デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2017.12.19

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第2巻 p.396-400(DK020081k) ページ画像

明治三年庚午五月(1870年)

駅逓権正前島密東海道試験郵便ノ計画ヲ改正掛ニ諮ル。栄一改正掛長トシテ其議ニ与ル。


■資料

鴻爪痕(前島弥発行)自叙伝・第九三―九八頁〔大正九年四月〕(DK020081k-0001)
第2巻 p.396-398 ページ画像

鴻爪痕(前島弥発行)自叙伝・第九三―九八頁〔大正九年四月〕
○上略
 - 第2巻 p.397 -ページ画像 
爾後未だ幾年ならずして明治維新の聖世となり、明臣朝に在り鴻献玆に挙り、不肖余の如きも、明治三年正月(任命は去年十二月末日)より、民部大蔵両省間に設置せる改正局に出仕し、大隈重信・伊藤博文等の諸公に親炙し、渋沢栄一氏等に班伍し、同年五月初旬、租税権正より駅逓権正に兼任せられたり。而かも駅逓司の正は空位なれば余は即ち其長官たり。是に於て思惟すらく、其官たると民たるとを問はず、其音信を迅速に且つ安全に通達せしむることの切要なるは、猶人体に於ける血液運行の敏活自在を必要とするが如し。苟も其運行にして遅滞壅塞せば何ぞ健剛活溌なるを得んや。今や恭くも人体の血脉に等しき通信線路の管轄は余が掌上に落ち来れり。豈徒に尋常依旧の駅逓事務に齷齪せんやと。是に於て地図を開きて、線路の聯絡置局の要地に朱点を記し、少くとも此線路を急に開通せられたしとの意を論述して一の建議書を認めたり。然るに再思熟考すれば、凡そ新創の事業は障魔多きものなり。故に其の必成を期せんとせば、単に理論に頼ることなく、将来の会計如何を確算し官民ともに利益を受け所謂国祉民福並び起る所以を論述して其議を建てざるべからず。今や新政日尚浅くして諸般の事業其緒に就かず。殊に古来の為政家は官事に尽瘁せしも民業の興廃に意を注がずして以て今日に及べり。故に余の議論の有理なるを知りたりとするも、古来の慣習は一朝にして改め難かるべし。且又官府は尊厳を衒へるを以て、賃銭を民庶より受領して其通信を掌るが如きは、甚だ卑陋の挙として懌ばざるやも知るべからず。加ふるに財政は未だ優ならざれば、多額(比較上)の起業費を支出するは容易ならざるべし。而して余は斯業に無経験なるに、同じく無経験なる属吏を使役して、一時に多数の線路を開かば、意外の失敗なきを保すべからず。仮令其失敗は少なりとも、為に前進の勢力を毀損せん、寧ろ小を以て実験を積み、漸次に大に及ぼすの安全なるに如かずと。即ち先づ東海道の一線を開き、東京及大阪より毎日一回信書を発送するの別案を立てたり。然るに此別案を以てするも、之を施行するには、創始のため一時多額(比較上)の支出を必要とす。郵便事業は全然余の立案に出づるものなれば、一点他の否議を受けずして、敏速に之を通過せしめんとするに際して、一時多額の起業費を要するが為に、他の反対を受けん事を恐れ、苦心惨憺を極めたり。
