デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第3巻 p.264-271(DK030085k) ページ画像

明治四年辛未十月十五日(1871年)

是ヨリ先、栄一政府所有ノ古金銀ヲ引換準備トスル兌換証券ヲ三井組ヲシテ発行セシメントシ、三野村利左衛門ニ勧メ、大久保大蔵聊・井上大蔵大輔ニ謀リ、本年九月大蔵卿及ビ大輔ノ名ニ於テ正院ニ伺ヒ、其裁可ヲ得タリシガ、是日三種ノ証券ヲ発行ス。


■資料

青淵先生伝初稿 第七章二・第五七―六三頁 〔大正八―一二年〕(DK030085k-0001)
第3巻 p.264-265 ページ画像

青淵先生伝初稿 第七章二・第五七―六三頁 〔大正八―一二年〕
新紙幣製造の議定まりたれども、廃藩置県の後は各省行政の区域俄に拡張し、諸般の経費著しく増加し、而して歳入之に伴はざれば、財政の窮乏日に甚しく、財務の衝に当れる大蔵省の苦心は一方ならず、然れども国庫如何に窮乏すればとて、再び官省札の如き不換紙幣を発行して政府の威信を損ずべきにあらざれば、結局三井組の名義を借りて正金兌換証券発行の方法を案出せり、実に先生の立案に係る。此時先生は大蔵大丞として省内の枢機に参与せしが、今や財政の困難なるを見て憂慮に堪へず、政府所有の古金銀を引換準備とせる兌換証券を、政府の為替座たる三井組をして発行せしめんとし、三井組の実権を握れる三野村利左衛門を説き、其同意を得たる後、更に井上に入説して省議を定め、四年九月大久保・井上の名により、正院の官裁を得て、同年十月十二日之を布告せり。即ち「政府在来の古金銀を引当として凡そ三百万円の正金引換の十円・五円・一円・三種の証券を製造し、来る十五日より発行すべし、海関税を除くの外、租税其他の上納物、日用公私の取引に至るまで、総べて正金同様に通用すべし、右証券は新貨幣鋳造の高に応じ引揚ぐべき筈なれども、若し差当り正金との引換ふを希望する者へは、何時にても三井組に於て在来の二分判と引換べし」となり。かくて大蔵省と三井組との間に正金兌換証券発行規則を定めて記名調印せしが、其規則も亦先生の手に成れるものなり。此証券は三井組にて製造すれども、其発行は大蔵省の命令に基くものにして、必要に応じ同組に下渡すべく、政府は其引換準備金として、証券高十万円につき五万円の割合にて之を同組に預けたり。なほ政府の証券発行高の二割は、同組より準備金を出すことなくして、自己の融通に供するを許し、以て其労に報いたり。要するに先生の意は、三井組の信用を利用し、紙幣発行の目的を達せるものなり。而して又二分判の不通用より生ぜる会計上の困難を救はんことも一の目的なりき。大久保・井上より正院への建議中に、「証券は新貨充分の流通を得候迄は内地租税其外の上納物にも領収の義、当省の証印を給し候へば、人
 - 第3巻 p.265 -ページ画像 
民の信用は申迄も無之、当省会計の都合に於ても一段の資用を得、乍聊在来二分判通用の不便を脱却して、之を地金として保有致し、便宜新貨に改鋳候様可相成義にて、詰り暫時証券を代用せしめ、新古貨幣交換を便ならしむる筋に有之」とあるにて知るべし。かくて政府は借入金を為さずして会計の困難を免るゝと共に二分金の売却を行はずして之を造幣地金に利用することを得たりしなり。証券の発行額は初め政府の布告に凡そ三百万円と見えたれども、実際に於ては六百八十万円に及べりといふ。当時公称して正金兌換証券と称せしが、世俗にては三井札と呼び、後専ら大蔵省兌換証券の名を以て行はる。


明治貨政考要 中編・第三九―四六頁(明治前期 財政経済史料集成 第一三巻・第一七七―一八一頁 〔昭利九年七月〕)(DK030085k-0002)
第3巻 p.265-269 ページ画像

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法規分類大全 第一編 政体門 制度 雑款五 第一〇八―第一〇九頁(DK030085k-0003)
第3巻 p.269 ページ画像

法規分類大全 第一編 政体門 制度 雑款五 第一〇八―第一〇九頁
  大蔵省伺 四年九月二十四日○略
 指令
伺之通


法令全書 明治四年・第三六七頁 太政官 第五百三十三 十月十二日(布)(DK030085k-0004)
第3巻 p.269 ページ画像

法令全書 明治四年・第三六七頁
太政官 第五百三十三 十月十二日 (布)
大阪造幣寮ニ於テ既ニ新貨ノ鋳造盛大ニ御施行有之候ヘ共、夥多ノ古金銀一時ニ改鋳国内一般新貨遍ク発行難相成候処、弐分判ヲ厭忌シ候ヨリ自然上下ノ不融通ヲ醸シ候ニ付、今般為替座三井組ヘ申付、政府在来ノ古金銀ヲ引当トシテ凡高三百万円ノ正金引換十円五円壱円三種ノ証券ヲ製造シ、来ル十五日ヨリ発行致シ、海関税ヲ除クノ外租税其他ノ上納物日用公私ノ取引ニ至ル迄、総テ正金同様ニ通用セメシ候、尤右証券ノ儀ハ新貨鋳造ノ高ニ応シ引揚クヘク筈ニ候ヘ共、若シ差当リ正金引換方望出候モノハ、何時ニテモ三井組ニ於テ在来ノ二分判ヲ以テ引換遣シ候条、諸民一毫ノ疑念ナク従前金札同様互ニ通用致スヘク、此段相達候事


