デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第3巻 p.185-194(DK030064k) ページ画像

明治四年辛未七月三日(1871年)

制度取調御用掛ヲ仰付ケラル。


■資料

太政官日誌 明治四年第四十三号自七月三日至八日(DK030064k-0001)
第3巻 p.185 ページ画像

太政官日誌 明治四年第四十三号自七月三日至八日
○七月三日 辛卯
             大蔵権大丞 渋沢栄一
             地理正   杉浦譲
 制度取調御用掛被 仰付候事


百官履歴 下巻・第一四〇頁〔昭和三年二月〕(DK030064k-0002)
第3巻 p.185 ページ画像

百官履歴 下巻・第一四〇頁〔昭和三年二月〕
           東京府平民 渋沢栄一 篤太郎
○中略
同年○四年七月三日 制度取調御用掛仰被付候事


大蔵省沿革志 本省第五・第一丁(明治前期 財政経済史料集成 第二巻・第一六四頁〔昭和七年六月〕)(DK030064k-0003)
第3巻 p.185 ページ画像

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世外侯事歴 維新財政談 中・第二二六―二三〇頁 〔大正一〇年九月〕(DK030064k-0004)
第3巻 p.185-187 ページ画像

世外侯事歴 維新財政談 中・第二二六―二三〇頁〔大正一〇年九月〕
渋沢男 廃藩置県の発令があつた、其原因及び実情は、井上さんが能う御記憶ですけれ共鳥渡申さば大体の起原は、どうしても此姿では政治を行ふに根本が立たぬ、朝廷はあれども、各藩が旧の如く割拠して居るのだから、王政維新の基礎が立たぬと云ふ議論が、政治界に
 - 第3巻 p.186 -ページ画像 
大分ありまして、又実際天下統一の政治は出来なかつたのです、是では困るから、統一の政治をしたらと云ふ事は、其時分の主唱者が井上さんでありましたらう、明治四年と私は覚えて居ります。其年の春でした、後藤象次郎さんなどが、矢張り其相談相手になつて居つたと私は記憶して居る。当時伊藤さんは其主たる相談仲間には入らなかつたやうに思ふ。どう云ふ事情であつたか、其時の行掛りを能く覚えませぬ。尤も三年冬、亜米利加に行きましたから、それでまだ帰らない、帰つても前後の続きが、まだ付かなかつた為であつたかも知れませぬ。六月の始めか五月の末か確と覚えませぬが、何でも少し暑くなつた頃と思ふ、一つの「御議事」といふものが出来た、則ち内事局であります、特殊の問題を評議する議事局が出来たのです。それが主として木戸さん、西郷さん、大隈さんも入つて居つた筈、それから井上さんなど、さう云ふやうな人で、そして今のやうに職制が秩然としては居なかつたのです。マア有力者が寄つて評議する様な話で、御城の能舞台がありまして、それを議事堂にし集つて評議した。それで私共は大蔵省に職掌を持ちつゝ、其処に書記官を兼任して、終始出席した者だから覚えて居ります。其評議の有様は、なかなか論客が多くて、寄ると議論が多い、唯形勢論です、悪く言ふと空論です。其中で何でも西郷さんは唯黙つて聴いて居られた。其うちにどうも帝室に関係する事もあるから、さうなつて来ると吾々ばかりで評議しても、少し順序が悪いといふので、三条さんと岩倉さんに御列席を請ふといふので、其建白書を書きました。此議事に就て政体、或は施政方針を論ずると云ふ様になれば、恐れながら帝室の事にまで、立入つて論ずる訳になる、就ては太政官から大臣参議が出席して、議事に列して戴いたら宜からうと思ふといふ大意である。其書方が悪いと云つて二度ばかり書き直させられたのを覚えて居る。余程政治家のえらい連中を皆網羅して居た、木戸さんが最も世話役でしたよ。頭に立つて……、そこで右の建白書を三条さんに差出すに就て、木戸さんが、西郷さんに同意を求めた。すると西郷さんの意中がどうも分らない、同意しないのか、するのか、能く煮切らない。こんな事をやつて之を評議して、何の功能があると云ふ様な意味でした。まだ戦争が足りない、も少し戦争せにや、真正なる平和は六ツかしうござる、それに斯様な小理窟を言つて見た所が、功能のあるものではなからうと思ふ。斯う云ふ主意の様でしたが、私が今言ふ様には言はないで、唯へイへイと言つて「まだ戦争が足りない様にごわすネ」と、斯う言つて居つた。戦争が足らぬと言ふけれども、無理に戦争する訳には行かぬ、戦争すべき必要が出現してからやるのだから、戦をするのは、其上で宜いぢやないか、故に此事は此事として、賛成されても宜いぢやないかと云つて木戸さんが勧めたが、なかなか同意しない。それで井上さんが、其時ヤケを起したか知らぬが「つまらない、こんな事をやつて見た所が何にもならぬ、私共は忙しい身体を此処に出て居るが、何の功も無い」と言つて、大層怒つて暴言らしき事を言つたのを、私は覚えて居る。私共にも、君そんな物を書いたつて無駄だ、よせよせと
 - 第3巻 p.187 -ページ画像 
か言はれた。なかなか其時分の御役人様の交際は随分乱暴で、政府と云つても左様然らばではなかつたから、それで既に書いた評議書をこんな物無駄だとか言ふて、夕方になつて帰つてしまつた。其日の会は翌日もやるべき筈のを、もう出るには及ばぬから出るなと云つて、私は出なかつたのを覚えて居る。其後二三日過ぎると井上さんに招かれて、あれは大分理由があつたのだ。愈々やるんだからと云ふ事で、何でも大久保さんも其時は一緒でしたらう。それが廃藩置県をやる、所謂前触なんだ。戦をせにやならぬと云ふのは、廃藩置県を為る整理をやれば宜い。それに反対の藩に対しては戦争をせにやならぬと云ふので、結果から言ふたから覚りの悪い者には分らなかつた。何でも其議論は西郷さんがそれを考へたのか、井上さんあたりがそれを考へたのか、分りませぬが、夫より外仕方がないと云ふ事になつて、何でも瞬速の間にさう云ふ国家の重臣連中の評議が決定したと、斯う私は承つて居ります。此事は私の記憶は右の通りですが、或は間違があるかも知れぬ、御議事といふ時の事は私は文書を取扱つたので能く覚えて居ります。(明治四十一年十二月三日)


