デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

  詳細検索へ

公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第3巻 p.95-107(DK030022k) ページ画像

明治四年辛未二月(1871年)

皇太后・皇后親シク養蚕ヲ御試ミ遊バサレントス。栄一命ヲ蒙リテ吹上御苑内ニ御養蚕所ヲ設ケ、田島武平ヲ薦メテ奉仕セシム。是レ宮中御養蚕ノ濫觴ナリ。


■資料

出がら繭の記(DK030022k-0001)
第3巻 p.95-97 ページ画像

出がら繭の記              (渋沢子爵家所蔵)
上州島村なる田島武平ぬし一日わが許を訪はれ、携来れる繭の白きと青白なるとの二種を示されて、こは明治の御代のはじめつかた、吹上
 - 第3巻 p.96 -ページ画像 
の御苑内に御養蚕所を設けられける折、わが祖父なる武平はかしこき御あたりの仰せごとうけたまはり、蚕飼のわざにたけたる四人の女子たちを随へて、其処に参りつかうまつりけることのさぶらひけるが、後の思出ぐさにとて申し受けて、家の宝として秘めおきつる出殻繭なり、其折時の
皇后の宮には蚕子掃立のはじめより、しばしば御蚕室に成らせられ、精しく飼育のわざを見そなはせられ、宮人たちに仰せて其業を習はしめ給ひけりとぞ、しかのミならず明治の帝には八度までも其処に御幸ましまし、蚕子飼育の始め終りを叡覧ましましけるよし、祖父の日記によりて承り知るも、いといとかしこきことの極みにこそあれ、其時に祖父を薦めたまひしは即ち大人にして、いと深きゆかりあれバ、後の世の記念にいかで其ことよしを書きしるしてよといはる、これによりて思ひかへせば今より五十九年のむかし、明治四年の頃なりけむ皇太后の宮 皇后の宮深く蚕糸の道に御心をそゝがせられ、親しく蚕飼のわざミそなはし給はむとて、当時大蔵省に出仕なしたりけるおのれ仰せごとうけたまはり、吹上の御苑の内に御養蚕所建設の場所を選り定め奉りたることのありき、養蚕はおのれが生家の業にしあれば、他の司人たちにはまさりて聊か知れることありければ、その御設備につきて僅に奉仕せりとハいへ、自ら宮人たちに教へて蚕飼のわざ仕うまつらむほどハ覚束なく、且大蔵省出仕に暇もなかりければ、縁者にして其業にいたり深き田島武平ぬしを、おのれが代りにすゝめ申せしが、武平ぬしハ寝食をも忘れてつとめられけるにより、かしこき御あたりにおかせられても、御満足に思召さるゝよし承りて深く喜びたりき、その御養蚕所ハ明治六年宮城炎上のことありける時にやめられて、後赤坂なる仮皇居の御苑内にさらに御養蚕所を設けしめられ、年年蚕飼のわざ見そなはし給ひけりとぞ承る。明治六年の夏の初め、時の
皇太后の宮 皇后の宮御同列にて上州富岡なる製糸場に行啓ましましける時
皇后の宮より
  糸車とくもめくりて大御代の
    富をたすくる道ひらけつゝ
と申す御歌を賜わらせけるが
大正の后の宮にも
太后の宮の厚き御心をかしこみつかせ給ひけむ、いまだ
東宮の妃にてましましける頃
  かきりなき御国の富やこもるらむ
    しつかかふこの繭のうちにも
とよませ給ひけり、国母と仰がれさせ給ひて後、大正三年宮城の御苑内なる紅葉山にいと広く御養蚕所をしつらへさせられ、春蚕は更にもいはず、夏蚕秋蚕をもなさしめたまひ、折々は御親ら桑つミこかひのわざせさせ給ひて、年々あまたの糸とり絹織らしめたまひきとぞうけたまはる
先つ年蚕糸の業にあづかれる人々に仰せて、歌どもめさせられける折
 - 第3巻 p.97 -ページ画像 
 おのれも
  かしこしや玉の御けしの御袖にも
    こかひの桑の露をかけます
とよミて奉りけり、後にうけたまはれば其折
皇后の宮には
  うつくしミそたてし桑子繭となり
    糸となるこそうれしかりけれ
  たなすゑのみつきのためし引く糸の
    長き世かけてはけめとそ思ふ
の御歌二首を詠ぜさせ給ひ、各宮の妃の宮を始め奉り、あまたの司人たちより歌奉らしめ給ひて、民間の人々よりたてまつれる色紙短冊どもとを貼交ぜとして、一双の御屏風を作らしめられ、常に御傍近くおかせ給ふと承るこそ、いともかしこけれ
代々の 后の宮かくつぎつぎに御躬を先にして蚕糸のわざをすゝめさせ給ひければ、御国人誰か奮ひ励まざらむ、この業ハ年と共に栄え行きて、外国におくり出す量いとおびたゞしく、今ハ貿易品の随一とぞなれりける、げにも御歌に宜へるごと、今の世の富も栄も其もとは明治初年になれりける、この幾粒の繭の中より出で来つるものとこそ申し得べけれ、あはれ前には
明治の帝を始め奉り
英照皇太后の宮
昭憲皇太后の宮、後には今の
皇太后の宮が、民のなりはひと御国の富とを思召し給ひて、蚕糸の業をはげまし給ひける御ことの畏さは、申し奉らむも今更ながら、御養蚕所設立の初に仕うまつりける故武平ぬしの心つくしも深く偲ばれて、そのかミの思出に堪へず、請はるゝまゝに筆をとりて、たえて久しき昔の糸すぢをくりかへすになむ
  年を経てこの桑繭を見るからに
    むかしの人のいさをゝそ思ふ
   昭和四年十一月
              九十翁 渋沢栄一識
                   


