デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第3巻 p.311-321(DK030103k) ページ画像

明治五年壬申二月二十日(1872年)

澳国博覧会御用掛ヲ仰付ケラレ、養蚕書ヲ編纂ス。


■資料

太政官日誌 明治五年第六十四号自八月廿九日至九月二日(DK030103k-0001)
第3巻 p.311 ページ画像

太政官日誌 明治五年第六十四号自八月廿九日至九月二日
○壬申二月廿日分
澳国博覧会御用掛被 仰付 大蔵省三等出仕 渋沢栄一


百官履歴 下巻・第一四一頁 〔昭和三年二月〕(DK030103k-0002)
第3巻 p.311 ページ画像

百官履歴 下巻・第一四一頁 〔昭和三年二月〕
            東京府平民 渋沢栄一 篤太郎
○中略
同月○二月廿日 澳国博覧会御用掛仰付候事


渋沢栄一 書翰 佐野常民宛(明治五年)九月七日(DK030103k-0003)
第3巻 p.311-312 ページ画像

渋沢栄一 書翰 佐野常民宛(明治五年)九月七日 (大隈侯爵家所蔵)
愈御清迪奉賀候、偖小生貴局御用掛拝命以後兎角出頭も不仕、実ニ恐悚之至ニ候、畢竟其時々御断書申上候通省務多忙、殊ニ井上ハ時々他出等も有之、日々之廻議冊と申者大低七八十若くハ八九十程有之候処、小生一身にて検閲、細大を監別して取扱候次第旁所詮夜分とても
 - 第3巻 p.312 -ページ画像 
先余暇ハ無之候、就而ハ向後とて会同参集之義も無覚束候間、則明日之処も先御断申上候、右様時々出頭も不仕、却而其名を蒙り候も不都合之至ニ付、其辺も何と歟正院へ相伺候心得ニ候へとも、前書之次第何分不悪御諒察被下度候、尤兼而御引受申上候養蚕書編纂丈之義ハ、素より小生之宿志にも有之候間、是非夜分なりとも取調度候間、是又御聞置被下度候、夫も余り遅延ニ渉り恐入候ニ付、御不都合ニ候ハヽ尚御指揮被下度、何分申上兼候義ニ候へとも如何にも困却之至、不得已陳情候義ニ候間、宜御憐恕奉祈候 頓首
    九月七日              渋沢栄一
      佐野従五位殿
 尚々上野も転任旁別々《(而カ)》百事差湊無拠前書申上候次第ニ候
 此程山高ヘ御申付相成候勘定方之義ハ、伊集院と申出納之官員可也規則も心得居候由ニ付、先さし出候
 定額論も未定ニ候間、大隈参議ヘ御申立御決定相成度、婆心申添候次第ニ候


渋沢子爵家所蔵文書 【御沙汰候事】(DK030103k-0004)
第3巻 p.312 ページ画像

渋沢子爵家所蔵文書
(別筆写)
私儀是迄博覧会事務局御用掛被
仰付罷在候処近来事務内外多端頗ル繁劇ヲ極メ、且上野景範儀此程外務省転任致候旁別而省務差湊ヒ、廻議書冊等ハ退省後点閲常々深夜ニ至リ候次第ニ有之候、就而ハ右御用掛被免候様仕度、尤蚕種及生糸等養蚕ニ属シ候書類編輯之儀ハ是迄担当罷在候儀且聊愚考モ有之候間、旦暮見合余暇ヲ以精々取調可申候、何卒前文事務局之儀ハ御差免相成候様仕度、此段奉願候也
    壬申九月七日
                  従五位 渋沢栄一
       正院御中
   (朱書)
   不被+及      (朱印)
   御沙汰候事    正院之印
    九月廿四日


