのは明治二年の冬であつた、当時大蔵省の中に租税司と云ふものがあつて、司の主脳が正と云ふものであつた、其の租税正を私が拝命した、詰り今の主税局長のやうなものであるけれども、当時大蔵省はまだ草創の際で、僅に幕府の土地だけが政府の支配すべき土地であつて、諸藩は別になつて居つたから、全国の租税を統一すると云ふ程ではなく、従つて百般の事が極く小さい、而して総ての土台が何も立たなかつた故に、大蔵省としても何と云ふ良い思案もなしに幕府の仕来りを其儘襲踏するやうな有様であつたから、明治三年の初めから大蔵省中に一の改正係と云ふものを置かれた、当時大蔵省の主脳者は大隈さんと伊藤さんで、大隈さんが大輔、伊藤さんが少輔、此の人達が大蔵省の事に種々注意せられて、進歩拡張に努られた、そこで唯旧幕府のやり来りを襲踏して居るばかりでは甚だ困るから、何とかもう少し新機軸を出さんならぬ、そこで何も斯も皆な事が新らしいから、一の新局を立てるが宜からうと云ふので、改正係を置いた、是れは何を改正すると云ふのではない、大蔵省の省務に付て調査をして、新趣向を組立てるとか、従来の此制度は面白くないから改革を必要とするとか云ふやうな、何れの局に属する事務でも其処で調査をして意見を立て、直接に局に当る人と協議して此案でおやりなさいと云ふ、先づ立案所見たいなものであつた、其の係りの総裁と云ふやうな位地に伊藤さんが立て、私は其時改正掛長と云ものを勤めた、或は租税の方法も改革しなくちやならぬ、土地の丈量と云ふことも定めなくちやならぬ、従つて尺度量衡を改正しなければならぬ、又貨幣
 - 第2巻 p.279 -ページ画像 
制度も改正しなければならぬ、さう云やうな事柄に付て新しく生ずることは、総て其係に於て吟味した、勿論単り私共ばかりではない、測量家も学者も事務者も外国の事情をよく知つて居る人も入つた、塩田三郎と云ふ人は外国の事情をよく知て居る、それから前島密・赤松則良・杉浦譲、赤松と前島は生きて居るが塩田と杉浦は亡くなつた、測量で有名な佐藤与之助と云ふ人も居つた、又古沢滋氏なども其の係りになつた、勿論それは一時ではない、前後して入つたので其人を悉くは記憶して居らぬが其中で最も長く関係したのは私であつた、○下略
  ○右ハ東京日々新聞ガソノ創立三十七年記念号ニ掲載シタル「明治五年の財界」ト題スル栄一ノ談話ノ一節ナリ。


世外侯事歴 維新財政談(沢田章編) 中・第一九五頁 〔大正一〇年九月〕(DK020014k-0003)
第2巻 p.279 ページ画像PDM 1.0 DEED

世外侯事歴維新財政談(沢田章編)中 第一九五頁〔大正一〇年九月〕
渋沢男 何でも、私が二年に出た時に、伊藤さんは少輔でした。それで改正掛といふものを置けと云ふので、それは伊藤さんの希望のやうでした。それから伊藤さんが其主任で、私が書記官長の様な役でした。それは皆大蔵少輔とか、租税頭とか、少丞とかいふ本職を持つて居つて、さうして、総べての諸制度を改正して行かうと云ふので、改正掛を置いた。其改正掛員が皆兼勤で、さうして総裁の事を伊藤さんがお遣りで、掛長を私が勤めました。それが二年から三年に掛けての事でございます。○下略
   ○右ノ二ツノ談ハ前掲雨夜譚ト幾分相違スル所アレドモ、改正掛長ノ点ニ於テハ相同ジ。


伊藤博文秘録(伊藤博邦監修平塚篤編)第八頁〔昭和四年三月〕 二 政友会組織の下相談(DK020014k-0004)
第2巻 p.279 ページ画像PDM 1.0 DEED

伊藤博文秘録(伊藤博邦監修平塚篤編)第八頁〔昭和四年三月〕
  二 政友会組織の下相談
○上略 古い事だから判然記憶して居らぬが、私が公○伊藤公の知遇を得たのは、随分年久しかつたもので、最初は明治二年の事であつた。当時静岡県から大蔵省に呼出されて、租税司と云ふ役に就いた。その時は伊達さんが大蔵卿、大隈さんが大蔵大輔で、伊藤公が少輔であつた。此の人達が幹部だつたが、伊達さんは元来がその身分柄から職に就かれた看板みたいなもので、実際の職務は、総て大隈伊藤の二人が、切つて廻して居られた。
    ×
何しろ血気旺んな人々が、色々研究したり、見聞したりした結果を、寄会つて互に論判するのだから、時には喧嘩と間違へられる程の討論もやつた。みんな気心を知り合つた人達ばかりだから、遠慮会釈のない書生交際で、思ひ切つた討論をしては初めて方針が定るのだから、実に愉快であつた。○下略
   ○本文ノ末尾ニ子爵渋沢栄一氏談トアリ。本書ノ編者ノ需ニ応ジテ述べタルモノナラン。而シテ主トシテ改正掛ニツキ述ベタルモノナルベシ。


