デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第2巻 p.539-543(DK020143k) ページ画像

明治三年庚午十一月二十五日(1870年)

大蔵省度量衡改正掛ノ立案ニ基キ度量衡提警法ヲ
 - 第2巻 p.540 -ページ画像 
仮設シテ之ヲ施行ス可キヲ太政官ニ稟議シ、裁可ス。栄一改正掛長トシテ之ニ与ル。


■資料

大蔵省沿革志 本省第三・第一〇五―一〇六丁(明治前期財政経済史料集成 第ニ巻・第一二〇頁〔昭和七年六月〕)(DK020143k-0001)
第2巻 p.540 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。

青淵先生伝初稿 第七章一・第二三頁〔大正八―一二年〕(DK020143k-0002)
第2巻 p.540 ページ画像

青淵先生伝初稿 第七章一・第二三頁〔大正八―一二年〕
○上略度量衡の改正は其統一と精確とを目的として調査を重ねたるが、後に至り別に度量衡改正掛といふを設置せられて其手に移れり。○下略


青淵先生伝初稿 第七章六・第一五―一六頁〔大正八―一二年〕(DK020143k-0003)
第2巻 p.540 ページ画像

青淵先生伝初稿 第七章六・第一五―一六頁〔大正八―一二年〕
○上略先生が在官の際施設計画せる事の中に就きて、比較的些細なるもの、又は前後の事情詳ならず、僅に其一斑を窺ふべきもの等あながちに捨て難きは、此に之を合叙して、明治文化に対する努力の片影を示さんとす。初め先生の改正掛にありし時、度量衡改正の事を調査したりしが、後に度量衡改正掛を置きて、前島密之に専当したれども、先生はなほ其議に参与し、殊に大蔵少輔事務取扱となりては、指揮監督せる事も多かりしならん。○下略


竜門雑誌 第二五四号・第八―九頁〔明治四二年七月〕 人道と儒教(DK020143k-0004)
第2巻 p.540-541 ページ画像

竜門雑誌 第二五四号・第八―九頁〔明治四二年七月〕
  人道と儒教
   本篇は竜門社春季総会に於ける青淵先生の訓話なり。(編者識)
○上略
  ○地租改正と度量衡
丁度唯今度量衡のお話が出ましたに就て、是は余事であるが想ひ起しますのは、私が明治二年に大蔵省に勤務した時分に、矢張此度量衡の話が出まして、私は之を調査する一員となつて頻に心配したことがあ
 - 第2巻 p.541 -ページ画像 
るのです、今から思ふと田中館博士などに取つては随分抱腹に堪えぬ話でありませうが、大蔵省で庶務の改正をせねばならぬといふので改正掛といふものが置かれた、其時分の大蔵省の主脳者は大隈伯と伊藤公のお二人であつて、頻に諸制度改正といふことを考へられた、其改正をするにはどうしても通常の事務と引離して、別に改正局といふものを置て、そこで取調べるが宜いといふことになつて、其局の掛長を私が命ぜられた、其時に是非数年を期して租税を改正せねばならぬ、それには先づ丈量をしなければならぬ、丈量をするには寸尺が判らなくてはならぬ、日本の呉服尺と曲尺は甚だ不確実のものである、又尺ばかりではない、秤も改正しなければならぬ、枡も改正しなければならぬ、遂に度量衡といふものを取調べるが宜からうといふことになつて、さて取調べに着手しやうとした所が、何処へ行つて聴いて見ても少しも解らぬ、又解る筈がない、何しろ其時分には地方凡例録とか塵功記とかいふやうな書籍が僅かにあつたが、是も量衡は無くつて度だけがあつた、且つ甚だ浅薄なる学者の書いたものであるから、それを以て其時分の度量衡の薀奥を極めたものとは言はれない、それで拠どころなしに私は改正掛長として、福沢論吉先生に度量衡の講釈を聴きに行つたことがあります、今考へて見ると殆ど見当違の話で、内科の医者に外科の膏薬を貰ひに行つたやうな訳であるが、明治二年、三年の頃はさういふ有様であつたのが、今伺ふと八十二年前に業に既に度量衡が各国の評議に上つて、而して此十数年に大なる進歩を遂げたといふ、蓋し田中館君が其時に居らしつたかどうか、それ程御老人とは思ひませぬが(笑ふ)十数年の間に左様に進歩したといふことは実に日本の学術の一特色と申しても宜いやうに思ひます、其頃勝さんの門人で佐藤与之助といふ人が改正掛にあつて、是非土地の丈量法を行つて見やうといふことを評議して、それからして遂に今申上げたやうな度量衡の調査に掛つた、所が、迚も今の場合丈量などは出来ぬ、況や当時未だ藩といふものがあつて、日本全体が大蔵省の支配に属するのではないのだから、是は藩政の始末の附かぬ前に土地丈量などといふことは、唯空想に論じて見た所が事実行ひ難いといふので、改正局の調べは緒にも就かずに終りましたけれども、明治二年にさういふことがあつた、偶然にも唯今田中館君の御講義を伺つて往事を考へ出したのであります。