渋沢栄一 書翰 佐野常民宛(明治六年一月一七日)(DK030103k-0005)
第3巻 p.312-314 ページ画像

渋沢栄一 書翰 佐野常民宛(明治六年一月一七日) (渋沢子爵家所蔵)
 (朱印佐野)
   (印)
拝啓然者養蚕著説延引之義、此程書中高慮相伺候処、遷延之次第不得已義と御聴納被下、就而右関係之書類ハ一ト先返上可致旨御指揮ニ付、別紙目次之通奉呈候条、御査収可被下候、偖此一事小生是迄遷延ニ及候次第ハ、既ニ拝面之節も度々申上候通之事ニ付、何分御諒察被下度候、尤も別紙下調之書類一閲、批点丈にて完璧可致候ハヽ、縦令小生何様繁忙ニ候とも四五月間之事故夜間又ハ休日之余暇にも可出来筈之処、小生之愚考にてハ此度養蚕之書類を編纂候は、独リ海外ニ其説を詳明ニする而已ならす、併而御国養蚕之大本を明にし、其論説を精確にして多少殖産之裨補にもいたし度、且此微細之事業是迄之著説
 - 第3巻 p.313 -ページ画像 
ハ多く荒唐不稽にして、空疎之事而已ニ候間、是非養飼之温度食料より培桑之次第桑楡之品類、其外製種製糸等まて稍其実理を闡明いたし度と、余り高尚ニ相考候より、才拙ニ事多く、終ニ卒業ニ不至候義ハ実ニ遺憾千万ニ御坐候、併愚考之要領ハ別紙小引丈取調置候間、不用ものなから奉呈仕候、御一覧微意御推察被下候ハヽ恭奉存候
所詮余日も無之候間、兎も角も此諸書ニよりて編成之御手続ニ可相成事と奉存候、就而別紙諸書一読中、愚考批判有之候間、并而左ニ申上候
諸書之編述章句余り長文ニ候間、一事一意毎ニ段落を立、字句を明了ニいたし度事
実際目撃之記事と編述者之意想と、文意混淆之処有之候間、分界判然いたし度事
実際之目撃ハ上州島村なれとも、是は便ニ就きまて《(候脱カ)》にして、敢而島村之養蚕を全国之模範といたすへきにあらす、記事其意を以て作文有之度事
画図を別冊ニ附するハ覧閲ニ不便ニ候間、其説ニ就て処々に挿入いたし度事
気候度量物数其外にハ凡、許、抔之曖昧文字ハ可成丈少き様精確ニいたし度事
風洞種之説ハ養蚕家専ら其種を不宜とし、夏種同様之論なり、篤と聞合申度事
桑葉之分析術穏当ニ無之様被存候ニ付、尚調査有之度事
右等之廉々ハ小生之尤不安処にして、詰り延引ニ及候所以ニ候間、能能御注意被下度、尤も全篇之体裁ハ小引ニ掲くる如く、大綱と細目と分別して編次いたし度と存候事
小引中時限気候食量表云々ハ別紙試験表より分別して編成可致心得之事
其次ニ有之試験表も同断之積、尤此二表ハ巻末ニ編次之心得ニ候事
本邦蚕種製糸之概数ハ頃日来大蔵省より差上候物産表中より抄出編入之積之事
製糸之事ハ之を審にするも其効少き故、唯概略を編し、別ニ富岡之新工場記事を添候方進歩之景状も明にして可然と存候、因而旧製方ハ概略之取調方信夫○恕〓カ へ申談置候事
富岡之記事ハ同所掛之者ニ申付有之、近日さし出可申事
 但同所之写真ハ其記事中ニ挿入之方可然歟
度量衡ハ大蔵省中ニ其掛リ有之候間、夫ヘ申付、比較取調候積、尤篇中所用之分何尺との事明ニ無之候而ハ比較いたし兼候間、取調之上御引合有之度事
右心附候件々とも申上添候也
   一月十七日
                    渋沢栄一
     佐野副総裁殿
    ○
  返上書類目次
 - 第3巻 p.314 -ページ画像 
  桑樹之部        壱冊
  養蚕之部        壱冊
  繭種之部        壱冊
  図解          壱冊
  風洞蚕種説       壱冊
  春蚕試験表       壱冊
    合六冊
是ハ南部陣御下上州島村養蚕之実地ニ就き取調之上編纂之書類ニ付、尚削正加除いたし、順次科目に随ひ編輯可致積
  養蚕集成        壱冊
  山繭之部        壱冊
  樟虫之部        壱冊
    合三冊
是ハ信夫粲之編次にして、稍体裁を得候様なれとも、実際之業ニ於てハ其説精確といふへからさるニ付、校正附削を加候積
  養蚕新説        壱冊
是ハ田島弥平之著説、信夫粲之を編述せしものなれハ、見合せ之為信夫より借り置候分
  養蚕場巡行日記     壱冊
是英国アダムス本邦養蚕場巡行之節日記せしものにて、伊達従二位へ被相送候ニ付、参考之為メ同人より借り置候分
通計拾壱冊 外養蚕所写真壱筺
右御預り書類取纏返上仕候也
 但右之外上州島村実地取調之写生絵図其外御預り申候処、先日来其節より掛合越ニ付既に返上いたし候事
    明治六年一月十七日
                    渋沢栄一
      佐野副総裁殿


