デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第2巻 p.297-305(DK020024k) ページ画像

明治二年己巳十二月十八日(1869年)

是ヨリ先栄一居ヲ湯島天神中坂下ニ定メ、家族ヲ静岡ヨリ呼寄セタリシガ、是日家族着京ス。


■資料

家族引纏ニ付旅費下賜願(DK020024k-0001)
第2巻 p.297 ページ画像

家族引纏ニ付旅費下賜願         (渋沢子爵家所蔵)
    十一月十八日坂本少丞へ差出ス即日出納ヘ廻ス廿日旅費下賜候事
     家族引纏ニ付旅費下賜候儀奉願候書付
                      渋沢租税正
  私義此度被 召出租税正被 仰付候ニ付而は静岡表江差置候家眷共当府江呼寄度就而ハ御定則之旅費日数里程に応し下賜候様仕度此段奉願候
   十一月十八日            渋沢篤太郎


芝崎確次郎日記簿(DK020024k-0002)
第2巻 p.297-300 ページ画像

芝崎確次郎日記簿           (芝崎猪根吉氏所蔵)
     記用
  十月廿八日
  東京板見屋善助方より急書面到来致、主公江進達添書文左ニ
以添書得御意候、然は今廿八日従
御国許御書翰壱封到来仕、且又東京板見屋善助方よりも同断壱封到着仕候間、不取敢早便御達し申上候、落手御進達奉願上候、尤両様共奥様御覧済相成附而、国許より紺地壱花色弐外足袋形等迄送り届候間、早速可相仕立上候得は、其御地ニ而別段御求不相成様、私共より各々様迄御案内宜得御意旨奥様被仰付如此御座候 以上
   十月廿八日
                 静岡
                  大村昇一郎
                  柴崎角次郎
  東京
   武沢亀太郎様
   高木信太郎様
 乍未偏長之御道中無恙着御被為遊候哉、奥様小生等一同心配罷在候間、右主君へ宜被申上、早速御左右被仰聞度奉願上候 以上

  同日血洗島村行書面受取挨拶書奥様より被命則文左ニ
以一紙啓上仕候、寒弥増候得共、其御地御尊家御一同様愈御堅勝被為入候御義御書翰当廿八日着仕大慶ニ被思召候、且又紺地花色足袋形絹糸等御送り被下、御手数之段奥様難有被思召候、右御礼私共より宜得御意旨被仰付候、偖今般主君御事従
天朝御用御召ニ付、武沢亀太郎、高木信太郎両人御供連、昨廿六日御発足被遊候、拙愚弟両人御留守居罷在、不取敢以愚書御歓奉申上候、且奥様より御書翰可被仰出之処、旁御取込故従拙者共別段宜得貴意旨被仰付如此御座候
先は貴酬迄早々 以上
                 静岡
    十月廿八日         渋沢内
                     大村昇
 - 第2巻 p.298 -ページ画像 
 血洗島村
  渋沢一郎様
   各々壱封致飛脚へ相渡ス

十一月二日 晴
 ○上略
 上州新田郡成塚村須永君出書状到来致候事
十一月三日 曇り
 須永君御事御母堂御病気重病難手放、㝡早御日限切猶来ル十五日迄御日延願書差出呉候様御頼ニ付、大村氏野尻公へ両度参上相伺下書頂戴引取申候、今夜到来書状封印致会所江相頼封入届方頼上、且横浜ニ而尾高君出之書状到来留置候
四日 晴
 ○上略
      須永君日延願書
      案
     以書附奉願上候
                遠州横須賀勤番組頭支配三等勤番
                      須永乕三郎
右須永乕三郎義、母病気ニ付為看病日数三十日之間御暇相願、去月十六日当表出立、廿三日上州新田郡成塚村着仕、看病手当仕居候処、次第ニ重病相成何分手放し兼候間、何共奉恐入候得共、来ル十五日迄日延奉願度段急便を以申越候間、何卒出格之以
御仁恤、右願之通被仰付候様、此段奉願上候 以上
     十一月五日 渋沢篤太郎内
             大村昇印
調所
 御役人中様

