デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2022.3.15

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第3巻 p.197-205(DK030067k) ページ画像

明治四年辛未七月十四日(1871年)

詔シテ藩ヲ廃シ県ト為ス。是日諸藩発行ノ藩札ヲ時価ヲ以テ交換スベキ旨ヲ予告シ、其順序ヲ定ム。栄一ノ主トシテ調査スル所ナリ。


■資料

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之五・第一一―第一二丁〔明治二〇年〕(DK030067k-0001)
第3巻 p.197-198 ページ画像

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之五・第一一―第一二丁〔明治二〇年〕
○上略
彼是する中に、やがて廃藩置県といふ政略上の大問題が起つて、其れが為め朝野の間に議論が余程喧しかつたが、遂に七月の中旬に至つて此の事が決定して、全国へ布告になりました、抑も此の廃藩置県といふことは、其前から薩摩長州などの雄藩が率先して、封土奉還とか、又は藩籍返上とかいふ願書を続々奉呈する勢ひであつたが、当時国家の柱石元勲といはれた西郷・木戸・大久保などの間に於て、兎角協議が調はぬために発表に至らざりしが、漸く其議も一致して、此の布告を見ることになつたのであります、偖て此の布告の発する場合に際して、尤も注意を要する一事は、其頃諸藩に行はれて居た藩札の引換法に関する布達である、今此の廃藩の布告が既に発した後に於て、仮に其引換を拒むと見られよ、其極、終に竹槍席旗の騒動を見るに至るは必然でありませう、若又前以て朝廷に於て引換るといふ時には、忽ち其価が騰貴して、其間に於て僥倖の利を射るものが多く出来て、是亦一の弊竇を造るの虞れがあるから、何分にも此の藩札引換の布達は、廃藩の布告と、其間髪を容れざるものである、故に大蔵省に於ては、速かに其交換の方法を予定して置て、廃藩の布告と同時に、全国へ令すべしといふ事になつて、七月十三日は休日であつたけれども、自分は特に出勤して、其調査をしたことでありました、
此の廃藩置県の大号令と共に、大蔵省の事務は益々繁忙を加へて、就中廃藩の跡始末を整理するのが、実に非常の困難であつた、尤も至急を要せねばならぬ事柄だから、自分は井上の指揮に従つて、僅に両三日の間に其方法を立案して、数十枚の処分案を条記し、これを井上の手許へ出したことがある、其処分の大目は、藩々金穀の取締から負債の高、藩札の発行高、又は租税徴収の方法、其他、各藩に於て種々施設中に属する事業の始末等までも関連して居て、なかなか面倒のもの
 - 第3巻 p.198 -ページ画像 
でありました、○下略