蚕桑集成(DK030103k-0006)
第3巻 p.314-316 ページ画像

蚕桑集成                  (竜門社所蔵)
蚕桑集成小引
一本邦養蚕ノ起原得テ詳ニス可ラスト雖トモ、始テ神代巻ニ養蚕ノコトヲ載セ、爾後歴代青史ニ散見ス、蓋シ上世既ニ此業アル得テ徴スニ足ル、決テ海外伝習ノ物ニ非ルコト知ルヘシ、唯其業多ク野人ノ手ニ属ス、故ニ伝記ノ精確ナルモノナクシテ、其由来ヲ亮知スル能ワス、然リ雖トモ之ヲ古ニ遡リ、類ヲ推シ原ヲ索メハ、其源因ヲ考窮スル亦甚タ難シトセス、然リ今此書ニ於テ之ヲ必要ノ急務トセサレハ、暫ク闕如シテ以テ他日ノ考案ニ附ス
一従前養蚕ノ書牛ニ汗シ棟ニ充ツ、而シテ其書タル多ク其業ヲ為ス者自家ノ養蚕ヲ浮誇スルニ出ツ、且其之ヲ編スル唯意想憶度ニ任ス、甚キハ其字句ニ拘泥シテ其事実ヲ失フ、是ヲ以テ甲是乙非紛々聚訟シテ未タ一定ノ確説ヲ得ル能ハス、故ニ此書従来ノ諸説ヲ一掃遐棄シテ、直ニ養蚕本場ニ就キ、親睹熟察、手其事ヲ実験シテ筆其奥ヲ開陳ス、宜ク養蚕ノ真理ヲ尽シテ其秘薀ヲ発見シ、亦以テ前古ノ衆
 - 第3巻 p.315 -ページ画像 
案定断スルニ足ルト云フヘシ
一本邦養蚕ノ盛ナル近時最モ増多ニシテ、全国既ニ其業アリ、之ヲ二十年前ニ比較セハ概ネ五分ノ三ヲ加フ、然リ其名場ニ至テハ依然岩代 伊達郡信夫郡 羽前 米沢 信濃 上田 上野 島村 ノ数所ニ過キス、蓋シ其土宜ト人ノ励磨ニ因ルナルヘシ、而シテ此書上野 島村 ニ採ル所以ノモノハ、製種ノ方法ニ於テ最モ新見ノ妙理アルヲ以テナリ、其詳ナルハ本篇ニ説明スレハ玆ニ贅セス
一養蚕ニ製種製糸ノ別アリテ其方法モ亦少シク異同ナキ能ハス、然リ製種ノ主旨ハ素ト原蚕種ノ精良ヲ致スニ在テ、要ハ製糸ニ外ナラス夫レ蚕ノ用ハ𥿻《(マヽ)》糸衣帛ニ至テ其妙功ヲ顕ハス、故ニ製種ヲコトトスルモノ須ラク之ニ注意スヘシ、然リ而シテ今此書製種ニ密ニシテ製糸ニ疎ナルハ、其方法ノ次第ニヨリテ之ヲ叙スレハナリ、看者能ク此意ヲ亮知セハ、製種製糸ニ於テ等ク其宜ニ適スルヲ得ヘシ
一蚕ヲ養フニハ其家屋ノ製器具ノ用能ク整理スヘシト雖トモ、須ラク先ツ桑田ヲ精撰シテ桑樹ヲ肥培セスンハアル可ラス、桑ナクシテ蚕ヲ養フハ猶食ナクシテ兵ヲ弄スルカ如シ、顛顛亡《(マヽ)》ニ至ラサルナシ、此書先ツ培桑ノ次第ヲ叙シテ而シテ養蚕ニ及ホスハ、蓋シ深意ヲ寓スルナリ、看者之ヲ了セヨ
一蚕ヲ養フ方法及ヒ家屋ノ製置器械ノ造作等ハ其風土ニ従ヒ小差ナキコト能ワス、今此書ニ上野島村ニ於テ用ユル物ヲ詳悉ニシテ、旁ラ他州ノ方法用具ヲ略記ス、以テ各処ノ異同ヲ参覧スルヲ得ヘシ