青淵先生伝初稿 第七章一・第一〇―一七頁 〔大正八―一二年〕(DK020014k-0005)
第2巻 p.279-281 ページ画像PDM 1.0 DEED

青淵先生伝初稿 第七章一・第一〇―一七頁〔大正八―一二年〕
先生既に大隈の説諭に服して、就任の決心を定めたれば、爾来精励恪勤怠ることなし、職は僅に一局の長官たるに過ぎざれども、満腔の経綸を行ふの機会を得たるを喜び、著々として其実を挙げんとす、特に
 - 第2巻 p.280 -ページ画像 
維新草創の際、百般の制度文物いまだ完備せず、省中の事務も革新を要すべきもの挙げて数ふべからず、よりて先生は改革の目的を達せんが為に、特別なる調査機関を設置するの必要なるを思ひ、大隈に説きて、先づ有為の人才を局中に集め、旧制度の改革、新制度の施設等、凡て其調査研究を経て、方法例規をも立案し、更に省議に附し、時の宜しきに従ひて実行せんとす。大隈も亦かねて其必要を感じたるよしを語り、直ちに議を定めて民部省内に改正掛を設置せり。実に先生が任官の後僅に十数日なる明治二年十一月下旬の事なりき。
改正掛は諸般の施設に関する調査機関にして、一面は長官たる卿輔の諮問機関たり、其規程に曰く、
   民部省改正掛条規
  民政一切ノ事務、博論広議シテ其利病得失ヲ詳ニシ、民情時宜ヲ斟リ、其法制ヲ設ケ、其章程ヲ立テ、或ハ府県ノ条令ヲ定メ、或ハ各司ノ規則ヲ建ル如キ、実際ノ可否ヲ審ニシ、法案ヲ造リ省議ニ附シ、決ヲ卿輔ニ取ルヘキ事、
  省中各司ノ事務、及府藩県ヨリノ申牒、其事ノ新規ナルト其務ノ重大ナルハ、此掛ニ附シテ駁議セシムル事トス、而シテ其処分ノ法案ヲ造リ、或ハ其処事ノ規律ヲ設ル等ハ、其現場ノ利害実際ノ可否ヲ其司及府藩県ノ官員ニ審問シ、其事情ヲ悉ス事アルヘキ事、既往ノ幣害ヲ改メ、将来ノ規模ヲ定メ、或ハ新ニ開成ノ法ヲ立テ、濯新ノ功ヲ起ス事、皆此掛ノ専任タリ、故ニ省中各司此ノ件ニ《(マヽ)》アル事ヲ立テントスル、必ス此掛ニ諮問合議スヘキ事、
  凡ソ法則ヲ定メ、章程ヲ立ル、古今ヲ通鑑シ、万国ヲ通察セサレバ、其亨通無碍、能ク永遠ヲ保シテ群生ノ厚益トナル能ハス、故ニ種芸牧蓄及ヒ百科工芸ニ至テハ、其可トスル法ヲ外邦ニ取ル事アルヘシ、政体簡易ニシテ法令正粛ナルハ、固ヨリ我
  皇政ノ古体ニ基キ、人情世代ノ推移沿革ニヨリ、取捨切衷ノ権断アルベキ事、
   但シ法ヲ外邦ニ取ル事、中古式礼唐典ヲ用ヒ輓近刑法明律ニ拠ル如キ、未タ弊ナシト云ヘカラス、故ニ其取捨ノ権ヲ明ニシ、洋ニ漢ニ偏レル事ナク、古ニ泥ミ今ヲ非トスル陋見ナク、単ニ御誓文ノ深衷ヲ奉体スヘシ、
  凡ソ法案ヲ造ル、此ヲ省議ニ附シ、検印ノ上
  上裁ヲ待ツト雖モ、其間他官他省ヘ関係セルハ、其可否ヲ照会シ、其妥当切実ヲ要シテ、然後決定スベキ事、
  掛中ノ人員各其事ニ分担シ、其文案ヲ草シ、同掛ノ公議校正ヲ尽シ、然シテ後号数ヲ記シ、簿冊ニ録シ、回議ニ送達スヘキ事、掛中取調方ト写字方ト分チ、其事務ニ担当セシム、文案上達ニ至レハ、其草ヲ編綴シ、次序ヲ混乱セシムヘカラサル事、
  諸官員所見ヲ建白セル時ハ、卿輔丞一閲シテ此ヲ此掛ニ附シ、可否ヲ議セシメ、採用スヘキハ回議ニ附スヘキ事、
即ち民政一切の事務を審議して、其利弊得失を詳にし、法制を設け条例を定むる所なれども、当時大蔵省併置の際なれば、同省所轄の事務をもまた、此掛にて調査考究せるものゝ如し。而して其組織は合議体
 - 第2巻 p.281 -ページ画像 
にして別に長官を置かず、掛員は概ね各寮司より兼務せしめたりしが、先生は租税正として首席なるが故に、推されて其事務を綜理せり。先生はまた広く人才を局中に網羅するの必要より、大隈に申請して、旧静岡藩士前島密、赤松則良、杉浦譲、塩田三郎等を推挙し、前後皆改正掛に登庸し、総員十余名に及べりといふ。かくて其会合には伊達大隈伊藤等の卿輔も出席し尊卑の別を置かず、互に襟懐を開きて時事を討論したるが故に、局中常に和合し、人皆喜びて事に当れり。○下略


