デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第3巻 p.234-244(DK030079k) ページ画像

明治四年辛未八月(1871年)

大蔵卿大久保利通ノ諮問ニ対ヘテ国家ノ歳入未ダ定マラザルニ各省経費ノ定額ヲ設クルノ不可ナル所以ヲ切論ス。容レラレズ。乃チ去ツテ大蔵大輔井上馨ヲ訪ヒ挂冠ノ意ヲ告グ。馨慰諭シテ大阪造幣局ニ出張セシム。


■資料

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之五・第一五―二〇丁 〔明治二〇年〕(DK030079k-0001)
第3巻 p.235-236 ページ画像

雨夜譚 (渋沢栄一述) 巻之五・第一五―二〇丁 〔明治二〇年〕
○上略 廃藩置県を行つた前後は、大久保が大蔵卿で、井上が大蔵大輔、自分は大蔵大丞の職であつたが、大蔵省の職制及事務章程も制定になり、各寮司の仕事も稍ヤ其区分が立ち掛つたけれども、藩を廃して県にしたとて、直に歳入が増すといふ理もなく、要するに国庫の度支に定限がない所から、必要があれば直に政府から支出を大蔵省へ命じて俗にいふ取たり使つたりといふ有様でありました、然るに政府の仕事は何事も進歩を勉むるのみで、陸海軍の費用は勿論、司法省では裁判所を拡張せんことを謀り、文部省では教育令の普及を謀るといふ姿であるから、需むる所は八方で、之に応ずるは一箇所だに依つて、井上も大にこれに苦慮したことがあつたが、大久保は兎角財政には注意せずして、各省の需用に応じて其費用を支弁せんとする風だに依て、自分は独り此の間に居て、特に苦慮尽力をしました、
其頃自分は、切に財政の統理せぬことを憂ひて、同僚と合議して歳出入の統計表を作り、専ら量入為出の方針に拠て、各省経費の定額を設け、其定額に依て支出の制限を定めやうと企てたけれども、未だ歳入の総額も明瞭でなく、正確の統計も出来ないうちに、其歳の八月頃、政府で陸軍省の歳費額を八百万円に、海軍省の歳費額を二百五十万円に定めるといふ議があつて、大久保大蔵卿は已むことを得ずこれに同意せねばならぬといふことで、其頃大丞の職に居た自分と谷鉄臣安場保和の三人へ其意見を下問があつたに依て、自分の答へていふには、元来此の定額の事は頗る企望の至で、大蔵省に於ても早く全国の歳入額を明瞭にして、それを標準に各省の定額を立やうといふ企望で、精精努力して調査しつゝあるけれども、今日は未だ正確の統計を見ることが出来ません、故に今政府に於て軽易に各省の定額を定めるといふは、甚だ不相当なことゝ存じます、其訳といふは、大蔵省即ち国庫を支配する場所ですら、現今歳入の統計が慥かならぬ場合であるに、斯く軽易に政府から定額を立てるといふ日には、俗にいふ掴み出し勘定であります、此の際に陸軍でも定額を立、海軍でも定額を立、其他、各省先を争ふて分け取りする姿になつては、量入為出といふ経済の法度の立難いのみならず、会計の根元は少しも定まることが出来ませぬ、其上、尚又各省其他に於て、臨時已むを得ぬ経費の生じた時には何を以てこれに応じますか、甚だ不安心の事であります、其故に目下の計は其入用の度に応じて、切にこれを制限して、其支出に応ずるの外に妙案といふはありますまいから、定額の事は暫く御見合せありたい、但し一日も早く歳入の総額を知ることに勉強して居ますから、遠からず正確の統計が出来得るに相違ない、其上にて各省の費額を御定めなさるが宜しからう、と自分の所存を詳細に述べた、
然処大久保は、いと不興気に、然らば歳入の統計が明瞭になるまでは、陸海軍へは経費を支給せぬといふ意念であるか、との意外な詰問が出たから、自分は更に詞を継で、イヤ決して陸海軍の経費を支出せぬといふ意味ではありませぬ、勿論、陸海軍がなくては国を維持することの出来ぬといふことも存じて居ます、併し今大蔵省は一歳の歳入統計
