デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第3巻 p.245-255(DK030081k) ページ画像

明治四年辛未九月(1871年)

是ヨリ先、大蔵省改正掛ノ立案ニ基キ栄一編述スル所ノ立会略則、福地源一郎訳述スル所ノ会社弁ヲ府県ニ頒示ス可キヲ太政官ニ稟議シ、本年六月十八日其裁可ヲ得タリシガ、是月之ヲ刊行ス。栄一会社弁ニモ叙ス。


■資料

青淵先生伝初稿 第七章一・第六二―七三頁 〔大正八―一二年〕(DK030081k-0001)
第3巻 p.245-247 ページ画像

青淵先生伝初稿 第七章一・第六二―七三頁 〔大正八―一二年〕
先生夙に商業を発達せしむるの志あり、然れども商賈等いまだ旧套を守りて、新しき経営に遷るを知らず、されば先生はかねての持論たる合本組織の方法を国民に教へ、之を指導して殖産興業の途を開かんことを希ひ、公務の余暇を以て立会略則《リツクワイ》を著はし、また福地源一郎に嘱
 - 第3巻 p.246 -ページ画像 
して会社弁を撰述せしめ、かの改正掛の協議を経太政官に伺の上、四年九月官版として刊行せらる、大蔵省より太政官への伺書は当時の情勢を見るべきものあり、よつて左に録す、
  貨幣流通之道ハ、民産之盛衰国力之強弱ニ関係イタシ、寔ニ国家経済之第一務ニシテ、民庶和同之協力ニ無之テハ、拡充難相成義之処、御国民之義ハ、従来之慣習ヨリ、重々各人独自区々之小利ヲ相計リ、未タ立会結社之大益タルヲ了知イタシ候者稀レニテ、既ニ御新政後通商司被立置、爾来二三之会社創立イタシ候得共、兎角官民混淆之弊害不少、流通之道其利便ヲ得ルニ至ラス、現今市上工商之徒、貧富ヲ問ハス一般右不便ヲ相鳴ラシ候儀、未タ徳政之仁沢遍ク行渉リ兼候場合モ可有之候得共、畢竟人智相開ラケス、動モスレハ公権ヲ紊リ、各民区々小利ヲ争ヒ、協同戳力之大利ヲ発悟不致ヨリ之義ト被存候、依テ福地源一郎訳述会社弁之義ハ、預リ金為替其余諸会社之得失便否ヲ論述イタシ、剰ヘ行文平易、世俗愚蒙之解読ニ至便之書ニテ、且ツ兼テ当省少丞渋沢栄一編述イタシ候立会略則之義モ、右会社弁ト一般、立会之仕方等ヲ細述イタシ候モノニテ、偶々参照イタシ候得者、彼是相助ケ、体用具備イタシ、当世必須之書冊トモ被存候間、今般右両部合冊之上当省ニ於テ刊行可致存候、尤商法之義ハ追々中外御参酌之上、適宜之御制度御取設可成ハ即今之急務ト奉存候得共、立会結社等ニ至リテハ、強テ官府ニ於テ其方法ヲ設ケ、一般指令可致モノニモ無之哉ニ被存候間、矢張右両冊抔普通編述ノ書籍ヲ以テ、各民稍々出会之理《(マヽ)》ヲ会得イタシ候様相成候ハヽ、公私之公益無此上事ト奉存候、依テ別冊添此段相伺候也
    辛未五月十日              大蔵省
      弁官御中
立会略則には「商とは物を商量し、事を商議するの義にして、人々相交り相往来するより生ずるものなり、故に物と事とについて各思慮勘考するの私権 私権とは、人々その身に附きたる通義にして、他人の犯し妨け得さるものをさして云ふ事にて、敢て法度に拘はるものにあらす、によりてこれを論及し、其善悪可否を考へ相融通して倶に利益を求むるこそ商の本義といふべし、されば貿易売買するを指して商業と為し、其職とするものを指して商人と云ふは、まことに天賦の美名にして、唯一人一個生計を営むが為めの名にあらず、能く此主意を心得大に商売の道を弘むれば小にして一村一郡、大にして世界万国の有無を通じ、生産もまた繁昌し、遂に国家の富を助くるに至らん、是商の主本要義にして、凡そ商業を為すもの、心を此に留めざる可からず」といふより説き起して、「物相交り相通ずるより商法の道を生ずれば、能く此道をおしひろめて全国の富を謀るべき事なり、夫れ故商業を為すには偏頗の取計ひなく、自身一個の私論を固執せず、心を合せ力を一にし、相互に融通すべし、若し一個の私論を固執し、或は偏頗の取計をなし、相融通するの道なければ、品物流通せずして、更に利益を得ること能はず、故に商業をなすには、切に会同一和を貴ぶ、是商社の設けざる可からざる所以なり、商社は会同一和する者の、倶に利益を謀り生計を営むものなれども、又能く物貨の流通を助く、故に社を結ぶ人、全