一此書其要領ヲ分ツテ培桑養蚕製種糸《(製脱カ)》ノ四大科トス、科中各小節目アリテ以テ其順序ヲ説明ス、又別ニ養蚕ノ要旨ヲ巻首ニ弁シテ以テ其効用ヲ総論シ、更ニ本邦蚕種製糸ノ概数ヲ統計シテ末篇ニ附ス、而シテ之ヲ養蚕集成《(マヽ)》ト名ケルハ、凡ソ蚕事ニ於ケル集而大成スルノ意ヲ採ルナリ
一蚕ハ蠢爾タル小虫ニシテ晩春和融ノ気ニ由テ発生シ、僅ニ三旬余ニシテ繭ヲ為シテ其児ヲ変シ、更ニ三旬内ニ於テ再変シテ蛾トナリ、蚕種ヲトヽメテ其生ヲ了ス、故ニ其養気生育ノ得失実ニ秒時間ニアリテ、其方法ノ微細ナルヲ得テ悉ク之ヲ筆ス可ラス、是ニ於テ本年其実境ニ就テ試験シタル時限気候食量等ノ差等ヲ表出シテ、之ヲ本篇ニ附録ス、聊カ以テ隠微ヲ闡揚スルニ足ルヘシ
一一蚕繭ヲ為シ、二繭雌雄蛾ヲ生セハ、概ネ二蚕殆ント三百倍ニ増加スルヲ得ル、而シテ本邦通常養蚕所得ノ定限ハ一枚ノ蚕種 種数五万六千顆 ヨリ一石五斗ノ繭 大小繭平均概算四万五千顆 ヲ得、之ヲ種ニ製シテ百八十枚ヲ得ルヲ以テ最上乗トス、然ルトキハ其十分ノ四分ハ養育ノ際ニ於テ既ニ之ヲ減ス、若シ中下ノ養蚕ハ其減損更ニ甚シキコト知ルヘシ、今夫レ蚕ヲ養フモノ其倍蓰スヘキノ全量ト減損スル概数ヲ了知セハ必ス其措置ヲ慎密ニシテ之ヲ防クヲ思フヘシ、故ニ本年実境ノ試験表ヲ以テ本篇ニ附録ス
一春蚕ニ各種ノ別アリ、春蚕ノ外再出蚕夏蚕ノ類アリ、然リ皆春蚕ヨリ転化シテ、少シク其性ヲ異ニスルモノ也、故ニ其養法モ亦春蚕ニ異ナラス、又別ニ山繭桑子白髪虫等ノ各種アリ、其性全ク蚕ト異ナルト雖トモ、糸ヲ吐ノ虫類ニ属ス、総テ其由縁ヲ知ラスンハアルヘ
 - 第3巻 p.316 -ページ画像 
カラス、故ニ本篇ノ末ニ於テ各種ノ概略ヲ抄録シテ以テ参覧ニ供ス
一書ハ言ヲ尽サス、言ハ意ヲ尽サス、能ク文外ノ意言外ノ味ヲシテ一睹瞭然タラシムルハ、之ヲ画図ノ切ニ譲ラサルヲ得ス、故ニ家屋器具培桑ノ方法養蚕ノ次第、筆舌ノ及ハサル処ハ悉ク影相又ハ写生ヲ以テ之ヲ指示ス
一篇中用ユル所ノ尺度ハ曲尺ニテ其一尺ハ乃チ仏国「メートル」ノ分ニ当ル、量ハ一升ニテ仏国〔□□□□〕《(原本欠字)》ニ当ル、衡ハ英国ノ〔□□〕一「オンス」ヲ以テ八銭《(マヽ)》二分八厘ニ賦当ス、而シテ其算法ハ皆十進一位トス
一篇中養蚕場ノ方言ヲ用ユルハ都テ片仮名 漢ニ訳セシモ亦片仮字名ヲ以テ傍訓ス ヲ以テシ且「 」ヲ加ヘテ之ヲ分ツ、国名地名ノ如キハ――ヲ加ヘテ之ヲ識別ス
一原文ノ未タ其意ヲ了セサルアルハ夾註ヲ加ヘテ之ヲ説明ス、若シ或ハ其事編者ノ意想ニ出ルハ〔按〕字ヲ加ヘテ之ヲ区別ス
   明治五年秋八月       従五位 渋沢栄一識