八日霽
  今朝萩野氏伺来、東京書面出之趣被仰聞候ニ附、尾高君より兼而届居候書状弐封方致御会所相頼御使者角次郎相勤
    主公ヘ書面左ニ
一筆奉啓上候、向寒相募候得共、御着已後御前様倍々御機嫌能被為遊御座恐悦至極奉存候、爾来御奥様御娘子様何之御障も無御座被為入、此段被仰進度従私共宜得貴意旨被仰付如斯御座候、且今般尾高君横浜東京府両所出し御書翰到来仕候ニ附、御会所便宜ヲ以奉進達候間御落手奉願上候
偖御召御用之儀、何条之御事ニ御座候哉、心痛罷在、愚書ヲ以御伺奉申上候 恐惶謹言
   十一月八日発
十一日 快晴
 今日東京府主公出之御状会所方ヘ到来、即刻開封廻達相成申候○下略
十二日 晴五時より雲
 今日主公より之書状常平倉役所江到来ニ付、廻達ニ相成、御用召之儀
 - 第2巻 p.299 -ページ画像 
委細相分、高木氏よりも別封来ル、坂本杉浦両所届状大村嘉一郎両人御使者相勤○下略
十三日 雨降
 今日東京主公へ歓状並附添両人江書状差出ス、但し常平倉定便相頼
 ○下略
十七日 曇
 ○上略
  東京府主公より書文左ニ
 爾来其地無事と遥祝、当方も清寧是又休意可被成候、過日民部省御用被仰付候義は、既ニ承知可被致困《(因)》而近々家族引纏候筈ニ候得共、いまた役宅不見当候、尤昨日尾高東京迄罷出、夫々申談同人義一ト先田舎ヘ立戻り、廿日頃再ひ罷出、夫より迎として罷登り候積りニ候間、凡廿五六日より卅日頃迄に其地出立之積りニ御手配可被成候、夫迄にハ御役宅も相定可申候、右無事報告まて如此候也
    十一月十二日
 ○上略
 奥方御母君御一周記《(忌)》御相当ニ付、教学寺僧御頼御回向御営被遊、看経料として金百疋僧主ヘ被遣候
十九日 晴
 今日吉森屋より東京行荷物拵として人足壱人遣ス、但し縄俵持参□半日 ○下略
廿日 快晴
 ○上略 米搗荷作大半片附、吉森屋荷札八枚補理持参ス、同人より荷作人足壱人遣し呉候、但しこもむしろ一切持切
廿一日 晴
 ○上略 吉森屋より荷作人足壱人来ル、舟廻し荷物今早朝清水港ヘ出ス、牛方徳蔵
 ○下略
廿六日 薄曇
 今夕方坂本柳左様御老母、次ニ萩野様御老母御新造両人、御別れ御餞別として半切三〆持参伺来○下略
廿七日 朝曇り追々晴
 今日奥方家僕引連仙元山江御参詣、御戻り懸茶町北村彦二郎方ヘ御立寄、中食馳走ニ相成、夕方返館、案内人竹二郎○中略東京府主君より来状、高木武沢より添書来ル、平岡四郎様江之届状大村昇持参ス
(十二月)六日 晴
 ○上略 夕七ツ時東京主君より来状、但し勝間田息持参ス○下略
九日 晴
 ○上略 清蔵大村両人尾高君迎ニ出ル、正平伺来ル、渡辺内方来ル、尾高君御出無之両人帰宅ス
十日 晴
 今朝坂本柳左様伺来、竹二郎来、清蔵松岡村迄御迎兼罷越ス、夜四ツ時頃尾高君御着、供壱人並迎清蔵来泊ス
十二日 晴風吹
 - 第2巻 p.300 -ページ画像 
 今日常平倉下役並用達外夫々餞別配、御使大村拙相勤○下略
十三日晴
 今夕御用連中より餞別持参ス
十四日晴
 今朝清蔵籠屋弐人、長持二棹、本馬弐疋、宰領として拙出立、蒲原迄菊屋忠二郎方止宿
十五日 晴風吹
 今暁七ツ半時出立、三島宿相模屋止宿ス
十六日 晴大風
 右同断出立、小田原宿止宿
十七日 晴
 今暁七ツ半時出立戸塚止宿
十八日 晴
 今暁七ツ時出立
 暮六ツ御屋敷へ着
    (以下日記ナシ)