 - 第3巻 p.247 -ページ画像 
国の公益に心を用ゐん事を要とす」と述べて、商業は一人一己の私利を図るべきものにあらず、宜しく天下の公益を図るを目的とせざる可からざるを説き、併せて商社を結ぶことの必要なるをいひ、項を通商会社為替会社の二つに分ちて、会社の組織より営業の方法等を詳述せるものにして、通商会社の条には、主意、制限、方法、社中諸掛人員、為替会社の条には、通例為替、廻状為替貸、附ケ金仕法、預り金仕法、通用切手仕法の諸項を挙げ、附録として引請貸借仕法、公債仕法の事を掲載せり。玆に通商会社とは商業会社を汎称し、為替会社とは銀行を汎称す、並に当時の通用語なりき。又会社弁は「預り金会社(バンク、オフ、デポシツト)為替会社、(バンク、オフ、エキスチエンヂ)貸附会社、(バンク、オフ、ジスコウント、セーウインバンク)廻文会社、(バンク、オフ、シルクレーシヨン)諸会社取建の手続大要、預り金会社取建の主意、貸附会社取達の主意、廻文会社取建の主意」の諸項に分ちて細説せるものにして、皆悉く銀行事業にあらざるはなく、名は会社弁なれども、今日の用語に従へば銀行弁と称すべきものなりき。かくて両書の成るや書肆をして之を発売せしめたるのみならず、各府県に一部づつを頒布し、以て其参考に資せしむ。当時商業に関する智識の幼稚なりし際において、欧米の風に傚へる結社営業の方法を官民に会得せしむるに、与りて多大の力ありしことは想像に余りあるべし、されば爾来会社を起すもの、概ね皆範を此書に求めて其業に従へり、幾もなく会社弁講釈などいふ書世に出でゝ、両書の大要を概説せるを見ても、如何に本書が時代の要求に応ぜるかの一斑を知るに足らん。いま立会略則に載せたる先生の自序を按ずるに、「商法は法科の一部に在りて、其制限究めて厳粛にして、方法規則におけるも最も周密たり、これを書籍に編せば巻帙頗る浩瀚たるべきものとす、故に今此区々小冊子固より之を詳悉すべきに非ず、今姑く其大旨要領を略記し、以て将来其書の大成を待つのみ」とあり、上文に掲載せる大蔵省より太政官への伺書にも「商法之義ハ追々中外御参酌之上、適宜之御制度御取設可成ハ、即今之急務と奉存候得共云云」と見ゆ、これらを合せ考ふるに、当時先生等は商業上の一般法規をも制定公布せんとするの意志ありしを知るべし、然れども時機尚早きがゆゑに之を将来の大成に期したるなり。殊に立会略則会社弁は、共に合本結社の方法を民衆に教へんとするものにして、商業上の教科書のみ、元より法規にあらずといへども、大蔵省より太政官への建議案に、「諸商社の義ハ元来一般之法則無之候ニ付、府県より結社之許可を請ふ申牒は、当省発兌之会社弁立会略則ニ参考し、其事状を審にし、其目的の可否を明にし、実際施行之上弊害を不醸様、深く予防ニ注意し許可致来候得共、商社之大小、許可を請ひ可施行もの、又無許可して可施行之分界も無之、不都合不少候間、一般之法則条例撰定相成度義ト存候事」とあるを見れば、同省が諸会社の設立を許否するに際し唯一の参考書となれるを知るべし、後年における商法編纂の如き、手形法制定の如き、其濫觴を尋ぬるときは、これも亦源泉の一つならんか。