類纂大蔵省沿革略志 第五頁〔明治二二年六月〕(DK020014k-0006)
第2巻 p.281 ページ画像PDM 1.0 DEED

類纂大蔵省沿革略志 第五頁〔明治二二年六月〕
十一月改正掛ヲ置ク
  ○大蔵省沿革志ニハ改正掛ノ事見エズ。


鴻爪痕 (前島弥発行) 第八七―八八頁〔大正九年四月〕(DK020014k-0007)
第2巻 p.281 ページ画像PDM 1.0 DEED

鴻爪痕 (前島弥発行) 第八七―八八頁〔大正九年四月〕
 民部省出仕
明治二年十二月二十八日、召されて民部省に出頭すれば、同省九等出仕改正局勤務を命ぜらる。九等出仕は当時の官制にては奏任を下る二等の卑官たり。駿河藩上等官吏を召すに此下級の位置を以てす、何ぞ不満無きを得んや。然れども退いて考ふるに、官に就くは豈 に現職位地の高低のみを論ぜん、宜しく前途の方針如何を明察すべきなり。是れ余が宿昔の按なるが、その後地理頭杉浦譲氏を訪ひ、質すに此事を以てしたるに、氏は曰く、改正局は民部大蔵両省の間に設置せる一種特別の局にして、長官を置かず、大蔵大輔及民部少輔、大隈、伊藤の顧問局と見るべき所にして、行政上諸規則改正の按に就き其各員の意見を問ひ、或は立案せしむる官衙なり。故に局員に一定の常務無く、随時其能力を以て事に当るなりと。試に氏の官等を問へば、十等出仕と答へ、且つ其意を談じて曰く、大隈、伊藤は当世の俊傑なり。彼等に親炙し経世の新知識を得るは又是れ人生の大快事なり、仍て現下の地位如何を論ぜず、某氏に依て請願し、辛うじて玆に出仕するを得たりと。余は其説話を聞き、能く我意を得たるものかなと深く心に歎じたり。明治三年正月五日出局すれば、図らざりき、余は局員の上席にして、独り渋沢栄一氏のみ奏任官たる租税正にして、本局に兼任したり、而して大隈、伊藤両氏も出席し、民部大蔵卿伊達侯も亦臨席し、放胆壮語一も尊卑の差等を置かず、襟懐を開いて時事を討論せり。余は是に於て再び心に喜び、頗る愉快を感ぜり。
  ○コヽニ改正局トイフハ改正掛ヲ指スモノナルベシ。



〔参考〕竜門雑誌 第五九七号・第一四―一九頁〔昭和一三年六月〕 租税正及改正掛長としての青淵先生の事業の概観(土屋喬雄)(DK020014k-0008)
第2巻 p.281-285 ページ画像CC BY 4.0