渋沢子爵家所蔵文書 【養蚕場実地研究之条件並見聞之次第編纂之順序】(DK030103k-0007)
第3巻 p.316-319 ページ画像

渋沢子爵家所蔵文書
  養蚕場実地研究之条件並見聞之次第編纂之順序
   第一
   桑樹之部
一各種桑樹之善悪及品類取調之事
一桑樹培養方法肥し物用方之事
 附四樹桑畑耕耘之順序及肥《(マヽ)》し物品類之事
一桑苗之仕立方 実生とり木 便否得失之事
一花桑実桑養蚕に用不用之事
一桑畑之地質風候之善悪取調之事
一桑樹之若芽発生に早晩ある事
  並其種類により養蚕に適当不適当之事
一根桑雨桑等養蚕《(マヽ)》に害ある哉否之事
一糸繭と種繭とに桑畑之地味善悪差違ある哉及桑樹品類を異にするや之事
一人家に接せし桑樹 屋敷附之類 と川原又ハ平野にある桑樹得失之事
 附高敞之地低湿之地との差違之事
一桑樹培養に高株 高株にも大小数種あるへし と低株との差違便否之事
一桑樹年限之事 苗を植て後何年目に伐取を始め何年位にて更ニ新桑に替る等取調之事
一桑樹にて紙若くハ綿を製し得るや否之事
一山桑 自然桑又ハ大高株其他山谷にある桑 ハ糸繭に可にして川原平野砂田之桑ハ種繭によしといふハ何等之理を有せし哉取調之事
 附真土之桑得失如何之事
一総而桑樹 苗木とも 之種類を摸写し、種名記号等にて之を類別し、培養伐取其外に用ゆる器具を描き、其次第を輯録し摸写又ハ影相之真図を挿入し、桑樹に属する一篇之書籍を編纂する事
 但前条数件之便否得失も其理を究て之を記載すること勿論たるへし
  桑畑壱反《(欄外)》にて桑樹何株を仕立、其株伐取りて何駄ありて凡蚕種何
 - 第3巻 p.317 -ページ画像 
程を養ひ得るや、平均分量取調之事
  但高株低株にて多少差違あるや取調事《(之脱カ)》
   第二
   原蚕種之部
一原蚕種之精粗善悪品別之事
一原蚕種ハ其家又ハ其近方にて製作せしを可とする歟、又ハ他方風土気候異なる之地にて製出せしを可とする哉、品等同種として其得失可否如何之事
一紙一枚之 従来半附一枚と唱ふるもの 粒数何程ある哉、及其種を生する蛾ハ上品ならハ何程、中下物ならは何程にて一蛾幾粒之蚕種を生するや之事
一原蚕種去夏出来より翌春化生まて手置之順序次第之事
  但密室に入れ空気を避る又ハ寒水に浴する等可否得失之事
一将に化生せんとする蚕種手置之事
一蚕種之化生手置により遅速するを得る次第並其得失之事
一蚕種の化生ハ桑樹之摸様によるといふとも予メ節分より何日を完期とする歟之事
  但土地風候によりて勿論差違あるへきニ付其次第取調之事
一蚕種色替りして 青むといふ 後何日目位に蚕に化する哉之事
 附一枚之蚕種化生に遅速なからしむ《(る脱カ)》方法之事
  但白種又ハ再出之外ニ手置不宜して化生を妨る事ある歟又ハ種の善悪によりては手置に不拘化生せさる蚕種あるや否之事
一一枚之蚕種何粒ありて目方何程ありて之を化生して目方相違ある哉否之事
一蚕種之手置 出来之節箱に入置之間並化生前より化生まて之時間 中気候寒暖計何度位にて適宜なるや之事
一総而蚕種之真図及其手置ニ要用なる器具之絵図を挿入し其順序を輯録する事
一白繭、青白、中白、錦光珠、其他各種之蚕種品別之事
  但夜附再出掛合せ等之事
一夏蚕之種類取調之事
 附再出種ハ後に夏蚕と同様なるや否之事
   第三
   養方之部
一毛蚕中之養方桑之分量及桑之きざみ方之事
一化生より何日目にして毛を脱し何日目にして初眠になるや之事
一初眠より四眠四起之時日底起後繭となるまて通常日限割合之事
 附寒暖計其都度に従ひ適度を得るハ凡何々之節何度位歟取調之事《(マヽ)》
 寒暖計ハ朝昼夕三度を記し可申事