大蔵省沿革志 本省第四・第六六―六七丁(明治前期 財政経済史料集成 第二巻・第一五五頁 〔昭和七年六月〕)(DK030081k-0002)
第3巻 p.247-248 ページ画像

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立会略則目次並ニ序文(DK030081k-0003)
第3巻 p.248-249 ページ画像

立会略則目次並ニ序文
  通商会社
    主意
    制限
    方法
    社中諸掛人員
  為替会社
    通例為替
    廻状為替
    貸附ケ金仕法
    預リ金仕法
    通用切手仕法
     附録
    引請貸借仕法
    公債仕法
一此書ハ余曾テ泰西ニ官遊ノ時目撃耳聞ニ任セテ漫録セシヲ抄出シタルモノナリ、余東帰ノ後漸ク世間通商ノ利ヲ唱フルモノ多ク、其間立
 - 第3巻 p.249 -ページ画像 
会結社ニ心アル者アリト雖モ咸ナ管見臆測ニテ其要領ヲ得ス、故ニ其万一ニ稗補アランカト謭劣ヲ顧ミス蕪陋ヲ厭ハス刻シテ之ヲ世ニ公問セントシテ未タ果サヽリシカ、偶々客冬官府ヨリ福地万世ニ命シテ会社弁ヲ訳セシメ刊行シテ以テ世ニ公セントスルニ当リ、或ハ遺漏アリテ看者尚隔靴掻癢ノ患アランコトヲ恐レ校訂ノ間旁ラ実際親見ノ旧草ヲ抄録シ、更ニ今日実用ニ就テ聊カ参酌折衷ヲ加ヘ名テ立会略則トシテ以テ会社弁ヲ読ム者ノ資用ニ供セントス、亦思隴ノ故意ノミ
 商法ハ法科ノ一部ニ在テ其制限究メテ厳粛ニシテ方法規則ニ於ルモ最モ周密タリコレヲ書籍ニ編セハ巻帙頗ル浩瀚タルヘキモノトス、故ニ今此区々小冊子固ヨリ之ヲ詳悉スヘキニ非ス、今姑ク其大旨要領ヲ略記シ以テ将来其書ノ大成ヲ待ツノミ
 此書敢テ之ヲ史籍ニ考覈セシニ非ス、又之ヲ名師ニ質問セシニ非ス唯随聞随録ノ漫筆タレハ或ハ謬誤アルモ知ルヘカラス、且其脱略モ亦少ナカラストセス、看者幸ニコレヲ咎ルコトナカレ
 此書会社弁ト其体裁ヲ同フセス、且或ハ重複アルヲ免レス、蓋シ会社弁ハ翻訳ニ成リ此書ハ紀聞ニ係ル所以ナリ看ルモノソレコレヲ諒セヨ
    明治四年辛未六月
                    青淵渋沢栄一誌


