デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第2巻 p.482-489(DK020132k) ページ画像

明治三年庚午閏十月三日(1870年)

是ヨリ先、大蔵少輔伊藤博文北米合衆国ノ理財ニ関スル方法ヲ参酌推究シテ確乎不抜ノ制ヲ本邦ニ移植スルノ資ニ供スルノ議ヲ太政官ニ稟伺シ、是日伊藤少輔北米合衆国ヘ出張ヲ命ゼラル。栄一改正掛長トシテ其建議ノ事ニ与ル。


■資料

伊藤博文伝 上巻・第五一六―五二〇頁〔昭和一五年一〇月〕(DK020132k-0001)
第2巻 p.482-484 ページ画像

伊藤博文伝 上巻・第五一六―五二〇頁〔昭和一五年一〇月〕
   第三章 米国派遣
 既にして従来建築中の造幣寮及びその所属工場も略々竣功し、曩に公がオリエンタル・バンク支配人を通じて傭聘契約を結びし英人トーマス・キンドル以下造幣技師は、明治三年五月相前後して来着、次いで政府が香港の英国造幣局より買入れし諸機械の据付をも了したれば、遠からず新貨幣鋳造の計画を実行し得べき運びとなつた。然るに当時旧幕府及び諸藩の発行に係る各種の通貨並に新政府が当面の財用
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に充つる為め発行せる多額の不換紙幣等雑然として流通し、その間に贋造も多く混入し、物価の高低常なく、日常の国民生活にも又海外貿易にも多大の障礙を醸しつゝありしかば、公はこれ等の弊害を一掃するには、硬貨の鋳造法、紙幣及び公債の発行計画、金融機関の設備等に於て万全を期せざるベからざるに因り、先づ新興国家にして財政、幣制の最も進歩せる米国に赴き、その実況を視察研究するを緊要とし、十月二十八日左の建白書を上つり、その趣旨を具申した。
 臣伏テ惟ルニ、方今国運隆泰、英敏特達ノ士彬々輩出シ、開化ノ進歩駸々乎トシテ前日ノ比ニ非ズ。然リ而シテ治国ノ要務亦随テ増益シ、忙官劇職或ハ寝食ノ暇ナキニ至ル、然ルニ是レ維新更始ノ際ニシテ、理固ヨリ然ルベキ所ナリ。臣因テ之ヲ惟思スルニ、凡ソ経世治民ノ務、其目枚挙スルニ遑アラズト雖モ、挙テ其要ヲ論ゼバ、理財会計ノ修整ヲ以テ庶政ノ根軸トス。夫レ理財会計ハ凡百事務ノ挙行ニ関渉ス、故ニ其方法施設ノ可否ニ従テ利害得喪全国ノ民庶ニ延及ス、其緊務タル固ヨリ言ヲ俟タズ。抑国家ノ興廃ハ万民ノ貧富ニ在リ。而シテ万民ノ貧富ハ実ニ財政ノ当否ニ依ル。是豈深ク関心セザル可ケンヤ。方今覇政専擅ノ余弊尚ホ未ダ全ク洗除セズ、就中金銀貨幣ノ位紊乱シ、物価ノ昂低頗ル紛雑ヲ窮メ、其禍害全国ニ波及シテ民庶生ヲ聊セザルニ至ル。加之、不換ノ紙幣八千有余万両天下ニ散在流布シテ、又更ニ贋模ノ弊害ヲ生ジ、拯救ノ方策殆ンド将サニ尽ントス。於是乎朝廷英邁神断ヲ以テ新貨幣鋳造ノ工ヲ興シ、又紙幣改正ノ議ヲ決セラレ、其貨位ヲ糺定シテ物価ノ平準ヲ得セシメ、其製造ヲ精微ニシテ贋模ノ奸偽ヲ遏上スルニ至ラントス。是乃チ即今ノ急務ニシテ、実ニ国家安危隆替ノ関スル所ナリ、臣無似ト雖モ職ニ此ニ従事ス、故ニ夙夜黽勉以テ其効ヲ奏シ、永ク万民ノ幸福ヲ保全シ、以テ聖徳ヲ不朽ニ伝ヘント欲ス。是レ臣ガ焦思苦心深ク今日ニ希望スル所ナリ。然リト雖モ、才拙ニシテ事大ナリ。且方法規画ノ如キ、独リ紙上ノ理論ヲ以テ臆断ス可ラズ。故ニ或ハ之ヲ書籍ニ考覈シテ其理ヲ推及シ、是ヲ実際ニ徴シテ其効験ヲ鑑ミ、然シテ後始メテ可否得喪ノ理判然タリト謂フベシ。臣頃日合衆国国債償却法及ビ紙幣条例等ノ書ヲ繙閲シテ、其方法簡便、事理適実、官民共ニ其権利ヲ保存シ、相行レテ相悖ラサルノ制ヲ察知ス。其維持約束実ニ明亮精確ニシテ、最モ準拠タルヲ得ルモノト云フベシ。然リト雖モ、一斑ノ管見ヲ以テ全体ヲ妄按ス可ラズ。故ニ之ヲ実境ニ験シテ其真理ヲ採択シ、今日ニ用フルコト有ラントス。冀クバ臣ニ数月ノ暇ヲ賜ハリ、合衆国ニ抵リ、凡ソ理財ニ関スル諸法則、国債紙幣及ビ為替、貿易、貨幣鋳造ノ諸件ニ至ルマデ、面視親聴シ、更ニ推考参酌シテ確然不抜ノ制ヲ設立セシメ、聊カ隆恩ノ万一ニ報ジテ、開明ノ裨補タルヲ得セシメンコトヲ。臣悃願ノ至リニ堪ヘズ。
                              誠恐頓首。
  庚午(明治三年)十月二十八日
                        大蔵少輔 伊藤博文
 この建白は、直ちに政府の採用する所となり、閏十月三日公は米国派遣を命ぜられた。
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 同月二十日に至り、公は王政復古以来の勤労に対する恩賞として位階二級を進め従四位に昇叙せられた。
 かくて、公は随員芳川賢吉(顕正)、福地源一郎、吉田二郎、木梨平之進並に東京、横浜、大阪の為替会社及び海漕会社代表社員若干名合計二十一名と共に、十一月二日横浜より米国汽船「アメリカ」号に乗込み米国に向つて出発した。右随員中、吉田は大蔵省出仕、福地は当時共慣義塾と称する仏語学校を経営しつつありしが、この時特に大蔵省御用掛となり、又芳川は鹿児島藩の英語教師たりしが、偶々上京中公の推薦にて大蔵省出仕に登用せられしものであつた。又木梨は、嚢に木戸が江戸有備館の舎長たりし時代に、公と共に書生たりし者にて、有為の人材なりしも、病弱の為め志を伸ぶる能はず、この時木戸と共に山口より上京、公の勤めに依り米国へ同行することゝなつたのである。
○下略