世外侯事歴 維新財政談 中・第二六九―二七三頁 〔大正一〇年九月〕 二四 藩札の処分(DK030067k-0002)
第3巻 p.198-199 ページ画像

世外侯事歴 維新財政談 中・第二六九―二七三頁〔大正一〇年九月〕
    二四 藩札の処分
            男爵 渋沢栄一 大谷靖 佐伯惟馨
            侯爵 井上馨 伯爵 芳川顕正  談話
渋沢男 四年の廃藩置県の、二箇月と隔らぬ前の事です、愈々廃藩置県をやると云ふに就て、速に解決しなければならぬ事は、諸藩の札の処分である。
 廃藩置県の発令の前日に、私一人ではなかつたと思うふが、大蔵省の大少丞(各局長をやつて居ました、今の書記官)等が今日の藩札の相場を早く極めるが宜からうと云ふ事を、何でも郷純造さんなどが其時の主張者でありましたらう、其節も尤も井上さんの担当でありましたが、若し政府が引換をすると云ふことになれば、少し相場が上つてからだと、大変此方が損をする訳だから、廃藩置県発令の日の相場で、引換へてやると云ふ事に定めるが宜いと云ふ論だつた。それで其事は廃藩置県の発令と共に出ました、七月の十三日が、盆であつて、昼後から休むと云ふのを、其大事件の為に日暮まで私共はあれこれ、種々の取調、発令の準備などに、遅くまで掛つたのを覚えて居る。それは結局藩札の処分に付てゞす、其藩札は廃藩置県発令の当日の相場で引換へてやると云ふことに命ぜられた、流石に其原動力は井上さんであつた、誠に有理だと吾々は思ふ。それより外ないと一同が同意して、当時は法制局もなく、法律が十分でありませぬから、吾々が法律家の積りで、それには何時斯う云ふ達しがあるから、それに関しては、斯うしなければならぬと云ふやうな事を言ふて、其時の掛りの人と相談して、何処へ向つては、どう達しなければならぬ、諸家へ向つてはどう達せねばならぬと云ふ様な事を、今ちよつと細かには覚えませぬが、なかなかそれだけの布令を出すと云つても大騒動です、是等が井上さんの財政上に就て私共のよく、記憶して居る要点。それから廃藩置県を断行してから、どうしても此儘ぢやいけない、金穀の取扱を大蔵省が実権を取るやうにせざる可らずといふので、夫等の考の上に実地に就ての説を立てたのは井上さんです。
                   (明治四十一年十二月三日)
渋沢男 七月十四日の廃藩置県の時に、閣下は札の事を直ぐ始末せにやいかぬとて、其後焼けました御城の中で、評議がありましたのを私は確に覚えて居る。其後に大蔵省を今の馬場先の処に移しましたが、元と真田信濃守か何かの屋敷で、三条さんが御座つた処に移したけれども、其前には宮中でした、旧の御本丸でした。其処で閣下から厳しく、藩札の事を今日指図せよと云ふので、私共はさう迄も思はなかつた様ですけれども、私共は其頃は多少長くも居つたに、閣下は新に大蔵省にお出になつた許りであるから、随分察し心のない、今日は休暇だのに、こんな無理な事を言ふ、どうも大輔がやかましい事を言ふから、退庁する事が出来ないと云つて陰で悪口を言つたのを覚えて居ります。あの時は安藤に郷、私、その時大隈さん
 - 第3巻 p.199 -ページ画像 
は居なかつた、大久保さんがお出になりました。それで閣下が藩札の始末を付けろと云ふ、愈々斯う云ふ事に定つて、太政官から廃藩置県の発令になつたから、大蔵省から直ぐ続いて、此日を以て藩札の始末を付けて仕舞はなければいかぬ、一日でも猶予するといかぬからと言ふのでした。
井上侯 あれは太政官の廃藩置県の御沙汰書の中へ、総べて藩札は令の出た日の相場を以てと、書かせはせなかつたかと思ふ。
渋沢男 それは、太政官から出した命令にも有つたか知れませぬが、大蔵省から、其事を特に諸藩へ達しろと云ふ事で其文案を調べたりそれから達を出したりする為に、何でも皆居残りをして仕舞つた。それはナニ唯其時にさう言つたので覚えて居るのですがネ。何でも今日やつて仕舞はなくちやいかぬ、明日出したら宜うございませうイヤいかぬと云つて、叱られたので覚えて居る……其日の相場を以て斯かる方法に依て引換へると云ふ達を出したのを確に私は覚えて居る。それは則ち斯う云ふ案を立てろと仰有られて、私共が立てゝ其時分には監督司が有りましてネ、多くさう云ふ取扱は出納司とか或は監督司と云ふので案を立つて、係の連中が小印を捺して、さうして大輔、卿に決判して貰ふ、大輔、卿の判が済むと、それが其省だけの一つの決定になる。それの済まぬ間はまだ済まぬと云つて見て居なければならないのです。だから悪くすると、折角調べて宜いものにして持出した積りのが、御用箱の中に入れられてしまふ。又御用箱へ埋没された、是は早く済まして下さらにやア困ると云ふと是にはいろいろ議論があると云つて、吾々が直させられたりした事が屡々あつた。其時分の用の取扱ひ方は、さう云ふ始末であつた。
                   (明治四十二年二月四日)
大谷君 此頃内務省などでもどう云ふ訳で此箇条が出て来るかと云ふ事を書く時分に、前の事が分らんでどうも困ります。其時評議をした侯爵なら侯爵の御意見と云ふものは、実は其人に存して居るので記録掛の原書がない、渋沢さんの書いた物などは大分あるが……。
井上侯 どうも太政官から出て居るだらうと思ふ、太政官に出ていろいろな事を論じたデ。○下略


