デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第3巻 p.213-222(DK030073k) ページ画像

明治四年辛未七月(1871年)

三井組家宰三野村利左衛門ニ勧メ三井組バンク設立ヲ大蔵省ニ出願セシム。八月政府之ヲ許可ス。幾クモナクシテ政府ノ議変ジ、其許可ヲ取消ス。コハ大蔵省ニ於テ井上大輔及ビ栄一等進ンデ完全ナル銀行制度ノ創設草案ヲ編纂中ナリシ為ナリ。


■資料

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之五・第二七丁 〔明治二〇年〕(DK030073k-0001)
第3巻 p.213 ページ画像

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之五・第二七丁 〔明治二〇年〕
○上略 其より以前に○国立銀行布告以前 三井組に於て私立銀行を立てたいと云つて、三野村利左衛門から請願したことがあつたから、井上に相談してこれを許可しやうとしたけれども、其頃から此の銀行条例の取調に掛つたから、三野村に猶予を命じて置たが、其内今の条例が出来たに依て、愈々此の条例に準拠して、私立の名義でなく、国立銀行として創立しやうといふことになつて○下略


青淵先生伝初稿 第九章上・第二―八頁〔大正八―一二年〕(DK030073k-0002)
第3巻 p.213-214 ページ画像

青淵先生伝初稿 第九章上・第二―八頁〔大正八―一二年〕
  第九章 金融業
政府は曾て富豪を慫慂して為替会社を設立せしめ、金融機関となさんとしたれども、経営意の如くならず、失敗に畢りたれば、明治四年以来専ら欧米の式に傚ひ、国立銀行設立の調査に従ひ、五年十一月に至りて国立銀行条例の公布を見たり。而して政府部内にありて銀行条例の制定に参与し、最も力を致せるものは実に先生なりし事も亦前章に述べたり。是より先に、先生は銀行制度の調査研究に従事するの傍、民間に完全なる銀行の興らんことを希ひ、政府指導の下に之を開設せしめんとし、予て官金出納の事務を取扱へる大蔵省の為替方を物色して三井組に著目し、銀行創設の任に当らしめんとす。蓋し三井組は、其富に於て其門閥に於て他の富豪より一頭地を抽でたるが上に、其家宰として事実上経営の任に当れる三野村利左衛門とは親交ありたれば之に説き、三井組も亦勧誘に従ひ、明治四年七月、三井八郎右衛門の名代三野村の名によりて、三井バンク設立の願書を大蔵省に呈出せるなり。即ち欧米の式に則りて、東京府下及び各開港場に於て銀行業を営み、且つ七割五分の正貨準備を以て証券を発行し、政府紙幣と共に
 - 第3巻 p.214 -ページ画像 
之を流通せしめんとするなり。八月政府之を許可し、証券即ち銀行紙幣は、政府にて製造の後、交付すべき旨を指令せり。此時政府にては中島信行を米国に派遣し、公債証書及び銀行紙幣製造の事務を取扱はしめたる際なれば、之をも米国に注文するの意なりき。同月六日、先生が中島及び吉田二郎に寄せたる書翰中に、「偖尚更御労申上候義は、此便大久保卿並に井上大輔より申上候三井八郎右衛門、同次郎右衛門より願立候正金兌換証券製造之義、何卒御苦労の次第可然御取扱、速に製造相成候様奉願上候、表向は大久保・井上より申上候得共、其実大隈・伊藤抔決議之事にて、御承知之通、現今為替会社も有之候得共、兎角真成之成立無覚束、幸ひ三井方小生も頻に骨折世話いたし候処、大に気込よろしく、是非店中戮力いたし、真実にバンク創立之見込相立、開運橋《(マヽ)》にて地所を払下ケ、凡三四万両余之西洋為替屋風之家屋、出来いたし、大に銀行の事営業之目途にて、差向正金兌換証券製造之義願出候手続に相運び、実に好機会に候間、夫々論述、速に政府の許可を蒙り、則此度別紙之通製造方、両兄へ申上候次第ニ相成候義に御坐候」と見ゆ。而して此時先生より通達せる製造紙幣の総額は、七種三百五十万円なりき。以て銀行設立の計画が、専ら大隈・伊藤と先生との間に成り、三井との交渉は、先生主として之に任じたるを知るべし。而して三井家の願書の如きも、亦実に先生の起草に係れり。然るに幾もなく其製造を中止し、三井組に対する許可をも取消したるは、九月六日先生が大久保・井上と連署して中島等に寄せたる書翰に、「八月六日附を以、三井八郎右衛門より願出候正金引換証券三百万円製造之義許之次第、並其製造方をも申進候処、右は向後紙幣一般之処置にも関係致し候義に付、尚篤と商議を遂げ、此次便に委細可申進候間、先製造万御差止有之度、もし既に約定に取掛り候とも、暫時御見合被成、次便之確報を以、御取計可被成候」とあるもの、又十一月二十八日井上・吉田清成より中島等への「三井組金券製造の儀、従前両度に書状を以て、当方より確報申進候迄は、御見合に相成候様申進置候、右は爾来種々の合議を遂候所、右三井組金券発行差許候は、金札始末の儀に付、金券会社或は紙幣会社の廟議一定以前の事に候間、既に紙幣会社取建の廟議一定に相成候ハ、三井組に金券会社取建方差許候とも、無間打崩し、紙幣会社江改創に相成り候時は、許多の入費を込め製造に相成候金券も、其用を遂ずして、無用の空物と相成候訳に有之候間、右金券製造の事件は、断然御取止に相成候様致度云々」の書翰にて、ほゞ其事情を知るべし。されど三井組をして銀行を設立せしめんとする意見は替らざるが故に之と殆ど同時に先生は大隈・井上と共に三井組に勧め、銀行事務修業の為め其子弟を米国に留学せしめたり。