(題額) 「田島武平君墓表」 (群馬県佐波郡島村新地所在)(DK030022k-0002)
第3巻 p.97-98 ページ画像

(題額) 「田島武平君墓表」 (群馬県佐波郡島村新地所在)
蚕之為物。躯小功大。黼黻之貴。錦繍之美。皆其所出。而其質之良否一帰于飼養繰繹之巧拙。蚕糸之業亦大矣哉。上毛古来長于蚕糸。其名洽布於海之内外。而尽瘁其業報国家者不乏其人。田島君武平其錚錚者也。君歿之三年。従兄渋沢喜作擕其状。来請表於其墓。盖以喜作妻君之妹也。君諱保寿。通称武平。以天保四年癸巳生于上野国佐位郡島村。田島家五世武兵衛保信長子也。母栗原氏。君幼失怙恃。為王父母所鞠育。稍長継家。専尽心養蚕学。奥之信夫伊達地方飼養法。刻苦精研大有所得焉。明治二年己巳為名主。尋為郷長。見許佩刀。三年庚午為蚕種製造人大総代。其年創立島村勧業会社。奨励蚕種製造法。四年辛未 后宮始設蚕室於吹上御苑。君奉命供技師及工男女数名。成蹟甚宜。
 - 第3巻 p.98 -ページ画像 
八年乙亥為蚕種製造組合頭取。九年丙子踏査野州鬼怒川思川両岸。開桑田起蚕室。産出年加焉。其年為群馬県養蚕世話掛重立取締。十一年戊寅為群馬県勧業世話掛兼農事通信委員。十二年己卯為群馬県島村戸長。尋挙勧業会社副頭取。専努養蚕十三年。庚辰航欧洲。為輸出蚕種之計。翌年赴北海道試蚕種之業。十八年乙酉西郷農商務卿賞其夙改善蚕種同業浴恵功労甚大。賜金若干。尋挙群馬県会議員。四十一年戊申冬罹疾荏苒不愈。四十三年庚戌六月十六日歿于家。享年七十有八。仏諡曰達観院畯毅精徹保寿居士。妻福田氏。挙五男六女。長子格平分産別居。次渾一立平九一賛一皆夭。長女舒為叔父林平所養。次実夭。次道次仲夭。次稲栄皆分産。養姪栗原文八郎以道配之。嗣家是為今代武平。君以蚕桑立志大興公利。至使天下蚕業家知上毛島村有其人。可謂能達観内外発揚郷国之精粋者矣。
 大正元年壬子十一月下澣
              従三位勲一等男爵渋沢栄一撰並書