一毛蚕より底起まて桑之与ひ方分量大小之事但一枚之蚕に桑何程にて宜哉之事
一一枚之蚕毛蚕之節ハ紙何程之寸法にひろけ置何日目に箔に移し、何日目に初眠、又何日目に二眠、三眠と次第に繭となるまて蚕飼箔又ハ紙の寸法広狭取調方及其手置養ひ方順序之事
一最上之養蚕にても繭となりて後原蚕種之員数より何程之減損あるや
 - 第3巻 p.318 -ページ画像 
之事
  但此減損ハ何々之節にあるや吟味之事
一養蚕中不順之時候及蚕病各種取調之事
一養蚕室之製並掃立より繭となるまて養方に用ゆる一切器具之事
一老蚕をまぶしに入れて後手置之事
 附まぶし製方之事
一総而毛蚕より初眠二眠と順次に繭となる迄現物を焼耐漬《(酎)》ニいたし、且所用之器具を細大となく其真図を描写し順序方法を詳細ニ編纂する事
  但蝮蠖蛆《さなきうし》蛾とも同様現物を焼耐漬《(酎)》といたし候事
   第四
   繭及蚕種之部
一老蚕をまぶしに入れ何時にして糸を吐き始、何日にて吐終り繭となるや其気候により差違あるや之事
一まぶし之置所に明昼暗室之得失ある哉之事
一糸を吐終てより何時にしてさなきとなり次第ニ其色を変する時限摸様之事
一繭を作らすして綿帽子様のものを作り、又ハ大繭とて寄合繭を作り其他薄繭を作、或ハ黒く腐爛し、又ハ白く固凝する等各種之病蚕取調之事
一さなきとなりて後黒点を生し終に蛆を生する由縁研究之事
一種繭之善悪撰み方さなき之良否品別之次第如何なる理を以てし何れ之方法を用ゆる哉之事
一さなきとなりて後何日目にて蛾となるや之事
一繭之手置及寒暖適度之事
一生繭升目壱斗ニ付何貫目、其粒数何個、其内寄合繭何程にてさなき之数何個ありて、精良何分あれは何程之種を製出し、皆精良なれハ何程出来すると精細之分量取調之事
 附蛾之分量等取調之事
一製蚕種方法之事
一製蚕種之間取、明暗及寒暖適度之事
一峨之繭より化生するハ朝又ハ夜にある歟、其化成して交合何時程にて適宜なるや之事
一一峨何程之蚕種を有するや之事
一峨の蚕種を生するハ其日の何時頃を適度とする事
一夜に入て峨中残蚕種有無之事
一総而さなき及峨其外之真図取調之事
 附各種焼耐漬《(酎)》之事
一蚕種ハ何日にて淡黄色を変するや之事
  但各種之繭によりて程色相違之事
一一切蚕種手置方法之事
一一枚之蚕種ハ蛾数何程、目方何程にて種目何程あるや之事
一再出として直ニ蚕に化生する種品別之事
右養蚕実地研究之要件心附候儘記載候間、尚其実際に於て遺漏之件々
 - 第3巻 p.319 -ページ画像 
ハ充分修補して完備を得候様致度、尤も蚕書大全編輯之体裁ハ右条款に不拘、順次其類目を区分し、又ハ計表図画を挿入し、適宜に之を編纂候様致度候事
  壬申三月七日
                      渋沢栄一
  博覧掛
   養蚕場実地取調出張御中
 蚕種商法
 蚕種説
 養蚕方法御布告
 御下問
 褒賞規則
 製糸方法
 御下問之答
 〆
右御見合として相添差進候也
   ○一八七三年(明治六年)澳国維納ニ於テ博覧会開催ノ予定アリ。同国ヨリ我国ヘモ出品ヲ勧誘シタルヲ以テ、政府ハ此挙ニ賛同ス。明治四年十二月十四日大隈重信・井上馨及寺島宗則博覧会御用掛ヲ仰付ケラレ、翌年正月博覧会事務局ヲ設ケタリ。二月井上馨辞シテ佐野常民之ニ代リ、次デ理事官トナリ、副総裁ニ任ジタリ(以上世外井上公伝第二巻ニヨル)。佐野副総裁宛書簡ニ貴局トアルハ博覧会事務局ヲ指スモノナルベシ。今「青淵先生御手沢本」トシテ竜門社ニ所蔵スル「蚕桑集成」(三巻一冊)同草稿(二巻一冊)「生糸制法略説」(一巻)及「蚕緒」(二巻一冊)ヲ見ルニ、イヅレモ博覧会事務局ノ罫紙ニ記サレタリ。コレ等ハ栄一ノ監督ニ成リシモノナランモ刊行セラレタリヤ否ヤ明カナラズ。