竜門雑誌 第三五三号・第六八―七〇頁〔大正六年十月〕 福沢先生及び独立自尊論(青淵先生)(DK020143k-0005)
第2巻 p.541-542 ページ画像

竜門雑誌 第三五三号・第六八―七〇頁〔大正六年十月〕
 福沢先生及び独立自尊論(青淵先生)
   木篇は雑誌「現代之実業」記者が「福沢先生及独立自尊論」なる題目を提して青淵先生の意見を懇請せるものにて六月発行の同誌特別号に掲載せるものなりとす。(編者識)
○中略
  ○福沢翁と余との初対面
 帰朝して見ると既に日本の政治状態はすつかり変つて居る。而して王政古に復り、天下は朝廷の御手に帰したので、余もその後一年ばかりすると明治政府から召されて役人となつたのである。この時は、余も
 - 第2巻 p.542 -ページ画像 
洋行中大分見学をしたことであるから進歩的になつて居り、すべての政は従前通りでなく改進的に致さうと思つた。余等の上に立てる大隈伊藤の参議達も同じく改進的の思想を持つて居たので、陛下の仰せ出された五ケ条の御誓文の御趣意を真向に振り翳し、万事に急進的政治を励行したのである。
 而して当時余の奉ぜる役柄は、今の大蔵省の事務だつたので、余は早速地価や租税の改正を思ひ立ち、並びに度量衡制度の改正などを決行することをした。乃で、余は其れ等諸制の改正係を設け、地価、貨幣、度衡量の改正から、租税の物品納を廃して金銭納とすることなど凡そ数百枚に亘る浩翰な改革意見書を起草し、これを大隈・伊藤の諸参議に提出したのである。参議もこの長文には大分閉口したらしく、長が過ぎると云ふ話であつた。而して余は実にこの旧制改正の条文を案出する為め、初めて当時の碩学福沢諭吉先生に面謁の必要を生じたのであつた。
 所が、この初対面の時から、先生は他の人々と大分異る特色を種々発揮されたことであつた。余は主として度量衡改正に就て先生の意見を求めに参つたのであるが、先生は初対面の余に向つて御自作の「世界国ずくし」や「西洋事情」を取り出し、種々に教示さるる所があつた。余は兎に角、一風変つた人だと云ふことを初対面の時から感じたのである。



〔参考〕鴻爪痕(前島弥発行)第一〇五―一〇八頁〔大正九年四月〕(DK020143k-0006)
第2巻 p.542-543 ページ画像

鴻爪痕(前島弥発行)第一〇五―一〇八頁〔大正九年四月〕
  度量衡改正
余は前日改正局に於て伊藤少輔(大隈大輔も在席せりと記憶す)より我度量衡制を仏国に採りて「メートル」を用ひ、その式を「メートリツク」と為さんを欲するの談を聞けり。此事たる学理に於ては大に賛成なるも、その実施は甚だ難し。何となれば其事たる、世上の諸物は皆之に依て其規を定め、その係る所重且大なれば、軽忽に断ずべきことにあらず。殊に百政維新混雑の際、之を改正すべき急ありや否やも亦思考せざる可らず。されど此事に関して余は口を開かざりしが、洋行の便を以て採否の如何を知らんとモルトベイ氏等に之を質したるに氏は曰く、仏国式は学理上には勿論のこと、普通の用に於ても便利なれば、英国に於て之を採用せんとの議論ありしも、国民古来の襲用甚だ深く、その変更は容易ならざるを以て敢て断行せざるなりと。幸に我が度量衡は英国の如く複雑ならず、宛も仏国の其れに類似するものあり、若し其要あらば、単に原器を造るべきのみと思念し居りしに、帰朝後数月ならずして大蔵省より度衡量改正掛長を命ぜられたり。是は新律綱令已に成りたるも、何に拠て其正否を判ずるかの論あるを以て、急施の要を生じ已に其掛員を命じたるも、長官無くして其案を立て難きに、余が少しく素地あるを以て直に此任命ありと聞きたり。余は是に於て思考すらく、抑々本務の主眼は新に正しき尺度を造るにあり。而して之に照準して真贋を判じ且其将来を取締るべき規則を立案するを以て足れりと
 - 第2巻 p.543 -ページ画像 
せん。然るにその原器は何に基いて造る可きか。是れ実に問題なり。元来幕府は尺座を置かずして只枡座を設き、その製造せる枡の裏面には尺度を刻し、以て今に至るまで之を存続せり。想ふに必ず之が原器たる可き尺度の有るあらんと。依て之を検するに已に両端を摩損せる竹製の粗品にして取るに足らず。その他に於ては一も憑拠すべきものを見ず。たゞ唐製の大小尺を刻する鉄製の尺度を土御門家に秘蔵すと聞き、之を借りて検するに、これぞ憑拠すべき比較的正確のものなりき。他の世上流布の物は在来の尺度に依て私製したるものにて証拠無し。法隆寺尺の如きは其用稀にして且つ正しからず、伊能の量地尺の如き、世の知る所とならず。是等を採て以て原器を造るに於ては、世人の熟知せる曲尺及鯨尺は悉く廃器と為り、国民の苦情測る可らず。是を以て余は曲尺を以て帝国尺度の正位と為し、鯨尺(存否は後に譲るとし)をも亦存し、成るべく旧慣を保持して原器を造るべしと断案せり。然れども尚其依拠あるを証明せんと欲し、各地に於ける製造者に命じて自製せる曲尺を出さしめ、同寸分なる最多数を取り、之を土御門家の唐尺に照せしに幸に相合したるを以て(余は此唐尺を用ひたるには説明の理あるも之を略す)愈々之に決定せり。仍て原器製造の事(仏国に於ては寒熱の為に伸縮せざる白金を以て之を製する等厳重なる法規ありと聞きたるも、本邦の現況に於て是等の点に於て力及ばず)及び新旧査定の事及び将来の取締規則の案を具して上申せり。当時余の本務甚だ繁多なるに依り、その上申の採択を得ると同時に此兼務を辞任せり。