伊藤公正伝 伊藤公全集 第三巻・第五九頁〔昭和三年八月〕(DK020132k-0002)
第2巻 p.484 ページ画像

伊藤公正伝 伊藤公全集 第三巻・第五九頁〔昭和三年八月〕
    第十四節 米国出張
 明治三年七月、公は民部少輔を免ぜられ、同年閏十月三日大蔵少輔の本官を以て、貨幣制度、銀行制度、其他財政上の諸件調査の為め米国派遺を命ぜられ、二十日復古以来、勤労不少候に付き位階二等昇進被仰付、叙従四位との辞令を受けた。公は乃ち福地源一郎、芳川顕吉、吉田次郎等を書記官に擢用して渡米し、銀行、貨幣、有価証券等の諸制度を調査し、翌四年五月召電に接して帰朝した。○下略


明治財政史 第十三巻・第一七―一八頁〔明治三八年二月〕(DK020132k-0003)
第2巻 p.484 ページ画像

明治財政史 第十三巻・第一七―一八頁〔明治三八年二月〕
○上略 是ヨリ先キ明治三年当時ノ大蔵少輔伊藤博文ハ北米合衆国ノ理財ニ関スル方法ヲ参酌推究シテ確乎不抜ノ制ヲ本邦ニ移植スルノ資ニ供スルノ議ヲ太政官ニ稟伺シタリ其ノ意見書左ノ如シ
   ○意見書略ス
此ノ建議ハ速ニ政府ノ容ルヽ所トナリ伊藤少輔ハ即チ同年十月三十日ヲ以テ発航セリ


太政官日誌 明治三年 第四十七号 明治庚午 自閏十月二日至七日(DK020132k-0004)
第2巻 p.484 ページ画像

太政官日誌 明治三年 第四十七号 明治庚午 自閏十月二日至七日
○三日丙申
  明治三年庚午閏十月
   伊藤大蔵少輔米国へ差遣ノ事
  御沙汰書写
              伊藤大蔵少輔
 御用有之米利堅国へ被差遣候事


世外侯事歴 維新財政談 中・第一九五―二〇一頁 〔大正一〇年九月〕 一九 伊藤博文の米国行 男爵 渋沢栄一 侯爵 井上馨 伯爵 芳川顕正 談話(DK020132k-0005)
第2巻 p.484-487 ページ画像

