デジタル版『渋沢栄一伝記資料』

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公開日: 2016.11.11 / 最終更新日: 2020.3.6

1編 在郷及ビ仕官時代

2部 亡命及ビ仕官時代

4章 民部大蔵両省仕官時代
■綱文

第3巻 p.323-326(DK030105k) ページ画像

明治五年壬申三月四日(1872年)

是ヨリ先、本年二月二十六日火災ノ為丸ノ内・京橋等灰燼ニ帰スルヤ、正院災地ニ煉瓦家屋ヲ建築セントシ、経費ノ支出ヲ大蔵省ニ命ズ。栄一大蔵大輔井上馨等ト謀リ、省中吏員各分ニ応ジテ義捐シ、煉瓦家屋建築及ビ貧窮者救恤ノ資金ニ充テントシテ、是日井上ノ名ニヨリテ正院ニ稟請シ、其許可ヲ得タリ。此時栄一省中醵出ノ外別ニ金百円ヲ東京府ニ寄附ス。


■資料

青淵先生伝初稿 第七章六・第一―一五頁 〔大正八―一二年〕(DK030105k-0001)
第3巻 p.323-325 ページ画像

青淵先生伝初稿 第七章六・第一―一五頁 〔大正八―一二年〕
明治五年二月二十六日、和田倉門内兵部省の添屋敷旧会津藩邸火を失す、折からの烈風に煽られて、火は忽ち東南に蔓り、丸の内の官衙・邸宅を焼き払ひ、堀を越えて京橋以南の諸町を、築地まで灰燼に帰せしめたり。先生謂へらく、家屋建築の制粗悪なる上に、防火の設備も亦疎なり、殊に火災保険の制度無きが故に、災民の苦痛は莫大なるべしとて、井上と共に、家屋の改良、保険制度の採用等に付き討議せり。先
 - 第3巻 p.324 -ページ画像 
生は嘗て欧洲に遊び、堅牢なる洋式家屋に眠食し、又徳川昭武の賃借せる家屋に火災保険を附したることあれば、痛切に其必要を感じたるものなるべし。正院にても此に鑑み、災地に煉瓦家屋を建築して火災を防ぎ、兼ねて都府の美観を添へんとし、築造を東京府に、経費の支出を大蔵省に命じたり。此に於て先生・井上等相図り、省中吏員二等官二百両より十五等官二両まで、各々分に応じて義捐し、六千二百余円を得たれば、乃ち之を資金として、かの煉瓦家屋を営み、災民中の貧困者に交付せんことを思ひ立ち、三月四日井上の名によりて正院に稟請せり。其文に曰く、「去月二十六日の火災は、実に非常の厄運にして、此災害に罹り候一般の人民は、如何計困窮可仕哉、就中貧乏の者共は、僅に担石の余資も一朝塵灰に委し、唯屋宅を失候而已ならず、単衣・粒米も需求の術なく、甚しきは路頭に迷ひ候者共も数多可有之事にて、深く悲傷慨歎の至奉存候。因て此災厄の衆庶を助成保護せん為に、人間相憐の協議に基き、本省中の職員より、別紙計算の金額を給助致度、抑這回の如き一陣烈風の為火災を延蔓する原由は、畢竟家屋建築の制粗悪にして、平素防火の予備無之は勿論、貸家会社又は火災請負等の方法未だ不相立より、斯る厄運を波及し、奇なる変害を醸し成候儀にて、今後の予備法深く杞憂の折柄、幸ひ正院の公議として、今度延焼に及候街区の位地をトし、居宅は煉瓦石を以建築致さすべく旨、当省並に東京府へ御達相成、実に開明の捷径にして、今より市民の火災を免れ候者、此御盛挙の時日を以、人々の目標に可致程の御儀と、不堪感佩、就ては別紙記載の通、助成の為指出候金子は、素より済貧恤窮の主旨なれど、火災の市民不残窘窮の者而已にも無之、旁以一般の人口に配賦致し候はゝ、自然酒食に消費し、折角の素意も不貫候間、災厄に罹候戸口の内、困乏無告にして居宅難営者共へ、夫夫築造の上相渡候はゝ、銘々其家屋に復し可申は勿論、心ならずして乞丐の徒に陥り候者も無之、実に隆盛の美事にして、将来良法振興の開導にも相成可申、加之横浜居留の各国人に於ても、今般の火災に罹り候場所へ、チカコー府の先蹤の如く、夫々助成等の企望も有之哉に相聞候間、自然右様の儀も候はゝ、中外の助成を合併し、前条居宅築造の実費に資用仕候はゝ、実に協会相憐《(マヽ)》の本意を尽し候事に可有之と存候。此儀可然候はゝ、至急東京府へ御沙汰被成下度、此段相伺申候也」といへり、これ先生の起草に係るものなり。正院之を許可せしかは、先生等は此方針によりて東京府と交渉を重ねたり。抑々天災地変に際して、富豪の徒米穀を出して救済賑恤せる類は、古来其例に乏しからず、然れども此度の計画の如く、官吏分に応じて義捐するが如きは、未だ曾て見ざる所なり、是亦先生が洋行中の所見に基けるものにあらずや。
大蔵省の義捐金募集は大に政府を動かしたるにや、翌日太政大臣三条実美・右大臣岩倉具視・参議西郷隆盛・木戸孝允・大隈重信・板垣退助以下正院の官吏も、大蔵省と同率にて義捐し、次ぎて司法・陸軍・海軍の諸省に及び、式部寮・開拓使・東京府・東京為替会社・横浜為替会社・三井組・東洋銀行・協救社・横浜の商人・及び南校の教師グリフヒス等よりも醵金し、特に両陛下の御下賜金もありて、総額数万円
 - 第3巻 p.325 -ページ画像 
に達したり。此時先生は省中醵出の外、別に金百円の寄附を東京府に申出でしが、之に添へたる状には、「私儀卑職ながら官途の末に罷在、方今官民の情状も略相心得居可申筈の処、尋常平民の願請に等しく奉申上候は、自ら叙次を誤り、不穏様相聞、却て恐懼の至に候得共、私義は既に府下平民へ編籍願済相成居、所謂同里相憐の友情より相生じ候義にて、全く官辺に不相関、微意奉懇願候次第に候間、何卒御諒察被成下、御許允の程奉願候也」とあり、即ち先生の寄附は、大蔵省三等出仕たる官吏の資格を以てせず、一箇の平民としての行為なりき。
当時官吏にして寄附金を出せるもの多数なれども、箇人の資格によりて寄附したるは、たゞ先生あるのみ。一些事に属すといへども、既に先生が他の人々と類を異にし、官僚的にあらずして平民的なり、恩恵主義にあらずして同情主義なりしを見るべし、是れ蓋し先生が後に至るまで終始一貫せる心操なり。
京橋以南焼亡につきての御下賜金並に官民の義捐金は、先生等の主張に基き、之を以て煉瓦家屋建築の資金に供し、自力造営の資を有せざる者に交付することゝなりしが、其後東京府は、類焼者中小前の者は便宜各所に移住せる者多く、新築の上借受くる者は必ずしも類焼者に限れるにあらざれば、かの救助金を建築費に充つるは却て恩賜義捐の主旨を没却すれば、寧ろ中以下へ分賦するに若かずと考へ、明治五年四月正院に上書し、且つ官省出金の中、建築費に充つべき条件の分は、一応問合せたる上にて取計らはんことを請へるに、伺の通りとの指令あり。此に於て東京府は大蔵省の同意を求めたるに、先生等はあくまで前議を固執し、大蔵省の出金は必ず煉瓦家屋の建築費に充てんことを要求して、同意を表せず。東京府も已むを得ず、府庁の取扱に係る一万五千円を、中以下の類焼人に分賦したれども、大蔵省の取扱に係る一万八千九百余円は、依然其保管に任せたる中に、先生及び井上の連袂辞職あり、其処分は未定のまゝにて数年を経過し、明治七年一月内務省新設せられし時、彼の義捐金も内務省に引継がれ、翌八年三月利金千九百余円と共に又東京府に交付し、先蹤に従ひ中以下の類焼者に分配せしめたれば、先生の主張は遂に貫徹せざりき。然れども煉瓦家屋の建築は別に著々として進行せり。其築造は初め東京府の手にて経営せられしが、明治五年七月大蔵省の取扱となり、建築局を設けて専当せしめ、九月之を土木寮に移管す。かくて銀座の一部始めて落成して東京府に交付し、之を各居住者に引渡したるは先生等辞職の前数日なりき。京橋新橋間全部の完成を告げたるは明治十年五月にして、起工よりは教箇年を費したれども、創始経営は実に先生の大蔵省時代に成れるものなり。而して此煉瓦家屋は、之を一等・二等・三等に分ち、道幅も銀座通りは十五間、其他は十間・八間・三間幅となせるなど、市区改正の端緒既に此に開けたり。此時道路の修築に関して先生の関係せることは後章にいふべし当時煉瓦建築未だ多からざる時なれば、世人皆刮目して帝都の壮観を嘆美し、錦絵に描きて東京名所の一と数ふるに至れり。