 - 第3巻 p.236 -ページ画像 
が出来ぬ前に、支出の方ばかり心配して、しかも巨額の定額を立るのは、第一に会計の理に悖つて、頗る危険の処置であらうと思惟して、腹蔵なく愚見を述べたのであります、固より御採用の有無は大蔵卿の御胸中にありませう、といつて其席を退きましたが、此時から又官途を辞するの念を再発しました、其訳は、大久保は今国家の柱石ともいはれる人で、現に大蔵省の主権者でありながら、理財の実務に熟せざるのみならず、其真理さへも了解し難い、井上は切に拮据して経営しつつあるが、独力で如何とも為し得ざるであらう、加之大丞以下の職員は、多く大久保の幕僚であるから、井上の趣旨を遵奉して、其職に勉強して指揮に従ふことは甘じまい、然る時は大蔵省は向後不規則な会計事務を取つて、終に永続せざるのみならず、世間の識者に笑はれる様な始末に陥るの外はない、今日百事改良といふことは、政府でも各省でも、都て一般の通論であるが、唯其事務を拡張することばかりに注目して、之に伴ふ経費の如何を省みず、入用とみれば一時にこれを要求するといふ傾きになつて来て、所謂之を求むるの力は強く、之を抑ゆるの力は弱しといふ勢ひだから、到底維持し得ることは出来ぬであらう、と観念したに依て、そこで海運橋なる井上の邸宅を訪ふて面会を請ふた、(井上は此の時海運橋の三井家所有の邸宅に住居して居られた)早速面会を得たから、自分は是非辞職と覚悟をしたに依て、明日にも辞表を出すから速に聴届けられたい、自分は到底永く大蔵に奉職することは出来ない、忌憚なくいふ時は大蔵省に望みが薄い、貴君が斯くまで省務に苦慮尽力なさるのも、友誼上からいふと甚だ気の毒千万と思ふ、今日の姿では大蔵省の会計を整頓してゆくことは、自分には目的がないと考へるから、寧ろ此の望の薄い職務を辞して、過日陳述した望みの多い商業社会に尽力する所存である、現今の有様では苟も学問があるとか、気力があるとか、智慧があるとか、其他一芸一能あるものは、悉く官途に進むといふ傾きで、民間に人物は少しもないから、終に上下の権衡を失つて、国家の実力を発達することが出来ぬ、故に自分は明日辞表を呈する決心であるが、平生の知遇に対して、予め一言するといつたら、井上は大に不同意で、足下の意見は一理あれども、今日はまだ其時機とはいはれぬ、大蔵省の事務多忙を極める今日に当つて、俄かに其要職を辞するといふは、少しく穏当を欠く挙動と謂はざるを得ん、何分にも辞職の念を翻へして、一層勉励あるやうに希望すると、懇に説諭もあつたが、自分に於ては既に決意して申出した事だから、種々抗弁して強て請求した処が、井上は更に自分に示していふには、成程足下が彼の各省の定額論からして将来を掛念するのは実に道理至極だが、大蔵省の事務を真誠に皇張することを得て、日本の財政を整理する一段に於ては、乃公少しく方案もあるから、遠からず実施するであらう、其故足下の退任も暫く猶予して居て、此の際大阪に往て造幣局の事務を監督しろと如何にも城府を開いた懇篤の説諭を受けたに依て、終に其意に従つて辞職の事を中止して、大阪へ出張することにしました、
   ○参議大久保利道[大久保利通]大蔵卿ニ、参議大隈重信大蔵大輔ニ任ゼラレタルハ、明治四年六月二十七日ナリ。
 - 第3巻 p.237 -ページ画像 

世外侯事歴 維新財政談 中・第二三六―二五二頁 〔大正一〇年九月〕(DK030079k-0002)
第3巻 p.237-243 ページ画像

世外侯事歴 維新財政談 中・第二三六―二五二頁 〔大正一〇年九月〕
渋沢男 ○中略