〔参考〕澳国博覧会参同記要 第一―五頁 〔明治三〇年八月七日〕(DK030103k-0008)
第3巻 p.319-321 ページ画像

澳国博覧会参同記要 第一―五頁 〔明治三〇年八月七日〕
  上篇 事務処弁
     総論
我明治六年即チ西暦千八百七十三年ノ澳国博覧会ハ日本帝国ノ初メテ参同シタル博覧会ナリ、千八百六十七年巴里ノ博覧会ニ当リ、旧幕府及二三ノ侯伯ヨリ若干ノ物品ヲ出陳セシコトアレトモ、固ヨリ之ヲ以テ帝国全体ヲ代表セシモノト認ムルヲ得ス、又明治四年米国桑港ノ工業会社ニ於テ工業博覧会ヲ開設シ、本邦ノ出品ヲ請求セシトキ、政府ハ東京府ニ命シ、府下ノ商人若干ヲシテ出品セシメ、府吏ヲ差遣シテ之ヲ監督セシコトアルモ亦帝国全体ノ参同ト謂フヲ得ス
澳国政府ヨリ維納府博覧会参同ノ請求アルヤ、我政府ハ速ニ同意ヲ表シ、其計画ニ着手セラレシカ、世人未タ博覧会ノ何物タルヲ知ラス、人民ノ自費出品ハ到底期望シ得ヘキ所ニ非サルヲ以テ、政府ニ於テ一切ノ出品ヲ採集セラルヽコトヽナレリ、之カ為メ美術学芸農業工業ニ関スル物品ヨリ、人民ノ風俗生活ノ状態ヲ示スヘキ器具ニ致ルマテ、悉ク其標本ヲ蒐集スルヲ得テ完美ナル博覧会ト為リ、大ニ欧洲人ノ耳目ヲ聳動シタリ
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当時欧洲人ハ少数ノ人士ヲ除クノ外概子日本ノ事情ニ通セス、甚シキニ至テハ堂々タル日本帝国ヲ以テ支那ニ属スル一孤島ト誤認スル者サヘアリタルニ、今俄ニ我出品ヲ見テ大ニ文化ノ進歩ニ驚キ、宿昔ノ迷夢ヲ破リテ忽チ日本ヲ敬愛シ、其物産ヲ購買スルノ風潮ヲ生ジタリ、是ヲ以テ観客ハ日ニ我列品場ニ群集シ、物品ノ販売極メテ盛ンニシテ其需用ニ応スル能ハサルノ形況ヲ呈セリ
千八百六十七年巴里博覧会ニ出陳セシ日本品ニシテ売却スルヲ得サリシモノ許多アリ、之ヲ巴里ノ某氏ニ委托シ置ケルニ、澳国博覧会ノ挙アルマテハ売却ノ機ナカリシカ、該会ニ於ケル日本品一タヒ好評ヲ博スルヤ、此ノ残品モ忽チ購買シ去ラレタリト云フ、此ノ一事ヲ以テスルモ該会参同ノ挙ハ如何ニ日本帝国ノ名声ヲ伝播セシメ、日本品ノ流行ヲ催進セシカヲ推知スルニ足ラン
日本品ノ好評上ノ如クナルヨリ、英国ノ「アレキサンドルパーク」商社ハ博覧会場内ニ建設セル日本庭園ノ建物、木石一切ヲ購入シテ英国ニ移シ、日本品ノ販売場ニ充ツルノ計画ヲ為シ、其売却及物品製造ノ方法ニ関シテ我事務官ニ協議スル所アリ、澳商「タラオ」氏モ亦日本品販売ニ従事センコトヲ欲シ同種ノ請求アリ、此ニ於テ庭園ヲ該商社ニ売却シ、且当時随行ノ松尾儀助・若井兼三郎ノ二氏ヲ誘導シテ一社ヲ結ヒ、右物品製造ノ委托ヲ受ケシメタリ、是レ起立工商会社ノ濫觴ニシテ、爾来該社ハ大ニ精好ノ美術工芸品ヲ製造輸出シ、又幾多ノ良工ヲ養成シタルハ世人ノ熟知スル所ニシテ、此ニ贅スルヲ要セサルヘシ
抑澳国博覧会参同ノ目的ハ啻ニ我所長ヲ彼ニ示シテ名誉ヲ発揚シ、貿易ヲ増進スルニ止マラス、又此好機ヲ以テ大ニ彼技術ヲ採用セントスルニ在リシハ、明治五年六月佐野前副総裁ノ政府ニ提出セル上申書ニ拠ルモ明白ニシテ、技術伝習ノ一事ハ当局者ノ頗ル苦心セラレシ所ナリ、経費ノ為メニ制セラレ十分ノ目的ヲ達スル能ハサリシトハ雖モ、其成績ハ実ニ顕著ナルモノアリ
