デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第3巻 p.295-298(DK030097k) ページ画像

明治四年辛未十二月(1871年)

居ヲ神田小川町裏神保小路ニ移ス。


■資料

芝崎猪根吉氏所蔵文書(DK030097k-0001)
第3巻 p.295 ページ画像

芝崎猪根吉氏所蔵文書
私義是迄湯島天神中坂下士族後藤小一郎家作譲受、同人上地之内三百九十弐坪拝借住居罷在候処、此度右家作尾高勧農権中属へ相対を以譲渡し候間、右地所上地仕、小川町裏神保小路に於て高津土木中属明家作相対を以譲受候間、同人上知五百坪余拝借仕度、依之別紙絵図面相添、此段奉願候也
  辛未十二月廿日        大蔵大丞 渋沢栄一
私義湯島天神中坂下渋沢大蔵大丞拝借地之内明家作有之候ニ付相対を以譲受申候間、同人上地三百九拾弐坪其儘拝借仕度、依之別紙絵図面添、此段奉願候也
                勧農権中属 尾高惇忠


竜門雑誌 第六四四号・第九―一一頁 〔昭和一七年五月〕 明治初期に於ける青淵先生の御住居に就て(藤木喜久麿)(DK030097k-0002)
第3巻 p.295-297 ページ画像

竜門雑誌 第六四四号・第九―一一頁〔昭和一七年五月〕
 - 第3巻 p.296 -ページ画像 
 「明治初期に於ける青淵先生の御住居に就て」(藤木喜久麿)
○上略
     三 神田小川町裏神保小路邸
 青淵先生は、前記の通り湯島天神中坂下に丁度二ケ年御住ひになられたが、明治四年十二月にこの家を尾高惇忠氏に譲り、神田小川町裏神保小路に移られた。このことは前項湯島邸の際に一寸触れた青淵先生自筆の地所拝借願書草稿に
   ○願書略ス、前掲文書ト同ジ
と書かれてあつて、土木中属の高津氏の所有する家作を譲受けられ、同人の上地五百坪余を借地されたものであつた。これにも別紙絵図面相添とあるが、矢張り絵図面の写しは遺つて居ない。そのため中坂下の家と同じく、邸宅のプランに就ては知ることが出来ないが、後に掲げる地所家屋の譲渡証書写並に地券書替願書草稿に依ると、その地番は第四大区小一区裏神保町一丁目三番地であつて、総地坪五百四十三坪、建坪百十八坪七合五勺、畳数は百二十畳あり、外に建坪二十三坪竪十一間半横二間の両脇に長屋の附いた表門と、二間半に二間の土蔵一棟があり、井戸が三ケ所もあつたことだけは判明している。そして最初は官有地であつて、それを拝借されたものであつたが、後にこれが払下げとなつたものか、明治六年には青淵先生の所有に移つてゐることが知られた。
 この邸宅に就ても幸にして、東京市役所編輯の『東京市史稿・市街篇』の附図に、明治四年の東京大絵図面が復製添附されてゐるので、これを見たところ、青淵先生が買受けられた前居住者である高津氏の姓を発見することが出来た。(左図参照)
神田小川町附近
   註 この絵図では現今の三省堂のある道路にウラヂンボウコウヂと記入されてゐるが、これは誤で、慶応元年出版の江戸切絵図では、この通りは表神保小路であつて、その北に併行してゐる現今の電車通りに裏神保小路と明らかに記入されてゐる。
 其位置は図の下部中央に土屋相模守の屋敷がある、その角から真直に九段坂の方に行く道路が裏神保小路であつて、この角が岡部日向守の屋敷で、その隣にタカツとあるのが、青淵先生が高津氏から譲受けられた邸宅である。この通りは初め小川町に属して裏神保小路と称してゐたが、後に小川町から離れて裏神保町となり、又道路が拡張され
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電車の通ずる様になると、この裏神保町が反つて表通となつたため、その町名が不自然だという説が起り、通神保町と改称され、又大震災後の区劃整理によつて道路は更に取拡げられ、且つ、表神保町及南神保町を合併して神保町と改称されて現在に及んでゐる。それでこの邸宅の位置を現在に当て嵌めて考へると、神保町一丁目七番地の十字屋書店の附近になる。
 この裏神保小路の御住居は明治四年十二月から明治六年六月迄の一ケ年七ケ月であつて、この邸宅を買受けられる際に、種々と周旋した鈴木善助氏に此地所家屋を譲られて、七月には日本橋兜町へ移られたのであつた。
 この時の家作譲渡証書の写しと、青淵先生自筆の地券書替願の草稿も、芝崎氏所蔵の文書の内にあるので、ここに其全文を掲げると
    家作譲渡証書之事
 一居宅            壱ケ所
   但建坪   百拾八坪七合五夕
  畳数     百弐拾畳
  畳建具共一切附属
 一表門並両脇長屋共 竪拾壱間半横弐間  壱棟
   但建坪弐拾三坪
 一土蔵 竪弐間半横弐間         壱棟
  外井戸三ケ所
   庭園植木其外有形ノ儘
      但別紙絵図面相添候事
 一坪数五百四拾三坪     地所一ケ所
   但地券壱枚相添候事
 右代金千百両也
 右は裏神保町壱丁目におゐて、拙者所持ノ地所家作共、此度相対ヲ以貴殿へ譲渡、書面之代金正受取候実正也。然ル上ハ向後右地所家作向ニ付、公私共故障筋決而無之候、万一外方より故障ケ間敷義差起リ候ハヽ拙者引受、聊御厄介相掛申間敷候。為後証一札仍如件
   明治
                    売主
                      渋沢栄一
    鈴木善助殿
 第四大区小一区裏神保丁壱丁目三番地ニ於テ、私是迄所持之地所家作共、此度相対ヲ以、第一大区小四区鎌倉町拾九番地主鈴木善助方エ譲渡候ニ付、右地所地券御書替被成下度此段奉願候也
                      渋沢栄一
    第四大区
    小壱区
     戸長
      御中
とあつて、前記の鈴木善助氏へ地所家屋共で金千百両で譲渡されたのであつた。この文書にも別紙絵図面相添候事と書かれてあるが、惜しいことには絵図面の写しは遺されてゐない。
 - 第3巻 p.298 -ページ画像 

はゝその落葉 (穂積歌子著) 巻の一・第一八丁 〔明治三三年〕(DK030097k-0003)
第3巻 p.298 ページ画像

はゝその落葉 (穂積歌子著)巻の一・第一八丁 〔明治三三年〕
明治五年の春。湯島なる家は官へ出ますにも路の程遠ければとて北神保町に移り住ミ給ふ。此頃やうやう女子教育の道ひらけて。雉子橋内にはじめて女学校を設けられければ。母君にはやがてわらはをそこにのぼらしめ。日々通はしめ給ひけり。
   ○「五年の春」トイフモ明確ナラズ。


青淵先生六十年史 (再版) 第二巻・第九三九頁 〔明治三三年六月〕(DK030097k-0004)
第3巻 p.298 ページ画像

青淵先生六十年史 (再版) 第二巻・第九三九頁〔明治三三年六月〕
四年十一月神田裏神保町ノ邸ニ移ル
   ○十一月トアルハ其典拠疑ハシ。