 明治四年頃、井上さんが大蔵省の事務を担当して……四年の冬ですか、あの大使が派遣になつたのは、其後は井上さんが六年の春まで、殆んど任意にやつて御座つたと謂つて宜い。所が六年春になつて大隈さんと衝突したのです。井上さんから見れば、大隈は無鉄砲で困る、あんな考で国家が持てる者かと云ふ。大隈さんから言へば井上は保守頑固で困ると云ふ様な訳で、遂に是ぢやアと云つて、少し井上さんは短気を起して、己は罷すと云つて、罷したのが、五月六日あたりでした。それ迄の一年半許……廃藩置県が四年七月十四日ですから、それから翌々年の五月迄は、全く井上さんの大蔵省経営の時代でした。其間の事は殆んど私が秘書官といふより、もう一層重い位置に居つた訳ですから、大抵よく扱つて居ると思ふのですが、其中に知らぬ事もありませう、今其有様を秩序的に述べて見ろと仰せられても、どうも前後が曖昧として居りますが、自分の記憶を申上げますと、明治三年頃迄は、政府が大蔵省の金庫を、民間の資力ある者に聯絡をつけて経営した事に就ては、郷(純造)さんあたりが重に取扱つて居つたか知れませぬが、私共はあまり関係しなかつた。寧ろ三年頃には大隈さん、伊藤さんの指揮に依て、働いて居りました。私は大蔵省の制度掛の様な事をして居ました。四年になつて大蔵卿は大久保さんでありましたけれども、井上さんは或点は一致でせうが、或点は大変違ふ。殊に大久保さんの人の用ひ方は、或は井上さんを多少気遣ふやうな様子が見えた。安場保和、谷鉄臣等を、明治四年の廃藩置県後、大久保さんが入れた、是等は井止さんと説が合はぬです。私とか陸奥宗光、小野義真、芳川顕正等は井上派になる人です、渡辺清左衛門、玉乃世履、中村清行等は中間の人だ。所が其当時中村が頻に統計論をして、どうしても廃藩置県後の歳入は甚だ少い、まだ能く分らぬけれども……多分廃藩置県の直ぐ後です、収入の調査をして居つて、其年だと覚えて居ります、冬に大使の派遣が決して、派遣の少し前ですから、十月か、九月末であつたか、陸海軍の予算を決めると云つて、大久保さんが太政官に行つて評議して来て、井上さんにも話して吾々共に八百万円とかに極めると云ふ事を話した事がある。私は大丞といふ位置に居つたものですから、呼寄せて相談された事がある。所がまだ歳入が確と分らないです、中村さんの調も……それですから私は不同意を言つた。それで大変大久保さんに怒られて、叱り飛されたことがある。ト云ふのは、私の説は凡そ予算を決定するには、取入が明かでなくて出すことは出来ぬ、入る方が分らぬ間に、出す方を決めると云ふのは、私共甚だ其意を得ぬと思ふ、「然らば貴下はどうして陸海軍の費用を立てる積りか」と、大久保さんから、斯う反問された。イヤ一切やらぬとは言ひませぬが、今八百万円と決めるのは、どうかと思ふ、さう云ふ定め方は、其当を得たものでないと思ふ。御下問だから御答したのですと云つて、答弁したやうに覚えて居る。大分どうも大久
 - 第3巻 p.238 -ページ画像 
保さんの御機嫌が悪かつたのです。其時に私はいやになりまして、辞表を書いて、浜町の井上さんの処に持参して、「私はいやだから罷めて貰ひたい、元来私は大蔵省にお願ひして出たんぢやございませぬ、人を馬鹿にして居る、あんな大久保さんのやうな訳の分らぬ人に、使はれやうとは思はない、私はいやだから、どうぞ御免蒙りたい」と云つて、頻に井上さんに駄々をこねたんです。デ井上さんが甚く困つて、何でも其時に、頻に未来の事を考へて、言つて居らしたのを覚えて居る。「マアさう短気を言つてくれるな、今に少し処置が付くことがあるのだから、それは今言はれぬけれども、そんな事を言はないで……仕方がないから、君を大阪へ遣るから、少し遊んで来い、造幣寮を廻つて来い」……