青淵先生伝初稿 第九章上・第一三―一四頁 〔大正八―一二年〕(DK030073k-0003)
第3巻 p.214 ページ画像

青淵先生伝初稿 第九章上・第一三―一四頁 〔大正八―一二年〕
先生等が銀行を民間に起さんとして苦心せるにも係らず、皆其出願を抑止せるは、国立銀行条例の制定近きにあるが故に其条例に準拠して設立せしめんとしたるなり。


法規分類大全 第一編 政体門 制度 雑款五 第一〇九頁(DK030073k-0004)
第3巻 p.214-215 ページ画像

法規分類大全 第一編 政体門 制度 雑款五 第一〇九頁
 - 第3巻 p.215 -ページ画像 
 大蔵省伺 四年七月二十五日
三井総頭八郎右衛門銀行開展正金兌換証券製造発行ノ儀、別紙ノ通願出、証券製造見込発行手続及雛形書込文字等迄詳悉取調差出候ニ付、詮議致シ候処、右証券ノ儀ハ大ニ貨幣ノ流暢ヲ相助ケ、商業上須要ノ者ニテ、西洋各国何レモ発行差許、政府紙幣ト一様ニ流通為致候儀ニ有之、御国於テモ将来同様ノ方法御施設無之テハ相成間敷、共ニ方今不可闕ノ要務ト被存候、然ルニ此度右三井ヨリ願出候儀ハ、商賈一般ノ標準トモ相成、公益増殖ノ基ヲ相開候筋ニテ殊勝ノ儀ニ付、願ノ通御准許相成可然、尤願済ノ上ハ別紙証券ハ当省於テ製造致シ遣シ候方ト存候、就テハ米国郵船発航ノ期モ差迫居候儀ニ付、至急御沙汰有之候様致シ度、依テ別紙三井ヨリ差出候願書其外添此段相伺候也
 本文別紙書類ハ至急ノ場合写方間合無之ニ付、本紙ノ儘差出候間、速ニ御下知相成、其節御戻有之度、尤写ハ追テ差上可申存候也
 指令
伺之通
 (別紙略)
   ○別紙ハ次ニ掲グル三通ノ渋沢子爵家所蔵文書ニ同ジ。