世外侯事歴 維新財政談 中・第一九五―二〇一頁〔大正一〇年九月〕
   一九 伊藤博文の米国行
              男爵 渋沢栄一 侯爵 井上馨 伯爵 芳川顕正 談話
渋沢男 何でも、私が二年に出た時に、伊藤さんは少輔でした。それ
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で改正掛といふのを置けと云ふので、それは伊藤さんの希望のやうでした。それから伊藤さんが其主任で、私が書記官長の様な役でした。それは皆大蔵少輔とか、租税頭とか、少丞とかいふ本職を持つて居つて、さうして総べての諸制度を改正して行かうと云ふので、改正掛を置いた。其改正掛員が皆兼勤で、さうして総裁の事を伊藤さんがお遣りで、掛長を私が勤めました。それが二年から三年に掛けての事でございます。三年の冬に「俺はもう一遍調べて来ねばいかぬから行くぞ」と云ふので、亜米利加行を企てられた。其亜米利加行を企てられた時に、政府に書面を出せと云ふので、私共が其草稿を書いたのを覚えて居ります。それは大蔵卿から出すのであるから、大蔵卿より伊藤博文をして、調べさせたいから出すといふ主意にして、海外派出の事を、太政官に許可を請ふ書面でして、私が書いたのを覚えて居ります。
井上俟 それが三年かネ。
渋沢男 三年の十月です。それで誰か良い人間が無いかと云ふので、それから福地をお連れなさいと云ふ、伊藤さんは芳川を連れて行かうと云ふので、福地と芳川を連れられた、それは芳川さんも能く覚えて居る。其後伊藤さんがお帰りになる時に、芳川さんは欧羅巴の方を廻つた。フランクフルトに上野(景範)と吉田(清成)を遣つて製造さした。太政官札がボヤけて、段々贋札が出来ると云ふので、それを引換る為に、独逸で紙幣を造つた。
芳川伯 初からお話すると、明治元年頃は薩摩に浪人して居て、明治二年の冬、淡路の騒動で帰つて、来て今度は徳島の藩士になつて……それ迄は浪人だつた。召抱へられて、今度は徳島藩士で、鹿児島へ聘せられて、七月に行つて、九月に徳島から迎に来て、帰つて来いと云ふ、帰りに廻道して東京に来た。さうしたら、伊藤公に四年目で再会した。「宜い所に来た、おれは亜米利加に行くから一緒に行け」と云ふ。「徳島に帰らなければならぬ、呼びに来て居る」。「ナニ朝廷から呼びにやれば差支ない」と云つて、伊藤公が徳島藩に辞令を送つて、そこで始めて朝廷の人間になつた。(明治四十三年三月十六日)
芳川伯 明治三年の冬、伊藤に附いて亜米利加に行つたのだ。伊藤公がスペシヤル・コンデイシヨナルと云ふ名前で、福地源一郎、吉田二郎、それと私と三人が、伊藤のアデイシヨナルといふもので、明治三年十二月に発航した。さうして亜米利加に行つた所の目的たるや亜米利加のグリーン・バツクの制度。紙幣条例を発行して、国立銀行を立てゝ紙幣の始末をした………それは伊藤が渡海前に当つて、福地がナシヨナル・カレンシー・アクトと云ふ者を翻訳した、それに依て井上さん始め略ぼ銀行の事が分つて、何さま是は実地に就て研究しなければならぬといふ訳。所がまづ国立銀行を立てるの順序並に公債を発行するには、如何にして発行するか、如何なる形にして、如何に利益を高くするか、そんな事もよく分らぬ、故にそれを研究する為に、伊藤は派出された。それで丁度亜米利加に着いたのが、四年一月、太平海で正月、当時亜米利加の大蔵卿がフイツシユといふ人、次席がセビルといふ人、日本から来たと云ふので、大変