はゝその落葉 (穂積歌子著) 巻之一・第一五―一六丁〔明治三三年〕(DK020024k-0003)
第2巻 p.300 ページ画像

はゝその落葉 (穂積歌子著)巻之一・第一五―一六丁〔明治三三年〕
○上略 同じ年の冬の頃大人ハ公の事によりて東京に上り給ひしが。帰りまして程もなく朝廷よりの召により又上らせ給ひ。やがて大蔵省へ仕へさせ給ふべきに定りけれバ。やからも亦都にうつり住む事となり。十一月十四日静岡をかしまだちしたりけり。かへさの旅ハ駅路ごとに渋沢租税正がやからてふ先ぶれして過行く事なれバ。先にもまして勢あるさまなりき。折しも年の暮にて。めでたき春を近く迎ふべき事なれば。母君の御心いかにのどかにおはしましけん。わらはも故郷近き東京に行く事なれバ。やがて祖母君にもまミえ参らすべしなど聞きて。いといとうれしかりき。道すがらの名所をも心なくのミ見つゝ過ぎければ。今の世のさまにくらべて語らんよしもなし。只大なる川のほとりにいたるごとに。あかはだかなる男どもの。いくらともなく群れ居てのりさわぐさまいとをかしく。やがて乗物を輦台とか云ふ板ごしにかきのせ。人あまたして舁きて川を渡すなり。従者どもハさゝやかなる板ごしにのるもあり。又肩に乗りて渡るもありて。いと興ある事なりき。箱根の山路にかゝる日雨ふりぬ。わらはハ乗物にてゆらるゝが心地あしう得たへざりしかバ。故郷より従へたるせいと云ふ老女が背に負ハれて越えたりき。かのせいハ其時すでに五十を越えたる老女なりけれバ。今ハ八十ぢにあまりぬ。猶いとすくよかにて兜町なる邸につとめ居れり。母君をはかなミまゐらするにつけて。人のよはひの長きがうらやまるゝもいとわりなしや。かくて恙なく東京の湯島なる家につきしは。その月の十八日なりけり。こゝは今より思へばよしともいひがたき家なりしかど。庭も家もひろやかにて住よかりけれバ。始めて心落ち居にけりと。母君の仰せられき。
○文中「十一月十四日」及ビ「その月の十八日」トアルハ、「十二月十四日」及ビ「十二月の十八日」ノ誤リナルベシ。芝崎確次部日記簿ノ記載ハ十二月ナリ。
 - 第2巻 p.301 -ページ画像 

渋沢栄一翁 (白石喜太郎箸) 第二三八―二三九頁〔昭和八年一二月一八日〕(DK020024k-0004)
第2巻 p.301 ページ画像

渋沢栄一翁(白石喜太郎箸)第二三八―二三九頁〔昭和八年一二月一八日〕
○上略 子爵が太政官の召により静岡を後にしたのは明治二年十月二十六日であつた。そして翌十一月初旬租税正に任ずると云ふ宣旨を拝した。それから大隈との折衝となつた。其時は『職務としても経験がないので、誰が自分を推挙したかは知らぬが、余り方角違ひなので、早く御免願つて、静岡へ帰らうと決心したが、風邪の気味で四五日、石町の島屋といふ旅宿に平臥した』と子爵が話した様に、宿屋住ひであつた。ところが事態は意外な方に進展し、永住の所と期した静岡には再び帰らぬことになり、仮そめの旅と思つた東京に却つて落付くことになつた。斯くて東京に於ける子爵の家庭が始まる。其『家庭史』の第一頁に出る舞台は、『湯島邸』である。湯島と云へば天神・富くぢ・蔭間茶屋を聯想する。その湯島天神の石の鳥居をすぎて、約二十間にして急坂がある。之が中坂で、『湯島邸』は中坂の下であつた。正確のことは分らないが、敷地は大体四百坪ほどであつたらしい。建坪も相当のものであつたらう。それを地所付で三百五十円で子爵が買取つたことを思ふと、沁々時代の距りが感ぜられる。この家は『今より思へば、よしともいひがたき家なりしかど』と『はゝその落葉』に記された様に、粗末ではあつたが、新しく、庭も二三百坪位あつた。
『初めて心落ち居にけりと母君の仰せられき』と記されたのは尤であつた。『母君』――子爵の配千代の嫁したときは、既に子爵は国事を憂ひ、家に落付かぬときであつた。数年にして子爵は故郷を捨て、或は一橋に仕へ或は海外に赴いた。心落付く暇もなかつたのである、子爵が静岡に住居を構へるに及んで漸く『家庭』らしい形態を備へたが、『家』は教覚寺の客殿で、独立して居ないだけに窮屈であつた。東京に移つて、『よしとはいひがたき』も、何の気兼もなく、一家団欒の境地を得て始めて寛いだのは首肯されるのである。○下略