渋沢子爵家所蔵文書 【証券発行手続概略/証券製造注文高調書/正金兌換証券雛形註訳】(DK030073k-0005)
第3巻 p.215-219 ページ画像

渋沢子爵家所蔵文書
御一新以来追々西洋諸洲之観例を御参酌被為在、財政之要務漸く御更張相成、随而物貨流通之方法をも御世話被為在候義ハ、実ニ難有次第之義奉存候、就而愚考仕候に、其国之昌盛は人之勉強に帰し候事にて、国民各其職業に勉力いたし、次第に分業之効用相立候様立至候ハヽ、自今物産増殖いたし、商売繁盛に成行候は申迄も無之理にして、能此理を拡充して其要旨を達せしむるハ、第一貨幣通用之便利なるに有之候事と奉存候、方今新貨幣御発行之公布も被為在、通宝之真理瞭明に御諭告相成、旧来之染習御一洗之機会に際し、私共店中一同右為替坐御用被仰付候義は誠以感佩之至ニ奉存候、乍去尚再三臆度仕候処、現今御国商民共ハ唯眼前之細利に拘泥いたし、共同之公益に着目不仕より、偶会社等取設け候而も、動もすれは相欺妄するの弊害而已にて、到底真実之営業いたし兼、或ハ交通之道を助け、貿易上抔別而時々と多少之損耗有之、自然一般之流融を塞き候場合に立至り候は偏に慨歎之至ニ奉存候、幸に斯く隆盛之運に会し、百事御挙行之今日に至り、独り商民知織之開明せさるより、隆渥之鴻恩にも奉報答兼候義は、如何にも憤恨之次第ニ付、此度同苗中申合、東京府下及各開港場に於て銀行開展仕、追々欧羅巴及米利竪等成熟之良法を斟酌いたし、真成確実之営業仕、聊流通之便利を資け候様仕度志願ニ御座候、就而は銀行必用之真貨兌換之証券を製造いたし、便宜発行候様仕度候間、何卒御允可被成下置度、依而証券注文員数並発行手続証券雛形等相添奉願上候 以上
  明治四年辛未七月 日
                御為換座
                 三井惣頭
                  八郎右衛門名代
                   三野村利左衛門
    大蔵省
      御中
 - 第3巻 p.216 -ページ画像 
 ○証券発行手続概略
爰に製造発行相奉願候証券は、全く真貨兌換之ものに付、弥発行之際に当り候而ハ、普通之方法を以て準備之真貨を貯畜いたし、時々御撿閲を受け、都而御制度を恪守仕、決而兌換渋滞無之候様可仕候事
 但証券発行之員数ハ準備金之積額に応し、七割五分之割合を踰さる様可仕、尤も右兌換之義は東京大元方ハ勿論外同苗中之保証担任に候間、準備金不足之分ハ抵当として確実之静産物差上候様可仕候事《(マヽ)》
此証券を発行するハ東京を根本とし、準備金ハ都而根本之地に充実候様可致、尤も融通便利之為メ京都・大坂・横浜・神戸・及其節之都合によりて各開港場其外へも相及し、均しく交通兌換を得候様可仕、且準備金ハ時々各地之景況を通知し、送金又ハ為替之法を以聊差支無之様可仕候事
東京大元方ハ勿論、各地出店之場処共、証券発行之勘定書準備金之総額各地為替之模様預り金貸附金等之諸簿冊ハ、明瞭に仕立置、何時なりとも御撿閲を受け可申、尤も御拝図に従ひ、常に統計表を製し、毎月又ハ何日限といたし、出入之計算を一目瞭然に取調差上候様可仕候事
証券注文高ハ別紙員数書之通、其体裁彫刻画図書込文字等都而雛形並注訳書之通製造仕度、就而は凡積代金を以当地にて相願、即今米利竪紐約府に於て御註文御製造被為在候官府之楮幣同様之御手続にて、贋作御取締筋迄御整理被成下、急速出来候様御処置被下度候事
発行之員数は凡百五十万より二百万円を目途といたし候得共、手摺又ハ損破之手当として別紙之通製造仕度、尚精細之員数は発行之際に臨み可申上候事
此証券ハ英国政府之銀行バンクオフエンゲランド発行之法に倣ひ内地一般之諸税公之上納物其外借貸商売共交通候様御允可被成下度候事
贋造偽作御取締之義は都而政府之法令を以て御処分被下度候事
証券製造済にて発行之節ハ、別段精緻なる調印いたし、番号其外書入等も細密ニいたし、兼而贋偽之予防可仕、且各地にて発行之分ハ各分別相成候様小印可致積ニ御座候、尤右等ハ其時ニ取調可奉伺候事
此度創立之銀行開展之上ハ、同所所用之諸簿冊及為替預り金手形其外必用之書類ハ、都而西洋各国銀行普通之例格を参考致し見込取調伺之上、取究候様可仕候事
都而証券発行ニ付、実際施為之諸観則及此度建造之銀行に於て取扱可申業体等ハ、追々手続取調、時々伺之上取扱可申事
右は方法目途之概略、前書数款之通り御允裁被下置、早々製造相成候様御処置被下度奉願上候 以上
  明治四年辛未七月 日
                 御為換座
                  三井惣頭
                   八郎右衛門名代
                    三野村利左衛門
    大蔵省御中