雨夜譚会談話筆記 上巻・第五八―六一頁〔大正一五年一〇月―昭和二年一一月〕(DK030022k-0003)
第3巻 p.98-99 ページ画像

雨夜譚会談話筆記 上巻・第五八―六一頁〔大正一五年一〇月―昭和二年一一月〕
○上略
敬「宮中に於ける御養蚕の起原に就て、青淵先生が宮中の色々の御下問にお答へなされたと云ふことでありますが」
先生「勿論御下問に対して直接にお答へした訳ではないが、私が大蔵省の役人をして居る時であつた、それで私は養蚕の玄人でないから、田島武平を御指導者としてお薦めしたのは事実である、恰度富岡の製糸場をつくる前のことである。横浜の生糸輸出商にガイセンハイメルと云ふのがある、一般にオランダ八番と云つたが、それが専ら日本の生糸を買つて輸出して居た。其店主であつたか、支配人であつたか、日本生糸の製造が粗末な事を指摘し、日本製糸は横糸には使へるが縦糸には使へぬ、糸の太さが揃はず、斑があり、繋ぎがよくない、それは何れも製糸の方法が悪いからだと云ひ、立派な工場をつくらなければならない、そして欧洲の有様は斯う斯うだと色々説明したので、日本でも其方法を採用せねばなるまいと云ふことであつた。或る日大隈重信氏が大蔵省で例の通り喋つて製糸のことを述べて居たから聞いて居ると、随分間違つたことを云つて、殆んど養蚕や製糸の実際を知らぬ模様であつたから、私は実際やつて来たこと丈けに大いにそれを説明したので、私が養蚕通であると評判を取り、オランダ人の勧めに従つて製糸改良の為め工場を富岡に建て、前橋の人で速水某をして実地に当らせ、私が此改良係を引受けた様な訳である、従つて大蔵省の高等官中で養蚕のことを知るのは渋沢だと云ふことになつて居た。そして此頃斯様に養蚕製糸のことは大切だと外国人も云ひ、宮中でも、支那の王宮で養蚕を行つて居たことが書物の中にあるので、此処に実地養蚕をしようと云ふ議になつたらしく、私に其場所の見立を云ひつけられた。私は二度ばかり紅葉山へ行つて見て、桑を植ゑる場所や養蚕する建物等を指定し、且つ御指導者には田島武平がよからうと、田島を呼んで推薦したのである、田島は群馬県の人で、渋沢喜作の妻「およし」の姉の「おし
 - 第3巻 p.99 -ページ画像 
げ」の夫で、喜作と義兄弟に当る人である。で此事は照憲皇太后御自身の思召であつたと云うふことで、宮内省から大蔵省へ云つて来たのである。先般皇后宮太夫の大森さんが、養蚕に関する歌の張交ぜ屏風の雛形と、宮中で出来た真綿など御下賜になつたものを御持参下さつた折、養蚕製糸に就ては私が農、工、商三方面に関係したことを、自慢する意味でなく、長生して居るからであるとて講釈したら、宮中で皇后陛下に申上げたと見え、陛下に拝謁した時、「大森に養蚕のことを詳しく話したと云ふではないか」などゝ仰せられた」


竜門雑誌 第四九七号・第一〇三―一〇六頁〔昭和五年二月〕 宮中御養蚕の濫觴に就て(渋沢治太郎氏謹話)(DK030022k-0004)
第3巻 p.99-102 ページ画像