穂積歌子 (蘆谷蘆村著) 第五三―五五頁〔昭和九年一月三一日〕(DK020024k-0005)
第2巻 p.301-302 ページ画像

穂積歌子(蘆谷蘆村著)第五三―五五頁〔昭和九年一月三一日〕
 ○上略
 十二月十五日、千代子、歌子の母子は、しばしの住居ではあつたが、楽しい思出の多い静岡をあとにして、東京に上りました。宿場毎に、渋沢租税正の家族といふ前触れをしてゆくので、宿々での取扱ひは、行きにもまして鄭重を極めました。折しも年の暮で、近く春を迎へるのですが、この年月、お正月のいとなみも形ばかりで、さびしく暮らして来た千代子にとつては、夫の立身出世と共に久しぶりで一家団欒のお正月ができると思へば、どの様に心のどかな旅であつたことでせう。
 やがに赤裸な男の背におはれて富士川をわたり、箱根の険路も事なくすぎ、小田原、藤沢、神奈川などの宿をあとにして、一行は東京に入りました。東京の住居は、その前に父が、湯島天神中坂の下に、手頃な家を買求めておいたのです。湯島あたりは、其頃武家屋敷ばかりで、大きな長屋門が立ちつゞいてゐました故、歌子さんは、
 『もうじきお家ですよ。』
 - 第2巻 p.302 -ページ画像 
といはれると、傍にゐた黒崎といふ従者に
 『どんな御門、あのやうに大きな御門なの。』
とたづねるのでした。
 『さあ、ここがお家ですよ。』
といはれて、駕籠から下りて見ると、その門は、たいへん古びた、きたない門であつたので、がつかりしました。しかし、家はまだ、真新しい家で、さほど大きくはないが、気持のよい家でありました。ここはその前の年に火災で焼けたところで、家だけは新築したのですが、焼け残りの門だけは、そのままにしておいたので、さてこそ、家に似合はず、門が古びてきたなく見えたのでありました。


竜門雑誌 第六四四号・第七―九頁〔昭和一七年五月〕 【明治初期に於ける青淵先生の御住居に就て】(DK020024k-0006)
第2巻 p.302-304 ページ画像

竜門雑誌 第六四四号・第七―九頁〔昭和一七年五月〕
  二 本郷湯島天神下邸
 さて東京に於ける最初の御住所である、この湯島天神中坂下の邸宅に就ては、同じく芝崎氏の所蔵文書の内に、青淵先主自筆の明治四年十二月二十日附の小川町裏神保小路邸地所拝借願書の草稿があつて、その文中に「私義是迄湯島天神中坂下、士族後藤小一郎家作譲受、同人上地之内三百九十弐坪拝借、住居罷在候処」(全文後に出す)とあり、又この後藤小一郎氏宛で、地続きの同人所有庭園の一部を借りられた借地証文の草稿があつて、それには
    入置申一札之事
 湯島天神中坂下、拙者拝借地可相成場処へ接し候貴殿御地面之内庭園之分にて百九拾坪此度借地致、庭木、石灯籠、石類共御預り申候処実正也。地税之儀は壱ケ年金七両宛ニ相定、当午年分ハ此節一時ニ相渡、来未年より十二月半金、来七月半金ツヽ御渡可申候。尤双方都合ニより地所返却之節、税金月割を以て御勘定被成候事。為後日仍如件
  明治三年庚午二月
                  渋沢篤太郎
    後藤小一郎殿
  壱ケ年税金七両定
   百九拾坪
    此割壱坪ニ付
      永三拾六文八分四厘弐毛
      此銭三百五十四文
    内拾五坪引
  残而百七拾五坪
   此税永六貫四百四十七文三分五厘
とあつて、青淵先生は明治二年十二月に士族(旧旗本)後藤小一郎氏の上地の内三百九十二坪を借地し、其処に建つて居た同人の家作を買受けられたものであつた。尚翌三年の二月には、隣接してゐる後藤邸の内、庭園の内百九十坪を追加借地してゐられる。
 この旧所有者後藤小一郎氏が士族とあるところから思ひ付いて、文久元年出版の江戸切絵図のうち、本郷湯島の部を探して見ると、湯島
 - 第2巻 p.303 -ページ画像 
[img地図]本郷湯島附近
天神の正面鳥居から南へ少し行つて東へ降る坂を中坂と云ひ、その坂を降り切つた辺りの南側に、この後藤の名が見出された。(上図参照)此処を青淵先生が後藤氏から譲り受けられた、東京に於ける最初の邸と見て誤りはないと思ふ。この場所を現在の町に当てはめて見ると、区劃整理其他のため多少の変動はあつたとしても、本郷区湯島天神町一丁目八十三番地の附近で、星野といふパーマネント舗のある辺から中坂アパートの辺まで含まれて居たらうかと思はれる。
 青淵先生は此処に明治四年の十二月まで、丸二ケ年御住まひなされたが、此家を尾高惇忠氏に譲られて、次は、神田の裏神保小路へ移られた。この家作を尾高氏に譲られたことは、矢張り芝崎氏所蔵文書の内に、尾高惇忠氏名義で差出された地所拝借願書の草稿があつて、その文案は青淵先生がなされたと見へ、先生の自筆
 私義、湯島天神中坂下、渋沢大蔵大丞拝借地之内、明家作有之候ニ付相対を以譲受申候間、同人上地三百九拾弐坪其儘拝借仕度、依之別紙絵図面添此段奉願候也
              勧農権中属 尾高惇忠
とあるので知られる。尚ほこの文面には別紙絵図面相添へとあるが、残念なことに、この絵図面の写しは遺つて居ないので、この邸宅のプランに就ての詳細を知ることが出来ない。
   ○右ハ藤木喜久麿氏稿「明治初期に於ける青淵先生の御住居に就て」ノ一節ナリ。
   ○文中ノ「入置申一札之事」ハ芝崎猪根吉氏所蔵、辛未十二月廿日ノ文書モ
 - 第2巻 p.304 -ページ画像 
亦同様ナリ。