官版 会社弁叙(DK030081k-0004)
第3巻 p.249-250 ページ画像

官版 会社弁叙
霊妙ノ智ヲ稟ケ、天地ノ間ニ立チ造化ノ功用ヲ輔弼シ、万物ノ化育ヲ賛成スル之ヲ人ノ任ト云フ、而シテ其任ヲ有スル者相聚リ相資ケテ一地方ニ特立シ、卓然他ニ愧ルナキ此レ国ノ称アル所以ナリ、故ニ其国ノ盛衰栄辱、単ニ其人ノ智愚勤惰ニ関ラサルナシ、其任タルヤ重ク其責タルヤ大ナリ、蓋シ造化ノ功用ハ生々ノ妙理ニ由リ、万物ノ化育ハ一元ノ真実ニ基ク、能ク其理ニ体シ其実ヲ拡ムルハ人生自然ノ当務ニシテ、農工商賈ノ力作販鬻スル私利ヲ営ムカ如キモ、其実ハ物産ノ蕃殖ヲ勉メ交易ノ亨利ヲ得ル原始ニシテ即チ其国ノ盛且昌ナル所以ノ基礎ナリ、サレハ人タルノ任責ヲ尽サンニハ唯能ク其国ノ人民ト相待テ盛衰栄辱ノ相関ル所以ノ理ヲ暁リ、各其職業ニ服事シ自修自営ノ道ヲ勉メサルヘカラス、既ニ斯ノ理ヲ暁ル独力単任ハ協同戮力ニ如サルヲ知リ、徒ニ之ヲ遠大ニ求メ之ヲ迂濶ニ失スルコトナカルヘシ、惟ルニ開市以来人々稍通商ノ便ヲ唱ヘ、奔競趨争シテ共ニ其利ヲ求ルヨリ漸ク彼我交換ノ利ヲ亨シ、人生ノ洪益日用ノ至便ヲ得ルニ至リ世道ノ開明駸々乎トシテ日ニ進ミ月ニ盛ニ其勢得テ遏ムヘカラス、其流化モ亦前日意想ノ外ニ出ツ、然リト雖モ我邦従来沃土ヲ以テ宇内ニ冠絶シ、他ノ供資ヲ仰カサルヨリ通商ノ法ニ於ルモ亦自ラ外国ノ如ク精且密ナラス、加之商賈孤立シ各自小利ヲ営ミ協同戮力シテ大利ヲ謀ルノ理ヲ暁ラス、往日ノ旧習ニ依テ現今ノ当務ヲ処ス、是故ニ互市ノ権利唯彼ニ在リテ常ニ其簛弄ヲ受ク、其間立会結社商業ノ繁盛ヲ謀リ、交通ノ利便ヲ論スル者アリト雖モ概子孟浪不稽ニ属シ、或ハ公権ヲ紊リ或ハ法制ヲ歝リ互ニ相障礙シテ終ニ共ニ樹立スル能ハス、甚シキハ他人ノ財
 - 第3巻 p.250 -ページ画像 
本ヲ資用トシ姑ク我営生ニ供スルノ計ニ過キス、於是乎流通便ナラス物産殖セス、自修自営ノ道ヲ失ヒ、繁盛殷富ノ源ヲ塞キ、彼ノ生々ノ妙理一元ノ真実殆ント将サニ絶ントス、何ソ功用化育ヲ補賛スルノ責ヲ問ニ暇アランヤ、既ニ然ラハ天稟霊智ノ存スルモノ希ニシテ国亦従テ衰辱ヲ免レス、是レ其素法完規ナキニヨルト云トモ其実ハ職業ニ服事スル者之ヲ反躬セサルニ出ツ、豈其責ヲ免ル可ケンヤ、苟モ能ク之ヲ患ヘハ須ク其理ヲ索メ、其法ヲ考フ可キナリ、是レ会社弁ヲ刻シテ世ニ公スル所以ナリ、読者能ク此理ヲ考究シ、此書ニ就テ其要務ヲ了得シ、真理ニ従ヒ実法ニ拠リ、人タル所以ノ責ニ任シ、以テ自修自営ノ道ヲ拡充セハ嚮ノ障礙スルモノ暢達シ、壅塞スルモノ快通シ交易ノ亨利物産ノ蕃殖モ亦日ヲ教ヘテ待ツヘシ、而シテ国ノ盛昌固ヨリ期スルニ足ン、此書訳既ニ成ル聊力其要ヲ提シテ之ヲ巻首ニ書シ、以テ世ノ職業ニ服事スル者ヲシテ其任責ノ重且大ナルヲ知ラシムト云爾
  明治四年辛未六月
                   青淵渋沢栄一謹識