世外侯事歴 維新財政談 中・第二九四―二九七頁 〔大正一〇年九月〕 二七 大蔵省並開拓使兌換証券(DK030085k-0005)
第3巻 p.269-270 ページ画像

世外侯事歴 維新財政談 中 第二九四―二九七頁 〔大正一〇年九月〕
  二七 大蔵省並開拓使兌換証券
          男爵 渋沢栄一 益田孝 男爵 松尾臣善 談話
          侯爵 井上馨 伯爵 芳川顕正
渋沢男 馬渡が四年に造幣頭をやつて居ました。其馬渡がどうも運びが付かないと云ふので、井上さんが造幣寮の手伝を為なければならぬから、行つて造幣寮の手伝をしてくれ、のみならず、其時は紙幣が銀よりも少し回復して来た、それと兌換券といふものを出すことを其秋頃です、三野村と私が相談して、其方法を案じて井上さん
 - 第3巻 p.270 -ページ画像 
にお勧した事がある。兌換証券を発行すること、それは何れ其紙幣を償却するに就ては、紙幣償却の本は銀である、銀が今廉い、此銀を吸収するには、是は屹度引換へるといふ、確かな物を出さなければいかぬ、今迄のは不換だから、此方のは兌換の紙幣を出さうぢやないか、兌換紙幣をして《(出脱カ)》銀を取つて、其銀を積んでさへ置けば宜いぢやないか、デ兌換証券といふものを大蔵省で発行しやう、それには三井にそれを遣らせやうぢやないかと云ふ説を提出した。それは確に私の案ですが、三野村に謀つてやつたのを覚えて居る。それに就て東京ばかりぢやいけないから、東京では今の御用所といふのが私の住つて居るあの近処にありまして、其処で取扱ひましたが、大阪の方が却つて其事業に必要である。其事に関係のある造幣寮の事があるから、其為に大阪に出張を命じやうと云ふ事で、駄々をこねた結果、暫く大阪に遊びに遣らせられて、丁度私は九月末に行つて、十一月初まで大阪に居つた、其年の冬帰つて来る、親が病気になつて、直ぐ田舎に行つた。九月二十幾日かに立つて、十一月十三日に帰つて来たのを覚えて居る。其時の井上さんの説が、どうしても、結果は実業を盛にさせねばならぬから、君役を罷めて商売人になれと云ふ、私は宜しい、僕も今になるけれども、今少し大蔵省を整理しなければ、実は是れでは堪らぬ。まだ遣れるから、も少しやれと云つて、大層私は井上さんに珍重されて、貴様の我儘は我慢して聴いてやるからと云ふので、大阪へ遣られた。
 それから大阪の事務も、兌換証券の事は斎藤純造、あの人が私に随行してくれたんです、大阪兌換証券の事に就て……西邑虎四郎が大阪部長でありまして、あの人に就て、斯う云ふ趣向にしたら宜いと云ふ、唯東京の方法を移して、もう少し事務は運ぶやうにせい、どう云ふ手配にして銀の集まるやうに心配せい、出すには斯うせい、帳面は斯うつけろと云ふやうな、仕組の打合だつたやうに覚えて居る。さう云ふ事で一箇月余り大阪に滞在しまして、十一月の十三日に帰京したと思ふ。
益田君 さうすると三井の札を発行したと云ふのは、やはり国立銀行の七割なら七割を納めて置けば……
渋沢男 あれは別です、三井が札を発行したと云ふのは、三井だけで発行したんぢやないでせう、三井といふ責任を以て……今の兌換証券と云ふのは、取扱を三井がしたんです、札は政府で出した、三井は機関に使はれた。是は三井で引換をやらせやうと云ふ事で、政府よりは三井の信用が宜かつた。事業は三井がやつたけれども名は政府の証券。それで引換は三井でやる。
松尾男 政府が都合で引換の義務を三井に負はした。
渋沢男 併ながら、あれに対しては、相当の手数料をやると云ふやうな事になつて、三井もえらい迷惑は受けない。
                   (明治四十一年十二月三日)


大久保利通日記 下巻・第一八七頁 〔昭和二年四月〕(DK030085k-0006)
第3巻 p.270-271 ページ画像

大久保利通日記 下巻・第一八七頁 〔昭和二年四月〕
一朔日○九月 今朝岡田入来、七字より吉田相誘ひ井上江訪ひ三井別荘江出
 - 第3巻 p.271 -ページ画像 
張、伊東租税頭上野渋沢等一会《(伊藤)》、楮幣之事を示談す
   ○右ノ「楮幣之事を示談す」ハ明瞭ナラサレドモ、其日時及ビ「三井別荘江出張」トアルヨリ見テ、正金兌換証券ニ関スルモノト推セラル。