竜門雑誌 第四四七号・第二―五頁〔大正一四年一二月〕 進退を共にした井上馨侯(青淵先生)(DK030064k-0005)
第3巻 p.187-189 ページ画像

竜門雑誌 第四四七号・第二―五頁〔大正一四年一二月〕
  進退を共にした井上馨侯 (青淵先生)
    一
○上略 私が大蔵省へ出任した事情は屡々云ふたやうに、大隈さんに私の心情を打ち明け「仰せに従ひませう」と云ふので、深く意見の交換も行つて居た。当時大隈さんが大輔、井上さんが少輔であつたから、井上さんは「詳細は大隈から聞いた」と云ふ風で、最初から親切にしてくれた。そして大蔵省の改正係の組立は大隈さんがしたが、係の指揮者は井上さんで、係長は私であつた。その実行調査の事項は、貨幣制度の確立とか、公債発行並に取扱ひ制度とか、銀行の組織等で、新しい此等の仕事に対しては、伊藤さんが三年の初めに米国で調べて来たものを、四年になつてから実施しやうとしたのであつた。その衝に当つたのが井上さんであつた、其の時は大輔になつて居たのである。
 一体井上さんも伊藤さんも長州人で、甲乙なかつた訳であるが、薩州人たる大久保利通さんに伊藤さんは嫌はれた。米国から帰つた時アメリカ風を吹かせたと云ふので、切角調べて来た財政経済の制度も大蔵省へ置いたまゝ、大阪の造幣局長に左遷せられたのであつた。処が一方井上さんは大輔となり、大久保大蔵卿に代つて其の事務に任じたので、真に大久保さんと井上さんとは相許し合つて仕事に任じて居たと云へる。又私はそれ等の仲間と云ふ地位ではなかつたけれども、井上さんは専ら共々に仕事をしやうと、私などにも親しく接して来たのである。私も其の志なり手腕なりを信頼せられたので大いに働いた。従つて改正係から実務に就て、租税頭、権大丞それから大丞、続いて勅任官三等出仕となり、少輔と同地位に進められた。其時吉田と云ふ少輔が欧洲へ行つたので、其代りの事務を執つて居たが、其後遂に辞職するやうになつたのである。
 扨て大蔵省の仕事を本当にやり出したのは四年の春からで、井上さ
 - 第3巻 p.188 -ページ画像 
んが大阪から出て大輔となり、大蔵卿の伊達さんが止めて、大久保さんが代り、伊藤さんは大阪へ行つて留守であり、専ら井上さんが伊藤さんの調べて来た制度の実施に当つたのである。従つて私も井上さんと親しく接し、お宅の方へも伺つて、殆んど形と影との如くにして居たのである。
    二
 私達当時の考へでは、現在の有様で政治を進めて行くことは難しい。必ず現状を打破して一つの政体を確立し、全国を統一しなければならぬと深く感じて居た。其の時は未だ藩はそのまゝ残されて、地方の政治を専らにし、郡県制度にならぬ以前であつたから、所謂廃藩置県の必要を力説したものである。然し根本的に其の実際に就て立入つた相談を受ける程の地位ではなかつた。当時廃藩置県の議論は中々喧しく薩州と長州とで之を主張し、他を圧へつけて実行すれば出来ると唱へるものなどあり、私なども同様の意見を持つて居た。