 さう云ふ事で、一箇月余り大阪に滞在しまして、十一月の十三日に帰京したと思ふ。其中に大使派遣が決定した。実は大阪に居る頃に内定して居て、岩倉、木戸、大久保、伊藤、等の諸公が、四年の冬に列国巡回と云ふことに決つた。それが井上さんの一のお考だつたのでせう、大久保さんが出た後を、大久保さんの名に依て、己が引受けて仕事をするのだから、其時に安場、谷などは如何とも出来るから、短慮を起すなと云ふ事が、内々の私共を慰籍する言葉であつた。其時私は、本当に大久保さんが貴下を信用して居ない位は、あなたの明察で分りさうなものでないか、それは政治上からはいざ知らず、経済上からは、どうしても貴下と一致する事が出来ない。加之、安場、谷鉄臣などを引入れて、あなたの肘を掣いて居る、私共は如是人の下に立つて仕事をするのは面白くも何ともないから、いやだと云ふやうな事を言つた。事情全くさうであるけれども、世の中の仕事はさう短気ぢやいかぬから、マア我慢せいと云ふやうな事でした、其年の冬です、大使が出発した後、果して直に彼の安場、谷等の人々は、何れも他に転じて仕舞つた、それで井上派の大蔵省になつた。四年から五年に掛けて……
 先刻お話した様な次第で、私共は大久保さんに嫌はれた気味ですし殊に私等は一向親みの無い安場保和、谷鉄臣、是等は無論文学家みたいな人で、極大体の東洋流の政治論を言ふだけの人、経済などゝ云ふ事に就ては、殆んど素養も能力も無い人です。それ等が俄に入つて来たから、尚更吾々は其流儀を余り好まぬと云ふ位に見て、半分は井上さんに忠告的に、私が辞表を出すと云ふ事も申上げた積りであつた。それ故に、平つたく言へば、貴所もお罷めなさいと言はんばかりに、私は罷めますと云ふ事を言つた。其時のお話だつた、どうしても、此後をどう云ふ様にして宜いか、日本の将来といふものは甚だ行末を気遣ふと云ふのが立前の御議論で、頻に経済を説かれた様に記憶して居る。それで甚く私は敬服したので、今でも覚えて居るが、どうしても物質的の発達……マアさう云ふ意味の外に、此国は進むものではない、けれども今直に、お前がそれを言ふけれども、今は其事ばかり言ふた所が、迚もいきはしない。夫だから私は仕方なしに、悪く言へば政治界の流俗に泳いで居るのだ。けれども是れでは日本を将来真正の日本にする事は出来ないと思ふて居る
 - 第3巻 p.239 -ページ画像 
第一にどうしても真正なる予算を立つて、着実なる算盤で、維持して行く外はない。けれども夫だけではいかぬ、さう云ふ制度は、是非是れから先に作り成す事を努めなければならぬと、自分等は確信する。けれども、夫だけでは行かぬ、どうしても工業農業を盛にせねばならぬ。第一に農業といふ事で、農業に付てはなかなかに鄭寧な説を言はれたので、私記憶して居る。デ奥州などは最も注意しなければならぬ方面である、北海道の改良も急務である。開拓使に対して金を出すのも農業を盛にする必要、国の根源はもう少し農業が盛にならなければいかぬと思ふ、租税法の改正は第一である。実物で徴収する事は不可と思ふから、金納法に改めて、而して運送を改良せねばならぬ。運送が悪かつたならば商売は繁昌しない、物価を廉くする事は出来ない。次に工芸を盛にしなければならぬと云つて、第一に農、第二に工、富国而して強兵といふ主張を貫徹せねばいかぬと思ふがと云ふ御論で、其時には国家をして立憲とか、何とかいふ論は一切言はつしやらぬと私は記憶する。唯今の制度に依て天子を尊崇して、此郡県制度で行つたならば、大抵やれると思ふ。国が統一した、海外の交通は十分出来る、それで農と海軍と工業と、此三つは十分に進めにやいかぬ。商業を盛にすると云ふが、実物が無くて、商業を盛にすることは出来ぬ。それが十分に進んで来れば、必ず貿易等は大に活動する、国が富むといふことになる、其処まで進めると云ふでなければ、真正の国といふことは出来ぬと思ふが、今さういふ論をする者はない。幸ひ君がどうしても実際が進まなければいかぬといふ論は、両手を挙げて賛成する、迚も今の商売人では駄めだ。烏滸がましいが吾々が出てやらなければいかぬと思ふから、其説に就ては同論だけれども、政府が今の有様では困るぢやないか、だから今二三年整頓させてから、行かうぢやないか、マア君もう少し居ろと、斯う云ふお話だつた。