〔参考〕芝崎猪根吉所蔵文書 【私義…】(DK020024k-0007)
第2巻 p.304 ページ画像

芝崎猪根吉所蔵文書
私義是迄湯島天神中坂下士族後藤小一郎家作譲受、同人上地之内三百九十弐坪拝借住居罷在候処、此度右家作尾高勧農権中属へ相対を以譲渡し候間、右地所上地仕、小川町裏神保小路に於て高津土木中属明家作相対を以譲受候間、同人上知五百坪余拝借仕度、依之別紙絵図面相添、此段奉願候也
  辛未十二月廿日       大蔵大丞 渋沢栄一
私義湯島天神中坂下渋沢大蔵大丞拝借地之内明家作有之候ニ付、相対を以譲受申候間、同人上地三百九拾弐坪其儘拝借仕度、依之別紙絵図面添此段奉願候也
               勧農権中属 尾高惇忠
  ○コノ絵図面ナシ


〔参考〕竜門雑誌 第四九三号・第八七―八八頁〔昭和四年一〇月〕 明治廿年以前の竜門社と其人々(廿一)(十条住吉)(DK020024k-0008)
第2巻 p.304-305 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

〔参考〕はゝその落葉 (穂積歌子著) 巻之一・第一六―一七丁〔明治三三年〕(DK020024k-0009)
第2巻 p.305 ページ画像

はゝその落葉 (穂積歌子著)巻之一・第一六―一七丁〔明治三三年〕
祖父君始めて来たり給ひし時。大人を殿。母君を奥さまとよばせ給ひけれバ母君心うくおぼして。などて昔の如くにハよばせ給ハぬ。おほけなくて御いらへもなしかね侍るを。と聞え上させ給ひけるに。いなとよ我は昔栄治郎に只田舎の家をかたく守らしむべき教育を為しつるのミにて。今かゝる身と成りのぼりしは。またく其身の才覚にこそよれ。殊にさバかりの官賜ハりて。
大君に仕へ奉れる朝臣をいかでかろがろしく名をなどよぶべき。と仰せられて。御言葉づかひもいとうやうやしうなし給ひけり。されどこたびの御仕官は。大人の帰朝ましましける時より、いかでとおぼし給ひたる御望の如くなりつることなれば。こよなうよろこばせられ御けしき。なのめならずこそ見えさせ給ひしか。○下略



〔参考〕雨夜譚会談話筆記 下巻・第六八四―六八五頁〔昭和二年一一月―五年七月〕(DK020024k-0010)
第2巻 p.305 ページ画像

雨夜譚会談話筆記 下巻・第六八四―六八五頁〔昭和二年一一月―五年七月〕
○上略
敬三「東京におけるお住居の移つた順序を覚えて居られますか」
先生「一番が海保の塾で、これは下谷練塀小路に在つた。仏蘭西から帰つて、駿河に暫く居つた。○中略東京へ出て最初は湯島の天神下に一寸居つて、それから裏神保町へ行つた。今何処の辺か全く町の様子が変つて見当がつきかねるが、湯島の屋敷は、人が世話して呉れた。裏神保町の屋敷は私が自身で買つた。駿河の人で鈴木善助と云ふ人が荒物屋をやつて居つたが、此人が種々骨折つて呉れた。
其次が兜町で此処に一寸居つて、深川福住町へ行つた。そして又兜町へ来て、それから今の処になつた。」