デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第2巻 p.407-409(DK020090k) ページ画像

明治三年庚午六月二十八日(1870年)

民部省廻漕会社ニ命ジ風帆船及ビ蒸気船ヲ以テ各地方ノ租米ヲ輸送セシム。栄一租税正トシテ之ニ与ル。


■資料

大蔵省沿革志 租税寮第三・第四五―四七丁(明治前期 財政経済史料集成 第二巻・第二七三頁 〔昭和七年六月〕)(DK020090k-0001)
第2巻 p.407-408 ページ画像

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青淵先生伝初稿 第七章四・第九頁〔大正八―一二年〕(DK020090k-0002)
第2巻 p.408 ページ画像

青淵先生伝初稿 第七章四・第九頁〔大正八―一二年〕
廻漕会社は明治二年十二月、政府が廻船問屋・飛脚問屋・運送問屋等を慫慂して設立せしむる所にして、初め廻漕会所と称し、東京霊岸島に設け、加納久三郎をして其事を取扱はしめ、三年正月より東京・大阪間の定期航路を開く、資本金は概ね為替会社より融通貸与せり、蓋し通商会社・為替会社と相依り相助けて、商工業を振作せんとするなり。


世外井上公伝 第二巻・第四四七―四五〇頁 〔昭和八年一二月二八日〕(DK020090k-0003)
第2巻 p.408-409 ページ画像

世外井上公伝 第二巻・第四四七―四五〇頁 〔昭和八年一二月二八日〕
  回漕会社
 明治維新の初め、我が海運は頗る幼稚の状態で、僅かに租米を回漕する所の旧式飛脚船が江戸、大阪間を往復するに過ぎす、蒸気船を使用して運輸に従事したものは外国人のみであつた。かくの如くであつては、我が国の海運業は遂に外国人の手に帰することは火を睹るより瞭かである。それで政府は貿易を隆盛にする為、大いに汽船を建造又は購入することを奨励した。而して二年十月大阪通商司では回漕会社を設け、英国から汽船一隻を購入して通商丸と名づけ、神戸、横浜間の航海を始めた。これと同時に政府は各藩の不用船を民間に払下げ、
 - 第2巻 p.409 -ページ画像 
海運を盛大ならしめるやうに諭した。尋で十二月に至り政府は従来東京霊岸島に在つた回漕会所に命じて、三年正月から東京、大阪間に蒸気飛脚船の往復を行はしめた。そして二月には回漕会社と称せしめ、廻船問屋三軒、定飛脚問屋四軒、その外木村万平等を回漕会社頭取に命じた。かくて同会社は陽春丸、長鯨丸の老朽汽船を購入して運輸の任に就いたのである。かやうに一方に於て著々回漕業の奨励発達を図るとともに、政府は船舶に関する種々な制度を立てて、大いに保護政策に努めた。先づ三年正月には回漕会社の名を以て、蒸気郵船規則を定め、同時に太政官にて商船規則を取極め、孰も通商司をして之を取扱はしめた。然るに回漕会社はその持船も少く、従つて一箇月三回の航海であつたから、その勢力は微々として振はず、世の期待に背くことが多かつた。こゝに於て通商司に於ても亦大いに覚る所があつて、郵船取扱の方針を改定すべく、三年十一月に大蔵卿に伺出で、終に回漕会社を民業に委することとし、十二月六日に会社の頭取であつた伊藤藤右衛門、本村万平、村井弥兵衛、島谷佐右衛門、吉村甚兵衛、西村仁三郎等を免じ、肝煎役の人々をも罷めた。
 政府は海運業を民間事業に移したので、為替会社に関係してゐた岩橋万造、山路勘助等は新たに回漕取扱所を設立し、諸藩から引上げた五汽船を以て四年正月から東京、大阪の間に定期航海を始め、更に石巻、函館等までも新航路を開いて一般の運輸を取扱ひ、事業稍々見るべきものがあつた。その後五年八月に回漕取扱所所長高崎長左衛門が大蔵省に出願し、大蔵大輔であつた公に対して、官の保護を得て大いに斯業に尽したいとの趣旨を願出でたので、公も海運業の発展を希望してゐたので之を許し、日本政府郵便蒸気船会社を起させた。即ち同社開業のため、公が八月二十七日附を以て正院に左の如く伺出でた。
  旧県々より引揚候船々之内、旧廻漕取扱所へ貸渡シ、従前同所に属する船々と組合セ、寰海各港え往復之一線可相開積を以、同所頭取共へ説諭および、別紙之通数部之規則書を以、更ニ日本政府郵便蒸気船会社開業之儀願出取調候処、猶不充分之廉々不尠候得共、別ニ不都合之儀も無之ニ付、申立之通致准允候。就而は左之通一般え御布告被下度、此段御届旁相伺申候也。大蔵省御書
然るに正院では、大蔵省が独断を以て会社名を允許したことに議論が生じ、これがため公及び渋沢少輔事務取扱も進退伺を出すまでに至つたが、九月二十五日附で正院及び史官に宛てて提出会社名に日本政府と冠せるを、日本国と改削せしめて事落着し、十一月三日を以て指令が出た。それで大蔵省では各藩から引揚げた汽船を貸下げ、これ等の修繕料の名義にて、六拾万両の補助をもした。併し大体に諸藩の汽船は老朽船であつたから、修繕しても余り役には立たなかつた。それはともあれ日本国郵便蒸気船会社は公等の保護を受けて、我が国海運業を開拓すべく大なる抱負を以て起つたことは、こゝに特筆しておく要があらう。この会社は五年から八年に亘つて、米国人経営の太平洋汽船会社と猛烈な競争を続け、終に惨敗の憂目を見、八年九月二十日に閉社の已むなきに至つたものである。大隈侯爵家文書、大蔵省文書、太政官日誌、太政類典、法規分類大全日本産業史、現代金権史、金融六十年史、世外侯事歴維新財政談。