成程、君は大不平を抱いて、辞職の念慮が強いやうだが、それは時代の真相の知り方が浅いから、さう云ふ事を言ふ、所謂他人視するからの事である、自分の国と思へばさうは行かぬ。どうしても改良するといふ心配をしなくてはいかぬぢやないか、だからもう少し辛抱せよ、其代り今少し遣り悪くからうから、大阪の方へ遣る、恰も兌換証券の事があるから、其用を兼ねて行つて居たら……其内に都合が付か無かつたら、其時共に罷めやうぢやないかと云ふやうな事で、慰諭して下さつた。侯には十分心算があつたものと見える、其時、遣欧大使派遣の事は未だ聞かなかつたが、侯は知つて居ても、私共へ話す訳に行かなかつたのだらうと思ふ。
 それで、私が井上さんから説得された日は九月十三日かと覚えて居りましたが、丁度その翌朝下すつた手紙がありました。これに「昨宵は長談に相成御疲労奉察候、御深情も承りながら御望みに不相叶定て頑固なる者と御叱咜も可有之と恐縮千万に候、乍併俗云因果と御発明被下度候」云々とあつて、九月二十四日と書いてある。して見ると其前夜、即ち二十三日に、私が井上さんの処へ行つた。「マー飯を食つて行け」といふ様なことで今のお話があつた。夫は実に天
 - 第3巻 p.240 -ページ画像 
下の大経綸であつたといつてよい。総べて農工商総まくりにして、日本を今に斯うしなければならぬ、どうしても実業をやらなければいかぬ、だから君遣つて見ろ、おれもやると云ふ話で、どうしても行かにやならぬと言ふ処までの理想なんです。其中には少し空想も、今思ふと交つて居るやうでしたけれども、成程えらい事を考へて居られると思つてお聴申し、且自分を慰めて下さつたのです。尤も私も大層生意気を言つたのを覚えて居ります。其理由が大久保さんの家で、欧洲巡遊から帰つた時だつたか、立つ前だつたか、送別会みたいに御馳走された事がある。其時井上さんと私は招かれたが、珍らしく井上さんが大酔に酔つて、さうして大久保さんを罵詈讒謗された。「お前の様に何だか妙な様子をして居るけれども、何も出来はせぬ、さうして威張つて居る、そんな人ばかりあるから、世の中は治まりはしない」、どうも、それは悪口を吐いて、本当に口ぎたなく言ひました。其後で「俺はそんなに酔倒れる程酔ひはしないけれども、あゝやつて置かぬといかぬ事があるのだから、多少酒を使つたのだ」なんて仰有つた事がありました。其事は井上さんが覚えて居ります。それは併し大久保さんばかりではなかつた様です、其時来た客を総べて罵倒して、下手をしたら、ぶん殴ると云ふやうな塩梅で、頻に威張られたことがある。何でもそれから少し後だと覚えて居りますヨ。先刻の話のあつたのは……、ソンな事から察すると、或点は大久保さんに、大分服した所もあつたでせうけれども、或点は寧ろ吾々と同主義の人ではないものですから、あれぢやア困ると云ふ事は、勿論見て居たんでせう、それで私に話された精神は、大蔵省の事は今は思ふ様には行かぬが、大久保さん等が、西洋に行つた留守に、もう少しやるからと云ふ意味があつたやうです。
                   (明治四十一年十二月三日)
渋沢男 私は先達ても三友倶楽部で話したのですが、大久保さんが、明治四年七月頃大蔵卿になつて、閣下が大蔵大輔、其時分に大蔵大丞に新に任ぜられたのが、安場保和と谷鉄臣、私共も引揚げられて、大蔵大丞になつた。所が安場とか谷とか云ふ人は、私共が見ますと、どうしても閣下の仕事に対しては、多少反対で、且つ事に依ると、監察的の考を以てやる人なんです。それで何かの事で、財政上の御相談のあつた時に、私共其処へ参加して、大久保さんに陸海軍の定額を決めると云ふ事に対して、反対の意見を申したので、大きに叱られた事があつた。さうして私は少し不満に考へたものだから、閣下の処へ出て不足を申上げたのです。