よくは記憶しないが、今日の閣議のやうな評議の席が、江戸城内の舞台で屡々行はれ、卿とか大輔とかの人々、今の大臣とか次官とか云ふ人が集つて評議した。会議は二三ケ月も続いたと思ふ。西郷(隆盛)、木戸、大久保、大隈、伊藤、江藤と云ふやうな人達が出席して評議して居たが、私は内書記の様な大内史と云ふ兼任を命ぜられて、会議に列席して居た。同役に杉浦愛蔵も居たのである。
 此御議事に付て一挿話がある。それは御議事は重大なる評議であるから、三条、岩倉両公にも出席を乞はねばならぬといふことになり、両公に建議しやうと云ふのでその建議書を私が書く事になつたから、私は直ちに之を文章とした。此書面は木戸さんから二度ばかり修正せられて或る日の議に上つた処、其時西郷さんの答が人と変つた処のある有様に驚いた訳である。西郷さんとは、私が京都で一ツ橋の家来となり、周旋役のやうなことをやつて居る時、会つて知つて居るが、其時分とは大に趣を異にし、此の議事の間では、西郷さんは堂々たる参議であるのに、私は秘書役であつたから、直接口をきく様な事はなかつたのである。
 木戸さんから、会議に三条、岩倉両公に出てもらふことにしやうと思ふと云ふことから、建議書の話をすると、西郷さんは直ぐに
 『左様な議を君側の人々に図る必要が何処にあるか』と云ふ、
 『いやある、議に参加してもらつて、実行に先だち、上の御諒解をあらかじめ受けるのが主意である』と誰かゞ説明した処、
 『何んの効能もありますまい、兎に角未だ戦争が足りませんね。戦争をしないと治まりますまい』と云ふ、
 『戦争も必要ならせねばなりますまいが、戦争を無闇にすることは出来ますまい』
 『さうかも知れぬ。然し人気がこのまゝでは駄目である。それには戦争ですぞ』と戦争一点張である。
 で結局三条公や岩倉公を議に参加を乞ふても効果はないと云ふのである。私も三度から建議書を書いた関係から大いに憤慨し、大蔵省へ帰つてからも「判らぬ人だ」と井上さんに話し、私はこんなことでは
 - 第3巻 p.189 -ページ画像 
評議は駄目であると思つたのである。確か六月一日かであつたかと思ふが、其後は出ずにしまつた。然るに暫くしてから、井上さんが
 『西郷さんは、どうも馬鹿げた事を云ふ人だと思つて居たら、馬鹿げて居ない。あれが皆で評議して居る廃藩置県論なのだ。そしてそれをやらうと云ふのだが、とつつけもない処から云ひだすものだから、人に判らぬので、実はさうすると騒動が持ち上ると云ふのであつた』と聞かされた。
 此事は内密の話であつたが、主な人々の間にも色々の説があり、山県さんとか三浦さんなども説があつたさうである。西郷さんと云ふ人は一寸斯う云ふ風な言ひ方をする人であつた。この話は井上さんとの直接の話には関係がないやうであるけれど、私が秘書官の様な仕事をした当時のつけたりの話で、何時か誰かに西郷さんとの関係を談話した時にも話したことがあるのである。