竜門雑誌 第四九七号・第一〇三―一〇六頁〔昭和五年二月〕
  宮中御養蚕の濫觴に就て (渋沢治太郎氏謹話)
 宮中の御養蚕は明治六年に始められたやうに、従来世に伝へられて居つたが、此頃に至つて、子爵渋沢栄一翁の談話と、其御用を奉仕した田島武平氏の日記とによつて、それが早く明治四年から吹上の御苑で始められたのであるといふ事が明かになつた。
 明治四年の春、皇后陛下 (照憲皇太后の御事) が親しく養蚕を御試み遊ばされたいから、其準備をするやうにといふ御沙汰が、大蔵省に下つた。其頃の大蔵省は、今の内務省や農林省や商工省などの事務を、一手に取扱つて居つたのである。
 時の大蔵卿は伊達宗城侯で、大輔は大隈重信侯であつたが、さすが博識の大隈侯も、養蚕には経験がないので困却せられ、少丞の渋沢子爵が農家の出で、蚕桑の業にも通じて居られるといふので、子爵に其事務の取扱を命ぜられた。
 そこで子爵は、先づ吹上の御庭の山里に御養蚕所をしつらへ奉つた。然し繁務を抛つて自ら養蚕に従事する事は出来ぬので、自分の遠縁の親戚で、斯業に精通して居る上州佐位郡島村の田島武平氏を推薦せられた。これは今の武平氏の祖父に当る人である。
御養蚕所 拾弐叠 マド 八叠 拾五叠 マド 拾叠 拾叠 拾叠 口掛板 入板 弐拾壱叠 拾五叠 ヲシ入 簑戸
 二月三十日に太政官から、養蚕功者の婦人四人ほど、至急人選して上京せしめよとの命令が岩鼻県に伝へられ、岩鼻県は直ちに之を田島氏に伝達したので、氏は仰せをかしこみ、同村の田島太平妻たか(四十八才)田島伊三郎娘まつ(十七才)栗原茂平娘ふさ(二十才)武州深谷宿飯島元十郎妻その(二十八才)の四人を選定し、武州榛沢郡新戒村の荒木大七郎と共に
 - 第3巻 p.100 -ページ画像 
之を伴うて、蚕種紙を携へて上京した。御養蚕所(御蚕室ともいふ)は右の図面《(九九頁)》の通りで、御庭内御茶屋改方の内舎人三人、仕人二人が養蚕掛を命ぜられ、三月十四日から掃立を始めて五月二日に上り切りとなつた。蚕種は信州原種春蚕合夏本部凡そ三分の一、青白原種本部半枚、白繭原種同六分の一、合して蚕数六万三千五百四拾であつたが、上々の豊作で、繭壱石七斗九升五合、懸目十八貫八百三拾匁を獲た。田島氏の家には、此御用奉仕の記念にと、白と青白との出穀繭数粒づつを申受けて、今尚大切に保存して居る。
 皇后陛下は、掃立を始めた翌日、早くも御蚕室へ行啓遊ばされ、其後二十一日、四月三日、十一日と四回まで行啓遊ばされたが、たゞ蚕室で飼育せしめるのみでは御満足遊ばされず、其中から四百疋入の籠二つを取寄せになつて、御手許で飼育せしめられた御熱心のほどは、誠に畏き極みである。(此中折藁に造りかけた繭拾五粒は、其儘切取つて箱に入れ、京都にまします英照皇太后陛下に進ぜられた)而し尚それよりも畏く有り難いのは、 明治天皇陛下が、三月十六日を初めに、八回までも御蚕室に行幸遊ばされて、飼育の状をみそなはせられた事である。
 此繭は五月七日直に御蚕室で糸に製せられて、東京府から差出した織子の、深川授産場師婦四人をして羽二重と綸子に織らせられた。かくて蚕婦等は御用済になつたので、五月十日に御蚕室で種々の下され物を頂戴して帰国した。
 此御養蚕には、紀州藩から枝桑五百株分、美濃野村藩からは同四千六百株分を献上した。
 序に御蚕室の経費並に蚕婦等の御手当を摘記すれば、左の通りである。
     記
  一金壱両壱分壱朱     山里御用
      四百四拾六文   御養蚕小籠三拾枚