井上侯 私も其会の時に居つた。
渋沢男 或は居らしつたかどうか、夫は能く覚えませんが、私は大久保さんの御機嫌を取つて勤める事は出来ませぬ、閣下には知られた様に思ふけれども、大久保さんは、私共は嫌の人なんです。つまり安場とか、谷とか云ふ人が、大久保さんには宜いのですから、私をばどうか辞さして下さいと、申上げたのです。さうしたら閣下が甚く私を宥めて下すつて、其時のお話に、どうも今の有様で、政府の財政上の仕事は、どうして行つて宜いか、余程私は思案して居る。
 - 第3巻 p.241 -ページ画像 
けれども是から先の財政を、完全に成就して行かうと思ふなら、(其時には実業と云ふお言葉は無かつたけれども)商工業の発達を図らなければ、到底駄目と思ふ。今廃藩立県はやつたけれども、迚も国家の財政がこんな有様では、外国に対して、相当なる交際の出来る国柄になると云ふ事は、難しいぢやないか、どうしても実力を進める外ないと思ふ。君等も既に商工業の発達を図らにやならぬと言つて居る、其論は私も同論だけれども、第一に夫を運ばせるのが、なかなか容易な事でないが、政府の財政に対する道行が本当に立たなければ、商工業だつて進まんぢやないか、まだ夫より先があるだらう、農業をどうする積りだ、工業をどうする積りだ、さう云ふ事が総べて行かなければ、国家の富が完全に進むものぢやない。それをやらうと云ふには大蔵省の事務をもう少し完成して置かねば成らぬ。それが直ぐ出来ると思ふなら、それは智慧がないと謂はなければならぬ、後に商売人になると云ふ意見は、私も是とする。私もなるかも知れぬけれども、もう一二年整理して、国家の財政を相当の位置に進むる方法を立つて、それからやつても遅からぬぢやないか、先づ北海道に対しても、黒田が開拓使でやつて居るが、斯う云ふやうに為なければならぬと思ふ。内地の農業の改正も斯うやらなければならぬ。それから工業を進めにや、商売の繁昌する国は無いぢやないか、其商売は英吉利がどうだと云ふやうなお話で、何でも一日お話を承つた。それが私は四年九月二十三日と覚えて居ります。
井上侯 安場ぢや、何ぢやといふ分らぬ人が沢山居つて、経済だの、財政だの分りツこはない。私も実はこんな分らぬ人達と共に、やつて行きやうが無いがと云ふ事は頭にあるから、どうしても経済上の発達を計らにやいかぬと云ふ君の論も聴いて、それには全然同意して居つた。
渋沢男 大変に鄭寧に御説得を受けて、それから大分得意になつて、仕事を仕出したのです。それは廃藩立県が済んで、まだ庶政に手が着かぬ時に、私が大久保さんに逆らつた事を言ふたので、大久保さんにひどく叱られた。それが少し癪に触つたばかりでなく、其時同僚に来た人達は、迚も井上さんと同じ道筋を進む人とは思はなかつた。大久保さんが、井上さんにやらして置くのが、真実、井上さんを信任して居るのではない、半分は用ふるけれども、半分は箝制する様に認めた。だからこんな処に居たつて駄目だ、政府が閣下に任じ方が本当ぢやない、斯う云ふ意見で苦情を言ひに行つたのです。其場合に今の様な説得を受けた。それを私は大変身にしみて、能く覚えて居ります。これは変つた人だ、成程さうか知らぬ、おれなどはさうやれると思つたが、さうまで為にや行かぬものかと思つて、鄭寧な国家興隆策とも謂ふべき、大政策を仰せられたのを覚えている。私はそれに服して、それなら勤めますが、何か策があるかと云つたら、それは今は言へない、今に君方に少し働かせ得る様にならうと思ふから、今極らぬ事を聴かぬで呉れ、兎に角私の説に服するなら、暫く大阪に行つてくれ、馬渡俊邁が大阪に行つて居るがどうも思ふ様に行かぬ。あれが造幣権頭であつた、私は大蔵大丞で、私の方が
 - 第3巻 p.242 -ページ画像 