竜門雑誌 第四六一号・第九〇―九一頁 〔昭和二年二月〕 西郷南州(青淵先生)(DK030064k-0006)
第3巻 p.189-190 ページ画像

竜門雑誌 第四六一号・第九〇―九一頁 〔昭和二年二月〕
  西郷南州 (青淵先生)
○上略
 この時、西郷は、参議、近衛都督として、明治政府の中堅となつてゐた。
 丁度、明治四年七月始、廃藩置県になる前であつた。
 今日で申せば、内閣々議が開かれ、木戸孝允、後藤象二郎、江藤新平をはじめ、其他の諸卿がずらり居流れて、議案について議論をたゝかはした。
 君主権と政府権とを区別せねばならぬといふのが、端なくも問題となつて、火花をちらした。私は、大内史の役を承つてゐた為、会議に列席してゐたのは云ふ迄もない。
『とに角、重大案件である故、吾々が勝手にとりきめることは宜しくない、三条、岩倉両公にも、御出席を願つて、御相談を申上げようではないか』
 さういふことに一決して、木戸に代つて私が、両公呼出しの手紙をかいた。
 そこへ西郷がぬつと入つてきた。
『君主権と政府権との区別について、両公に親しく臨席願つて、意見を開陳しようと思つてゐる。これが手紙だ』
 木戸は、その書面を西郷にわたすと、彼は、独特な大きな眼をむいて、一座をねめまはしてゐた。
『まだ戦争が足りませんな』
 突拍子もないことを云ひ出した。
 君主権と政府権との区別問題に、まだ戦争が足らぬといふのは随分妙な言葉である。
『西郷は、少しうつけだな』
 私は、その刹那、さう思つた。私のみではない一座のものが、大方さう信じてゐたに違ひなかつた。
 かへりに井上(馨)大輔の馬車に同乗したので、私は質問して見た。
 - 第3巻 p.190 -ページ画像 
『今日、西郷さんが妙なことをいふたが、あれは一体何のことですかい』
『さア、俺にもどうも分らん』
『何も、戦争をもち出さなくてもよさ相のやうに思ひますが、何んなものでせうか』
『まるで、雲をつかむやうな話だな』
 井上も首をかしげてゐた。
 で、二三日は、西郷は馬鹿者だといふことに決めておいた。
 すると、暫くたつた後だつた。
『おいおいやつと分つたぞ』
 井上が、私をよびかけた。
『何がで厶りますか』
『西郷さんのいうた言葉が分つた、近く、廃藩置県が行はれる、さうなると、必ず、これに反対の旧藩のものが、叛旗をひるがへすに相違ない。これを討伐して後、始めて新政府の基礎が出来る、今から、君主権と政府権の区別を彼是いふ奴があるかい、まア一口にいへばさうなんだらうが、どうだ』
『成程、さうかもしれませんな』
『いや、さうなると、お互に忙しくなる、もつと勉強せんといかん』
 斯う語り合つたことだが、この時、私は、西郷に驚くべき先見の明のあることを知つた。そこで始めて、西郷、恐るべしと感じたのである。