明治貨政考要 中編・第九四―九五頁(明治前期 財政経済史料集成 第一三巻・第二〇八―二〇九頁〔昭和九年七月〕)(DK030067k-0003)
第3巻 p.199-200 ページ画像

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青淵先生伝初槁 第七章三・第一三―二九頁〔大正八―一二年〕(DK030067k-0004)
第3巻 p.200-202 ページ画像

青淵先生伝初槁 第七章三・第一三―二九頁〔大正八―一二年〕
藩札の処分も亦当年の急務なりき。抑旧幕府の頃、寛文元年に越前藩が国用の不足に苦しみ、特に幕府の許可を得て紙幣を発行せるより、諸藩之に傚ふ者多く、元禄以後に至りて著しく増加し、遂に旗下の中にも之を采邑に発行する者あり、孰れも其領分内を限りて通用を許し概ね通貨に引換ふべき規定なりき。されども実際に於ては引換準備の制なきものあり、且つ私に発行せる紙幣さへ尠からざりしかば、世の下るに従ひ其制も亦乱れ、推新前後には諸藩困窮の余り皆之を増発して、弊害益々甚し。紙幣の種類も金札・銀札・米札・永札の外、大小品目様々にて、合計千六百九拾四種の多きに及べりといふ。殊に封建割拠の制壊れ、国内一般の交通開けては、封域を限りて通用すべき紙幣は、甚しき不便を感ずるが故に、価格下落して往々故紙に均しきものを出したり、新政府はこれらの紙幣を処分するの急務なるを感じ、明治二年十二月、「旧幕府の許可を受けて従前諸藩の製造せる紙幣は、以来其数を増益すべからず、宜しく其製造総高を取調べ、三年二月までに大蔵省に届出づべし、且つ御一新後府藩県にて紙幣を製造せるものは、以来其通用を停止すべし」との布達を発し、旧幕府の許可を得ずして発行せるもの、並に維新後増発せるものは、共に公正のものと認めざるの意を明にし、其消却処分を促したり。原来此等の紙幣は、
 - 第3巻 p.201 -ページ画像 
諸藩及び旗下が各自の責任を以て発行せるものなれば、回収消却も諸藩・旗下等の負担に属し、中央政府の干与すべきものにあらずといへども、之を諸藩等に期待するの不可能なるは勿論なり、政府当局者の苦心も亦玆に存す。かくて明治四年七月廃藩置県の事あり、全国の経済挙げて中央政府の統轄に帰したれば、諸藩・旗下等の発行せる紙幣当時の用語に従ひ、以下汎称して藩札と書すの回収処分も亦悉く中央政府の責任に移れり。
初め廃藩置県の議決するや、大蔵省の上長官等予め発令後の処分を議す、藩札の処分亦其一なり。此時の卿は参議大久保利通之を兼ね、大輔は大隈重信にして大隈は廃藩置県の発令と共に参議に転ず少輔は伊藤博文なりしが、先生は権大丞として他の大少丞等と共に其席に列す。評議の結果、各種の藩札は皆政府にて回収消却すべしと定め、かくする時は藩札の価格騰貴し、政府の損失明なれば、之を予防せんが為に、廃藩置県の発令と共に、藩札の引換は発令当日の相場を以てすることを布告せんとて、太政官へ具申せしかば、明治四年七月十四日廃藩の詔下ると同時に、太政官布告を以て「貨幣は天下一定の品に可有之処、従来諸藩に於て各々種々の紙幣を製し、其通用価位区々に相成、不都合の事に候、今般廃藩に付ては、総べて今七月十四日の相場を以て追て御引換相成候条、此旨兼て可相心得事」と達し、翌十五日更に大蔵省より諸県に達して曰く、