一格上であつた、どうも十分に運ばぬから君行つて造幣頭の仕事を遣つて呉れ、それには兌換証券を大阪で出した、あの年の冬に……、其事務も取扱ふ事にして、暫く東京に居るな、さうすると君の不平が少くなるからと云つて、大変慰めて、大阪へお遣はし下すつた。夫から大阪へ行つて居ると、大使の派遣といふ事が決つたのです。それで成程、是だナと気がついた、さうすると安場も、谷も転任したんです。それで種類がずつと一様になつて、井上さんの政策が大蔵省に於て十分行はれる事となつた。私は十一月頃に帰つて来て、明治五年の初に大蔵少輔勤務といふ事に、一級位置を上げて載いて、それから全く次官の仕事を勤めた。丁度一年と三四個月勤めて、明治六年の五月になつて罷めた、辞表を提出したのは、五月の三日だつたが、諸藩の始末などは其間に出来たんです。銀行の制度も、財政の方法も、予算法なども甚時定めた。勿論完全ではなかつたけれども、歳入歳出の予算を立てると云ふ事なども……明治四年にお話を伺つたことが、主に五年迄の間に出来た……皆は行はれませんけれども。それが今の様な御胸算であつたやうに覚えて居ります。
                    (明治四十二年二月四日)
渋沢男 私共此間も繰つて見ますと、明治三年の五六月頃から侯爵に御随従申して、爾来経済上の事に付ては、叱られもしたし、又多少異論も申上げたこともあるが、殆ど唱和追随、四十年の歳月を経たのですが、大体にては御趣意と同一と思ひますし、又始終服従し得られたと思ふです。其間には遣り過ぎるとか、或場合には、引込過ぎるとか云ふ場合もあつたが、抑々私が初に侯爵の大経済論を承知したのは、先達ても申した明治四年九月と思ふ。其時分から、日本の政府の財政を富まさにやいかぬと云ふことで、私もさう思ふたが、その御趣意が余程お強かつたやうに考へて居る。それから農業を勧め、穀納を金納に変更したいと云ふのが、其時の最も強い御趣旨だつた。それで今日の所では、税が農にばかり属して居つて、僅かしか取れぬ、是れでは国は富まぬ、大きな仕事は出来ぬ、之をどうしても改革しなければならぬ、どう改正したら宜からうかと云ふ、其改正の手段としては、先づ穀納を金納に引直して、米に換へると云ふことを頻に御主張で、それから前島氏などに相談して、郵便蒸気船会社を起した。それから一方には金融をどうするかと云ふに付て、唯単に政府だけでやるか、相当の力ある者を利用するかと云ふことが、もう一つの御主眼だつたと思ふ。其時分には今日の如き、欧羅巴の振合がどうとか、亜米利加の制度がどうとか云ふことは、多少お考があつたか知らぬが、今日の如き学問的調査は無かつたのです。けれども大体から観察して、矢張り日本も今迄の如く、御為替御用一方のみじや不可ない。どうしても相当なる方法にして、預金とか、公債とか云ふ仕組も立て、金融の途を作らにやならぬと云ふお感じを持つて御座つた。それで三井や、小野を助けて、之を改良して使ふより外ないと云ふのが大体の御趣意の様に私共は初に見ました。
                    (明治四十二年三月二日)
  ○右ニ関スル談話ハ右ノホカ左ノ諸談話ニモ含マル。
 - 第3巻 p.243 -ページ画像 
   竜門雑誌
    第二四四号 明治四一年九月(井上侯爵)
    第三二九号 大正四年一〇月(井上侯と予との関係)
    第四四七号 大正一四年一二月(進退を共にした井上馨侯)


造幣寮日記 明治四年(DK030079k-0003)
第3巻 p.243 ページ画像

造幣寮日記 明治四年                 (造幣局所蔵)
    十月五日
一渋沢大丞殿御上阪並馬渡権頭殿御帰阪相成候事
   ○明治五年十一月二十八日ノ条参照スベシ。



〔参考〕処世の大道 (渋沢栄一著) 〔第八四―八六頁/第七四二―七四四頁 昭和三年九月〕(DK030079k-0004)