  一金弐両壱朱       同小莚五拾枚
  一金壱両壱分壱朱     折曲藁数七百
      五百拾六文
  一金壱分ト五百文     桑もぎ庖丁五挺
  一金弐両弐分       青白元種半枚
  一金三分壱朱       白元種六分之一
      弐百弐拾壱文
   〆金八両壱分ト
      壱貫弐百三拾三文
  一金壱分壱朱       大川端
      六拾文      折曲わら百五拾
   弐口
   〆金八両弐分
      壱貫弐百九拾三文
        ○
  一金五両         御養蚕器械御買上代
        ○
      記
   最初
  一金拾両         蚕婦四人菜代一日銀五匁宛三月拾三日より四月拾三日迄三拾日分被下候但壱人分金弐両弐
 - 第3巻 p.101 -ページ画像 
分宛
   同
  一金拾五両        同御手当一日金弐朱宛同断三拾日分被下候但壱人に付金三両三分宛
   五月十一日御渡し
  一金拾両         菜代前同断四月拾四日より五月拾三日迄三拾日分被下候但壱人に付金弐両弐分宛
                此処五月拾日御暇被下候に付四日分壱人に付銀弐拾匁宛返上金返納分被下候
   同           四月拾四日より五月九日迄日数弐拾六日分当
  一金拾三両        壱人に付金弐朱宛御手当被下候但壱人に付三両壱分宛
       ○
  一金九両         荒木大七郎旅籠料
               一日永三百文宛三拾日分
  一金三両三分       同御手当一日金弐朱宛三拾日分
  一金九両         旅籠料三拾日分
  一金三両壱分       四月拾四日より五月九日迄弐拾弐日分御手当被下候
 翌五年にも引つゞき吹上で御養蚕を行はれたが、六年に皇城が炎上して、赤坂離宮を仮皇居となされた為め、御養蚕所も赤坂に移され、明治二十二年現今の宮城が造営せられて移御あらせられた後も、尚此処に置かれたが、大正天皇の御代になつてから、今の皇太后陛下が新に紅葉山に宏大なる御養蚕所を設けさせられ、御手づから桑摘み蚕飼ひの業を遊ばされた事は、世人の遍く承つて居る所である。
 明治六年六月、昭憲皇太后陛下が上州の富岡製糸場に行啓遊ばされた時下された御歌に、
  糸車とくもめぐりて大御代の
    とみをたすくる道ひらけつゝ
とあり、今の 皇太后陛下が未だ 東宮妃にましました時の御歌に、
  かぎりなき御国の富やこもるらん
    しづがかふこの繭のうちにも
とあり、又同じ 陛下が、後に全国の蚕糸に関係ある人々から歌を召されて、貼交ぜ屏風を作らせられた時の御自らの御歌に、
  うつくしみそだてしくはこ繭となり
    糸となるこそうれしかりけり
  掃立ををはりて繭にこもるまで
    めもはなたれぬ蚕飼ひわざかな
 また日本蚕糸会に賜はりたる御歌に、
  たなすゑのみつぎのためしひく糸の
    ながき世かけてはげめとぞ思ふ
とあり。かく御代々引続き御躬みづから範を示して勧め励まし給うたので、蚕糸の業は年と共に盛になり、たヾ国中の需用を充たすばかりでなく、今は輸出品中の首位を占むるに至り、莫大の国益となつたのである。
 明治五年に奉仕したのは栗原茂平氏外十四人の蚕婦で、其顛末の記
 - 第3巻 p.102 -ページ画像 
録もあるが、今は之を略する。 (蚕糸界報一月号所載)