竜門雑誌 第五九七号・第一四―一九頁〔昭和一三年六月〕
 租税正及改正掛長としての青淵先生の事業の概観(土屋喬雄)
     (三)改正掛長としての事業
 前に述べたやうに、改正掛長としての事業については、先生は「雨夜譚」において比較的詳細に語つてをられる。こゝには「雨夜譚」を
 - 第2巻 p.282 -ページ画像 
引用しないが、それには改正掛を設けられるまでの経緯、同掛の役員を始め、同掛に於ける事業として、全国測量、度量衡の改正、租税の改正、駅伝法の改良、貨幣制度の改革、税制の改革、鉄道の布設、諸官庁の建築等について語られてゐる。しかし、比較的詳細に語られたこの談話さへも、実際よりは頗る控目に語られたものであることがわかる。
 さて改正掛を置いた時期については、「雨夜譚」では、明治二年の十二月末に設置の令達が出たことになつてゐるが、それは先生の言ひ誤りか、或は談話を筆記した人の書き誤りであらうかと思ふ。事実は十一月末に置かれたのであつて、先生が出勤されて数日後に設けられたのである。その「令達」は「法令全書」にも「法規分類大全」にも見えず、また「大蔵省沿革志」にも記されてないが、「大蔵省沿革略志」に『二年十一月』として『改正掛ヲ置ク』と記してある。「青淵先生伝初稿」にも『実に先生が任官の後僅に十数日なる明治三《(二)》年十一月下旬の事なりき。』と述べてゐる。同掛廃止の日時については、「雨夜譚」にも語られず、「大蔵省沿革志」にも記されず、「法令全書」にも布告等はない。「法規分類大全」第一編、官職門十、官制、大蔵省一、二十一頁の頭註に、『三年七月民部省ト分省ノ際改正掛ノ称見ヘス、此時廃セシ歟、然ラサレハ四年八月官制改正ニ依リ廃ス』とあつて、公文書には明確にされてゐない。しかし、震災前の大蔵省の記録を調査して編纂した「青淵先生伝初稿」には、『改正掛は、明治四年八月官制改革の際に廃止せられたり。』とあるから、四年八月までは存続したと見て差支へあるまい。
 なほ、青淵先生が何時まで改正掛長の地位に居られたかといふに、それについても先生は、「雨夜譚」には何等語つてをられない。「大蔵省沿革志」も何等記す所はない。ただ「初稿」には、大蔵省の文書を見た上で次の如く推定を下してゐる。曰く、『先生の主唱により設置せられしかの改正掛も、二省分離の際大蔵省の所属となりたれども、其以後における改正掛の議案文書を閲するに、従来は改正掛なる文字の下に必ず先生の捺印ありしに、此後は却て検閲に当れる卿輔丞連名の箇所に先生の名と捺印とあるをおもへば、蓋し先生は此時より改正掛を去れるものゝ如し。されど同掛には卿輔等も列席して討論評議せしことなれば、先生もまた少丞として之に臨みたるのみにて、改正掛の首脳にはあらざりしならん。』と。ここに云ふ所の二省分離とは、三年七月十日の民部、大蔵両省の分離を指すことは、云ふまでもないが、果して所述の如き理由で、この分省の後、先生が『改正掛を去れる』ものと断定し得るや否や、疑問である。先生は分省後一ケ月半ほどして、三年八月二十四日に租税正を以て大蔵少丞に任ぜられてをるので、『従来は改正掛なる文字の下に必ず先生の捺印ありしに、此後は却て検閲に当れる卿輔丞連名の箇所に先生の名と捺印とある』と云ふ場合の、「従来」と「此後」は、分省前後のことではなく、先生の少丞遷任前後のことであるかも知れないのである。即ち先生の署名と捺印とが卿輔丞連名の箇所になされるに至つたのは、先生が改正掛を去つたからではなくて、単に少丞に任ぜられるに至つたからであつたかも知
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れないのである。少丞に任ぜられても租税正は旧の如くであり、直ちに他の事務を分課せられたのではないから、かゝる疑問も起り得るのである。なほ又「初稿」の他の箇所の記述に、『其組織は会議体にして別に長官を置かず、掛員は概ね各寮司より兼務せしめたりしが、先生は租税正として首席なるが故に、推されて其事務を綜理せり。……其会合には伊達、大隈、伊藤等の卿輔も出席し尊卑の別を置かず、互に襟懐を開きて時事を討論したるが故に、局中常に和合し、人皆喜びて事に当れり。』とあるやうに、同掛は会議体の特別の掛りであり、特に先生が自ら建議して設立されたものであつた点を考へれば、少丞就任後、租税正はそのまゝであるのに、改正掛だけを去られたものとは俄かに断言しがたいのである。「初稿」の説に対する反証もないではない。先生は「雨夜譚」において諸官庁の建築の事をも調査したと言はれてゐるが、「大蔵省沿革志」を見るに、大蔵省は三年十二月十九日に改正掛の立案に基き太政官衙を建造し、各官省を其の衙内に併合す可きを、太政官に建議してゐる。それは、先生の談にいはゆる諸官庁の建築に当るものと思はれる。そして、これは勿論分省以後のことである。尤もこの場合調査は、分省以前であつたとも考へ得るわけであるが、さうであるならば、先生の捺印が改正掛の下になければならずしたがつて「初稿」にも取入れられてなければならぬ筈である。さればとて、「初稿」の理由を一概に否定することもできないが、又一概に之を肯定することもできないのである。それ故に、私としては「初稿」が前述の理由から、直ちに『故に爾後(分省以後)の改正掛の事業は此に掲載せず、たゞ先生に関係する事のみを、他の諸項と共に記述するに止めんとす』とて、三年七月以後の分を省かれたのは、遺憾に思はれるのである。そこで私は、以下には分省以後の改正掛の事業をも、先生の綜理の下にありしもの、少くとも先生も関与せられたものとして、列挙することゝする。因みに資料は「大蔵省沿革志」掲載の分が主であり、「初稿」所載の分を以て之を補ふことゝする。