市河晴子筆記(DK030064k-0007)
第3巻 p.190-192 ページ画像

市河晴子筆記              (市河晴子氏所蔵)
  西郷との交渉(一)
 この御話は明治四年の六月末日のことです。その当時新政府では江戸本丸の御能舞台に椅子テーブルを置き、会議所としてこれを「御議事の室」ととなへ、こゝで要路の人々が重大事をとりきめた。
 西郷隆盛・大木民平(文部卿)・副島種臣(外)・木戸孝允(参議)・井上馨(大蔵大輔)・江藤新平・寺島宗則・後藤象次郎等が祖父上の記憶にはつきりしてゐる。
 その人々は参議・卿・大輔級の面々で、当時租税司の祖父上はまだ連席の資格は無かつたが、その人々の論議を文書にまとめる為に達文の士がこれを書記する必要もあり、一方井上馨は常に祖父上を引き立てゝ居られたし、又当時祖父上は二三度江藤新平と国事を論じその人物をみとめられてであつた際故、やがては大立物となるべき祖父上に檜舞台を見せておくと云ふ意味もあつたらう。この両者等の尽力で祖父上は権大書史としてその席に加へられ、杉浦愛蔵は小書史としてこれに従つた。
 会議数回の後議題は当時最も必要を感じさせられた朝廷の御権限を明かにする方法にうつつた。後々の憲法に相当するさしあたりの取り定めを作りたい、それにはこの御議事の間はもともと立法所ではなかつたが、要路の面々の顔のそろう所故こゝへ太政大臣・右大臣の出席をも乞うて会議に貫禄をつけ、十分に議を練つてから奏聞しやうと云ふので、三条公・岩倉公の出席を乞う理由の文書を書けと云ふ命が祖
 - 第3巻 p.191 -ページ画像 
父上に下つた。
 何しろ事柄が事皇室にかゝつてゐる為その文書も中々苦心を要し、重に木戸・江藤等の指導の下に度々書き改めて、ほゞこれでよいと定つた。しかし当日は西郷が欠席であつたので、翌日又会議を開いて木戸公からその案を説明した。
 ところが西郷はてんでわからない様な顔をする。これは文書の意味に理解出来ぬ点があるのかと祖父上もいろいろ説明された、すると「いや話の筋はわかつてゐ申すが、そぎやんことどだい何の必要がごあす」と云ひ、又「まだ戦な足り申さない」とか「もすこし戦争せななり申さん」の一点張りで、木戸公がいろいろ説明されてもまるで話に乗らない。
 細長いテーブルの頭に木戸 ○ ○ 西郷と二人並んでゐられたが、木戸公は西郷の方を向きなほつて「……」と説明される。西郷はその一々には答えず只「おはんはもう一と戦してからでなくてはそぎやん御相談はしたく無か」と云ふ様な頭ごなしなことばかり云つて、二三時間は只押問答のうちに過ぎ、次第に憤激して席を去る者も出来、つひに評議は締らずに終つた。
 祖父上は井上馨と共に大蔵省に帰られるや、「一たいありや何のざまだ、偉い人たちのより合ひと云つたつて、子供の小田原評定じやないか」とプンプン云はれ、井上が「西郷はまさかあんな馬鹿じゃないよ、何か底にあるよ」となだめた。
 しかるに数日後井上は祖父上を呼びかけて「解つたよ解つたよ、西郷のこの間のとぼけの訳がすつかりわかつたよ」と説明されるところを聞けば、西郷の真意は廃藩置県が先決問題である、廃藩置県を本当にやりあげたその土台の上にそれ等の法制を建てなければならぬ。今急いで目下の中途はんぱな世の情勢を基として左様なとりきめをしてしまふ事はむだである以上に、事皇室にかゝつてゐるから軽々しく改廃するのは敬意にも欠け、困難をも生じるからよろしくないと云ふのであつたが、この廃藩の事は絶体に秘密を要すのであつたと云ふのは、一度これを勅命としておゝせ出されてからこれに反対すれば朝敵となるから誰れもつゝしむが、まだ勅命として下らぬ先に漏れ聞いてこれに反対するのは底意は自己の利益から割り出した論にもしろ、御国の乱れんことを憂へると云ふ立派な口実のある一つの政治意見として発表し得るから、多くの藩主が騒ぎ立てゝ事が成就しないであらう。
 又一方当時は藩の発行してゐた藩札と政府の出してゐた太政官の金札とが二つながら行はれ、有力な藩では藩札の方がよく通用すると云ふ事情も有つて、廃藩置県の必要も此の為にいよいよ痛切であり、又これを勅命の下る日まで秘密にしておくことが物価に対しての影響等の経済方面からも緊要なのであつた。そこで西郷は露骨をさける為と一つにはこの重大事を決行するには戦の覚悟無かるべからずと云ふ意味とで、あの様な謎を云つたのだと、井上は説明して「それならそれで又何とか云ひやうもあらうに、あゝ云ふとぼけ方をするのが西郷さんの癖だ」と祖父と共に苦笑した。
 しかし井上にしても祖父上にしても時勢に明るき人は皆廃藩置県を
 - 第3巻 p.192 -ページ画像 
切望してゐた際とて、ちとの不快は忘れて大いに喜び、この改革は前に云つた藩札の関係上大蔵省としてはことに用が多く、七月十四日勅命の下る前後はしばしば徹夜で奔走されたと云ふ。