〔参考〕(福地源一郎)書翰 渋沢栄一宛(明治三年カ)九月二二日(DK030081k-0005)
第3巻 p.250 ページ画像

(福地源一郎)書翰 渋沢栄一宛(明治三年カ)九月二二日
                    (渋沢子爵家所蔵)
    謹承
尊諭 商会為替会社規則之尊稿両冊即貴价へ附与仕候間、御落手可被為下、文意流暢簡詳之間を得至極適当之高著ニ御座候、尤商会之方へは少々相加候てハ如何と奉存候廉も有之、是は拝眉之上尊慮奉伺候様可仕候、且ツ英訳にも取掛居候間御用済次第御廻し奉願候
紙幣条例昨日迄にて卒業仕、今朝一読過之上本日午後持参拝趨可仕候紙員ハ百三枚と相成申候、可然御手数之義奉願候、随分六ケ敷反訳ものにて御座候、右御報迄 草々頓首不宜
    九月廿二日
   ○此書状ニ云フ所ノ「商会為替会社規則之尊稿両冊」トハ「立会略則」ノ草稿ヲ指スモノナラン。此時ニハ未ダ書名決定セザリシヲ以テカクノ如ク記セルナルベシ。両冊トアルハ「立会略則」ノ内容ハ、第一編通商会社、第二編為替会社ナレバ、初メ草稿ハ二冊ニ記サレタルモノナラン。