明治三年三月一四日 大蔵省改正掛の立案に基き電信機、蒸気車を興造す可きを建議す。
       同日 大蔵省改正掛の立案に基き、度量衡の三器の濫偽を改正すべきを建議す。
    四月 九日 民部省改正掛の立案に基き褒賞例典を制定す可きを稟議す。
      一二日 大蔵・民部両省改正掛の立案に基き、各官省をして職員表を製り、太政官及び大蔵省に送致せしめ、且つ府県庁の分課の定制を画一に帰せしむ可きを稟議す。
    五月一八日 大蔵・民部両省改正掛に命じ、両省に関係する布告布達の文書を編輯せしむ、困て其の体例を議定す。
    是月    大蔵・民部両省改正掛の立案に基き、租税金穀の濫用を防制す可きを建議す。
 - 第2巻 p.284 -ページ画像 
    六月 四日 大蔵・民部両省改正掛の立案に基き、官吏選用転任の例規を設く可きを稟議す。
       五日 大蔵・民部両省改正掛の立案に基き、褒賞例典を草定して稟上す。
    七月 五日 民部省改正掛の立案に基き、膳所藩稟議せる地租課徴法を均一ならしむ可き太政官の垂問に対議す。
      一三日 民部省改正掛の立案に基き、蚕卵紙の濫製品を鑑す可きを地方の養蚕場に諭告す。
   一一月二五日 大蔵省度量衡改正掛の立案に基き、度量衡提警法を仮設して之を施行す可きを太政官に稟議す。
      二八日 民部省改正掛の立案に基き、府藩県交渉の訴訟裁判を同省の所轄より府県藩に移す可きを太政官に稟議す。
   一二月一九日 大蔵省改正掛の立案に基き、太政官衙を建造し、各官省を其の衙内に併合す可きを建議す。
   是月     大蔵省改正掛の立案に基き、画一の政体を立定して之を全国に施行す可きを建議す。
  是年      改正掛殖産興業を目的とする宝源局建立を計画し建議す。
  四年二月一九日 大蔵省改正掛の立案に基き、新潟県の稟議せる仲金と称する抽税の措置を県官に専任せんとする太政官の垂問に対議す。
    四月一二日 大蔵省度量衡改正掛の立案に基き、度量衡提理規則を立草す。
    四月 四日 是より先、改正掛戸籍編成の調査を為す、是日之を基礎として戸籍法公布せらる。
       九日 大蔵省改正掛の立案に基き、輸出入物品は官用に属するものと私用に属するものとを問はず、総て租税を課徴せんとする外務省の商議に牒答す。
    五月    大蔵省度量改正掛の立案に係る度量衡提理規則の条欵中、刑事に関する各項を刑部省に商議し、刑部省之に回答す。
    六月二九日 大蔵省改正掛の立案に基き、大学より頒暦規則及び税法を太政官に稟議せる垂問に対議す。
    八月二八日 是より先、改正掛穢多非人等の称を廃して平民籍に編入す可き事等の布告案を起草す。是日太政官布告として公布せらる。

 右の二十二件は、その範囲は相当広汎であつて、租税制度・度量衡制度の改革・殖産興業・官制・訴訟裁判・暦法・身分制度の改正等で
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ある。いづれも当時にあつて重要改正たるを失はない。その立案の概略は大体「大蔵省沿革志」等に掲載されてあるが、いづれも相当に長文のものであつて、それらには先生の意見が少なからず加味されてあるものと思はれる。
 ところで、こゝに一つ疑問がある。それは、こゝでは三年十一月二十五日、四年四月十二日、五月の日附の下に現はれて来る度量衡改正掛に対し、先生が如何なる関係があつたかの問題である。この掛が何時設けられたかについては、「大蔵省沿革志」にも「法規分類大全」にも見えず、明かでないが、「初稿」には『度量衡の改正は其統一と精確とを目的として調査を重ねたるが、後に至り別に度量衡改正掛といふを設置せられて其手に移れり」とあり、又「大蔵省沿革志」本省三年三月十四日の条に改正掛が度量衡の改正を立案してゐることが見えてゐるのであるから、その以後に設けられたことは明かである。そして「大蔵省沿革志」本省三年七月十日分省の条には、『本省更ニ造幣寮、出納司、用度司、営繕司、租税司、監督司及び度量衡改正掛ヲ統管ス』とあるから、三年七月十日には既にこの掛が存在したわけである。しかも、この掛の長に何人かを任じたことは全く見えず、三年十一月二十七日丞官分課を定めたるとき、青淵先生は少丞を以て、少丞安藤就高と共に租税、権大丞中村清行と共に通商、先生一人で度量衡の管掌を命ぜられてゐる。この事実と、前に改正掛において、先生が度量衡の改正につき立案された事実とを考へ合せるときは、度量衡改正掛にも先生が関与されたことが推定され得るのである。それ故に私は度量衡の改正の事については、青淵先生が終始関与されたものと信ずるのである。
    (四)結
 以上を以て青淵先生の租税正及び改正掛長としての事業を概観したが、二年足らずの間にこの二の地位において先生の綜理し、もしくは関与された事業は二百に近い多数に上り、しかも、いづれも改革もしくは革新の事業であり、中には極めて重要にして、後世に影響する所甚大なるものも少くないのである。かゝるものについては一々特記するまでもない。大部分がさうであつたと言つて差支はないのである。即ち、明治維新の曠古の大変革に於て、租税正及び改正掛長としての先生の綜理の下に行はれた諸事業も没すべからざる意義をもつのである。
 然るに、在官時代の事業はなほ広汎である。右の二つの地位のほか制度取調御用掛、大蔵少丞、同権大丞、同大丞、枢密権大史、紙幣頭大蔵省三等出仕(大蔵少輔事務取扱)、澳国博覧会御用掛として、先生はなほ多くの重要なる事業に関与されてゐる。これらの事業については、こゝには述べないが、全体として見るとき、わづか三年半ではあるが、先生が在官中になされた事業の、明治新日本を築き上げるに大なる貢献ありしことは、明治史上特筆すべきものがあるのである。(終り)