  ○証券製造注文高調書
 - 第3巻 p.217 -ページ画像 
一金三百万円
  此訳
  一円之証券                 百二十万円
  此紙数 合紙ニテ  三十万枚   但一枚ニ付
      証券ニテ  百二十万葉  四葉摺之積
  五円之証券                 八十万円
  此紙数 合紙ニテ  四万枚
      証券ニテ  十六万葉   但右同断
  十円之証券                 五十万円
  此紙数 合紙ニテ  一万二千五百枚
      証券ニテ  五万葉    但右同断
  二十五円之証券               五十万円
  此紙数 合紙ニテ  五千枚
      証券ニテ  二万葉    但右同断
 〆員数三百方円
  紙数 合紙ニテ   三十五万七千五百枚
     証券ニテ   百四十三万葉
 製造入費積
    原版彫刻科
一 一万二千円     一種三千円宛四種ノ彫刻代
    摺立料
一 一万九千六百六十二円半 合紙三十五万七千五百枚之摺立代 合紙千枚ニ付五十五円宛
    原紙料
一 二千八百二十四円弐分五厘 合紙右同断之紙代合紙千枚ニ付七円九分宛
合計三万四千四百八十六円七分五厘 但米国紙幣代価之積
 是を真貨に直し一割之差有之ものとして
  米貨ニテ三万千〇三十八円余
 是を墨西可ドルラルにして又五分之差あるものとして
  墨西可銀ニテ二万九千四百八十六円余
右は製造之費用凡積之総額ニ候間、差向墨西可銀一万円横浜東洋銀行為替を以て米国紐約府へ相廻し、注文に充て、残金ハ追々相廻し候様仕度、尤右注文製造方之義は御掛之官員方、即今同府御滞在中之趣ニ付、毎事御願申上度、就而は右証券製造之会社と注文約定等之義も都而官府之御手続を以御取計被成下、製造済原版其外取締方並輸送等まて同様之御処置奉願上候 以上
    未七月 日
                  御為換座
                   三井惣頭
                    八郎右衛門名代
                     三野村利左衛門
    大蔵省御中