〔参考〕世外井上公伝 第二巻 〔昭和八年一二月〕(DK030081k-0006)
第3巻 p.250-252 ページ画像

世外井上公伝 第二巻 〔昭和八年一二月〕
  第十一節 銀行の設立
    一、為替会社 (第二五三―四頁)
○上略
 併しながら為替会社が設立されたことは全然無意義に終つたといふのではない。その設立によつて通商貿易並びに一般金融上に少からず貢献する所があつた。而してこゝに特筆すべきは、合資結社の必要を世人に知らしめ、会社的営業の範を示したことである。とにかく為替会社はその経営が宜しきを得ず、而も急速な時代の進歩に順応しなかつたので、数年にして廃止の已むなきに至つたが、この設立あつて以来大いに銀行並びに会社に関して世人の注意を喚起し、後年完全なる
 - 第3巻 p.251 -ページ画像 
銀行が設立せらるべき気運を醸成した。まして公が四年七月に大蔵大輔に任ぜられてより、大いに会社・銀行に関する研究をなすと共に、その知識を一般に扶植するために、同年九月に渋沢栄一著の立会略則及び福地源一郎著の会社弁を大蔵省に於て発行し、一般に之を読むことを奨励したので、これより銀行若しくは銀行類似の会社を設立しようとする者が続出するに至つた。公等は一方に於てかくの如く銀行に関する知識を普及すると共に、他方に於て新たに条例を制定して完全な銀行を設立しようとした。○下略
    二、国立銀行 (第二七二―六頁)
 前条に述べた如く為替会社はその組織不完全な為、経営が失敗に帰したとはいへ、これによつて世人は合資結社に成る会社銀行に注意を喚起し、且つ時代の急速な進展と共に、他に完全な銀行が起ることを翹望した。この情勢に投じて、公が四年九月に渋沢栄一著の立会略則及び福地源一郎著の会社弁を刊行頒賦したことは、機宜に適したことであつて、これが為に合資結社の精神が民間に勃興するに至つた。かくて各地から銀行若しくは銀行類似の会社を設立する請願は陸続として現れた。その中でも重なものは三井組・小野組・東京銀行及び江州バンクの四行であつた。
 三井組は、この年為替御用を命ぜられた時、大蔵省から将来正規の銀行を創立すべきことを特に注意せられたのであるが、それは勿論公の指図であつたのに相違ない。それで三井組では東京府及び各開港場に銀行開店のことを願出で、政府より直ちにその許可を得たので、証券製造方を米国に注文した程に進んでゐたが、幾くもなくして政府の説が変じて、前の指令が取消された。
 又東京銀行は、四年十二月に各大区御用掛総代から、町会所の積金、及び市民に下渡された大蔵省よりの拝借金を以て、西洋のバンク組織による一会社を起さうとして東京府庁へ願出たものである。然るに府から正院に稟議するに及んで、正院は之を大蔵省に下問する所があつた。この東京銀行の組織は、未だ完全な株式会社組織に拠つたものとはいへず、株式会社としての特色の一である有限責任制度がなく、且つ資本金の過半は官金に属してゐたので、半官半民の会社組織ともいふべきものであつた。既に為替会社に於て半官半民の苦い経験があつたので、公は之に反対し、二十四日に正院に建議して、官府は銀行を監督する位置にあるものなるに、自から会社の主と為つたのでは、若し不正のあつた場合に之を矯正する者が無い。かくては官府は顧慮する所なく、自然専断の所行あるに至るのは当然であり、会社を官物に帰せしめる虞があり、随つて立会結社の本意に悖るものであるから、かくの如きは先づ起社を許可しないが宜しいとの説を立てた。その後間もなく公は更に建議して、会社設立は営利を目的とするのであるから最早政府の助力を必要とせざる旨を説き、東京銀行の設立を沮止した。ここに於て正院では議論が区々に別れて決する所がなかつた。然るに府は東京銀行仕法並規則等を詳細に取調べて、資本金七百万円を以て営業することを伺出でたので、五年二月に公は三度正院に建議してその不可を論じた。即ち官民混同の結果は、勢ひ会社の組織を弱め