〔参考〕竜門雑誌 第五九四号・第一―五頁〔昭和一三年三月〕 青淵先生に対する最初の人物評(土屋喬雄)(DK020014k-0009)
第2巻 p.285-289 ページ画像CC BY 4.0

竜門雑誌 第五九四号・第一―五頁〔昭和一三年三月〕
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青淵先生に対する最初の人物評 (土屋喬雄)
    ―――明治二年玉乃世履の青淵先生評―――
    一
 目下私は青淵先生の大蔵省在官時代の資料を編纂中であるが、何分にも資料が多いので、依然として資料探索を続けてゐる。最近の数日は、渋沢子爵家所蔵の黒革鞄、支那鞄、柳行李入書類を一つ一つ調べてゐる。これらは大正十二年の震災当時飛鳥山邸に残されてあつたために、幸に焼失を免れたものである。大部分は幕末から明治前期にかけての青淵先生宛諸家の書状や公私記録である。そのうち伝記資料として役立つべきものも少くはないが、こゝには一々紹介することはできないから、一般的に興味多いと思はれる一つだけを御紹介しておき度い。
 一通づつ手紙を読んでゐるうちに、明治二年十一月廿二日附の玉乃世履から塩谷鼎助等四名宛の書翰を見出した。青淵先生宛ではないからまぎれて入つてゐるものだらうと思つたが読み終つて非常に貴重なものであることがわかつた。本文は玉乃が中央政府の事情を記したものに過ぎないから、青淵先生に直接関係あるものではないがその末尾に全く筆を改めて青淵先生に関する人物評を記してをり、それは「最初の人物評」であるのみならず、種々の意味で甚だ興味多いものである。尤も「最初」と断定するのは尚早であるかも知れないが、今までの所まとまつた人物評としては、最初のものと申してよいのである。次に此の人物評につき解説と紹介を試みよう。
       二
 先づ筆者の玉乃世履について紹介する必要があらう。尤も玉乃は明治史上相当に著名な人物であるから、大部分の読者には紹介は蛇足であるが、念の為一応述べておくのである。玉乃世履はもと旧岩国藩士で儒者であつたが、維新後明治二年に政府に召されて公議人となり、次いで貢士となり、会計官判事試補となつた。「大蔵省沿革志」によれば、玉乃が会計官判事試補に転じたのは、明治二年二月十九日で、同年五月九日民部官判事試補、同年八月十七日大蔵少丞、三年七月十三日民部少丞となつてゐる。それ故この手紙は彼の大蔵少丞時代に書かれたものである。青淵先生が租税正に任ぜられたのは、周知のやうに二年十一月四日であり、大蔵少丞となられたのは、三年九月二十四日であるから、この手紙の書かれた時は先生が租税正であり、それに任ぜられてから十九日目である。玉乃は官歴においても少しく先輩であるが、年齢でも文政八年生であるから、十五年先輩である。要するに先輩たる玉乃世履が後輩たる青淵先生に関する人物評である。因みに宛名の塩谷鼎助とは如何なる人物かといふに、玉乃と同様旧岩国藩の儒者で、藩侯の侍読となつたほどの人であるが、明治以後も中央政府には仕へてゐない。手紙の文言は前にも述べたやうに、中央政府について種々報知したものである。それ故この手紙は中央に召出された玉乃から、国許の同志達へ中央の情勢を報じたものであらうと思はれるが、その末尾に特に左の如く細字で青淵先生について記してゐるのである。(句読点は便宜の為附す)
 - 第2巻 p.287 -ページ画像 
 『此節静岡藩ヨリ渋沢生《二十七八歳》ヲ民部租税正ニ擢用セリ。此ハ一橋秘蔵ノ臣ニテ百姓ヨリ抜キ、民部公子ニ従ヒ仏ニ在リシモノニテ、最ノ人才ナリ。日々討論面白キ事也。民部局中ニテ開成局ヲ開キタリ。世履開成ノ字ヲ改正ニ改メタリ。深意也。呵々。渋沢ハ元ト漢学有志ノ党ニテ、勤王家ナリシガ、一変シテ今日ノ学ニ至ル。持論公平正大、旧幕ノ俗習ナシ。勝房州ノ流ナルヘシト察シタリ。渋沢ナドノ如キ有用ノ者ヲ撰挙シテ、民部ノ本ヲ立置キ、僕輩ノ取リ後レハ早々林下ニ帰スべシト注意セリ。只々今日ノ天ニ事ル緊要ハ上下トモ人ヲ有用ノ学ニ向ケ、開化文明ノ域ニ向ケテ、従前ノ陋習ヲ一洗スル事吾輩ノ職掌ナルヘシ、旧諭ヲ株守シテ変通セサルハ天理ニ戻ルノ極ナルヘシト日々自省スル事ニ御座候』