  ○正金兌換証券雛形註訳
表面
上に御紋くつしの横額を彫刻し、其中に横行隷書にて官許云々の文書を書入れ、其両脇に証券の金高を御国語、並西洋数字にて現はし、但し此員数ハ一円・五円・拾円・弐拾五円之四種とも同様之振合ニ仕度候、其緑の模様ハ西洋小紋形にして、極て緻密の彫刻に相成候様仕度候
但、御紋くつし、並官許云々の文字等、恐多き次第に候得共、全く正金同様の証券ニ付、何卒御許允被下度候、額面の下に此正金打兌換之証
 - 第3巻 p.218 -ページ画像 
券云々之文字を行書にて明瞭に彫刻し、特許の次第を確実に形出して人の信拠を徴し候様仕度義ニ御座候、額面と右文字との間、中央の上に大蔵省撿査印と信印の雛形を糊附せしハ、此証券出来済発行之際に当り、濫出御取締、及人民の証拠を厚くするため御手数之至に候得共毎紙の御撿印を相願度心得にて見込相立候義ニ御座候、尚御法則も被為在候ハヽ、可然御処置被下度候
右文字の下に印版の雛形を糊附せしハ、証券出来候上、密に贋造等予防之ため精細の印を刻し、製紙に押印いたし度、尤印中の文字ハ篆書の分り易き様なる文字を用ひ候心得ニ御座候
右印の下に三井組銀行の字ハ四角なる篆書ニいたし、是又分り易き様彫刻可仕候、但此文字ハ彩欄中の模様にして、原紙に彫刻仕候積ニ御座候
彩欄ハ都而西洋普通之品を用ひ、格好よく極精細に彫刻仕度候
証券の番号ハ、金高の下へ双方の文字にて彫刻し、製紙之後番号の数字ハ書入れ候様仕度候
 但、製紙の番号ハ、此外に彩欄の外へ西洋字のみにて彫刻仕度候
右番号の下、印版の両脇に小縁をいたし置候を、八郎右衛門・次郎右衛門之写真を彫刻仕候積ニ御座候
其上に東京の小印形を糊附いたし候は、証券発行之節、各地の印分けにいたし度積ニ御座候、尤も京都・大坂・横浜・神戸とも同様之積ニ御座候
裏面
上の方額にハ贋造御取締のため、此証券を贋造する者云々の文字彫刻を御免許被下度、又下の小方額にハ正金兌換を公告のため、此証券持参の者へハ云々と彫刻仕度候、四角に角切の方面に金高を現はし、上の弐箇を御国語、下の弐箇を西洋数字を用ひ、其模様は表面金高の周囲と同様にいたし、其間の両側にハ金銀新貨幣の真形を描出仕度候、裏面周囲の彩欄も表面と同しく西洋風にて極緻密にいたし、空白なき様に彫刻仕度候
裏面
中央小点縁の中は、東京の景色、最上の地を四ケ所写真いたし、其中に元方総裁の者両三人の写真を加ひ、四通りとも模様を異にし、四種に相用ひ候積ニ御座候
 但、表裏面とも写真之義は出来次第差上置候様可仕奉存候
証券出来済発行之節元帳に引合せ、毎紙割印壱ケ所相用ひ、且都合により表面印版之両脇へ頭取支配人等之名前を書入候積ニ候得共、右は出来之上取納可申上候
紙の寸法ハ二十五円・十円券共巾 十九サンチメートル凡曲尺六寸七分 竪 九サンチメート凡曲尺三寸ル 五円・一円券共巾 十八サンチメートル凡五寸九分五厘 竪 八サンチメートル半凡二寸八分 に製造仕度、乍去もし紙幣製造会社の工業都合によりて各種寸法異り候而ハ差支候ハヽ、四種共二十五円之寸法同様にて製造仕度候
証券の摺色ハ是非とも四種を各様にいたし度、尤も写真ニ図画金高之枠及書込文字彩欄と一面に三様に摺立度、もし右様に摺立出来兼候とも、一種宛色替りに相成候様仕度、尤も摺色ハ実地之都合も可有之候
 - 第3巻 p.219 -ページ画像 
へとも、概ネ黒・薄藍色・萌黄・濃茶等之内にて御撰御用ひ被下度候製造之後印板を押し候に、尋常の朱肉にてハ西洋紙へハ色合ひ見苦敷相成候様奉存候.就而ハ如何之都合にいたし可然哉、製造元にて御取調被下、仕方御差図被下度候、尤番号書入ハ尋常之墨にて差支有之間敷哉、又ハ別段用意いたし候義ニ候哉、是又御調之上御差図被下度候紙は米国於て紙幣に用ゆる普通之上物を相用ひ候様仕度奉存候
右は証券雛形之手続概略申上候、尤も写真之義は出来次第御備として差上候様可仕候得共、何卒来月上旬之郵便にて御申通被成下、至急製造相成候様仕度候間、早々御許可被成下候様奉願候 以上
    年月日
   大蔵省
      御中
   ○正金兌換証券雛形三種略
   ○渋沢子爵家所蔵文書ハ栄一自筆ノ草案ナリ。正金兌換証券雛形ノ中一枚ニモ栄一自筆ニテ「此正金兌換之証券は各開港場輸出入税並公債利是之払方を除くの外日本国中都而書面之金高に通用いたし、内地一般之諸税其外公之上納及ひ逋債返済方《(マヽ)》等に相用ひ差支ひなく交通可致義を特許せしむるもの也」ト記セリ。