 - 第3巻 p.252 -ページ画像 
て瓦解に陥らしむるものであるから、かやうな会社を創立することは差止めて然るべきであると述べた。併し正院はなほ逡巡してゐたので公は四月に至り四度建議して、東京銀行設立の如きは諸会社一定の法に基づくべきものであつて、その法は目下取調中であるから、同行設立の出願取扱も大蔵省の権限内に委せて貰ひたいと請うた。正院はこの議を裁可し、その設立の許否を大蔵省に委ねたので、遂に同行は設立を見ずして止んだ。
 小野組の銀行設立を請願したのは五年二月である。即ち三井組へ為替御用を仰付けられたについては、我々に於ても同様尽事報国の一端を勤めたい志願であるから、華族方有志の財産凡三百万円までの準備点検を受けて、バンク法に準拠したいと開陳する所があつた。
 江州バンク設立を請願したのは五年四月である。これは大津為替会社を立会略則によつて組織を改め、その業務を拡張して江州バンクと改称して営業しようとしたのである。併し公は此等に許可を与へなかつた。
 これ等諸行の設立出願に対して公が容易にその許可を与へなかつたのは、結局為替会社の覆轍を踏むことを虞れた為であつて、公等は進んで完全な銀行制度を作らうとして熱心努力し、大蔵省にてその草案を編纂中であつたのである。
 されば五年二月十五日附で公から在米国の大久保・伊藤の二人に送つた書翰の一節に、「紙幣会社創立之儀も、追々反覆審議いたし、最前伊藤君之御調により、更ニ正金活用之方法を加へ、是非近々決定施行之心得ニ御座候。即今バンク之創立を唱ゆる者比々相喧しく、却而其弊害を恐懼し、最早予防之設無之而ハ不相成程の勢ニ候。故ニ勉テ確実之制を以て一定之法則を定め、其規範中ニ入るハ之を允し、否れバ之を抑ゆるの保護法を要せざるを得ざる事と奉存候。我邦人之遷善果して迅速なる歟、抑軽佻浮薄流風を趁ふの習俗にして然る所以歟、御賢考可被下候。」大蔵省文書とあつて、公等の確実な組織にすべき法規を定めこれにより取締らうとする方針を知ることが出来る。
   ○右ニ於テ江州バンクニ関シ、『これは大津為替会社を立会略則によつて組織を改め』云々ト記セル点注意スベシ。他ノバンクニ付イテハ立会略則トノ関係ヲ記サズト雖モ、何レモ同様ノ影響アリシナラン。
   ○右ト同趣旨ニシテヨリ詳細ナル記述ハ「明治貨政考要」下編、第三章、第一節、第一九五頁以下ニアリ。(「明治前期 財政経済史料集成」第十三巻、第四一〇頁以下)而シテ「立会略則」、「会社弁」二書ニ関シテ『此ノ二書ノ刊行アルヤ一ハ以テ機運ノ熟スルニ由リ、一ハ以テ政府ノ説論アルニ由リ、諸府県ヨリ銀行或ハ銀行類似ノ会社ヲ起サンコトヲ請願スルモノ豊岡県ノ浚䟽会社ニ於ル、鳥取県ノ融通会社ニ於ル、滋賀県ノ大津銀行ニ於ル、東京府ノ東京銀行ニ於ル、其他三井小野等ノ豪商ヨリ私立「バンク」開業ヲ願出ル等続々踵ヲ接セリ。而テ其ノ重モナルモノハ三井組バンク・東京銀行・小野組バンク・大津銀行ノ四者ナリキ』ト記シ、江州バンクト「立会略則」トノ関係ニ付テハ、『其ノ江州会社規則書ニ曰ク云々、我社ノ如キハ大蔵省立会略則ノ大意ニ拠リ堅確公正ノ法ヲ約シ大蔵省ノ公許県庁ノ保護ニ依ルナレハ社外ノ人亦安シシテ云々』ト述ベタリ。