「(一)従来通用の紙幣は、御一新の前後に拘はらず、総べて本年七月十四日の相場を以て追て引替ふべければ、右相場書付早々取調べ差出すべし、(二)右相場の取調方は各官庁下又は管下の市街等にて従来紙幣相場立のあたりたる土地の実況により、前書七月十四日の取引相場を以て定むべし、(三)管下の広狭により、右相場立の場所数箇所に及び、自然其高下等あらば、重立ちし場所三箇所乃至五箇所の相場を平均して定むべし、(四)管下狭少にて一箇所のみにて相場いたし候ハヾ、其場所の相場を以て定むべし、(五)若し又取極めたる相場所なくば、七月十四日商民ども現在取引の相場を以て定むべし、但し右は五人乃至七人位の取引を平均の上定むべし、(六)右相場定らば、平均したる分は其場所場所の相場を、一箇所限りの分は其地の相場を、商民の取引にて定まれる分は其手続を、いづれも巨細明瞭に取調べ、地名・人名等を添へて届出づべし、(七)又右相場定らば、速に其旨を各管下細民どもまで洩れざる様に布告し、向後右相場に付心得違なき様にすべし、(八)右紙幣に付従来元備の引替準備金は、現高精細に取調べ、同様届出づべし、右の通心得て至急取調べ差出すべし」とありて、実に先生の調査立案に成れるものなり。而して此年九月の調査によれば、藩札を発行せるは二百四十四藩・十四県・九邑 邑は旧旗下の采邑をいふ 其流通高は新貨に換算して三千八百五十五万千三百三十二円余に及べり。尚此外に藩庁自ら回収処分を行ひしものあれば、実額は更にこれより多かるべし。先生が一橋家に仕へし頃発行せる紙幣の政府調査の藩名中に見えざるが如き其一例なり。
明治四年七月十四日大蔵大輔大隈重信参議に転じ、同月二十八日井上馨民部省より復帰して之に代り、少輔伊藤博文は此日租税頭となり、幾もなく工部省に移り、津田出・吉田清成等相尋で少輔に任ぜられし
 - 第3巻 p.202 -ページ画像 
が、吉田も亦海外に使したれば、此前後に於て大蔵大丞より紙幣頭を兼ね、程なく大蔵省三等出仕として少輔事務取扱となれる先生は、井上の復帰以来、提携して共に省務を執りたれば、藩札処分の如きも専ら二人の意見によりて行はれたるなり。今其一斑を叙せんに、四年八月には旧藩にて用ゐたる紙幣製造機械器具・地紙等、悉く大蔵省に提出せしめ、九月には準備金の調査上申を督促し、前令の紙幣消却を上申すべき旨を停めて、消却の方法は大蔵省に於て定むべければ最早申出に及ばざることを令達せり。此月又新貨旧藩製造楮幣価格比較表を出版して、五年の春之を諸県に頒ち、新貨幣と藩札との相当の定位を定め、尚新貨幣を以て藩札を交換すべき旨を布告せり。上文新貨幣の条参照 かくて二月諸県に命じて悉く旧藩札準備金を上納せしむ、此準備金は、正貨の外、政府発行の紙幣、米、及び滞札等にて、其総高三百四十五万五千余円なりき。
此時に際し、先生等大蔵省当事者の意見は、新紙幣を以て藩札と交換し、我国紙幣の制度を統一せんとするにあり、然れども藩札は其価位五銭未満のもの多く、新紙幣は総べて十銭以上なれば、若し之を以て彼に交換せば小貨欠乏して民間の融通を壅塞するの虞あり、此に於て五銭以上の藩札をば新紙幣と引換へ、五銭未満の分は銅貨の鋳造成るに従ひて引換ふべく、且つ右の小札へは押印の上、当分通用を許すことゝなし、五年七月二十三日太政官より諸県へ布達せり。越えて八月二十八日大蔵省より「官藩楮幣交換五銭未満小札押印手続」を諸県に達し、之に準拠して引換及び押印の事務を執行せしめたり。此手続書によれば、引換の資金と押印に使用する印章とは、並に大蔵省より交付し、各地方便宜の地に一箇所又は数箇所の引換所を設け、県官出張の上、戸長或は副戸長に命じて取扱はしめ、五銭未満の小札には、各種新貨価位相当の印章を押捺せしむるにありき。爾来此制規に基き交換押印の事に著手せしが、小貨の鋳造成りて全部の引換を完了せるは先生辞職の後数年、即ち明治十二年六月なりき。