伝習ノ事タル第一科目ノ選択ヲ精フセサルヘカラス、第二適当ノ教師若クハ工場ヲ求メサルヘカラス、其科目ハ当時尤モ本邦ノ為メ緊要ト認メタルモノヲ選択セシカ、其教師若クハ工場ヲ求ムルハ頗ル難事ニ属セリ、幸ニシテ上ニ述フルカ如ク、本邦出品ノ好評ニ由テ欧洲人ノ敬愛ヲ博セシカ為メ、本邦人ハ到ル処欵待ヲ受クルノ形況ナリシニヨリ、製造ノ秘訣モ喜テ之ヲ伝授セントスルノ人士尠カラス、為メニ望外ノ便宜ヲ得タリ
技術伝習ノ事業ニ於ケル「ドクトルワグ子ル」氏与リテ大ニ力アリ、氏ハ多年本邦ニ在留シ、工業技術ニ精通セシヲ以テ科目ノ選択ニ於ケルカ如キ其ノ意見善ク肯綮ニ中タリ、殊ニ教師ノ嘱托工場ノ選定ハ尤モ其尽力セシ所ニシテ、或ハ書ヲ四方ニ贈リ、親ラ専門ノ人士ニ就キ適当ノ方便ヲ求メテ以テ伝習者ヲ各処ニ配置ス、其功労ハ特ニ之ヲ称揚セサルヲ得サルナリ、氏ハ澳国博覧会閉会後モ常ニ本邦ニ在テ、我政府ノ為メニ力ヲ生徒ノ養成工業ノ振起ニ尽クセシカ、不幸病ニ罹リテ長逝セシハ実ニ惋惜ニ堪ヘス、本書編輯ノ為メニモ亦氏カ該博ナル学識ノ助ヲ得ル能ハサルヲ悲マスンハアラス
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技術伝習ノ澳国博覧会後ニ於ケル結果如何ヲ観察スルニ、今日現ニ其技術ニ従事スル者アリ、或ハ十分之ヲ実施スルニ及ハスシテ死スル者アリ、或ハ死者ノ子孫其業ヲ継承拡張スル者アリ、時勢ト境遇トニ由リ其跡ヲ同シフセスト雖モ、我邦ニ新知識ヲ輸入シ、物産繁殖ヲ助ケタルノ効験ハ歴々徴スヘシ、今其一二ヲ挙クレハ轆轤盤・飛梭機ノ如キ、全国ノ工業家之ヲ用ヒサルナキニ至リ、又陶器着色絵・石膏模型ノ如キ今日ハ各地ノ陶器製造所ニ行ハルヽノミナラス、石膏模型ハ銅器製造ニモ又之ヲ応用スルノ類ナリ、此他猶澳国博覧会ノ為メ世人ニ裨益セシ事跡ヲ挙クレハ一ニシテ足ラス
該会参同ノ事決スルヤ、出品解説ヲ著作スルノ必要ヲ生シ、其製法ヲ考究シテ幾多ノ材料ヲ菟集セリ、之ニ拠リテ編輯刊行セシ者ハ教草等若干種アリ、仏文ニ訳シテ彼地ニ播布セシモノハ日本帝国記要アリ、博覧会ノ実況ヲ内地ニ示スカ為メ編輯セシモノハ、澳国博覧会筆記・同見聞録等アリ、皆当時ニ在テハ大ニ世人ノ知識ヲ開発セシモノタリ、就中澳国博覧会報告書ハ彼地ニ在テ蒐集セシ材料ニ拠リ編成セシモノニ係リ、無慮九十六巻、有用緊切ノ事項頗ル多ク、之ヲ印刷シテ世ニ公ニセシカ故ニ効益ヲ与ヘタルコト蓋シ鮮少ナラサルヘシ
帝国博物館ノ設立モ亦澳国博覧会ニ胚胎セリ、而シテ同館ニ列スヘキ標本類ハ力メテ之ヲ蒐集シタルモ、郵船「ニール」号ノ沈没ニ由リ空ク之ヲ海底ニ委スルノ不幸ニ遭遇セシハ遺憾ニ堪ヘス、其沈没後彼地ニ在リシ事務官ノ更ニ採集セシ標本若干ハ今猶博物館ニ現存セリ、各種有用ノ器械類モ亦沈没セリト雖モ、安全ニ到達シテ其用ヲ尽クセシモノ亦多シ
澳国博覧会参同ノ盛挙ハ我国ノ勧業上顕著ノ功益ヲ与ヘタルハ実ニ疑ヲ容レス、経済発達史上特ニ記憶スヘキ一事ナリ○下略