〔参考〕竜門雑誌 第四四五号・第三三―三六頁 〔大正一四年一〇月〕 渋沢子爵とアダム・スミス(上田貞次郎)(DK030081k-0007)
第3巻 p.252-255 ページ画像

竜門雑誌 第四四五号・第三三―三六頁 〔大正一四年一〇月〕
 - 第3巻 p.253 -ページ画像 
  渋沢子爵とアダム・スミス (上田貞次郎)
   (1)
 先日竜門雑誌の記者の方から、雑誌の為めに何か話をするやうにと求められまして、誠に光栄に存ずる次第でありますが、その時早速思ひ当つた事が一つあるのでその意見を申上げて御批評を願ひ度いと思ひます。
 私は日本に於ける株式会社の歴史を調べるに就て、申すまでもなく此制度の開山たる、青淵先生のお書になつたものなどを渉猟しました。それによりますと先生は維新前御洋行中にヨーロツパの会社制度に著眼せられて、国の富を起すには是非とも此制度を採用しなければならぬと云ふので、明治政府に居られた劈頭に「立会略則」と云ふ書物をお書きになり、民間に下つては、第一銀行を設立して、自ら会社制度の模範を示したのでありますが、その時のお考への内に当時の町人は昔風の因循姑息の風習を脱しないので、到底知識を広く世界に求めて新事業を起すと云ふやうな見識がない、日本で斯くの如き見識を備へたものは士族の外にはない。然るに士族は軍人や官吏になつたが、商工業に対する興味は極めて薄いのであるから、何とかして之を引出して、国富開発のわざに参加させなければならぬ、その意味に於て会社制度と云ふものは必ず効果があるであらう、有為の士族は普通の町人の番頭になつて働く事は肯んじないけれども、多数の人から資本を集めて成立つた処の、云はゞ公の性質を持つた株式会社の重役なり、高級使用人になると云ふ事ならば、多少の名誉も伴ふことであるから、士族等を相当引つける事が出来るであらう。即ち会社制度を起すのは単に金を集める手段となるばかりでなく、人材を実業界に入れる手段として、最も有効なるものであらう、と云ふことでありました。果して子爵の御見込の通り、国立銀行を初めとして各種の新事業は、会社の形式により士族の才幹によつて非常なる発達を遂げたのであります。
   (2)
 其処で私が非常に面白いと思ふのは、右の子爵のお考へとアダム・スミスが国富論の中に書いた株式会社に就ての意見と、或る意味に於て相反して居ると云ふことであります。申すまでもなくアダム・スミスは十八世紀の末に於ける、英国その外の国々の会社の実状を観察して、其の結論を得たのでありますが、彼の意見では「株式会社と云ふものは大勢の人の金を集めて、少数の重役に運転せしめるものである、重役は普通の商人の如く、自分の金を取扱つて居るのでなく、人の財産を預つて居るのである、それ故事業に対する熱心が足りないのは当然の事であり、従つて経営が放漫になり、時としては色々の不正行為が行はれる、故意に不正を行はないでも、重役は恰も大家の三太夫の如く、微細の費用を節約するのは、主人の名誉に反すると云ふやうな心組みで仕事をするから浪費が多くなる。それであるから従来株式会社と云ふものは、多くは失敗に帰して居る、たゞ銀行とか運河とか保険とか云ふやうな、比較的規律的に処理し得られる処の事業、さうして余り機敏なる進退を必要とせざるやうな事業だけは、株式会社にや
 - 第3巻 p.254 -ページ画像 
らしてもやれる」と云つて居るのであります。之を渋沢子爵の維新当時のお考へと対照して見ると、一方は、株式会社は経常上物質的の利害関係が薄いから成功困難なりと云ふに反して、他の一方はそれには多少の名誉が伴ふから、立派な人物を引つけ得ると云ふことになります。勿論立派な人物が来ても物質的利害の薄い為めに、スミスの云つたやうな弊害が伴ひ得るから、此二つの意見は必ずしも衝突する訳ではないが、眼のつけ処が全く異つて居るのであります。而もそれが各各其の国情と、其の時代の形勢に基いて樹てた議論であるから非常に面白く感ずるのであります。
   (3)
 東洋に於て株式会社制度を採用して成功した処は、日本の外にはまだありません。支那などは日本よりも早く、ヨーロツパ人と交通して居り、且つ支那人は日本人よりも一層商業的の人間であると云ふに拘らず、今までの処、支那では会社事業は多く失敗に終つて居ります。其の理由は勿論支那人は五六十年前に於て、日本人の如く思ひ切つて西洋文明を採用すると云ふ所謂開国進取の国是を採らなかつた為めでありますが、また支那に士族と云ふ階級の存在して居ない事が重要なる原因を為して居ると思ふのであります。日本でも町人は概して一家一門と云ふことに囚れて居つたが、今の支那人はやはり此一家一門の損益をのみ主張するが故に、会社の経営を誤ることが多いと思はれます。
 之に反して士族は昔から、殿様の御用を勤めると云ふこと、即ちアダム・スミスの言葉を以てすれば「他人の財産を管理することに長い経験を持つて居る」、基処に一種の清廉潔白なる風儀を養ひ得たのであつて、それが実業界に入つて、会社の発展に貢献したのである、之は我が国にとつて今までに非常に幸福なことであつたのは申すまでもありませんが、将来に於ても実業家が、其の事業を以て生命となし、之を一家の私事となさずして、天下公共の機関と見て、其の為めに自分の技倆を働かせると云ふことにならなければ、所謂資本主義に立脚する処の、現代文明の前途は頗る危険なるものがあらうと思ふのであります。
   (4)
 近頃アメリカの自動車王のヘンリー・フォードの自伝を読んで見ますと、同氏は「三十年前に、其の事業を初めてから今日に到るまで、他人を押し倒して金を儲けたことはない、自分は生産費の節約の為めに苦心して、其結果良いものを作つて大きな販路を開拓し、従つて結果として金も出来たのである、自分の考へでは、ビヂネスはソシアル、サービスであるから、社会の用務を勤めることが先以て其の目的でなくてはならない」と申して居ります。フオード氏が果して其の言の如く、少しも誤りなかつたかどうかは知りませんが、右の思想は確かに今日新時代の実行家の指導的原則として認めなければならぬと思ふのであります。
   (5)
 名誉の為め又は社会職分として、商売をすると云ふのは、見当違
 - 第3巻 p.255 -ページ画像 
ひのやうでありますが、実際日本に於ける会社制度発達の一面には、其のやうな事実があり、また将来に於て健全なる経済社会の発達を可能ならしめる為めには、斯くの如き著眼は必ず一つの欠くべからざる条件になると云ふことを私は信じて居るのであります。(完)