先賢墨蹟 (第一巻)「目録ニ井上馨書簡 六月五日無名 トアリ。」(DK030073k-0006)
第3巻 p.219 ページ画像

先賢墨蹟 (第一巻)             (竜門社蔵)
今日は御不快之由、別て御保□第一奉存候、過日来種々御苦配を懸、何とも恐入申候、生も今日より出浜仕候而、八日九日之間には帰東之積ニ御坐候、就而はハンク一件は最早留主中迚も正院江御差出可被下候且亦歳出入之凡積と不足並有金等も既ニ今日正院ヘ持出シ候処、随分愕然之躰ニ御坐候、尤今日より大隈同道出浜候故急度申談候而知事家禄ヘ手を附ルノ積りに御坐候、弐分判百万丈後便サンフランシスコ江差送り候都合出納江申付置候、且造幣寮よりもレホールトヲ得候所、横浜為替会社江も百万丈分折為致候決意ニ候故、於同所申付候積に御坐候洋銀札之□□《(不明)》未タ約束をも存シ不申候間、上野より御聞取可被下候書他は拝青ニ譲申候 敬白
    六月五日
   ○目録ニ井上馨書簡 六月五日無名 トアリ。



〔参考〕(三野村利左衛門) 書翰 渋沢栄一宛(四年)六月九日(DK030073k-0007)
第3巻 p.219 ページ画像

(三野村利左衛門) 書翰 渋沢栄一宛(四年)六月九日
                    (渋沢子爵家所蔵)
拝啓 倍御機嫌能被為遊御坐奉恐悦候、然は先般三井銀行創立之儀御許可被成下置候ニ付、右御礼として西京三井同苗とも一同上京仕、依之甚粗末失礼之品ニは御坐候得共、献上之仕度何卒御礼伺公之節名刺《(候)》を差出候儀ニと思召被下置、御笑納被遊被下度奉願上候、猶近日参館万々御礼可奉申上候 以上
      六月九日
                     三野村利左衛門
   渋沢様
 - 第3巻 p.220 -ページ画像 