第3巻 p.243-244 ページ画像

処世の大道 (渋沢栄一著) 〔昭和三年九月〕
    ◎器ならざりし大久保利通 (第八四―八六頁)
  子曰。君子不器。(子曰く、君子は器ならず。)
 孔夫子は、君子は器物の如きもので無いと仰せられてゐる。苟も人間である以上は、之を其技能に従つて用ひさへすれば、必ず其用をなすものであるが、箸には箸、筆には筆と、夫々其器に従つた用があるのと同じやうに、凡人には唯それぞれ得意の一技一能があるのみで、万般に行き亘つた所の無いものである。然し非凡な達識の人になると一技一能に秀れた器らしい所が無くなつてしまひ、将に将たる奥底の知れぬ大きな所のあるものである。
 大久保利通公は私を嫌ひで、私は酷く公に嫌はれたものであるが、私も亦大久保公を不断でも厭やな人だと思つて居つたことは、前にも申述べ置たい如くである。然し仮令公は私に取つて虫の好かぬ厭な人であつたにしろ、公の達識であつたのには驚かざるを得なかつた。私は公の日常を見る毎に、器ならずとは必ずや公の如き人を謂ふものであらうと、感歎の情を禁じ得なかつたものである。
 大抵の人は、如何に識見が卓抜であると評判せらるゝほどでも、其の心事の大凡は外間から窺ひ知られるものであるが、大久保公に至つては、何処辺が公の真相であるか、何を胸底に蔵して居られるのか、不肖の私なぞには到底知り得らるゝもので無く、底が何れぐらゐあるか、全く測ることの能きぬ底の知れない人であつた。毫も器らしい処が見えず、外間から人をして容易に窺ひ得せしめなかつた非凡の達識を蔵して居られたものである。私も之には常に驚かされて、器ならずはと大久保公の如き人の事だらうと思つて居たのである。底が知れぬだけに又公に接すると、何となく気味の悪いやうな心情を起させぬでも無かつた。之が私をして何となく公を厭な人だと感ぜしめた一因だらうとも思ふ。
   ◎大久保利通・岩倉具視・勝安芳 (第七四二―七四四頁)
○上略
大久保公は細かい所に気が付き、鋭い所のあると同時に又略のあつた人だ。私が大久保公に初めてお目に懸つたのは、明治四年であつたやうに思ふが、和蘭から万国電信同盟へ加入せぬかと政府へ照会があつたので、その可否を決するに先ち、私の意見を聞きたいから遇ひたい
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といふ事であつたのだ。命に応じて私が大久保公の許へ参ると、公の申されるには、この事に就ては外務の役人へ問ひ尋ね、又その道の技師等へ諮問してもよいのだが、それでは形式的の答案を得らるゝのみで、益する所が少いから、是非専門の役人で無い貴公の意見を聞きたいといふにあつたのだ。当時大蔵省の役人であつた私が、之に旨く答弁の能きやう筈なく、たヾ当惑するのみであつたが、万国電信同盟へは、兎に角本邦も加入して然るべく、なほ詳細は追つて大蔵省の改正掛に於て調査の上答申致すべき旨を答へ、私は退下つたのである。
 帰つてから大隈侯へ此の事を話すと、堂々たる大文章などで答へたら飛んでも無い馬鹿を見る、大久保だからつて、電信の事を渋沢へ聞いた処で解るもので無いくらゐのことは先刻知つてるが、これを機会に渋沢は何んな人間か、評判だけでは解らぬから、親しく遇つて置かうと、それで態々貴公を喚んだのだらうと侯は笑つて居られた。○下略
   ○右ノ談話ニアル和蘭ヨリ万国電信同盟へ加入ノ件ヲ政府ニ照会シ来レル件ノ年月明カナラズ。電信事業史ニ関スル最モ詳細ナル文献タル「逓信事業史」ニヨレバ、最初ニ万国電信聯合ノ組織セラルタルハ仏国ガ一八六五年巴里ニ開催シタル万国聯合電信会議ノ結果ニシテ、万国会議ハ其後一八六八年維納、一八七二年羅馬、一八七五年聖彼得爾堡等ニ開カレタリ。而シテ我国ガ初メテ加入シタル条約ハ一八七五年ノ聖彼得爾堡条約ナリキ。