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な待遇で、セクレタリ・セビルと云ふ人を附けてくれた。それで伊藤が毎日吾々三人を連れて大蔵省に行つて研究した。福地は銀行をやる、吉田はスペシー・バンクをやる(吉田二郎と云つて後に総領事になつた人)。吾輩が公債を発行する制度を調べて来る。それで大蔵省に毎日出て行つて、いろいろ書物を貰つて、皆翻訳して、一方に於てはナシヨナル・カレンシー・アクトを見て翻訳と原書を対照して質問をし、書物を段々稽古した。其時分に当つて丁度亜米利加の論を聴いて、始めて伊藤が感服して、金貨本位の論を研究した。是は沢山あつて、吾々も筆を執り、福地が筆を執りして、始めて講釈を聴いて、どうしても金貨本位にしなければならぬと云ふ事を、伊藤が度々建議をした、それが日本で行はれたのである。それで一方では、カレンシー・アクトに就いてやり、又一方では実際の取扱方、是は毎日やるのだから、其手順はさう困難なく分つた。それで吾々は明治四年の四月頃まで、亜米利加に居つて、四人頭を揃へて、毎日大蔵省へ行つて研究して居つた。さうする中に、私は欧羅巴に行かなければならぬ事になつた。其時分に上野景範が大蔵大丞、前島密といふ人が大蔵少丞になつて、これが倫敦に派出されて居つた。
井上侯 前島密が大蔵少丞ぢやつたか。
芳川伯 少丞、上野が大丞、さうして是がオリエンタル・バンクへミツシヨンを持つて行つた。鉄道公債を百万磅オリエンタル・バンクから借りてあるから、其始末、並に日本で初めて発行した青い札、それをフランクホルトのドンドルフに注文して製造中、其紙幣製造旁々に上野と前島が派出された。
井上侯 鉄道の公債をオリエンタル・バンクや何かにしたのは………
芳川伯 それは四年ぢやない、もう少し前、四年に私が行つたのだから………其時鉄道公債は発行して居た。其始末と、紙幣製造の監督に、上野と前島が行つて居つた。それに行つて来いと云ふので、中途で伊藤の命を承けて、私は欧羅巴へ渡海した。それから倫敦へ着くと、上野前島はフランクホルトに居る、それから態々頼つてフランクホルトに行つたらば、丁度ドンドルフの会社で、あの青い紙幣を製造して居る最中であつた。それの用事は関係はないが、手続はさうだつた。それから帰朝をすると云ふ事で、六月に倫敦を立つて、再び亜米利加へ戻つて来た。さうすると伊藤は六月に此方へ帰つた後で、留守に帰つて来た。それから丁度上野と、前島と吾輩と三人連で帰つて来たのが、七月二十四五日頃。
井上侯 倫敦から前島も誰も、三人亜米利加へ一緒に帰つたのだネ。
芳川伯 いよいよ帰つて来ると、十日程前に廃藩置県になつて、民部省が廃されて、紙幣寮が出来て居るとか、国債寮が出来て居るとか、官制のやかましい最中、井上さんが大蔵大輔で、全権を占めてやつて居ると云ふ場合、自分の長官の伊藤は造幣頭に命ぜられて留守であつた。所が紙幣寮が出来て居るので、「兎に角貴様は紙幣の事をやつたら宜からう、銀行を調べに行つたのだから」と、上野や何かゞ心配して、井上さんに申上げて、そこで私が始めて紙幣権助と
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いふ者になつた。権助が七等官で奏任官の一番下級、其時の役人は何かと云ふと、判任が四人、小い十畳敷の部屋へ四人属官が来て、紙幣寮といふ者が出来た、権助で吾輩が長官であつた。其中に全権大使一行派遣の事が始まつた。岩倉公大久保公それに伊藤公などが附いて一緒に行くと云ふ。そこで吾輩は此方に残る者はない、再び伊藤に附いて欧羅巴に留学したいといふ考で、是非行きたいと云ふと、伊藤は無論貴様は一緒に行つたんだから、連れて行くと云ふ事であつたが、福地も行く、吉田も行つてしまふ。調べて来た人間は私一人だ、ドツコイ貴様は行く事はならぬと、其処で喰留をくつた。残念で堪らぬけれども仕方がない、亜米利加へ行つて、調べて来た連中は吾輩一人、あとは皆行つてしまつた。それで権助から俄に引上げられて、九月にはすぐ権頭に抜擢された。殆んど子供を捉へて紙幣権頭。所が渋沢が当時大蔵の三等出仕だ、さうして名目だけ渋沢が紙幣頭と云ふ事で、吾輩は権頭で全権を持つてやつて居つた。(明治四十三年三月十二日)