青淵先生伝初稿 第七章一・第五三―五八頁 〔大正八年―一二年〕(DK030064k-0008)
第3巻 p.192-193 ページ画像

青淵先生伝初稿 第七章一・第五三―五八頁 〔大正八年―一二年〕
明治四年五月九日先生大蔵権大丞に進み正六位に叙せられしが、七月三日制度取調御用掛兼勤を命ぜらる。今この兼勤の由来を按ずるに、当時政府にては大久保利通・木戸孝允等の間に庶政大革新の議あり、即ち悉く従来の参議を罷免して、新に西郷隆盛・木戸孝允を参議となし、以て薩長二藩の権衡を保つと共に、諸省の卿輔をも改任せり。かくて大革新の方針を立て、其要務を議定せんが為に、四年六七月の交、大蔵卿大久保利通・司法大輔佐々木高行・大蔵大輔大隈重信・民部大輔大木喬任・民部少輔井上馨・神祗少副福羽美静、兵部少輔山県有朋外務大輔寺島宗則・工部大輔後藤象次郎・中弁江藤新平に制度取締専務《(調)》を命じ、先生及び地理正杉浦譲に其御用掛を命じたるなり。而して先生を推挙せしものは江藤なりしといへり。此時協定せる議事規則に「人材輩出し文明富強に至る各国進歩の因来を考明し、海内目今の事体を潤飾し、旧来の弊習を一洗して、国家の隆運を著眼し、制度を定むる事、西郷参議・木戸参議を議長とする事、議員は毎日第十時に会集し、第十一時に至り議長出席あつて議を始め、第三時に終る可し、一議事局を了れば議長並に各員調印して右大臣に出し奏聞制可を経て法とす」とあるにて、其職務の大概を知るべし、即ち参議及び各省の卿輔等を以て組織せる最高の会議所にて、之を議員と称し、会議をば御議事と唱へたり、宮中の一室を会議場に充て、先生は御用掛として之に列し、各種文案の起草事務の整理に従ふ、即ち書記官なり。会議の諸項は国家大政の機軸に係り、自ら君権にも論及せざる可からざる程の重大事なれば、議事開局の初め、右大臣三条実美大納言岩倉具視も出席して、委任の権限を決定あるべしとて、伺書を大臣納言に呈出せり。実に先生の執筆に係れりといふ。伺書に対して「議員商定せし事件、連署して制可を請ふ時は、速に奏聞して準允あるべし。若し準允あらざる時は、其道理を説明すべし。議員其説明を不当とする時は其事を覆案するを得べし。可否するの日限は、決して三日を踰ゆべからず。制可ありし事件は、必ず実際に挙行するものとすべし。右の権議員へ御委任の事」といへる指令下りて、議員の権限始めて定まり、即ち其奏聞准允を経たるものは実際に挙行せらるべきものとなる。かくて新政の最大案件たる廃藩置県の議の此会議の評論に上りし時、先生また旨を受けて議案を草し之を提出せるに、西郷参議は一見し了つて可否を論ぜず、たゞ「戦争はいまだ足らざる様なり」といへる一語を発するのみ、木戸参議は「戦ふべき場合には何時にても戦はん、要するに戦の必要生じたる上の事にて然るべし」と言ひ、後藤も何か口を出したるが、西郷は同じ言を繰り返すのみにて要領を得ざれば、決議を後日に譲りて散会せり。先生傍に在りて之を聴きたれども、戦の意議を解せざりしに、後に聞くに廃藩置県は非常の大事にて、世上の反対多きに相違なければ、其断行には開戦を覚悟するの大決心なかる
 - 第3巻 p.193 -ページ画像 
ベからずといふ西郷の意見なりしとぞ。是において先生は西郷が前提を述べすして直に結論を説くの人たるを知り、これ彼の長所にして又短所なりとも知りたるが、其規模の遠大なるに服せりといふ。かゝる決議の事実となりて現はれしは、即ち七月十四日の廃藩置県の詔勅と同月二十九日の太政官官制の更定となりき。