〔参考〕新聞雑誌 第三四号 〔明治五年三月〕 【二月廿六日当府下大火アリタリ。】(DK030105k-0002)
第3巻 p.325-326 ページ画像

新聞雑誌 第三四号 〔明治五年三月〕
 - 第3巻 p.326 -ページ画像 
二月廿六日当府下大火アリタリ。此日三字頃和田倉御門元会津邸ヨリ出火、折節風烈シク諸所ヘ飛火イタシ、大名街兵部省長屋、岡山県高知県ノ邸ヲ焼払ヒ、夫ヨリ京橋西紺屋町並ニ銀座二丁目、大通ハ銀座一丁目ヨリ尾張町二丁目迄、御堀端通ハ数寄屋河岸迄、三十間堀ハ三丁目迄、新島原南側不残、木挽町一丁目ヨリ五丁目迄、西本願寺中不残、築地南飯田町ヨリ「ホテル」迄、焼失ス。因テ府庁ヨリ救助トシテ一人金一分宛死傷ノ者同二両二分宛下サレタル由。焼失町数並ニ死傷員数左ノ如シ。
 町数  四拾一町
 戸数  四千八百七十四戸
 人員  一万九千八百七十二人
 死者  八人 傷者 六十人
 救金惣計三千八百三十五両一分