 この人物評につき、まづ注意すべきことは、青淵先生に対する人物評として非常に古いものだといふことである。先生が天下の偉人と一般に認められてから以後の人物評は、周知のやうに、無数にあつて枚挙に遑もないが、青年時代の先生に関する其時代の人のものは、今までの所他にはないのである。この意味でこの評語は、極めて貴重なものである。そして前述したやうに、今までのところ最初のまとまつた人物評と言つてよい。
 その内容においても頗る興味深い。『一橋秘蔵ノ臣』と評し、『最ノ人才ナリ』と推し、『持論公平正大』と賞めてゐるのは、我々から見れば当然のことではあるが、当時玉乃が先生に如何に敬服してゐたかが察せられるのである。しかも当時玉乃は四十五歳の壮年、先生は玉乃の眼には二十七八歳と見えた三十歳の青年である。十五歳以上も下の後輩をかくまで称揚し、特に先生のみを同志への手紙中に紹介したことは、当時先生が大蔵省の人才中でも如何に光つた存在であつたかを想察せしめるのである。『日々討諭面白キ事也』は、先生が当時から如何に優れた論客であつたかを想見せしめる。『持論公平正大、旧藩ノ俗習ナシ。勝房州ノ流ナルヘシ』は、先生の識見の高邁、人物の非凡を語つたものにほかならぬ。『渋沢ナドノ如キ有用ノ者ヲ撰挙シテ、民部ノ本ヲ立置キ、僕輩ノ取リ後レハ早々林下ニ帰スべシト注意セリ』は玉乃が十五歳下の先生の偉材に傾倒し、兜を脱いだ心境を披瀝したものであらう。
      三
 最後にこの評語中、説明を要すると思はれる箇所につき説明を試みよう。最初の一句『此節静岡藩ヨリ渋沢生ヲ民部租税正ニ擢用セリ』は、玉乃が抜擢もしくは推薦したやうにも聞える。しかし、これはさういふ意味で書いたものではあるまいと思ふ。先生を推薦したのは、大蔵卿の伊達正二位と郷純造であつたとは、先生の「雨夜譚」に語つてをられる所であるし、大隈侯もその談話中に次のごとくそれを裏書きしてゐる。『そもそも渋沢君を始めて世の中に引出した者は我輩であつた。それで我輩と渋沢君との関係は特別である。当時渋沢君は旧幕臣で、明治政府には出ないといつて居つた。我輩が大蔵省に入つて人材を求めて居ると、郷純造君が洋行帰りの渋沢君を推薦して来た。郷氏はなかなか人物を見る眼があつた。氏の薦めて来た人物は皆よか
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つた。……それで郷氏の推薦なら使つて見ようと言つて話して見ると渋沢君はなかなか頑固で容易に出仕を肯じない。』云々(「実業之日本」、第十二巻、第十四号所載、大隈伯談「渋沢男が初めて世に出でし当時の大元気」の一節)それ故、この一句は自分が擢用もしくは推薦したといふ意味ではないと思はれる。
 それどころか、玉乃は青淵先生が大蔵省に入つた初め、先生が旧幕臣たる故を以て反対した張本人であつたものの如くである。即ち大隈侯は前掲談話中において、次の如く当時の事情を語つてゐる。
 『○上略 処が又一方には、我輩が旧幕臣たる渋沢君を用ひたといふので、旧幕臣中にも新政府中にも反対があり、殊に大蔵省の官吏達は大不平であつた。彼等は殆んど同盟罷工といふ様な勢で我輩の処へ遣つて来て、あんな壮士見た様な幕臣を我々の上に抜擢するとは何事だといつて非常にやかましい談判であつた。其中で最も猛烈に反対したのは玉乃世履……であつた。渋沢君を玉乃の上へ抜擢したといつて非常に怒つた。……我輩は四方の反対を抑へて、マー見て居れといつて渋沢君に思ふ存分働かしたが、君の働き振りは実に精悍なものであつた。……渋沢君は八面鋒といふ勢で働かれた。財政の事、地方行政の事、殖産興業の事、有らゆる方面に活動された。考へもよく、計画も立ち、それに熱誠以て事に当られたから六ケ月も経つと、先に反対した者等は大いに驚いた。今度は不平党が謝罪に来た。最先に反対に来たのも玉乃であつたが、最先に謝罪に来たのも玉乃であつた。彼等曰く「渋沢君はとても我々の及ぶ所でない。誠に得難き人である。先に無礼な事を言つたのは、我々の思違ひであつて、実に相済まぬ」といつて、後には皆渋沢君と懇意な間柄となつた。』