〔参考〕明治財政史 第十二巻・第四九九―五〇二頁 〔明治三八年二月〕(DK030073k-0008)
第3巻 p.220 ページ画像

明治財政史 第十二巻・第四九九―五〇二頁 〔明治三八年二月〕
  一 三井組「バンク」
三井組「バンク」ノ設立ニ関シテハ明治四年七月名代三野村利左衛門名義ヲ以テ大蔵省ニ左ノ請願書ヲ呈出セリ
   ○前掲渋沢子爵家所蔵文書願書ト同ジ、略ス。
而シテ其願書ニ添付シタル証券発行手続ノ概要ヲ記セハ左ノ如シ
   ○前掲渋沢子爵家文書ニ同ジ、略ス。
○中略
以上ニ依リテ之ヲ見レハ三井組「バンク」設立ノ目的ハ実ニ七割五分ノ正貨準備ヲ置テ以テ証券ヲ発行シ、政府紙幣ト一般ニ之ヲ流通セシメントスルニアルカ如シ、之レニ対シ大蔵省ハ之ヲ許可スルト同時ニ証券ハ官ニ於テ製造シ下付スルノ得策ナルヲ論シ、七月二十五日ヲ以テ太政官ニ左ノ如ク稟議シ裁可ヲ得タリ
   ○以下法規分類大全第一篇政体門制度雑款五第一〇九頁ノモノニ同ジ。
○中略
是ニ於テ大蔵省ヨリ更ニ左ノ如ク三井組ニ指令セリ
  書面ノ趣聞届候金券ノ儀ハ当省ヨリ米国滞留ノ官史ヘ申達同国ニ於テ製造方為取計成功到著ノ上相渡可遣候事
然ルニ後幾許モナクシテ政府ノ議変シ以上ノ指命ヲ取消シ、改メテ明治四年十月ヲ以テ三井組ニ大蔵省兌換証券ノ発行ヲ委託シ、尋テ五年正月ニ至リ更ニ又開拓使兌換証券ノ発行ヲ許シタリ


〔参考〕三井銀行五十年史 第一七―二二頁 〔大正一五年九月〕(DK030073k-0009)
第3巻 p.220-221 ページ画像

三井銀行五十年史 第一七―二二頁 〔大正一五年九月〕
○上略 四年六月政府より三井組名代三井八郎右衛門高福同次郎右衛門高朗に対し、一手にて造幣寮御用相勤むべき旨の申渡あり、新貨幣為換座御用と称す、御用筋は新貨と地金銀との交換及地金銀の廻送にして、御用為換座三井租と唱へ、三都・横浜・神戸・箱館に同座を設置せり、最初は大阪其本拠なりしが、後に至りては東京其主脳と為り、殆んど旧幕時代の金銀座と同視せられ、世上の信望を収めたりと云ふ。
為換座御用に伴ひ更に三井組に対して「総テ貨幣交替流通ノ便ヲ資クル為メ、東京其外之地ニ於テ真成之銀行成立様心掛尽力可致候事」との諭達ありたり、按ずるに中央金融機関設立の準備なりしが如し、当時幕末時代の三井御用所は住吉町より鉄砲洲に移り、三井組御用所と改名して三井組の中堅と為り、或は貿易商社元年創立、三井八郎右衛門総頭取となる、東京米穀取引所の前々身なりの開設に尽瘁し、或は為換会社二年通商司の下にて三府各開港場に設立せらる、半官半民の欧米式金融機関なりの経営に協力する等、明治政府の殖産振興策に寄与する所尠からざりしが、今復此諭達に接し、金融機関創立の急なるを認め、玆に発券銀行の創立を計画するに至れり、而して其内容は(一)証券一円・五円・十円・二十円発行高を百五十万円乃至二百万円と定め(二)之に対しては七割五分の正貨準備を置き(三)政府紙幣と同じく一般に流通せしむるにあり、案成り左記三井組バンク創立願を大蔵省に提出す、我国最初の銀行創立願なり、(四年七月ノ願書ニシテ前掲渋沢子爵家所蔵文書三野村ノ名ヲ以テスルモノト同ジ。略ス。)
大蔵省ハ直ニ太政官に稟議し、其准許を得たりしを以て、同年八月三
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井組に対し「書面ノ趣聞届候金券之義者、当省ヨリ米国滞留ノ官員へ申達、同国ニ於テ製造方為取計成功到着ノ上相渡可遣候事」と指令したり、されば三井組は地を海運橋畔現在兜町一・二番地にトし、直に銀行建物の新築に着手したり、然るに当時廟堂にては来国国立銀行制度《ナシヨナル・バンク・システム》の採用を主張するものありて、漸次有力となりしかば、政府の議亦変じ、以上の指令を取消し、改めて三井組に対し四年十月大蔵省正金兌換証券六百八十万円十円・五四・一円の三種五年一月開拓使正金兌換証券二百五十万円十円五円一円・五十銭・二十銭 十銭の六種の発行を各委託したり、所謂三井札是れなり、朝令暮改は当時政府の常套事なりしを以て、三井組亦将来に期待する所あり其工事を続行し四年十一月上棟式挙行、五年六月竣工す、五階建西洋館にして清水喜助の建築に係り、規模宏壮当時駭目の大建築なり、世上にては之を三井組ハウスと称し、東京名所の一に数へたりと云ふ、本来銀行として建築せしものなるが、叙上の如き事情ありしを以て先づ三井組御用所及御用為換座の用に供し、爾後三井組ハウスは為換座及御為替方の本拠となり、同時に又私立銀行創立の準備事務所となるに至れり