日本蚕糸業史 第一巻・宮中御養蚕史 第四―一五頁〔昭和一〇年二月〕(DK030022k-0005)
第3巻 p.102-107 ページ画像

日本蚕糸業史 第一巻・宮中御養蚕史 第四―一五頁〔昭和一〇年二月〕
  明治四年(辛未)の宮中御養蚕
       (明治四年及五年は大陰暦による)
 明治四年、皇后陛下(照憲皇太后)には、畏くも宮中にて御養蚕を遊ばされたき御思召を以て、養蚕に関する事を、斯の道の知識経験ある者について、聴取する様にと、皇后宮太夫に対して、ありがたき御沙汰があつた。
 於此、皇后宮太夫は、当時の政府官吏中、故子爵、渋沢栄一を以て、最も其の適任者として、同人に就いて之を聴取し、而してこれを陛下に奉答したのである。
 陛下には、渋沢を召されて、斯業に関して、種々御下問あらせられ、渋沢これに奉答した結果、こゝに始めて、宮中御養蚕御実施の事となつたのである。
 しかし、渋沢には、未だ其の実際に就いて、御世話を申し上げる丈けの、深い自信が無かつたので、考慮の上、其の姻戚であるところの、岩鼻県佐位郡島村(現、群馬県佐波郡島村)の郷長、田島武平を、御世話役として、推薦したのである。
 左は即ち、御養蚕奉仕に関する、宮内省より岩鼻県への御達並に御用状である。
 (御達)
皇后宮兼而養蚕御試被遊度候処当年より吹上御庭お《(に)》いて御飼立に相成候依而養蚕功者の婦人四人程至急人撰の上可被差出候也
  辛未二月卅日                    弁官
   岩鼻県
(御用状―書抜)
一、吹上御庭おいて養蚕御試之儀に付別紙の通り御達有之候間、則壱通差送申候、尤右取扱馴候婦人年齢其外問合候処、十八九歳より三十五六歳迄の処にて可成丈身元可也の者可然、尤御庭内の儀に付子供等引連の儀は不相成候付、其御心得を以人撰の儀島村田島武平に御申付可有之、最早蚕時節に差向居候間、早々出京致し候様御取計可被成候、右は当年養蚕中のみの儀にて長く御差置候儀にも無之、殊に衣類等も品々寄せ候へば被下候様にも可相成、御手当の儀も中期大参事帰県の上及御相談候様に付、出京道中入費丈け見積御渡可被成候
左は岩鼻県より田島武平への通牒である。
       ×
此程遠路態々御呼立申如何とも無心多罪多罪、乍併し御蔭にて百事了解欣喜無窮、偖今般別紙の通り被仰出候に付、養蚕功者の婦人四名程一両日の内人撰可申聞遣し度則別紙並に東京より到着の御用状写しさし進め候間、委細右にて御了解可被成候
右人物有之次第御足労なから御出県有之度、呉々も大至急御取計頼在候
 - 第3巻 p.103 -ページ画像 
 右御頼申進度、楮外面談詳細可申述候 匆々 頓首々々
      三月四日 桜井漸
   田島武平様
      ×
 別書の通桜井権大属より申進候間、本日巳ノ中刻差出候御用状も養蚕人撰之儀御達可相成ため申進候儀に付、ゐさい同人より申進候通取計可被成候也
     辛未三月四日              庶務方
   田島武平殿
 田島武平は、直ちに奉仕者の人選に着手し、四名の婦人を選定して次ぎの如く届け出でたのである。
        ×
 乍恐以書付御届ケ奉申上候
 御支配所 上州佐位郡島村
  百姓  田島太平妻  た加 四十八歳
  〃   田島伊三郎娘 まつ 十七歳
  〃   栗原茂平娘  ふさ 廿歳
 同御支配所 武州深谷宿
  問屋  飯島元十郎妻 その 二十八歳
 右は今般被仰付候蚕婦人選の儀前書四人之者人選仕候間、此段御届ケ奉申上候 已上
 斯くて、武平は単身上京して御養蚕の準備に着手し、四名の婦人は後れて三月十日に上京した。
    註 武平は、御養蚕準備終了後は、武州榛沢郡(現大里郡)新戒村の人荒木大七郎を己れの代理として取締の任に当らせたのである。
 其の後、宮内省では、在京岩鼻県出張所を通じて、武平並に大七郎を召喚せられ、御養蚕に関する事を打合はせられ、其の結果、愈々三月十三日に、武平、大七郎の両名は、四名の婦人をつれて宮内省に出頭したのである。当日の栗原ふさの日記に次ぎの様に記されてある。
 三月十三日