竜門雑誌 第二五一号・第九頁〔明治四二年四月〕 ○明治五年の財界(青淵先生)(DK020132k-0006)
第2巻 p.487 ページ画像

竜門雑誌 第二五一号・第九頁〔明治四二年四月〕
 ○明治五年の財界 (青淵先生)
左の一篇は東京日日新聞記者が同紙創刊満三十七年記念号に掲載の為め先生の談話を請ひしものにして本月十五日以後の同紙上に掲載したるものなり。
○上略
さうして明治三年の冬になると伊藤さんがどうも此姿で幕府時分のことを冥想模索したのでは仕方がないから、どうかして亜米利加のやうな所へ行つて調べて来なければ駄目だ、予が一つ亜米利加へ財政上に付ての調査に行くと云ふことに付ての願書を大蔵省から政府に出して貰ひたいと云ふことで私が其の草稿を立てたのを覚えて居る。詰り旅行願のやうなものだが軈て其事は許可されて多分三年の十月であつたと思ふ、伊藤さんが亜米利加へ財政上の調査に行かれた、其用向に付ては格別細かい覚書と云ふやうな物を持つて御座つたのではないやうである。乃公自ら胸に納めて居られ重立つたことは大隈さんと相談もなすつたらう、又吾々共も意見を尋ねられた場合には愚見を申述べた、其時には福地源一郎、芳川顕正の二人を同行された、而も福地のことは其時に伊藤さんはよく知らない、誰ぞ良い人はないかと云ふことであつたから、筆も利き口も利けてこんな調査には適当して居るから福地をお連れなすつたらどうですと云ふことを私が建議してそれなら会はうと云ふて会つた所が面白さうな男だから連れて行かうぢやないかといふので同行された。○下略


青淵先生伝初稿 第七章一・第三一頁〔大正八―一二年〕(DK020132k-0007)
第2巻 p.487 ページ画像

青淵先生伝初稿 第七章一・第三一頁〔大正八―一二年〕
財政経済の方面においては、幣制改革の準備、さては紙幣の整理公債の発行等に就きて謀議を重ねしこと尠からず。当時少輔伊藤博文専ら其事に任じ、改正掛の調査を経て政府に建議せしが、遂に政府の容るる所となり、これが為伊藤は明治三年閏十月米国に赴きて研究すべきの命を蒙れり。○下略
 - 第2巻 p.488 -ページ画像 