〔参考〕世外井上公伝 第二巻・第二一七―二七六頁 〔昭和八年一二月〕(DK030073k-0010)
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世外井上公伝 第二巻・第二一七―二七六頁 〔昭和八年一二月〕
 明治四年七月に三井組から大蔵省に銀行開展兌換証券発行の願書を提出した。その願意によると、この度我々同族が申合せて東京及び各開港場に銀行を創立し、欧米の良法を参酌して確実に営業を開始したい希望であるから、銀行に必要な正貨兌換の証券を製造して、便宜発行する許可を与へられたい。依て証券の注文員数、並びに発行の手続証券の雛形等を添へて請願するとのことであつた。大蔵省では右の請願を容れ、同月二十五日附を以て井上公等は正院に稟議書資料第二、法規分類大全第一編政体門制度雑款五、第一〇九頁を提出して二十九日に允許を得た。そこで大蔵省は八月六日附を以て証券三百万円の製造注文方を在米国の出納正中島信行・大蔵省出仕吉田二郎宛に申送つたが、その後なほ商議を遂げねばならぬから一旦中止するやうとのことで、公井上公から十月十三日附の公文を以て差止めた。
○中略
 前条に述べた如く為替会社はその組織不完全な為、経営が失敗に帰したとはいへ、これによつて世人は合資結社に成る会社銀行に注意を喚起し、且つ時代の急速な進展と共に、他に完全な銀行が起ることを翹望した。この情勢に投じて、公井上公が四年九月に渋沢栄一著の立会略則及び福地源一郎著の会社弁を刊行頒賦したことは、機宜に適したことであつて、これが為に合資結社の精神が民間に勃興するに至つた。かくて各地から銀行若しくは銀行類似の会社を設立する請願は陸続として現れた。その中でも重なものは三井組・小野組・東京銀行及び江州バンクの四行であつた。
 三井組は、この年為替御用を命ぜられた時、大蔵省から将来正規の銀行を創立すべきことを特に注意せられたのであるが、それは勿論公井上公の指図であつたのに相違ない。それで三井組では東京府及び各開
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港場に銀行開店のことを願出で、政府より直ちにその許可を得たので証券製造方を米国に注文した程に進んでゐたが、幾くもなくして政府の説が変じて、前の指令が取消された。
○中略
 これ等諸銀行の設立出願に対して公が容易にその許可を与ヘなかつたのは、結局為替会社の覆轍を踏むことを虞れた為であつて、公等は進んで完全な銀行制度を作らうとして熱心努力し、大蔵省にてその草案を編纂中であつたのである。されば五年二月十五日附で公から在米国の大久保・伊藤の二人に送つた書翰の一節に、「紙幣会社創立之儀も追々反覆審議いたし、最前伊藤君之御調により、更ニ正金活用之方法を加ヘ、是非近々決定施行之心得ニ御座候、即今バンク之創立を唱ゆる者比々相喧しく、却而其弊害を恐懼し、最早予防之設無之而ハ不相成程の勢ニ候、故ニ勉テ確実之制を以て一定之法則を定め、其規範中に入るハ之を允し、否れバ之を抑ゆるの保護法を要せざるを得ざる事と奉存候、我邦人之遷善果して迅速なる歟、抑軽佻浮薄流風を趁ふの習俗にして然る所以歟、御賢考可被下候、」大蔵省文書とあつて、公井上公等の確実な組織にすべき法規を定めこれにより取締らうとする方針を知ることが出来る。