  午の刻お庭に入る。此の時戸田様いらせられ候て種々御指図をいたす。此の日天子様御行幸にて、武平殿夕方までお庭に居る。還幸の節大雨也。
        ×
 翌三月十四日に、愈々第一回の掃立を行つた。其の蚕の品種は『新白』と称して、田島武平製造の蚕種である。
 又、此の日別に、戸田大丞より、竹休みの少し始まつた蚕児を十二籠献上した。此の蚕児には、他と区別する為めに、特に蚕籠に赤紙を附けて置いたので、以後此の蚕を『赤印』と呼ぶ様になつた。即ち、赤印以外の蚕は全部田島武平製造の蚕種である。
 掃立は、三月十四日から同十七日迄四日間に亘り、新白種を二回、小青種を三回、都合二品種を五回に掃き立てたのである。
 御養蚕所は、宮城吹上御苑内にある、滝の御茶屋に近い御茶室をこれに充てられた。尤も其の初めに於ては、御養蚕室御新築の議が出た
 - 第3巻 p.104 -ページ画像 
のであるが、それには及ばぬと言ふ事で、御茶室を御間に合はせられたのである。
 此の年の御養蚕は、三月十四日に、最初の掃立を行ひ、五月朔日に最後の上簇を行ふまで、実に四十七日を費して居る。
 五月朔日に上簇を終了した後は、奉仕者も暫く暇となり、同五日は節句の為め休業、其の翌六日に全部の繭掻きを行ひ、七日に収繭量を調査して、こゝに全く御養蚕は終つたのである。其の収繭量は、後掲荒木大七郎から岩鼻県出張所へ差し出した、御用済御届書等に明記してある。
 大七郎は、五月六日附で、左の通り宮内省へ御暇願書を提出した。
        ×
   奉願候口上覚
 一、私等蚕婦四人儀、先達而支配岩鼻県庁より当御省へ御差出相成候処、御養蚕御用被仰付冥加之至難有精勤罷在、然処昨今迄にて無滞悉皆御用済相成候間、早々帰国仕度、何卒御暇被下置候様奉願上候
     辛未五月六日             荒木大七郎
      養蚕掛 御役人中様
 之れに対して、翌五月七日、戸田大丞、竹内少丞の両氏が参られて両三日中に御暇仰せ出さるべきを以て、婦人は旅宿へ下り休息する様にと仰せ渡されたので、大七郎は四名の婦人を連れて三河屋へ下つたのである。
 而して、荒木大七郎は、五月十二日附で、御養蚕所奉仕中の始末を次ぎの如く岩鼻県出張所へ届け出た。
        ×
   乍恐以書付奉申上候
 武州榛沢郡新戒村荒木大七郎奉申上候、私並上州佐位郡嶋村田島太平妻たか外三人一同、当三月中宮内省へ御差出相成養蚕方被仰付難有出精相勤罷在候処、季節の順序もよろしく豊熟いたし、御養蚕の内信州原種春蚕合慶蚕本部丸三分の一にて鼠喰の分引き、蚕数二万五百匹此繭五斗九升程懸目五貫五百弐拾匁余、且嶋村より差出し候青白原種本部半枚白繭原種同六分の一にて鼠喰の分引之、蚕数四万三千四拾匹此繭壱石弐斗五升五合程懸目拾三貫三百拾匁、合蚕数六万三千五百四十疋、此繭壱石七斗九升五合程、懸目拾八貫八百三拾匁余出来、然処右繭之儀者羽二重綸子等に御織立被遊候由に付、蒸繭に仕り、無滞御用相済候処、一昨十日吹上御蚕室において別紙の通り御書付を以て品々銘々へ下賜御暇被仰付、冥加至極難有仕合奉存候、依て此段御届奉申上候
     辛未五月十二日
         御支配所 武州榛沢郡新戒村 荒木大七郎
 翌十三日に大七郎は、岩鼻県出張所に、御用済みとなつたので十四日に出発して帰国したき旨の届書を提出し、同出張所に於ては、帰国差支へなく、而して帰国の上は、県庁に出頭して、御用の次第を報告する様奥書の上認可されたのである。
 - 第3巻 p.105 -ページ画像 
 是れより前、右に掲げた大七郎の御養蚕報告書中にもある通り、五月十日に、奉仕者は吹上御苑にて、御養蚕掛りの人々立会の下に『天杯』『煙草入』『袂入れ』の三品を御褒美として賜はつた。次ぎは、其の御賞賜の御書付である。
        ×
    三つ重御盃        一組
    煙草入          一組
    袂入           一
 右吹上御庭に於て養蚕御用相勤候つき賜之候事
        ×
 而して、御養蚕終了後は、其の御成繭を以て、糸挽き、織物の御試あらせられ、東京深川授産場の婦人六名を召させられて、これに当らしめられた。斯くてこれ亦御用済の上は、三つ組御盃、袂入、烟管、煙草入の御賞賜があつた。
