デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第3巻 p.177-180(DK030056k) ページ画像

明治四年辛未五月(1871年)

大阪造幣局ニ出張シ、新貨幣量目公差ノ制限ヲ定ム。帰途感ズル所アリ、官途ヲ退キテ身ヲ商業ニ委ネント欲シ、之ヲ参議大蔵大輔大隈重信・大蔵少輔伊藤博文ニ謀ル。二人同ゼズ、暫ク官ニ留ランコトヲ勧ム。


■資料

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之五・第一三丁―第一五丁 〔明治二〇年〕(DK030056k-0001)
第3巻 p.177 ページ画像

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之五・第一三丁―第一五丁 〔明治二〇年〕
○上略
是より先きに○廃藩置県ヨリ先ノ意、大阪の造幣局に用事があつて、大隈伊藤吉田清成などの人々と同行して、大阪まで旅行したことがあつたが、其帰り路に於て、熟ら将来日本の経済を考案してみるに、此の末、政府に於て如何程心を砕き力を尽して、貨幣法を定め、租税率を改正し、会社法又は合本の組織を設け、興業殖産の世話があつたとて、今日の商人では、到底日本の商工業を改良進歩させる事は成し能はぬであらう、就ては此の際自分は官途を退いて、一番身を商業に委ね、不及ながらも率先して、此の不振の商権を作興し、日本将来の商業に一大進歩を与へやうといふ志望を起しましたから、大隈伊藤にも其意を吐露して、辞職の事を相談に及んだ処が、両氏とも其志は大に賛成だが、今日足下の辞職を聞届るときは、大蔵省に於て甚だ差支の筋もあることだから、今少し見合せろといふ返答であつた、自分は明治二年の冬大蔵省の租税正に任ぜられてから、度々累遷して、其頃は大蔵権大丞の現職に居て、省務の全体に関係もあり、殊に其前年から通商司の跡始末を自分に命ぜられて居たが、此の通商司といふは明治元年に大蔵省中に置かれて、東京と大阪とに於て有力の商家を協力させて、為替会社・商社・開墾会社などの諸会社を創立させ、合本営業の端緒を開いたのであるが、何分新事業ではあり、管理の人も其事に暗い所から、常に損毛が多くて、終に衰頽に及んだに依て、これを整理する為に、自分に其兼任を命ぜられて居たので、東京大阪の商業家とも時々面会して、業務上に就て種々談話もして見たが、旧来卑屈の風がまだ一掃せぬから、在官の人に対する時には、只平身低頭して、敬礼を尽すのみで、学問もなければ気象もなく、新規の工夫とか、事物の改良とかいふことなどは、毛頭思ひも寄らぬ有様であるから、自分は慨歎の余り、現職を辞して全力を奮つて、商工業の発達を謀らうといふ志望を起したのであります、
此の大阪行きは、明治四年の夏であつた、○下略
 - 第3巻 p.178 -ページ画像 

青淵先生公私履歴台帳(DK030056k-0002)
第3巻 p.178 ページ画像

青淵先生公私履歴台帳
同○四年五月 御用有之大坂へ出張被仰付 同○太政官


百官履歴 下巻・第一四〇頁〔昭和三年二月〕(DK030056k-0003)
第3巻 p.178 ページ画像

百官履歴 下巻・第一四〇頁〔昭和三年二月〕
            東京府平民 渋沢栄一 篤太郎
○上略
同月○四年五月十三日 御用有之大坂表へ出張被仰付候事


会計官出納司御用留 明治二―四年(DK030056k-0004)
第3巻 p.178 ページ画像

会計官出納司御用留 明治二―四年 (三井文庫所蔵)
 (明治四年五月)
一今般造幣寮御規則御評議御出坂御方々左ニ
 大隈参議様 伊藤大蔵少輔様 御国ヨリ御出坂井上同少輔様
 渋沢様 吉田様 立様 東京ヨリ御主坂遠藤権頭様
 大保参議様《(大久保参議様)》 御帰坂久世様
右去ル十六日横浜御出帆、一昨廿日御坂着被遊、尤箕村利左衛門御供ニ而出坂致当店表ニ而逗留致候、右ニ付御役員様方ヘ御着恐悦且差上物左之通
       御旅館造幣寮応接所
 ヒール五本
        宛       大隈
カステイラ
 三斤入壱箱          伊藤様
            同加島屋新五郎宅
                井上様
            御旅宿造幣寮応接所
ヒール五本           渋沢様
カステイラ三斤入壱箱
同    弐斤入壱箱      吉田様
              〃
カステイラ弐斤入壱箱  立様
同断          遠藤様
同断          久世様 各名札 三井八郎右ヱ門代 三井元之助
右之通八郎右衛門様、元之助様御組合ニ而差上申候、尤箕村利左衛門井口新三郎廻勤いたし候事
  外ニ
   カステイラ
     三斤入壱箱  木戸様  名札 三井八郎右ヱ門名代 箕村利左ヱ門
  未五月廿一日