(伊藤博文) 書翰 渋沢栄一宛 ○明治三年閏十月三日(DK020132k-0008)
第2巻 p.488 ページ画像

(伊藤博文) 書翰 渋沢栄一宛     三井文庫所蔵
    ○明治三年閏十月三日
  宮中制度掛
  渋沢少丞殿              伊勝少輔
      至急
昨日願置候福地源一郎事ハ如何之都合ニ相成候哉、至急同人へ御相談被下是非同行仕候様御配慮不堪懇願之至拝具
    三日   (欄外朱記 明治三年ノ書翰)

(伊藤博文) 書翰 渋沢栄一宛 ○明治三年閏十月一二日(DK020132k-0009)
第2巻 p.488 ページ画像

   ○明治三年閏十月一二日
  渋沢先生               博文
     御直
過日者参殿御妨申上恐縮仕候、訳文早速御遣被下幾重ニも難有奉鳴謝候、福地給料一条僕異存ナシ、乍然大隈へ一応逐相談可申候、明日御確答可申上候、吉田二郎ハ急ニ御聞合可被下候、其外ニも可然人物御坐候へハ御探求可被下候、書外明日ハ拝青緩々可得貴意、匆々頓首再拝
    十二日   (欄外朱記 明治三年公ノ米国行前ノ書翰)

(伊藤博文) 書翰 渋沢栄一宛 ○明治三年閏十月一六日(DK020132k-0010)
第2巻 p.488 ページ画像

   ○明治三年閏十月一六日
  渋沢少丞様              伊藤少輔
      拝復
福地給俸之儀御申越種々熟考仕候処、此上官より相増候儀は対政府難申立甚心配罷在候、乍去帰来之上少々之褒賞を与候乎、或ハ小生之給俸中より分割可仕乎、両様之中取許可申候、即今之処ハ取極置候高を以御請仕呉候へハ幸甚と奉存候、尚御示談被下度奉存候、西野譲之介一条明日参朝可及縷述、福地へ此段御通置可被下候、匆々貴酬頓首再拝
    閏月十六日    (欄外朱記明治三年カ)

(伊藤博文) 書翰 渋沢栄一宛 ○明治三年閏十月二五日(DK020132k-0011)
第2巻 p.488 ページ画像

  ○明治三年閏十月二五日
  渋沢大蔵少丞殿            伊藤大蔵少輔
        御直折
今日従横浜罷帰申候ニ付、福地吉田氏等明日小生方迄罷越呉候様御伝言可被下候、明後廿七日より又々出港直二乗船可仕候ニ付、老台御間隙御座候へハ明廿六日ハ幸御休暇ニも御座候事故、遠方乍御苦労御下訪被下度色々御話も申上置度此段申上度、匆々頓首再拝
    閏月廿五日    (欄外朱記 明治三年公ノ米国行前ニ於テ福地吉田氏随行ニ関スル書翰)
  ○右ニ掲グル伊藤博文ノ書翰ニヨレバ、其随員ニ付キ栄一配慮スル所アリシナリ。


懐往事談 (福地源一郎著) 第二〇三頁〔明治二七年四月〕 ○再び新聞記者たるの念を起したる事(DK020132k-0012)
第2巻 p.488-489 ページ画像

懐往事談 (福地源一郎著) 第二〇三頁〔明治二七年四月〕
  ○再び新聞記者たるの念を起したる事
其後余は渋沢栄一氏の紹介にて初めて伊藤伯の知を辱くして褐を政府に釈き、米国に随行し、尋て岩倉公の一行に欧米巡回に随伴し、廟堂の上に於て諸公に知られたるが、中にも此伊藤伯と木戸侯・井上伯・
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山県伯の四公に負ふ所の知遇は廿余年来常に余が心肝に感銘して忘るること能はざる所なり。此知遇を得たる上に其議論とても時に或は相合はざるもの往々にして無きに非ざりしと雖も、立憲君主制漸進の方向を執らざる可からずと云へる大本大主義に至りては、固より其見を同くしたるを以て親密も亦自ら一層の深きを加へ、此諸公の後に従つて以て我才を試みんと欲したるは、余が当時よりしての素願なりき。而して此素願は期せずして東京日日新聞に於て顕はれたりき。○下略