 尚ほ御養蚕奉仕中、荒木大七郎より田島武平に宛てたる書簡の一部を摘録する。
 五月七日
 一、御養蚕の儀前書の通―(○中略)―蚕婦方御骨折にて昼夜焚火を以淋雨冷湿を凌桑方は素々御差支無之様手配致置候に付、養法は十分行届実に最上の豊作にて更に申分無御座候、毎々戸田家より御賞誉相蒙候事に御座候、此段公私の至幸無此上奉存候、御安神被下御一同様へ御披露可被下候……(○中略)
        ×
 一、皇后御所御養蚕も希代の上作是以御徳沢微虫に及し候儀と感佩罷在候
 以上述べたところは、明治四年の宮中御養蚕における奉仕の模様を概略記した次第である。
 然るに、畏くも、皇后陛下には、吹上御苑内で御養蚕を取り行はせられたばかりでなく、御養蚕室から両度に亘り、壱万五千頭の蚕児を御取り寄せ遊ばされ、御室近くにて御飼育遊ばされた。即ち其の為めに、四名の蚕婦は交る大奥へ御手伝ひに参つたのである。
 此の事に就いては、荒木大七郎及び粟原ふさの日記に詳細記されてあるから、左にこれを摘録する。
        ×
 明治四年(辛未)養蚕日記           荒木大七郎
三月十四日 戸田家より吹上迄御蚕御差送、竹休少々始る休裏にて拾弐籠に分る。此分赤紙を附以来赤印と唱。
同十五日  皇后陛下行啓。蚕婦へ御菓子を賜る。
同十六日  主上行幸。
同二十一日 皇妃再度行啓。
四月三日  皇后宮行啓。
同五日   山里御蚕室御模様替に付小籠四百疋入弐籠都合八百疋赤一庭起二日目虫を揃宮中迄差出し仕度、桑は吹上より送る事。但蚕婦一人宛参内見巡候事。
 - 第3巻 p.106 -ページ画像 
同六日   主上行幸。
      御蚕四百疋弐籠。蚕婦当番鷹女付添宮中迄持上庭起三日目也。
同七日   宮中当番園女。起裏四日目也。
同八日   宮中当番房女。庭起五日目也。
同九日   宮中当番まつ女。庭起六日目也。
同十日   宮中当番鷹女。第七日目引始め。
同十一日  皇后宮行啓。
      宮中当番園女。八日目大引。拾八疋残る。
同十六日  蚕進方申分無御座候。赤マブシの中病蚕一切無し。先一段落の安堵致一同歓喜に堪不申候同日繭取扱方として宮中迄可出仕旨に付園女参内夫々及手配員数改。
        大繭五十粒。弐疋入。
        小繭六百九十粒。
        薄皮、ビシヨ共七粒。七日目五分切綿ぼうし。裸蛹三疋。
         以上八百疋也。
      但し去八日怪我致し候蚕一疋出来差替差上致候事に御座候。右の内上繭十五粒相撰折わらに造り懸け候儘切取箱に入。西京。
      皇太后へ被為進候趣園女致手当差出よし省中にて承り候へば采女御使として今十七日御発駕のよしに御座候。外に蛾五疋御用の由余は干繭及手配候。
同二十二日 御蚕、白三百五十疋、小籠一枚、青白三百五十疋、小籠一枚。右 皇后御所迄差出。当番鷹女附添。
同二十五日 皇后御所ズウ始り候に付園女参向。
同二十六日 房女参内。御所御蚕上り切る。
同二十九日 吹上御蚕不残上る。
      東京府より織子差出(但深川授産場師婦四人也)
        ×
 明治四年(辛未)養蚕日記            栗原房女
三月十四日 戸田様より蚕を持ち来る。
同十五日  皇后様行啓。お菓子を頂く。天気也。
四月六日  四つ半頃蚕御送りに相成候ておたか殿附添にて帰りに種種肴を戴く。
同七日   四つ時おその殿御奥へ差し上る。
同八日   御奥へ差し上る。
同十日   お奥へ十五疋程蚕を差し上ぐ。おまつ殿御奥へ差し上る。
同十一日  おその殿御奥へ差し上る。
同二十二日 少々雨はれ、お奥へ蚕七百疋送る。此の時おたか殿附添にて土産に御菓子を戴く。
同二十六日 御奥へ差し上る。
五月五日  御節句にて一日休み。
同六日   残らず繭掻きをいたす。それより直ぐに繭を蒸す。
 - 第3巻 p.107 -ページ画像 
同十日   吹上御庭へ御呼び出しに相成り、御掛様一同立会にて、御天杯、煙草入れ、袂落し、三品御褒美として御上より四人へ下さる。