余が駅逓権正兼任の命を拝せるより第四日即ち明治三年五月十三日に至り、余は一通の廻議書を受けて之を検閲せしに、其書には東西両京の間に往復せる官文書等の運送費即ち飛脚屋に支払へる賃銭の事を記せり。此賃銭は余の予て知らんことを望める事項なるを以て特に注意して検閲し、併せて既往数月間の費用を調査せしに、月額平均凡そ一千五百両に上り、其重量は平均一日一貫目を上下することを発見せり。余は咄嗟の間に胸算せしに、余の別案を以てすれば、両京より連日官民共用便を発し、此便に依る物は、官私ともに一定の料金を収むるものとする時は、政府は特別の支出を要せずして之を弁ずべし。何となれば、月収一千五百両を超過すべきは疑を容れざれはなり。而して其収入の料金を別途会計となす時は、他線路の拡張費も之に依て弁ずるを得べしとの見込も立ちたり。是に於て余は此計算と其他の所見とを
 - 第2巻 p.398 -ページ画像 
具して改正局員に諮りしに、渋沢租税正は賞賛の声を発し、他も亦之を賛せしを以て大隈、伊藤両輔に建議せしに、同じく欣然として賛せられたり。
  東海道試験郵便
是に於て余は退食後数夜を徹して郵便創設に係る諸般の事項を自ら規画せり。何となれば、此創業は余の建議に出でたるものなれば、具体の案を草するは自己の責任なるのみならず。自己以外に具体案を作製し得るものなしと信じたればなり。具体案略々成れるを以て、先づ試に東海道に通信便を開かんことを民部省を経て太政官に稟議し、之に添ふるに布告文の案を以てせり。其の文左の如し(文中、飛脚便の名称等多少原文と異なる所あれども大体に違ふ所なし)
  太政官へ稟議書
 信書を快敏に往復せしむるは、百般の景況声息を通じ、百貨平準の路を疎し、実に治国の重件、交際の要事に候処、是迄此れを商家に委ね候より、未だ百里に満たざるの地も十数日の久しきを経ざれば、尋常之を達する能はず。或は速かに達するもの、一片の音信に多分の金を費し、僻陬辺境に至りては、殆んど音信の度を絶し然らざるも淹滞遷延、甚しきは之を失ひ、終に梗塞せしむるに至る。畢竟信書往来の道、自由簡便ならざるより諸般の弊害相生じ、治道不遍、交際不厚様成行候に付、追々官行郵便の方法相設け、国内普く信書の往復自由ならしめ候様致度、就ては今般之を試み候為め、先づ東海道筋西京迄三十六時間、大阪迄三十九時間の郵伝法を相開き、公事私用に不拘、低価を以て継ぎ送り、上下の便を起し度、且其手続極めて簡易ならしめん為め、書状賃銭切手発行致候間、別紙の件々御了解、至急御評決、夫々御布告有之度、依之御布告案並規則書共相添へ伺候也。
  明治三年 月 日                 民部省
   布告案
飛脚便を成るべき丈け簡便自在に致候儀、公事は勿論士、民私用向に至るまで、世の交際に於て切要の事に候処、是迄商家に相任せ置候より、書状の届け方、兎角に日限相後れ、其遅滞の甚しきは、僅々数十里の道法にて十日余も相掛り、或は終に達せざるの掛念も有之、殊に急便にては賃銭高直にて、貧家の者共其情を通じ兼ね、且四方の安否、品物の相場等も急速に不相分、遠国僻在の土地に在りては、音信全く通ぜざるより、道路取留めざる風説に惑ひ候者も不少哉に相聞え、不便に候。依之、追々諸街道へ遍く飛脚の御仕法被為立、遠近の人情を通じ、四方の模様も急速相分り、上下一般急便の書通自由に出来為致候御趣意にて、先づ試の為め、来る 年 月 日、京都迄三十六時間、大阪まで三十九時間限の飛脚便、毎日御差立、両地は勿論、東海道筋駅々四五里四方の村々も、右幸便を以て相達候様、御仕法相成候条、其意を得、書状差出人心得書の通可致事。
 年 月 日
余の稟議は採用せられて実施の運となりたれども、事は全く創始に属すれば、細大百事、皆余が指揮に待てるを以て其繁忙実に非常なりき。
○下略
 - 第2巻 p.399 -ページ画像 