 右の談話では、先生が出仕の初め玉乃が急先鋒となつて、幕臣に対する偏見と自分の上に置かれたことに対する不平から先生の抜擢に反対し、六ケ月もたつて勤務振りを見てから玉乃が先生に敬服し、最初に謝罪したといふのである。しかし、六ケ月もたつてから玉乃等が先生の人物才幹に敬服したといふのは、玉乃の手紙の評語と矛盾するのである。又自分の上に置かれたことに対する不平といふは、玉乃に関する限り当らない。恐らく、大隈侯の談話には幾分の記憶違ひがあつたのではあるまいか。即ち事実は、玉乃に関する限り、先生出仕の初め旧幕臣一般に対する偏見を以て先生の抜擢に不平を抱いたが、先生と談論するに及んで間もなく、その偉材にして『最ノ人才』たることを認め、旧幕臣でも『旧幕ノ俗習ナシ』と判り、『日々討論面白キ事』を感じ、果ては『僕輩ノ取リ後レハ早々林下ニ帰スべシ』とまで傾倒したものと思はれる。それ故私は、大隈侯の六ケ月説は誤りだと思ふ。もし六ケ月説が正しいとすれば、初め反対し、間もなく先生の人物に敬服し、又反対し、更に六ケ月後見直して謝罪したといふことになつて、辻褄が合はぬからである。
 『民部租税正ニ擢用セリ』の民部についても説明の要があらう。といふのは、青淵先生は「雨夜譚」其他で大蔵省租税正に任ぜられたと語つてをられるからである。しかし、この点は厳密に言へば、民部省租税正といふのが正しいと思ふ。「大蔵省沿革志」によるときは、租税
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司は明治二年八月十一日民部省の所属に転じ、同三年七月十日復た大蔵省に転属したのであるから、先生の仕官せる三ケ月ほど前から、その後八ケ月の間は民部省に属してゐたのである。尤も当時民、蔵両省は合併状態にあつたのであるから、先生のやうに大蔵省租税正と云つても、さまで差支へはないわけであるが、厳密には民部の方が正しいのである。
 「民部局中ニテ開成局ヲ開キタリ。世履開成ノ字ヲ改正ニ改メタリ。深意也」といふのも、如何にも玉乃が改正掛を開いたやうに聞えるがこれも勿論誤りである。改正掛が青淵先生の建議によるものであることは、周知のことである。「雨夜譚」によれば、先生は仕官後間もなく、大隈重信に対して『現今目撃した有様では、過日御説を承つた諸般の改正は、到底為し得られぬことであらうと考へます。何故と申せば、省中は只雑沓を極むるのみで、長官も属吏も其日の用に逐はれて何の考へをする間もなく、一日を送つて夕方になれば、サア退庁といふ姿である。此の際大規模を立てゝ真正に事務の改進を謀るには、第一其組織を設くるのが必要で、是等の調査にも有為の人才を集めて、其研究をせねばならぬから、今省中に一部の新局を設けて、凡そ旧制を改革せんとする事、又は新たに施設せんとする方法例規等は、都て此の局の調査を経て、其上時の宜しきに従つて、これを実施するといふ順序にせられたいことであります』と建言し。大隈之に同意して改正掛を置いたのであつた。之を設けるのに玉乃が与つてゐるか否かについては、断定する資料がないが、青淵先生以上に重要な役割をしてゐるとは、少くとも思はれないのである。「開成局」を「改正掛」と改めるのに玉乃が与つたことについては、他に何等の資料も見当らないが、これは恐らく事実であらう。さうだとすれば、玉乃は改正掛に対して直接でなくとも、間接には関係があつたものと察せられる。
      四
 以上で玉乃の青淵先生評の紹介とその一応の解説をしたが、玉乃の表現には幾分か自己を大きく見せようといふ嫌ひがないでもないけれども、他面において青淵先生を正しく評価した点もあつて、極めて興味深い評言であると思ふ。殊にそれが青淵先生の青年時代に関し、しかも、その時代の人に記されたものである点において、歴史的価値が多いのである。 (昭和十三、三、七)