造幣寮日記 明治四年(DK030056k-0005)
第3巻 p.178 ページ画像

造幣寮日記 明治四年            (造幣局所蔵)
五月廿日
一同廿日 大隈参議殿、伊藤大蔵少輔殿、渋沢大蔵権大丞殿、吉田大蔵少丞殿、立広作殿、御着応接所御旅館相成候事


造幣事務書類提要 第一輯第四冊(DK030056k-0006)
第3巻 p.178-179 ページ画像

造幣事務書類提要 第一輯第四冊       (造幣局所蔵)
 (欄外朱書)            (朱印)
  辛未六月十五日録局ヘ托し相達ス 渋沢
此程大隈参議伊藤少輔其外大坂造幣寮ヘ出張之上新貨幣量目公差之制
 - 第3巻 p.179 -ページ画像 
限表面之通相定ルニ付、別紙案文之趣ヲ以各国公使ヘ夫々御達方御取計有之度、別紙添此段御照会およひ候也
  辛未六月
                  大蔵省
    外務省
      御中
(別紙)
以書翰啓上いたし候、然ハ今般大坂造幣寮於テ新貨幣鋳造ニ付実験之上不可止之量差ヲ較計シ右公許之制限別紙表面之通商定いたし候ニ付其旨貴国人民江御布告有之度、仍而別紙公差表添此段申進シ候也
  辛未六月
                 外務卿輔
   各国公使
      閣下
○別紙公差表欠


渋沢栄一 書翰 千代夫人宛(四年)五月二一日(DK030056k-0007)
第3巻 p.179 ページ画像

渋沢栄一 書翰 千代夫人宛(四年)五月二一日 (芝崎猪根吉氏所蔵)
  五月廿一日従大坂
以手紙申入候、然は当月十六日朝横浜よりフランス飛脚船に乗組、十八日夕兵庫着、同夜は風雨強く沖中にて碇泊いたし、十九日朝神戸港に上陸候、昨夜之風雨ハ実ニはけしき事にて、家も船もおひたゝしく破れ申候、人も三百人斗死人有之候よし、されとも此方一同無事上陸誠ニ幸之事ニ御坐候
昨廿日夕方大坂着、天満浩幣寮ニ止宿いたし候、此段御心配被成間敷候、産後之肥立如何候哉心配いたし候、折角大切ニいたし度、子供ハいつれも手当よく行届候事肝要ニ候
角次郎ニ申付田舎へも無事大坂着之事申通度事ニ候、其外何事も心を附候様いたし度、火之元戸鎖別而厳重ニ有之度、時々其地之様子も申越候様頼入候、帰京ハ当月下旬来月上旬まてニ可有之候、尚追々可申越候へとも不取敢無事着之御知らせまて かしく
  五月廿一日
                        篤太郎
    於千代との
  気を遣ひ肥立あしけれハ後々まて不為ニ付、度々医者を頼み薬用もいたし度、第一心配大毒ニ候間気を休め心を静ニする方専要ニ候
  兵庫神戸辺之荒《あれ》方ハ実ニ愕《おとろく》入候事前にもいふ三百人も死人有之、家の流れ候も船の破れ候も数知れさる位ニ候、然処此方一同乗組之船ハ随分風にゆられ、波にうたれ候へとも、無難なるハ天の幸とも可申事御悦可被成候


渋沢栄一 書翰 大隈重信宛(明治四年カ)六月二九日(DK030056k-0008)
第3巻 p.179-180 ページ画像

渋沢栄一 書翰 大隈重信宛(明治四年カ)六月二九日 (大隈侯爵家所蔵)
拝稟、昨今廟上之御模様奉恐察候処、何か御変更之事共可有之歟、就而は本省諸官員之如きも夫々御淘汰御坐候事と奉存候、自然其辺之御次第にも相成候ハヽ、小生義は頃日来懇願之次第も有之候間、何卒此処にて免職相成候様御提撕奉希候、御模様によりては早速辞職之上表
 - 第3巻 p.180 -ページ画像 
仕度相考居候得共、平生不容易御眷顧も蒙り居候義ニ付、見越し候事奉伺候も実ニ恐悚之至ニ候得共、一応素意閣下ヘ上陳仕候義ニ御座候御垂憐之上御指揮之程奉懇祈候 謹言
   六月廿九日
                        渋沢栄一
    大輔大隈閣下


芝崎猪根吉氏所蔵文書(DK030056k-0009)
第3巻 p.180 ページ画像

芝崎猪根吉氏所蔵文書
去ル十八日神戸暴風雨ニ付、於当省甚心配罷在候処、大隈参議始無事着船之旨昨夕横浜通商司ヨリ報知有之候間、此段不取敢申入候也
   五月廿五日
                        大蔵省
                          録局
渋沢少丞殿
    執事
 ○右ハ大蔵省ヨリ栄一留等宅ヘノ通報ナルベシ。