〔参考〕竜門雑誌 第二八七号・第一六―一七頁〔明治四五年四月〕 逓信管理局員招待会に於て(青淵先生)(DK020081k-0002)
第2巻 p.399-400 ページ画像

竜門雑誌 第二八七号・第一六―一七頁〔明治四五年四月〕
 逓信管理局員招待会に於て(青淵先生)
   本篇は本誌前号雑報欄に記載したる逓信管理局員招待会に於ける青淵先生の演説速記なりとす。
○上略
此通信の事業に於きまして、吾々が今日の如く便宜を得るに至りましたに就ては何人か其の幸恵を蒙らぬ者がありませうか、蓋し人文の進歩は通信の便益に依るといふことは、喋々するまでもございませぬが、左様の仕合せを得まする其の源は如何であつたかと考へますると、実に僅かな水が段々に流を増して終に今日の大川巨海の如きものになつたと申しても宜からうと思ひます。私は明治二年に明治政府に職を奉じたものでございます。其の時には大蔵省と民部省とが合併して一つの省で事務を執つて居られました。駅逓局といふのが其時分にございました、併し其事務は今日の如き有様ではなかつたのでございます。此の駅逓の事務に於て大に改革せねばならぬと言ふたのは各駅の人夫の継立である。書信の郵送である、今から見ると其様なものが何で必要であるかと仰しやる人もありませうが、当時鉄道も無く車馬も無かつた、而して人の往来は皆馬の脊、人の肩に依つて居つたからして、幕府の政を執る頃ほひには人馬宿継ぎ方法といふものを定めて駅伝の道を尽して居つたのであります。蓋し其の時分に於てはそれが政治の最も要務として居つたやうに見えまする。併し其の人夫の賃銭が御定め賃銭と唱へて極割合が廉くあつた、其廉いといふのが昔から廉くはなかつたけれども貨幣の量目の軽減の工合からさういふことになつた。慶長小判の時に定めて割出した賃銭が同じ数に依つて維新の頃まで伝はつたから、其の初めは宿駅で在郷の人夫を使ふことは恩恵の如く思ふて百姓が農業の余暇に宿駅に出て働くのを一つの大なる稼業といふことにして居つた。然るに段々と貨幣の軽重に差を生じた所から其賃銭の割合が廉くなつた、同じ名称で実物が少なくなつて来たからそこで宿継ぎの有様が困難になり人夫が出なくなつた。ですから初めには宿継ぎの助郷と称へる村々が自ら権利として居つて人夫を出すのが、後には大層な義務となつて助郷免除といふことを囂々と訴へる様になつた。是は郵便即ち信書郵送といふものとは御話が違ひますが、駅伝の方法の元の起りは前に申した如くであります。又其頃の郵便の方法は御記憶遊ばす方もございませうが、先づ京阪の間は島屋に京屋と申して之が飛脚問屋であつたのであります。或は藩に於て加州などから運送役などゝいふて特に藩政に依つて定めて郵便を逓送せしめた方法もあつたやうでございます。古いことでございますから悉く記憶も致して居りませぬ。
其時分の事を皆知悉したとは申されませぬが、斯の如き駅伝郵便の有様では交通を満足せしむることが出来ないといふので、大蔵省に於て大に之れを改正するという議が起りましたのは多分明治二年から三年頃でありました。今も尚存在して御出での前島密君が私と同じく静岡から出身された人である。此御人が駅伝郵便のことを熟知されたとい
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ふことではありませぬが、併し其の当時に於て殊に其改革の必要を主唱されたのは即ち前島君でありました。時の大蔵省の幹部で大に力を致されたのは今も現存して居らるゝ大隈伯爵と覚えて居ります。後井上侯爵が大蔵大輔に任ぜられましたが、駅伝の事に就て初めに方法を講ぜられたのは大隈伯でございました。爰に始めて駅伝に就ての方法を講じ及び郵便に就て当時三度飛脚とか若くは島屋、京屋といふものならでは通信の出来得ぬと云ふ旧制を改めて、欧米式の芽生を始めたことを記憶致して居ります。其後の進歩の模様は私は明治六年に官を辞しました後の事でございますから、一歩々々進んで参る沿革を玆に順序立つて申上げますことは出来ませぬが、抑も郵便の初めといふものは今申上げましたやうに詰り政府の力で大に其法を講ぜねばならぬと当時大蔵省の一問題と相成つて居たに依つて、私は其の昔を追懐して、あの時左様に小さい仕事が今日の如き巨大なものになつたのは、世の富も大に増進したことゝ心を慰するに足ると申上げたいのであります。○下略