大隈侯昔日譚 第四六九―四七〇頁〔大正一一年一月〕(DK030067k-0005)
第3巻 p.202-203 ページ画像

大隈侯昔日譚 第四六九―四七〇頁〔大正一一年一月〕
○上略
紙幣の銷却も亦容易の業にあらず。蓋し其始め紙幣を発行するに当りては、藩々何れも之に対する引換への準備を為し置きしならんも、其準備は年月を経るに従つて種々の事情の為め漸々減少せしのみならず、其一方には窮迫の余に益々紙幣を発行せしを以て、其価格は次第に下落し、芸州及び福岡等の諸藩のごときは、全く其価格なきまでに至れり。且紙幣は固より今日の如く斉一なるものにあらず。或は金銀幾千を代表するものあり、或は米麦若干の価格を準備となすあり、所に依りては傘幾本に相当すると云へるさへあるなど、藩々に依りて其標準を異にせしを以て、時に依り、所に依り、其相場著しき変動を来すのみならず、又種々の変動を来し、容易に一定すべくもあらざりし。
当時の政府が斯くまでの難局に立ちながら、竟に能く之を切抜けて藩藩より引受けたる外国債を処分し了り、且当時に於ける実際の相場を求めて藩々の紙幣を中央政府の発行にかゝる斉一の紙幣に引換へ、次
 - 第3巻 p.203 -ページ画像 
第に之を銷却し以て財政統一の実を挙ぐるに至りしは、主として井上馨及び渋沢栄一の材力に帰せざるべからず。○下略



〔参考〕太政官日誌 明治四年第四十五号自七月十四日至十七日(DK030067k-0006)
第3巻 p.203 ページ画像

太政官日誌 明治四年第四十五号自七月十四日至十七日
○十四日 壬寅
  詔書写
 朕惟フニ、更始ノ時ニ際シ、内以テ億兆ヲ保安シ外以テ万国ト対峙セント欲セハ、宜ク名実相副ヒ、政令一ニ帰セシムヘシ、朕曩ニ諸藩版籍奉還ノ議ヲ聴納シ、新ニ知藩事ヲ命シ、各其職ヲ奉セシム、然ルニ数百年因襲ノ久キ、或ハ其名アリテ其実挙ラサル者アリ、何ヲ以テ億兆ヲ保安シ万国ト対峙スルヲ得ンヤ、朕深ク之ヲ慨ス、仍テ今更ニ藩ヲ廃シ県ト為ス、是務テ冗ヲ去リ簡ニ就キ有名無実ノ弊ヲ除キ、政令多岐ノ憂無ラシメントス、汝群臣其レ朕カ意ヲ体セヨ
   御布告書写
 藩ヲ廃シ県ヲ被置候事
   御沙汰書写
 貨幣ハ天下一定ノ品ニ可有之処、従来諸藩ニ於テ各種々ノ紙幣ヲ製シ、其通用価位区々ニ相成、不都合ノ事ニ候、今般廃藩ニ付テハ、総テ今七月十四日ノ相場ヲ以テ追テ御引換相成候、此旨兼テ可相心得事


〔参考〕貨政考要法令編 第二巻(明治前期 財政経済史料集成 第一四巻〔昭和九年十一月〕)(DK030067k-0007)
第3巻 p.203-205 ページ画像

著作権保護期間中、著者没年不詳、および著作権調査中の著作物は、ウェブでの全文公開対象としておりません。
冊子版の『渋沢栄一伝記資料』をご参照ください。