世外井上公伝 第一巻・第五〇一―五〇四頁 〔昭和八年一一月〕(DK030064k-0009)
第3巻 p.193-194 ページ画像

世外井上公伝 第一巻・第五〇一―五〇四頁 〔昭和八年一一月〕
   第六節 制度調査機関設置
 二年四月十七日に議事取調局を廃して制度寮を置き、我が国の制度及び律令を修制せしめたが、五月十八日に至り之を廃して制度取調所を置き、更に八月には之を制度局と称した。而して翌三年正月二十八日に又之を大史局の分課と為した。閏十月三日に、伊藤博文は命を奉じて米国に渡り制度を調査し、翌四年五月に帰朝した。然るに廃藩置県といふ重大問題の発令断行が近づいたので、この準備として六月二十九日に大久保利通・佐佐木高行・大隈重信・公及び福羽美静・山県有朋・寺島宗則の七人、七月二日に大木喬任・後藤象二郎・江藤新平の三人を制度取調専務とし、ついで渋沢栄一・杉浦譲・宍戸璣等を制度取調御用掛とした。而して五日に議事規則凡十七箇条を定めたが、その重なるものは、(一)人才輩出し文明富強に至る各国進歩の因由を考究し、海内現今の事体を潤飾し、旧来の弊習を一洗して国家の隆運に著眼し、以て制度を立てる事。(二)西郷・木戸の両参議を議長とする事。(三)一議事局を了れば、議長並びに各員調印して右大臣に出し、奏問制可を経て法とする。(四)議論数端に分れて帰一せぬ時は、多数の説につきて議長之を決する。(五)議事中に論議した事は、何事でも違法違令を以て之を咎めることを得ない。(六)この議に与かる者は決してその議事を他人に洩してはならぬ。若し他に洩れたならば、之を推窮してその泄した者を所罰する等であつた。
 而して八日に国体論に及んだが、
      国体
   今我国体ヲ建ル、先ツ其基礎ヲ審ニセズンバアルべカラズ。現今宇内各国ノ体裁ヲ参考シテ、我ガ適正ノ体ヲ創立スル須ク左ノ三項中ニ就テ之ヲ撰定スベシ。
    会議定律
    定律中独裁ノ旨ヲ有スルモノ
    独裁中定律ノ旨ナルモノ
  之ヲ撰定スル如何。
当日大久保と山県とが欠席したので、結論に至らず、大改革に関するもの数件を議定するのみであつた。翌九日にこの論題は重ねて議事に上つた。木戸の日記同日の条に、「大久保等大ニ談論。彼過日来不解処モ稍似有解者、制度之事皆其末ヲ論ジ、其本ヲ論ズルモノ少シ。依而確立スル甚難シ。」とあるによつて大いに討論されたことが判る。この夕、木戸邸の会合があつて、廃藩断行の議が決せられたのである、継いで十日に制度調査会議は廃藩断行の後にするのが至当であらうといふことになり、木戸を除いた他の議員は出席して議事章程を定め、
 - 第3巻 p.194 -ページ画像 
諸藩に渉る旧法令・制度の改廃・新規の創立等に就いて論議する所があり、翌八月に至るまでに大体を議了したので、八月十二日に公及び大久保・佐佐木・大隈・福羽・山県・寺島・後藤・大木・杉浦・宍戸吉井友実。宮内大丞等は取調御用を免ぜられた。かくの如くして廃藩置県の実施に関する機関その他が略々整備された。大阪にある伊藤は七月八日に米国で調査した材料を基として、制度変更意見を公及び大隈の手を経て政府に提出した。これは稍々提出後れの嫌があつたが、当時制度上に関する意見として注目に値するものである。井上侯爵家文書・木戸孝允日記・太政類典 大蔵省沿革志